【第一章・魔物憑き】04
「ベルノ坊や、本当に久しぶりだね。今までどこで何をしてたのさ?」
「まあ、あちこちを適当にね」
儀礼通りのハグの後、ミラはベルノの頭にむき出しの両腕を回してぎゅうぎゅうと抱きしめた。巨乳に顔を埋められて、ベルノはじたばたと無様にもがく。
「うっ、く、苦しい……っ」
「まったく、不義理な男だよ。何年も姿を見せなかったかと思えば、突然、魔法鳩なんかを使いに寄越して、これから行く、とは素っ気ない伝言じゃないの。首を長くして待ってりゃ、七日も現れないし、挙句に子供連れとは恐れ入ったよ。いつ作ったのさ?」
「バ、バカッ。俺の子なわけないだろっ。そんな暇があるかっ!」
「暇なんかなくても子供は作れるだろ~~?」
「いい加減にしろっ! よく見ろっ、俺とルーは全然似てないっ!」
そのやりとりを見ていたルーは、たちまち真っ赤になって頬をぷくーっとふくらませた。
「ちょっとっ! 黙って聞いてればなんなのよっ? ボクは子供じゃないし、ましてやベルノの子供なんかじゃないっ! 立派な相棒なんだから、バカにしないでよっ!」
「あら、あらあらあらあら、まあ~~っ!」
ミラの両目は、にんまりと獲物を見つけたように細められた。
「ベルノ、あんた隅に置けないわね。この子ったら生意気にあんたに惚れてるんじゃないの。まったく、守備範囲の広過ぎる男は困ったもんだね。こんなお子様に手を出したら変態の罪で地獄行きだよ」
「だあああぁぁぁっ! なんてこと言うんだっ!? この街の女はみんなとんでもない偏見を持ってるんじゃないのかっ!? 信じられんっ! この紳士の俺のどこが変態に見えるって言うんだっ!? 名誉棄損だっ、訴えてやる~~っ!!」
「ちっ、違う~~っ! ボ、ボクはベルノに惚れてなんか……な、な、なな、なんでそんな変なこと言うのかな。あ、ああ、あんた目がおかしいんじゃないのっ!?」
「つうか、訂正しろ~~っ! 俺は断じて変態ではない~~っ!!」
「そうよ、訂正しなさいよっ、ボクはベルノなんか、これっぽっちも、なんっとも思ってないんだからねっ!」
「あはははははははははははっ」
響き渡るベルノとルーの抗議の叫び、そしてミラの大爆笑。
ひとしきり大騒ぎした後、ぶすっと押し黙るベルノとルーを満足げに眺めて、ミラは笑い過ぎて浮かんだ涙を細い指の背で拭った。
「くふふ、ああ面白かった。ベルノを苛めるのはこのくらいにして、お茶でも淹れるか。美味い焼き菓子もあるぞ」
振り向いたミラは、真っ直ぐにルーと視線を合わせて微笑んだ。
ルーはハッと息を飲む。
チラチラと光の揺れる虹色の瞳。ヴァンディールの証。
占術師ミラ・エリダヌス──彼女は、ベルノの数少ない仲間だった。
†††
淡い青色の花茶は、レモンの薄切りを浸すと薄紅色へと魔法のように色を変えた。
「うわあ、綺麗……」
客二人が、円卓の上に積まれていた怪しい呪物を床に下ろし、古書と巻物に埋まっていた造りは豪華な椅子を二脚持ち出して、埃に咳き込みながらテーブルの用意を整えている間に、奥の台所でミラがお茶の用意をしてきたのだ。
高級な白い陶器で供される珍しい花茶と焼き菓子に、ルーは素直にはしゃいでいた。先刻のハシシの煙のせいで嗅覚が麻痺していて、繊細な花茶の香りがどうもいまひとつなのだが、そんなことはどうでもいいらしい。巴旦杏の果肉とバターと蜂蜜をたっぷり使った甘い焼き菓子は一口で彼女を虜にした。
「美味しい~~っ! 幸せ~~っ!」
「妙な薬草は入ってないだろうな……?」
ベルノは疑い深く花茶と焼き菓子のにおいを嗅いで検分している。
「何も入ってないから、とっとと食え。それで? わざわざ私のところへ何しに来た?」
ミラは頬杖をついたまま、呆れたように息を吐き出した。
何しに来た、と問われてベルノはぎくっと肩を揺らした。動揺があからさまに顔に出る。だらだらと冷や汗をかいて、不審なしぐさで目を泳がせた。
「いや、別に用は無いけど、ちょっとあんたの顔を見に……」
「……ベルノ、あんた厄介事に巻き込まれたんじゃないのかい? 因果の糸がやたら絡み付いてるのが見えるよ」
ズバッと言われて、がたっと立ち上がってしまう。その拍子に茶器が揺れてせっかくの花茶が飛び散った。
「本当かっ? うまく逃げて来たつもりなんだが……」
ぷっ、とミラが噴き出す。
