1.ワンナイトの相手は
入社7年目の2月末に、内示があった。
来期から本社への転勤が決まり、異動前の新所属へ出張して挨拶を済ませ、社宅の内見をして新居を決めた。
週末に設定してもらえたから、まずはホテルにチェックインをして荷物を置いて、調べたバーへ向かう。
「いらっしゃい。初めてね。カウンターでいい?」
「はい」
美魔女なママに微笑まれて、カウンターに案内される。開店すぐだからか他にお客さんはいなくて、ママとゆっくり話が出来そうだった。
「そう。ひなちゃんは来月引越しなのね。こちらに知り合いはいるの?」
「いえ。全く。ここでいい出会いがあるといいのですが」
「ふふ」
ママはとても聞き上手で、来月からの居場所がひとつ見つかった気がしたし、ここの常連さんは素敵な人が多いのではないかと思うから、いい出会いに是非とも期待したい。
いつまでも過去を引き摺っていないで、ちゃんと恋人になってくれる、誠実な人と出会いたい。前みたいな思いはもうしたくないから。
「ママー、いつもの」
カランカラン、とドアベルの音がして、女性が1人入ってきた。第一声から、常連だと分かる。
どんな人だろうと2つ隣を見れば、まとめていた髪を解いたところで、濃厚な香りがした。
こっちを向いた女性と目が合えば、にこりと笑ってくれた。いくつか年上だろうか。肩くらいまでの黒髪にメタルフレームの眼鏡をかけた知的な大人の女性で、爪は綺麗に整えられている。
「りっちゃん、今日は早いのね」
「外出していて、そのまま直帰しちゃった。週末だしね」
「普段仕事漬けなんだし、こんな時くらい真っ直ぐ帰りなさいよ」
「ママに会いたくてつい」
「それは光栄ね」
顔を見合せて笑いあっていて、いい関係なんだろうな、とますますいい場所に出会えたな、と再認識する。
「すみません、同じものをお願いできますか」
「ひなちゃん、お酒強いのねぇ」
「あー、もう少し弱い方が可愛げがあるのですが……」
隣の方と話が一段落したところで、私が飲み終えたのを確認したママが視線を送ってくれたので同じものをお願いした。
「ひなちゃん、っていうの?」
「あ、はい。りつさん、ですか?」
「そう。隣いい?」
「はい」
ママが呼んでいた名前をお互いに聞いていて、確認し合えば、りつさんがあえて空けていた席に移動して隣になった。隣に来てくれるってことは、きっと印象は悪くない。
「このお店は初めて?」
「はい」
「お酒強いんだね。顔に出ないタイプ?」
「そうですね。りつさんも強そうですね」
「ふふ、どうかな」
くすり、と笑いながら流し目を送られて、グラスを傾ける仕草にドキッとした。慣れてるし、りつさんは相当遊んでそう。遊んでなかったとしても、かなりモテると思う。こういう人には本気になってはダメだから、気を引き締めないと。
「次の1杯は奢らせて。何がいい?」
無性に恥ずかしくなってグラスを空にすれば、スムーズにメニューを手渡された。
「え、ありがとうございます……」
メニュー表を眺める間も隣から視線を感じて落ち着かない。飲み慣れているものをお願いすれば、自分の追加分と共に頼んでくれた。
「この後は時間あるの? もう少し一緒にいたいな」
奢ってもらったお酒を飲み終える頃、りつさんからこの後の予定を確認された。
ここで私が予定があると言えば、後腐れなく解散になるのは間違いない。
モテるだろうと思った通り、私が隣にいても沢山声をかけられていたし、相手に困ることはないだろうから。
なんとなくだけれど、数年前に恋をしてかなわなかった歳下の女の子と同じように、特定の人は作らないという空気を感じる。きっと、りつさんの特別にはなれない。
「いえ、特には」
分かっていてもそう答えてしまったのは、時折見せる、寂しそうな表情のせいだろうか。特別になれなかったとしても、少しでもその寂しさを埋められたら、なんて思ってしまう。
「出ようか。ママ、2人分お願い」
「えっ、払います」
「もう払っちゃった。ね、ママ?」
「ええ。ひなちゃん、りつと合わなくても、ぜひまた来てね」
「ママ……そんな不吉なこと言わないでよ」
いたずらっぽく笑ったりつさんがママを見れば、ママも頷いた。続けられたママの言葉に、情けなく眉を下げていて可愛らしい。
りつさんにお礼を言えば、笑顔になって頷いてくれた。
バーを出て、隣を歩くりつさんの横顔が綺麗で見惚れていたら、目が合って優しく微笑んでくれた。
ホテルの前で本当にいいのか確認をされて、頷いた。
*****
「ひな、また会える? 連絡先を聞いてもいい?」
恋人かと錯覚するくらい優しく抱かれて、別れ際に連絡先を聞かれて驚いた。2度目はないと思っていたのに。
「えっと……すみません。私あまりマメに連絡を取るタイプじゃないので……今日はありがとうございました。では、おやすみなさい」
「そっか……またね。おやすみ」
何回も会ったら、きっと好きになってしまう。引き返せなくなる前に、終わりにした方がいいと思って2度目のお誘いは断った。もう辛い思いはしたくないから。
咄嗟に答えた理由になっていないような断り方でも、りつさんはあっさり引いたし、表情も変わらなかったから、社交辞令だろう。
自分から断ったくせに、引き止めてもらえないことが残念だなんて、矛盾している。
慌ただしい日々を過ごし、あっという間に転勤初日がやってきた。
受け入れ説明が早く終わり、総務担当者が事業所を案内してくれると言うのでお願いした。エレベーターが止まる度にフロアの案内をしてくれ、何度目かで乗ってきた人の1人が予想外すぎて目を疑った。
「お疲れ様です。何階ですか?」
「お疲れ様です。8階でお願いします」
え、嘘……りつさんだよね? りつさんも驚いたのか目を見開いたけれど、何事も無かったように乗り込んできた。
まさかの同じ会社。ワンナイトの相手が同じ会社とか、気まずすぎるでしょう……いや、他人の空似かもしれない。よし、そういうことにしよう。
りつさんだって困るだろうし、思いっきり視線を逸らしてしまったから初対面で通そうと決めた。
「部長、次の階です」
「ありがとう」
「いえ」
部長、と声を掛けられて答えたのがりつさんってことは、部長なんだ……ワンナイトの相手が同じ会社の部長だなんて、私はなんてことをしてしまったのだろうか……
「あの、すみません……先程の女性の方はどこの部長さんですか?」
「え? ああ、経営企画部の日高部長です。ご自分にも部下にも厳しい方で有名ですが、非常に信頼されていますよ。坂本さんは経理部ですから、間接的に関わりがあるかもしれませんね」
乗っていた人はりつさんと共にエレベーターを降りて、総務担当者と2人になったから聞いてみれば、経営企画部と返答が来て驚いた。経営企画部って社長直下の組織じゃなかったっけ?
バーで会うことはあるかもしれないと思っていたけど、まさか会社で会うなんて、想定外すぎる。
フロアも違うし、律さんは部長なら秘書がいるだろうし、自分から直接経理に確認をするとかきっとないよね。……ないよね?