【第二章・少女侯爵】03
黒い鎧扉に白塗料で描かれた魔方陣が人々を威嚇する、繁った蔦に覆われた煉瓦造りの手狭な建物。魔女が住んでいそう、とルーが評した占術師ミラ・エリダヌスの館。
買い込んだ食べ物で両腕がふさがっているので、ベルノはノックもせずに足で鎧扉を押し開いた。すると、目の前に、腕組みしたミラとルーが仁王立ちで待っていた。
「遅かったじゃないの、ベルノ! アルヴァを寄越すって言ったのに、嘘つきっ!」
ルーが人差し指でベルノをビシッと指して詰り、
「おかえり、色男。今度は七年も待たなくて済んで良かったよ」
ミラは獲物をくびり殺す蛇のような目でベルノを睨んだ。
「うわっ。なんで二人そろって仁王立ちで待ち構えてるんだよ? よく俺が戻ってきた事が分かったな?」
「通りの入口に糸を張っておいたのさ。あんたが通ったら分かるようにね」
にやっ、と陰険な顔でミラは口角を上げた。ベルノは不得手だが、待ち伏せを得意とする術者は魔術で縒った不可視の糸を任意の場所に鳴子代わりに張っておくのだ。待ち人が糸に触れれば知覚できる。
「ん? 待てよ。つう事は、昨夜も俺が来たのは分かったんじゃ……」
この女、わざとハシシを吸ってやがった!
ベルノは一言文句を言ってやりたい気分になったが、ミラは猛烈に怒っていた。腰まで伸ばした艶やかな黒髪が怒りで不自然に舞い上がり、赤いエーテルが彼女の周囲に渦巻いてパチパチとスパークしている。豊かな胸の谷間から首を出した白蛇の魔物シャキルは、主人の権幕を不思議そうに見上げチロチロと舌を出していた。
「それにしても、いい度胸じゃないか。衛兵にしょっ引かれたって聞いて心配してやってりゃ、呑気に屋台巡りして、両手いっぱいに土産を抱えて帰って来るとは」
「そうだよ。ボク達に心配かけといて、よくも呑気に買い物なんかできたね」
「なにもそんな言い方しなくても……」
よかれと思って晩飯を買ってきたのに、たじたじになってベルノは後ずさった。
「まあ、いいさ。もう少しあんたが遅かったら、ルーと二人で飯屋へ繰り出そうと思ってたところだ。食い物に罪は無い。ありがたくいただくよ」
「は、はあ、どうも……」
椅子をそろえ、上物を片付けた円卓に料理の入った小鍋二つと、丸パン、林檎酒の瓶、油紙で包まれた栗のパイを乗せ、ミラが細々とした食器と薄荷茶の入ったポットを用意して、なんとか食事にありつけることになった。
「あ、ルー、これおまえに。檸檬の砂糖漬け、好きだろ?」
ルーの面前に油紙の包みを差し出すと、
「わああっ……あっ! これで誤魔化されると思わないでよっ!」
予想通りにパッと顔を輝かせ、それから慌ててしかめ面をこしらえた。
窓を開けると、涼しい夜風と共に街の喧騒が流れ込んでくる。遠くから響く朗々たる歌声と六弦の音。流行りの吟遊詩か恋歌を謳っているのかもしれない。
ベルノが自分のカップに林檎酒を注いでいると、ルーが興味をそそられた様子でのぞきこんできた。葡萄酒や麦酒、火酒の類は欲しがらないが、林檎酒は気になるらしい。
「なにそれ? すっごく美味しそうな匂いがする」
ルーの目は期待でキラキラしていた。若い林檎酒はほんの少しのアルコールと炭酸の泡が含まれているだけで、しぼりたての果汁とほとんど変わらない。甘酸っぱくて飲みやすいので、先祖の霊を供養する祭で子供たちに振る舞われることもある。
「一応は酒なんだがなぁ」
「ええっ、一口ちょうだいっ。一口ちょうだい~~っ!」
