03:エスコートは必要ない
「亡命を希望します」
満月の夜、私は、裸足のまま某国大使館前に辿り着いて、訴えた。
大使館は、高い石造りの塀に囲まれている。門扉は、太い鉄の棒が等間隔にはまった鉄枠が鉄の車輪付き土台に溶接された非常に頑丈なもので、女性の力では簡単に開けられそうもない。門扉の前を守っているのは、二人の兵だ。
彼らは、装甲と言っても良いぐらい重厚で斬新な鎧をつけていて、車にトランスフォームしそうな感じ。
肩から提げているのは、この国ではあまり見ない大型の銃器だ。それだけでも、技術力の高さが窺える。
塀の随所にある窪みで松明が炎を揺らしているので、周囲は明るかった。
門兵達に向かって祈るように、両手を組み、言葉を続ける。
「無実の罪を着せられ、迫害され、国外追放を言い渡されました。家族からも追われ、この有様です」
嘘は殆ど言っていない。
なんてかわいそうな私。そう思い込んで、自分の感情を追いやれば、涙は自在に浮かんでくる。長めの睫が充分に湿り気を帯びたところで、愁いを含んだ黒い瞳を向けると、私の有り体を検分していた門兵の一人が、顔を覆う兜の中でかすかに息を震わせた。
素足と、血だらけのドレスと、顔や手に走る生々しい傷、肌にめり込んだままの陶磁器の細かな破片、そして、腫れ上がった左頬が、良い仕事をしたようだ。
さらには、朝侍女が綺麗に梳いて結い上げた黒髪は、見る影もなく乱れているし、この国の王太子の婚約者に選ばれるという下らない栄誉に浴した美貌も、今は長時間歩き続けた疲労で翳っているはず。
門兵は、小動物に近づくようにゆっくりと距離を詰めてきて、私の目の前で大きな体を少し屈めると、黒髪やドレスについた破片を払ってくれた。
「なんてこった」
しきりにそう繰り返す声は、かすかに震えている。
ごめんね、同情してもらうために、わざと破片をそのままくっつけて来たんだ。自分で破片も払えないほど、心にダメージを負っているように見えたかもしれないけれど。
罪悪感に俯く私。
もう一人の門兵が、周囲に油断なく視線を向けながら、門の内側にある待機所に呼びかける。
巨大な何かが出てきた。
何だろう、あれ。
二本足で歩いていて、軍服を着ているが、二メートルぐらいない?
この世界に生まれる前の日本では、身長百八十センチはある外国人観光客が歩いていると、デケェな! って感じだったんだが、もっとでかい。しかも二メートル上空に位置する頭部から、黄色い堅そうな髪が逆立っている。電車に乗ったら、髪が天上に突き刺さりそう。顔は、ホリが深くて、厳つい。睨まれたら子どもなら怖くて泣く。あれだ、時々北国に出没すると聞く、なまはげ的な何か。
おじけづきながら見上げる私は、彼の目には、寄る辺なき小さな生物のように映ったことだろう。
軍服の大男は、その厳めしい雰囲気と、門兵との会話から、この大使館の警備責任者だとわかる。彼は鉄の格子の向こうから私を見下ろして、怒った声で言った。
「……こんな若い娘に、惨い仕打ちをするものだな」
私に向けられたものではないとわかっていても、その怒気に思わず震えた。
「門を開けますね、団長」
もう一人、別の軍服の男が待機所から顔を出して、そう背後から声をかけると、団長と呼ばれた責任者は頷いた。
なんて純粋な人達なんだろうと、私は感動する。無関心や悪意ばかりにさらされてきたから、優しさが身にしみるっていうか。
「ありが……とう……ございます」
いい感じに、声が途切れる。
誰一人、私が悲嘆に暮れてなどいないと、気づきもしないだろう。強まる罪悪感で、組んだ両手にますます力が入る。
門扉の開閉は、待機所から操作するらしい。鎖の音と共に、重い鉄の扉が、土台の下にあるレールを辿りながら、ゆっくりと動き出した。
もう少し。
あと少しで、全ての縁が切れる。
モラハラな父親から。
無気力な母親から、無関心な兄から。
私を敵視し続けた鰤嬢と、鰤嬢にいいように操られる愚かな電化男、曇った眼をした、お馬鹿な取り巻き。愚者どもの行いを咎めもせず、遠巻きに眺めていた者達。その全てを、この国ごと私は見捨てて行く。
そのためになら、顔の傷の一つや二つ、どうということはない。
ああ、私は、自分が思っていたよりもずっと、深く激しく怒っていたのかと、今頃気づいた。
開いていく門扉は、石の塀側から扉を掴むようにしてロックする機構のようだった。その頑丈さから見ると、外から無理矢理開けるには、石の塀ごと破壊しなければならないだろう。
人一人、通れるぐらいまで開いたところで、内側に引き入れてもらい、門扉が動く方向を転じて、再び閉じるのを待っている時、馬のひづめの音と、私を呼ぶ声が近づいてきた。