あっ、と失言に気付いてベルノは口元を隠すがもう遅い。ミラは半眼でにやりと笑った。
「相変わらず、嘘のつけない男だね」
ルーもじと目でベルノを見る。その目は、軽蔑してますよ、と雄弁に物語っている。事情を理解しているわけではないが、ここぞとばかりにミラに乗っかる。
「ばぁか……」
「あああああっ、もう……」
頭を抱えて椅子に深く沈み込むベルノであった。
「下手な隠しだては止しな。どうせ、領主か神殿かギルド相手に下手打って、命を狙われて逃げて来たんだろ。ついでに詐欺でも働いたんじゃないか?」
「うぐっ。相変わらずお見通しか……」
ベルノはすっかり観念して、西の帝域から逃亡する羽目になった経緯をかいつまんで説明した。クラヴィス伯爵夫人とのいざこざ、騙し取った金の事、衛兵に追われて斬り合いになった事、挙句に漆黒の魔境を踏破した事などを……
「相変わらずバカな真似やらかしてるんだねぇ」
ぺしっ、と指先でベルノの額を叩いてから、ミラは表情を消して宙空を見つめた。
「よし、特別にあんたの因果を視てやろうじゃないか。おいで、シャキル──」
ポッ、と赤い燐光が閃く。
ルーは思わず身を乗り出した。ベルノ以外が召喚魔法を使う場面は初めて見る。
たちまち真紅の炎が燃え上がり、円卓の上に渦を巻いて、揺らめく魔方陣が浮かび上がった。血のような色の怪しい光が辺りを照らし出す。
アルヴァの青い炎の召喚陣ほどには巨大ではないが、凄まじい力を感じる。術の規模を抑えて召喚魔法が行使されているのだ。技量の差がうかがえる。これが出来ると言う事は、ミラのほうがベルノよりも術者としては格上だという事。知識の無いルーにさえそれがひしひしと伝わってきて、無意識に両手を握りしめた。
濃密な闇の気配に圧倒される。背中を冷や汗が伝い、本能的な恐怖で指先が凍える。
両腕を広げた程度の多重環と古代文字。幽玄に廻り始めた異界の門。その中央から、身をくねらせながら現れたのは、きらきらと鱗を煌めかせる赤眼の白い蛇だった。
魔獣が現れると、あっという間に魔方陣は霧散した。赤い火の粉が帯を引いて部屋中に舞い飛び、幻のように掻き消える。
ルーは我知らず深い息を吐き出した。心臓がどきどきと早鐘を打っている。
花茶と焼き菓子の器の間に、平凡な大きさの蛇がいる。雪のような体色とルビーの瞳は珍しいが、魔方陣が消えた今では、もはや普通の蛇と変わりない。
ミラが腕を差し出すと、白い蛇はスルスルと彼女の肩に上り、主の威光を示すようにしゅーしゅーと舌を出しながら鎌首をもたげた。
「この子が私のパートナーだ。白蛇のシャキル。南方王国の言葉で砂糖という意味だ。覚えておいてやってくれ」
紹介されて、挨拶でもするようにシャキルはミラの肩を反対側へ滑り降り、ルーの頬に顔を摺り寄せた。
「うひゃっ」
蛇の舌にキスされ、ぶわっ、と産毛が逆立つ。ルーはひきつった笑顔を浮かべた。怖々と手を伸ばしそっと顎の下を撫でてやる。意外にも滑らかで、さらりとした肌だった。
「よ、よろしく、シャキル」
シャキルは満足げに舌を出し、おとなしくミラの肩へ戻って行った。
直後、微かにガラスを擦り合わせるような高い音が響き始める。震える鈴のような澄んだ音だ。ミラはベルノをじっと見つめている。遠くのものを見るような一種神懸った表情。
音が止んだ時、やっとミラに表情が戻ってきた。にやりと不敵な笑み。
「銀色の髪と、黒い髪が見えたよ。なにか思い当たるふしは?」
げっ、とベルノはうめいた。
「銀色の髪は思いっきり思い当たる……確実にあの伯爵夫人だ」
間違いないね、とルー。伯爵夫人を直接見たことは無いのだが、ベルノから話を聞いていたので訳知り顔でうんうんと頷く。
「黒い髪は? こちらのほうが性質が悪い。ほとんど呪詛だ……」
呪詛──そう言われて、ゾッと肌が粟立つ。たいていは古い神の怒りや呪いを指す言葉だ。祟りと言い換えてもいい。それがもしも神ではなく人間に起因するなら、ただの恨みや憎しみではない。呪った者はすでに人間ではなくなっているか、そもそも人間ではないはずだ。呪詛をかければ、魔物になるか、地獄へ落ちると言われている。
ルーは焼き菓子を見つめたまま固まった。
魔物憑きのベルノや、魔物そのもののアルヴァと一緒にいるくせに、呪詛は恐ろしいらしい。死霊や黄泉返り、邪神の話もルーは苦手だ。見たことの無いものは恐い、アルヴァやベルノはちゃんとそこに居るから怖くない、というのがルーの理屈だ。
