字を書くピアノ
ピアノを弾くのは、好きじゃなかった。
でも、俺がピアノを弾くと母さんが笑ってくれるから、ずっと母さんの好きな曲を練習して、母さんに弾いた姿を見せに行っていた。
「ねぇ母さん!見て!結構弾けるようになってきたでしょ?」
スマホのカメラで撮影した演奏の映像を、病院のベットに横たわる母さんに見せながら俺は褒めて欲しくてそう言った。
「そうねぇ。だいぶ良くはなったけど、まだまだだわ。後半速くなるところでミスしたの誤魔化したでしょ?もっと練習しなさい。そしてもっと上手くなった演奏を聞かせて?」
「えー、厳しいなぁ」
母さんは演奏を見せに行くたびに、いつも微笑みながら「もっと練習しなさい」と言ってきた。なかなか褒められなくて悔しかったけど、次に会う約束のようでちょっと嬉しかった。
今になって思うと、あれは俺が会えない時間を寂しく過ごさないようにという、母さんなりの優しさだったんだろう。
その日も、時間いっぱい母さんと話したあと、すぐに家に帰ってピアノの練習をした。今度こそは母さんに褒めてもらえるようにって。
でも結局、その会話を最後に、俺は母さんにピアノを聞かせることはなかった。
*
「字を書くピアノ?」
放課後の教室で話しかけてきた佐藤に、俺は怪訝そうに聞き返した。
「そうなんだよ!旧校舎に何故か放置されてるグランドピアノがあるって噂、聞いたことあるだろ。あのピアノの内側に白紙の用紙を1枚入れた状態で、ピアノの屋根を閉じて一曲演奏すると、死者からメッセージが届くらしいんだ!」
「ふーん、噓臭いな」
興奮して早口に説明してくる佐藤には悪いが、正直、高校生にもなってそんな話を信じられるほど純粋な心が俺には残ってなかった。
「なぁ頼むよ。俺の知り合いでピアノ弾けるのってお前くらいなんだよ」
「弾けるって言ったって最後に弾いたの小学生のとき以来だから、もうたぶん弾けないぜ?」
俺は、母さんが死んで以来ピアノを弾くのをやめた。
聞かせる相手がいないのに、練習する意味なんてなかったからだ。
「全然上手くなくていいから!頼むよ!一曲だけ!お願い!!」
あまりにも佐藤がしつこく頼んでくるものだから、今からすぐ行って、上手く弾けなくても一曲だけ弾いたら絶対帰ることを約束して、その【字を書くピアノ】とやらで弾いてやることにした。
*
「いやー、ほんと持つべき物はピアノを弾ける友だね」
「調子いいなホントに...」
ウキウキしている佐藤と一緒に【字を書くピアノ】があると言われる旧校舎の音楽室に足を進めていた。
木造で来年には解体が予定されている旧校舎は、本来立ち入りが禁止となっている。でも一ヵ所だけ鍵が掛かってない一階の窓から、簡単に侵入できることは生徒たちの間では有名だった。
「にしてもさすがに夕暮れ時にくる旧校舎は雰囲気あるな」
「あれ?もしかして怖いのぉ?」
「うるせぇ」
「いてッ」
煽ってくる佐藤を小突きながら進んでいると、いよいよ問題の音楽室に到着した。
「ここか...」
「とりあえず入ってみようぜ」
少し入ることを躊躇している自分とは対照的に、能天気に扉をあける佐藤。
ガラガラッと音を立てて扉がひらかれる。
「本当にあったのか...」
「さすがにここまで手間のかかる嘘はつかないって」
音楽室の中央に、ポツンとすこし埃を被った年代物のグランドピアノが鎮座していた。
「なぁ、さっそく弾いてみてよ」
「ちょっと待てって、とりあえず紙いれなきゃいけないんだろ?」
「そうだった」
そういうと佐藤はグランドピアノの屋根の部分を少し上げると、その中に持ってきていた白紙の紙を滑り込ませた。
「よし、これで準備万端だな。ここからは頼むぜ相棒」
「いつからお前の相棒になったんだよ」
佐藤の軽口に付き合いながらも、早く茶番を終わらせて帰りたかった俺は、演奏用のイスに腰を掛けて音を確かめるために少しだけピアノを鳴らした。
「!?」
「どうした?」
「いや、チューニングが合ってて気持ち悪いと思って」
「えっ......怖いこと言うなよ..」
「俺の方が怖いよ...」
長年放置されているピアノとは思えない音を出すピアノに「もしかしたら噂は本当なのかも」という思考がよぎった。
正直もう弾かずに帰りたかったが、そんなこと佐藤が許すわけもない。俺は仕方なく弾く覚悟を決めた。
「~♪」
弾き始めると、もう何年も弾いてなかったのが嘘のように手が動いた。譜面なんて正直覚えていなかったが身体が次の音を覚えていた。
「へぇー、上手いじゃん..」
佐藤が感嘆の声を漏らすが、弾きながらそれに構えるくらいの余裕はなかった。
不思議なことにピアノを弾いていると、何年も思い出さないようにしていた母さんとの思い出が蘇ってくる。
母さんが死んで以来、何に対してもやる気が出ずに適当に生きてきた。
曲がクライマックスに差し掛かる。
いつもここから速くなる部分でミスをしていた。最後まで母さんには成功した姿を見せることができなかった。
もし、このピアノが、本当に死者からメッセージが届くピアノだったのなら。
きっと死んだ誰かが聞いてくれているということだろ。
もし母さんが聞いていてくれているのなら。
「~~♬~♬」
懸命に指を鍵盤に走らせる。一回でいい。この一回だけでいいから。ノーミスで弾かせてくれ。
誰に願っているのかはわからなかったが、そんなことを思いながらピアノを弾き続けた。
「~~♪!」
やった。
初めて、後半の難所をノーミスで弾き切った。
すこし震えそうになる手を必死に堪えて、最後まで弾き切る。
「~♪……♩」
生まれて初めて、母さんが好きだった曲をノーミスで弾くことができた。胸の奥から喜びが湧き上がってくる。
「すごいな。なにがちゃんと弾けるかどうかわかんないだよ。めっちゃうまかったぜ?」
「……この曲をこんなに弾けたの初めてだよ」
「マジかよ。じゃあこのピアノのおかげかもな」
「そうかも...」
佐藤の軽口を真に受けるくらいには、この曲をノーミスで弾き来ったことに驚いていた。それと同時に、すこし寂しさのようなものも感じていた。
弾けなかった曲を弾き切ったおかげで、母さんとの思い出にも終止符を打ってしまったような気がしたからだ。
「よくがんばったね。上手かったよ」そう言われた気がした。
「よっと、さてと紙はどうかな?」
俺の感傷をよそに佐藤はグランドピアノの屋根を開けて中の紙を取り出した。
「すげぇ!おい見ろよ!本当に書いてあるぜ?......ん?でもなんだこの文章?」
「どうした?」
「いや、なんか死者からのメッセージっていうから、もっと感動的なことでも書かれるのかと思ってたけどよく分かんねぇや。ほれ」
手渡された紙を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「なに笑ってんだよ。気持ちわる!」
「いや、悪い。今回ばかりは佐藤の言ってたことは本当だったなって思って」
「はぁー?どういうことだよ!」
「なんでもない。用事ができたからすぐ帰ろうぜ」
「ちょっ、おい!待てって」
紙を佐藤に返して、俺は音楽室を後にする。
後ろから佐藤の追いかけてくる声がする。
「ちょっと待てって!なんだよ?なんか笑う要素あったか?
『もっと練習しなさい』
って書いてあるだけだろ?」