04:血まみれドレスは脱ぎ捨てた
共和国内にたどり着くまでがエピローグだ!
と意気込んで、油断しないと心に決めた翌日には、私は小型飛行船に乗って長年住んでいた大陸を離れ、カプリシオハンターズ共和国の首都バシンにある移民管理局にいた。
小型の飛行船は一度に十名ほど乗船でき、航路なら海流を横切って何週間もかかる行程を半日程度で、文字通り飛び超えることができた。本国と大使館専用空港を一日一回運行する定期便だというのだから、王国とは段違いの科学力だ。
大使館で出した亡命の申請書は即日受理された。
怪我も、一部は縫ったが、数日で治る程度のものだ。血まみれドレスは脱ぎ捨て、カプリシオハンターズ共和国製の、地味だが合理的で動きやすい上下服と、履きやすい靴を支給してもらえたので、王国から持ってきたものはこの身一つだけ。
ようやく、確実に『物語』は終わったのだ。
この世界に生まれて以来初めて、まったりと落ち着いた気分になれた。
(ここは天国かしら?)
目の前でぴょこぴょこと動く髭をうっとり眺めながら、私は夢心地になっていた。
人族の子どもぐらいの高さしかない猫型使役魔獣は、直立歩行で応接室のテーブルまで進み、その上に飲み物の入ったコップを置いた。
地毛は白く、顔の上半分から背中にかけては黒毛だ。普通の猫と違って器用に動く五本の指には、ピンク色の肉球がついていた。茶色い瞳の奥には、生き生きとした精神が見え隠れする。
下半身を覆う、カーキ色のデカパンぽい半ズボンが、とても可愛い。それに、だぶついた革ブーツも。
「ニァ」
と鳴いたのは、空のコップを下げても良いか、という確認だろう。
漫画だと猫の髭は三本程度に省略して描かれるが、間近に見る猫型使役魔獣は、顔中から長い髭が全方向に飛び出ている。
それが、顔の動きにシンクロして揺れる様子を見ていると、幸せな気分になってくる。
空のコップを渡して、にっこりと笑いかけながら私は、手を触れたい、抱きつきたいという衝動を辛うじて押し止める。
脳内でド下手なポエムが爆誕していた。
かの腹毛の無垢な白さよ
我の指 和毛に触れ
かんばせを埋めて死なんとす
(意訳:猫吸いできるのなら死んでもいい)
空のコップを抱え、ぺこりとお辞儀して応接室を出る猫型使役魔獣を見送っていると、テーブルの対面に座った若い男が、ウホン、とわざとらしい咳払いをした。
「ここまでの話は、ご理解いただけましたでしょうか?」
移民管理局の係官は、私が上の空で聞いていた事をわかっていたらしく、にこやかに確認してきた。文官らしい華奢な体格をした人族の男で、漆黒の長い髪に漆黒の皮膚、瞳も黒く、対照的に衣服は全て明るい緑に統一され、その対比の艶やかさが目に痛い。この国では、軍の上官以外にはかなりカジュアルな服装が許されているようだ。
「ええ、もちろん」
私は笑顔を保ったまま諳んじる。
「使役魔獣は、言語能力は持たないものの高い知性を持った存在なので、共和国内では自由意志を尊重されるべきであり、拉致監禁したり、みだりに触れてはならない。労働には規定の報酬を支払わなくてはならない。原則として、共和国からの出国は不可。理由は、共和国以外では法に守られず、ペット扱いされたり、奴隷にされやすいから」
「大体合っていますね」
係官は、答えられないと思っていたらしく、少し驚いた様子を見せた。それから、体を少し前屈みにし、ほっそりした顔を私の方へ寄せて、小声で言う。
「このところ、使役魔獣の拉致が多くなっておりまして、最重要事項とさせていただいております。内密の情報ですが、つい先日も、内陸に住んでいた小型使役魔獣達が集団で行方不明になる事件がありましてね。海外に奴隷として売られるために、拉致されたのではないかと見られております」
「あんな可愛い生物を奴隷にするなんて、許しがたい行為ね!」
一瞬、怒りで大声を出してしまったために、係官が身を引いたので、すぐに声量を戻した。
「いっそ人間の方が、下僕になるべきだわ」
「全くその通りです。まだ近隣の海上にいるはずなので捜索中ですが、見つけたら犯罪者共をスコロペナの穴に埋めてやります」
この言い回しは、共和国では『簀巻きにして東京湾に沈める』と同義だ。
係官は背筋を伸ばして、話題を変えた。
「ところで、先日書いていただいた書類に、亡命理由として、自由を求めてとありましたが、間違いないですか?」
私は頷いた。
続く質問の声には、なぜか微妙に敵意のようなものが感じられた。
「この共和国が、自由の国だと思った理由を、教えてください」
質問の意図がわからずに、私は彼の細長い顔をキョトンと見返す。
係官は、長々と説明し始めた。
「王国は農業国で、カプリシオハンターズ共和国は狩猟国です。我が国からは狩猟で得た肉や、モンスターの素材を、王国からは農産物を交易しています。そのための貿易条項の中に、我が国の政治思想を王国に持ち込まないという一項があります」
