【第四章・若き竜】06
──ゴーシュ! 金色の蝶の契約者。屍人遣いのゴーシュが目の前にいた。
巨大な尾の一撃が来る。
質量で叩き潰すだけの有無を言わさぬ圧倒的で強大な攻撃。
地面が、瓦礫が、すべてが、竜の尾の威圧に吹き上げられ、津波になる。
地鳴りが轟く。
ドゴオオオオオオオオオオッ────────ッ!!
金色の蝶が盾になった。
漆黒の津波は金色の防壁に衝突し、無数の奔流に割られ、守られた聖域の周囲を、荒れ狂うまま暴虐に疾駆していく。
金色の蝶の群れは衝撃に爆発するように弾け、再びひらひらと舞い集う。
弱い力が、必死にベルノを守っていた。
ゴーシュは両腕を精一杯広げてベルノを庇うように前に立ち塞がる。
「逃げたんじゃなかったのか……」
ベルノは呆けたような声を出した。
「に、逃げただあよ。でも、でも、あんたが心配で……」
ゴーシュは、くしゃっと顔を潰して笑った。
「どうしてっ? 逃げてよかったんだぞ、おまえは自由なんだっ!」
そうだ。せっかく、ラウルからも、俺からも、自由になったのに……
「だって、あんた、あ、あの小さい娘っ子に、オラのこと苛めちゃダメだって言ってくれただ。オラ、庇ってもらったのは初めてだっただ。だから、う、嬉しかっただあよ」
ゴーシュは震えていた。震えながらも笑っていた。『みんなともっと一緒にいたい』──それがゴーシュの最初の願いだった。今、ゴーシュは新たに願う。
「オラが守るだ。ベルノと一緒に戦うだよ。ベルノの役に立ちたいだっ!」
「おまえ……」
ベルノの声は掠れる。何かが胸に込み上げて、喉が詰まって……
「蝶々よ、ベルノを守ってくれろっ! オラ、オラ、ベルノを守りたいだっ!」
両手を目一杯広げ、天に掲げ、ゴーシュは願う。漆黒の津波から、金色の蝶は盾になりベルノを守る。守って、守って、守って、討ち減らされていく。
「ゴーシュ! よせ、やめろ! そんな事で願いを使うな! 俺なんかの為に命を削るんじゃないっ!」
ああ、斬り裂かれていく。金色の蝶が、ゴーシュの命が──
「あんた、オラを心配してくれたし、庇ってくれただ。今度は、オラが庇う番だ……」
「おまえ……」
「ベルノに触るでねえっ! ベルノを傷付けたら許さねえだっ!」
「やめろっ! やめるんだ、ゴーシュ──!」
竜を阻む。それが、どれほどの高望みであるか……
ゴーシュの魔物は弱い。魔物の力の強さはその見た目に如実に現れる。漆黒の獅子アルヴァダーナは見た目通りの強靭な魔力を持っているし、白蛇のシャキルも本来の姿は巨大で魔力も相応に強大だ。しかし、ゴーシュの魔物は儚く小さい。屍人を操るおぞましい力として結実してはいても、『みんなともっと一緒にいたい』という願いによって契約者に繋がれている。
竜に立ち向かうには、金色の蝶は優し過ぎる。
竜の攻撃を一撃受け止める度に、大きな願いが消費されていく。
分かっているのか、いないのか、ゴーシュは惜しげもなく願う。願い続ける。
「ベルノを守ってくれろ──!」
幾千幾万の蝶が、若き竜を取り囲んだ。
漆黒の竜が咆哮する。身悶え、苦しんでいる。ああ、抑え込んでいるのだ、竜を──!
