序章 エデンへ〈後〉
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ついに、エデンへと辿り着いたのだ。
洞窟を抜けた先には開けた安全な土地が用意されていて、そこはまるで山の頂のような場所で、ここがネトエル山の山頂だと言われても異論はない。ショウが怖いもの見たさで崖際から下を覗いたが、坂道の始まりとなる地点は遠くかすんで見えなかった。これ程の高さを自分たちはどうやって登ったのか、それも一時間と経過せずに。道中が奇々怪々かつ摩訶不思議すぎて、何が起こったのかと説明できる者は誰もいなかった。
「あの門の先がエデンの町なのか。誰か立っているぞ」
「あれは門番だ。や、武器のような物を持っていないか。平和の町じゃないのか」
夢物語だった目的地が目の前に現れて、みんな口々に思ったことを喋った。本当なら諸手を挙げながら町へ駆け込みたいところだろうが、この戦闘部隊は警戒すべき時に怠らない。誰よりも早く立ち上がったエドワードが数歩だけ門へ近付き、それを見ていた者たちは少しずつ立ち上がって彼の後ろに控えた。何とか息を整えたカズハはゆっくり歩き、エドワードの真横まで移動して止まった。
「どう、エドワード」
「私の意見は同じままだ。あそこがエデンだろうか違っていようが、この山に人が住んでいるのなら接触するべきだ。何よりこちらには野宿をする余力もない」
「その一言一句に同意だわ」
カズハはそう言いきって、自らの荷物を背負い直すと仲間たちを振り返った。休憩はこの場ではなく町の中で行うと言いたいのだ。その意を汲んで男たちの目は輝きを取り戻し、一度は休めかけた体に鞭打って立ち上がった。彼らが目指すべきは慢心に満ちた兎ではなく、のろまだが頑張る亀でもなく、決して歩みを止めない脱兎だ。
カズハとエドワードが並んで先頭を歩き、門までの一本道を進んでいった。門の傍には二人の男がいた。どちらとも不自然な髪型をしている。近付いてようやくわかったが、二人が持っていたのは木製の槍だった。しかも先端は丸みを帯びてしまっている。その物体に戦闘力はほとんどない。せいぜい相手の頭を殴ってたんこぶを作るくらいなものだ。何かの冗談のつもりなのか、やけにのんびりした者たちだ。
「おや、どなたでしょう。やや、もしや旅をしてこられたのですか?」
お互いの顔が見える距離まで近付くと、門番の男の一人が尋ねてきた。木製とはいえ、槍を持っているというのに構える素振りも見せない。もう一方の男に関しては槍を持つのを忘れたまま歩み寄ってきた。そして二人とも白いレースのような美しい着物を身に付けている。エデンから来た男が着ていたものと同じ服装だ。決定打を得たカズハは、もう何も臆さずに単刀直入に話をすることにした。
「あの、もしかしてここはエデンという名の町ではないでしょうか」
「ええ、その通りですよ。あなた達は?」
一同は思わず息をのんだ。本当に平和の町・エデンへと辿り着くことが出来たのだ。
「ああ、申し遅れました。私たちはこのネトエル山の東の国、カザーニィという場所から来た者です。私はカズハと申します。こちらは山の南の麓のエイ国で兵士長を務めるエドワード、そして彼らは甲冑の国の方たちです。他の者たちはカザーニィの戦闘部隊の隊員たちになります」
「おお、これはこれは、山を登ってこられたのですね。カズハさんにエドワードさんにその他の方々、ようこそいらっしゃいました。長旅ご苦労様です」
槍を持った方の男は腰から深々と頭を下げた。隣の男も同じような動作をする。この山の過酷さとのギャップが大きすぎて、逆に不安な感情すら湧いてくる程に穏やかだ。エドワードは兵士長としての警戒心が隠し切れない程に高まり、カズハの前に身を乗り出すようにして話し始めた。
「私たちは二つの目的があってここまで旅をしてきました。一つは、この町から下りてきたという男性が、何者かに襲われてカザーニィにて命を落としてしまったのです。彼は最期に妹さんへの遺言をカズハたちに託しました。それを伝える為に来たのです。もう一つはその男性がここを平和の町だと言ったことによります。聞けばこの町は争いとは無縁だという。私たちはその平和の秘訣を知りたい」
エドワードの堂々とした口振りと、その鋭い眼光に門番の二人は少し恐ろしそうな表情を見せた。と同時に町の仲間の訃報を聞いたことで、厳粛な様子で顔を見合わせた。
「お兄さんがというと、エレナさんだろうか……。これはまたお気の毒なことに」
「すぐに伝えてあげなければな。では、そういうことでしたら皆さん、どうぞ町の中へお入りください。もしも武器をお持ちなようでしたらそこら辺に捨てていってくださいな。この崖の方から落とせば誰かが拾って怪我をする事もないですよ」
門番の男はごく当たり前のようにそう言って崖を指差した。あまりにも抑揚を付けずに自然と喋ったので、カズハたちは聞き逃したかのように身動きが取れなかった。
「あの、今、何と仰いました?ええと、私たちが武器を捨てるのですか?この崖の下に?」
「ええ、そうですよ。武器なんて持ってたら危ないじゃないですか。子どもが誤って怪我をしてしまう恐れもありますし。別に崖から落とさなくてもその辺に置いといてもらえたら構いませんよ。帰り道に必要だというならそうした方がいいかもしれませんが、そんな物騒な物は持たない方が身の為です。この町には武器などございませんから、ほら見てください。この槍だっておもちゃです。門番はあまりに暇なので私たちで作ったのです。書物に記されていたものを再現しました。どうですか出来の方は」
門番の男は世間話をしているつもりで槍をカズハに見せてきた。一方の旅人たちはどうすれば良いのかわからずに棒立ちになっている。カズハは何とか平静を装いながら、仲間たちとの話し合いの時間をもらった。
「どういうつもりかしら。本当に争いがない平和の町だというのなら、確かに武器なんてお断りかもしれないけど」
「罠、ですかね。ここまで来て今さらかもしれませんが、国に入った途端に捕まることだってあり得る」
「そんなの、本当に今さらですよ。僕たちは平和の秘訣を知りに来たんでしょう?だったらここが平和の町だと考えて行動するしかないじゃありませんか」
「二手に分かれたらどうだ。最初の組が入っていって、一通り町を見て回ってからもう一組が入るとか」
「それはあまりにも失礼じゃないかしら。ユウタの言う通り、もう腹をくくるしかないわ。もしもの時でも、私たちなら武器に頼らずに戦えるわよ。それこそ何があるかわからないから、言われた通りに武器は捨てていく。帰りにまた作らせてもらいましょう。平和の秘訣を知ったら、私たちも武器を持てなくなったりしてね」
カザーニィの戦闘部隊はカズハの言葉で一致して、別れを惜しみながらも、長年使った短剣や弓を崖から落としていった。甲冑の二人は嫌がるような素振りを見せたが、早く町の中に入って休みたいとでも思ったのか、比較的すぐに決断を受け入れて太刀を崖から放り投げた。残るはエドワード一人だった。
「どうかしら、エドワード。ここは言うことを受け入れるべきだと思うの。その剣をここに置いていってくれない?」
カズハはほとんど形式的に、断られることはないお願いをする気持ちでそう言った。いつも通り二つ返事で済む、上役への義務的な確認といった感覚だった。
しかし、その会話には不適当な長さの沈黙が生まれた。エドワードを見ると曇った表情をしている。カズハは思わず眉を寄せ、もう一度声をかけようと口を開きかけた。
「……すまない、カズハ。それだけは出来ない」
そう呟くように言って、エドワードは初めて見せるような後ろめたい顔を作り、カズハの意見に逆らうように目を伏せた。あれ程に頼りがいがあって賢い彼が、まさか断るとは誰も思いもしなかった。
「……あ、ええと、どうしたのエドワード。なぜ?武器を持ったままじゃエデンの中に入れてもらえないわ」
「すまない、本当に申し訳ない。この剣は、私がエイ国の兵士長であることの証であり、一度でも兵士になった男の誇りなのだ。私が兵士長として国を護る間は、命尽きるまで手放してはならない。それにこの身は君を守る為に捧げるとも誓った。武器も持たずに君の横にいても、きっと私は君のことを守り切れない」
「でも、今から私たちが入る町は争いのない場所なのよ。そりゃあ、人間が平和でも命の危険に曝されることはいっぱいあるでしょうけど、そんな時には武器なんて役に立たないわ。あなたの剣に対する想いを軽んじている訳ではないけど、ここから先は武器を持って進む場所じゃない。私たちは平和の為に旅をしてきたわ。ここで武器を置けるようじゃなければ、どのみち平和なんて無理難題な話よ」
「だから、すまないと言っているだろう!道具として必要かどうかなんてことを言ってるんじゃない、この剣は私そのものなんだ。こんな所に置いていくなんて、そんなことが出来る訳ないじゃないか!」
エドワードはまるで別人かのように口調を乱し、珍しく声を荒げた。普段の毅然とした紳士らしい態度はどこにもない。その様子だけでも、彼がどれほど追い詰められているのかがよくわかる。
「私は生まれ育ちをずっと兵士としてやってきたのだ。今ここで剣を捨てたら、私は私ではなくなってしまう。私は兵士として生き、兵士は剣と共に生きるのだ。なにも、この剣を使って誰かを脅かそうとしている訳でもないのに、わざわざ捨てていくことなどないだろう?……そうだ、私はエイ国兵士長だ。私が今ここで武器を捨ててしまえば、我が祖国は私を受け入れてはくれないだろうな。剣を捨てた兵士長になど価値はないのだから!」
彼は今まで以上に必死だった。自分に忠義を尽くして生きてきた結果、同じくらいに大事な二つのものを天秤にかけても、その重きを測りかねているのだろう。彼自身も辛いことだし、一生懸命に物事に向かい合っているのは間違いない。しかし、そうすればより良い選択を出来るかと言えば、必ずしもそうではないというところが苦しいのだ。
想定外の展開に、カズハは正直なところ困っていた。彼女も幾つかの戦場に赴いてきたからこそわかるのだが、男たちの武器にかける想いは特に強い。カザーニィの隊員たちがここまで軽やかに武器を捨てられたのは、彼らにとってより大事だと思うものがあるからだろう。もしも最も大事なものが兵士としての剣であった場合、彼女にエドワードを動かすことは不可能なようにも思えた。
カズハは旅を諦める選択肢を持ち合わせていない。相手よりも強い意志で臨むのであれば、心は揺さぶれるように出来ているというのが、カズハの人生経験上で得た哲学の一つだ。しかし、今のエドワードよりも強い意志を示すには、何をどうすればいいのだろう?兵士長を担う者として、彼の意志はかつてない程に強く、重い。
カズハが唇を噛み締め、一筋の汗と共に思索を続ける間、人々の間に流れる空気は静かで不穏だった。
カザーニィの隊員たちもこの展開をどうにかしようと口を開きかけてはいるが、カズハが説得できない程の相手に何を言えば良いというのか、わからないでいる。甲冑の二人はむしろ、武器を捨てなくても何とかなりそうだぞ、ちぇっ、俺たちももう少し慎重な態度を取れば良かったなぁ、とでも思っているらしい。彼らの国は慢性的に貧しく、国から支給された物資が一度でも自らの手を離れてしまったなら、それはもう二度と手元には戻ってこないと考えるのが当たり前になっている。
誰も動かず、沈黙が北風のように吹き曝していっても、カズハは口を開けず、エドワードもただ、握りしめた剣の柄を離せない。彼はカズハや旅の仲間たちの姿を見ていた。最悪の場合、ここでみんなと決別してしまわなければならないのかと危惧し、息を浅くして覚悟を決める準備をする。
エドワードがカズハを見て、他の仲間たちに目をやり、次に目線を移した先には、平和の町の門番の二人がいた。二人はよく見なければわからない程度に、無知的な恐怖の表情を浮かべていた。何をどうしたらいいのかわからない子どもの上目遣いのような視線は、この場でエドワードだけが持つ本物の武器——鋭利さと重厚感、死の気配がする剣——に注がれている。
