【第二章・少女侯爵】02
その城は、想像以上に豪華で美しかった。白亜の壁に青い屋根が映える。平原の貴婦人と讃えられ、華麗さと威厳を兼ね備えた、富の象徴ともいうべき麗しの城。
丸天井のある謁見の間は、華麗な装飾で埋め尽くされていた。
壁飾りには金箔と高価な鏡が無数に使用されており、柱は珍しい緑色の御影石だったし、床板は微妙に色の変わるモザイク、城主の座の背後には高名な技師の手になる彫刻と象嵌が施されている。手の込んだ紋章織りのタペストリーがかけられ、足下には南方王国産の花模様の絨毯まで敷かれていた。精緻なアラベスクの窓枠、水晶のシャンデリア、壁際に置かれた芸術品のような椅子、金色の燭台など、何もかもが異様に美しかった。
ベルノは呆気に取られてぽかんと口を開けてしまった。
西の帝域にも、東の王国のダンジュール侯爵の噂は伝わっていた。うら若い乙女だ、と。
「これが全部十七歳の小娘のもんだってんだから、世も末だよ……」
二年前に十五歳で爵位と領地を継いだ少女の逸話はいかにも吟遊詩的で、楽士と女達に好まれ、宮廷でも下街でも大流行したのだ。
しかし、小娘の分際で権力闘争に打ち勝ったのだから、どうせ筋骨隆々で不美人の女武者だろうという見方が現実的な者達の大勢を占めていた。当然、ベルノもそう思っていた。
さっさと要件を済まして自由にしてもらいたいものだ。いっそ、どこぞの伯爵夫人相手にしたように金を騙し取れるならありがたいな、などと考えていたくらいだ。
「ダンジュール侯爵、ガーランド・リズ・ロゼッタ様であらせられる」
だんっ、と宮廷士が杖で床を叩く。
高らかに名を告げられ、現れた少女は華奢で小柄だった。
控え目な足取りで君主の座へ歩み寄り、代々の侯爵が権力を振るった黄金貼りの椅子に腰掛ける。細い体に細い手足。透き通るように白い肌。ふっくらと艶めいた果実のような唇。憂いの影を作る長い睫毛に、不思議に淡い紫の瞳。緩いウェーブのかかった黒髪を腰まで垂らし、黒い絹のドレスに身を包んでいる。修羅の座がまるで似合わない、心細げな雰囲気だった。
「う、嘘だろ……これが、噂の女武者かよ……」
信じられない思いで、つい無礼な視線で見詰めてしまう。笑いさえすれば花が咲くように華やかだろうに、物悲しげに俯いている。
まるで妖精のような美貌──
「ん……!?」
不意に奇妙な既視感に襲われた。どこかで見たような……
ベルノの思考は、少女侯爵の脇に張り付いた無粋な従者の大声に掻き消された。
「喜べ、魔物憑きよ」
声を張り上げているのは金髪を短く刈り込んだ若い男だ。文官の煌びやかな衣装を身に纏ってはいるが、鍛え上げられた体躯と精悍な顔付きは武官の装束の方がしっくりくる。
「侯爵様は昨年よりヴァンティールをお求めであらせられた。貴様如きが処罰されずにこのような晴れやかな場に立てるのも、侯爵様が領地の隅々にまでお触れを出し、魔物憑きを見つけた際は生かして連れて来るよう手配しておられたお陰であるぞ。ご厚情に感謝し、ありがたくご下命を受けるがよい」
「な……っ!?」
勝手な言い草をしやがる。
カッとなって思わず文句を言いそうになったが、面倒な事態になるのが嫌で飲み込んだ。
それにしても、ダンジュール城下に住んでいるミラが見つからなかったのは幸運だ。彼女は用心深いし陰険なので、正体を隠すことにも長けているのかもしれない。あるいはベルノが間抜けなのか。
少女侯爵は視線を落としたまま黙りこくっていたが、思いきったように息を深く吸い、それからベルノを見据え話し始めた。
「探して欲しい者がいます」
おっ、と思わずベルノは顎を上げた。高く澄んだ鈴のような美声だったのである。見目の麗しい者は声も麗しいのか、と妙な感心をした。
「これを見てください」
差し出されたのは、男物の指輪だった。ベルノはご主人様の横に控えている屈強そうな従者をチラリと見る。渋面で、仰るとおりにせよ、と示されたので、壇上の椅子に腰掛けている侯爵様に近付いた。高貴な少女侯爵と間近で対峙することになったが、跪けとは言われない。見ろと言われたものは素直に見ても良いようだ。
