第十一話 ディワーヌ大河
厳しい戦いになる。
それは、誰しもがわかっていたことだ。
国王マーツも、王国軍最高司令官ファイアス・トッドも、ガドミール・カイトスも、花木蘭も。
それどころか、一般の兵士に至るまで。
だが、だからといって逃げるわけにはいかない。
切り札がなくても勝負にでなくてはいけないときがある。
そういうことだ。
「陳腐なことを考えているな。
我ながら」
鞍上、カイトスが呟く。
目前に広がるのはディワーヌ大河。
幅二キロメートルにも及ぶ悠久の流れ。
かつてはこの川の反対側に彼は立っていた。
しかしいまはアイリン王国の将として、渡河攻撃を仕掛けるバール軍と戦っている。
ルーンの地で。
多くの兵士たちにとっては、祖国でもなんでもない国を守るために強敵と戦っているのだ。
「元バールの将が、アイリン軍の一員として、ルーンを守るために、バール帝国と戦う」
「なんですか。それは」
詠うように言ったトッドに、苦笑混じりの視線をカイトスが向ける。
言葉遊びだ。
文節ごとに言葉を区切って、ランダムにつなげて遊ぶのである。
「こういう遊びの中でしか実現しないようなことが起こってしまったわけじゃな」
「人間の想像力など、たかがしれたものですね」
「まったくじゃな」
二人とも、あえて話題を個人レベルに矮小化している。
ある意味で前線の兵士とはそういうものだ。
また、そうしなければ精神の均衡を保てないという事情もあろう。
事情を知らぬものから見れば、バールがルーンに仕掛けた侵略戦争にアイリンが介入する理由はない。
同盟国とはいってもそこまでの義理はないはずである。
ましてルーンはアイリンへの背信行為をしようとしていたではないか。
そんな連中のために、どうして自分たちが命を賭けて戦わなくてはならない。
率直な感想ではあるが、物事には別の側面もある。
歴史の方向性を決める戦なのだ。
開明政策が花をほころばせ実を結ぶか、あるいは旧守の陣営が勢いを盛り返すか。
中央大陸に芽吹いた人民主権という思想が一つの時代を築くのか、一瞬の光芒でで終わってしまうのか。
「我々はルーンという一国を守っているのではない。
民主主義を守るのだ」
死闘を繰り広げるアイリン軍の一部隊長が部下を激励した言葉である。
バールがルーンを併合すれば、その国力はアイリンをしのぐ。
そして飛躍的に増大した戦力をもって、たとえばドイル王国などに侵攻した場合、アイリンは指をくわえて見ているしかない。
政治的にも軍事的にも。
「たから、ルーンを守らねばならんのじゃよ。
ここで食い止めねば後がないからな」
「まったくですな」
頷き、指揮棒をふるうカイトス。
防御陣は、すでに第二層まで食い破られていた。
砂煙を巻き上げ、二万の軍馬が駆ける。
風の手綱を操るかのように。
花木蘭率いるアイリン王国軍青の軍の最精鋭である。
バール軍がルーン方面に兵力を集中したことによって生まれた空白地帯を駆け抜けてゆく。
ディワーヌを越えようと目論むバール軍の後背を襲うために。
「脱落したものにかまうな!
動けぬものはここで死ね!
死を望まぬものは駆けよ!
これまで貴官らを厚く遇してきたのはこの辛苦に耐えさせんがためぞっ!!」
木蘭の張りのある声が響く。
苛烈で容赦のない命令。
女将軍はもともと先制攻撃を得意とする勇将であったが、このときはそれすら通り越して猛将の風を漂わせている。
事実として、彼女には脱落者をいたわってやる余裕などなかったのだ。
トッドとカイトスが率いているのは四万。
彼女の部隊と合しても六万でしかない。
対するバール軍は一二万を数える。
挟撃体勢を作ってはじめて、かろうじて状況を五分にもちこめるかどうか、というところだろう。
もしも木蘭軍の到着が遅れれば、トッド・カイトス軍が全滅されられる可能性があった。
それは同時に、木蘭の敗北をも意味する。
ただでさえ少ない兵力を分散しているのだ。
タイミングを間違えば各個撃破される。
賭博的要素の強すぎる作戦なのだ。
「だが、いまさら二万程度がディワーヌ方面に加わっても意味がないからな」
その通りだ。
いくらディワーヌ大河の天険を利用して守勢に徹しても、相手は一二万の大軍である。
長期間は持ちこたえられない。
あるいはルーンのエカチェリーナ女王が復権し援兵を送ってくれれば兵力的に拮抗するだろうが、百戦錬磨の木蘭はそんなものを期待したりしなかった。
ルーン軍はこない。
そういう前提で作戦を立てている。
むろんトッドやカイトスも。
希望的観測を考慮に入れて策を練るほど、彼らは無能でも楽観的でもないのである。
「止まれっ!