その視線と表情に気付いた時、エドワードは自らの身体の一部のように大事にしてきたものが、敵でも何でもない他人を怯えさせてしまうものであることを知った。容易に人を傷つけ得る道具であることなんて、最初に剣を手に取る際に口うるさく教え込まれたことだが、随分と長いこと国を守る為にしか扱ってこなかったせいで、彼自身も気付かない内に剣を美化しすぎて忘れてしまっていたのかもしれない。
自分が武器を手放さないことは、平和の町の住人たちにとっての恐怖に繋がる。しかしこの剣には、エイ国の人々の希望と誇りと、エドワードの人生の一部が詰まっている。ここで剣を捨てられない自分は、平和の秘訣の為にはそぐわない人間なのだろうか?エイ国の王や国民たちが頼りとしてくれた、兵士長としての自分は、この剣と一緒にここで捨て去るべきなのだろうか。しかし、そんなこと……。
エドワードは視線を自らの剣に向けて、そこで動かなくなった。その目の映るものには、およそ兵士長には似つかわしくない、年相応の迷いと不安と恐怖があった。カズハはその感情たちを決して見逃さない。どのように声をかけようと考えるよりも前に、彼女の身体は動いてエドワードの手を握った。彼の手が剣の柄を握る上から、優しく包み、その温度を分け与えるように。
「ねえ、エド。あなたはずっとそうなのだわ。強すぎる責任感で何もかもを背負おうとしてしまって、恐怖と不安も一緒に抱え込んでしまう。初めて会った時にも感じた。あなたは強くあろうと考えすぎなのよ」
カズハはエドワードの目を、深くまっすぐ、そして奥の奥の方まで覗いた。とても力強い視線だ。エドワードは思わず見つめ返してしまうことになる。カズハの目の光にはそれだけの力がある。
「ずっと昔から兵士として育って、こんな早くに兵士長を務めるからこそ、あなたはどこまでも強くなろうとしてしまう。でもそれは、一人の人間が背負える重さじゃない。わかるの、私だって似たようなものだもの。そのうえ女だからって気を遣われ続けてきたから、あなたと違って他人への警戒心だけは薄くなっていったわ。みんな優しいもの。そして大らかで、人は困る時は困るように出来てるのだからって、考え過ぎや悩み過ぎるのが問題だってことはすぐに教えてくれた。あなたは充分にいろんなものを背負って、考えて、悩んできた。この剣と一緒に、いろんなものを抱え込んできた」
するとカズハは、エドワードの剣を彼の腰の鞘から静かに引き抜いた。切先を地面に向けて、両手を使いへその辺りで構える。そうしていると、エイ国の文化が反映された剣は、まるで美しい調度品かのような輝きを放っている。
「ねえ、エドワード。平和の秘訣って何かしら」
カズハは無邪気な目で問いかけた。エドワードは力無く、すぐに目を伏せた。
「……私にはわからない。その答えを知る為に、ここまで旅をしてきている」
「そうね。その通りよ」
そう言うとカズハは、道のすぐ横の草地へ、エドワードの剣を勢いよく突き刺した。これまでに多くの難局を切り抜けてきた剣は、垂直に深々と地面へ突き刺さった。
「あなたの言う兵士としての誇りって、この剣で誰かを斬り付けることを言うの?いいえ、そんなことじゃないはずよ。エイ国の兵士長に与えられた、この剣の存在そのものが大事なの。この先の町では剣を鞘から抜くことはない。それなのに剣を持ち歩いて、エデンの人々に恐怖感を与えてしまうのなら、それこそ名誉や誇りが汚されてしまうだけよ。私たちは武器がなくても自分たちを守れるだけの強さを持っている。そして、あなたも武器を取らずに平和の秘訣を探す。この剣は標よ。私たち旅人がこの町にいて、武器を置いて話し合っているという、一つの平和を表す標。そしてエイ国の栄誉と誇りを、ここに示す為の標。そうでしょ、エド」
カズハはカザーニィの〝戦乙女〟としてではなく、一人の温かき少女として、エドワードに優しく近付いた。エドワードはカズハの青い瞳と、地面に突き刺さった剣を見つめ、そしてゆっくりと屈むように目を伏せた。少女の言葉は今まさに、若き青年へと浸透している最中だ。
雲が流れ、鳥が鳴き、青年の為の沈黙が生まれた。先程の静けさとは違って、まるで春のそよ風に耳を澄ます為かのような静寂だ。カズハは音を立てないようにそっとエドワードの腰から鞘を取り、地面に突き刺した剣の前に置いた。エイ国の公園広場にある彫像のような、晴々しく画になる風景が生まれた。
「カズハ」
「ん?」
「……ありがとう」
その言葉を聞いたカズハは満足したように頷いて、エドワードに平和的な抱擁をした。青年は咄嗟に顔を赤らめながらも、母親のような少女の温もりに応じた。カザーニィの面々は感慨深そうに笑っている。特にダンゴは両目に涙を浮かべていた。一連の様子を眺めていたエデンの門番たちは、そろそろいいかと二人に話し掛けようとしたが、カザーニィのおじさん達によって引き留められた。そしてそれからちょっとの間、旅の疲れを忘れるように人々は余韻に浸っていた。
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長い旅を続けた先で、カズハたちはエデンの町へと足を踏み入れた。
武器を捨てて門を抜けると、カザーニィとほぼ変わらないくらいの大きさの町に、石造りの建物がちらほらと並んでいた。町の気候は寒くもなく暑すぎることもなく、時折り爽やかな風が吹いては、街ゆく人の髪を揺らしている。人々はみんな同じ白いレースの着物を身に付け、子どもから老人までが同じ格好で出歩き、誰もが同様に穏やかに微笑んでいる。小さな子どもくらいが無邪気に声を上げて駆け回っていたが、大人たちを見ていると彼らも遠くない将来は同じように微笑みだすのかもしれない。頭上には視界を遮る影が存在しない為に青空が広々と見えた。崖を登る前には夜になりかけていたのに、時間を尋ねると昼の十二時だと言う。「何だか、夢みたいな場所だ」とエドワードは小さく呟いた。
一行は町長の元へと案内されることになった。門番の男が言うには、外からの旅人が訪れたのは生まれて初めてらしい。門と門番の存在は何の為に必要なのかわからなかったが、こういう時の為なのかと今日を持って理解したと言う。
「武器は持ち込ませてはならないと言われていましたが、武器とはどういうものなのか知らなかったのです。そこで書物を読んでいろいろと学びましたら、あなた達が似たような物をお持ちだったのですぐにわかりましたよ。あんな危ない物を本当に所持しておられるとは。私たちとは住む世界が違うようですね。まあ、それも今日を境に変わるかもしれません。争いなんてなくても人は生きていけるのですよ」
男の語気はのんびりとしていた。彼に限ったことではないが、この町の人々はみんな隙だらけで欠伸が出そうになる。カズハたちの姿を見て驚いたり珍しがったりもしていたが、誰もが少し経てば穏やかに微笑んで歓迎の言葉をかけてくれた。
やがて一行は赤い煉瓦が目立つ喫茶店の前で歩みを止めた。門番の男によるとここに町長が住んでいるらしい。カズハはてっきり町で一番大きな建物を想像していたので、街の一部に紛れたような喫茶店には少々面食らった。町や村や国と呼び名が変わろうとも、この時代のコミュニティは大小にさほどの差がなく、それはコミュニティの長にも共通して言えるはずだった。この町は他と比べると何もかもが異質である。しかしその分、争いのない平和の町というのが真実味を増してくるようでもある。
「いらっしゃい」
門番の男を先頭に店の扉をくぐると、白髪に丸眼鏡の老人が声を掛けた。読んでいた本を置き、客を迎え入れる為にカウンターから出てきてくれる。他には人の姿がなく、この男性が喫茶店の店員兼マスターであるらしく、そしてエデンの町長だった。
「おや、珍しい人たちが来ましたね。エースさん、お客さんですか」
門番の男はエースという名前を呼ばれ、肯定の意味の返事をした。町長は嬉しそうに二回ほど頷くと、カズハたちの疲れを慮って店の椅子をすすめてくれた。いくら足がくたくたであろうとも、カズハは先に自己紹介と旅の目的などを述べ、町長が一通りの事情を理解してくれたところでようやく腰を下ろした。カズハ、ダンゴ、エドワードがカウンターの席に座り、残りは皆テーブル席に着いた。町長はカウンターの中の自分の椅子に戻った。
「私の名前はオオサワです。この町に一番長く住んでいるので町長をやっています。みんなからはこの店の店長としてマスターと呼ばれていますが、どう呼んでもらっても構いません。それより、あなた方のカザーニィで亡くなったというその男性、二週間ほど前にいなくなったタクマというこの町の人間に違いありません。後で弔いの儀が執り行われるでしょうから、よければ参加してあげてください」
すると町長は忘れてたと言うようにコーヒーの準備を始めた。一人で十六人分ものコーヒーを用意するのは骨が折れるだろうと何人かが手伝おうとしたが、店の裏の方に店員が隠れていたらしく、まだ幼い男の子が出てきて準備に加わった。門番のエースもその場に残ってコーヒーを運んでくれた。男の子の名前はネズと言い、名前の通りねずみ色の髪の毛が特徴的だった。一同に歓迎の一杯が用意され、カズハは代表してお礼を述べた。
「ありがとうございます、マスター」
「いえいえ、当然のもてなしです。それでは私は町の皆さんにあなた達のことを伝えにいきましょう。タクマさんの弔いが終われば、そのまま町人総出で歓迎の会を始めます。私たちの町は外と比べると厳かで質素ですが、相応の心を持ってお迎えさせていただくつもりですので、どうか楽しみにしていてください。つもるお話はその後にいたしましょう。では」
そう言うと町長は後片付けなどをネズに託し、町の人々へ話をしに店を出ていった。門番のエースも後に続いて外へ行き、残ったネズは店の裏側へと下がっていった。どこの誰とも知らない旅人たちに対しては不用心だし、少しばかり素っ気ないような印象もある。カザーニィ随一の大酒飲み・ヒロキは、エイ国の時の宴のような歓迎を受けられると思っていたのか、物足りないような様子でコーヒーを一気に呷った。
「何だか、平和の町と言うだけあって、平和すぎて静かな感じっすな。歓迎の会も厳かで質素だと言ってやしたが、酒の一口くらいは飲ませてもらいたいもんだ」
「まあ、落ち着いていていいじゃない。私は好きよ、こういうの。それよりみんなは疲れてる?気のせいかもしれないけど、あれだけ山を駆け巡った割には全然きつくないの」
カズハは仲間たちに聞くと、言われてみればと誰もが己の身体の様子に気付いたようである。広大で難解な山をこれだけ登った割には、洞窟内で最後に走った時くらいの疲労しか感じられなかった。この土地、ないしは崖に近付いた時から常識外の出来事ばかりである。もしかして気付かぬ内に天国まで来てしまったのではないかと言ってダンゴはみんなを笑わせた。
しばらく喫茶店の中で休憩していると町長が戻ってきた。
彼は町のみんなにカズハたちのことを伝えてきたと言い、一時間もすればタクマの弔いの儀が始まるとのことだった。それまでに旅人たちは寝泊りする場所を用意してもらい、門番のエースが今日は門を閉めて街を案内してくれることになった。
エデンの町はネトエル山の木々に囲まれ、崖の上の平地に作られた集落だった。地面は舗装されておらず、その点はカザーニィと造りが同じで、煉瓦を重ねて作られた民家や町を囲む柵がないところはカザーニィと違っていた。
そして人々はみんな同じ例の服を着ていた。エース曰く、服装が人によって違う理由がわからないという。着心地が悪い訳でもないし、顔が違えば個人の判別も付くのだから、みんな同じ服装で結構じゃないかという意見だ。カズハたちも祖国では大体同じようなものだから特別な異論はなかったが、エドワードや甲冑の二人はもう少し個人的なお洒落が欲しいと言った。パーティーなどにもこだわりを持つ紳士である以上、服装から人の心持ちは変わるとエドワードは主張する。カズハも王妃様から借りたドレスを着ていれば誰にも〝戦乙女〟だなんて思われないだろうと、好意を寄せる女性への賛辞もさりげなく口にした。まあ、お洒落ならそれだって楽しくていいじゃないかと、カザーニィの面々は落としどころを見つけた。
案内される中で一同が最も驚いたのは、この町には貨幣制度が存在しないということだった。物資の数や質を管理する為にそれぞれがお店という形を取ってはいるが、果物屋だって八百屋だって勝手に品物を持っていって良いらしい。必要以上の物は必要ないのだから持っていかないし、持っている者が持たざる者に分け与えていれば平等に暮らせるではないかと、エースは貨幣という存在の無意味さを口にした。ネトエル山の下に広がる地域では、国王会議の取り決めで共通の通貨を用いる事とし、カザーニィでもエイ国含む四大国でも、甲冑の国やもっと遠くの国だろうとも、同じ貨幣を使って物資を交換する。外交を行わない町でも、その中では貨幣が必要だろうと考えていたことをカズハが口にすると、そんなことをすれば持つ者と持たざる者が生まれてしまうではないかとエースは不思議そうであった。やはり平和の町というのは伊達ではない。欲をかく者などは存在しない前提でシステムが成り立っているようだ。
話を深堀りしてみると、ここでは平等を実現させられるくらいには物資が豊富に存在するらしかった。水は町の外れにある泉に溢れるほど湧いて出るし、主食が木の実や草類なのでこの森では安定して食料が手に入る。落ちている木の枝や枯葉を集めれば暖も取れるし、気候は一年を通して温暖で理想的だ。エドワードやダンゴは、平和の秘訣は恵まれ過ぎた土地の環境にあるのではないかと、僅かな懸念を抱えることを余儀なくされた。
それとはまた別に特別な感情を抱いた者もいた。甲冑の二人である。
彼らの祖国は国王による強い統治でなんとか形を成しており、かなりの数の国民と悲痛なくらいに恵まれない土地は、強欲だが確かな手腕を持った国王に頼る他に生きることを許してはくれなかった。自分たちだってこんな場所に生まれていれば平和に笑って過ごせただろうし、頭領だって殺されることにもならなかったはずだ。二人は強い劣等感が己の内に生ずるのをはっきりと感じ取った。
「あれ、あの二人はどこ行った」
エースによる案内も一通り終わってしまい、そろそろ弔いの会場へと足を運ぼうと話していた時に、ユスケは甲冑の二人の姿が見えないことに気が付いた。一同は近場を見渡して二人の姿を探ったが、そうそう近くにはいないようだった。エデンの町の穏やかな雰囲気は旅人たちの緊張をすっかり緩ませており、歓迎の会までには戻ってくるだろう、考えてみればあの二人にはタクマの死を弔う責務はないのだし、と納得することになった。
その一方、甲冑の二人組は市場へと向かっていた。彼らは努力もなしに恵まれたエデンの人々の様子がどうしても気に入らなかった。食べ物も水も好きなだけ持っていって良いというのなら、抱えられるだけ取って祖国へ持ち帰ってやろうと画策したのだ。いや、抱えられるだけではまだ足りない。籠でも担架でも何でも使って、国の者どもが少しは安らげるくらいに、市場にある物の全てを運び出してやりたい。とはいえ、これだけ登るのが難儀だった山を、大量の物資を運んで下山できるはずもなかったのだが、二人はそんなことも考えておらず、言わば魔がさしたという状態だ。劣等感が運んでくる嫉妬と、怒りにも近い自らの不遇さへの反逆心は、時に感情的に人を悪しき行動までへと導く。
二人の作戦はこうだった。まずは一人が不注意を装って市場の棚を崩す。これは申し訳ない、汚してしまった食べ物をみんなに食べさせる訳にはいかないし、旅の疲れで腹も減っているから、悪いが自分にこれらを引き取らせてくれないか、これだけで数日は我慢するから、というようなことを言って落とした分だけを貰う。その騒ぎの内にもう一人がこっそりと市場の食料を確保し、二人合わせてほとんどの物資を手に入れるというのだ。
実際のところ二人は常に空腹だった。旅の疲れがあろうがなかろうが、生まれた時から腹いっぱいに飯を食ったことはない。市場には肉や酒がないことが唯一の不満だったが、この際もう何でもいい。さっさと奪ってこことはおさらばだ、ということで作戦はすぐに実行された。
一人が市場の棚を崩すというのは、思いの外うまくいった。この町の中では二人の格好は非常に目立つ。悪意のない態度で騒ぎを起こせば、エデンの人々はすぐに駆け付けて優しくしてくれた。男の主張することに疑いもなく同意してくれ、食料をまとめる為の袋や籠まで用意してくれた。
そして重要なのがもう一人の方だった。甲冑を脱いで下着一枚になり姿勢を低くし、人々の目が届かない場所を選んでは食料と水を取れるだけ盗った。仲間が起こした騒ぎが治まりそうな気配を常に気にしながら、ここらが潮時と思うと最後の木の実を手に取ろうとした。その時だった。
「あら、あなた。どうしたのですか、服も着ないで。こんなに食べ物たくさん抱えて」
男の背後から初老の女性が声を掛けた。男は飛び上がりそうなくらいに驚き、手に取った木の実を元の場所に戻して必死に言い訳を考えた。あわよくば隙を付いて仲間と逃げ出そうと思い、心配する女性もそっちのけで目を泳がせていると、女性は慈愛に満ちた眼差しを男に向けた。
「まあ、長旅で疲れ切っているのですね。きっとそうよ。そんなに慌てて持っていかなくていいから、私の家で腰を落ち着かせながら好きなだけ食べてください。満足するまで料理を出しますわ。それに、その格好じゃ気持ち悪いでしょう。外を歩くにはちょっとはしたないし、私の着物の予備をあげるからそれを着てください。ほら、こっちに来て」
己の行為を咎められやしないかと焦っていた男は、服もあげるし料理も出すぞと言う女性を前に拍子抜けして固まった。仲間を呼ぼうか逃げようか、何をどうすれば良いのかわからなくておろおろしている内に、男は女性に手を引っ張られて家まで連れて行かれてしまった。仲間は男の姿を探して町を走り回ったが、当分の間は二人が出会って悪しきことを考えることも叶わなかった。
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エデンの町の片隅に、森の木々を背に負う形で、古く朽ち果てた寺院がある。この町では唯一の木造りの建物で、永い時間を過ごしている為にあちこちが腐り、蔦は全体を縛るように絡み、内部は意味をなさない程に荒れ果てていた。エデンの人々には宗教や信仰といった文化はないが、この寺院は核大戦が始まるよりもずっと昔からこの土地に存在し、町民たちの間では死者を弔う祭壇として用いられていた。
寺院の足元には無数の石の板が埋められており、その一つ一つには故人の名前が刻まれている。石板は墓標であり、土は生命の出入り口である。そして今から、一人の男の名前が新しく刻まれる。
エデンの町民は一人残らず全員がこの場に集まっており、誰一人として違わないような厳粛な表情を浮かべて並んでいた。四百人近くも集まると、その様子はまるで一つの大いなる意志によって動く傀儡たちのようでもあり、神が地上に使わした大量の天使たちのようでもある。
人々は示し合わせたかのように黙って手を繋ぎ、白いレースの着物はこの時間だけの純白の喪服となる。カザーニィからの旅人たちもその姿に倣い、お互いの手を強く繋ぎ合った。町長は町人たちの意志を代表する為に言葉を連ね、その隣では故人の妹であるエレナという女性が、涙は流さずに哀しみだけを憂いていた。
カズハは遺跡の寺院や数多の墓標を眺め、この町の歴史と人々の暮らしてきた痕跡を思い知り、ようやくエデンという町に現実味と親近感が湧いてくるようだった。夢みたいに無垢で平和的な人々だが、彼らが住み着く前にはここも核大戦の一部となり、それよりずっと前には別な人々が暮らしていたはずだ。どれだけ平和で美しい町だって、あの大戦では一面が焦土と化し、そこから今の形を得るまで歩み続けてきた。平和の為にはどんな困難が付いていようとも、希望を絶やさなければいつかきっと実現できる。そう強く信じられる。
町長の締めくくりの一言を持って、タクマの魂は鎮められた。事故や病気が原因でなく、人によって殺されるというのはさぞ苦しいことだろうと、そこら中でエデンの人々が口にし合っていた。町に住む全ての人が一人ずつタクマの墓に手を合わせにいき、旅人たちも最期の見届け人として冥福を祈った。しかしカズハの役割はそれだけで終わりではなかった。タクマの墓の傍らでじっと見守り続けるエレナの元へ、兄から妹への最後のメッセージを伝えなければいけない。
近くまで行って彼女の顔をよく見るが、ひんやりとしていそうな白い肌に特徴的な厚い唇がよく映えていた。二週間ほど前にはその唇で兄におやすみのキスをしたのかもしれない。きっとそれは兄にとっては宝物のような存在で、まさか見ず知らずの人間にその幸福を奪われるとは夢にも思わなかっただろう……。
と、カズハは必要以上の想像を膨らまして、自分の寂しさを助長させてしまっていることに気が付いた。実際のエレナという女性は、カズハが思うよりは事態を受け入れているようだった。兄がいなくなって二週間という時間がそうさせたのかもしれない。
「あなたが妹さんですね。私はカズハ。お兄さんの最期の言葉を伝えにここまで来ました」
「あ……!その、兄は何と」
「はっきりと一言、兄はお前のことをいつまでも愛している、と。息絶える間際の全力を尽くして言い残してくれました」
「ああ」
兄の遺言を聞いたエレナは堪らずカズハへと抱き付いた。カズハとあまり変わらない背丈でも、カズハよりも一回りは大人の身体が柔らかく触れる。まるでこちらが慰められているようだわ、とカズハは優しく腕を回す。エデンの平和の秘訣を別にしても、この旅を続けてきた甲斐があったのだと心から思わされるようだ。二人がひとしきり温め合うのを見届けて、町長はエレナの肩に手を置いて話した。
「さあ、エレナさん。今日はこのくらいで気持ちを切り替えてもらいましょう。あなたのお兄さんの魂を運んできてくれた旅人たちに、歓迎の儀を尽くさねばなりません。皆さんも、今日の仕事はもう終わりにして、出来る限りのことで恩人を迎え入れましょう」
町長の合図の言葉で人々は微笑みを取り戻した。涙を流していた者は見当たらなかったが、あの厳粛な表情を輝かせるには相応の気合いが必要なはずである。ここには本当に平和なのだと、カズハは何だか嬉しくなった。
**
歓迎の会場は丸い池がある中央広間へと移動し、人々はそれぞれ自分の家から机や椅子を運び出して特設の会場を作り上げた。
どこからともなく木の実や果物、米に野菜に果汁たくさんのジュースが運ばれてくる。旅人たちのために拵えた訳ではなく、普段から備蓄していたり夕飯の為に作っておいたものなどだったが、どれも良質で味の保証は充分だった。歓迎の会とは言っても、町民はお客と同程度に食事はするし、豪勢な料理を特別に用意する訳ではなかった。エデンの人々は人間の立場に上下や優劣を加えない。例えるならまるで家族たちのように、遠い祖国の人々のように、久しぶりに帰った我が家がおかえりを言ってくれるかのように、そんな風にカズハたちは迎え入れられた。
申し訳程度の町長の挨拶のあと、果物のドリンクで乾杯が行われた。乾杯の音頭もそれは静かで細やかなものだった。派手にグラスを打ち合わせるようなことはなく、人々はすぐに談笑を始めながらのんびりと食事を楽しみ始めた。一番大きなテーブルに座り、次々に渡される食事を受け取りながらも、ダンゴは少し物足りなさを隠し切れないようだった。
「もう立派なじじいのワシらが言うのもなんだが、長生きした老人たちのような人々じゃないか、フミオ、トシよ。平和でのんびりするのは結構だが、こう、もうちっと活気が欲しいな」
フミオもトシも、ダンゴと並んで戦闘部隊の最高齢の者たちである。彼らはまだまだ戦に出る元気があるので、宴会は酒も用意して盛大にやるくらいが性に合っている。しかし最も寂しげなのはヒロキだった。ダンゴの口から酒というワードが出たのを目ざとく耳ざとく聴き取り、すぐに反対の席から移ってきてダンゴの隣に陣取った。彼は無類の酒好きというよりは、アルコール中毒に近いと言っても間違いはないかもしれない。
