17:天敵
狩猟生活五日目(2)
王国の王城周辺は、大昔は深い堀に囲まれ、敵が攻めにくい造りになっていたという。
大陸が統一されて平和が訪れると、堀は埋め立てられて、緑地になった。王城の周囲を巡る緑地帯を何周もするランニング愛好家の姿は、朝も夕方も見られ、朝日が昇る前の、薄明かりの中で走る者も少なからずいた。
六歳からほぼ毎日、私は王城の緑地帯を朝日が昇るまで走った。
「カプリシオハンターズ共和国に行った後……」
時折見かける二人の少年は、私よりも少しだけ年上のようだった。
「俺は、金をたくさん稼いだら、好きな女と結婚する」
黒髪の少年は、結構なスピードで走りながら、息を切らす事も無く余裕で話している。
後を付いていくアッシュブロンドの髪の少年は、息も絶え絶えになりながら、言った。
「僕も、好きな人と結婚する」
「お前は駄目って言ってるのに」
会話が聞き取れるほど近い距離にいるのは気まずいので、さっさと追い越したいところだが、小学生低学年程度の私の足では、そう簡単には追い越せない。
頑張って走っては、途中でスタミナが切れて諦める、という事を何度か繰り返していた。
こちらをちらっと見た黒髪の少年の、金色の瞳が、優越感に浸っているのがわかった。
ムカついて、距離を詰めようとすると、黒髪の少年はわざとペースを上げた。こちらのスピードが落ちると、またペースを戻す。再び振り返る彼の、口の端が上がっていた。本当に、嫌なヤツ。
「結婚する!」
アッシュブロンドの髪の少年が、黒髪の少年から遅れ始めて、涙目になっている。
「お前はねぇ、ずっとずっとこの国に住んで、顔も知らないお菓子ばっかり食ってる横幅の大きな化粧ゴテゴテ令嬢と結婚するんだよ。良かったな」
そう言って、相手に投げかけた黒髪の少年の視線には、哀れむような、軽蔑するような感情が複雑に入り組んでいて、読み取りにくかった。
けれど、その後で私に向けられた一瞥と、見せつけるような笑みの意味は、はっきりとわかった。
(追い越してみろ、ノロマめ)
黒髪の男の子は、スピードを上げ始める。
私が見かけと同じ小学生低学年女児だったなら、ムキになって後を追ったかも知れない。
だが、中身はかつて大人だった私。
こんな小さな子ども相手にマウントを取って粋がっているようなヤツに、期待されたような反応なんてしてあげない。
「兄上待って」
距離が開いて、後れを取りながら走っている男の子の涙腺が決壊した。ボロボロと涙を流す彼が、可哀想に思えてくる。
「兄じゃない」
冷たく言い放った黒髪の少年は、更に走るスピードを上げた。
置いて行かれたアッシュブロンドの髪の少年が、しゃくり上げる。
私は思わず声をかけた。
「大丈夫? 私と一緒に走る?」
紫に近い碧色の瞳が、びっくりしたように私を見る。
こくりと頷いた彼と私は、そのまま太陽が地平にかかる直前まで、並んで走った。
(うわぁ。なんか思い出しちゃったよ)
早足に受付窓口に向かい、受注リングを返却して、報酬を受け取る。
(日が昇る前に走り込みしていた頃、会ったっけ。そっか、居ないわけがないな。なんだっけ。自由の国に行って、家を買うんだって。そう言ってたの、あの男の子だった。昔は女の子みたいだった顔が、かなり男っぽくなってたけれど、見間違えようがない。大人になって、とっくにここに来てたんだ。……悔しい。私、無意識にその後を追ってた)
すぐ後ろで、誰かの気配がする、ような気がする。
怖くて振り向けない。
気のせいだ、気のせい。
(なんで見ちゃったかな私)
一瞬視線が合った金色の瞳の冷たさが、あの頃と同じだった。
急いで、宿舎へと向かう。
返り血は綺麗になったはずだけれど、気持ち的にシャワーを浴びたい。宿舎では、一応簡単なシャワーは部屋に付属している。
(金色の瞳……?)