ベルノは固まっているルーの頭にぽんっと手の平を乗せた。あやすようにぽんぽんと撫でながら話を続ける。
「……いや、黒い髪の女に恨まれた覚えは無い。つうか、あんたも黒髪じゃねえか」
「ああ、私かも知れないね。否定はしないよ」
濡れたような艶のある長い黒髪を、ミラはわざとらしく片手を添えてサラサラと流した。
「げっ。やめてくれよ。あんたが言うと洒落にならない」
ミラの黒髪に首を絞められている自分の姿を想像して、ベルノはブルッと身震いした。
「まあ、冗談は置いといて、紫水晶の瞳は? 記憶に無いか?」
「紫水晶の瞳……?」
しばし考え込み、はたとベルノは膝を打った。
「ああっ、あるっ! 紫色の瞳で黒い髪、思い当たる奴がいる──つうか、そいつは女じゃないし、恨まれてもいないハズだぞ。むしろ親切にしてやったし、挙句に迷惑を被ったのは俺の方だ。恨みたいのはこっちだぞ」
ベルノは、伯爵夫人から殺せと命じられた青年楽士の顔を思い出した。長い黒髪に隠された秀麗な輪郭。憂いを湛えた紫水晶の瞳。男にしておくのは惜しいほどの色気。儚く優しげな美貌だった。うっかりほだされて、妖精のようだとすら思ったのに……
「因果が必ず女からのものとは限らないだろ。案外、嫉妬が原因かもしれないよ。あんたを伯爵夫人の新しい愛人だと誤解したとか」
「いやいやいやいや、無いわ。それは無い」
否定してみるが、しかし、まったく利害関係が無い。直接顔を合わせたのは、逃げろと伝えに行ったあの時のほんの短い間だけだ。
「ふうん……しかし、たかが色恋沙汰にしては変だね。その黒髪はものすごい絡み付き方をしている。それが原因で命を落とすかも知れないよ。濃密な闇の臭いがするし、酷い邪気を放っている。さっきは呪詛と言ったが、生贄に絡みつく糸にも似ているんだ……」
「生贄……っ!?」
剣呑な言葉に驚いて、ルーは真っ蒼になってベルノにしがみついた。
「怖いのかい、お嬢ちゃん?」
「こ、怖くなんかないわよっ!」
「でも震えてるじゃないか」
「う、う、う、うるさいわねっ。怖くないって言ったら怖くないのよ~~っ!」
「あはははははははっ。ルーティリンガル、あんた良い根性だ。気に入ったよ。今度ベルノがドジ踏んだ時の話面白い話を聞かせてやるよ」
「えっ、本当? 聞きたい、聞きたぁいっ!」
「ミラ! 余計な話はやめてくれっ!」
真っ赤になって慌てて立ち上がるベルノ。ミラはますます笑い転げた。
「……ったく。もう勝手に笑ってろ。銀髪と黒髪はわかったよ。とりあえず気を付ける」
ぶすっと拗ねてそっぽを向きながらベルノは元通り椅子に腰掛けた。ミラはちらっと拗ねたベルノの横顔に視線を走らせ、満足したように目を細めた。
夜も更けてきて、ルーは眠そうに瞼をこすり始めた。旅の疲れも堪えているのだろう。
「おっと、ルー、まだ寝るなよ。ミラ、明日また来てもいいか? 少しこの辺りの事情を教えて欲しい。新しい仕事も見つけなきゃならないからな」
立ち上がりかけたベルノに、ミラが言い難そうに声をかけた。
「……ベルノ。あんたの常宿だったジルの店はもう無いよ」
「え? ジルの奴、くたばったのか?」
「いや、そういうわけじゃないが。二年ほど前にダンジュールの領主様が亡くなって、その後少しごたごたがあったんだ。ジルはその時に縄張りを変えたんだよ。今は南方王国にいる」
「そうなのか……」
右頬に傷のある、浅黒い肌に無精髭の陽気な男を思い浮かべ、ベルノはなんとも言えない寂しい気分になった。若い頃は船乗りだったとかで、宿屋の主人になってからも筋骨隆々の肉体を自慢にしていた。
「七年もツラ見せないから、馴染みはみんないなくなっちまったよ」
詰るように言って、ミラはインクと真鍮のペンを取り出した。小さな紙片にサラサラと地図を描き始める。
「ここに行きな。私の知り合いじゃないけどね。この辺りで女を買わずに泊まれるのは、この安宿くらいしかないからね。晩飯は途中の屋台で買うんだよ。食事は出してないはずだから」
ぐいっ、と無愛想にメモを突き付けられた。
簡単に礼を言って立ち上がる。眠りかけているルーの手を引き、見送りに付いて来たミラも一緒に怪しい呪物で満ちた店を出る。じゃあまた、と手を振って薄暗い道を歩き始めようとした時、後から乱暴に腕を引かれた。
「ちょっと待ちな」