「いや、全くですよダンゴさん。木の実や草も旨いのはそりゃ旨いが、宴は何と言っても肉と酒、これに尽きるでしょう。もう旅の目的地には辿り着いたんだ。あとは折り返して帰るだけなんですから、ここで残った酒をみんな空にしちまいやしょうぜ」
「ええ?それは、その、どうかな。カズハに聞いてみんと、後で怒られるのもなあ」
「そんなことを気にしてちゃあ、カザーニィの戦闘部隊副隊長は務まりませんぞ」
「そんなこと関係ないわい。お前、飲んでもないのに今日は変だぞ。疲れとるんじゃないか」
実を言うのならダンゴたちだって酒の一杯くらい飲みたいところだが、ヒロキの酒癖の悪さは冗談にならなかった。彼は大して強くもないくせにお酒ばかり飲みたがり、多くの場合において迷惑沙汰を起こすので、その度にカズハから叱られている。そして酒を飲ませた者たちも怒りの矛先からは免れられないので、相手側から酒を出されない限りはうかつに飲むことは出来ないのだ。
「まだ酒を取り上げられてるんですから飲めやしませんよ。ね、いいでしょ。とりあえず乾杯だけでもしませんか」
「ああもう、駄目だ駄目だ。お前はいつもそうやって誰かに迷惑かけるんだから。人様の家の窓ガラスを割ったり、素っ裸になって踊りだしてみたり、この前のエイ国でだって、あれだけ言うたのに路上で吐き散らかしたじゃろうが。あれを謝って処理したのはワシらなんだぞ。なあ。トシ」
「お前は飲んではいけない運命にあるんだ。諦めろ」
「あ、トシさんが喋ったの旅に出て初めてじゃないすか。あなたはもっと主張しなくちゃ駄目ですよ。いや、ええと、そんな話じゃなくてですね」
わあわあと騒いでいるおじさん達を恥ずかしく思いながら、カズハは少し離れた机でエドワードと町長の三人で食事をしていた。その周囲の人々は物静かで慎ましい。今日は泉が特に澄んでいただとか、この空模様を見ると数日中に雨が来るかもしれないとか、素朴を絵に描いたような会話を楽しんでいる。カザーニィの賑やかさと足して二で割れば丁度良くなるかしら、とカズハは溜息をついた。町長はそんな彼女の様子が目に留まったようだ。
「やはり、それだけ若くして戦闘部隊の女隊長を務めるとなると、気苦労も尽きませんか」
「ああ、いえ。いつもの事なんですから気にしないでください。それよりこれ、本当に美味しい白菜ですね。外交を行わないということは、この野菜も全部ここで採れるんですか?」
「ええ、その通りです。ネトエル山というのは不思議な土地でしてね。まるで私たちが平和に生きていく為かのような土地のあり方をしているのです」
「水も豊富と聞きました。風も気持ちいいし、ここは人間にとっての理想郷のようなものですね」
「ええ」
そして、会話の連続は途切れた。カズハは出された料理を町の人々に合わせて静かに食べ、清らかなその味に満足したいところだったが、旅の目的が脳裏に陣取って離れなかった。なんとか町までは辿り着いたのだし、住む人みんなで歓迎されている最中なのだし、ゆっくりと楽しむのが礼儀なようにも思う。しかし、これだけ平和な町に秘訣があるのなら早くその訳を知りたい。態度に動きまでもがのんびりとしている町民たちに囲まれると、その姿に対する羨望は強くなっていき、気持ちだけは急いて仕方がなかった。
のんびりしていても確実に食事は進んでいき、広間には楽器を持ってきた人々があった。刃物が存在しないので木材を使わない為、陶器やガラスで出来た瀟洒な楽器だった。この町の中では最上級に賑やかな音を鳴らし、カズハたち旅人を迎え入れようとしてくれる。早めに食事を切り上げた人は、音楽に合わせた優雅な踊りで歓迎を慎ましくも盛り上げていく。客人を耳と目で楽しませ、演奏者や踊る人も同時に楽しんでいる。レースの白い着物は彼らの舞踊によく似合っていた。
甲冑の二人はいつの間にか輪の中に戻って来ており、その内の一人はエデンの白い着物を着せられていた。彼らやカザーニィの隊員たちは他国への教養に乏しく、祖国の文化にはない食事や踊りを見ても楽しんでいるとは言いにくかった。エイ国のように華やかで酒も食事も豪勢であれば話は別だが、質素で慎ましいのはあまり向いていない。
その点、カズハとエドワードは他国へ赴く機会も多く、二人には充分な教養とそれを楽しめる心があった。しかし二人にはより大きな使命感が付いていた。何も気にせずに余興を楽しむには、その使命の持つ意味は重荷になりすぎる。歓迎は受けたい、しかしそれ以上に平和の秘訣を知りたい。可能な限り客人としての無礼を働かないように、カズハはどのタイミングで話を切り出そうか迷っていた。すると、食事を終えていたエドワードはおもむろに口を開いた。
「町長。歓迎を受けている途中で失礼かとは存じますが、ここらで平和の秘訣というものについてお話をさせていただきたい。この町が人同士で争わないというのは、今の世の中では大変珍しいことであり、この上ない希望となる状況にあるのです。何か特別な理由があるのでしょうか?それは、他の国々でも真似できるようなことなのですか。例えば、ネトエル山には他に人間がいないから争いも起きないとか、外交を行わないことが秘訣だというのであれば、世界が真似をするのは難しいでしょう」
悩むカズハの心を、エドワードは察してくれていたようであった。もしも町長が気分を害してしまったらどうしようと、カズハは少しだけ思ったが、当の町長はエドワードの話にもっともだという顔で頷いていた。この町の周辺に人がいないから争いも起きないという訳ではなく、この町の人間は仲間同士でも争う気配がないのである。その為には、何か秘訣のような理由があって然るべきに思える。
「これは、エドワードさん。旅の目的は耳にしておきながら随分とお待たせしてしまいましたね。ええ、ええ、ここでじっくりお話ししましょうとも。しかし、それにはまず誤解を解かねばなりません。あなたはこのネトエル山には人がいないと仰いましたが、それは事実ではありません。他にも山に住む人はおります」
「まさか。そんな話は聞いたこともない。エデン以外にも町があると言うのですか?」
「いかにも」
町長は明快に答えて頷いた。そもそも人が住んでいること自体が怪しかった山に、エデンという町が実在したばかりではなく、他にも町が存在するとは驚きである。カズハとエドワードは顔を見合わせて動揺を隠せなかった。
「私たちがエデンを町と呼んでいるのは、単純に国という概念がないからという訳ではございません。この山には他にも似たような集落がありまして、ネトエル山という名の国にある町のように考えられる訳です。しかし外交を行わないというのは本当ですよ。私のように長くここに住む者は他の町の存在を知っておりますが、最近生まれたような子どもたちは何も知りません。大人でも知らない人はいるでしょうが、この山の中で他の町の存在があろうとも、誰も他人と争おうとは思わないのです。これなら、あなた達のように隣接国があっても平和は実現可能なはずです」
「では、今しがた口にされた外交を行わないというのが秘訣なのでしょうか。穏やかな人々が寄り集まって、無暗に他所の者と関わらなければそれが良いと?そう仰るのであれば、全てを決めるのは環境ということになる。恵まれた環境に身を置くからこそ外交を必要としないで生活できるし、人々にも余裕が生まれますから、争いとは無縁の暮らしが出来る」
エドワードの口調は、弱き者が強者を問い詰めているようでもあった。彼の祖国も近隣国との争いが絶えない。それは物資や国民を奪い合う為の戦争で、どこもエデンのような良環境があればわざわざ血を流すことはない。恵まれた土地だからこそ衣食に困らないので子どもが増え、その分だけ働き手も育っていき、他国との繋がりも必要にならない。平和の秘訣は環境が全てであると言われてしまえば、ここまで旅をしたのも無駄な時間とさえ思えてしまう。
「そのことは、私も常日頃からよくよく感じております。エデンのこの平和は、確かにこれだけの豊かな土地に支えられていると言っても過言ではないでしょう。でもそれは、あなた方が求めているような答えには程遠いことかもしれません」
エドワードはその腕を机の上に叩きつけそうになり、ガラス細工の机の為に歯を食いしばって己を止めた。カズハはただ目を伏せることしか出来なかった。広間での歓迎の舞は終わりそうな気配を漂わせていた。だが、町長はまだ言葉を続ける。
「しかし私は思うのですが、人々に必要以上の欲がなければ、エデンのようにのんびりとした世界の実現はそう難しいことでないはずなのです。あなた方の国には王様がおられるでしょう。また、貴族や上位階級といった存在が一定数は存在するのでは?その方々がどのような暮らしを普段からなさっているのかは、ここで生活する私には想像もつかないことですが、もしも彼らが自分にとって必要もないくらいの食事を摂り、余るほどの土地を確保して眠るのならば、飢えに苦しむ人々は怒りを抱くことにもなりかねません」
エドワードはすぐに自らの国王の姿を思い浮かべた。実のところ、エイ国は物資にも国民にも困っていることはない。全ての国民に日々の食事と眠る場所は約束されている。彼らが戦争をするのは、敵国が攻めてきた時と侮辱や挑発への報復という形に限定されていた。もし、国王の優雅で上品な暮らしぶりが他国の怒りを焚き付けるというのであれば、あの美しい王邸とそこに住まう人々を悪と呼ばなければならないのだろうか。
「一日を生きて夜眠る時に、明日はもっと食べようとか、そのベッドの倍の大きさの寝床を手に入れようとかを考えると、人は争いに身を赦してしまいます。与えられるものでも無駄な分は辞退し、持たない者に分け与えようとする謙虚さが必要です。大切なのは、慎ましさを誇れるようになることです」
「では、煩悩は悪でしょうか」
そう口を開いたのはカズハだった。ここまで話が進めば彼女が遠慮する理由もない。平和の秘訣の為に貪欲になることが必要だと決意したのである。
「煩悩という言い方は良いかもしれません。私たちは、食欲も睡眠欲も、性欲ですら子作り以外にはセックスをしませんから、なおさら煩悩はその多くを排しているでしょう」
「私の国のカザーニィではお酒を飲みます。人々は酒の席で笑って楽しんで、日々の辛いことや苦しいことを忘れて前に進むのです。もちろん、お酒による喧嘩も時々は見られます。何かのお祝いの際には派手に料理を拵えますし、少しずつ住める領土も増やしている最中です。煩悩は、人々に失敗や苦しみも運んできますが、それらを乗り越えることで成長することが出来ます。欲があれば文明も育っていきます。何より、笑顔や喜びの糧になるものではないでしょうか」
「ふむ」
町長はカズハの言葉をゆっくりと吟味するように眼鏡を掛け直した。その目はここではない別の場所を眺めているようでもあった。カズハはふと、そこに憂いを讃えた気配を感じ取った。
「カザーニィに住む人々は、皆さん強い心をお持ちなのだと思います。健全な状態を維持できるというのは、お酒や笑いの力ではなく、当人たちの資質が大きくものを言いますから。私はそんな人々は一握りだと考えていますがね。エドワードさん、エイ国は大きな土地とそれに見合う程の人口があると聞きましたが、そこでは少なからずとも罪人が生まれるのではないですか?彼らを取り締まるのも兵士のお仕事」
「ええ、お恥ずかしいことですが、間違いありません」
「人が増えればそれだけ悪しき考えだって生まれるようになる。平和の秘訣という話でしたが、私は悪の価値観を統一することが効果的だと考えます。悪については幼い頃から同じ基準を共有するべきで、善は人それぞれで構わないと思うのです。正しく見分けなければならないのは、必要なものと、害悪な存在の二つだけで充分なのです。言わば物事は二面性ですよ。生きる為の必要なものだけを用意し、悪の価値観を合わせることによって害悪を排することが出来る。煩悩には、必要でもなく害悪にもならないものがほとんどでしょうが、私たちはいずれ害悪に繋がるものとして切り捨ててきました」
「悪の基準の統一……」
カズハとエドワードは当時に口をつぐんだ。いよいよ告げられた平和の秘訣めいたものは、彼らの考えていたものとは異を決するものだった。
もしも煩悩的なものを平和の為に排除して生きなければならないのなら、カズハが愛してきたカザーニィのおじさま達はこれまで通りに笑って過ごせはしないだろうし、エドワードの憧れであった美しき王の町は、隅々まで変えられて静寂を余儀なくされるだろう。
これ以上の議論を交わすには、もっとまとまった時間と場が必要に思われた。みんなが悪に対する価値観を統一するというのは、悪の反対としての善までも決定してしまうことになり得るのではないか。そもそも、人々が何かに対する価値観を揃えるということは実現可能か。実現したとしてそれは良い方向へと導いてくれるものなのか。論点はいくらでも見つかる。
カズハがずっと気になっていることの一つに、エデンの人々の喜怒哀楽の希薄さがあった。歓迎の姿から仲間の葬式の様子までを見たのに、彼らの表情に大きな変化が感じられなかったのである。もちろん、喜怒哀楽なんて人それぞれなのは間違いないが、泣くことも声を上げて笑うこともなく、怒ることなど経験したことすらないのではないかという彼らの姿は、感情豊かな国で育ったカズハには不気味なものにも見えた。しかし、そんなことを今この場で口に出すつもりはない。そんなものはただの言いがかりに過ぎないからだ。すっかり言葉を失ってしまった二人を横目に、町長は暮れかけてきた空を眺めていた。
「そろそろ歓迎会も終わらせていただきましょうかね。ここではほとんど火を使いません。ろうそくも作ることには作りますが、消費量は大したことなく、夜になればここらは真っ暗になります。ほとんどの人が日暮れと共に眠る準備を始め、夜明けの光で目を醒まします。皆さんも今日はお疲れでしょうからお早目に眠ることをおすすめしますよ。お話はまた明日以降にでも」
そう言って町長は立ち上がり、広間の片付けをしようと声を掛けた。踊りは少し前に終わっており、音楽も聴こえなくなっていた。カズハたちもテーブルを運ぶのを手伝い、宿泊に用意してもらった建物に荷物を運んだ。その最中、カズハとエドワードが近くにいた時に町長は言い忘れてたように話しかけてきた。
「そうそう、エデンは外交を行わないと言いましたが、あなた達のようにやってくる旅人も昔はいました。ここ三十年近くはありませんでしたが、山を登ってきた人がふらりと立ち寄り、ここを気に入って住み着いたという例も少なくはありません」
そんな突然の告白に、若い二人は素直に驚くことしか頭になかった。
「それは本当ですか?ええと、あの、それは、昔ならどのくらいの頻度のものだったのでしょう。みんな大勢なのでしょうか?私たちみたいに」
「いいえ、大抵は一人か二人でした。昔なら二、三年に一度というところですかね。タクマさんとエレナさんのご両親もそうでしたよ」
「まあ、そうなんですね」
エデンがとにかく閉じた空間のように感じていたカズハは、僅かに希望を覚えたような気分で嬉しくなった。この地で生まれ育った者ではなくとも、平和に生きる者たちと馴染んで暮らせるというのは明るいニュースだ。
「ただですね、これは言っておかないと公平ではないと思うのですが、この町では時折り姿を消してしまう人々がいます。崖から落ちるなどの事故も少なからずはあったでしょうが、自らの意思で町を出た人も少なくはないはずです。エレナさんのお父さんは、彼女がまだ母親のお腹にいた頃に書置きを残していなくなりました。母親の方はそれとは別に、エレナさんを生んで数日後に亡くなったのですが」
「町からいなくなる人?」
これもまた、突然の不思議な告白であった。カズハもエドワードも、その情報には不信感を覚えざるを得ない。特にエレナの父親は、外から来てこの町を好んで住み、自らの意思で外へ出ていったことになる。いいニュースと悪いニュースを、聞く順序すら選ばせてもらえずに同時に聞かされた気分だった。争いの世界からやってきて、平和の町に住み着く人々。そして、平和の町から外の世界へと歩み去ってしまう人々。理想郷のようなこの町が含んだ二面性のようにも思えるが、それらが何を意味するのか、今は何もわからない。
「私にも彼が何を思っていたのかはわかりかねます。前日まではいつもと変わらない様子にも見えましたが、二人目のお子さんが生まれることに何か意味があったのかもしれないと考えたりもします」
町長はそう言い残して店へ帰っていった。彼の言うことには、エデンから出ていった人は何人か存在することになる。それも旅に出るという雰囲気ではない。
カズハたちには一人ずつにろうそくが渡されていたが、山の上での暗闇は小さな火など意に介してはくれない。まるで心に陰を落としていくかのように、空には瞬く間に夜が姿を現していた。
**
明朝、エデンの町には管楽器の音楽が日の出に合わせて響き渡った。
峻険な山登りの旅の疲れが出たのか、昨夜は気絶するかのように眠りに落ちたカズハは、建物の外からやってくる光と音に目を醒ました。この音楽は何事かと不思議がりながらも、外に出て生まれたてのように両腕を伸ばす。その表情は早朝の空気ほど清々しくはない。一晩寝てしまえば昨日の気分も忘れてしまえるような、単純なつくりの乙女ではなかった。
カズハが寝泊まりしたのは、小屋のような大きさの誰も住んでいない民家だった。男たちは大きな倉庫のような場所でひと固まりに寝ているが、カザーニィのおじさま達の意向で彼女だけは別の場所を用意してもらえたのだ。十九の少女に戦闘部隊を率いらせている以上、普段の生活では隊長扱いする訳にはいかないと思ってくれているのだ。
そんな倉庫からはエドワードが駆け出してきて、周囲を慌てた様子で見回していた。街に響き渡る音楽を、敵襲の合図か何かと勘違いしたような顔をしている。剣は捨てても兵士長を忘れていない良い証拠だ。カズハは少し笑って彼に声をかけた。ここには争いなどないのよ、と。
エドワードが少し照れたような顔をしながら、その恥ずかしさを誤魔化すように体操を始めていると、同じ建物からダンゴとサンダユウがのそのそと歩いてきた。サンダユウは五感に長けているためか、エデンの澄みきった心地よい朝の空気に満足げな様子である。ダンゴもおじさんには早起きが気持ちいいと言いたげだ。彼らのような心の持ち主が平和の町には相応しいのかもしれない。
「これは朝からおアツいことで。こんな空気が毎日吸えるなら元気にもなりましょうなあ、カズハちゃん」
「おはよう、ダンゴおじいちゃん。本当、朝からお節介を言うくらいに元気があり余っているのね。走ってみんなに挨拶でもしてきたらどうかしら」
「がはは、それも悪くない」
ダンゴはその熊のような身体を揺らした。エデンの人々のような上品な言葉遣いよりも、カズハにはこのくらいの軽口が楽になれて良い。煩悩のない人生はどんな気分なのかしらと、出来もしない想像を頭に浮かべようとした。
「ところで隊長さん、今日はいかがしますかな。タクマとやらの葬式はもう済みましたし、妹さんへの遺言もちゃんと伝えた。昨日は町長と何やらお話しだったでしょう。まさか、もう平和の秘訣が見つかったんじゃあないでしょうね」
「そりゃあね。そんな簡単に見つかるような平和の秘訣なら、今ごろ世界はお花畑よ。マスター曰く、悪の基準を統一することが重要。必要なものと害悪なものに世界を分けて、必要なものだけを選ぶべきだって。欲張りは身を滅ぼす。煩悩はやがて害悪を運んでくる存在。だからこの町の人は慎ましやかならしいわ。確かにここの人はそれで平和を実現させているけれども、私にはそれで世界を平和に導けるとは思えない。おじさまは感じない?ここの人たちの平静すぎるところとか、表情が少なすぎるところの不気味な感じ」
「まあ、エイ国の機械にも似た気分がしましたな。それで、酒でも飲ませてこれが煩悩だと教え込んでやりますか」
「朝から冗談が下品よ、ダンゴ副隊長」
ダンゴは少年のいじわるみたいに笑った。カズハもさらりと表情を緩ませる。
「まあ、人々の様子が何にせよ、この町の現状が平和なことには違いがない。昨日のマスターとの会話であなた達と話し合わなければならないことがたくさん生まれたわ。とりあえずの伝達だけをしておくと、今日から数日間はこの町に滞在して、私たちは町の人々と一緒に働かせてもらうわ。そうね、ここの人たちは朝が早いらしいから、寝ているみんなを音楽が鳴り止むまでに起こしてちょうだい。早朝ミーティングを始めましょう。エイ国で枕の味を堪能しなかったお馬鹿さんたちを叩き起こしてくるのよ」
「ああ、こわいこわい。これだから〝戦乙女〟なんて呼ばれちまうんだ」
「ほら、さっさとしない」
カズハは愛を持ってダンゴのお尻を思い切り叩くと、大男は幼児のように文句を言いながらも倉庫の中に戻っていった。どうせおじさま達はぐずぐずして出てくるのには小一時間はかかるだろうと推測した彼女は、二日ぶりのような気分で町の泉まで汗を流しにいくことにした。
男たちが寝泊りした倉庫でのミーティングを終え、一同は町長のいる喫茶店へと朝食を食べにいった。貨幣制度がないので、店では好きな物を好きなだけ注文できる。しかし、町長とネズの二人だけで十六人分もの料理を用意するのは不可能に近い。だからと言って朝からコーヒーしか飲まないのも無理な話だと、自然な形でカズハたちも料理を手伝うことになり、町長たちもその提案を快く受け入れてくれた。計十八人が店内を忙しげにうろつき回ることになる。これから当分は同じような朝が続きそうだ。
「こんなに多くの人が走り回るのを見たのは、僕、初めてだよ」
一時間近く準備をした後に、昨日とみんなが同じ場所に座ったところで、カウンター越しにネズはそう言った。店内には逞しい男たちによるいただきますの声が響き、エデンには存在しない賑やかさが弾けるように広まった。ネズは驚きの拍子に開いた目をパチクリさせる。花火を知らない子どもの頭上で合図もなしに花火が打ちあがった、そんな様子のネズを見てカズハは嬉しそうに笑った。最初は驚いて怖がるかもしれないが、すぐに花火の綺麗さを知ることが出来るだろう。
「ネズくんはいつもここでお手伝いをしてるの?」
「そうだよ。僕はマスターと一緒にここで生活してるから、気が付いたら店を手伝ってたんだ」
「へえ、それはすごいね!じゃあ、このお店の次のマスターは君かな?」
「うん、きっとそうなるね。他にやりたいことがある訳でもないし、他の子が立候補することもないだろうから、僕がこのお店を継ぐよ。なんなら立候補してもいい」
「立候補?」
ネズの妙な言葉選びの違和感にカズハは首を傾げた。彼のような十歳くらいの子どもなら、マスターの後を継ぎたいと言うような積極性に満ちていてもおかしくない。立候補という制度的な言い回しは、ネズのような少年の口にはどことなく似合わない気もする。まあ、そんな性格の子なのかもしれないな、とカズハが思おうとすると、ネズの横に座っていた町長が代わりに説明してくれた。
「この町では、子どもは十五になった時にそれぞれ仕事を与えられます。ほとんどの子どもが親の仕事などを手伝っていますから、十五になった時に特別に申し出る子がいなければこちらで仕事を割り振り、基本的には親の仕事を継いでいくことになります。幼い頃から慣れた仕事なら難しく思うこともありません」
町の人々は欲を知らず、子どもも同じ環境で育てば、夢などを抱く子は自然といなくなるという訳であった。カズハは何かがおかしいように思い、でも何がおかしいのかわからない気分に食事の手を止めた。カザーニィの少年少女たちは夢に忙しい。お医者さんになるとか、カズハのような隊長に憧れているとか、大工になりたいとか、いつも輝く笑顔で大人たちに語っていた。自分はそのような環境で育ったせいで夢を持たない子どもを不自然に感じるのだろうか?横で話を聞いていたエドワードは咄嗟に口をはさんでいた。
「それでは、夢を見る子どもはいないのですか?みんな幼い頃から自分の進む道を知っていると?」
「夢と言うと、将来の憧れる職業、という意味ですかな。まあ、そんな希望を抱く者も皆無という訳ではないですが、必要以上の欲がない限りはほとんど見られません。みんなが夢を見たら争いの種になって困るでしょうが、ここでは立候補さえすれば通るので争いも起きません。そこにはみんな関心を抱きませんよ。親の仕事が何であるかを知った時に自分の仕事も知る訳です」
「はあ……」
エドワードはカズハと同じような気持ちになっているらしく、金色の立派な眉だけが本人には内緒で、訝しんでいる感情を正直に伝えていた。ダンゴは黙ってトーストを一枚まるまる頬張っていたが、その目は一瞬だけ鋭くネズを見つめた。それだけでも何かを多く物語るようだった。
背後のテーブル席とは対称的に静かになったカウンター席で、カズハは明るい声を出すように努めた。エデンの二人からしたら静かなのが当たり前だということを忘れ、今日から仕事の手伝いをさせてもらえないかと、場の雰囲気を取り繕うように提案した。町長は二つ返事でその提案を受け入れた。彼らとしては手伝いなどなくても構わないが、あっても同様に構わないという口振りだった。
朝食を終えると、外には既に働き始めた人々の姿があった。時刻は午前七時。彼らは基本動作がのんびりしているので、干支の牛のように早くから働き始めるようだ。どちらにせよ一日の仕事量にノルマなどはないから、みんなやりたいだけ仕事をしていると町長は笑った。
街ゆく中でも特に暇そうにしている人々を見つけては、町長は手当たり次第に声を掛けた。誰もが何の問題も思いつかなそうな顔で、旅人たちが仕事に加わることを許可してくれた。
エデンには意外なことに様々な仕事があった。必要な物を必要な時にだけ手に入れるというのが彼らの基本だからだ。
まずは畑や田んぼの世話。これはもちろんネトエル山の下の地域ともやることは同じだ。そして泉への水汲み。飲み水や洗い水、トイレの流し用などを担当者が運ぶ。それぞれの家で大体これくらい必要だというのを考えておき、その量が入る容器を家の前に出しておけば届けてくれる。余った分はみんな花にでも与えているようだ。ただ一つの例外として、田んぼの水だけは泉から水路で繋いでいた。必要な量が多いからというのが理由だった。町の方については、水路なんてものは必要なことではないし、泉に負荷が掛かるだろうということで人が運ぶ。もしも水が足りなくなってもすぐに誰かが分けてくれるし、そもそもすぐに泉まで汲みにいける。自分の仕事ではないのにと文句を言う者など一人もいない為、この町では仕事に対する責任感は薄い。そしてサボる者もいない。
毎日行われる仕事としては、果物狩りや薪拾いがあった。常に新鮮な果物を食すので、担当者は朝になると果物屋の在庫を見て仕事に向かう。余らない程度の量を収穫して、昼までには市場へと戻る。薪も料理の火起こし用として使われるので重要だ。一日分に必要な目安の落ちた枝を探す。どうしても見つからない日は諦めて火を使わない料理を増やしてもらう。
家具職人というのも存在した。ガラスや粘土や石で作られた家具、そして家は破損することも珍しくなく、何かが壊れた時には職人の出番だった。とはいえ、この仕事は出番が毎日あるという訳ではない。普段は素材になりそうな石や砂などを集めているが、もちろん必要になりそうな分だけだ。担当者は服職人も兼任しているので暇にはなりすぎない。
カズハたちのような旅人が来ると、ろうそく作りも需要が増すようだ。しかしこの仕事は完全に運任せだった。原材料に蜂蜜を用いる為、蜂が住まなくなったがまだ蜜が残っているというような巣が見つかる偶然を期待しなくてはならない。平和の人々は蜂を巣から追い出すようなことはしなかった。彼らの生活状況ではろうそくがなくても困ることはないし、ろうそくだけは備蓄がたくさんあったのだ。
他には野草探しや養蚕者、他の仕事にヘルプが必要になった時のお手伝いさんなんていうものも存在する(ほとんどが喫茶店の手伝いだ)。そして市場には果物屋や八百屋、町長の喫茶店などがあるのだった。
旅人たちはそれぞれが興味を持つ仕事へと散っていった。丁度良いバランスで散らばり、今朝のミーティングでカズハから与えられた使命——エデンの町から平和の秘訣を見出すこと——を忘れずに働く。きっと、日常の中にこそヒントは存在するのだとカズハは言った。
カズハが向かったのは畑仕事の現場だった。戦闘部隊も普段は田植えや畑を手伝っている。普段の自分たちの仕事振りとエデンの人々を比べることによって、そこから見えてくるものがあるのではないかという魂胆だ。
同じ仕事に付いてきたのは甲冑の二人だった。彼らは祖国で、戦争以外ならこの仕事しかやったことがないのだと言った。カズハにとって、この二人と行動を共にすることは幾らか試練的だった。仲間の命を奪われた者と奪った者の関係は、少し一緒に旅を続けたところで良好になったりはしない。カズハには二人をカザーニィへと連れて帰る覚悟はあったし、彼らもそれに異論はないようだったが、あの廃墟群から出発して以来、両者間には会話と呼べるようなものは生まれていなかった。
これは確かに平和の試練だ。畑仕事でエデンの人々から平和の秘訣を探しつつ、簡単には手を取り合えない仲間との平和を築き上げなくてはならない。ここで甲冑の二人のことを無視してしまっては、カズハは平和の事など何も語れないだろう。幸いなことに、二人の方にも関係を良くしようという気概はあるようだ。互いに歩み寄る覚悟があるということは、実はこの上なく幸運なことなのだ。
エデンの町の外れには、小規模な畑が何種類分も並んでいる。町民約四百人分の食料のほとんどをここで生み出しているらしい。お茶に白菜に、パプリカ、スイカ。その他の様々な食材がこの狭い土地で同様に育つというのはまるでファンタジーだ。その奇跡を生み出しているのはネトエル山というカオスに他ならないだろう。カズハは正直に羨ましさを覚えた。
三人は季節的に栽培の時期にあった大根畑に案内された。そこに向かうまでに他の畑の横を通ったが、どこにでも一人は町民がいて何かしらの作業をしていた。大根畑は特に収穫の時期なので、カズハたちを含めて七人の人々が集まっていた。その中にはエレナの姿があった。
「あら、カズハさん。ここに何日か滞在するって聞いたわ。お仕事も手伝ってくれるなんて、私たちとっても嬉しいのよ」
「こっちこそ、平和の町で過ごせるなんて幸せなことだわ。あの、もう気分は落ち着いた?昨日お葬式があったばかりだけど、無理してない?」
「ええ、もうすっかりいつも通りよ。兄がいなくなってから二週間も経ったし、少しは覚悟もしていたから。それに、人はいずれ誰しも死にゆくものよ。兄の場合、それが人の手によるものだったことは、未だに考えられないことだけれど、あなた達がそんな野蛮な世界をどうにかしてくれるんでしょう?私はこのままエデンで暮らし続けるだろうけど、カズハさんは本当に頑張ってね」
エレナの笑顔は成人した女性のものとは思えない程に無邪気だった。カズハたちが世界を平和にしたいと述べれば、きっとそれは実現することなのだと疑いもしないようだ。兄を殺した人々に対して、もしくは争いに満ちた世界に対して、彼女が怒りを抱いても不思議なことではないのだが、とカズハは内心で思っていた。確かに、復讐の怒りによって別の死者を出してしまえば、それは永遠に終わらない哀しみの連鎖を作ることになる。平和の町の人間として、兄が他人に殺されようとも受け入れることが出来るのは、とても自然で美しいことなのかもしれない。ただ、エレナの純朴さに対しての兄の死という現象は、怒りではなくとも強い哀しみを運んでくるべき出来事のようにも思えた。彼女のような女性が、すんなりと兄の死を受け入れていることに、カズハの方が寂しさを覚えているのだ。それは自分の勝手なエゴだということをカズハは自覚していたが、身内の死を哀しんでいるような人々には平和の町など築けないと言われたようで、仕事をする手を止めてしまった。
「……どうかしましたか」
そう声を掛けてくれたのは、甲冑を着た男だった。彼は廃墟群から毎日欠かすことなくその甲冑を身に付けていて、もう一人の男はエデンのおばあさんに白いレースの着物を着せられてから、ずっとその格好のままだった。自分から歩み寄って打ち解けようと思っていたカズハにとって、男の方から近付いてきてくれたのは意外で嬉しかった。エレナのことも考えていたところで、思わず感情が昂ってしまい涙が流れる。甲冑の男は自分が何かまずいことをしたのかと焦る表情を見せた。その顔を見ると今度はおかしくなって、カズハが涙を拭って微笑むと、男は訳がわからないように口をぽかんと開けていた。
「ごめんなさい。なんでもないの。ただ、あなたが話しかけてくれたことが、思ってたよりびっくりして、嬉しくなっちゃって。心配してくれてありがとう。ねえ、仕事はどう?上手くやれそう?」
「おかげさまで。喧嘩か畑仕事しか取り柄がないもんで」
甲冑の男は恥ずかしさを隠すように声が小さくなった。彼は不器用だがそれなりに繊細な男のようだ。カズハは本当に誰とでも明るく会話ができる女の子だから、一度こうなってしまえば遠慮なく話し続けられる。大根の収穫作業の手は止めることなく、口もずっと止まらない。その様子は甲冑のもう一人をスムーズに会話の中に引き込み、出会ってから数日間分の沈黙を巻き返すかのように盛り上がった。もちろん、ほとんどはカズハの独壇場なようなもので、二人は相槌を打ったり頷くことしか出来ないのだ。
「ねえ、カズハさん、こっち来て!ほら、これ見てよ!」
三人にも負けないくらい楽しげな声でエレナが手を振っていた。カズハはすぐに走っていくと、エレナが指差しているのは親指の二倍ほどもあるかのような巨大な青虫だった。滅多に見ない程の大きさにも驚くが、大人の女性が青虫ではしゃいでいるというのも可愛らしい。カズハは甲冑の二人も呼んで、四人で青虫を囲んで笑い合った。
「こんなので驚いてちゃいけないわ。カザーニィでは、こんな、握り拳みたいなダンゴムシだっているんだから」
「そりゃあダイオウグソクムシって言うんでさあ。あっしらの国にはそこら中におりますぜ。なんでも水族館ってのが昔はあったそうで、そこに住んでたのが人がいなくなって自由に這い回ってるんですよ」
「えっ、そうなの⁉世界一大きなダンゴムシを見つけたって、ちっちゃい頃にみんなが褒めてくれたのに」
何てことのない状況、何てことのない会話。そんなもので笑い合える姿はまさに平和の町だった。ここでは全ての人が全ての人と手を取り合っている。旅人として訪れたばかりのカズハたちだって結び付けてくれたのだ。どんな人とも手を繋ごうとする勇気が平和の秘訣になるのかもしれない。カズハはそんな風に思うのだった。
「そうか。あの二人とはそんな因縁がね……。でも、君たちは無事に乗り越えることが出来たんだな」
「きっと、この町のおかげね。彼らもここで勇気をもらって、私のことを許そうと思ってくれたのだわ」
午前中の仕事を終えると、十時頃から喫茶店へ昼食に集まるというのがエデンの人々の習慣だった。カズハたちもエレナに付いてきて、同じタイミングで来ていたエドワードたちと出会って食事を共にしていた。ちなみに彼はショウと二人で家具職人の元へ出向いていたようだ。
「そっちはどう?テーブルとか椅子とかを作ったりしたのかしら。平和の秘訣になりそうなことは見つかった?」
「今日は仕事の依頼がないからって砂集めばかりだったよ。ショウは作業場の観察に夢中で店まで連れてくるのが大変だった。彼はカザーニィにここの技術を持ち帰ってくれるんじゃないか?平和は結構だが、私に学ぶことがあったかと聞かれたら何もない」
「そうねえ、そんなにあっさり見つかってもね。ああ、そろそろ伝書鳩はカザーニィに着いた頃かしら。次の手紙の内容には平和の秘訣を見つけたって書けるようにしたいけど」
「焦ってもどうにかなるものではないさ。それに、君があの二人と仲良くなれたみたいに収穫がゼロという訳でもない。私も君には救われているんだ。それぞれ得たものは今の時点でも少なくない」