「強くはないけど、一気に飲むなよ。コップに半分だけ、ほんっとに今夜は特別だからな」
林檎酒を注いでルーに渡すと、カップに鼻を近付けて仔犬のようにニオイを嗅ぎ、にぱっ、と笑った。
「良い匂い。シュワシュワしてる……うわっ、美味しいっ!」
口に合ったようだ。もっと欲しい、と潤んだ目で林檎酒を狙っている。ベルノは自分のカップに残りを全部注いでしまう。ああ、と残念そうな声を漏らすルーであった。
「それで、侯爵様の用事って何だったんだい?」
ひとしきり食事を終えて、最後に栗のパイを食べていた時、ミラが不意に訊ねた。一人だけ高価な硝子の杯に琥珀色の火酒を注いで舐めるように味わっている。舌と喉が燃えるような強い酒だ。水で割らずにストレートで飲む女性は珍しい。ミラは酒豪だ。
「人探しをしろと命じられた。報酬は五千リディール。前金でぽんと百リディールも寄越しやがった。正直ビビッたよ」
ヒュウ、とミラの口笛。ルーも猫が蝶を見つけたような風情で目を見開いた。
「五千リディールとは豪気だね」
「すごい。ボクたち大金持ちになれるじゃん」
「いや、馬鹿正直に命令に従うつもりは無い。貴族がらみの裏仕事は御免だ。クラヴィス伯爵夫人から騙し取った金もあるし、ダンジュールの侯爵様から渡された金貨と合わせれば、二年は遊んで暮らせる。ここでぐずぐずしてるとボロが出るからな。帆船が見つかり次第、南方王国へでも行こうと思ってる」
ルーはガックリと肩を落とし、ミラはムッと眉根を寄せた。七年も音沙汰無く、やっと戻ってきたと思ったら、またすぐに出て行くと言うのだから愉快ではない。
「まったく、落ち着かない男だね。まあ、一応その人探しの依頼を聞かせてくれ。私の商売に役立つかも知れないしね」
気落ちしたようでいながら、相変わらずはしっこい。ベルノは呆れ顔でミラと火酒の注がれた杯を眺めながら、上着のポケットをごそごそやって目当ての物を取り出した。
「あんたの役に立つ情報は無いぞ。この指輪の正統な持ち主を探せってさ」
手のひらに乗せて、ガーランド姫から引っ手繰ってきた指輪を見せる。どれどれ、とミラはベルノの手に頭を近付けて指輪を吟味した。
「これ……『若き竜』じゃないか」
「──え?」
意表を突かれた。持ち主を探すつもりなどさらさら無かったが、それにしても、まさかミラがヒントをくれるとは思っていなかった。
若き竜というのは、確か、ダンジュールの都が市城壁の一辺を預けている巨大湖にまつわる伝説だ。女神に愛された若き竜が水底に眠っているとかいう……詳しい内容は忘れてしまった。
思案するベルノをよそにミラは言葉を続ける。
「女神アルフィニアに愛され、苦しんでいる若き竜の姿だよ。でもおかしいね。この意匠を身に付けることが許されているのは、竜神殿の神官だけ、それも、貴族出身の高位神官だけなんだよ。誰の持ち物かなんて、神殿に問い合わせればすぐに分かるはずだ。持ち主をわざわざ探さなきゃならないような代物じゃないはずなんだが……」
「なんだって!?」
神殿と侯爵家は親密だったはずだ。神殿の後ろ盾がダンジュール侯爵家なのだから。
それでは、あの少女侯爵は持ち主を知っていたのではないか──?
それを、わざわざ、探せ、と言われた。
ベルノはうめいた。
「なるほど。つまり、これは、失踪した神官のものだってことだ」
しかもガーランド姫は近従の者にはその人物の名を明かしたくないのだ。
この持ち主は、いったい何をやらかしたんだ?
貴族神官が逃げ出さなきゃならないほどの理由……
姿を消した後も許されず、あの優しげな少女侯爵から、なおも命を狙われる理由……
よほど重大な理由があるに違いない。
これは……決定的にヤバイ。
チラッ、とルーの顔を盗み見ると、呑気に栗のパイを食べている。今でこそ感情豊かによく笑うようになったが、この娘は戦災孤児だ。物心ついた頃に、おそらく眼前で両親が亡くなったはずだ。焼け野原になった村の外れに呆然と座り込んでいたところを拾った。雪がチラつく季節だった。埃まみれで髪はボサボサだったし、薄いボロに裸足で、棒っきれのように痩せこけていた。あのまま凍死か餓死するよりは、魔物憑きと一緒にでも生きた方がマシだろうと思ったのだ。最初はなかなか心を開いてくれなかったが、少しずつ遠慮の無い物言いをするようになり、今ではベルノに説教までするようになった。血は繋がっていないが、ルーは大切な家族だ。ただでさえも放浪暮らしで苦労させている。クラヴィス伯爵領でのいざこざの直後だし、この上貴族絡みの面倒事には巻き込みたくない。
指輪を見ると、白水晶に彫刻された若き竜の悶え苦しむ姿が、薄暗い明かりの中で、より一層醜くおぞましく映る。
「この竜は、なんでこんなに苦しんでるんだ?」
ああ、それは……とミラは不機嫌そうに言葉を継いだ。
「竜は魔物だからだよ。どんなに強い力を持っていても、魔物が神と結ばれることは許されない。だから、若き竜は神になろうとしたんだ。おまえは知っているはずだ。人の魂を喰えば魔物の力は強くなる」
「あ、ああ……」
言われなくとも、嫌というほど理解している事実だ。自分とアルヴァダーナの契約も、まさにその為のものだ。
「魔物も竜クラスになると人間以上の知性がある。若き竜は自分が神になる為に、長い時間をかけて契約者の魂を育てるのではなく、手っ取り早く沢山の人間を犠牲にする道を選んだんだろう。契約を結んでいない者の魂でも、大量に貪り喰えば相応の魔力を得られる。伝承によれば、百の千倍、つまり十万の魂を喰らおうとダンジュールの都を襲った時、恋人だった女神アルフィニアが、すべてを斬り裂く剣を手に立ち塞がったという。若き竜は女神に討たれ、力の源たる竜珠をも失い、湖の底で眠りについた。『アルフィニアの剣』は湖畔の竜神殿に納められ、今も若き竜を封印している、という事になっているが……」
ぎくっ、とベルノは全身を震わせた。
ミラが意味深長な視線でベルノを突き刺す。
「ベルノ、思い当たるものが無いか?」
「ああ、ある……」
なんという事だ──思い当たる剣を持っている。ミラが〝宝の持ち腐れ〟と言い、ベルノ自身も〝あんな何でもバターみたいに斬れる剣は〟と扱いあぐねて放置している、あの『切断の呪詛がかかった魔法剣』のことではないか!?
七年前に、他でもない、その竜神殿から遊び半分で盗んだ代物だ。
たら~~っ、と冷や汗がこめかみを伝っていった。
なんだか、取り返しのつかないヤバイ事をしてしまったような気がする。
「そんな曰くのある剣だったとは……」
「しかし、妙な偶然だね。あんたは『アルフィニアの剣』を持っている。そして、その剣に封じられていたハズの『若き竜』に因縁のある神官が失踪し、選りにも選って偶々ダンジュールに戻って来たあんたが探索を依頼された。他にもヴァンディールはいるだろうに、しばらく余所に逃げてたあんたが、その運に引っ掛かったってのは出来過ぎじゃないか。あんたに絡み付いてる黒い髪の呪詛も気になるし……なんだか因果の糸が縒り合されていっているようで気味が悪い。誰かが裏で何かの罠でも張ってるんじゃないのか?」
「う……嫌なこと言うなよな。俺、なぜか面倒事に巻き込まれやすいんだから……」
「とりあえず、竜神殿に行ってみないか? 女神の御導き──とまでは言わないが、この件はどうも因縁めいている。放置するのはマズイ気がする」
豪胆で我が道を行くミラにしては小心な物言いだ。しかし、占術師ミラ・エリダヌスが言うのだから、なにかしら因縁が繋がっているのかも知れない。シャキルの主な能力は不鮮明な予知と、透視遠視霊視の類だ。
「参った。さっさと逃げ出したかったんだけどなぁ……」
その夜はミラの寝室で雑魚寝になった。ルーは寝台に入れてもらえたが、ベルノは薄い毛布を一枚与えられて床で寝る羽目になった。女はこういう時、冷酷だ。
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