【第一章・魔物憑き】02
「はあ……逃げる時までカッコつけなくてもいいだろうに……」
青年は呆れたように揶揄し、軽薄な仕草で両手を上向けに広げた。そのはずみで引き裂かれた革の上着の縁が腕の傷に擦れて痛みが走る。
「いててててっ!」
いつの間にか、黒い獅子は青年のすぐ脇に歩み寄っていた。顕現した時とは比べ物にならないほど小さくなっている。普通の獅子よりはデカイが、まあギリギリ珍しい黒獅子だと言って通用する程度の大きさだ。
背後に目を移せば、彼が現れた魔方陣はぼんやりと薄くなっていた。燐光はまだ舞っているが、魔獣を召喚した異界の門は燃え尽きかけた花火のように儚くなっている。昼のようだった周囲も少しずつ暗がりに戻りつつあった。
「アルヴァ。この傷、塞いじまってくれないか? 結構深く斬られてて、出血がヤバイ」
ぐるるるる、と黒い獅子は喉を鳴らした。
彼の意思を示すように、ボッと青年の傷口に青い炎が燃える。
「あちっ」
青年は苦痛に顔を歪めたが、腕に灯った炎は、一瞬で、まるでマグネシウムの火のように掻き消えた。
後には、染みひとつ無く再生した無傷の肌が現れていた。
「助かったよ、アルヴァ」
ぽふっと黒い獅子の首に腕を回す青年。黒い獅子は優しげな仕草で青年の頬に額を寄せ、主人に甘える猫のように眼を閉じた。
「ううむ、服は買い換えないとダメだな。俺達は魔術の大盤振る舞いはできないんだから、襲撃する時には少し気を遣って欲しいもんだよな。奴ら、ほんっと気が利かねえ……」
敵が逃げ去った方向に向かって身勝手な文句を言い、青年は再び黒い獅子に視線を向ける。
「それでルーティリンガルは?」
黒い獅子は何かを訴えるようにじっと青年の目を見つめた。視線を合わせた青年は、まるで黒い獅子の声が聞こえているように何度も相槌を打つ。
「うんうん……そうか? 良かった。無事なんだな。俺たちの隠れ家は見付かってない? うん……わかった。ほっとしたよ。ありがとう、アルヴァ……」
ぐるるる、と再び黒い獅子は喉を鳴らした。嬉しそうな声だ。
青年は立ち上がってよろよろと歩きはじめる。さすがに疲れ切っていたし、血を失ったので眩暈もする。しかし、旅の相棒が無事だとわかって気分は上々だった。
「さてと、こんな街に長居は無用だな。夜が明けて商市が開いたらすぐに旅支度を整えて、その足でルーを拾ってとんずらしよう。行先は……そうだな。東の王国にでも向かうか。ん? わかってるよ。漆黒の魔境を抜ける羽目になる。でも、このままクラヴィス伯爵領に隠れているよりはマシだろう? お前がいるんだから危険は無いさ。そうだろ、アルヴァ?」
ぐるるる、と今度は少しだけ非難を含んだ声が響いた。
†††
──七日後。
ベルノ・グランディスは空腹だった。
早朝の凛とした空気が満ちる、深い森と草原との境界。
ここはもう、東の王国のダンジュール侯爵領だ。
麦は黄金の海のように波打ち、林檎は赤く色付く実りの季節である。
朝焼けに染まる空。連なる緑の丘陵。青い河がうねる大地の遥か彼方、紫の影になったアルフィニア山脈を縁取るように薔薇色の雲が淡くたなびいている。山脈の途切れる南の果てには、海のように巨大な湖が陽光を浴びてきらきらと銀鱗を弾けさせている。いにしえの吟遊詩に、女神に愛されし若き竜その湖底に眠る、と歌われる玲瓏に透き通った湖だ。
そして朝靄の中にぼんやりと浮かび上がる巨大な城塞都市の影。沢山の尖塔が、掲げられた軍勢の剣蜂のように見える。古代より南方王国との交易で栄えた黄金の地に白亜の壁を巡らせた『水の都』──それがダンジュールの主都である。
「おおぉ……相変わらず、厭味なくらい優雅な国だな……」
ベルノは朝陽に手を翳しての逆光の中にある景色を眺めやった。
陽の光の下で見るベルノの髪はくすんだ暗赤色をしていた。背は高い方ではないが、手足はすらりと長く、全体的に引き締まっている。服装は地味だ。商市で適当に買った無染革の外套を着込み、襟元には大きな虫除けスカーフを巻いている。白い麻のシャツに、黒っぽいズボンと革の編み上げブーツ。背負っているのはありふれた灰色帆布の旅鞄だ。腰に下げているのは新たに買い求めた長剣だが、懲りもせずに古い質流れ品である。
