【第一章・魔物憑き】03
あれはそもそも最初から気乗りのしない仕事だった。大貴族の奥様を袖にした美貌の青年楽士を暗殺しろと申し付けられたのだ。それは自分──ヴァンディールの仕事ではないとベルノはしつこいほどに説明したのだが、銀髪の伯爵夫人は頑として聞き入れなかった。本来は、彼女の夫であるクラヴィス伯爵に、有象無象から掛けられた呪いを跳ね返す下仕えの抗呪術師として雇われたはずが、奥方の目に付いてしまったせいで面倒な事になった。
「下賤な魔物憑きの仕事に些末な違いなどあろうはずがない。この妾が命じるのです。賢しげに言い訳などせず、さっさと行って仇敵の首を取って参れ」
それが奥様の言い分だった。
仕方が無いのでベルノは愛想笑いで仕事を引き受け、たっぷりの前金を頂戴し、それを隠れ家に潜んでいたルーに預けてから、伯爵夫人への当て付けで、わざわざ楽士に「逃げろ」と伝えに行った。その程度の意趣返しはしてやりたかったのだ。
さて、森の中の崩れかけた石の塔にいたのは、確かに、背筋に震えが走るほど美しい青年だった。伯爵夫人が狂気の沙汰で入れ込むのも理解できる。ほっそりとした輪郭。長い黒髪で隠してはいたが、首を傾げた瞬間、此の世の者とも思えぬ麗しい顔が垣間見えた。男にしておくのは惜しい色気で、透き通った瞳は紫水晶のように輝いていた。あまりに綺麗なので吟遊詩の妖精でも見ている気分になった。これは救ってやれて良かったと、ベルノもうっかり入れ込んでしまったほどだ。
ところが、命を狙われていると知らされた楽士はかえって観念してしまったようで、「運命だ」とか「見付けた」とか「迷いは断ち切れた」とか奇妙な独り言を呟いて、伯爵夫人の膝下に駆け戻ってしまったものだから参った。今度は逆にベルノが衛兵どもから追われる憂き目に遭ったのだ。せっかく情けをかけてやったのに……
命懸けの追いかけっこの挙句、アルヴァに助けてもらい、翌朝、朝っぱらから城下町で慌てて旅支度を整え、その足で養い子のルーを連れてとんずらしたわけだ。暗殺の仕事は失敗したが、報酬の搾取には成功した。なんという下らない顛末か。
ベルノはひょいとルーの前にあったビスケットを摘まみあげ、ぼりぼりと齧り始めた。
「ううむ、やっぱり硬いな。旅用の保存食は歯ごたえのあるものが多過ぎる。板チーズもコチコチだし、干し肉はガチガチだ」
「うん。でも、ボクけっこう好きだよ。これはこれで味わい深いと言うか……」
ルーはガリガリと板チーズを齧りながら言う。強めの塩気と熟成された香りが慣れればなんともいえず、人によっては癖になる。
「そう言われるとそうなんだよな……でも、早くダンジュールの都に着いて、うまい飯をたらふく食いたいな。焼きたての鱒に香草のソースをかけた料理は絶品だぞ」
「うわっ、それ早く食べたいっ! よだれが出そう~~」
目を輝かせ、口の端から、たり~っとよだれを垂れさせながらルーは身を乗り出した。
「いやいや、出てる、出てる。口元、よだれ垂れてるぞ……」
「うっ、やべっ!」
ごしごしごしっ、とルーは服の袖で口元をぬぐった。
ベルノは思わず眉間を押さえる。なんということだ。仮にも女の子がはしたない。
「まったく行儀が悪い……」
「うっさいなぁ。ベルノだって似たようなもんじゃん。お上品にしろって言うなら、自分が手本を見せてからにしなさいよねっ!」
びしっ、とルーはベルノを指差した。
根本的な問題を指摘されたベルノは、うぐっ、と喉を詰まらせる。
傍に寝そべっていたアルヴァは呆れたように伸びをして、それから後ろ足でカリカリと耳の後ろを掻いた。完全にデカイ猫であった。
†††
結局、ダンジュールの都の城門に到着したのは日の暮れかけた宵の口であった。
薄暗くなっているのに、都の周りには大勢の人がごった返している。漆黒の魔境からの街道は寂びれてまったく人通りが無かったのだが、南方王国から続いている街道は比べ物にならないほど繁栄しているらしい。荷を山積みにした商隊の旅馬車が長い行列になっていて、巨大湖に添うように小さなランタンの明かりが淡い光の帯をなしていた。
