序章 エデンへ〈前〉
*******
はるか遠い未来、もしくは、気の遠くなる程の昔……。
大地は荒れ草木は眠り、多くの争いが起こった。誰もそれを止めることは出来なかった。
ひとびとは減った。どこまでも減り続けた。
そして、深い深い地下の底、生命の存在など許されないはずの場所に、七つの箱が存在した————。
*
二ヶ月前、見渡す限り一面の雄大な草原の真ん中にて。
戦国武将の鎧に似た甲冑を身に付けた者たちと、原始的で丈夫な毛皮の布を着た者たちが争っていた。
前者は背丈ほどもある大太刀、後者は二本の短剣を振り回し、あちらこちらで雄叫びが飛び交っている。そこにいるのは男ばかり。皆、荒々しく伸びた髭を揺らし、血管の浮き出んばかりに力を込めた逞しい腕を振るって斬り合いに興じている。
甲冑の男が太刀を振り下ろし、毛皮の男が二本の短剣で受け止めた。しばしの間、両者はその状態のまま睨み合っていたが、そのすぐ脇を小さな影が横切った。甲冑の男がその影に目を盗られた刹那、短剣を持った男は素早く刀を振り払い、相手の喉元を鋭利な切っ先で貫いた。
小さな影は戦場の中を素早く駆け巡る。廻る足を止めることなく動き続ける姿は目にも止まらず、その正体がこの戦場で唯一の女であることを甲冑集団は誰一人として知ることはない。
軽く丈夫な布と二本の短剣で戦いに挑む毛皮の者たちは、カザーニィという国の人々だった。集団から少し離れた場所で戦況を見守っていたカザーニィの一人の大男は、一本の竹筒のような楽器を力いっぱいに吹き鳴らした。高音で耳を劈くような奇音に、その場にいた誰もが動きを止め、音のした方角に目を向ける。一瞬のその隙を女は見逃さない。
風のような動きで甲冑集団の頭に飛びつき、喉元に短剣を突き付けて相手の動きを牽制し、草原にポツンと置かれた岩の上に登るよう指示する。敵の大将を相手に油断なき命のやり取りを行うのは、まだ思春期の最中にいるような、空のような青い瞳を持ったうら若き少女だった。
頭は武器を置いて少女の指示に従うと、戦場にいた者たちの視線の全てが少女の持つ短剣の先に注がれた。
「今すぐ刀を置いて降伏しろ!そうすれば命は奪わない、元来た方角に帰れ!お前たちの頭は討ち取ったも同然、今すぐ降伏しろ!繰り返す……」
少女のよく通る声が草原に響き渡る。短剣を持ったカザーニィの人々は目の前の敵に太刀を置くように促し、頭を討ち取られた甲冑の者どもは力なく武器を捨てて逃げていった。
その様子を確認した少女は短剣を引っ込めて岩の上に降りた。少し気の緩んだような様子で岩の上から周囲を見渡すと、その隙を窺っていた頭は咳き込む振りをして身を縮めた。男は甲冑の中に仕込んでいたナイフを静かに握りしめ、少女の喉元を鋭く睨んだ、その時だった。
「ごめんね。ちょっと刃が当たって首の皮を切っちゃったわ。少し血が出てたけど大丈夫?痛まないかしら」
そう言って少女は敵の頭の首を覗いた。ナイフと少女の喉元の距離が限りなく近くなる。
確かに少女の言う通りに血は流れていたが、怪我と言うにも大袈裟な程で、それでも少女は自分の身に纏う布の一部を切り取り、血の流れているところに当てて男に自分で持つように言った。
「はい、このままにしていれば帰り着く頃にはすっかり血が止まっているわ。国へ戻ったらカザーニィとは和解することになったと伝えてちょうだい。後日改めてそちらの王様に手紙が行くと思うから。あ、一応そのナイフもここに置いていってね。それじゃ、行っていいよ」
謝られた上に傷の手当までしてもらった頭は呆気に取られてしまい、自分でもよくわからないままにナイフを岩の上に置き、カザーニィの少女の言う通りに国の方角へと帰って行ってしまった。
「いやぁ、よくやったカズハ。またしてもこちらの死傷者はなし。流石はカザーニィの〝戦乙女〟だ」
先の戦中に楽器を吹き鳴らした大男・ダンゴは楽器を抱えたまま近付いてくると、剛毅に笑ってカズハと呼ばれた少女を褒め讃えた。
「もう、いちいちそう呼ぶのやめてったら。戦場で乙女なんて呼ばれても嬉しくないわ。それに、戦場では隊長でしょ」
カズハもそう言って笑うと、短く切り揃えられた黒く艶のある髪を風に払った。勝利を収めた一同は、曇りない顔付きで荷物を抱えて帰国の途に就いた。
彼らの住むカザーニィという国は、戦場となった草原から二時間ばかり歩いた場所にある。人口二千にも満たないような小国で、国とは名ばかりの村のようなものである。人々は温厚かつ善良で、作物を耕し無益な争いを好まず、甲冑集団のように攻めてくる者どもから国を守る為にのみ武器を取るのであった。
とはいえ、戦闘力はそこらの国よりも遥かに高く、俊敏な動きを可能にする丈夫で軽い毛皮と二本の短剣を併せ持ち、〝戦乙女〟と呼ばれる女性指揮官の元に最小限の流血で場を収める。〝戦乙女〟は未だかつて一人の命も手に掛けたことのない、不殺の勇者として有名だった。先の戦いでも自国の戦死者は一人も出さず、敵国から出た一人の死者は墓を作って丁重に弔ってきた。
世界のことを少し話そう。
幾らか昔、世界中を巻き込む巨大な戦争が起きた。今では核大戦と呼ばれ、不戦の契りを交わしている国々をも否応なく戦火の中に引きずり込み、生み出すものといえば死者、死地、灰の空。そこらは人々の亡骸で溢れ返った。
世界人口は極端なまでに減少していった。力のある国が惜しげもなく核を落とし続けたのが主な原因だろう。信じられないことに、あれ程も蓄えられていた核兵器が、その開発者も含めて存在しなくなるまでに戦争は激化したというのだから、怒りや恐怖を通り越して呆れるばかり、風刺のような核兵器根絶である。
そして現代。世界の人口は数百万から数十万とも言われているが定かではない。
生き残った人々は日本の縄文時代さながらの生活を送り、各地で国と呼ばれるコミュニティを形成していたが、どこもカザーニィのように村レベルの人の少なさであった。
カズハやダンゴら戦闘部隊の面々がカザーニィに戻ると、国の人々は活気良く迎え入れてくれた。取り分け子どもたちの歓迎は手厚く、疲れているであろう大人たちに水を汲んできたり、どんぐりや泥団子の差し入れで戦士たちの帰還を労うのであった。
「カズハ姉ちゃんおかえり!てき、ぶったおしてきた⁉」
「はい、どんぐりあげる。どこかケガしてない?ふしょうしゃはあたしのびょういんに来てね」
「ええ、みんなありがとう。私は平気よ。ちっとも怪我なんてしてないわ。それより、おじちゃんたちをマッサージしてあげたらどうかしら?ぐりぐりぃって」
カズハがそう言ってダンゴたちを見ると、子どもらは一斉に男たちの方へ向かった。彼らは無邪気の温かい歓迎に喜びながらも、元気過ぎる幼子たちに少々手をこまねいている様子であった。和気あいあいのおしくらまんじゅうが出来上がり、群衆の中からようやく抜け出してきたダンゴはカズハの元へと歩み寄った。
「あれほど子どもたちが元気なのはワシらの国ぐらいなもんですぜ、隊長」
「ちょっと、戦いが終わったら隊長って呼ぶのやめてって言ったじゃない、おじさま」
「おっと、ついうっかり。カズハちゃん」
十七にして戦場の隊長になんてなってしまったもんだから、こうして日常と戦場での自分を分けて考えなければならない。この少女にはこれ以上の苦労は掛けてはいけないぞと、ダンゴは自らに言い聞かせた。争いの起こる度に行う反省である。
前述のようにカザーニィは戦に関して積極的ではないので、普段は見張りの者が国の周囲を見渡しており、敵影を発見しない限りは何も起こらない。カズハたちのような戦闘部隊員もいつもは農作業や子どもの世話をするばかりで、豊かでのびのびとした暮らしを送っている。季節にあった作物を採り、川や大地の恵みを受けながらお天道様に見守られ、与えられるものを受け、無暗に望まず、よく遊びよく寝て、衣食住に困ることもないのでみんなが穏やかに支え合って暮らしている。そんな優しいカザーニィのことが、カズハはこの世界の何よりも大好きだ。
ダンゴのみならず、国中の誰もがそんなカズハの細やかな幸福を大事にしたいと思っていた。しかし、こと戦闘においては、この国はもう彼女に頼らずに自衛を成し遂げるすべはないのだということも、国中の大人たちは重く理解していた。それだけカズハという少女は闘いに秀でた才覚を持ち、またそれだけ世界は武力で奪い合わなければならない程に荒廃しているのである。
戦いに勝つ度に彼女の中の鬼は育ってしまう。いつまでもこうしては生きてゆけない……。これから始まる小さな宴会の前に、ダンゴはひとり抑えきれない焦燥を抱えて武器を見つめるのだった。
*
そんなカザーニィにも平穏な時期が続く、ある日の事だった。
カザーニィには円形の木の塀が張り巡らされており、出入りするには東と西に設置された門からということになる。その西の門のすぐ近くに、今にも倒れそうな様子でよろよろと歩く一人の男があった。
真っ白なレースのような美しい着物を身に纏っているが、矢が腹に刺さったままなので血がとめどなく流れ続けており、白い着物は半分以上が紅く染まっていた。西門の守衛がその様子に気付き、国中に報せの太鼓が響き渡る。どの国民も一度にして動きを止め、遊んでいた子どもまでもが西門へと集まった。国を挙げての緊急手当てが始まった。
各地からともなく水や包帯が集まり、すぐに薬が何種類も用意された。客人を招く為の豪華なベッドに男は寝かされ、矢はすぐに抜き取られ止血も行われた。然るべき薬を塗り、手厚く包帯が巻かれ、子どもたちは男の手を握った。男のいる建物の外では無償の祈りを捧げる者が多くいた。
国民たちの手当てから少し遅れて、カザーニィの国王やカズハたちが到着した。しかし、男はもう虫の息で、普段の呼吸もままならなく喘いでいる。誰がどう見ても、失われた血の量が多すぎたのだ。核大戦後の世界では未だ輸血の技術は確立しておらず、こうなってしまってはもう励ます他に手はない。少しでも、生きる方に心を向けさせるしかない。
「どうか頑張って。何があったの?あなたはどこから」
カズハが近付いてそう尋ねると、男は今にも消え入りそうな小さな声でやっと答えた。
「私はエデンという町から来た者……。エデンは外交を行わない町なので、私は少し外の世界に興味が湧いて……。町の人には黙って出てきたのですが、突然どこの誰とも知らない者たちから襲われました。彼らは何か、叫びながら私を攻撃して、私が、無我夢中で逃げ出すともう追っては来ませんでした……。その際、この、棒のような物が刺さって、血が止まらなくて……」
男は自らに刺さっていた矢を指差しながらそう言った。矢とは何なのかも知らないような口振りだった。武器と言えば剣か弓矢しかないこの地域で、それはなかなかあり得ないことだ。
「どうか落ち着いてください、治療に最善は尽くしました。死んでは駄目です、頑張って。これはね、矢といって、生き物を攻撃する為の道具です。あなたが襲われたのはきっと、どこかの国の領地に入ってしまって斥侯とでも間違われたのでしょう。気の毒なことだわ」
「生き物を、攻撃……」
カズハの言葉を聞いて、男は信じられないと言うように首を振った。
「それで、エデンってどこなの?この時代に外交もしないだなんて、名前すらも聞いたことがないけれど……」
カズハの問い掛けに男は答えようとしたが、上手く声を出せずに血を吐いた。男の治療をしていた者たちは大慌てで薬を用意したり水を飲ませようとしたが、誰がどう見ても手遅れだ。男は文字通り命からがらといった掠れた声で何とか質問に答えた。
「エ、エデンというのは、私の住む町の事で、ネトエル山、の、山頂にあります。エデンは美しく平和な町です……。まさか今の世界に、あ、争いがあるなんて、私は思ってもみませんでした……。ううっ!」
男はまたしても血を吐いた。その血はカズハの腕や顔にかかるが、彼女は嫌がる様子もなく男の目を見つめた。カザーニィの人々は全力で治療に当たっているが、男を見つけた時点で既に手遅れだったとしか言いようがない。男の手首を握り脈を計り続けていた老婆は、少ししてカズハを見ると首を横に振った。
「お、お願いです。どうか、エデンに残してきてしまった、私の妹に、兄はお前のことをいつまでも愛しているよと、伝えて……。わ、わた、私の名前、は……」
「ああ!」
一同は声を上げた。
男は最期の力を振りしぼるようにカズハへ手を伸ばしたが、名前を告げるのにあと一息のところで息絶えてしまった。カズハは男の手を握った。
老婆は男の手首を離して心臓の動きを確認したが、もう二度と脈動することはないのだと確認すると弱々しく手を合わせ、その場にいた誰もがエデンから来た男の死を悼んだ。国中が静まりかえっていた。
その日の夜。エデンから来た男を墓に弔い、国王や戦闘部隊員ら集合の会議が開かれていた。