少女の白い手に乗せられた指輪は、繊細な金細工の台座に大粒の白水晶が付いた見事な品だった。宝石は彫刻によって奇怪な獣の形にされている。身悶えする竜に見える。
「これは……?」
「この指輪の正当な持ち主を探して欲しいのです。ヴァンディールのそなたなら、手掛かりが乏しくとも目当ての人物を探し出せるのではありませんか?」
そこで一旦、彼女は言葉を切った。答えを確認するように、じっとベルノの目を見つめてくる。できる、と頷いたら、彼女は小さく震えた。禁断の箱を開けてしまい、その恐ろしさに改めて気付き怖気づいた背信者のように。
数瞬ためらってから、少女は続きを吐き出す。
「そうですか。では、見つけたら殺してください……」
ベルノは、物騒な言葉に眉一つ動かさずに頷いた。
彼は慣れている。可憐で純真そうな乙女の唇から、どんな残忍な言葉がこぼれようと、今さら驚くような生き方はしてこなかった。少女の置かれている立場、身分を考えればなんら不思議は無い。高過ぎる身分、大き過ぎる権力には、必ず暗い影が付きまとう。
「察しはついていると思います。私は、私を知る、心ある人々には口外できない理由であなたを呼んだのです」
「ええ、ええ、わかってますよ。人には言えないコトを引き受けるのが、まあ、だいたい俺の仕事ですからね」
ひねくれた調子でベルノは応えた。クラヴィス伯爵夫人にしたような言い訳──自分は暗殺者ではなく抗呪術師だという主張──を、ここでは繰り返す気になれなかった。
ムッとするかと思いきや、少女侯爵は月が湖面に揺らめくような微笑を浮かべた。
「では、引き受けていただけるのですね」
「え、あ、ああ……」
ガーランド・リズ・ロゼッタ・ダンジュール──両親の死を契機に、二年前までは神官として祈りの生活をしていたが、彼女の叔父であり政敵でもあった先代ダンジュール侯爵が跡継ぎの無いまま病死したことで、急遽、還俗させられ、侯爵位と莫大な財産を受け継いだ十七歳の少女だ。数奇な運命と言ってよかった。あまり知られていない事ではあるが、彼女が貴族の令嬢を虜囚する神殿で生活していた頃、別の神殿に幽閉されていた彼女の兄は謎の失踪を遂げている。この兄が健在であったなら、少女に世継ぎの白羽の矢が立つことは無かっただろう。
出来過ぎの偶然が重なって、彼女は陽の光の当たる場所に出てきたのだ。世間はこの奇妙な幸運を、陰謀の果実なのではないかと疑惑の眼差しで見ていた。麗しい吟遊詩と共に、黒い噂も庶民の口の端にのぼらない日は無い。
ようするに、そういう仕事ってわけか……
ベルノは諦めたように肩を落とした。陰謀の片棒を担ぐのは嫌だったが、真っ正直に断って貴族の怒りを買うのは懲り懲りだった。目の前の少女侯爵がいくら優しげに見えても、そんな見た目に騙されるのはヤバイ。つい最近、下手な情に流されて失敗したばかりなのだ。今度はうまく立ち回りたい。命令に従ったふりをして、適当なところで姿をくらませばいい。逃げるのは得意だ。
退出しようと身じろぎした時、侯爵の隣で、金髪の従者が高圧的に問いを発した。
「名は?」
「ベルノ・グランディスだ」
威嚇されたようでムカつく。
「言っとくが、報酬は五千リディールだ。全部金貨でもらうぜ。純度の高い古王国金貨でだ。新金貨は一切混ぜるなよ。情勢次第で価値の変わるものはゴメンだ」
ベルノは吐き捨てるように言うと、頷くガーランド姫からひったくるように指輪を受け取った。要求した五千リディールはブラフだ。指輪は受け取らなければ怪しまれるから受け取る。足が付かないよう南方王国の宝石屋にでも売り払えばいい。
「こいつの持ち主ね。あっという間に見つかるさ。仕事が終わるまで連絡が必要かい?」
「いいえ。ただし、持ち主がどこでどうしていたのか詳しく調べてください。この件に関する事は全て知っておきたいのです」
「ふうん。それでどうするんです?」
「……わかりません。私はただ、すべき事をするだけです」
