四月
まだ小学生だった頃、高校生はキラキラした毎日を送る特別な存在だと思っていた。漫画かアニメ、映画の影響のせいかもしれない。
可愛い制服を着た女子高生を見ると、自分もいつかそんな特別な存在になれるのだと根拠もなく思っていた。しかし、そんな純粋な気持ちも受験生になる頃にはいつの間にかなくなっていた。
進学先を決める基準は自分の成績で受かるかどうかという点が一番で、学校に対して何かを期待したこともなかった。
実際に高校生になって何か変わったかと問われると、環境と人間関係が変わったというだけで自分に何か変化があったわけでもない。
それまでと同じように、平凡な人間として学校生活を続けるだけ。
中学までと何が変わったのかといえば制服が少し可愛くなったことと、バイトができるようになったことくらいだろう。
遊ぶ金欲しさに偶然街中で見つけたバイト募集の張り紙に応募し、無事に採用されたのが高校二年になったばかりの四月のこと。
そして桜も散り、新緑が眩しい晴天に恵まれた四月最後の日曜日である今日。窓から差し込む春の穏やかな日差しも遮り、天井まで届くような本棚に囲まれた薄暗くて小さな古本屋で一人、天鬼一藤は店番という名のバイトをしている。
老夫婦が営んでいるこの古本屋は、古書店と呼んだ方がしっくりくるほど小難しい本ばかりが棚に並んでいる。
大通り沿いでもなく、目立った特徴もない店なので当然のように客は来ない。時給は県の最低時給額ピッタリだ。
店主たちが本の買付に行く間の店番が必要ということで雇われたのだが、入手した本たちが果たして売り上げに繋がるのかどうか疑問である。
そんな、いつ潰れてもおかしくなさそうなこの店をバイト先に選んだ理由は楽そうだったからだ。
その考えは決して外れてはいなかった。客は来ない。レジにいるだけでお金がもらえる。実に楽だ。
しかし、想定外のことが一つ。
「ねえ、アマキ。アマキっていうのはどうだろう?」
少し幼さの残る声が、どこか気むずかしそうな口調で言う。
レジカウンターの斜め前、買取待ちの客用に置かれた古ぼけたテーブルセット。その椅子に座る小柄な少女がテーブルに頬杖を突き、右手で持ったペンの先をノートにトントンと当てている。
アマキは苦笑して「それ、ただの名字だし」と答えた。
「名字……。そうか。名字はあだ名にはならない?」
「うん、ならない。いや、名字があだ名っぽく呼ばれてる人もいる気がするけど」
「どっち?」
「じゃあ、ならない」
「ならないのか。んー。だったらもう、アマでいい?」
「却下。なにそれ。なんか色々とアレだよ。いきなり投げやりにならないで」
「むー。アマキのあだ名って難しいな」
そう言いながらペンをノートの上に転がした少女は腕を組んで考え込んだ。
このバイトに就いて想定外だったことは、この一生懸命に人のあだ名を考えている少女だ。
「ところでさ、アマキのフルネームって何だっけ?」
「えー、それをいま聞くの?」
「聞く」
「ヒトフジだよ。天鬼一藤」
「ヒトフジ。なんか――」
「あ、大丈夫。変な名前だってのは自覚してるから」
アマキは片手を上げて少女の言葉を遮った。少女は首を傾げて「そう? 変?」と不思議そうに言う。
「変でしょ。ていうか、名前負けっていうの?」
自分でもあまり好きではない名前を彼女に名乗ったのは、これで二度目だ。
「……まあ、シロってのもかなり変だと思うけど」
アマキは呟きながら、腕組みをして眉間に皺を寄せた少女の姿をぼんやりと眺めた。
彼女が初めてこの店にやってきたのは四月二週目の土曜日。アマキがバイトを初めて二回目の出勤日だった。