その軍!
とまれぃっ!!!」
突然、男の声が前方に立ちはだかった。
自殺行為である。
失踪する騎馬隊の前に立てばどういうことになるか。
蹴散らされても文句はいえない。
それでも、ぎりぎりのところで進軍をストップさせた木蘭の手腕は特筆に値する。
「フィランダー!?
どうしてここに!?」
驚きの声を上げる木蘭。
王都アイリーンにいるはずのフィランダー・フォン・グリューン大佐が、街道の真ん中に立っていたのである。
「お許しください。
どうしても閣下に申し上げたき義があり参上しました」
「‥‥言ってみろ」
感想らしいことは口に出さず、木蘭が先を促した。
「ルーンシティに向へ工作員を送り込みました」
それは女将軍が出発前に命じていたことだ。
わざわざ報告するようなことでもない。
やや困惑する彼女に、
「この上は、無理な進軍をお控えくださますよう」
決然と視線を向ける金髪の騎士。
「なに?」
柳眉が跳ね上がる。
フィランダーが木蘭の作戦に異論を唱えたことはこれまでなかった。
おそらくはこれからもないだろう。
だが、今回だけは言わずにはいられなかった。
彼にとって特別な意味を持つ上司がなにをしようとしているかわかっていたから。
バール軍は一二万。しかもいくらでも増援を送ることができる。
対するアイリン軍は総数で六万。
補給線は限界に達しており長期に渡って戦線を維持するのは難しい。
となれば短期決戦に勝負を賭けるしかない。
「わたしが負けると思うのか?
フィランダー」
むしろ優しげに、上司が問いかける。
あるいはそれは覚悟を決めた微笑のようにも彼には思えた。
「閣下。
わかっておられるはずです」
「‥‥‥‥」
「常勝将軍。
不敗の名将の手腕をもってしても、この不利を覆すのは不可能です。
まして敵は一〇万を超える大兵力。
力攻めに意味はありません」
「‥‥‥‥」
「どうかご自愛ください。
あなたおおひとりの命ではないのですから‥‥」
ごくわずかな苦みが、フィランダーの顔に走る。
「‥‥いまは無理をしなくてはいけない場面だ。
そなたもわかっておろうに」
「どうせ無理をするのなら、勝って生き残る算段を立てる方に無理をしてください。
お願いします」
深々と頭を下げる。
「勝って生き残る、か。
そなたがここに来たということは手ぶらではあるまい。
奇術の種は持ってきたか?」
「は‥‥」
「時間が有り余っているわけでもない。
話は道々きくとしよう。
予備の馬をフィランダーに与えてやれ」
女将軍の言葉に、よりいっそう頭を下げる青年騎士だった。
上司の明敏さと、直言を受け入れる度量が嬉しかった。
「まだ生きてるか?」
「なんとかな‥‥」
背中合わせに互いを守りながら、Rとユアンが会話を交わす。
二人とも満身創痍だ。
ディワーヌ大河の西岸に陣を敷いたトッドとカイトスの部隊は、じつに七度に渡ってバール軍を撃退している。
これは地形的に有利であるということと、指揮官の有能さによるものだが、むろん無傷ではない。
開戦時四万を数えた兵力も、すでに三万を割り込んでいる。
まるで無限に続くかと思われる渡河攻撃。
兵士たちの疲労も限界である。
「次の攻撃は堪えられんぞ‥‥」
周囲を絶望的な視線で眺めやり、ユアンが言った。
アイリン軍の戦意は衰えてはいない。
しかし肉体が精神のコントロールを受けなくなりつつある。
そしてそこに凶報がもたらされた。
「トッド大将討死」
という。
七度目の突撃で生まれた綻びを、自ら部隊を率いて修復していたトッドに、無傷の予備兵力三万が襲いかかったのだ。
彼の指揮下にあったのは二千名ほど。
これが三〇分あまりの交戦で七〇名余りにまで打ち減らされた。
生存率〇.〇三パーセントというのは軍略家の目を疑わせる、だが完全な事実である。
アイリン軍は片翼を失った。
このとき戦死した一九〇〇名以上のなかにはカイトスの姪であるアナスタシアも含まれていたが、それについて彼は一言の感想も漏らさなかった。