公爵邸に置いてきたはずのその名を聞いて、計画の失敗を予兆し、私の体が震え始める。忌まわしい鎖が手足に巻き付いて、門扉の外に引きずり出そうとする幻影を見た。
己の精神がこれほど弱いとは、心外だ。
転生前の寿命と合わせれば、見かけよりもずっと年を経ているのだからと、過信していた。まるで年相応の、十八の小娘のように、私は恐怖に打たれた。
しっかりしろ、私……
ようやく自由になろうとしているんだ。
そう冷静になろうとすればするほど、地面が不確かなものになっていく。
「急げ!」
団長が、ふらついた私の背を支えて、声を上げた。
二人の門兵がその声にはっとした様子で、門扉に飛びついて、力を入れて引いた。扉が、恐ろしい勢いで石の塀にぶつかるようにして閉じる。
その直後、馬から飛び降りた男が駆け寄って、扉の鉄の棒を掴んだ。
兄だった男。
これまで、一度も呼ばなかったその名を、今更連呼する意味は何なのか。
「大丈夫」
団長が、私からその男を隠すように、立った。
「門のこちら側は、我が国、カプリシオハンターズ共和国内だよ。モスタ王国の法律は、もう君には及ばない。大使館で、迎え入れる準備をしてもらっているからね。まずは、傷の手当てだ」
「ありがとうございます……」
組んだ両手を掲げて、大男を拝んだ。
それから、門を守る二人の兵士と、待機所にいる普通サイズの軍服の男にも、組んだ両手を胸に掲げ、お礼の言葉を繰り返す。
(私を助けてくれた方々の髪が、生涯守備位置に止まったまま、その使命を果たすことができますように)
この祈りが、私を転生させた存在Xに届けば良いのだけれど。
心の底から感謝し、私は、むせび泣くような息を吐いた。
門から続く、低木に挟まれた石畳の道の向こうに、落ち着いた佇まいの洋館が見える。
揺らされる門扉と、最早騒音にしか聞こえない私の名前に背を向けて、私は深呼吸した。
震えが収まる。
ここまでが、あの鰤嬢が主人公の『物語』での、エピローグ。
私とは関係のないところで、二人は幸せにくらしました、めでたしめでたし、で勝手に締めればいい。
ここからは私が主人公の、新しい物語のプロローグ。
エスコートは必要ない。
私が自分で道を選び、歩いて行ける世界だ。
意気込んで、一歩進んだ私の足が、空を蹴った。
「待ちなさい」
心地よいバリトンの声が、頭のすぐ後ろから響く。私の両脇を持って、大男が後ろから高い位置に持ち上げていた。
「今迎えの車が来る。裸足で歩かせる訳にはいかないからね」
「車」
この国には、車があるのか凄いな。
それにしてもこれは、五歳児を抱っこするのと同じ扱いでは?
まあ、もう王国ではないのだから、令嬢というカテゴリもなければ、女性への取り扱いも違っていて当たり前か。
大使館の方から、馬車でもない、自転車でも無い、ガラガラという騒がしい車輪の音が聞こえてきた。私よりも小さい、子どもよりは大きな生物が二匹、鱗をキラキラと満月の光に煌めかせながら、忙しく両足を動かし、身体を揺らして走ってくる姿が見えた。直立して走るその動きは襟巻きトカゲを思わせたが、襟巻きはない。
カプリシオハンターズ共和国では、人族、竜人族、獣人族、エルフが共存する他に、比較的知能の高い魔獣を使役する文化を持つと、聞いたことがある。
実際に見るのは、これが初めてだ。
石畳の道沿いにトカゲたちの牽いてきた車が、私の前で止まる。
「車」
思わず疑問形になりそうな語尾を、ごまかす。
左右に大きな車輪のついた、時代劇で見たことのある大八車っぽい車に、荷台がついている。
「揺れるからね、手すりにしっかり掴まって」
団長が私を、荷台の上に置いて、言った。
「奥歯をしっかり噛んでおくんだよ」
大変ありがたい警告だった。
奥歯を噛み、悲鳴を飲み込んでなければ、次の大きな動きで私は、舌を半分噛み切っていただろう。上下左右に激しく揺られながら、二匹のトカゲが引く大八車に乗せられ、というか載せられ、私は大使館まで運ばれていった。絶対、裸足で歩いていった方がましだった。
油断は禁物、ということだ。
確かに大使館内には入れたが、私はまだ四方を王国の領土に囲まれている。物語の強制力が働かないとは言い切れない。何より、ここが『物語』であることはわかっていても、どんな物語でどんな分岐があるのか、私には全くわかっていないのだ。
前世で読んだことのある小説では、悪役令嬢役が国外追放や修道院送りになった後、移動中に賊に襲われて娼館に売られたり、嬲り者にされたり、殺されたりという展開のものもあった。
つまり、大使館から出て、共和国内にたどり着くまでが鰤嬢物語のエピローグだ。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈




