21:城に棲まう兄弟
狩猟生活五日目(6)
目の前で泣いているのは、成人男子推定二十一歳の、図体大きめの男だ。
それなのになぜ、『拾ってください』と書いた段ボールに入れられて鳴いている子犬の図が重なって見えるのだろう。
私は非常に戸惑っていた。
戸惑っていたのは、私自身についてだ。
「どうして泣いてるの?」
自分でもびっくりするほど優しい声音で、私はそう言った。
「何がそんなに悲しいのか、話してくれる? ゆっくりでいいから」
キャラ崩壊にもほどがある。
悪役令嬢キャラは跡形もなく、厨二病設定も、せっかく黒ずくめで、双剣に名前までつけたのに、どこかに飛んでいった。
でも仕方が無い。
マクシミリアンが泣いていると、どうにも心が痛くて耐えられそうにない。
「今までザイオンは、父上の話なんて、一言もしなかった」
マクシミリアンは、なんとか涙を止めようとしていた。
「だから、あんなに憎んでいたなんて、知らなかった。父上に似ている僕が、兄上って呼んだら、嫌がるのは当たり前だよね。僕も……」
涙が、また溢れてくる。
「僕も本当は、憎まれていたのかなぁ」
「そんなわけない」
ザイオンは、ただただ性格がひねくれているだけだ。
「さっき、サンドイッチを半分貴方に分けていたよね? 憎かったら、あんな事しないよ」
マクシミリアンは、紙皿を睨み付け、涙を零し続ける。
「さっきの話、聞いてたでしょ? 王国に置いておくと殺されるから、連れてきたって。本気で憎んでたら、貴方を置いて、一人でここに来たんじゃない?」
「ザイオンは、あの時」
マクシミリアンは、声を絞り出すように言った。
「実の母親に殺されそうになっているなんて、可哀想な奴だなぁ、ママのご希望通りに死んじゃえばって」
「なんて言い方しやがる」
思わず声に出た。
慌ててフォローする。
「でも結局一緒に来たわけだから、本当にそう思ってた訳じゃないよ。……ここの牢屋に入れられても、怒りながらでも、迎えにきたでしょ?」
連れて帰らなかったけれど。
「そう……そうだよね」
マクシミリアンは、さっき渡した血の付いたハンカチで、目元をゴシゴシと拭いた。
「ザイオンはいつも、言葉は冷たいけれど、掃除も洗濯もしてくれて」
ん?
「食べさせてくれて」
食堂でマクシミリアンに、ピーマンを食べさせられた事を、私は思い出す。
まさか、兄がスプーンで弟に飯を食べさせるのが、この二人の日常なのか?
「服も着替えさせてくれる」
過保護か!
いや、元王族だから、それが普通なのかもしれないが。
「子どもの頃からずっと、ザイオンの家族は僕だけだし、僕の家族はザイオンだけだった……」
「えっでも、お城では、国王陛下も、弟殿下も、一緒に住んでいたでしょう?」
「住んでいた、というか……」
マクシミリアンが、時折こみ上げる涙をこらえながら話したのは、だいたいこんな感じだった。
=*==*==*==*==*==*==*==*==*==*=
僕は、三歳を過ぎても言葉を上手く喋ることができなかった。
母上は、将来は立派な王様にならなければいけないのに、こんなお馬鹿では困ると言う。
十歳までには、異国語もペラペラと話せて、歴史や法律も大人みたいに諳んじて、帝王学を学んで、父上がいなくなってもいつでも王様の代わりになれるようにしておかなくてはならないんだって。
いつまでも赤ちゃんのように泣いて、勉強を嫌がる駄目王子では役に立たないって、お爺様とお話ししていた。お爺様は、王様の代わりに政治を動かす偉い人らしい。
僕はその頃うまく喋れなかったけれど、言われている事は、ある程度まで理解できていた。
母上も、お爺様も、僕が右を向けと言われて左を向くたび、上に行けと言われて下に行くたび、本当に役に立たない者を生んでしまったと、罵った。
僕も、間違えるたびに悲しかったけれど、何度聞いても、どっちがどっちかわからなくなっちゃうんだよね。
母上は、だんだん、僕の顔を見ると怒って、シュガーポットとか、お皿を投げてくるようになった。当たらないけれど、割れると侍女達が掃除しなくてはならないので、僕はなるべく母上に見つからないように、狭い隙間に隠れた。
「あっち行ってて」
といつも母上は言った。
僕は、かくれんぼがどんどん上手くなっていった。
勉強を教える先生が来る時は、一番上手に隠れた。お城にはたくさん部屋があって、物を入れておくスペースもあって、隠れる場所がたくさんあった。それに、皆すぐに、探すのを諦める。
僕がちゃんと食べて、寝ているかどうか確かめに来るのは乳母だけになった。
お腹に赤ちゃんがいると、気持ちが不安定で怒りっぽくなるのですよ、と乳母は言ったけれど、弟が生まれた後も母上は、花瓶やティーカップを投げた。
乳母は弟が生まれて三年ほど経った頃に、年を取っているからと辞めてしまった。新しい乳母は来なくて、誰も僕のご飯を部屋に運んでくれなくなった。様子を見にくる人はいるけれど、僕が隠れていると、すぐにどこかへ行ってしまった。
お腹が空いた時は、厨房へ行けばいくらでも食べ物をもらえるから、怒られたり何かを投げられたりしなければ、それでいいと思っていた。