「……二回目で一人にされるって、ほんと大丈夫かな。この店」
レジカウンターに座ってぼんやりと呟く。店主夫婦はアマキが開店準備を一人で出来るかどうか見届けてから「じゃ、あとはよろしく」とにこやかな笑顔で出て行った。
出勤二日目の高校生バイトに店のすべてを任せる店主。かなりの度胸の持ち主である。
「まー、初日もお客さんなんて一人も来なかったもんなぁ」
ギシッと椅子の背にもたれながらアマキはスマホを取り出した。客がいない間は何をしていても構わないと言われているので気は楽だ。
開店準備、閉店準備、買取対応等々、すべて店主がマニュアルを作ってくれているので客が来たとしても問題なく対応できそうである。
――本当に店番が欲しかっただけなんだな。
店を休みにするという選択肢はなかったのだろうかとも思うが、きっと店主にも何か理由があるのだろう。そのおかげで、こうして楽なバイトが見つかったわけだし。
アマキはそう自分を納得させ、ありがたくものんびりと勤務時間を過ごすことにした。
勤務時間は午前十時から午後五時まで。休憩は十二時から一時間。その間は店を閉めても構わないと言われているが、こんなにも暇ならば閉める必要もなさそうだ。来るときにパンを買ったので、ここで食べてしまおう。
そんなことを考え始めた十一時三十分。カランッと金属が触れ合う音が店内に響いた。それは入り口のドアにぶら下げたベルの音に違いない。
客が来たのだろうか。アマキはなんとなく緊張しながら背筋を伸ばし、入り口の方へ視線を向ける。
本棚と本棚に挟まれた細い通路から聞こえる靴音。
ガサガサと擦れる紙袋の音。
アマキは接客のマニュアルを手元に開き、来訪者が近づいてくるのを待った。そして現れたのは、手に大きな紙袋を抱えた小柄な少女だった。背丈やその顔立ちから、おそらく中学生くらいだろう。
「……誰?」
少女は幼さの残る声でそう呟くとレジの前で立ち止まり、持っていた紙袋を床に下ろした。そして無造作に垂らした長く艶のある黒髪を邪魔そうに掻き上げると左右に視線を向ける。
「じいじ店主は?」
「……じいじ店主? あ、店長たちなら本の買付で今日と明日は留守にしてます」
アマキが答えると少女は思い出したように「そういえば、そんなこと言ってた気がする」と頷き、そしてアマキを指差した。
「バイト」
「え、あ、はい」
「じいじ店主から聞いてる。アマキ……。アマキ、なんだっけ」
問いながらもまっすぐにアマキのことを見つめてくる少女の薄い茶色の瞳は、まるで何かを見透かすような不思議な雰囲気を纏っていた。
「えーと、一藤ですけど」
「ああ、うん。そうだ。知ってた。アマキヒトフジ」
「あ、店長から名前も聞いてました?」
少女は頷く。しかし、その瞳はじっとアマキを捉えたままだ。不思議な子である。いや、変わっているというべきか。
その容姿はまだ子供だというのに彼女が纏っている雰囲気は子供のようであり、しかしどこか大人びているようにも思える。
店長の知り合いであることは間違いないだろう。こんな、およそ子供には縁もなさそうな店に一体どんな用があってきたのだろう。客、というわけではないだろうとアマキは勝手に判断する。
「えっと、もし店長に御用でしたら伝言をしておきますが。お名前を窺っても?」
こうして見つめ合っていても埒があかない。アマキはカウンターに置かれたメモ用紙を引き寄せた。
「……シロ」
少女はアマキを見つめたまま、そう呟いた。
「ん? シロ?」
「あ、違う。柊」
しまった、という顔を浮かべた彼女は慌てた様子でそう言い直した。
――柊、シロ?