ガーランド姫は表情を消してしまった。
すべき事をする……
ああ、貴族ってやつはイヤなもんだ。
ベルノは、さっさとこの城を出て行こうと決心した。おざなりに一礼して背を向けると、ガーランド姫の声が追いかけてきた。
「当面必要な金子を用意しました。ここを出る前に侍従長から受け取ってください」
渡された金は新造金貨ではあったが、並の町人が楽に一年は暮らせる額であった。
百リディールも──
「おいおい、甘いにも程があるだろう……」
†††
城付きの従者から馬車で宿まで送ると言われたが、貴族街区のど真ん中を貫く大通りを抜けて南の商人街区まで来たところで、御者に鄭重に礼を言って下ろしてもらった。少し歩けばミラの店がある歓楽街区へ出る。初老の御者はベルノが魔物憑きだと聞かされていたようで、二つ返事で了承し、ものすごい勢いで元来た道を引き返して行った。少々傷付いたが、都合は良い。ルーはもうあの宿にはいないし、領主の紐付きでミラの店へ行くわけにはいかない。
日が暮れて人通りは少なくなっていたが、辻角には松明やかがり火が焚かれ、裕福な商家は玄関にランタンを下げているので、夜歩きには不自由しない。日暮れとともに闇に包まれたクラヴィス伯爵領とは違う。ダンジュールの都は金回りが良く、市民も潤っているのだ。
きちんとした店構えの両替商で、金貨を二枚、銀貨と銅貨に崩してもらった。手数料は適正だと思われる額だったし、レートは七年前とほとんど変わっていない。そういう意味でもダンジュールには善政が敷かれているようだ。あの綺麗な少女侯爵がそれを行っている、あるいは行わせているのであれば、英邁な領主であると認めざるを得ない。
「どうにもイメージがちぐはぐだな」
流れ者の魔物憑きにぽんと金貨百枚も渡してしまう甘さがあるかと思えば、経済を締め付けずに上手く回す程度には度量も広い。統治は理知的だ。そのくせ、人を探して殺せと言う。
ガーランド姫の儚げな美貌が妙に脳裏に焼き付いていた。
「バカバカしい。どうせこのまま逃げ出すんだ。もう関わることも無いさ」
ベルノは苛立ちを溜息と共に吐き出しながら道を急いだ。
水の匂いがする。通りの向こうに目を凝らすと運河が見えた。宵闇の中、カンテラを灯した優雅なゴンドラが行き交う様は幻想的で見事だ。
商人街区には瀟洒な建物が多い。南方王国や北方小国群の文字で書かれた看板も目立つ。異国情緒あふれる清潔な石畳の道を、眠らないと揶揄される上級商人達がひっきりなしに往来している。東の王国の平服を着た商人だけではなく、遊牧民の衣装に身を固めた男や、南方王国の薄布のベールを被った舞姫までいた。
娼館と宿屋が立ち並ぶ区画へ向かう道すがら、露店を出している居酒屋を何件か回って、大きな丸パンを一つと林檎酒を一瓶、ひよこ豆のペーストを詰めた鶉の揚げ物を三つ、茹でた緑花椰菜、ヴィネガーソースで合えた生野菜、ついでに栗のパイも買った。汁気のある料理を買うには自前の器が必要だ。背負っていた旅鞄から重ねの小鍋を取り出して、それに入れてもらう。仕上げに、女向けに砂糖漬けの果実や木の実を売る屋台に足を向けた。
「親爺、そこの檸檬の砂糖漬けを一包みくれ」
ベルノが指差すと、愛想の良い親爺さんは木の杓子で檸檬の砂糖漬けをすくい、丈夫な油紙に包んでくれた。おまけだよ、とにっこりしながら一片余計に入れてくれる。ベルノは無愛想に礼を言いながら金を払って包みを受け取った。
大荷物になってしまったが、お腹が空いたとわめき立てるルーの顔を思い浮かべると我知らず口元が緩んでしまう。あの食い意地の張った娘は、砂糖漬けの檸檬も大好物だ。これを受け取ったら、パッと弾けるように笑い、それから慌ててしかめ面を取り繕うだろう。
早く戻って安心させてやりたい。
それにしても、面倒事から逃げて来たのに、またしても、とんだ面倒事に巻き込まれてしまった。後で散々、バカだのマヌケだのと厭味を言われるんだろうと思うとげんなりする。きっとルーとミラ、二人そろって両側から罵られるに違いない。地獄だ……
†††