第九話 知識の国と野心の国
バール帝国とルアフィル・デ・アイリン王国は仲が悪い。
これはエオスに暮らすものであれば「猫や犬でも」知っている。
同時に、ルーン王国とバール帝国の仲も、極めつけに悪いことも周知であろう。
その発端となったのが、大陸暦一七〇七年である。
バール帝国の野心の矛先がルーンに向けられたのだ。
もともとルーンの軍事力はたいしたものではない。
鋼の波濤となって押し寄せるバール軍に抗し得るはずもなかった。
敗戦につぐ敗戦。
敗走につぐ敗走。
ルーン王国軍は瓦解し、王国は潰えさるかと思われた。
しかし、開戦から数ヶ月、友を殺され、家を焼かれ、妻を姦されたルーンの民が、ついに決起する。
彼らは、手に手に武器を取り、この危機を打開できる人物の元へと参じる。
すなわち、ディワーヌ大河沿いの都市、トラサルド市の市長バートランド・ダンカンの元へと。
バール軍の侵攻があったとき、バートランドは六五歳という高齢だった。
たいして出世したわけではない。
地方都市の市長などエリートコースを駆け上がる文官たちにとっては三〇代のうちに通過するようなポイントなのだ。
それでもバートランドは、民たちから絶大な人気があった。
民衆からは好かれているが政府からは疎まれている。
これは良心的な文官には良くあることである。
そもそも、彼にはさして野心があるわけではなかったから、これで問題はなかった。
だが、運命の激変が彼を戦場へと駆り立てることとなる。
老体に甲冑をまとい、義勇兵たちを率いて。
相手は、バールが誇る名将ドラグファ・カイトス。
この二人の戦いは、幾多の叙事詩にも描かれている。
バートランドは傷ついた軍を再編し、民衆を安全な後方へと送り、大反攻の準備を着々と整えていった。
そのため、ディワーヌ大河以東の広大な地域をバール軍に明け渡すこととなる。
あくまで一時的にだ。
ドラグファにもバートランドの戦略構想は読めていたから、単純に領土が増えたと喜ぶようなことはなかった。
じつに二十数回に渡って、彼らは干戈を交える。
ドラグファはディワーヌ大河より西に進むことができなかった。
バートランドの防衛指揮は完璧で、最後まで崩れることがなかったのである。
この戦果に、ルーンの民も国王も熱狂した。
老将バートランドには大将軍の地位が贈られ、伯爵に封じられるにいたる。
むろん、彼は地位や名誉のために戦っていたわけではない。
すべてを固辞し、ただ黙々と国土回復の為の政戦両略に没頭した。
彼の元には次々と義勇兵たちが集まり、一〇万を超え、二〇万に達した。
大反攻は間近い。
だれもがそう思った。
しかし、バートランドの戦略は実行されることなく終わる。
老将の人望が、王国中央政府の忌避を買ったから。
バートランドは集まった兵を持って独立するつもりだ、という残酷な噂を、国王が信じてしまった。
出戦の許可を請うたバートランドに、王から返答がもたらされる最後までなかった。
理不尽の極みだった。
もしバートランドに本当に独立の意志があるなら、なにも王の許可をもらう必要などない。
勝手に戦って勝手に勝ってしまえば良かったのである。
彼はあくまでもルーンの忠臣として国と民を護りたかっただけだ。
だからこそ、老体に鞭打って戦い続けてきたのだ。
バートランドは王の許可を待って、待って、待ち続けて、ついに病に倒れる。
冬の一日。
本拠地であるトラサルドの司令本部で、老将は死の床についていた。
そして混濁した意識のなかで、
「ディワーヌを渡れ!」
と、二度叫んだのち、六六年の生涯を閉じる。
彼の麾下にあった義勇兵たちは一人残らず涙し、その慟哭は対岸にあるバール軍まで聞こえたという。
こうして、ルーンがディワーヌ大河以東に保有していた広大な領土は、永久にうしなわれた。
少なくとも、当時の人々はそう思っていた。
そして大陸暦二〇〇四年。
ルーン王国の右宰相ゴメルは、バートランドの悲願を果たそうと権謀術策の限りを尽くし、アリーズの鉱物資源を手に入れようとした。
レアメタルと富。
それがあれば、バールを打倒することが可能だと考えたのだ。
だが、
「未来は彼に背を向けてしまったな」
常勝将軍、花木蘭が呟く。
「これで、終幕でしょうか?」
フィランダー・フォン・グリューンが首をかしげた。
「悪党の悪党たる所以は、なんだと思う?」
女将軍は、いつも通り直接には答えない。
「悪あがき、するところでしょうか?」
「正解だ。
アリーズが我が国と友好条約を結んだ今、ゴメルに浮かぶ瀬はない」
「しかし、アリーズ王国がルーン王国からした借金は、我が国が肩代わりすることになったのでしょう?」
「全額返済したとしてもルーンは儲かるわけではないな。
もともとは自分の金なのだから。
しかも、費やした人命はもどってこない」
「なるほど‥‥」
離反したルーンナイトたちや送り込んだ兵力。
それらは金銭で購いえるようなものではない。
それだけのものを使いながら、なんら得るところがなかったゴメルは、当然のように非難の対象となる。
良くて引責辞任。
悪ければ投獄されることにもなろう。
「エカチェリーナさまは潔癖な御仁だ。
ゴメルを簡単に許すとは思えぬな」
「しかし、あまり追いつめすぎると自暴自棄になりませんか?」
「その通りだ。
しかし、一部の報道機関が先走ってルーン叩きを始めてしまった」
木蘭の声は苦い。
現在のところ、彼女はルーンを攻めるつもりなどない。
同盟国でもあるし、なんといっても、また戦争ということになれば多くの人命が失われるから。
ゴメルが追いつめられ、短兵急な行動を取ったときが怖い。
「木蘭様っ! 一大事ですっ!」
アイシア・ミルヴィアネス中尉が執務室に転がり込んでくる。
女将軍の側近の一人だ。
「ゴメルが叛乱を起こした。
違うか?」
「知ってらしたんですか?」
「いや、読んだだけだ」
苦虫を噛みつぶしたよう表情で、木蘭が言った。