係官が一旦言葉を切って、私の顔を見る。私は、この話がどこへ続くのかわからずに、黙ってハテナマークに包まれていた。
「カプリシオハンターズ共和国は、身分制度のない民主主義国家ですので、自由を求める人には、最適の移住先だと言えます。ただ、この自由、平等という政治的概念が王国の国民に広がるのは、王政にとっては致命的だと考えられています。そのため王国内では、厳格な情報統制を敷いているのです。その結果として、共和国は交易を通じて、数多のモンスターが生息する未開の国『カプリシオハンターズ』としては知られていますが、正式名称の意味するところや政治的な内情は、王国側には公にされていません。我が国を自由の国だと認識しているのは、統制をかけている為政者側の人間か、もしくは」
係官の瞳が、冷たい熱を帯びる。
「密貿易や奴隷売買などの違法行為を通じて、我が国を知っている者達です」
心底驚いた。
どうやら疑われているらしい事はわかったけれど、それ以前に私は、自分に驚いていた。
転生した私は、カプリシオハンターズ共和国が自由の国だという事を当たり前の知識だと思い込んでいた。けれど、係官の言う通りだ。歴史については中学生程度の知識しかないが、確か教科書には、『自由』という概念を知った農奴達が革命を起こしたために、王政が終わり、身分制度が崩壊した過程が書かれていたはずだ。
国王が権威を保ち、王政を行うためには、自身を追い落とす可能性のある『自由』という概念を許容するはずがない。
それなら、この世界に転生して間もない子ども時代の私は、共和国は自由の国だという知識をどこから得たのか。そんな事もすっかり忘れたまま、自由の国に行くのだと、まるで自分で立てた計画かのように思い込んでいたなんて。
その衝撃は、ずっと漢字の読み方を間違えていたと知った時のものと似ていた。
『嘘をつく』が『嘘を吐く』と書くと知った時、続柄が『ぞくがら』じゃなくて『つづきがら』と読む事を知った時、依存心が『いぞんしん』じゃなくて『いそんしん』だと知った時の、見知ったものが別物に見えてしまう、根底から価値観が覆るような、不思議な感覚だ。
『いつか、自由の国に行くんだ』
あれは、誰の言葉だったのだろう?
思い出そうとすると、胸の奥がもやもやする。
「昔、カプリシオハンターズ共和国は自由の国だから一緒に行こうって、誰かに誘われた、ような気がします。実力主義の国だから、と言っていたような……」
ささくれ立った気分になるのは多分、何か傷つく事があって、無かったことにしたのだろう。
「子どもの頃の事なので、すっかり忘れていました。王都でたまたま知り合っただけの、名前も顔も忘れてしまった相手ですので、それ以上のことはわかりません」
エメラルドグリーンの服を着た係官は、取りあえずその説明で納得してくれた。
ああ、思い出した、と思ったのは、提供されている部屋の寝台で横になり、殆ど眠りかけた時だった。
「初めに、カプリシオハンターズ共和国に行って」
「うん」
「次に、狩猟民になる」
「狩猟民?」
「モンスターをやっつけて、素材を売ったら金になる」
「僕知ってるよ。時々お母様が、綺麗な魔石をお耳に飾ってる」
「金を稼いだら、ご飯も買えるし、家も買える」
「じゃあ僕、狩猟民になる」
「お前なんか連れていかないって言ってるだろう」
夜明け近くに、王城を囲むように走る緑地帯を、毎回似たような会話をしながら走っている二人組がいた。
「俺は、金をたくさん稼いだら、好きな女と結婚する」
「僕も、好きな人と結婚する」
「お前は駄目って言ってるのに」
「結婚する!」
「お前はねぇ、ずっとずっとこの国に住んで、顔も知らないお菓子ばっかり食ってる横幅の大きな化粧ゴテゴテ令嬢と結婚するんだよ。良かったな」
「兄上待って」
「兄じゃない」
スピードを上げるもう一人の後を、泣きながらついて行く男の子に、声をかけたのが、言葉を交わすきっかけだった。
「大丈夫? 私と一緒に走る?」
泣き止んだ男の子と何周か走って、地平に日がかかり始めたら解散する。
そんな事を何度か繰り返していたら、男の子は泣かなくなって、初めから私と一緒に走るようになった。
意地悪な男の子の方は、身体能力が高くて、走るスピードに追いつくことはできなかったが、休憩している時に何度か話した。
話す内容はいつも同じだった。
充分に体を鍛えたら、自由の国に行く。
狩猟の国なので、狩猟民になる。
お金をたくさん稼ぐ。
自由な結婚をして、幸せになる。
「今日もまた、幸せロードマップの話なのね」
そう言って揶揄った。
次の朝、幸せな気分で目を覚ました私は、寝る間際に何か思い出したような気がして、しばらく考えていた。
一緒に走った男の子の、断片的なイメージは残っている。
(とにかく今日は……)
身支度をしているうちに、そのイメージも消えてしまった。
(狩猟民の登録申請をしなきゃね)
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