08:マイファーストバナナ
狩猟生活二日目(2)
カリオネという鳥に似た小型モンスターは、大陸全土に多数生息しているため、この国では最も安く手に入るタンパク源だ。丸い体、鋭い嘴と黒い羽根を持ち、細長い首を死肉に突っ込んで綺麗に喰らい、森の掃除屋の役割を担っている。ただ、白い二本足の見かけや構造が人間に似ており、おぞましくて食べられないと言う人がいる一方で、この足部分の発達した筋肉が一番美味しいという人もいる。
という説明をメニューで読んで、足は絶対に食べたくなかったので、今日のおまかせ夕食のメイン料理が『カリオネの胸肉ソテー』であることはしっかりと確認しておいた。
初めて食べるカリオネの肉は、あっさりした鶏肉の味に近いような気がする。
パンにバターを丁寧に塗り付け、一口食べては主菜に戻った。
幸せだなぁ。
鮮やかな緑色の野菜を皿の端に追いやって、レタスとトマトは口に運ぶ。
スープを飲んで、またパンを食べ、主菜を一口。
ここに来られて、本当に良かった。
鮮やかな緑色の野菜を皿の端に追いやって、レタスとトマトは口に、
スープを飲んで、またパンを食べ、主菜を一口、
というルーティンを、丁寧にこなす。
食後には、飲み物の他に、デザート皿がついていた。今日のデザートは、半分に切ったバナナだ。
熱帯産のバナナは、王国では手に入れることが難しく、今世ではこれが生まれて初めてのバナナとなる。
共和国の大陸は、一部が亜熱帯気候なので、こんな風にバナナを食べる機会も今後あるだろう。
十八年も耐え抜いた末の、ご褒美の一つだ。
あんな、ギスギスした、食事の不味い場所で十八年も、よく頑張ったな、私。
地球の古代人が、塩や胡椒のために命がけで旅をしたり、船に乗った理由がよくわかる。
バナナだけではなく、王国には調味料が不足していた。だから、あんなに食事が不味かったんだ。
うっとりと、マイファーストバナナを見つめ、ふっと、息を吐く。
幸せに酔っていて、油断していた事は否めない。
少し離れたところに置いてある保温容器に手を伸ばし、コーヒーをカップに注いで、飲もうとしたところで、
「あの」
と耳元で囁かれ、私は危うく咽せそうになった。
銀髪黒マント男の存在を忘れていた!
「まっ」……だ、居たのか!
と、振り返って、スプーンに集められた緑色の野菜と対面する。
「ピーマンが、まだ残ってるみたいなんだけれど……」
スプーンを手に持ったマクシミリアンの青紫の瞳は、真剣だった。
なぜか目の縁が真っ赤だ。
(えっもしかして泣いてた?)
私の動揺した隙を突いて、マクシミリアンはスプーンを私の『ま』の形をした口に運んだ。
「狩猟民は体が資本だから、食べ物は残しちゃ駄目なんだって」
空になったスプーンを慌てて食器の上に置いた彼の顔が、急に、赤みを帯びる。
「えっと、……今のは、ここに来たばかりの頃、僕も偏食が多くて、こうやって無理矢理食べさせられたからつい……」
それは、惚気なのか?
駆け落ちした愛人とのやりとりの再現って事よね?
マクシミリアンが何やらさっきから漂わせている悲壮感は、その愛人と別れたか死別したせいだとも考えられる。それなら迂闊に冷たくあしらって、傷を抉る訳にもいかない。ここは話を合わせて、様子を見るべきか……。
仕方なく押し込まれた緑色のモノを無理矢理にかみ砕いて、嚥下する間に、マクシミリアンは、さっき終わったはずの会話を勝手に再開させていた。
「友達が一度もいたことがないというのは、……友達だと思っていた人はいたけれど、約束を破ったとか、信頼を裏切られたとかで、もうその人を友達とは思えなくなったということ?」
約束を破った……どこからそんな例を出してきたのかよくわからないけれど、何か、とても嫌な気分になる。忘れた事さえ忘れてしまった何かが、ふと頭の片隅をよぎっていった。
もう一つの、信頼を裏切る行為なら、あの卒業パーティでの断罪イベントがそのまま当てはまりそうだ。
「そういう言い方もできるのかも、知れませんわね」
取り澄まして答えると、マクシミリアンは泣くのを堪えるかのような表情になる。何なんだ、この反応。
言われてみれば確かに私には、婚約破棄される前、おはようと言えばおはようと返してくれたり、帰りにまたねと手を振ったり、先生の出す課題についてちょっとした愚痴を言い合ったりするクラスメートは何人かいたのだ。
だが、無実の罪で断罪され婚約破棄されたあの時に、誰も私の味方でなかった時点で、その場にいた全員が友達という定義から外れた。
「友達だと思っていた時期があったとしても、肝心な時に寄り添ってくださらなかったのですから、最初から友達なんかではなかったのですわ」
「……実はその友達には、何か事情があって、約束を破ってしまったのかも知れないよ? 何らかの妨害を受けたとか、誰かの策略にはまってしまったりとか」
「そうかもしれませんわね」
さっきから『約束』に拘っているな、この男。
私は、誰かと何かを約束したことはないから、約束を破られたこともないけれど……
『約束だよ』
ふいに思い浮かぶ、その声は、いつだったかも覚えていない記憶の断片だった。
『絶対、一緒に行こうね! 明日いつもの時間、いつもの場所だから!』
次の瞬間には曖昧に消えていき、自分で創り出した妄想だったのか、前世で見たドラマのワンシーンだったのかの区別もできない。ただ重苦しいだけの感情が残る。
この手の、気持ちを乱される感じが私はとても苦手だった。
早く一人になって、マイファーストバナナを食べたい。
なのに、マクシミリアンはまだこの話を続けるつもりのようだ。
「……事情を話して、約束を破った事を謝りたいと思っていても、やっぱり妨害があって、謝りに来られなかったのかも知れない」
「そうかもしれませんわね」
盛大にため息をつきたい気持ちを抑えて、さっきと同じ適当な返しをする。
断罪イベントの場にいた誰かが謝りたいと考えたとしても、私は直後に着の身着のままで出奔したので、妨害以前にそんなタイミングはなかった。
こんな会話は無意味だ。
どうして無関係なはずのマクシミリアンが、ここまで言い募ってくるのか、理由がよくわからなかった。
いや待て、そういえばこの男。
無関係なんかじゃない、元婚約者の実の兄だ。
密かに本国と連絡を取り合っていて、何らかの指令を受け取っているのでは?