「まさか、この時代に戦争に巻き込まれていない場所があるとは。ネトエル山の頂上、エデンの町といったか。誰か聞き覚えのある者はいないか」
国王は集まっていた者たちを見渡しながら問い質したが、誰一人として首を縦に振る者はいなかった。会議の広場には束の間、夜の虫の声だけが響いた。
「ネトエル山は四大国に囲まれた大きな山です。その周辺の森には恐ろしい魔物が住むというんで、四大国の者は誰も立ち入りませんし、山に人が住んでいるなんて考えもしないでしょうな」
ダンゴがそう述べ、国内でも最高齢の弓の名手・トシが裏付けのように頷いた。すると、その隣にいた戦闘部隊第二の実力者・サンダユウが大きな口を開いた。
「彼は西門の方から来ました。四大国でもバチ国とエイ国は聡い国ですから、武器も持たない人間をそう訳もなく攻撃しないでしょう。特にエイ国は盾と剣の国だ、弓矢なんて使っているのは見たことがない。ベエ国は方角からして反対ですし、やはりチョウ国辺りにやられたんでしょうな」
「あの国にエデンなる町の存在を知られてはならんですな。何しろ変人奇人の集まりのようなもんですから、ネトエル山を越えて戦争を仕掛けないという暗黙の了解を辛うじて守っているっちゅうのに、山頂に戦争をしない町があるなんて聞いたら奴ら、魔物なんて恐れずに軍隊でも派遣しますぜ」
ダンゴはごつごつしたその手で膝をぺんっと叩くと、国王は何か難しいことでも考えるかのように立派な顎髭を優しく撫でた。
「まあまあ、彼の国には私たちが何も言わない限りエデンの事は知れないだろう。自分たちが攻撃したのが人か猿かの確認もしておるまい。それより本当にエデンという町があって、そこは戦争とは無縁な場所なのか……。今の世に外交を行わずにやっていける町があるとは俄かには信じ難いが、それ程に人の数が少ないのか、それとも山の上には資源が豊富にあるのか……」
国王はしきりに自慢のお髭を触り、どうもエデンという町に深く興味を持っているようだった。その様子にこれはいけないと、戦闘部隊一小柄なゲンタと国の商店のリーダーであるシンキチは慌てて口を開いた。
「王さま、私はそのエデンとやらに行くのは反対ですぜ。第一あの山に行くには四大国のどこかを通って行かなくちゃならない。山頂に平和な町があるかもしれないから、なんて理由で彼らが通してくれますでしょうか。それこそ我が国の心証を悪くしかねません」
「そうですぜ。それに、あの山には魔物が住むってんでしょ?あっしはそんな所に行く気は毛ほどもありやしません……」
ゲンタは動きこそ俊敏なものの、ちびで痩せっぽちでおまけに気が小さいので、いつもすぐに弱音を吐いて逃げ回る。どうして彼が戦闘部隊の隊員としてやっていけるのかは、国民の長年の謎なのであった。
「エデンから来た男。彼は武器も何も持っていないのに難なく山を下りてきたのだ。魔物が本当に住んでいるのなら、そんな芸当はとても出来ないだろう」
「それはわかりませんよ。彼らが本当に山に住んでいるなら、魔物を手なづけていてもおかしくないじゃありませんか。むしろそのおかげで他国と戦争になっていない可能性だってありますぜ」
「そんなことは行ってみなくてはわからないだろう。魔物と呼ばれる程の生き物を手なづけられる人々が、そんな簡単に矢に射られて命を落とすとも思えんがね。それより本当に平和な町として、その秘訣を教えてもらえると考えたら足も軽くならんか」
「いえ、しかしですね、実際に行くのは私たちなのであってですな……」
「あの人の、妹さんへの遺言を伝えに行かねばなりませんわ」
男どもがああだこうだと言い合っているところに、凛として口を挿んだのはカズハだった。静かに立ち上がったその目には、正しき行いとは何かがちゃんと見えているようだ。まさに〝戦乙女〟と呼ばれるのに相応しい姿であった。
「エデンという町に行くのかどうか。私たちの国の損得も考えなければいけませんけれど、あの人の妹さんへ遺言を届けるというのは、もう私たちにしか出来ないことなのですから、それだけは実現させなければなりません。エデンにはたとえ私一人でも必ず向かいます」
ざわざわと問答を繰り返していた人々は、カズハが立ち上がるのを見て一斉に口を閉じた。そして彼女の言葉を聞くと再び問答を始め、こりゃカズハの言う通りだ、と互いに顔を見合わせると、隊員の男どもはみんな立ち上がった。さっきまで国王に対して文句を言っていたゲンタまで、やれやれといった様子で立っていた。彼が隊員としてやれているのは、この意外な潔さにあるのかもしれない。
「王さま、私たち、明日からでもエデンに旅立とうと思います。この中から四分の一ほどお借りしますが、よろしいでしょうか」
「ああ構わんよ。君に頼らなくてもここの男たちは国を守れるということを証明できる良い機会だとしよう。街では女たちが、〝戦乙女〟がいないと戦闘部隊のへなちょこどもは武器も構えられないと噂しているそうでな。どれ、君が国を留守にする間、一つせがれにでも指揮を執らせてみるかな」
「え、ええ、お父さま、それはまことに光栄なことですが、そんな急に言われても……」
わははは、という明るい声が会議の場に広がって、重苦しい会議はこれにて終了、その後は旅立ちの無事を祈る宴会が開かれることとなった。
「カズハは本当に真っ直ぐで綺麗な心の持ち主に育った。敵であろうと人命を尊重し、力でもって弱きを守る。あの子の正義のあり方は、悪を滅するのではなく悪しきものに優しさで寄り添うとある。戦闘部隊の指揮官には正に彼女こそが相応しい。きっと、エデン行きでも良い結果をもたらしてくれることだろう」
国王はすっきりとした色のワインが入ったグラスを傾け、カザーニィに育った美しき〝戦乙女〟のことを思い、この国の明るい未来を運んでくるであろう風に心を委ねるのであった。
*
明朝、カザーニィの東側より太陽が昇る。夜明けの前の清々しい空気、星の消えた空、日光の温度の気配は、遥かな旅立ちの合図となる。
「隊長、エデンはネトエル山にあるということじゃから、どうしても四大国のどこかは通って行かなくてはならん。真偽も怪しい我々の情報だけじゃあそう簡単には国を通らせてくれないでしょうが、ワシは行くならバチ国かベエ国だと思ってやす」
「あら、どうして?」
「バチ国は非常に国土が小さい、従って、国民もかなり少ない。話し合いが通じやすくもなりますな。そんでベエ国、彼らは国民全体がのんきなものです。ワシらの情報も確かなスジからのものだと言い張れば信じてくれるでしょう」
「さすがにそこまでのんきでもないわ。自分たちの国の中に余所者を入れるのだから、国としてはもっと慎重になるでしょう。特にバチ国なんかは他国の言葉には耳を傾けないわ。関所を通すとしたら輸入品だけ、商人も通してくれない。ダンゴはあの国々の王家を見たことがないから知らないのだわ。彼ら、想像以上に殺伐としてた。王さまの護衛に付いて行った時に私、驚いちゃった」
「では隊長はどこから入るのがいいと思うんですか。まさかチョウ国なんていうんじゃないでしょうな」
「私はエイ国がいいと思う」
ネトエル山、ひいては四大国に向かう道のりで、カズハと副隊長のダンゴは話し合っていた。
なにしろ四大国は隙間なくネトエル山を囲っているので、どうしてもどこかの国を通らなくてはエデンには辿り着けない。さらに四大国中の三か国は大きな河に囲まれているので、国に入るには橋を通してもらうほかない。唯一チョウ国だけは平野続きで国に入れるが、ここら一帯でも最多の国民数を誇る国なので、四六時中どこかしらで監視の目が光っている。
四大国はネトエル山を中心に、北から時計回りでバチ国、チョウ国、エイ国、ベエ国とある。カザーニィは四大国の東に位置するので、チョウ国から入れば川も渡らずに済むのだが、その国にはエデンの男を攻撃した疑いがあった。非常に鎖国的で欲深い国民性なのだ。いくらカズハが実力者でも、部隊の面々を危険にさらさなくて済む選択が望ましい。エデンに続く道のりは簡単ではない。
「エイ国の堅物どもがこんな突拍子もない話を信じてくれますかな」
「信じてくれるかどうかはわからないけど、ちゃんと話を聞いてくれると断言できるのはエイ国だけだわ。他の国の王家はみんなカザーニィのような小国をまともに相手しようとはしない。でも、エイ国の人々は相手を力で判断しない。知性や立ち居振る舞いで判断するわ。きっと、ちゃんと話せばわかってくれるはず」
カズハはそう断言したまま、前だけを見て力強く歩き続けた。カザーニィを出てから一時間、彼女の足取りは強く悩まない。その背中はどんな言葉よりも勇気づけてくれる。ダンゴを含む十二名の隊員も、余計な口出しをやめて隊長の後に付いて行く決意をした。
早朝に国を出たので、ようやく辺りがはっきりと見えるようになってきた。カザーニィには機械や動物などの足がない。機械なら文明によっては発達してきた頃だが、動物となると家畜以外にはほとんど存在しなかった。核の後遺症は深く大きい。移動には必然と徒歩が選ばれる。
カザーニィには現役の外交が存在するので、それはまだ幸運な方だった。外交が行われるということは、国の間を人々が移動するということなので、それだけ道に詳しい者や移動の際に出来た獣道が存在する。道路なんてものを作る力は今の人類にはなかったが、戦争によって大地が荒れる前に作られた道路は瓦礫となってそこらに見られた。そういった場所を人々は好んで移動に使った。
しかし、大自然とは力強いもので、頻繁に移動を繰り返していないと獣道なんかはすぐに見つけられなくなった。今や人間の歩く面積よりも雑草の茂る面積の方が何十倍も大きい。
カズハたち戦闘部隊の面々は、カズハやダンゴの記憶と景色を照らし合わせながら進んでいく。昨晩カズハたちが簡易的な地図で道のりを確認したところ、エイ国へ向かうにしても三日で辿り着く計画だった。しかし現実と理想は相容れない。
エイ国に行く為には河を渡る橋を少なくとも二度は通過しなければならないが、一つ目のコンクリートの橋はなぜか崩壊していた。核大戦以前に作られたものだから風化してしまったのかもしれない。河は非常に大きく、対岸がやっと見えるかどうかといった具合だった。それなりに流れもある、つまり人が泳いで渡るには適していないということだ。
「こりゃもう仕方ないですね。エイ国に行くのは諦めて、一度カザーニィに帰りまして、ゆっくり休養してから別なルートを探しましょうや、隊長」
崩落した橋をどこか嬉しそうに眺めていたゲンタはすぐにそう提言した。彼が常に危険から逃げることを信条としているのは間違いないが、他の者もこればかりは諦めざるを得ないだろうと考えていた、隊員としてはただ一人を除いて。
「カズハ隊長。これくらいなら俺のボートで一時間もありゃ渡れますぜえ。筏なんてしょっぱい物は作りません。船のような立派なのを三隻、一日で用意してみせます」
意気揚々と声を上げたのは、機械のないカザーニィでなぜか無類の機械好き・ショウだった。船やボートなどはこの時代誰も現物を目にしたことがないのだが、彼は様々な遺跡で見つかる書物によりその構造まで把握しきっていた。そして機械を見るのも好きなのだが、何よりも作るのが好きな男なのである。機械文明を持たないカザーニィでは機械作りもままならないが、このような場面になると出番だと張り切りやすい。ただし、木製の手漕ぎボートを機械と呼ぶのかどうかは、人と時代によるかもしれない。
カズハは周囲を見渡して、野営することや材料集めの事などをざっと思案したが、最後にはショウの輝かんばかりの瞳を見つめて頷いた。
「いいわ。みんなでショウを手伝いましょう。この様子なら二、三日は雨も降らないでしょうし、エデンに早く着くに越したことはない。ここが頑張り時よ!」
戦闘部隊のおじさん達が溜息をついたのは、言うまでもない。
*
カザーニィを出発して三日目。旅の道のりはようやく半分に到達していた。
橋の壊れた河は一日で渡ることが出来た。しかし一行が上陸したすぐ先は、野生の魔物と化した猫や犬が多く生息する地域となっていた。橋が壊れたことで人の往来が減った為かもしれない。人の肉を食べようと襲ってくる獣たちと戦闘した一行は、計画よりも大幅に遅延することを余儀なくされていた。
カズハの判断により少し迂回することにもなって、エイ国とは幾らか離れた場所を歩いている時だった。核大戦前の街の残骸が見つかって、そこには最近まで人がいたような痕跡が残されていた。それはかつて一国の首都として栄華を築いた廃墟群の真ん中で、まだ見た目の新しい(しかし使い込まれた)歯ブラシや缶詰の空き缶がそこらに散らばっていた。
旅の途中で誰かに出会ったなら危険は顧みずに交流を求めるというのが、圧倒的に種としての数を減らしてしまった人間たちの常識だった。どこの国でも同じ事だが、資源は手に入っても人手はなかなか手に入らない。外交でそれなりのものは交換可能だが、国民ばかりは交換する訳にもいかない。人ひとりの命の重さは、核大戦の起こる前の平和と比べると、何も変わっていないと言えばただの誤魔化しになるだろう。
また、どの国もが争いを望んでいるという訳でもない。カザーニィのように、攻め込まれない限りは武器を取ることもしないという国はいくつもあった。この廃墟群を領地としている人々が友好的であるのならば、それはカズハ達・カザーニィの国の人々にとって喜ばしい限りである。
「前に四大国との話し合いに出席した時にもこの道を通ったけど、ここに人が住んでいる気配なんてなかったわ。もしかしたら国を持たない放浪者かもしれない。ゲンタ、キヘイ、斥侯を頼むわ」
「がってん」
眼鏡のキヘイは指名を受けると、短い返事を残し無駄な荷物をその場に置いてすぐに移動を開始した。ゲンタはその様子を呆れ顔で見ながら、渋々とキヘイの後に続いた。
カズハら残った者たちも荷物をその場に置き、その内の二人が荷物番として残ることを決め、他の九人はいつでも動き出せるように体勢を整えていた。
廃墟たちはボロボロに風化してしまっているとはいえ、そこらの森の木々よりは遥かに上背がある。過去にこの土地がどれ程の繁栄を成したのかが窺えるが、同時にどれだけ人類が失墜を果たしたかという証拠にもなる。人工物たちが作る陰は、どこに何が潜んでいるかを悟らせない。それはまた、野獣と化した犬猫どもであるかもしれないし、人であっても友好的とは限らないのだ。カザーニィの戦闘部隊といえども無敵な訳ではない。油断は許されないような空気が漂い、不意にビル風の音が止んだ。十一人の間に緊張が走る。
「助けてくれえ!」
まるで何かの合図のように叫び声が上がった。声から判断するにキヘイのものだ。カズハたちは目だけで合図を取り合い、荷物番を除いた九人が一斉に駆け出した。
廃墟群の広間では、キヘイが三人の男たちに捕まって刀を突き付けられていた。カズハ達は迅速にその場へ辿り着き、それぞれが建物の陰に隠れて息を忍ばせた。カズハの近くに隠れたダンゴと長身のユスケは、広場の中央に生け捕られた仲間の姿を確認した。
「あっ。奴ら、この前の甲冑集団ですぜ。奴らの国はここにあったのか。さては負けた報復に出ようと言うのだな。くそっ、汚い野郎どもだ」
「ゲンタの奴、キヘイが捕まったのを確認してすぐにどこかに隠れたな。あいつ、動きだけは素早いもんだからどこでもさっと身を隠す。どうしますか、みんなで一気に襲い掛かりますか」
「待って。ここが国内だと言うなら甲冑を付けてるのはおかしいし、報復を目的とするには数が少なすぎる。それに、兜を付けていないわ。あの国では刀を持った者が兜を脱いで戦場に出ることなんてない。キヘイを捕まえるのに兜を付けなかったのじゃ、国に赤恥を晒す上に防御力も落ちるから危険なだけだわ。他に仲間のいる気配もない。何か別の理由でここにいて、たまたま私たちを見つけたのかもしれない。……しかし、こんな広場の真ん中で人質を取るなんて呆れたわ。ダンゴ、いい?」
「承知しました、隊長。気を付けて」
そう言うが早いが、カズハは音もなく動き出してどこかに行ってしまった。残されたダンゴとユスケはお互いに頷き合って、武器を置いて両手を上げたまま広場に姿を現した。
「おーい、お前たち。ワシらは抵抗するつもりはない。どうか大人しく、その人質を離してやってくれ」
ダンゴがそう叫ぶと、廃墟の物陰からさらに三人、カザーニィの隊員が出てきた。みんな、何も言わずとも武器を置いて両手を上げている。その様子を見た甲冑の男は、キヘイの首を絞めつけるようにして口を開いた。
「やいっ、誰一人としてそれ以上動くな!動けばこいつの命は保証しないぞ。俺たちはお前らの隊長に用があるんだ。あの女を出せ!」
「隊長はここにはいない。今日はワシらだけでここらを開拓しに来たんだ。隊長に会いたいのなら国まで案内する。ワシらは何も手出しはしない。約束するから、その男を離してやってくれ」
「なんだとっ!」
キヘイを捕まえている男は威勢良く叫んだものの、少し弱った様子で仲間と相談を始めた。その間にユスケはダンゴに囁くように耳打ちした。
「奴らみたいなのを堕ち武者とでも呼ぶのですかね。ところで隊長はどこに行かれたのです」
「隊長はどこかに身を隠して奴らの隙を窺っている。いざという時にはあっちの奴らをやっつけてくれるはずだ」
「おい、そこっ。喋るんじゃない!」
荒々しい怒号が飛ぶと、キヘイを捕まえていた男はいよいよ刀をぎらつかせて不敵な笑みを浮かべた。よくよく見れば、カズハに討ち取られたあの頭の男である。
「俺たちはこの前の争いで仲間を一人失い、国はますます貧しくなる一方だ。王は和解などという甘ったれた手段にご立腹、女の首を獲るまで帰国は許されなかった。そこでだ、お前たちはあの女をここまで連れて来い。俺は奴と決闘をする!それまでこの男は人質に取ったままだ。そしてだな、お前らには逆らえない立場だということをわからせてやる必要がある。見せしめとしてお前たちの内から二人をこの場で殺す!最初に出てきた二人、近くに来て跪け。さもなくばこの男は殺す。さあどうする!」
広場にいた誰もに緊張が走った。想像以上に甲冑集団の怒りは激しく、このままではどうあがいても仲間の誰かが殺されてしまう。ダンゴとユスケをみすみす殺されてしまう訳にはいかないが、うかうかしていたらキヘイは助けられない。キヘイを殺してしまっては人質としての価値がなくなるはずだが、そんなことにも考えが及ばないくらい相手の頭は冷静じゃない。
ダンゴはこれで何度目の死線だろうかと考えた。とにかく一刻でも時間を稼いで敵の隙を作りたい。全身から血の滲む想いでユスケの肩に手を置き、ユスケは汗を流しながらも無言のままに頷く。二人は静かに相手へと近付いてその場に跪いた。
「何やってるんだ、ダンゴ、ユスケ。俺がへまして捕まったんだから、この場で殺されるのは俺でいいんだ」
「黙れくそ野郎!よし、素直でいいぞ。おい、お前たち。二人の首を一息に落としてやれ」
甲冑の頭がそう指示を出すと、仲間の二人は太刀を抜いて嬉しそうにダンゴたちを睨んだ。のらりぬらりと怪しい足取りで近付き、刀を構えて介錯のような恰好を取った。カザーニィの隊員たちはみんなが息をのみ、トシはどうしても一人しか助けられないこと悔やみながらも、一人は必ず助けるという決意を固めながら物陰で弓を構えた。そして、介錯人たちは腕に力を籠め、「やあっ!」と掛け声を上げた、その瞬間。
キヘイを捕えている頭の背後より裸足のカズハが駆け出してきて、キヘイもろとも男に飛び蹴りをくらわせた。そのまま男が倒れるのと一間違いでカズハはその上に飛び乗り、男の喉元に短剣を突き付けると「動くなっ」と叫びを上げた。流れるようなその動きに呆気取られた介錯人たちは、振り上げた太刀を下ろす暇もなくカザーニィの隊員たちに囲まれてしまい、両腕を上げたまま刀を取り上げられてしまった。形は違えどあの時と同じ、これぞカザーニィ、風のような早業だった。
「すぐに降伏しなさい。さすれば命までは奪わない」
カズハは男の目の奥深くを見つめるようにしてそう言い渡すと、短剣を構える両手に力を加えた。
敵の頭は罠にかかった獣のように声を上げて抵抗していたが、ちょっとすると諦めたかのように瞳を閉じかけた。が、すぐに「ちくしょう!」と叫ぶと、カズハの目の前で大きく双眸を見開き、鎧の中に隠しておいた導線の短い自決用火薬を取り出し、これまた隠し持っていたライターを火薬に近付けて火を点けようとした。
「っっ‼」
目の前の男が何をしようとしているのか、カズハが脊椎反射で認識したその瞬間、彼女の腕は風のように流滑な動きをもって、男の喉に短剣を深く突き刺し横に割いた。
いくつか瞬きをするような時間の後、男の喉からは弾けたように鮮やかな血が飛び出し、カズハの顔面を濡らしながら地面に溢れ返った。正確な一撃に絶命した男はそれ以上どうすることも出来ずに、力の入らなくなった腕はライターと火薬をぽとりと落とすと、後はずっと静かになった。血まみれ顔のカズハが鬼のような形相で敵の二人を睨みつけると、二人は抑え付けられながらも必死になって「俺は火薬を持っていない」と大声で主張した。カズハは一瞬間だけ心で安堵し、感情はすぐに焦りへと変わった。戦場でも敵味方の流血を最小限にとどめ、可能な限りは和平の道を選ぶと心に決めたはずの自分の顔が、悪鬼そのものの形で戻せなくなり、敵を殺すと叫び続けていたのである。
広場には、カズハに屠られた敵の頭の墓と、その前で涙を流す二人の男、休憩がてら目ぼしいものがないかを探すカザーニィの隊員たち、そしてカズハとダンゴがいた。
「カズハ。何も落ち込むようなことはない。お前さんは戦闘部隊の隊長として立派に隊員の命を守った。敵はお前さんもろとも自爆しようとしたのじゃから、この選択は生き物として正しいものだとワシは思う。我々はみんな死にたくないと思い生きようとする。カズハもそうした。ただそれだけのことなんだよ」
少し広間から離れた場所では、トシが弓を用いて火薬の処理をしていた。矢の先に火を点けて遠くの火薬に放つのだ。そして静かな廃墟群の中で大きな爆発が起きると、カズハは膝を抱えて丸くなるように顔を埋めた。
カズハが戦に参加するようになって二年が経過していたが、彼女が人を殺めたのは今回が初めてだった。それ程に圧倒的な才能と意志で勝利を収めてきたのだ。もちろん戦なので犠牲者が皆無だった訳ではないが、カズハが参戦することによって最小限には抑えているという、周りからの認識と彼女自身の自負もあった。今回も最小限の犠牲と言っても間違いはないが、自らの手で命を奪うということは、殺すなら殺される方がマシと思っているような十九の少女には荷が重すぎる。
ダンゴは黙ってカズハの背中をさすり続けた。時にたくましく勇気づけてくれる背中だが、今はこんなにも小さくて細い。ごく普通の女の子であるはずなのに、いつの間にか背負わせてしまった心の中の鬼。今日の事で闇は深く増すだろう。何も言えずにただ時間が過ぎていく。
広場には、それぞれ散らばっていた隊員たちが戻ってきていた。ある程度の物資が補給され、旅の休憩としては充分な時間が過ぎたと言える。しかしカズハは動かず、このままでは旅は再開されない。何も出来ないままに夜を迎えるのは得策でないと、隊員たちに焦りが見え始める。そこで、代わりにダンゴが一時的な指揮を任され、甲冑集団の二人は釈放されることになった。
「隊長」
広間に戻ってきていたキヘイはカズハの元へ行き、うずくまっている彼女に声を掛けた。その場にいた人々の視線は自然と二人に集まることになる。カズハは何も言わない。
「隊長のおかげで俺は命を救われました。本当に感謝します。ダンゴもユスケも殺されることもなく、戦闘部隊は全員無事です。そして何より、隊長自身も命を落とさずに済みました。俺は、隊長が戦場において初めて人を殺すのが、仲間と、そして自分の命を守る為の行為で良かったと、そう痛切に思っています」
そう言ってキヘイは、カザーニィにおける敬礼——気を付けをして、開いた右手を左胸の心臓の上に当てる——をした。
戦場において人を殺すのは、始めの内は自衛手段としての行いかもしれないが、数を重ねるごとに勝利の為となっていく。それは結果として国を守ることになり、家族や友人を守ることになり、自らを守ることにも繋がる。殺される前に斬りにいくか、斬りかかられたので反撃するのか。能動か受動か、どちらにせよ、戦場に正当防衛はない。殺し合いの場なのだ。殺される者にとって死は死でしかなく、殺した側にも残るのは殺人という事実のみである。殺し方に良し悪しなどあるはずもないが、キヘイはこれで良かったと明瞭に断言した。
「……そんなの綺麗事だわ。今は、戦争をしに来ている訳じゃない。私たちは旅をしているの。ここは戦場とは違う」
「……人々が武器を持って、国の外に出る。一度斬り合いが始まってしまえば、そこはもう戦場です。武器を手にした以上、戦で敵を斬らずに済まそうというのは、やや思い上がりが過ぎませんか。仲間の命を救うために奪った相手の命を、憐れむなんてそれは不遜だ!」
「おい、キヘイ」
少し荒ぶる様子を見せたキヘイをダンゴは諫めようとした。キヘイの言うことは正しいかもしれないが、カズハがこれまで一人も殺さずに隊長を務めあげてきたことに対して、その言葉は少々乱暴すぎた。そんなことはキヘイもわかっていて、しかしより大きな声を出す。
「いいですか、戦闘部隊に所属している以上は、俺たちみんなが戦場にいる人間の命を負います。あなたが奪ってしまったあの命は、あなたに救われたこの命で共に背負います。だからどうか、エデンへの旅を続けましょう。争いのない平和な町に倣って、奪う命を一つでも多く減らせるように、カザーニィに平和を持ち帰りませんか」