そびえたつ白亜の城壁は夕闇に染まり、星の散りばめられた紫の空を影絵のように切り取っている。城壁の上で焚かれた松明からは時折、火の粉が魔法の蝶のように舞い上がる。
「うわぁ……」
美しい夜景にルーが溜息を漏らした。これほど大きな都を見たのは初めてなのだ。
ベルノは傍らの漆黒の獅子にそっと手を伸ばした。豊かなたてがみを、申し訳なさそうな表情で優しく撫でる。
「アルヴァ。そろそろ人目につく。おまえの姿を見られたら大騒ぎになる。悪いけど、またしばらく姿を消していてくれるか?」
ぐるる、とアルヴァは少し不満げに喉を鳴らした。しかし、時を置かず、黒い獅子の姿は大気に溶けるように透けて淡くなり、ついにはふっと掻き消えた。異界へ帰ったのだ。
「悪いな……アルヴァ……」
さて、アルヴァが消えた後、ベルノとルーは何食わぬ顔で城門の通行税を支払う旅人の列に紛れ込んだ。商隊の旅馬車は貿易品を山と積んでいるので、検品と税の計算に手間と時間がかかるが、商い品を持っていない身軽な旅人は特に荷を検められることも無く、人数分の通行税を支払うだけで済んだ。お陰でするすると列は進み、思っていたよりも早く城門の中へ入ることができたのだ。ダンジュールの為政者は少々の密輸品や禁制品の持ち込みは黙認しているらしい。それが自由な気風に繋がり、優雅な繁栄の元になっているのかも知れない。
城門をくぐり、ベルノ達がまず向かったのは下街の怪しい界隈だった。
居酒屋と湯屋と宿屋を兼ねる不健全な店が立ち並ぶ一角。かがり火とランタンが眩いくらいに通りを埋め尽くしている。沢山のオレンジ色の明かりが揺れている様は幻想的で、妖精郷にでも迷い込んだのかと錯覚する──が、ここはそんな甘い場所ではない。
誘惑多き歓楽街である。
せり出し梁で空がほとんど見えなくなったごちゃごちゃとした街並み。曲がりくねった石畳みの道には、肉の焼ける美味そうなにおいや、刺激的な香辛料の、あるいは甘い砂糖菓子の香りが混じり合い、楽しそうな笑い声と歌、六弦や鼓や笛を奏でる音が満ち溢れていた。
ものすごい人混み。ほとんどは女を買いに来た客だ。旅人が多いが、ダンジュールの市民も負けずに多い。時には下級貴族まで混じっている。飴売りや花売り、かんざし売り、禁制の快楽を誘う薬を売っている薬草師崩れなどが、人の流れに逆らって品物を売り歩いている。店々の前には目つきの悪い男達がたむろし、千鳥足で歩く善良な市民や旅人を獲物でも狙うような目で値踏みしていた。彼等の指示で、花を手にしたあられもない衣装の女達が客の袖を引いている。まだ年端のいかない幼い娼妓の姿まである。ルーより少し上か、もしかしたら同い年くらいかもしれない。親に売られた少女達だろうが、しぐさがたどたどしくて胸が痛む。
ふとした拍子に通行人の一人と肩が当たった。
「てめえ、どこ見て歩いてやがる」
泥酔した様子の性質の悪そうなごろつき。お定まりの文句を喚きながら顔を上げたが、ベルノと目を合わせるとサッと顔色を変えた。これだけ街灯りがあれば瞳の色を見分けられる。ベルノはすぐに目を逸らし、ごろつきが呆然と口を開けている隙に、ルーの腕を引っ張って素早く人混みに紛れた。
一瞬の事だ。人間の認識はあやふやで、思ってもみなかったものに遭遇した場合、大抵、自分が勘違いをしたと思い込む。瞳の色を見られても騒ぎになることは少ない。日中でも間近で数瞬以上目を合わせなければ、意外にも瞳の色は見定められない。目を逸らし、瞼を伏せ、俯いてしまうだけでいい。前髪を伸ばすだけでも瞳は見え難くなる。目深に布を被ってしまうという方法もある。一か所に長く留まらなければ、案外、正体を隠して過ごせるのだ。
ごろつきから離れてホッと溜息を吐くと、さっそくベルノにも色っぽいお姉さんが蠱惑的な声をかけてきた。大輪の花と金色のかんざしをシャラシャラと結い髪に挿し、濡れたような赤い唇で誘い文句を唱える。
「ねえ、赤毛の色男さん。そんな子放っておいて私と遊びましょうよ」
「そうよ、花街に子供連れなんて無粋よ」
「うちの店にはサン・ディシェ産の火酒があるわよ。一杯飲んでってよ。気持ち良いサービスもつけるから。なんなら一緒に湯浴みして、そのまま泊まっていってもいいのよ」