辺り一面に、目を灼くような眩い閃光が弾けた。
──蝶が、魔力を使い果たした……
燃え尽きる寸前の炎が勢いを増すように、一時とはいえ、竜をも圧倒した金色の蝶が……
不意に透き通る。契約の終焉だ。
ゴーシュは──
「そんな……」
笑っていた。嬉しそうに。安らかに。
次の瞬間、ゴーシュは光の粒になって弾け飛んだ。粉々に砕けた粒は、蝶の群れに吸い込まれていく。喰われているのだ。約束の時が満ちて、契約の通り、寄り添ってくれた魔物に……
「──────────……っ!!」
大気が震えている。『アルフィニアの剣』が共鳴する。
ゴーシュの意思は消えたはずなのに、蝶の壁はまだなお竜を抑え込んでいた。しかし、光の壁は少しずつほつれていく。
(時間が無いだ。早く斬ってくれろ……)
耳元でゴーシュの声が聞こえた気がした。
「くそっ、こんな時まで……ばかやろう……っ」
ベルノは剣を振り上げ、透き通る光になった蝶の壁ごと、竜とラウルを繋ぐ鎖を斬る。
「ラウル! てめえの妄執を断ち斬ってやる──!!」
他には何も考えない。ただ、振り上げた剣を思いのままに叩き込んだ。
竜の鱗が砕け散り、網膜を灼く凄まじい光が辺りに満ちる。
落雷だ──いや、違う。青と紫の稲妻が、ベルノとラウルの周囲を幾重もの光と魔力の渦になり、波となり、奔流となって駆け巡る。
嵐が二人の体を突き抜けた後、ラウルは目を開き、驚いたような顔をしてベルノを見つめていた。エーテルが紫水晶の色を失い、虹色に揺らぎ始める。契約の鎖が砂のように崩れていく。
呪縛のほとんどが崩れ落ちた時、竜の額から引きはがされたラウルは、不意に、弾けるように笑い始めた。
「ふっ、ふふふっ、あはははははははははっ」
気が触れたように苦しげに体を折り、腹を抱えて笑い続ける。
涙が、その頬を伝っていた。
ひとしきり笑って、唐突にラウルはベルノに向き直った。髪が風に吹き上げられ、顔がハッキリと見える。優しく清々しい、憑き物が落ちたようなサッパリとした表情。
夜の泉のような紫水晶の瞳が、チラチラと揺れるヴァンディールの虹色に変わって行き、それから透き通って、ただ空を映すだけの透明な硝子の色になった。
魔力が、契約のくびきが、絶望が消える──
風が吹き抜けて行く。
「ベルノ・グランディス……見事だ。斬ると決めたものを斬る、それが『アルフィニアの剣』の真実の力だ。知りもしなかったくせに、よくぞ真理に辿り着いたな。おまえは、僕の絶望と憎悪と怨念を断ち切ってくれた。怨嗟の呪いが消えたよ……」
「──────っ!?」
ラウルは立ち上がり、素足で竜の額を踏み、一歩、己が妄執を阻んだ者に近付く。
両手を差し延べ、ベルノの両耳と顎にそっと触れた。預言者が洗礼を施す者を見定めようとする仕草に似ているが、威圧感は無く、ただ、真っ直ぐに、清廉に、ラウルはベルノを見詰めている。
至近距離で視線が絡み合う。透明な瞳にベルノの情けない顔が映っていた。
「ベルノ、僕を喰ってくれ」
「なにを……!?」
「若き竜は封印されなければならないが、僕はもう閉じ込められるのは御免だ。心を持ったままでいたくない。孤独は嫌だ。分かるだろう?」
分かる──ああ、痛いほど、分かるとも。だけど……
「君の糧になるなら本望だ。その剣の力で若き竜と引き離して、僕の魂を解放してくれ……」
「できない。そんな事は……」
「その目なら因果の流れも見えるだろう?」
言われて、ビクッと身を震わせる。シャキルの魔力はこの瞬間も働いている。確かに、見える。分かってしまう。まだ因果の糸は断ち切られていない──
「誰かに喰ってもらわなければ、僕の魂は若き竜に引き摺られてしまう。喰われる相手を選べるなら、君が良い」
ベルノはきつく目を閉じ、震える声で悪態をついた。
「おまえ……最期まで最悪だ……っ!」
ラウルは静かに頷いた。
ベルノは『アルフィニアの剣』の柄を握り直す。何をすれば良いかは分かっている。
ラウルの心臓に絡み付く呪詛の鎖に剣を突き立てた。
パキン、と乾いた音が響き、最も強くラウルを縛り付けていた鎖は消滅した。
ラウルは滲みるほど美しく微笑んで目を閉じた。体を支えるベルノの腕の中で、その身は透き通り、それから閃光となって弾け散る。後には光の珠だけが残った。
──魂だ。これが、ラウルの……
光の珠を両手に乗せ口元に近付ける。微かに冷たく、涼しい香りがする。唇を寄せるとするりと溶けて舌を撫で、喉を滑り落ちて行く。痛いほどの甘さと淡い苦さが胸を刺す。やがて、胃の腑の辺りから魔力が染み透り、体の隅々に満ちていった。
じわりと不思議な快感が込み上げる。
(ラウル、消える前に、ひとつだけ教えろよ……)
(…………………………)
(最初の願い、おまえは何を願った──?)