ただ無言で天を仰いだのみである。
その姿は姪の死を悼んでいるようにも、勝利の得がたさを嘆じているようにも見えた、と、公式記録は語る。
直後、戦況は劇的な変化を見せる。
八度目の渡河攻撃を仕掛けようとしていたバール軍が急速に後退したのだ。
「‥‥木蘭が到着したか‥‥だが、おそかった‥‥」
明敏なカイトスは、バール軍の後退の意味を即座に理解した。
しかし、援軍の到着という事実は、希望の光というには小さすぎた。
いまさら二万程度の兵力が加わったところで大勢は覆らない。
反転して各個撃破できるだけの兵力差がついてしまっているのだ。
あるいは援軍の到着を撤退の契機とするか。
カイトスらしくもない弱気が、神経回路を蚕食する。
だがその弱気を実行に移すよりはやく、バール軍が再反転した。
「はやすぎる‥‥」
少数とはいえ木蘭が指揮する部隊と戦ってここまで簡単に勝敗を決しられるはずがない。
「そうか、なるほど。
そういうことか」
一瞬の思案の後、不敗の名将という異名を取る男が大きく頷いた。
指揮棒がわりの双竜剣が踊る。
「これが‥‥カラコール‥‥っ」
懸命に騎馬を御しながら、シェルフィは戦慄していた。
二万騎の騎士たちが、まるで一つの生命体のように柔軟に動く。
無限に続く円運動で。
木蘭が演出する常勝不敗の戦術。
本来ならば敵の周囲を回る騎馬隊が、外縁部を削り取ってゆく。
そして敵の反撃が始まると、潮がひいてゆくように後退するのだ。
一グラムの無駄も、一秒の遅滞もない。
軍学校の教科書にも、これほど見事な一撃離脱戦法は載っていないだろう。
「すごい‥‥」
呟き。
実戦に参加したこともあるシェルフィだが、むろんこれほどの規模の戦争ははじめてである。
ここまで整然とした動きもはじめてだ。
「驚いてるだけじゃだめ‥‥学ばなきゃ‥‥」
そうだ。
こんな機会はない。
常勝将軍の用兵を記憶に焼き付け、自分のものにするのだ。
必死に馬を操る弟の同級生を短い微笑とともに見やったフィランダーが、すぐに表情を引き締める。
まだ自軍が有利になったわけではない。
青年騎士の忠言を受け入れた木蘭は作戦を変更した。
バール軍の後背を襲うという基本方針には変化はないものの、殲滅をはかるのではなく時間を稼ぐのを目的としたのだ。
フィランダーが行った工作を信じて、ルーンが援兵を送るという前提の元で、である。
援軍が合流すれば兵力比は逆転する。
仮に逆転しなくても二カ国を相手に戦をおこなう愚をバール皇帝ガズリストは察するはずだ。
だが工作が失敗していたら、短期決戦を放棄した分だけアイリン軍が不利になる。
バールは補給線も短く、増援を送りやすいからだ。
もちろん辛辣なガズリストが兵力を小出しにして逐次投入するのようなことはない。
これまでにない規模の兵力が送られるだろう。
そうなればアイリン軍の勝算はゼロになるどころか、退却すらおぼつかない。
投機というよりギャンブルである。
それでも木蘭はフィランダーの言葉を信じた。
彼が使命を託した仲間たちを信じたように。
「そして、俺も信じよう」
何の連絡も取らぬまま、カイトスも連携する。
バール軍の前後を挟んだアイリン軍が、突出と後退を繰り返す。
常勝将軍と不敗の名将のコンビネーションプレイだ。
中央大陸を代表する用兵巧者が全知全能を傾けてバール軍を引きずり回す。
互いに見えているように、とは、後に描かれた戦記に見出される表現である。
そして一昼夜。
「そろそろじゃな」
指輪をもてあそんでいたティアロットが、満を持したようにルーン側戦場外縁部に姿を見せる。
すでに彼女自身の姿ではない。
ある魔法具によって別人の姿を借りている。
すなわち、
「エカチェリーナ陛下!?」
そばにいた兵士が驚倒する。
そう。
彼女はルーンの女王、エカチェリーナに化けているのだ。
「アイリンの勇者たちよ!」
朗々たる声。
戦場に響き渡る。
「あなた達に百万の感謝を!