キヘイはそのまま、心臓にかざしていた右手をカズハへと差し出した。素晴らしく堂々とした態度で、仲間たちは皆その様子を見守っている。カズハはもう何年も堪えていたような涙を、それでもまだ堪えようとするかのように少しずつ流した。
その表情に鬼はもうない。たとえ戦力として弱くなってしまっても、このまま彼女の鬼が消えてしまえばいい、とダンゴは思う。カズハはキヘイの手に掴まって立ち上がり、遂に激しく涙を流した。少女らしく、一滴も堪えることもなく。
そしてまた、旅を中断させる長い時間が過ぎた。しかしもう誰も焦りはしない。カズハが気の済むまで泣き続けるのを、同志として温かく見守るだけだ。一時間でも二時間でも、一日だって二日だっていい。大人になっていく少女には見守られる時間が必要だ。
やがて、カズハの心模様に呼応するかのように、廃墟群に木漏れ日が射した。朽ちてもなお陽を遮るビルの隙間を抜け、カズハたちカザーニィの人々の上に降り注ぐ。その柔らかな日差しは一つの質素な墓の上にも及び、傍らでうずくまる二人の仲間をも温めた。
カズハはもう泣いてはいなかった。仲間たち——特にダンゴ——は己の罪枷が一つ外されたような気分を抱いた。カズハは墓の傍でうずくまる甲冑の者たちへと歩み寄り、しゃがみ込んで目を合わせながら言った。
「あなた達の仲間の命を奪った私が何を言うかと思うかもしれないけれど、もし良かったら、私たちの旅に付いてきてくれないかしら。さっきの話では、もう国に帰る場所はないのでしょう?一緒に旅をして、一緒にカザーニィへと帰りませんか。国のみんなはもちろん歓迎してくれるでしょうし、このままでは野垂れ死ぬだけだと思うの。でも、私の顔も見るのが嫌だと言うのなら、はっきりと断ってくれてもいいわ。どうする?」
甲冑の国の二人は、弱々しくも顔を見合わせ、お互いの気持ちを確認し合っていた。ひとたび武器を持って戦場に赴いたのであれば、それ相応の覚悟はしているはずだが、それでも頭領の死は二人にとって酷く受け入れ難いことであるらしい。なおさらカズハたちと共に旅をするなど考えられないかもしれない。しかし時代は弱肉強食。生きる意志のない者はとうてい生き永らえない。
二人は力なさげに厳かに立ち上がって「よろしくお願いします」と、小さな声で返事をした。
*
エデン探しの旅は七日目に突入していた。
出発前に立てられた計画ではとっくに四大国には辿り着いているはずで、今頃はエデンに向けてネトエル山を登っていてもおかしくはなかった。橋の崩落や廃墟群での騒動に加え、一行は小さな嵐にも遭遇した。物資の補給や怪我や自然災害など、旅に困難と遅延は付きものだった。
七日目の出発の朝、カズハはカザーニィへと伝書鳩を飛ばして、戦闘部隊と新しき仲間は無事であることを伝えた。まだ四大国には辿り着いていないが、今日にでも辿り着いてエデン探しを前に進めることを、カズハなりの気遣いと明るいメッセージで手紙には記していた。人間が探り歩いて進む道も、鳩は一直線に空から移動できるので、手紙が届くのには一日と掛からないはずだ。
遥かな青く白い空を、遠くカザーニィまで飛び去って行く伝書鳩は、それを見送る人間たちに明るい希望の姿を見せた。カザーニィを祖国とする者たちは、故郷の暮らしと家族たちの元気で過ごす姿を懐古し、新しい住民たちはより良い暮らしを想像した。カズハはいつも以上に明るく檄を飛ばし、戦士たちはその日も旅を始めるのだった。
太陽は一番高い地点を通過し、出発から七日目にしてようやく、ひとまずの目的地・エイ国を発見した。
小高い丘の上からエイ国へと続く橋を眺めると、重そうな鎧に身を包んだ人々が厳重に橋の番をしていた。橋の付近にも小規模な建物が点在しており、エイ国の支配がどこまで届いているのかが一目でわかる。無意味に近付くと穏やかでは済まされないだろう。
「ほらあ、見てくださいよ隊長、奴らの堅苦しい顔。鎧が重くて、表情まで重くなっちまってる。話し合いなんて通じませんよ、今からでも別の国を目指しましょう」
誰もが予想していたことではあったが、やはりゲンタがいの一番に弱音を吐いた。ゲンタの叔父にあたる年配の兵・フミオが臆病者の頭を小突くが、彼だって不安がない訳でもなかった。
「どうですかな、隊長。何を話せば彼らは我々を通してくれるでしょう」
「何って、正直にありのままを話すしかないわ。あの国の人々はね、誰もが紳士と淑女として自分たちを律しているの。少しは堅苦しいこともあるかもしれないけど、私も同じくらい真剣に言葉を交わすわ。そうすればきっとわかってくれる。何よりも避けなければいけないのは武力行使よ」
カズハは軽やかな身動きで丘を降り始めたので、仲間たちは急いで後に続いた。この旅が始まる前よりも隊長の風格は増しているように見える。
四大国の近くともなると、いくらかは道が出来上がっていた。丘を降りると石畳の一本道が続いており、一行は素直にその道の上を歩いた。旅の疲労を抱えた足にはご褒美のようにありがたい道であり、隊員たちの不安も少しは和らいだようだ。
「おい、そこで止まれ。何者だ」
僅かな安堵も束の間、道の先からは戦闘装備の兵士が二名、カズハたちの前に立ち塞がった。遠くで見るよりも数倍は重苦しい表情である。カズハはまず両腕を上げて、戦う意思のないことを示しながら話し始めた。
「私たちは東の国・カザーニィの戦闘部隊です。とある事情により私たちはネトエル山を目指しています。そこでエイ国からの入山を希望し、ここまでやってきました。私は隊長のカズハ。国王の護衛も務めています。まずはあなた達のリーダーと会わせてください。詳しい話をしたいと思います」
そこでカズハに続いて隊員たちは皆、装備を下ろした。甲冑の国の二人も慌てて真似をする。エイ国の兵士たちは重苦しい顔の眉間に、深い谷のような皺を寄せて訝しんだ。
「ネトエル山?あそこに何があるというのだ。果実も鉱石もない上に、魔物が住むという噂すら流れているような怪しい土地だぞ。そちらに敵意がないことはわかったから、まずは目的を言え。話はそれからだ」
「ネトエル山の頂上にあるというエデンの町。そこを目指しています」
「エデン?」
エイ国の兵士たちは顔を見合わせ、何を言っているのかわからないという表情を二人ともが浮かべた。もしかしたら名前くらいは知っているのではないかとカズハは考えていたが、風の噂にもなっていない程度らしい。
「一週間ほど前、私たちの国に怪我人が流れ着いてきたのです。彼は腹を毒矢で射られ、瀕死の状態でした。そして自分がエデンという町からやって来たことを話してくれ、死ぬ間際に妹さんへの伝言を遺しました。彼が言うには、エデンには争いがないと。彼の伝言と、エデンの平和の秘訣を知る為に旅をしています。どちらにせよリーダーの許しがないと通れないのでしょう?会って話をさせてちょうだい」
カズハは少しばかり隊長らしさを表に出すと、兵士たちは怪訝な顔で彼女を見た。しかし実際はカズハが言う通りであり、国が関係するような高度な決め事の決定権など持ち合わせてはいない。規則ということでさらに二人の兵士を呼び、重装備の兵士四名に囲まれる形で一行は橋まで案内された。
橋の手前の関所まで行くと、あらゆる武器をここで預けるようにと命令された。カズハたちを正式な客人として認定するまでは、一切の武器の所有を禁ずると言う。一行はその言いつけに従い全ての荷物を置いた。やがてカズハのみが橋の一歩手前に立たされ、残りの隊員たちは武器を構えた兵士たちに監視される事となった。
その状態で数分が経過した時だった。全力で石を投げても届かないような橋の対岸から、装備を整えた兵士たちが五人、列を組む形でカズハの方へと歩いてくるのが見えた。一人だけが列の前に立っていて、彼のその透き通るような金髪と、海のように青い瞳は遠くからでも目立つ宝石のようだ。
カズハと歳の違わぬほどに若い美青年は、兵士たちの長を務める新リーダーであるらしかった。彼の噂はカズハのような国の指揮者たちには広く知れており、突然の来訪にも関わらず、ものの数分で装備を整えてきた様子にカズハは好感を抱いた。
隊列は橋の中程を過ぎた辺りで止まり、リーダーだけがそこから五歩ほど歩いて止まった。カズハとの距離はそう遠くないが、剣を振るっても届かない程度には離れている。その姿勢に同じ指揮官としてカズハは敬意を抱いたが、彼の鬼気迫った表情からは不審なものを感じ取った。まるで何かを必要以上に怯えているようだわ、とカズハは思う。
「私の名前はエドワード。エイ国の新しい兵士長を務めている。最近この役を任されたばかりだが、あなたの事はよく聞いている。カザーニィの戦乙女。会えて光栄です」
「私の方こそ。こんな突然の訪問になったことをお許しください。よろしく、エドワード」
表情とは裏腹の柔和な物腰にカズハは安堵した。やはりこの国を選んで正解だったようだと、口調も自然と親密になる。
「ところで、事情はお聞きになりました?私たちはネトエル山を登りたいの。国を通る許可をいただきたいのだけど」
そしてカズハは番兵にしたのと同じ説明を繰り返した。エドワードは直立不動の姿勢と深刻な表情を微動だにせず話を聞いていたが、カズハが話を終えるとゆっくりと首を振った。
「その話、信ずるに足りる証拠はありますかな。また、我々に国の通過を許すメリットがない。長旅のところ申し訳ないが、ここでお引き取り願いたい」
「そんな、私たちは本当に通してくるだけで構わないの。もちろんお礼の品は用意しています。カザーニィがどんな国かはあなたも知っているでしょう?」
「我が国は近頃、近国からの襲撃が多い。無駄なリスクは背負いたくないのだ。私が兵士長を任されたのも、国の護りをより強化させる為にある。お引き取り願おう」
「そんな……」
カズハたちの焦りを助長するように、エイ国の兵士たちは鞘から剣を抜いた。後ろの方で囲まれているカザーニィの隊員たちは口々に文句を言ったが、兵士たちの動きで強制的に黙らされてしまった。エイ国に一番の可能性を感じているカズハは容易に引き下がりたくない。何とか許しが出ないかと必死の訴えを続ける。
「では、私たちの武器をそちらが預かったままで、さらに兵士たちに囲まれたままで構いませんから、山まではどうか通してください。私たちもこの国の真面目さに懸けているのです」
「なりません。最近は火薬が多く武器として使用されている。あなた方が国民の集まる広場で、その服の下に隠した火薬を爆破させないとも限りませんからね」
エドワードはあくまでも厳格だった。国を護るという大義を背負っているが故の、何ものも信用しないという信念が表情に表れている。カザーニィの隊員たちはもう一度抗議の声を上げた。「俺たちがテロリストに見えるって言うのか!」「あんたはカザーニィの人間がどれだけ平和的かを知っているだろ!」「こっちにだって尊厳ってものがあるんだ!」今度は脅されても容易には怯まない。これまでに築いてきたはずの国の信用が無碍にされたのだ。カズハも背水の想いで必死に考えを巡らせる。
相手は真面目で、それを通り越して潔癖だ。こちらを弱き者として侮らないというのであれば、その真摯さ——もとい、紳士さ——を信じるしかない。今この場で、カズハだけに与えられた武器は何だ。そう、私はこの場で唯一の女だ。この国の人々が紳士としての自負を持っているのならば、女性への敬意を忘れることはないはずだ……。
そしてこれしかないと思いついた方法を、唇を噛みしめながらも実行する決意を固めた。後ろでは仲間たちの文句が聴こえ、エドワードは眉一つ動かさずにカズハを睨んでいる。決意とは関係なく一瞬だけ身体が動きを止めようとしたが、より大きな責任感を糧とし、彼女は毛皮の布を脱いで一糸まとわぬ上半身を曝した。その場にいた男たちの誰もが狼狽を見せた。
「何をしている!嫁入り前の女性が、そんなことをしてはいけない!早く服を」
そう言ったエドワードを含め、兵士たちはカズハから目線を逸らした。彼らが紳士であるというのは本当らしい。カザーニィの隊員たちも大慌てだった。誰もが兵士の止めるのも聞かずに、カズハの元へ行って自分の服を被せようとしている。
「目を逸らさないでください。私が橋を渡ろうとしたらどうするの。あなた達の話を聞く限りなら、こちら側の全員の装備を没収して、全裸で監視付きの状態でなら国を通っても問題ないはずよね。カザーニィは友好の国としてこれまでやってきたはずだけど、どうしても信用してもらえないならこうするしかないわ。どうかしら、問題がありますか」
「いや、しかし」
「下も脱いでほしいのね!」
カズハはそう叫んで手に持っていた服を地面に投げ捨てると、下半身を覆う毛皮にも手を掛けた。闘いのときに見せた鬼とは別の鬼の表情——通ずるとしたら、鬼嫁——だとダンゴは思った。エドワードは急いでカズハの服を取り、彼女の身体が隠れるように服を被せた。彼は手に持っていた剣を取り落としてしまう程の慌てようだった。