つまりこれは、あの愚かな元婚約者とその取り巻きを許せという意味なのではないだろうか。
あの時の婚約破棄や、一方的な断罪が、今になって問題になっていたとしても不思議ではない。結婚する約束は、家同士のものだったのだから、口で言っただけの婚約破棄は無効で、実はまだ継続中だという可能性もある。
「でも、どのような事情があったとしましても、あのような酷い裏切りに対しては、いかに謝られようと、わたくしの心の傷は簡単に癒えませんわ」
それは、断罪イベントに関わった連中がここまで訪ねて来て目の前で五体投地を行ったとしても、誰一人として許すつもりはないし、国には絶対に帰らない、という意思表示のつもりで言った事だった。
「君は、……そこまで君が傷ついていたのに、……僕は」
目の前の、イケメン成人男子推定二十一歳がボロボロと涙を零し始めたので、私の脳内CPUは処理落ちした。
「君に会えると思って、浮かれて」
マントで顔を覆うと、マクシミリアンは勢い良く立ち上がった。
「……駄目だ、今日はもう、気持ちがぐちゃぐちゃで……ごめん、また今度」
走るようにして逃げ去って行く、彼の後ろ姿を見送りながら、私は何が起こったのか理解できずにいた。そこまで酷い言葉を投げかけただろうか?
周囲で食事中だった面々から、気まずそうな咳払いが聞こえてくる。この茶番を見守っていた人達にも、全く意味不明なはず。
私が虐めて泣かせたとか、思ってはいないよね?
(あんたの弟とその不愉快な仲間は誰一人赦さないよって、伝えただけなんだけれど)
何か変なところがあったかしら、と不安になりながら、会話を反芻する。
『そこまで君が傷ついていた』
と彼が思った理由は何だろうか。
何やら現代国語の出題のようだが、この場合さっきの会話の中に正解はなさそうな気がする。『わたくしの心の傷は簡単に癒えません』という台詞のせいだったとしても、その場にいなかったマクシミリアンが泣き出すほどの感情を見せる理由にはならない。『約束』という言葉を何度か使った彼は、例えば愛人との『約束』を破ったか、破られたかで、トラウマを抱えているのかもしれない。
『約束だよ』
さっき思い浮かんだ記憶の断片に、胸の奥がざわつく。
あれは現実に起きた事なのだろうか。
一日中待っていた、あの日……
何かを思い出した気がして、鼓動が早まり、握り締めた手の中が、脈打った。
埋めてしまった感情が、胸の辺りで、人並みの痛みや、寂しさや、悲嘆という名前を持って、蘇りかける。
違う、そんな事実は無かった。
待ってたりなんてしなかった。約束なんてしなかった。
友達なんて、最初からいなかった。
私は、父親に殴られてもいないし、誰にも置いて行かれてもいない。
何も無かった。
思い出すような事は何も、無い。
深呼吸を何度かするうちに、心の内に浮かびかけた嫌な何かはまた沈んでいった。
(そうか、あの男。愛人と結婚の約束をしていたのに、裏切られたのね……)
天啓のように、正解が降ってきた。
(弟よりも、婚約破棄された私の方に感情移入した訳がわかったわ。次に会ったら、もう少し優しくしてあげよう)
平常心を取り戻し、ほっとしながら、冷めたコーヒーを少し口に含む。
そういえば、王国では紅茶ばかり飲んでいた。今世でコーヒーがこんなに気軽に飲めるのも、カプリシオハンターズ共和国に来て良かったと思う事の一つだ。バナナと同様に、コーヒー豆も栽培されているのだろう。
(さてと。そろそろ、いただこうか……)
とテーブルに向き直って、衝撃のあまりフリーズした。
さっきまでデザート皿の上に、半分に切られて断面を見せた状態で横たわっていたはずのマイファーストバナナが、消えていた。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