「ねえ、ちょっと。つれないわね。ちょっとくらい遊んでいってくれてもいいじゃない」
薄い絹のドレスは流れるように体に密着し、豊かな胸の谷間からは甘い香水の匂いがふわふわと漂ってくる。ルーが一緒でなければ、ぜひ遊んでいきたいところだが、今は涙を飲んで我慢する。キリッと真面目な顔を取り繕って、お姉さん達の声を無視していたら、とんでもない罵声を浴びせかけられた。
「なによ、子供にしか興味ない変態野郎なわけ?」
「うぐ……っ」
子連れに向かってこれは酷い。怒りを飲み込んで、握り拳をぷるぷるさせて耐えた。
意味のわかっていないルーは、空気を読まずに「どういう意味?」などと追い打ちをかけてくる。もういっそ殺してくれ、と思わなくもないベルノであった。
そんな災難を受け流ししつつ、混雑した表通りを離れ、裏道の辻を数回曲がった人影の少ない小路に、目指す店はあった。
煉瓦造りの手狭な建物。二階から上は木組みの漆喰壁で、お約束のせり出し梁の軒下には呪術師が使うヤドリギの小枝や動物の骨がぶら下げられていた。黒い鎧扉には白塗料で奇妙な古代文字の魔方陣が描かれており、チラリと視線を横に逸らせば、南方王国風のエキゾチックな格子窓にヤモリが一匹張り付いていた。
店の異様な有り様に、ルーは、ぎょっと目を見開いた。
「うわっ、魔女が住んでいそう……」
「まあ、あながち間違いではないな。似たようなものが住んでる」
笑いながら扉を押し開くと、カララン、と乾いたベルの音が響いた。
「おいおい、ベルノ。久しぶりに顔を見せたと思ったら、玄関先でなんてこと言ってくれるのさ。悪いけど、丸聞こえだよ」
ハスキーな声の主は、店の奥に陣取った迫力のある美女だった。
店内には不思議な物が満ち溢れていた。天上からぶら下げられた南方王国産の布飾り。奇妙な壷や、動物の剥製。金色の環と珠で世界を模った天体観測儀。壁いっぱいに積まれた古書と巻物の山。人の手の形をした燭台や、ガラス製の目玉。細かい模様が刻まれた銅製の杯。
店の一番目立つ場所。すなわち扉を開けてすぐに視線が向かう、真っ直ぐ奥の飾り棚の中央には──これが彼女の紋章なのだろう──黄金のランプに白い蛇が絡み付く不思議なオブジェが飾られていた。白い蛇の瞳には赤い色硝子が嵌め込まれている。
威圧感たっぷりだ。
一見ガラクタに見える塁壁の奥、豪奢な革張りの椅子を、これまた水晶玉や髑髏など怪しい品々が山積みにされた円卓の前に据えて、店の主は長い足をどかっと投げ出して座っている。
濡れたような艶の黒髪を腰まで伸ばし、深いスリットの入った南方王国のドレスを纏って、豊かな胸の谷間を惜しげもなく晒している。真っ赤な唇で水煙管の吸い口をくわえ、悩ましげに舌が動いていた。彼女がくゆらせる紫煙は、狭い店内に充満して渦をなしている。
初めて嗅ぐ怪しい紫煙の香りに、ルーは眉間に皺を寄せて咳き込んだ。
「うっ、煙い……ベルノ、これ何?」
「水煙管だよ。糖蜜で固めた煙草を炭で燻して煙を吸って……じゃなくて、これハシシじゃないかっ! 煙草の臭いじゃないぞ……って、煙草も子供のいる場所で吸っていいものじゃないけど……ああっ、ルーは少し息を止めていなさい。ったく、なんてタイミングの悪いっ! 行くって連絡しておいたはずだよなっ。こっちは子供連れなんだぞ──っ!」
自分もゴホゴホと咳き込み、ベルノは慌てて首に巻いたスカーフを外し、ルーの口と鼻を覆ってから、二つの格子窓を開けに走った。バタン、バタン、と乱暴に窓を開け、外套を脱いでバサバサと煙を追い出す。美女から水煙管を取り上げ、炭を燻皿から煙草用の火鉢に戻して、ハシシを水壷に落とす。ジュッ、と微かな音がして、ベルノはやっと安堵の溜息を吐いた。冷汗を垂らし、半眼でじとっと美女を睨み付ける。
「……相変わらずヘビースモーカーだな。燻製でも作るつもりか?」
美女はにやりと唇の端を上げて、気だるげに髪を掻き揚げた。
「せっかく楽しんでたのにもったいない。なんならあんたを燻製にしてやろうか」
「あんたは本当にやりそうで恐ろしいよ……ミラ・エリダヌス」
名前を呼ばれた途端、ミラは明るく笑い出し、両腕を広げて立ち上がった。