「くっそぅ、まだまだ遠いなぁ……」
魂の抜けるような大仰な溜息がこぼれた。
確かに景色は綺麗だが、日の高いうちに都の城門へ到達することは難しいだろう。疲れ切った体に鞭打って、今日も一日中歩かなければならない。考えるとウンザリを通り越してゲンナリする。
ぐるるる、と喉を鳴らし、傍らに侍っていたアルヴァが慰めるようにベルノの肩に顎を乗せた。馬鹿力でぐいと押されて思わずよろける。ベルノは少し口角を上げた。ふさふさしたたてがみが頬に当たってくすぐったい。旅の埃に塗れる人間とは違って、此の世の者ならぬアルヴァはどれほど過酷な旅のあとでも涼やかな香りがした。
「おまえはいいなぁ。羨ましいよ……」
ベルノは、昼なお暗き深い森──漆黒の魔境と呼ばれる国境の森林地帯を、歩きに歩いてようやく抜け、やっとダンジュール侯爵領の平原に辿り着いたところだった。
漆黒の魔境とは、大陸の中央を帯状に覆っている広大な魔性の森だ。樹々の葉は揺蕩う魔力で黒く染まり、それで、大昔から漆黒の魔境と呼ばれている。
古代の闇の神が、世界を滅ぼす穢れた炎で一度は焼き尽くしたと言われる呪われた地。
いまだ、その呪われた魔力が大地を穢し続けている為、通常の生物は棲息できない。魔物が闊歩する魔境である。竜もいる、という噂すらある。
この黒い森の為に、大陸中央の王権は西の帝域と東の王国に分断されていた。ちなみに、二大国の北方には未開な蛮族が割拠する北方小国群があり、南方には海のように広大な三日月型の巨大湖と、その対岸に南方王国と総称される豊かな王国群がある。
地図の中心にあるのは西の帝域と東の王国だが、両国の国交は百年以上前に西の帝域が内乱に飲まれて以来絶えている。森の中にも街道があるにはあるが、打ち捨てられて半ば森に飲まれていた。賢者と呼ばれる偉人が街道を敷設した数百年前には、街道全体に魔物除けの聖術が施されていたのだが、その効力もすっかり薄れてしまい、魔物の襲撃を恐れて旅人の往来は絶えて久しい。
そんなところを夜も昼もなく、時にはアルヴァの背にまたがりつつ、七日もかけて踏破して来たのだから疲労は限界に達していた。休憩も睡眠も湿った地べたに簡単な敷物を敷いて取ったので、もういいかげん湯浴みがしたいし、まともな寝台で眠りたい。真夜中に旅用の保存食を食べたきりなので腹も減った。
「ぐぎゅうううううぅっ」
素晴らしいタイミングで鳴り響く腹の虫。形容しがたい沈黙が舞い降りた。
「ち、違うっ。誓ってこれは俺の腹の虫ではないっ!」
誰に言い訳しているのか、慌てて顔の前で両手を振るベルノ。
その時、くいっ、と彼の外套が引かれた。
「ねえ、ベルノ。ボク、お腹ぺこぺこなんだけど」
それが盛大に鳴いた腹の虫の犯人だった。
ベルノより頭ふたつも低い位置から、枯草色の髪を二つに分け長いおさげにした少女が不機嫌そうに睨み上げていた。紅茶色の瞳は旅の疲れでやや赤味を増しているが、目元には少しだけソバカスが散り、色白の肌に可愛いアクセントを添えている。
彼女はカーキ色の旅装に身を包み、茶色い革製のブーツで足元を固めていた。背負っているのはベルノと同じ大きな灰色帆布の旅鞄。生意気に立派な宝玉の付いたエルフ短刀を腰に差し、長い外套の裾が地面の近くで揺れている。
ルーティリンガル。通称、ルー。ベルノが五年前に拾い育てた戦災孤児だ。当時の本人の記憶が正しければ、夏の初めに十歳になった。まだまだ大人の庇護が必要な子供だ。
「ベルノ。ボク、お腹すいた。もう耐えられない」
桜貝色の可愛い唇を突きだし、じとっ、と恨みがましい目つきで言う。声には陰の気がこもり、まるで呪詛でも吐き出しているようだ。
「はいはい、わかってますよ、ルーティリンガル様。これから飲み水を用意しますから、少し待っててもらえまちゅかねぇ?」
語尾上がりの台詞にわざとらしい厭味の色が混ざっている。
ぴくっ、とルーのこめかみが痙攣した。
げしっ。ルーの鋭い回し蹴りがベルノのふくらはぎに見事にヒットする。
「いってえぇぇぇぇぇっ!」