時々、父上を見かけた。父上は、一日に一度は必ず、城の北側に向かって歩いていった。そこは、高い城の陰になっていて、昼間でも暗く、離宮と墓所があり、王族と関係者以外の出入りは禁じられている。父上はいつ見ても悲しそうな顔で、花を手にしていたから、きっと、誰かのお墓参りだろう。
七歳になっても僕は、話せる言葉が増えず、『昨日』と『さっき』の区別がつかなかった。過去の事は全部『さっき』で、『後ろ』は『背中』という具合に覚えてしまっていた。『明日』は、まだ難しくて理解できなかった。
隠れ場所でうっかり侍従や侍女と鉢合わせして、会話をする事はあったけれど、皆僕が何を伝えようとしているのかわからなくて、苦笑いするだけだった。相手にしなくても良い、放っておけと、母上やお爺様が彼らに言うのを聞いた。
その頃の僕は、朝起きて、大人から隠れてお城や庭をぶらつき、お腹が空いたら厨房で食べ物をもらい、身体が汚れたら庭園の噴水で洗って、夜が来たら部屋で寝る、という一日を繰り返していた。
「この洗濯物、北の離れのものらしいわ」
井戸のそばの木に登って、枝の上で、捕まえた甲虫を眺めていると、洗濯係が話している声が聞こえた。
「あそこ、人が住んでるの?! 初めて知ったわ」
「知らないの?」
「何を?」
「北の離宮には昔、奴隷のエルフが住んでいたっていう噂があるのよ」
ひそひそ声だったので、聞き取りにくかったが、確かにエルフと言った。
僕は、甲虫を放してやると、枝の下を覗いた。
井戸の横に、水を桶の中に流し入れては、洗濯物を濯いでいる女達がいる。汚水が、排水用の溝に流れていく。
「エルフなんて、いるわけないじゃない」
「そうよね。でも、王様の愛人が住んでいたのは確かよ。だって今は、その子どもが住んでいるもの、ほら」
洗濯女は、濯ぎ終わった服を絞って、広げた。
それは、僕と同じぐらいの子どもが着る服だった。
「マクシミリアン様やウイリアム様のご兄弟って事?」
僕の名前が出てきたので、びっくりして顔を引っ込める。
「うん。本当は第一王子なのに、奴隷エルフの子だから表に出せないって。昔離宮で世話係をしていたっていう人がいてね……噂よ、噂」
パンパン、と洗濯物を叩く音がして、声が遠ざかっていく。
僕に兄上がいる!
木の下に誰もいなくなってから、僕は急いで下りて、両手を上げ、くるくる回って、踊った。
こんなところを母上に見つかったら、鞭で両手を叩かれるだろうけれど、洗濯場まで来る事は絶対ないから安心だ。
その日、僕は北の離宮に行った。僕はかくれんぼの名人だから、あっちの茂み、こっちの窪みを経由しながら見張りの目をごまかして、誰にも見つからずに辿り着いた。
お城と、離宮の間は中庭になっていて、石のお墓が幾つもあった。
一番奥の、小さめの墓石には、耳の尖った人の横顔の彫り込みがあった。新しい花が供えられている。昔住んでいたエルフのお墓なんだろうな、と思った。
北の離宮はとても小さくて、扉を開けたら、そこが居間だった。黒髪の男の子が、ソファから半分身体を起こして、びっくりした顔で僕を見ていた。
でもすぐに、僕が誰かわかったみたいだ。
僕は父上にそっくりだから。
「城に浮浪児がいるなんて、とんでもないな!」
兄上は、呆れた声でそう言った。
それから、墓所にある井戸のそばに僕を連れて行って、ゴシゴシ洗って、タオルで拭いてくれて、長く伸びた髪を切って、新しい服を着せてくれた。古い服は、とっくにサイズが合わなくなっていて、破れて、穴もたくさん空いていたので、捨てられた。
「兄上」
と呼んだら
「兄じゃない」
と返された。
でも、母上のように、あっちに行けとは言わなかった。
僕が、『後ろ』を『背中』と言い間違えても怒らなくて、ああ、後ろだな、と言うだけだった。右と左の違いを、根気良く教えてくれたし、時計の文字盤の読み方も教えてくれた。
夜、一緒のベッドに潜り込んでも追い出さないし、城の厨房から食べ物を運んで行ったら食べてくれ、もっと寄こせとも言われた。離宮の食事は、忘れられる事が多いらしい。
ザイオンは、僕と一緒にご飯を食べて、一緒に寝てくれる、たった一人の家族になった。
僕はそれから少しずつ、人間らしい言葉を話せるようになっていった。また明日、という言葉が、一回寝た後であって今すぐではない事を理解し、以前あった事、昨日あった事、さっきあった事を時系列順に説明ができるようになった。
あの頃から、ザイオンの家族は僕だけだし、僕の家族はザイオンだけだ。
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「もう、兄上と呼ぶのはやめる。ザイオンが嫌がる事はしない」
私の懸命な誘導で、何とかそこまで語り終える頃には、マクシミリアンはすっかり安定した様子を見せていた。過去を思い返す事で、憎まれていたはずがないとわかったのだろう。
会議室の窓からは、遅い午後の陽がさしていた。
頑張ったね、私。
一度死にかけた話は、また今度でいいか。
「ではそろそろ、退出願おう。今からここで、対策会議を始めるので」
ヨアン保安官が、立ち上がって言った。
そういえばいたな、ヨアン保安官。
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