エドワードはそのまま澄ました顔でコーヒーをすすったが、カズハは彼の言葉を聞き逃してはいなかった。とてもリラックスした様子のカズハは、何かをいう訳でもなくその目でエドワードに次の言葉を促した。青年は目を見つめられて頬を赤らめていた。こっそり感謝を伝えようとしたのだろうが、結局は根負けして話し出す。
「この町に入る前に、君は言ってくれただろう、あなたはずっと怯え続けているって。私は史上最年少で兵士長を任されたことで、何もかもに危険が潜んでいるという覚悟で日々を過ごしていた。君も同じような境遇にあったのに、君と同じように人々と気を許し合えなかったのは、私に心の余裕がなかったからだ。カズハみたいな人が心の内側を触りにきてくれたら、どんなに張り詰めた心も柔らかく解きほぐされていく。あまりにも潔癖すぎては大事なものまで拒絶してしまうということを、君は教えてくれたんだ。だからその、ありがとう、カズハ」
エドワードは面と向かってお礼をするのに、愛の告白みたいな恥ずかしさを感じていたが、すっかり気を緩めていたカズハにだって愛の告白をされたかのような気恥ずかしさがあった。
「そんな、私なんてたまたま優しい人たちに恵まれただけだって……」
町民ばかりで落ち着いた静けさの店内には、旅人たちだけにわかる甘さの空気が気配を匂わせていた。いよいよカザーニィの〝戦乙女〟もただの乙女になっちまうのか、とショウは甲冑の二人に愚痴をこぼし、カウンターの中で座る町長は眼鏡の中の瞳が見えない具合に微笑んでいた。
**
カズハたちがエデンを訪れてから四日が経過していた。
ここでの日々は波風の立たない凪の海のように、ずっと同じ毎日を繰り返しているようなものだった。朝起きてから喫茶店で朝食作りをして、それぞれが与えられた役割を果たしに仕事へと向かう。昼には再び喫茶店に集まって、午後は仕事が残っていればそれをやるし、何もすることがないのであれば自由に過ごす。全員の仕事が終わった時点で旅人たちは倉庫に集まり、自分たちの旅の目的について話し合った。しかし、現時点ではこれといった平和の秘訣が見つかっていない。このまま何も見つからずに日々が過ぎれば、彼らは祖国に帰ってこの町の様子をそのまま伝えるということくらいしか出来ないだろう。そして、あの狂乱に満ちたネトエル山にもう一度足を踏み入れる決意をしなくてはならない。
この日も、具体的な話を始められる者はいなかった。ミーティングとは名ばかりで、暇な時間を持て余す人々の雑談の時間と呼ばれても文句は言えない。
「この際、物理的な物でもあれば助かるんだけどね。平和の木の実、みたいなものがあって、それを食べればみんな平和になりますとか」
「隊長、あまりに平和すぎてボケちまったんじゃねえすか?そんなものがあれば俺たちはもう食わされてますよ。そうすれば、この町で暴れる奴が出てくる可能性もなくなりますもん」
「そんなのわかってるわよ。誰かさんが大きな欠伸をするから冗談でも言ってあげようと思ったのよ」
「ダンゴさん、もう眠いんすか?毎日たっぷり寝てるでしょ」
「ワシは欠伸などしとらん。だが、この山はおかしなところだらけだから、もう何があっても驚かん準備はできとる。もしもそんな不思議なもんがあるなら、それは喫茶店のあの地下なのかもしれんぞ」
「ああ、今朝のあれね」
彼らの話に上がったのは、喫茶店にあるという地下室だった。
それは今朝の話だった。相も変わらずに管楽器の音楽で目を醒まし、一同は喫茶店へと朝飯作りにいった。そろそろ厨房の中でも何がどこに置いてあるのかを把握し始めた頃、ユウタが身に覚えのない階段を発見したのだ。それが地下室に続く階段である。
階段は随分と長く続いているらしく、ろうそくを使わなければ底の方がどうなっているかは確認できそうにもなかった。ネトエル山の洞窟のような深淵の暗闇がそこには広がっていた。ユウタはすぐに町長へ質問した。この階段の先には何があるのかと。
町長は答えるのに一拍おいて、そこにはコーヒー豆や掃除用具が置いてあるのだと言った。ユウタは言われたままに納得して頷いていた。そんな二人の受け答えを見て、他の者たちも地下へと続く階段の存在に気が付いたようだった。町長は彼らの様子を察し、ろうそくを点けても地下室は暗くて危ないから、慣れていない人たちは決して近付かないようにとの忠告を述べていた。
「しかし、あんな階段があったなんて気が付きもしなかった。まあ、朝飯時はこのエデンでも一番慌ただしいから、ワシらもうっかりしていたのかもしれん」
「そうですね。僕も何だかひんやりすると思ってふと見たら、そこに長い階段があるんですからびっくりしましたよ。エデンの町があまりに平和すぎるから、僕らも注意力が散漫になっているのかもしれませんよ。気を引き締め直さなくちゃ」
「いや、ユウタ、それは違うな。あの地下室は普通の地下室じゃねえんだ。あの場所にこそ平和の秘訣は隠されているんだぜ!」
そう意気込んで口をはさんだのはショウだった。誰もが彼の突拍子もない台詞に呆れた顔をしている。
「いいか、あの地下室には巨大な機械があるんだ。それは民族平和装置といってな、その機械を町に置いている民族は、機械の出す謎の力で誰しも平和志向になっちまうんだ」
「ショウ、あなたそれ、前に読んでた昔の小説に出てきたやつでしょ。私も同じものを読んだからわかるわよ」
「や、違うんです隊長、じゃなくてカズハ。あの小説に出てきたのは人民平和矯正装置だ。ここのはもっと穏やかなやつなんですよ。強制的に平和へ持ってくんじゃなく、何となく平和な気分になるだけで」
「同じようなもんじゃない」
カズハは下らない減らず口をぴしゃりと払いのけた。「カズハには男のロマンがわからねえんだ……」とショウは火の消えたろうそくのように沈んだ顔になる。本当に地下室には謎があるのかもしれないと思いかけたユウタは、少し騙された気分でショウを横目で見ていた。
そんな時、倉庫の入り口からは全速力で走っているような荒い息遣いが聴こえてきた。みんながのんびりとしているエデンの町ではほとんどあり得ないことだ。サンダユウは誰よりも早く耳をそばだて、一同は一人残らず入口へと視線を集めていた。エドワードはこっそりとカズハの盾になれるような位置まで移動していた。
「ああ!みんなあ、ちょっと聞いてくれえ」
そう叫びながら飛び込んできたのはヒロキだった。この数日は一滴の酒も飲んでいないはずだが、まるで泥酔状態のように顔を真っ赤にして息を切らせていた。
「どうしたのヒロキ。何かあった?」
「や、隊長。あ、カズハ。聞いてくだせえよ」
彼が息も整わない内に話し始めたことによると、彼は水汲みの仕事から帰る最中だったようだ。エイ国での歓迎パーティー以降は酒を取り上げられてしまっていた彼は、お昼の喫茶店でコーヒーを何杯も飲むのが習慣になっているらしい。そして午後にあった三件の水運びの途中で、我慢できないような尿意に襲われたそうだ。寝床とする倉庫まで戻れば、その横に設置されているトイレ小屋で用を足せるのだが、彼は仕事からの帰り道でもうどうしても我慢が出来なくなってしまった。そこで、漏らすよりかはまだいいだろうと、立ち小便という形でことを済まそうとしたのである。
「なんだ、それを見つかって叱られでもしたのか。まったく、お前はいつも言ってるけどな、もうちっと人前では畏まらんといけん」
「いやあの、それは確かに俺が悪いんだが、違うんだ副隊長。俺が小便をしてる最中に人に見られたのは事実なんだが、もう、何と言うか、人を殺したかのようにみんなが怖がるんだよ。まずは俺と同い年ぐらいの婦人に声を掛けられた。そこのあなた、一体それは何をしているのですかって、刃物を持った奴に近付くみたいにびびってたんですよ。これはとんだ失礼をしましたってすぐに謝って、残りを出しきって婦人の方を向いたんですが、もう視界に映る人間全員が俺の事を信じられないような顔で見ていたんです。子どもも大人も関係なく、みんなが恐怖に怯えたような目付きをしてたんですよ。ありゃあ尋常じゃねえ。婦人の方も、どうしてそんなことをするのとか、トイレがあるのに道を汚してしまうのはどうしてとか、俺が立ち小便をした理由が少しも思い付かないって感じで質問攻めなんです。もう俺の方も逆に怖くなってきちまって、本当にすいませんでしたって大声で叫んで、とにかくここまで走ってきたって訳なんですよ」
ヒロキは補足説明として、彼が見た町の人々の姿を思い出す限り述べた。それによると、顔を伏せて必死に見ないようにする人、子どもを連れて走って逃げだす母親、中には恐怖に怯えたのか涙を流す者もいたという。ヒロキの心からの慌てぶりと、彼が見たという町の人々の様子を聞くと、話を聞いていた者たちもちょっと冗談では終わらないような気配を感じ取った。立ち小便で人を泣かしたというのは、エデンを知らなければ冗談にしか聞こえない話だ。
カズハは町長の話していた「悪の基準の統一」という話を思い出していた。町長が言うには、エデンの町の人々は悪の基準を統一して考えているらしい。そして物事を必要なものと害悪なものに分け、必要な物だけを手にして生きていくという。それは裏を返せば、害悪なものはその一切を断ち切るということだが、怒りもせずに罰を与えようともしない彼らは害悪なものをどうやって遠ざけるというのだろう。第三者が害悪なものをもって攻撃してきた場合、ただその恐怖に怯え苦しむしかないのであれば、それはあまりにも人間として脆すぎるのではないか。
ヒロキはさっきまでの出来事を思い出すと、辛そうにうずくまって汗をかいていた。話に聞いた町の人々と同じくらいに恐怖を感じているのではないだろうか。隊員たちは水を持ってきてやって、カズハは意見を求めるようにエドワードの方を見た。
「こんなことだが、この町においては緊急事態と言わざるを得ないのかもしれない。何せこの町の人々は、自分たちが考えてもわからないことは発生しないと思っているようだ。カズハ、少し外の様子を見にいかないか。町長とも話をしたい。喫茶店まで歩いて、道行く人々がいたら声を掛けてみよう」
「ええ、わかったわ、エドワード。みんな、これ以上に下手な混乱を招いてもいけないから、外に出るのは私とエドワードだけにして。特にヒロキは絶対に外に出ちゃ駄目。もう寝なさい。いいわね?」
「了解」
カザーニィの戦闘部隊は数日振りに、隊長からの命を受けて低い声の返事をした。よもや、この平和の町の中で気を張り詰めなければならない事態が起きようとは、誰一人として想定していなかったであろう。その原因がこんなにも下らないことで、そして人々がこれ程に脆弱であろうとは。カズハの中で旅の風向きが変化するのを感じる。
外に出てみると曇り空が広がっているのが目に付いた。ヒロキの一件がなければ、明日の仕事はどうなるのかしらと思う程度のはずだ。しかし今は不穏に思えてならない。雨雲なんかに心を揺さぶられそうになっている自分が情けない。カズハは不自然なくらいに気分が落ち込むのを自覚した。思わず立ちすくみそうになる。すると、少し緊張した顔付きをしながらも、エドワードが手を握ってくれた。その目は隣に立つ女の子の心の機微を捉えている。彼の大きな左手の温もりは、ダンゴたちとは別の場所から彼女を支えてくれる。
二人は手を繋いだまま喫茶店まで歩いた。空は灰色に薄暗くなっており、仕事を終えた町人たちは家に籠って眠りの支度に入っている。夜が近付く街に明かりが灯されることもなく、人々の姿が見られないというのは、不気味だと思わなかったと言えば大きな嘘になるだろう。
とはいえ、人の姿は皆無ではなかった。エドワードは、市場から果物を取って家に帰る途中の女性を見つけた。二人は、ヒロキの件について何か知らないかと声を掛けた。
「ええ、そのお方に声を掛けたのは私です。私たちも怖かったですが、彼にも怖い想いをさせたのなら謝りにいきましょう」
女性はエデンの町人らしい微笑みで二人に応じた。ヒロキと会ってから二十分も経っていないはずだが、話に聞いていたよりは随分と落ち着いているように思える。カズハはその感想を隠さずにはいられなかった。女性はいつもと変わることのない声色で答えてくれた。