そして、智神の導きをっ!!」
一点を指さす。
土煙が巻きあがる地平を。
「援軍だ‥‥」
「援軍だっ!
ルーン軍が駆けつけたぞ!!」
アイリン兵たちの間に歓喜が爆発する。
このとき多少おおげさな反応をするのは、むしろ彼らの義務である。
事実によって味方を鼓舞し、敵を萎縮させるのだ。
一瞬の躊躇いの後、バール軍が北東へと馬首を巡らしはじめた。
故意にその方向を開いたのである。
古来、帰帥を阻むなかれという。
帰投する軍隊の前に立ちはだかれば、必死の反撃にあって大きな損害を受ける。
退却したいならば退却すれば良い。
アイリン軍の目的は防衛であって、バール軍の殲滅ではないのだから。
「危なかったな。
あと半日も戦っていれば首と胴が離ればなれになっていただろう」
汗をぬぐいながら木蘭がつぶやいた。
「勝ったのでしょうか?
我々は」
血と泥と汗で化粧された顔でフィランダーが訊ねた。
「敵は去った。
我々は残っている。
まあ勝ったのだろうな。
だが‥‥」
「だが?」
「どれほどの犠牲が出ただろうか‥‥」
木蘭といえども、この段階で戦死者の数を推し量ることはできない。
疲れ切った愛馬の頸を優しく撫でる。
登りはじめた朝日が、血の色で戦場を照らしていた。
この戦いに参加したバール軍は一一万九千名。
帰還せざるもの六万七千名。
アイリン軍は六万四千名。
帰還せざるものは二万八千名。
王国軍最高司令官トッド大将をはじめ、じつに四〇パーセントを超える犠牲を払ったものの、ルーン王国への侵攻はかろうじて防がれた。
エピローグ
アリーズ王国での反乱に端を発する一連の争乱は、公式記録には「アリーズ動乱」と記されることとなった。
ただ、この当時から吟遊詩人たちによって語られるサーガには、「哀しみのアリーズ」というタイトルが与えられていた。
どうしてそう名付けられたのか、知るものは少ない。
「‥‥じゃあ、そろそろいくよ」
簡素な墓の前。
手をあわせていた若者が立ち上がる。
アイリーン郊外に建てられた墓は、バール帝国の方を向いていた。
これで正しいのかどうか、彼にはわからない。
故人が帰りたいと望んでいたのか、それとも‥‥。
「ごめん‥‥なにもわからないんだ。
きみが何を望んでいたか」
踵を返す。
鉛色の空から、ゆらりゆらりと白い結晶が舞う。
気のはやい初雪。
「さよなら、イスカ」
呼ばれたような気がして振り返る。
しかし、むろんそこに金髪の少女の姿はない。
ただ黙然と、雪と風が踊るだけ。
頭を振ったイスカ。
「さよなら。
サーシャちゃん」
呟き。
小さな小さな。
大陸暦二〇〇四年一一月。
足かけ一〇年に渡ったアリーズ動乱が終結した。