『マクシミリアン王子の話、聞いた?』
貴族学園に入学したての頃、教室は、噂をする学生達の声でいつもざわついていた。
『見目麗しい護衛と駆け落ちしたっていう?』
『そう!』
『王子がいつも、その護衛にハグしてたらしいっていう?』
『そうそう!』
『なんと、その護衛がね、ハーフエルフだったらしいの』
『エルフって、耳の長い?』
『実際に居るなんて、聞いた事がないわ。おとぎ話の生き物でしょう?』
『いるのよ! 海の向こうの国に』
『わたくし、知っていましてよ。お父様の事業の一部が、貿易なんですの』
『エルフは、金色の瞳をしている事が多いのよ。その護衛の瞳が、金色だったらしいの』
『確かに、珍しい色ではあるけれど、皆無ではないわ。それだけでエルフとは言えないわね』
『女性と比べても遜色のない、美しい容姿をしていたと聞きましたわ。エルフってとても美麗な種族なんでしょう?』
『でも、どうして? 王国には居ないはずでは?』
『それがね、お父様によると、奴隷商がね……』
一夫多妻制度も許せないが、奴隷制度はもっと受け入れ難い。
王国には奴隷制度は無かったが、身分階級があるという事は、奴隷同然に扱われている最下層身分の人々はいるだろうし、使役魔獣達が拉致されて奴隷として売られているのなら、エルフ、獣人、竜人についても、考えられない事では無い。売られた奴隷に子どもが生まれている可能性も高い。
だから、エルフの瞳を持つあの黒髪の男の子は、故郷であるカプリシオハンターズ共和国の事を知っていたのだ。
(謎は全て解けた。……ような、そうじゃないような)
宿舎の部屋に逃げ込んで鍵をかければ、あの天敵の男の事を思い出す前の自分に、戻れるはずだった。もう子どもの頃の事だし、彼とどういう会話をしたか、全部思い出した訳じゃない。
けれど徹底的に気が合わない事だけは、はっきりと覚えていた。
一瞬視線が合ったぐらいでは、向こうも確信は持つまでには至らないだろう。次に顔を合わせた時には絶対に、見返さない事。動揺を見せない事。知らないヤツで通せば、なんとかなる。
(今は無理……何とか、気持ちを落ち着かせないと)
部屋の前に着いて、ドアを開けようとした時、私は自分の敗北を知った。
「お前、その癖治ってないのな」
男の手が、ドアを押さえて、中に入れさせまいとする。
「はぁ?」
思わずドスのきいた声が出た。
顔を上げると、金色の瞳と、視線が合った。黒髪の男が底意地の悪そうな笑みを浮かべ、見下してくる。
「私かんけーありませーんっていう、その感じ」
嗤うような声で、黒髪の男は続ける。
「十年ぶりぐらいで会ったのに、無視するなんてさ。相変わらず他人には関心無いってか」
心の奥底から湧き上がった怒りが、私の体の末端までざぁっと伝播していくのを感じた。
人が言われたくないことを、勝手に暴く。だからこいつは、嫌いだ。
「誰でしたっけ? 初めてお会いしますけど?」
「いやいや、さっき、目が合って逃げてったでしょう? あ、やべって思った?」
「わたくし、子どもの頃の事はあまり覚えておりませんの」
「そういうの、語るに落ちるって言うんだよ」
怒りの余り、何も考えられないまま言葉が零れ出てしまう。深呼吸して、気持ちを立て直した。
「誰かとお間違えのようですね初めまして私クロエですそれでは」
「俺はザイオンです~名前変えたんだってねクロエそれでね」
ドアの取っ手を力一杯引いたが、男の手を退かせるには至らない。一旦ここを離れた方が良さそうだ。
ザイオンは、逃げようとした私のベルトを掴んだ。
「マクシミリアンが毎日泣きながら帰ってくるんだけれど、どうして?」
知るか。
というか、一緒に住んでるのか。
毎日泣きながら帰ってくる、成人男子の元王子様。
ん?
元王子マクシミリアンと一緒に住んでいる、王国出身の麗人?
「マクシミリアン王子と駆け落ちした恋人って、あなただったのね」
「は?」
「まあ、それはどうでも良くて」
「いや良くない」
「あの元王子にも言ったんだけれど、とにかく、私には話しかけないで、放っておいてくれる? 元王子に話しかけられたってだけで難癖付けられて、怪我したのよ?」
と、私は左頬を指さした。
「その傷、描いてるんじゃないのか」
「相変わらずムカつくわね! なんでそんな事をしなきゃなんないのよ。これは、紅い甲羅を背負ったもっとムカつく女にやられたの!」
「やっぱり俺のこと覚えてるんじゃないか」
おっと。忘れてたっていう主張、ゴリ押しすれば通ったかもしれないのね。失敗した。
「その超ムカつく顔を見るまでは、完全に忘れてたわよ」
ザイオンが手を伸ばして傷を触ろうとするので、はたき落とした。
小気味良い音と共にあらぬ方へ弾かれた右手をさすりながら、ザイオンは大げさに顔をしかめる。そんなに痛いわけないのに、仕草の一つ一つにも嘘があって、本当に腹黒いヤツ。
「昔、格好いいっていう理由でよく、包帯巻いて走ってたじゃないか。そういう感じかと思ったんだが、そうか。……あいつが泣きながら帰ってきた理由が半分わかった」
「よく覚えてるわね、そんな事」
包帯を巻いて? ……何やってんだ私。
いや恥ずかし過ぎる。
「もう十年ぐらいは前の事でしょう? 私本当に、うろ覚えなのよ。そういえば、一緒に走っていた男の子が、もう一人いたようだけれど、あの子はこの国に連れて来なかったの?」
ザイオンが突然、今まで見せていた、どこか作ったような表情ではなく、素の状態に戻ったのがわかった。怒りとも取れる、不機嫌な様子を隠そうともせず、今にも舌打ちしそうに見えた。
(私、地雷踏んだ? あの子は王国に置いて来たのか。あまり触れない方が良さそう)
「なるほど」
苦々しい口調で、ザイオンは言った。
「理由のもう半分もわかった」
「あら、そう?」
いつの間にか令嬢キャラを忘れていたけれど、気を取り直して私は、ニッコリと微笑んだ。
「解決して良かったですわね? いろいろとお話を聞かせていただきたいところですけれど、わたくし、次のクエストの準備をしなくてはなりませんので、これで、失礼させていただきますわ」
私は再び、ドアの取っ手に力を込める。
「賢そうに見えて馬鹿なのも相変わらずか」
ザイオンはドアから手を退けようとはせず、歪んだ笑いを浮かべてそう言った。
「はあ? 馬鹿ですって?!」
せっかく纏い直した令嬢キャラは、一瞬で崩壊した。
「とにかく、どうあっても一緒に来てもらう」
私が断りを入れる前に、ザイオンは強い調子で続けた。
「あいつが殺人未遂の容疑で捕まった。牢屋から出すのを手伝え」
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