シロがどういう字を書くのかわからないが、随分と変わった名前だ。まるで犬か猫のようである。
変わった名前というのならアマキ自身も同じ。
天鬼という、少し厳つい名字に対して可愛らしい名前をと祖母が考えてくれたらしいが、それがなぜ一藤になったのか。単純だ。祖母が藤の花を好きだったから。そして語呂がよかったから、だそうだ。
きっと彼女も似たような理由でそういう名前をつけられたのだろうと思うと、勝手に親近感が沸いてきた。
アマキは少し気まずそうな表情を浮かべている少女に微笑むと「ご用件は? シロちゃん」と訊ねた。すると彼女は不思議そうに首を傾げる。
いきなり馴れ馴れしかっただろうか。ここはやはり敬語で対応するべきだったかもしれない。瞬発的に沸いてきた親近感に、思わず素が出てしまった。
アマキは「あー、えっと、柊さん?」と言い直してみる。すると少女は「シロ?」と自身を指差した。
「え? あ、うん。あれ、違いました?」
しかし、少女は嬉しそうにニッと笑みを浮かべると首を横に振った。
「シロでいい。アマキ。あと敬語もいらない」
「あ、そう?」
「うん。それから別にじいじ店主に言いたいことはない。これ、持ってきただけ」
言うと彼女は床に置いていた紙袋を持ち上げた。そしてカウンターに乗せようとするが、かなり重いらしく持ち上がらない。アマキは慌ててカウンターから出るとそれを受け取った。
ずしりと重たいその袋の中には分厚い書籍が十冊程度入っていた。
「えーと、これは」
「買い取ってほしい。マサノリに頼まれた」
「マ、マサノリ?」
「うん。マサノリ」
それが誰なのかわからないが、とりあえず買取希望だということは理解できた。アマキは袋の中身をカウンターの上に出しながら「買取査定は店長たちが帰ってきてからじゃないとできないんだけど」とシロを見る。
彼女は勝手知ったる我が家のように、買取待ち用のテーブルまで移動して椅子に腰を下ろしていた。
「知ってる。査定が終わるまで店で本を預かる」
「ああ、うん。預かり証を作るから少し時間を」
「うん、待ってる」
シロはそう言うと眠そうに大きく欠伸をした。どうやらここの買取手順もすでに承知のようだ。
「じゃあ、ちょっと待っててね。すぐ作るから」
言いながらアマキはカウンターに置かれているノートパソコンを開いた。預かり証のテンプレ―トはパソコンに保存されている。ここに必要なことを入力して印刷。それを相手に渡すだけ。
マニュアルに書かれている手順を再確認しながらアマキはパソコンに必要事項を打ち込んでいく。
「ねえ、アマキ」
「んー?」
答えながら視線を向けると、テーブルに突っ伏したシロが顔だけをアマキの方へ向けていた。
「土日はアマキが店番?」
「んー、まあ。そうなるのかな。店長たちがいないときにって感じだから不定期だけど」
アマキは答えながら書籍の裏表紙をめくって発行年月日を探し、パソコンに打ち込んでいく。
「明日は?」
「いるよー。店長たち、一泊二日って言ってたから」
「そっか」
そのとき、静かな店内に低い地響きのような音が鳴り響いた。それは四限の授業中によく聞く音である。しかし、アマキから聞こえたものではない。アマキはフッと笑いながら顔を上げる。
テーブルの上に突っ伏していたシロは身体を起こし、少し恥ずかしそうに腹を押さえていた。
「お腹、減ったの?」
聞くと彼女は頷く。
「もうお昼だしね。わたしもお腹減った」
アマキが笑って言うと、シロは「お昼ご飯……」と呟いた。そしてアマキを見つめてくる。何か言いたそうに。
「……あー、食べる? お昼、一緒に」
「食べる」
待ってましたとばかりにシロは頷く。そして立ち上がると「買ってくる」とカウンターに駆け寄ってきた。
「アマキ、何がいい? わたしが買ってくる」
「いや、わたしは――」
もうパンがあるから。そう言おうと思ったのだが、なんとなくシロの表情を見て言葉を呑み込んだ。彼女はなぜか嬉しそうにアマキの返事を待っていたのだ。まるで初めてお使いに行く子供のようにワクワクしたような表情で。
アマキは息を吐いて微笑むと「コンビニ?」と訊ねた。
「どこでも行く」