「わかりましたから、早く服を着てください。ああもう何て強引な人だ。そうですね、わかりました、我々が疑心暗鬼になりすぎていたことは認めます。女性にこんな辱めを与えてしまうなんて、本当に申し訳ない。ああ、我々にも守るべき名誉がある。先程までの非礼はお詫びしますから、どうかすぐに服を着てください」
エドワードは視線を逸らす為にも深々と頭を下げ、カズハは満足げな顔で服を着た。エイ国の兵士たちは誰もが恥ずかしそうに俯いており、カザーニィの隊員たちはようやくホッとしたり、心配で疲れたような表情をしながらも、取り上げられていた荷物を返却してもらった。誰もが〝戦乙女〟の名は伊達じゃないなと感じたようだった。
**
カズハの身体を張った訴えが功を成し、一行は巨大な石造りの橋の通行を許可された。橋そのものに慣れていない隊員たちは、足下に広がる巨大な河を物珍しそうに眺めながらエイ国へと入っていった。
カザーニィは和平的な国として認知されているとはいえ、他国に入るというのはこの時代そう簡単な話ではない。エイ国兵士たちのカザーニィへの敬意の表れとして、武器も含めた全ての荷物が返却されていたが、一行には警備としての兵士が付き纏うことになった。さらにカズハはエイ国王への謁見を許可(もとい強制)された。事態はそうそうないくらいにイレギュラーだったので、国としても特別な対応に出ざるを得なかったと言う。
しかし一行は歓迎されている状態にもあった。とりあえずカズハは国王に会いに行かねばならないが、その時間を使って隊員たちには街を歩き回る権限が与えられていた。橋の上での無礼を詫びる為にも、食料調達や休憩などを好きにしてくれて構わないと言う。もちろん隊員一人につき一兵士が監視に回るのだが。
「いやあ、一時はどうなることかと思いましたが、雨降って地固まるとはこのことですな。ここに来ての物資補給は何よりもありがたい。しかしですな隊長、雨が降るって言っても、こちらとしては雹が降ったような気分なのですぞ。あんたまだ十九なのですから、まあ何歳だろうと女性があのようなことをしてはなりません。ワシらのような野郎どもが裸になるのとは訳が違う。いくら目的の為とはいえ、乙女があのようなこと。本当にワシは肝が冷えました。だいだいですな、他にもやろうと思えば手段はいくらでも……」
「もう、おじさまはいつまでもうるさいわ。もう過ぎたことなんだし、ああいうのを女の武器って言うのよ」
「まさか、女の武器なんて。いけませんぞ、そんなことを言い出すようになっちゃ。もっと自分の事を大事にしないと。カズハは昔っから無茶しすぎる。それにそういう考えは男尊女卑とか女性蔑視に繋がると言われてですな、いつぞやの時代ではすぐに規制だの何だの……」
「まあ、いつ見ても立派な街ね!」
カズハはわざとらしい大声を上げた。ダンゴはお小言を遮られる形になってしまったが、カズハの言う通り、本当に立派な街がそこにはあったので思わず口をつぐんだ。
石橋を渡って鉄門を抜けて、その先にはエイ国の誇る近代文明の街が広がっていた。二階や三階建ての建物などはそこら辺のどこにでも建ち、人々は知的な服装に身を包み、カザーニィではまだ誰も見たことがない自転車という乗り物が走り始めている。まさに国と呼ぶに相応しい光景だ。機械好きのショウは誰よりも目を輝かし、垂涎の想いで自転車に近寄ろうとしたのを真っ先に止められた。
武器を持った兵士たちの姿がそこらに見られるが、国の外とは違って人々は余裕に満ちた表情で歩いていた。厳格さや貞淑な雰囲気は漂うが、そこに重苦しさはない。紳士と淑女の国の名に間違いはないようだ。気品と自信、四大国の中でもトップを誇ると言われる兵力による安定した国の形がそこにはあった。
これもまた、一つの平和の形かもしれないとカズハは思った。しかしどれだけ文明が発達していようとも、他国を武力で圧倒できるという余裕から生まれる安定した平和の形、それに喜んで飛びつくことは出来ない。自らの手で人の命を奪ったことで確信したのだ、人が人を殺すべきではないと。美しき人々の営みの姿を前に、羨望と戒心をカズハは同時に心へ宿した。
「ここで止まれ。あなた達、隊の人々はこの建物に武器を預けてもらい、監視付きで申し訳ないが街を好きに移動してくれて構わない。我らが街でなら物資は充分に補給できるだろう。そしてカズハさん、あなたは国王に謁見だ。先の話は直接その口から伝えてもらいたい。王にその顔を見せた経験が御有りなら話は早いだろう。まだ疑っているのだとは思わないでくれ。こうすることによって国内での立場が確保されると考えてもらいたい。私の非礼はそのまま伝える。おそらく謝礼としての何かが与えられるだろう」
エドワードはリーダーとしての風格をすっかり取り戻していて、よく通る声で指示を出すと一同に解散を伝えた。ダンゴたちに見送られながらカズハは彼の後ろに続き、その後ろには兵士が二人付いてきた。カズハにとっては慣れないことではない。カザーニィのおじさま達の大きな声が聴こえた。カズハは明るい笑顔で手を振った。
「えっと、エドワード。さっきはごめんなさいね。急にあんなことされたら驚いたでしょう。どうか、気分を悪くしないでもらいたいのだけど」
「問題ない。話なら後にしてくれ」
「え?ああ……」
エドワードがリーダーとしての風格を取り戻せば、このように愛想のない兵士になるらしい。治安悪化の情勢で、国を護るために据えられた新しい兵士長としての、屈強で隙のない態度。それにしても少しくらい、とカズハは思ったが、この旅の目的地はエイ国ではないので気にし過ぎないことにした。せっかく国内に入れたのだから、ここで問題でも起こせばネトエル山への道は絶望的になるだけだ。エドワードの態度も下手に感情的にならない分、上に立つ者同士としては話しやすくて助かるのかもしれない。
エドワードは本当に無駄を省くような動きで王邸へと向かった。カズハは街を眺める暇もなく彼の後を追った。口や態度では無関心を装っているが、橋でのカズハの行いを怒っているのかもしれない。やはり紳士を自負する彼には強引すぎる手段を選んでしまったか。カズハは少し反省し始めていた。もしも時間が与えられるのなら、一緒にみんなで食事でもして腹を割って話をしたい。が、エイ国としては用事が済めばすぐにでも国を通過してほしいところかもしれない。
そうこう思案している内に、国内のどの建物よりも大きな門の前まで辿り着いた。エイ国王邸である。白一色の横長な建物で、人が住むことよりも政治的な機能に重きを置いた雰囲気だった。カザーニィの国王の家も大きいとはいえ村長レベルの建物だから、庭などなければ二階建てですらなく、広さも普通の家の二倍程度に収まる。カザーニィで一番背の高い建物は櫓だと言うのに、この国では王邸の方が見張り台よりも高いのだ。橋を渡る途中に国の最重要地点が確認できるというのは、防衛面から見れば呆れるべき事かもしれない。
カズハは贅沢な王の建物に幾らか辟易しかけたが、今から自分がこの中に入るのだと思うと少し委縮するようだった。国王の護衛としてここに来た時は、あくまでもおまけのような扱いだったのである。そんなカズハの様子に気付く暇もなく、エドワードは真っ白な石畳の上を歩いて行くので、彼女も遅れながら後を追う。左右には待機していた兵士たちが直立の姿勢で少し上を向き、カズハらの後ろについていた二人の兵士もその中に加わった。エドワードはようやく紳士らしい気遣いを見せ、自ら扉を開けてカズハを中へと案内してくれた。
そこからは侍女たちが先頭を歩き、エドワードはカズハの後ろに付いてきた。まるでお姫様扱いのようで珍しくカズハの緊張も高まり、二階中央にある王の間の扉の前まで歩くのに、自らの服装——戦闘用の毛皮の布に旅用の軽いマントを羽織ったもの——の場違いさを深々と実感した。
「謁見!」
前触れもなくエドワードは大きな声を上げ、侍女たちが二人掛かりで王の間の扉を開いた。カズハでなければ驚き慌てる様を見せたに違いない。エドワードに少し促されるように室内へと入ると、少し進んだ先には国王と王妃がおり、カズハが近付くのに合わせて優雅に腰を上げ軽く頭を下げた。贅を尽くしたような服装が上品に揺れる。カズハは二人の前まで行くと、立ち止まってより深く頭を下げた。
「ようこそ、我が国へ。聞くところによると我らが兵士長が入国前に無礼を働いたそうで。何であろうとまずはそれを詫びなければいけない。彼はまだ就任したばかりで気負いが過ぎてね、まさかカザーニィの人々を必要以上に疑うとは。どうかこの通りだ」
国王は国王らしからぬ腰の低さで、謝罪としての意味合いで頭を下げ、王妃もそれに倣った。
「いいえ、貴国の情勢を考えると決して過ぎた疑いとも思えません。どうかこちらこそ、突然の来訪をお許しください」
カズハはなるべく国王よりも深い礼になるように意識して頭を下げた。国王は深い理解と友愛を持って頷き、カズハに頭を上げるように告げた。両者は顔を見合わせると少し笑顔を見せ合った。国王は次にエドワードの方へ顔を向けると、彼が橋の上で何をしたのか話すように告げた。
エドワードはありのままの顛末を話してしまうと、自分には解任や収監の覚悟もあると堂々と述べた。さすがにそれはやりすぎだとカズハは思うと、国王にもそこまでのお咎めをするつもりはないようだった。
「エドワード。君には大きすぎる責務を背負わせてしまったかもしれない。そこまで一人で抱え込まなくても良いのだ。彼女に誠意を尽くして謝罪と贖罪を成したのならそれで充分だ。若いというのは良いことだが、些か度が過ぎることもあるな。さてカズハどの、あなた達がここに来た目的も聞いておかなければならない」
「はい。私どもがエイ国を通過せざるを得ない理由、それはエデンという一つの町にあります」
カズハは橋の番兵やエドワードに話したのと同じようなことを、なるべく畏まった口調で話した。普段の三倍は上品な口調だ。この国の、それも国王を目の前にすると、自然と紳士・淑女としての自覚が芽生えるような気がしてならない。
「なるほど。それは確かに証拠もなければ夢のようなお話にも聞こえますな。ははは、我らが兵士長にも同情の余地はある。しかしですな、他でもないカザーニィの〝戦乙女〟の言うことだ。疑う必要などどこにもない。こういう時代だからこそ人と人の信頼関係は何よりも大事だ。違いますかな」
「いえ、そう仰っていただけると誠に心強いです。我々だって事の真偽は定かではないのですが、あのエデンの男性を信じたことから始まっています。ご理解、深く感謝いたします」
エイ国王は満足そうに頷いて白く豊かな髭を撫でると、王妃を見て共に微笑んだ。畏まって優雅な態度や、上質で人々の目に触れる服装など、紳士や淑女の基盤はこの二人から形成されているのかもしれない。カズハは立場や現状などを無視して、一人の女の子としての儚い憧れを感じた。
「ではカズハどの。あなた達カザーニィの人々には、この国で自由に行動する許可を授けましょう。旅支度が充分に整うまでは好きに過ごしてもらって構いません。監視なんて今すぐにでも外すべきだ。もっとも、ここに住むなんて言い出したら話は別ですがな。やあ、それとはまた別に、エドワード兵士長には懲罰を与えないといけない。出来ることならあなた方への贖罪も同時に満たせるものがいい。いや、これはこちらの勝手な都合になるかな」
「それでしたら国王、私に一つ考えがございます」
口を挿んだのはエドワードだった。懲罰を受ける者が刑の内容を進言するというのも変な話かもしれないが、国王は穏やかに笑って意見を促した。
「私は己の未熟さ故に彼らを危機に陥れました。よって、彼らの身は私がこの身を持って警護したいと存じます。警護と言うのでは傲慢かもしれません、この命に代えてでも、カザーニィの戦闘部隊をお守りしたく存じます。それは同時に我が国の護りが希薄になることに繋がりかねませんが、私はこのカズハ戦闘部隊長からリーダーとしての資質を学ぶ機会を得るということで、どうかお赦しいただけませんでしょうか。臨時の兵士長にはジャックを推薦いたします。彼なら私も安心です」
「ほう、君が兵士長になってまだ二ヶ月と経ってないぞ。それに、それは君にとって懲罰となるのかね」
国王はそう言いながらも、年相応の少し意地の悪い笑みを浮かべた。何かエドワードが言葉にしていない腹の中の想いを汲み取った、そんな風な表情である。
「それはもちろん、この命を懸けるという点において。いえ、それでは足りないと仰るのであれば、他にどんな罰が下されようとも受け入れます。しかし、彼女の指揮官としての器は」
「ああ、いい、大丈夫だ。私としては何も問題ないよ。それよりもカズハどのの許可をいただいたらどうかね」
「あ、はい!私としても光栄なことだと存じます」