「そうですね、私が怖い想いをして、街中で取り乱してしまったというのは事実です。同時に目撃していた他の方々も、あのように怯えている姿は初めて見ました。しかし、カザーニィの男性は私たちに謝ってくれていました。その後に私たちがいつまでも怯え続けていても意味がありません。必要な謝罪を受け取ったのなら、それ以上はもう望まず、あとは普段通りの生活を送るだけです」
理に適っていて、賢くて、しかし希薄だというのがカズハの脳裏に浮かんだ言葉だった。それが良いとか悪いとか思うのでなく、単純に茫漠とした寂しさが心の内側に生まれてきてしまうのだ。女性はそろそろ寝支度をするからと言って帰っていった。街には人の姿がなくなってしまった。感傷に心を持っていかれてしまう前に、カズハはエドワードの手を引いて喫茶店まで向かった。
しかし、喫茶店には町長に姿はなかった。店内にはネズだけがいて、尋ねてみても町長の居場所は知らないと言う。
「どこに行ったかは知らないし、お姉さんたちの話がどれだけ重要なものかはわからないけど、マスターに話がしたいなら次の機会まで待つしかないね」
「じゃあ、明日の朝食の時に話がしたいって伝えておいて」
「お姉さん、僕は次の機会と言ったんだ。それは明日の朝とは限らない。二秒後かもしれないし、三年後かもしれない。明日の朝、マスターに会えたからといって話が出来るとは限らないんだからね」
「え?」
ネズの言葉選びは非常に思わせぶりだった。このエデンの町民で、こんなに不明瞭な台詞を口にする人間は見たことがない。カズハは心に巣食う不安を払拭する為に、子どもがよくやる独特な言葉遣いに過ぎないのだと思い込むことにした。そうしないと今は落ち着いていられない気分だった。
残念なことに、ネズのおかしな台詞は現実のものとなって翌日のカズハを待ち受けているのだった。マスターと会うことが出来たとしても、それが話をする機会と等しいとは限らない。
**
翌朝、カズハの目を醒まさせたのは、降りしきる雨音と等間隔で鳴る巨大な鐘の音だった。
昨日の曇り具合からして、雨が降っていることには何の疑問も抱かなかった。雨の日にはエデンの人々がどのように過ごすのかという興味すら湧いてくる。しかし、鐘の音は不可解だ。いつもの誰かによる管楽器の演奏は聴こえてこない。雨が降っているからだろうか?雨のせいで外に出て演奏することが出来ないから、代わりに鐘を鳴らしているのだろうか。そう考えた時に浮かぶ新たな疑問は、鐘の姿なんてこの町では見かけたことがないことである。
カズハは小屋の外に出た。いつもなら白い霧を裂くようにして朝日を全身に浴びることが出来る。この天気ではそうもいかないだろうが、それ以上に何かがおかしかった。エドワードが倉庫から出てくる。鐘の音は鳴り続けて止む気配もない。
「おはよう、カズハ。これは一体どういうことなんだ」
カズハに尋ねられてもわかることなどない。エドワードが不思議がっているのなら、彼女も同様に不思議がっているのだ。楽器が雨の影響で演奏できないのではないかという推測を聞かせると、そんなもんかなとエドワードは倉庫に戻っていった。そして、すぐに険しい表情でカズハの元へ戻ってきた。
「大変だ。倉庫の中に誰もいない。いつもならこの時間にみんなも起き始める頃なのに、倉庫の中はもぬけの殻だ」
「……え?」
カズハは血の気が引いていく感覚に襲われた。祖国の仲間がみんな姿を消したというのは、手っ取り早く言ってしまえば絶望である。エドワードが間の悪い嘘をついているのだとしたら、むしろその方がいい。仲間たちの姿さえあれば、もしもエドワードが酷い悪意を持って嘘をついたとしても許すことさえ出来る。しかし、彼がそんなことをしないのは火を見るよりも明らかだ。二人は急いで倉庫の中を確認しにいくと、そこには荷物や布団までを残して人間の姿だけがなかった。どこかへ去っていったのではなく、まるで始めから存在しなかったみたいだった。
先に絶望しておいたのは間違いじゃなかった、とカズハは思う。目が醒めた瞬間から意味のわからないことだらけの現状で、彼女が真っ先に取るべき行動は何かが見えるからだ。〝戦乙女〟は絶望の言葉の一つも漏らすことなく、エドワードに指示を出すと二人で町中を走り回って仲間の姿を探し始めた。エデンに対しての疑いや、鐘の音に対する違和感などを考えている場合ではない。とにかく仲間の無事だけを願って足と目を酷使した。
五分ほど走り回って、カズハが最初に見つけたのはエレナの姿だった。少し遠くの方で喫茶店の中へと入っていく。遠目でわかりにくかったが、彼女はぼんやりとした目で虚ろに歩いているようだった。とりあえず、仲間の姿を見なかったかと声を掛けようとすると、道の反対側からは一人の男性を追い掛けるようにしてエドワードが走ってくるのが見えた。
その男性はエレナと同様に虚ろな表情で喫茶店の扉を開き、カズハたちには気付いていない様子で店に入ると機械的に扉を閉めた。ここまで近付いてわかったのだが、鐘の音は喫茶店の中から聴こえているようだった。カズハにもエドワードにも、この町で何が起きているのか想像もできない。ただ、今は未知への恐怖に足をすくめている場合ではない。それだけはわかる。カズハは迷わず店のドアに手を掛けると、討ち入りさながらに勢いよくドアを開けた。
薄暗い店内には、まずは先程の男性の姿が見えた。彼は喫茶店に入ったというのに、どこの席に座る気配もなくまっすぐと歩いている。その進む先は、あの地下へと続く階段だった。カズハはそのことに気付くと同時に、店のカウンターに座った町長の姿を見つけた。その瞬間、カズハにはこの男が全てを知っているのだという確信が湧いた。
「マスター!これは一体どういうことなんです⁉今、ここで何が起きているんですか。なぜ、私たちの仲間の姿が消えたのですか!」
全ての原因を作ったのが町長であると断言するかのように、カズハはカウンターへと詰め寄った。町長は瞳に宿した感情を悟られまいとするような動作でカズハを見た。一瞬だけの沈黙があって、彼が何かを言うか言わないかというタイミングで再び店の扉が開いた。店内へと入ってきたのは、昨日のヒロキに声を掛けたという女性だった。彼女も同じように虚ろな表情で、カズハにぶつかりそうな際のすれすれを歩いて、ろうそくも持たずに暗い地下へと降りていった。自分の進む道に人がいたことに気が付いていないようだった。その姿を見届けると「エドワード、君もここへ」と町長は一言だけ言った。エドワードは慎重にカズハの横まで移動した。
「今の彼女で五人は揃った。あとは君たち二人だけだが、まさかこんな事態になってしまうとは。私の処理能力では現状を予測できず、君たちも私の起こしたミステイクの一部だ。みんなに許してもらおうとは思わないが、謝罪の意があるということだけはわかっていてほしい」
「ちょっと、何を訳のわからないことを言っているの。カザーニィのみんなは?甲冑の国の二人をどこへやったのよ。まずはそれを答えて!」
町長は冷静じゃないカズハの目を深く見つめた。老人のその瞳に映った一番大きな感情は、他人ではなく己に対する哀しみのようだった。カズハは余計に訳がわからなくなる。エドワードはカズハの身を守ることだけに終始しようと決意していた。
「君たちが疑問に思うことの全ての答えがこの先にある。そして、階段を降りた先の扉を開くことにしか、君たちの疑問を解決する術はない」
脅しのような低い声色でそう言うと、町長は地下へと続く階段の先を指差した。鐘の音はその先から鳴っている。カズハはそこにある強大な暗闇に、本能的な恐れを抱いた。しかし、仲間たちの行方が知れるというのなら、自分の身に危険が伴う程度の恐怖に躊躇っている暇はない。カズハはすぐに階段を降りようとした。が、町長がすぐに目の前に立ちはだかった。
「悪いが、君たち二人にはここを通る条件がある。本来ならもっと時間を用意できたはずなのに、これも私のミステイクによるものだ。申し訳なかったとだけ言っておこう。さあ、君たちの二人の正直な答えを教えてくれ。嘘をついてもわかるように出来ているからな。質問だ。君たち二人だけを残して、世界の人々が滅んでしまったら、君たちはこのエデンのような世界を創っていこうと考えるかね?」
町長の質問は、まさに突拍子もないものだった。質問だけではない、先程からの言動の全てが理解不能だ。カズハは焦燥感に苛立つ自分を見つけた。こんな緊急事態で、のんびりと問答をやっている場合じゃない。最も平和的な解決法を模索している余裕もない。
「答えなさい」と町長が突き付けるので、「私は別の世界を望む!」とカズハは叫んだ。何かを考えている程の心の余裕もなかったので、最初に思ったことをただ口にした。つまりは本心を答えた。どう答えれば町長はここを通してくれそうだとか、打算的なものは一切なく、目的の為の手段を見失っていたといえる。その結果、町長はカズハの本心を引き出すことに成功し、しかし彼女との会話を生み出すことには失敗していた。カズハは目の前の邪魔者を無視して通り抜けようとし、しかし、次の瞬間には彼女の身体は宙を舞っていた。
背中から地面に叩きつけられる強い衝撃を受けて、カズハは自分が投げ飛ばされたのだということを理解した。たとえ十九の女の子だろうとも、彼女は圧倒的な身体能力で〝戦乙女〟とまで言われてきた逸材である。相当な実力がなければ彼女を投げ飛ばすというのは難しいはずだ。カズハを見下ろす町長の顔は、丸い眼鏡だけが怪しげに光っていた。平和の町、エデンでの出来事だとは思えない。不意に、カズハには彼を超えて地下への階段へと辿り着くイメージが出来なくなってしまった。
「うおおおおおお!」
そんな状況で、町長を組み伏せたのはエドワードだった。彼は町長の横側からタックルをかまし、その体重の全てを持って町長を押さえつけていた。
「カズハ、行け!」
そして一言だけ叫ぶと、起き上がろうとする町長に様々な攻撃をくらいながらも自由を許さなかった。腹を強く殴られ、首を爪で引き裂かれている。カズハはエドワードのことを考えようとしたが、ここで自分が地下へと向かわなければ、それがエドワードにとっては最悪の選択になるだろうという結論から考え、脇目もふらずに地下へと続く階段まで走った。彼女は目的の為の最良の手段を取り戻したのだ。背後ではエドワードの雄叫びが轟いた。
階段は本当に真っ暗で長く、四方八方どこを見渡しても黒という色しか見当たらなかった。しかし、足や手が物に触れる感覚はある。カズハは壁を手で触りながら、滑り落ちるように階段を降りていく。身体のいたる所を強打したり、ふくらはぎを擦りむいて血が出てくる感覚があったが、何も気にせず先へ先へと進んだ。
前のめりで、頭から前方にぶつかったのがわかった。目には見えないが、きっと目の前には木製の扉がある。地上に置いてきたエドワードや町長の存在、エデンという町の謎、故郷のカザーニィの人々。様々な想いが込み上げてきそうになったが、何よりも一番強い意志で自分を抑え込んだ。壁をでたらめに触り、金属製のドアノブの感触と形を確かめると、精一杯の力を込めて扉を開いた。
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はるか遠い未来、もしくは、気の遠くなる程の昔……。
大地は荒れ草木は眠り、多くの争いが起こった。誰もそれを止めることは出来なかった。
ひとびとは減った。どこまでも減り続けた。
そして、深い深い地下の底、生命の存在など許されないはずの場所に、七つの箱が存在した。
左から数えて六番目、その中に眠る少女は、この深い地下へと駆け下りてくるような足音を聴いた。ここまで何かが近付いてくる。そして、その何かは、少女の真上まで来ると、驚くような様子で動きを止めた。
少女は反射的に目を開いた。それは、とても綺麗で澄みきった青い瞳だ。そう、例えるならまるで、深く広く晴れ渡る青空のような瞳だった。