ベルノは大袈裟な悲鳴をあげてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「子ども扱いしないでっていつも言ってるでしょっ! もう一撃お見舞いしてやろうかっ!」
「わあっ、やめろっ、やめろっ、筋肉が裂けるうぅぅぅ」
「物覚えの悪い自分を恨め~~っ!」
「うわわわっ、アルヴァ、なんとかしろ~~っ!」
アルヴァは、くああっ、あくびをしながら目を逸らし、ルーは思う存分ベルノを追い掛け、気が済むまで蹴りを放った。大の男が、華奢な少女から必死に逃げてどたばたと草原を走り回る、実にあほらし……いや、恐怖に満ちた一場面であった。
「ちょっ、ちょっと待って。もうダメだ。い……いらんことして、余計に腹が減った……」
「うっ、ボ……ボクも……」
ベルノとルーはよろめきながら、ぜいぜいと荒い息を吐き、ふらふらと立ち止まる。
「疲れたぁ。もうホントに動けなぁい……」
ばたんっ。二人そろってその場に仰向けに倒れ込んだ。
青い空に白い雲がゆったりと流れて行く。
爽やかで良い気分だ。いっそ半日ほど草原で寝転がって休みたい。
ぐるる、とアルヴァが二人を覗き込む。彼は器用にヤカンの取っ手をくわえていた。いつの間にかどこかで飲み水を汲んできてくれていたようだ。毎度の事なので、二人とも、もう不思議に思わない。漆黒の魔境でも、お陰で飲み水には困らなかった。
「助かったよ、アルヴァ。ありがとう」
アルヴァがくわえたヤカンを見て、さっそくルーがお行儀悪くぼやき始める。
「ベルノ~~、ボク、腹ペコで死にそう~~っ」
「ルー。せめてお湯を沸かして紅茶を淹れるまでは我慢しなさい」
「無理~~っ! お腹すいたっ。お腹すいたっ。お腹すいた~~っ! 今すぐ何か食べないと、お腹と背中がくっついて死んじゃいそう~~っ!」
大声で捲し立てながら、ルーはガバッと起き上がり、野獣の如き素早さでベルノの腹に馬乗りになった。そのままマウントポジションでベルノの頭を殴ってくる。両腕でガードするが、子供の打撃のわりには意外と威力があって痛い。
「うわっ、こらっ、やめなさい。っつうか、女の子が軽々しく男の上に乗るんじゃないっ。なんてことするんだ、はしたないっ!」
「うるさい、うるさいっ、お腹が空いたんだってば~~っ!」
「わかった、わかった。もう喚くな。紅茶を淹れるのはやめる。敷物を出したら、チーズとビスケットを食べていい」
ベルノはうんざりと両目を閉じた。
もうしょうがない。紅茶は諦めて水を飲もう。別にそれでも困らない。
ここでビシッと言って聞かせないからいけないのだが、つい、面倒臭くて折れてしまう。その結果がルーのワガママな振る舞いに繋がるのだが、とにかく面倒な事が嫌いなのだ。気分によっては、息をするのさえ面倒になることもある。極めつけの面倒くさがり、それがベルノという男なのだった。
「干しアンズも食べていい?」
「ああ、もうっ、食え食え、なんでも食え。しょうがない……今日中には街に着くだろうし、大盤振る舞いだ。好きにしろ」
「わあい、やったぁ~~」
「……ったく。俺だって腹減ってるんだからな。半分は寄越せよ」
「ええ~~……っ」
ルーは不満そうに頬をふくらませた。
こんな食い意地の張った子に育てた覚えはないのだが……
「それで、これからどうするの?」
口の端にビスケットのカスをくっつけて、ルーはむぐむぐと干しアンズを咀嚼しながら言った。敷物の上に鞄から出した保存食を広げて、ちょっとしたピクニック状態だ。
固く焼しめた薄甘い味のビスケット。板状にスライスして水分が飛ぶまで乾燥させた高山チーズ。塩気とスパイスの強い干し肉。ローストした胡桃の実。少し高価な干しアンズに、だいぶ高価な瓶詰めの蜂蜜まである。
「うん……どうしたもんだろうな。とりあえず逃げては来たが、アテは無い」
ベルノはルーの向かいに座り直し干しアンズをひとつ摘まんだ。無造作に口に放り込みもぐもぐと噛み締めると甘酸っぱい味と香りが口いっぱいに広がる。
「はあああああぁ……」
それにしても憂鬱だ。なにしろ隣国で殺されかけて逃げて来たのだから。