カズハの明朗な声を聴くと、国王は若さに体が毒されてしまったとでも言うように疲れたリアクションを見せた。これは意外な展開になったとカズハがエドワードに目をやると、彼は顔を伏せたまま朗らかな表情を浮かべていた。これはとんでもない真面目青年なのかしら、それとも何か、とカズハは少し覚束ない気分を抱えた。
エイ国王との謁見を経て、カズハたちカザーニィの旅団一行には国内での自由が与えられた。その報せは王邸から国中へと広がることになり、兵士たちを経由してダンゴたちの耳にも届くことになった。
王の間から退出した後、カズハはすぐにダンゴたちと合流して今後の予定を練ろうとしたが、エドワードより王邸内を案内したいとの申し出を受けた。ここまで移動する際の無粋な態度とは大違いだ。不思議な気分になりながらも、カズハは身の振り方を思案する。エデンへ向かうのは早ければ早い方が良いのは間違いないが、旅の疲れを癒して山登りの英気を養うには、どのみち今夜はエイ国に滞在することになる。エドワードは共に旅をする仲間となったのだし、ここに来るまではお喋りも出来なかったのだからとカズハは案内をお願いした。代わりに戦闘部隊のメンバーが王邸に召集を掛けられることとなった。
そしてエドワードによる王邸案内が始まったが、建物の中はとにかく立派だった。国の持てる最高品質の建築物を目指し、床に柱に壁紙や花瓶までもが最高級の一言に尽きる具合だった。エドワード曰く、この世の気品を結集させた邸宅がこの建物であるらしい。
兵士長というのが国王からどの程度の権限を与えられているのかは定かでないが、庭やキッチンにバスルームまでをカズハは案内された。彼女としては何もここまで豪華にしなくてもとは思ったが、その反面ここまで繊細に造り上げる職人たちの腕は素晴らしいとも感じたので、その感想だけをエドワードには伝えた。
「さあ見てくれ。ここからは街の建物の全てを眺めることが出来る」
カズハの背の三倍はあろうかという天井を三階分も登った先で、二人は建物の屋上へと辿り着いた。屋上は王妃専用の庭園となっており、夢が現実に姿を現したような幻想的な空間が広がっていた。可能な限り敷き詰めた花々をどこから見ても隙のないようにガーデニングしており、日光浴を楽しめる広間には林檎の樹までが生えていた。二人はそこまで歩いてようやく腰を下ろした。カズハとしては早朝から十時間ぶりの休憩である。
「気持ちのいい場所。心を静かにできる空間ね。……んんっ。ところでエドワード、本当に護衛までやってもらってもいいの?私たちは何もそこまでしてもらわなくても、こうして国内を自由に歩かせてもらうだけで充分にありがたいわ。もしもその、わたしの事だったら、そんなに気にしなくても大丈夫だから。自分から勝手にやったようなものだし」
「いいや、それでは己の決めた道に反してしまう。国の為とはいえ女性にあのような辱めを受けさせてしまったのだ。隊長としての覚悟とか、過ぎたことだと君は言うかもしれない。しかし私の未熟さが招いた結果だ。そこだけはしっかり償いを果たして進まねば、私はこれ以上の人間にはもう成り得ない。一人の紳士としての責任を取るべきだ。カズハさん、この先もどこかで危機は訪れる。それがいつ、どんな時であろうと、私のこの命を削ってでも君を守らせてほしい」
「……ええと、あの、ええ、そこまで言うなら。私としても別に困るって訳じゃないから、それじゃあお願いするわ。ああそれと、これからはカズハって呼んで。一時的でも仲間なんだし。私もエドって呼びたいわ。構わない?」
「ああ、構わない」
承諾の返事をエドワードはくれたが、何となく浮かない表情にも見えた。しかし、とにかく美青年である。たとえ表情が曇ろうとも顔の輝きが消えることはない。ちょっと時間を置いて、エドワードが照れ臭そうに顔を逸らすのを見て、カズハは自分がエドワードに見惚れてしまっていたことに気が付いた。男とか女とかではなく、一人の人間として素直に感嘆する想いだった。
「ああ、えっと、カズハ。私の覚悟は生半可なものではないと認識してもらいたい。君のあのような姿を見てしまったのだ。それも私の失態が原因となって。そんな君を守るというのだから、この身を生涯ごと捧げても構わないと思っている。これは兵士としての務めではなく、紳士としてこの国に生まれた、一人の男として、生涯懸けての責任だと考えているのだ。しかしそれはその、もし君さえ良ければということであってだな。君の気持ちを無視しては元も子もなく……」
「ええ、だから守ってくれるんでしょ?そこまで大仰じゃなくてもいいけど、折角だから快くお願いしますわ。エド」
にっこりと笑うカズハとは対照的に、エドワードは歯にものが詰まったような顔をしていた。「その、男としてというのが重要であってだな……」と何やら呟いている。
そこに足音が幾つか近付いてきた。カズハが振り向くと一人の兵士がダンゴとキヘイとトシを連れている。ダンゴはカズハを見つけると安心したような素振りを見せた。
「やあ、お元気そうで何より。あのまま捕まって牢屋にでも入れられちまうんじゃないかと考えてましたわい」
「何よそれ。エイ国の人々に失礼だわ。ここから国民全員に謝罪でもしておきなさい。それより他のみんなは?」
「どうやら観光に忙しいらしくて、近くにいたのが我々くらいだったようですぜ。丁度良く国内での自由を許されたんですから、今日一日くらいは甘く見てやってくだせえ」
「まったく」
文句ありげな様子を見せながらもカズハは穏やかな態度だった。隊員たちがのんびりしている事こそが、平和を表す状態なのである。そもそも、ここに集まった四人がいれば部隊の頭脳は機能する。隊長の招集に駆け付けなかったことは不問としておいて、何となく不服そうなエドワードも含めて、庭園で休息も兼ねた作戦会議が行われることになった。カザーニィを出発して以来、初めてカズハの心に平穏が訪れるような時間が過ぎていった。
**
翌朝、頭痛と気怠さを伴ってエドワードは目を醒ました。ようやく空が白んできたような早い時間である。
まるで風邪を引いたかのような体調をエドワードは訝しんだ。しかし、用意されていた井戸水で顔を洗うと、ようやく昨日の夜のことが脳内で輪郭を成してきた。
昨夜はカザーニィの人々を歓迎する大規模なパーティーが王邸で開かれたのだ。この国での来賓歓迎は、豪華な食事と自慢のワインで行われる。もちろん、国王自慢の大きな王邸の広間を会場として、様々な国民が招かれることになる。
昨日は急に開催が決まったパーティーだったので、国民の大多数は参加することが出来ず、代わりに多くの兵士たちが参加を許された。兵士長を務める程になると、若くても多くのパーティーに出席した経験があり、エドワードはいつもと変わらず紳士的な立ち居振る舞いが可能だった。しかし兵士の中には警護でしか王邸に入ったことのない者も多くおり、彼らは不慣れなタキシードに身を包んで落ち着かない様子が目立っていた。
どうもそれがいけなかったらしい。会が進むに連れ兵士たちにはワインが効き始めるし、カザーニィの隊員たちは余り飲まないワインを珍しがって呷るので、徐々にパーティーは宴会の様相を呈してきたのだ。
しかしここは紳士と淑女の国。カズハはすぐに隊員たちを王邸内から追い出し、エドワードも兵士たちを一人ずつ外へと運び出した。そして彼らを街の酒場へと移動させた。
エドワードはすぐに王邸へと戻るつもりだったが、数多の酔っ払いに囲まれた状態では簡単なことではなかった。国が認めたお客様だからと、飯もお酒も次々に運ばれてくる。酒場にいた人々は兵士たちを囲んで日頃の感謝の盃を交わすし、エドワードは最年少で兵士長を務め上げる英雄として中心に座らされた。街の人々も普段はもっと落ち着いているのだが、この日は国から来賓歓迎のお告げもあって無礼講だった。そこからエドワードの記憶はない。
誰かが運んでくれたようで、彼は王邸内の兵士長部屋のベッドいた。ローテーション制の警護兵士と、常駐する兵士長には王邸内に部屋を与えられている。もっとも、兵士たちと比べるとエドワードの部屋は数倍も豪華だ。
紳士としての昨晩の体たらくを恥じながら、酔いを醒ます為に窓を開けて外を眺める。この部屋からは屋上ほどではなくとも街中を眺めることが出来るのだ。国を護る兵士長への褒美と戒めを兼ねた贈り物だ。
しばらくして部屋を出ると、王妃が階段を降りてくるところに遭遇した。エドワードはすぐに背筋を伸ばすと、エイ国式のマナーを持って深々と頭を下げた。
「お早いお目醒めで、王妃様」
「貴方もね、エドワード。昨日は随分と飲んだようなのに。貴方を運び入れてくれたお姫様は屋上でまだ寝てるわよ。キスでもして起こしてきたら」
「キス?」
王妃からすれば、カズハと同い年のエドワードなどまだまだ子どもだ。上品な素振りで早朝から彼をからかって、王妃は下へと降りていった。エドワードは恥ずかしいような呆気に取られたような気でいたが、すぐに屋上へと上がることにした。本当に豪華なこの王邸には、屋上の温室内に王妃様のお昼寝用ベッドが置かれているのだ。
朝から気品のある香りが漂う屋上庭園には、はたして本当にカズハが眠っていた。水気をたっぷり含んだ温室の空気の中で、王妃から借りたのであろう衣服を身に付けて、王妃の言葉通りにお姫様のようなカズハが寝息を立てていた。ベッドの傍らには昨晩のドレスが置いてある。十九歳にぴったりなエレガンスさと少女性を兼ね備えた赤いドレスだった。エドワードは急にこの空間が夢の中であるような気分が起こった。
彼は少し気後れしながらも、なるべく邪魔にならないよう静かにベッド脇の椅子に腰掛けた。こうして健やかに眠る姿を見ると、彼女が戦闘の鬼として名を馳せているなど信じ難いことだった。豊かに蓄えられた睫毛を眺め、不意に昨日の橋の上での彼女の姿を思い出してしまい、彼は赤面して己を戒めた。平常心を何度も己に言い聞かせ、兵士長としての風格を取り戻した頃にもう一度カズハに目を向け、口に入りかけていた髪をそっと払いのけてやった。するとカズハはうっすらと瞳を開いた。
「……ああ、エドね。おはよう。もう元気?」
「おはよう、カズハ。君のおかげでよく眠れたよ。ありがとう。昨日のドレスはよく似合ってた」
「ええ、あなたも、いいドレスだったわ……」
そう言い残してカズハはまた目を閉じた。寝ぼけている様子で何を言われたかもわかっていなさそうだ。エドワードは、とりあえずドレス姿を褒めることは出来た、続きはまた今度だと自分に言い聞かせた。そして音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、静かに温室の中を出ていった。
屋上を見渡すと、北にはネトエル山がそびえ立っている。山頂を見つめるが、そこに争いのない平和な町が存在しているようには思えない。しかし行くしかないのだ。そしてカズハの命を一番近い所で守るのだ。エドワードは今一度、不屈の心に刻み込んだ。東からは太陽が近付いてくる気配があり、それでもまだ〝戦乙女〟には一時間ほどの休息が残されているのだった。
エドワードが庭園を後にしてきっかり一時間後、カズハは温室に入り込んできた朝日を受けて目を醒ました。
生涯に一度でも経験すれば充分なくらいに心地良い空間での睡眠を摂り、心も身体も活力に満ちているようで清々しかった。国王からは、まだまだエイ国内での自由を許されているが、昨晩の時点で既に準備は整っていた。エデンから来た男、カザーニィの人々、道中で奪ってしまった一人の命、様々なものの為にも旅は再開されなければいけない。今日の朝から出発することは、ダンゴたちから隊員へと伝わっているはずだ。
カズハは寝起きの頭を働かす為にも、庭園の小洒落た机の上で手紙を書いた。エイ国での出来事や街並みの素晴らしさ、エドワードのことなど、きっとカザーニィの国王も手紙を読んで晴れ晴れしく思うだろう。この国には本当に優雅な風が吹いている、と現在進行形で感じることを手紙の締めくくりとし、伝書鳩を飛ばした。カズハは兵士に声を掛けて仲間を王邸前に集めることにした。
いくら二日酔いが残っていようとも、旅の再開とあれば隊員たちはすぐに王邸前へと集合した。そもそもメンバーの多くが酒豪を誇る為に、アルコールによるダメージは大したことがないようにも見える。エイ国の高度な文明に羽目を外しすぎたショウと、昨晩になって初めてお酒を飲んだ十四歳のユウタだけがまだ気持ち悪いようだ。とはいえ二人ともかなりの修練は積んでいる。直に回復するだろう。
エドワードと甲冑の二人が加わった為に、一行は十六人に数を増やしていた。カズハは旅立ちの時よりも仲間が増えていることに誇らしさを覚えた。自分たちのやり方はこの世界で決して間違っていない。心よりの対話を諦めなければ人々は繋がれるのだ。きっと、この姿勢を後押ししてくれる何かが存在して、エデンの平和の秘訣はそのヒントを与えてくれるに違いない。旅の先には希望がある。