「どこでもって……」
アマキは今度は声を出して笑った。そして「コンビニでいいからさ」と財布を取り出して千円札をシロに手渡す。
「パスタがいいな。あと、サラダも一緒に」
「パスタとサラダ。うん、わかった。種類は?」
「なんでもいいよ。シロが選んで」
「わたしが……。うん、よし。わかった」
シロはなぜか神妙な面持ちで頷くと「行ってくる」と店から出て行った。
「なんだろな、あの反応は。ちょっと面白いかも」
アマキは笑みを浮かべながら彼女が出て行った通路を見つめる。そして彼女が戻ってくる前に預かり証の作成を終えてしまおうと、再びデータの打ち込みを始めた。
シロはその翌日も店へとやってきた。ただし、今度は買取商品も何も持たずに。そしてテーブルに着いて何をするでもなく当たり障りのない会話をしたり、うたた寝をしたりして帰って行った。
そして翌週の土日も同じようにやってきては、ダラダラと過ごして帰って行った。店主夫婦に聞いたところによると、彼女は常連客の娘さんなのだという。
アマキがバイトに入る前からたまにやってきては、お喋りなどをして帰って行くことがあったらしい。だが、こうも毎週やってくることは珍しいとのことだった。
「天鬼さん、気に入られたのかもしれないね」
「そうねぇ。ちょっと変わった子だけど、良い子だから仲良くしてあげてね」
店主夫婦はそう言うと和やかに笑った。
そして四月最後の日曜日。当たり前のように開店直後にやってきたシロは、やはり当たり前のようにテーブルに着いた。だが今日はいつもとは違い、リュックからノートを取り出してテーブルに広げていた。
「なに、学校の宿題?」
珍しいシロの行動に、そう声をかけると彼女は「違う」と短く答えた。そして筆箱から出したペンの先をアマキへと向ける。
「今日はアマキのあだ名を考えることにした」
「……なんで?」
「だって、アマキがあだ名で呼ぶから」
意味がよく分からず、アマキは首を傾げる。しかしシロは構わず「だから考えることにした」とアマキのことを見つめてきた。
「まあ、いいけど」
アマキは微笑むとカウンターに頬杖をついて「で?」と訊ねた。
「どういうあだ名をつけてくれるんですか? シロさん」
「あだ名の付け方を今から調べるから、ちょっと待って」
彼女はそう言うとスマホを取り出して何やら調べ始める。
「えー、なにそれ」
アマキは苦笑しながらも彼女の行動を見守った。
それが今日の午前の出来事だ。昼食を終えてもなお、アマキのあだ名は決まっていない。
「アマキのあだ名か……。んー、アマキヒトフジ」
「わたしが学校でなんて呼ばれてるか聞いとく?」
「いや、聞いとかない。わたしはわたしが考えたあだ名でアマキを呼ぶ」
腕を組んで悩むシロを眺めながらアマキは思う。
もしかして、このバイトの本当の仕事内容はシロの話し相手なのではないか、と。
こんなにあだ名を真剣に悩むということは、きっと今までそういう機会がなかったからなのだろう。休みのたびにこの店へ来るのも、きっと親しい友人がいないから。
――ま、それはわたしも似たようなもんかな。
心の中で思ってアマキは苦笑する。そのとき、シロが「ねえ、アマキ」とスマホを見ながら口を開いた。
「あだ名ってさ、愛称と一緒?」
「え、うん。そうなんじゃない?」
「愛称って、特に親しみを込めて対象を呼ぶための名前なんだって」
「へえ」
「特に親しみを込めてって、つまり友達ってこと?」
シロの薄い瞳がアマキへと向けられる。アマキは「まあ、そういうことじゃない?」と頷いた。
「じゃあ、わたしのことをあだ名で呼ぶアマキはわたしの友達?」
「友達……?」
アマキは首を傾げる。友達、という関係ではないのかもしれない。だって、アマキが彼女のことについて知っているのは名前だけだ。
柊シロ。けれど、そのシロという名もどうやら本名ではないようだ。彼女自身がそれをあだ名だと受け取っているのだから。
「違う?」
シロもまた首を傾げる。アマキはシロを見つめ、そして困りながら笑みを浮かべた。
「んー。わたしとシロは、どういう関係なんだろうね?」
わからない。
だって、まだシロのことを何も知らないのだから。