(すべてを……『すべてを返してくれ』と………………)
「あ……」
涙が零れて、全身が震えた。
魔物にはその願いを叶える事は出来ない。契約の条件は満たされていたのだろう。恐れず、心から求める第一の願いを唱えよ──それが出来れば契約は成立する。だが、ラウルが返して欲しいと願った中には『死んだ両親』が含まれていた。失われた魂を取り戻させることは魔物には出来ない──それが出来るのは神だけだ。契約は歪み、因果律は書き換えられた。
若き竜は、かつて神になろうとした魔物であった。ラウルは若き竜を取り込み、取り込まれ、互いに絡み合って、再び神を目指したのだ。失われた魂を、ラウルが愛した両親を、甦らせ、取り戻す為に──……
涙が零れて、風に吹き飛ばされていった。ベルノは剣の柄を握りしめ、顔を上げる。
「まだ、終わっていない」
契約者を失い、若き竜は透き通って行く。彼を抑え込んでいた蝶の呪縛からも自由になり、暴れ始める。
ベルノは竜の額にある、封印の傷跡に狙いを定めた。
剣を振り上げ、展開される『拒絶の呪詛』の壁を叩き斬る。斬って、斬って、斬って、がむしゃらに斬って、斬って、それが生まれた理由であるかのように、斬りまくる。斬撃が繰り出される度に、『拒絶の呪詛』の障壁は砕かれ、竜の透き通った鱗が斬り裂かれ、削られ、ひび割れ、飛び散り、舞い上がった鱗の破片は硝子のように砕け、キラキラと光の粒子になって消えていく。
咆哮──竜は斬撃の激痛に怒り、苦しみ、身悶え、泣き叫ぶ。
大地が揺れ、視界を奪うほどの粉塵が舞い上がり、地鳴りが轟いた。
それでも────
ベルノは、ついに若き竜の額に『アルフィニアの剣』を突き立てた。
竜は巨躯を捩って激しく抵抗したが、女神アルフィニアの力は絶大だった。
そもそもこの剣は、彼の恋人が、彼の心臓を使って、彼を封じる為に鍛えたのだから、抗いようなど無かっただろう────……
「アルフィニアは酷い女だ……おまえは寂しかっただけなんだよな……」
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお──────っ!!
若き竜に喰われ囚われていた魂達が解放され、花火のように飛び散った。幾万の光が抜けるような青空を飛び、天高く昇って行く。救えなかった多くの命……彼等の生は失われてしまったが、せめて魂だけは浄化され輪廻の環に戻れるようベルノは祈った。
魂を解放した若き竜は、一回り小さくなったように見えた。封印の鎖が『アルフィニアの剣』の刀身から溢れ出し、竜の躰を茨のように取り巻いて行く。
やがて、竜は一抱えの岩ほどの大きさに縮んだ。透き通った若き竜──水晶質の卵の殻につつまれて眠っているように見える。邪気を祓われ、無垢なる赤子のように。
『アルフィニアの剣』は、いつのまにか、ベルノが腰に下げていたはずの鞘に収まり、透き通って輝く卵の上に、彼を守護するように横たわっていた。
微かな耳鳴りが起こり、招かれるように天を振り仰ぐと、不思議な光の門が見えた。
──女神の光だ……
慈雨のように光の糸が降ってくる。
その糸に導かれ、若き竜は光の門に吸い込まれていった。
どこへ行ったのか。問うまでも無い。きっと、いや、間違いなく……
「竜神殿に戻ったんだな……」
あの廃墟になった神殿で、再び彼は眠りにつくのだろう。いつか、女神アルフィニアが彼を訪い、真の解放が成される日まで……
気の遠くなるような時間を思い、ベルノは無性に腹が立って、悲しかった。