「エイ国の尊大なおもてなしを、このような短時間で辞退するご無礼をどうかお許しください。私たちにはエドワード兵士長もいるのですから、必ずやエデンからの帰り道には平和の秘訣を共有しに戻ってまいります」
平和を手にした日にはカザーニィにお招きすること、そして力いっぱいの歓迎をさせていただくことを、カズハは帰りの為にここでは伝えないことにした。エイ国王と王妃は惜別の表情を浮かべながらも、カザーニィ国王のように新しい風の期待を持って戦士たちを見送った。
ネトエル山は標高約二千メートル。エイ国を発つ前に立てた計画では、山頂にあるとされるエデンの町まで登りきるには少なくとも四時間は必要だと見積もっていた。季節によっては頭に雪を被っているし、当然ながらカザーニィやエイ国よりは寒い場所になる。部隊はしっかり登山にも耐えうる装備を揃え、防寒具も食料も充分に確保できていたが、隊員たちは決して楽天的な表情にはなれなかった。それは、魔物が住むという噂などが原因ではない。魔物なら似たような動物たちと道中で格闘してきたし、そもそもこの噂はかなり都市伝説じみたところが多かった。翼が生えていて空を飛ぶとか、山に生えている大木を食料としているとか、極めつけは山のように大きいというのだから信じる気もなくなる。
一同が悩まし気な様子を隠し切れないのは、エデンらしき町の姿が少しも確認できないことにあった。エドワードが屋上庭園で山を眺めたように、カズハたちも昨夜のパーティーの前にはネトエル山を可能な限り調べていた。カザーニィにはない望遠鏡という道具を使って、山頂の辺りに人が住んでいる様子はないかと確認してみたが、そんな気配はどこにも見当たらない。エデンから来た男が着ていた真っ白なレースのような着物なら、山の中では目立ちそうなものだ。エデン探しの旅もあまり雲行きが良いとは言えないが、カザーニィで死んだあの男が最期にろくでもない嘘をつくような人間にも思えなかった。それに、遥か遠い山頂を充分に確認したとは口が裂けても言えない。何にせよ、カズハたちに残された手段は山を登ることしかない。
「可能性はいろいろ考えられるわ。山頂に窪みがあってその中に町があるのかもしれないし、もしかしたら洞窟内の町なのかもしれない。エイ国とは真逆の位置にあるから見えないことだって充分に考えられるし」
カズハはなるべく声掛けを怠らないようにして山を登った。カザーニィの戦闘部隊には登山くらいで音を上げるやわな男はいなかったが、甲冑の二人が心配だった。昨夜のパーティーにも参加せず、カズハたちに心を開き切っていないのがはっきりとわかる。そして国外では甲冑を決して脱がなかった。山登りにはどうしても向いてない装備だが、こればかりは無理強いして外させる訳にもいかない。彼らの体力には気を配らなければいけない。
「……これがネトエルか。これは確かに、迷信など無くても四大国が手を出さないはずだ」
いつも山を見ている者として、エドワードは低い声で呟いた。彼が苦言を呈してしまう程に、ネトエル山そのものにも幾つか問題があった。
まず前提として磁場が狂っている。すなわち、この山ではコンパスが言うことを聞かない。方角がわかりにくくなるということだ。そして、とにかく広大だった。高さとしては二千メートル程度、大したことはない。しかし面積は国が二つは収まる程に大きかった。その為に傾斜は緩く、幸か不幸か登り道がかなり少なかった。歩く分には登り道などない方が良いが、広大な平たい森の中で一度方角を見失えば、それは重大な死活問題となる。ずっと登り道が続くのであれば方向など見失わずに済むのだ。
問題は他にもあり、人が長いこと干渉していないので道と呼べるものが何もなかった。鬱蒼と生い茂る自然を掻き分けて進むしかない。またそれだけ未知の空間が広く、どこに何があってもおかしくない。動物はいるだろうし、地面に溝が開いているかもしれない。登山というよりは開拓に近い。
さらに、あまり人目に付く訳にもいかなかった。ここで言う人目とは、エイ国以外の四大国に住む人々の事だ。エイ国王が他の三国に事情を説明した手紙を送ってはいるが、カズハたちの姿がネトエル山を越えての侵略と勘違いされないとも言い切れない。必要以上に派手なことをすると何が返ってくるかわからない世の中なのだ。
旅人たちの先ゆく道は長く、そして困難に満ちている。しかし立ち向かうのは〝戦乙女〟率いる勇敢な男たちだ。先頭を歩くカズハとエドワードはやはり並の逞しさには収まらず、彼らの背中は追い掛ける仲間たちを寡黙に鼓舞し続けていた。
「カズハ、君の国に来たエデンの男はどのような人物だったのだ。詳しいところをよく聞かせてほしい」
「ええ、すぐに亡くなっちゃったんで、そんなに詳しいことは私にもわからないのだけど、こうして山を登っていると変な感じもしてきたわ。彼はあなた達の国の人が着ているのよりも少し質素な着物を着ていた。ほとんど装飾品に近いような感じで、たった一人で何も持たずにこの山を下りてきたなんて考えにくい気はする」
「それじゃあ彼は嘘をついたのだろうか。それとも、本当は仲間も一緒に山を下りていて、彼は仲間の力を借りて下山してきた。そこで襲われて離れ離れになった」
「それだとどちらにせよ嘘はついてることになるわね。彼は町の人には黙って出てきたって言ってたし。だとすると何か後ろめたい理由があったのかしら。たとえば罪人が国外追放の目にあっていた、とか」
「うむ、どうだろう。そうなると争いのない平和の町と言い残すのもおかしな気もするが……」
エドワードは顎に手を当てて深慮している素振りを見せた。彼にかかると些細な仕草もいちいち画になる。カズハの持つ空のような青さの瞳に、海のような青さの瞳を持ったエドワードが映る。カズハは心のどこかで、指揮官同士の信頼関係を超えた強い絆のようなものが芽生える温度を感じた。何か、エドワードの端正な顔を眺めるのが尋常ならざることのように思えてきて、不意に顔を逸らしてしまい、今日は心の調子でも悪いのかしら、なんて勘違いを抱えた。
そんな彼女の様子をエドワードは見逃したようだ。代わりに後ろを歩くフミオとキヘイが見ていて、少し疑り深い言葉で囁き合っていた。「おい、隊長のあの顔を見ろ。エドワードがあまりに美青年なもんだから、普通の女の子になっちまったんじゃないのか」「あり得る。隊長もあれだけモテるのに、国の男子にはとんと興味を示さなかったからな。やっぱり男も顔かな」「これじゃあ、ただの〝乙女〟だぜ」
「まあいい、カズハ。我々はもうここまでやって来てしまったのだ。暗い議論は避けて、エデンという平和の町がある前提で話しをしようじゃないか」
エドワードの態度はすっかり兵士長のそれだった。どんな状況下においても冷静に大局を見つめる。カズハもその様子に連られたのかいつも通りの調子を取り戻した。
「そうね。私たちが悩むべきは、エデンという町の存在の有無じゃなくて、その見つけ方。さっきも言ったように、外からは容易に確認できない形で町が存在するのなら、この旅はここにきて最も難儀な問題を抱えることになる。山頂に窪みがあってということならまだしも、洞窟の中なんてことになると一仕事だわ。この山は一周するのにも一日は掛かる」
「そういうことになるな。ただ、エデンの男が君たちの国に逃げてきたことと、橋や河を渡らないで済むルートを考えれば、そちらの予想通りチョウ国からということになる。とりあえずは東側を探索するのが得策かもしれないな」
「うん、賛成」
カズハはエドワードを見て頷くと、全身を使って岩肌を一気に登った。ここにいる誰よりも背は低いのに、誰よりも楽々と高所を移動する。重たい荷物を背負っていてもなお身軽だ。
それぞれの力を合わせて荷物やお互いを岩肌の上に運び上げると、武力だけでなく視覚聴覚も優れたサンダユウが声を上げた。
「お、隊長、近くに滝がありますぜ」
「本当?それは良かった。そこまで行って休憩にしましょ。サンダ、先導よろしく」
「任せとけ」
未開の山は実際に登り始めるまでは想像でしか語れない。カズハの肌感覚としては高さの五分の一を登ったところだったが、時間は二時間近くも過ぎていた。とにかく平坦な森が続くのだ。傾斜という不利性がない限り、人は山を登っていけないというある種の教訓かもしれない。休憩できるのは誰にとっても幸運なことであった。
**
滝つぼでの休憩を終えて、一行は再び山登りを開始した。エイ国から登山口までの移動時間も含め、既に太陽は正午を告げていた。季節のおかげで日照時間は長い方だが、このままのペースでエデン探しに手間取ると、今夜は山の中で野宿することを余儀なくされる。それは少なからずともリスクを背負う選択だが、エデンの存在が不確実である以上は隊員たちも覚悟していたことである。
カズハとエドワードを先頭に、ここまでは迷うこともなくネトエル山を進み続けていた。副隊長としてダンゴが最後尾に付き、通過した木の幹に一定間隔で印を付けていく。迷った時と帰り道に役立つのだ。
「止まれ」
野生の獣のように感覚が研ぎ澄まされている最中のサンダユウが、押し殺しながらも皆に聴こえる声でそう言った。誰もが素直に動きを止め、自然と姿勢を低くして警戒する。サンダユウが音を立てないように指差した先には、一番背の高いユスケの三倍は上背があり、最もがたいの良いダンゴよりも二回りは巨大な大熊がいた。これがネトエル山の魔物と呼ばれていてもおかしくない。誰しもに緊張が走る。
大熊は一行より数百メートルは先にいた。しかし、あの巨体が追いかけてきたら逃げ切ることは不可能だろう。ここは意を決して闘うしか道はないのか。トシは念の為にゆっくりと弓を手に取り、それぞれが自らの武器に手を掛けた。するとカズハは動きで一同を制した。彼女はすぐに動けるような構えを取っているが、まだ武器には手を置いていない。
「相手を刺激するような動きは見せないで。襲ってくるまでは絶対に手を出しちゃ駄目。熊から遠い者からゆっくり後ろへ下がっていくのよ。背中は向けないでね」
エドワードも自分が兵士たちに声を掛けるなら同じことを言っただろうと思い、背後の仲間たちに頷いてみせた。頼れる指揮官が二人もこの場にいることは全ての仲間たちの心の支えとなる。
ダンゴやユウタたちがなるべく静かに動き始め、一人また一人と大熊の進行方向とは逆側に動き出した。未知の森の恐怖とはかくも恐ろしい。対話が通じない相手との戦い方には慣れていない者ばかりだ。それでも冷静に最善の対処を目指すことによって、ようやく先頭のカズハとエドワードも動き出せるようになった。
大熊は一連の動きを微動だにせず見つめていたが、やがて何かを察したかのように背を向けると歩み去って行った。人々は声を出さずに安堵の溜息をつく。特にゲンタの汗のかきようは尋常じゃなかった。それぞれがお互いを茶化すように笑みを交わし合ったが、すぐには声を上げて無事を確認するなど出来なかった。
なんとか窮地を脱し、一行は再び歩き出そうとしたが問題が発生した。今の熊騒ぎで方角を見失ったのである。ダンゴが付けていた印も近くには見当たらない。どうにか太陽を手掛かりに方角を探ろうとしたが、木々が生い茂っていてわかりづらい。身軽なゲンタが木に登って太陽を確認すると提言したが、誰よりも幼いユウタが口を開いた。
「僕、移動した方向と歩数を覚えています」
そう言うとすぐに彼は歩き出した。記憶が怪しくなってくる前に行動すべきと踏んだのだろう。突然の緊迫状態と景色の判別の付かないような山中にも関わらず、ユウタは先の状況を読んだ行動を取ったというのだ。彼はまだ隊員としての戦闘能力は未熟ながらも、十四歳とは思えないような賢さと勇気でこの旅に加えられたのである。
ユウタが歩数を数え、ここだと言った所はぴったり移動する前の地点だった。ダンゴが木に付けた印の後を確認し、進むべき方向が判明したところで歓声が上がった。みんな口々にユウタを褒め讃え、大熊の存在を思い出し慌てて口をつぐんだ。ユウタは無言のまま背中を何度も叩かれ、少年らしく照れ臭そうだった。
それから四時間が経った。歓喜の時間はそう長く続かない。計画上ではとっくに山頂に辿り着いているはずが、現時点ではようやく半分を過ぎた程度のようだ。旅に困難と遅延が付きものなら、山登りだって同じようなものである。
しかしカズハは現状が不可解で仕方なかった。陽が落ちる速度が速すぎるのだ。昨日ならこれから陽が傾き始めるという時間には、今日はもう西日色を漂わせているのである。まるで季節が反転したかのようだ。気温も下がってきている。標高が高くなったので当然とも言えるが、そのレベルでは説明できないような急激な変化だった。カザーニィの者たちはマントを深くまとい、エドワードや甲冑の二人にも防寒着が渡された。
「どうするカズハ。今日はこの辺りで野営の準備か」
カズハたちの物と同じマントが渡されたエドワードはそれを羽織りながら尋ねた。彼は銀色に光る簡易式の軽い鎧だけを身に付けていた。防御力はあっても、やはり甲冑と同様に山登りには向かない。それでも疲れはカズハとさして変わらない様子だ。
「そうね……。予想以上に暗くなるのが早いわ。この山は何かがおかしい。さすが不可侵領域と言いたいところだけど、今の内に野営場所を探さなくちゃ駄目ね。はい、総員注目」
カズハの合図で一同が歩みを止めると、部隊は野営準備に取り掛かることになった。現在地点に荷物をひとまとめにし、二人がそこに残る。他は近場で焚き木用の枝を探したり、よりよい野営スペースを探す。なるべく自らの足跡を残して元の場所に戻れるようにしながら、お互いの声を頼りに行動する。
トシとフミオがその場に残ることになり、二人一組で行動が開始された。太陽の光が届きにくい森の中はみるみる内に明るさを失い始めた。このままでは半刻とせずに闇が訪れる。夜の暗闇は熊以上の恐ろしさを運んでくるだろう。
数分かかって、ここなら野営も出来そうだという場所をダンゴが見つけた時、荷物を置いていた場所から集合の笛の音が鳴った。その音はかなり遠くまで響き渡る為、本当に緊急の場合でしか鳴らさない手筈の笛が鳴ったのだ。ダンゴは足早に元の地点に移動し、カズハやエドワードたちもすぐに合流した。そこでは、焚き木用の木の枝を探していたはずの甲冑の二人が騒いでいた。
「きっとあれだ。エデンに続く道を見つけたんだ。そうとしか考えられない」
他にも、とてつもなく大きいとか、まるで生き物だとか言って、かなりの剣幕で慌てふためいている。その場にいた者たちはそれぞれ顔を見合わせ、とにかく二人の言う場所まで移動することにした。話が本当ならば、エデンは山頂には存在しないことになる。とはいえ、ここにきて二人がいたずらに状況を混乱させるようなことを言うとは思えない。やすやすと疑う訳にもいかず、一行が木々の隙間を縫うように進んでいると、森が途切れた広間に出た。
「ほらあ、これだこれ。見てくれよここ」
そこには巨大な壁のような崖と、まるで人間が通行用に作ったかのような坂道があった。崖は雄々しくそびえ立っており、上の方がどうなっているのかは確認できない。高さもあれば、横幅も広く終わりが見えない。坂道は崖に沿うようにぐるりと伸びており、その先は隠れて見えなかった。
「なんだこれは。こんな崖、どこからも見えなかったぞ。もう何が起きているんだか、訳がわからん」
大きな口を開いたままでフミオは崖を見上げた。まるで世界がせり上がってしまったかのような巨大さだ。その隣で呆気に取られた様子でキヘイが口を開く。
「本当だ、これはすごい。自然が生み出すにしては形が綺麗すぎる。それにしても高いが……もしかして、山頂よりもこの崖の上の方が高いのか?あそこまで登れば町があるというのなら、エデンの男の言ったことにも説明が付く」
「だったら、ここに来るまで見えなかったことには説明が付かないだろう?」
「それもそうなんだが……、今こうして目の前にある以上は、受け入れるしかないだろ。俺たちは気付かない内に山の反対側まで来てしまったのかもしれないし、ここを登れば山頂まで直接繋がってるのかもしれない」
「うむ……」
様々に怪しい点は拭えないが、僅かながらエデンという町が具体的な輪郭を帯びて見え始めてきたようだ。甲冑の二人は手柄を立てたと言わんばかりに饒舌になり、ダンゴたちは適当な相槌を打つのに忙しそうだった。人々は改めて崖を見上げる。まるで覆い被さってくるかのような迫力があった。エドワードは誰よりも早く驚くのをやめて次の行動を考えていた。
「カズハ、この上にエデンがあるかどうかは別として、確実にこれは人間の痕跡だ。誰であろうがこの山に人が住んでいるのならば、我々は会いに行かねばならない。問題は今ここで登るかどうかだ。見ろ、空が奇妙な色をしている。雨が降るのか雪が降るのか、他の物が降ってきても不思議じゃない。まるで太陽にも月にも見放されたようだ」
エドワードが指差す空を眺めると、夕焼けは終わったのに夜になるのを拒むというような不思議な色が広がっていた。子どもが絵に描くような宇宙の色が似ていると言えるかもしれない。急激な気温変化、突如見つかった人の痕跡、世界が終わるような色の空。ネトエル山の怪奇は加速度的にカズハたちを包み込もうとしている。
背後では、風もないのに木々が騒めいていた。これまでには一度も聴こえなかった鳥類の鳴き声が響き、空には流れ星が幾つも見え始めた。カズハはとりあえず松明を用意するよう指示する。こんな空気の中で崖路を登っていくのは誰の目にも危険と映るが、見たこともない生き物がうろつく森の中で夜を明かすのが安全とも思えない。彼らは四大国も近付かない未知の山の腹の中にいるのだ。前も後ろも危険しか用意されていないことに気が付くと、ゲンタは人目を気にせず泣きたい気持ちになってきた。カズハは躊躇わずに決断をする。諦めるという選択肢だけはない。
「みんな、このまま崖を登っていくわよ。状況は明らかに未知の領域に達している。ここで夜を明かそうとしても安全の保障はないわ。それどころか私は危険だと感じている。慎重に崖の道を登っていくのなら、少なくとも大きな熊に食いちぎられることは避けられる。迷ってる暇はないわ。付いてきて」
カズハは羽ばたくようにマントを翻すと、松明を一本手に取り崖の坂道を登り始めた。そのすぐ後にはエドワードが続き、サンダユウ、トシ、キヘイと次々に列を作り始めた。ゲンタはいつも通りに渋る姿勢を見せながらも続き、最後に残った甲冑の二人に、最後尾を行くダンゴは手を広げて促してみせた。二人はなかなか決心を固められないようなので、「お前たちが見つけたんだぞ」とダンゴは言う。ようやく全員が崖路を登り始めた。
確かな感触で地面を踏みしめながら歩いていても、カズハはこの現状がどうしても信じられなかった。崖路を登り始めて一分と経たない内に周囲を深い霧に囲まれてしまい、自分の足元以外は真っ白な世界が広がっていた。それに、この明るさはまるで昼間である。さっきまでは陽が落ちて困っていたのに、今では霧の向こう側に青空が広がっているとしか思えない。松明をあちらこちらにかざして視界を広げようとするが、その間に霧が松明の灯りを消してしまった。手持ちの駒を奪われていくような感覚に眉を歪め、負けてなるものかと背後へ声を掛ける。「総員、点呼始め!いち!」
カズハ自身を一人目として数え、後ろの声は十六まで続いた。最後は聴きなれたダンゴの渋い声がして、ひとまず誰も欠けていないことが確認できた。
「エドワード、いる?」
「ああ、私はここにいる」
「これは一体何なの?四大国ではこんな意味不明な現象が起きたりするものなの?」
「いや、こんなことは初めてだ。ここは四大国とは全く別物の土地だ。ネトエル山独自の世界が広がっている。この道がエデンに続いているのなら、その町は最も謎に満ちているのだろうな」
彼の言葉はカズハにとって物事の確認でしかなく、何か新しい見識を生み出す力にはならなかった。しかしこの状況では、誰かの声が聴けるだけでも安らぎを感じられる。カズハにとってその声がエドワードのものであることは、最も望んだものが手に入ることと同じようだった。不安に押し潰されそうで逃げ道を求めている自分に彼女は気付き、私はカザーニィの〝戦乙女〟だと、何度もその心に言い聞かせた。
「たいちょおー!後ろから足音が近付いてきています!」
「え⁉」
気持ちを切り替えようとしたのも束の間、最後尾からはダンゴの不穏な報告が届いた。こんな状況では何が起きているのか想像するのも難しいが、楽天的な観測を許されるならエデンの人間であってほしいと願う。数歩だけ進んで続きの報告を待つが何も起こる気配はない。カズハは止むを得ず列を停止させて、一人分通るのがやっとな坂道を縫うようにしてダンゴの元まで下った。鼻が当たりそうなくらいに近付かないと互いの顔が見えない。
「ダンゴ、どうしたの」
「後ろですぜ。今は動きを止めていやがる。ワシらの動きに合わせて距離は詰めてこないようですが、さっきから数が増えてるようだ。気味が悪い」
「……そこ、誰かいるの」
カズハは短剣を構えて声を出した。白い霧は漂うばかりで何も答えない。人が、それも大勢がいるような気配は感じ取れなかった。すると突然、代わりに返事をするかのような烏のがなり声が辺りに響いた。姿形は一握りも確認できないが、もしも本当に烏の鳴き声だとするのならば、声の大きさからして巨大な姿が想像できる。しばらくカズハは様子を窺ったが、そのままじっとしていても仕方がないので先頭に戻って崖登りを再開した。
崖の下で見上げた高さを登りきるには、まだまだ時間が必要だと思われた。激しい運動で身体が熱を持っても、まとわりつく霧は衣服ごと人々を湿らせてゆく。もう誰も暑いのか寒いのかもよくわからない。足の感覚は触覚だけを残してみんないなくなった。痛いだとか疲れただとか思う元気もない。ただ足を棒にして進み続ける彼らは、ひたすら終わりが存在することだけを望んでいた。
そして、それは前触れもなく訪れた。先頭を行くカズハが合図もなしに足を止め、後ろを歩く者たちはあちこち身体をぶつけ合った。カズハは謝りながらも一同に前を見るように言った。そこには、どれだけ白い霧でも及ばない程の暗闇を持った洞窟が口を開いており、カズハたちはいつの間にか崖路ではなく平坦な場所に立っていた。珍しくユウタが怯えたような声を上げる。
「この先にエデンがあるんですか……?もう、前も後ろもわかりませんよ」
「だったら信じる方に進むのよ。誰か、濡れていない松明はある?」
経験豊富なフミオは雨に備えて何重もの布に包んでいた松明を差し出し、先頭のカズハだけが明かりを持つことになった。後続は前の人間の肩に両手を当ててムカデのように進んでいく。
洞窟内はどれだけ松明が燃えようともその全容を曝しはしない。連なった形を崩さないように注意しながら歩を進めるが、彼らの意思を屈服させようとするかのように、コウモリや水滴がちょっかいを出す。ダンゴが耳にした足音がいつの間にか復活しており、人々の進みを焦らせているかのようだ。
光を頼りに生き続けていると、暗闇に投げ出された時には圧倒的に無力でしかない。仲間の気配や衣擦れの音でさえ何かしらの脅威と勘違いする。仲間の肩を握る手には自然と力が入り、背後の仲間も同じことなので肩に加わる痛みが増していく。湿った風に熱風、氷のような壁の感触に、砂漠のような足場の感覚。激しい耳鳴りが定期的に起こるし、不意に誘われるような眠気が訪れる。洞窟の中を支配しているのは暗闇だけではない。それ以上に強力なカオスがある。
時間が経過し洞窟を奥に進むにつれ、漠然とした命の危険も迫ってくるようになった。大型の肉食獣のような唸り声が耳に届き、隊員の一人は謎の触手に髭を引っこ抜かれた。足元が見えないのでそこら中の岩に足腰をぶつける。背後に続く謎の足音は五人や十人のものではない。ゲンタでなくとも、誰もが弱音を叫びたくなった。しかし、夜というものは明けることが出来る。道ゆく先に希望を信じる限り。
「出口よ!」
彼らの進行方向に小さな危うい光が見えた。カズハの持つ松明よりは覚束ない光だが、この場の何よりも希望を含んだ光だった。一同が抑えきれずに歓声を上げると、洞窟内には雷が落ちたような謎の音が響き渡った。各々が叱られた子どものように驚いていると、瞬きをするくらいの静寂を空けて、ダンゴの後ろの足音は襲ってくるかのように走り出した。二十人も三十人もいるような雪崩みたいな足音が、一つ一つ殺意を込めて近付いてくる。「走れ!」とカズハが指示を出すまでもなく、誰もが我先にと光の方へ駆け出していた。足音は一片の容赦もなく追いかけてくる。一目散に先頭に躍り出たゲンタは叫んだ。
「うわああああああああ!」
そして光の中に身を投じたゲンタは、洞窟内との明暗の差に目が眩み、すぐに足がもつれて派手に転んだ。フミオだけが呆れたように抱き起してくれたが、ゲンタの身軽さと受け身の技術を知っていれば心配する程のことでもない。エドワードやユウタらも闇を抜け、十六人の旅人たちは、やっとのことで明るい場所へと抜け出した。彼らを追いかけてきた足音は、始めから存在しなかったようにどこへ行ったか聴こえない。一行は次々に寝転がったり汗を拭ったりして、やっとの思いで休憩を手にした。正体不明の命の危険から脱した気分は、そう清々しいようなものとも言えはしなかった。
「みんな!」
息を切らし膝に手を付きながらも、この部隊のリーダーであるカズハは眼前の一点を見つめて叫んだ。その視線の先には緩やかな傾斜を持った一本道が伸びていた。そして、その行きつくところには大きな木の門と、傍らに控える二人の門番の姿があった。