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【第四章・若き竜】05

 ──竜だ!!

 巨大な竜の姿をした影が立ち上がり、城が、城下の館が、倒壊していく。闇の霧と綯い交ぜになりながら、濃い土煙がもうもうと押し寄せてくる。ベルノは咄嗟にシャツの襟元を引き上げ鼻と口を覆った。闇の霧も恐ろしいが、粉塵を吸い込めば確実に肺がやられる。

 やっと平衡感覚が戻ってきた。一刻も早くこの場所から離れるべきだと理性は告げるが、竜の姿に魅入られたように動けない。

 あちこちで苦しみ身悶えるような漆黒の触手がうねっていた。若き竜の躰から噴き出す闇の霧が濃密に寄り集まり凝結したかに見える。打ち崩されたクラヴィス城の瓦礫と建石が、触手に触れられるとボロボロと崩壊していく。

 油断していたのは、ほんの一瞬だった。だが、その一瞬の隙が仇となる。

 耳のすぐ横をヒュンッと鋭い風切り音がよぎった。

 鞭のような一閃。

「ぐっ、あ……っ!?」

 熱い──灼熱。いや、痛み──激痛だ。

「────────────────っっっ!!」

 腕が……左腕の肘から先が無い。空間系の侵食魔術によって切断されたのだ。傷口から血が噴き出す。苦痛に身を折るベルノ。

 ほんのわずかに離れた場所では、瓦礫の上に落ちた左腕を、闇の触手が取り囲み、一斉に襲い掛かった。血肉に残ったベルノの魔力ごと、喰っている。

「洒落に、なんねえぞ……」

 切断された左腕の傷から血がぼたぼたと零れ落ちる。

 マズイ。動きが鈍る。足がもつれる。シャキルの予知に、肉体が追い付かない……

「アルヴァ、俺と、女神の剣を拾って、跳べ……っ」

 今はただ逃げるしかない。漆黒の獅子は素早く鼻先でベルノを放り投げて背中に乗せ、ベルノはアルヴァのたてがみを残った片手で掴んで身を屈めた。獣の王の跳躍。アルヴァは空を駆け上がる。ただ二蹴りで土煙の及ばない高さに達していた。卑怯だが、ガーランド姫とラウルのいる場所を結ぶ直線上に場を定め、そのまま宙空に留まった。

 見苦しいが、緊急避難だ。体勢を立て直すほんのわずかな時間が欲しい。

 腕を──視線で訴えただけでアルヴァは即応した。

「ああああああっ──!」

 青い炎が左腕の切断面に燃え上がり、ゴウッと激しい火柱が立つ。燃焼は一瞬で、青い燐光が飛び散った後には、再生された腕があった。

 荒い息を吐く。

 全身にびっしょりと汗をかいていた。熱いのか冷たいのかそれすらもう分からない。

「アルヴァ、俺の願いはまだ残っているか……」

 応えは無い。魔物はこの質問にだけは答えない。

 左手を動かしてみる。握って、また開く。大丈夫だ。まだ生きている。契約は継続中だ。即死さえ免れれば願いによって肉体は再生できる。願いを使い尽くすか、あるいは、首を飛ばされるか、心臓を潰されない限り、ヴァンディールは死なない。

 魔力を、願いを、消費して、命を削って、戦い通してみせる──

 挑むように目を向けると、眼下には悪夢のような光景が広がっていた。クラヴィス城は完全に崩れ去った。城下も無事な街区の方が少ない。土煙がすべてを覆い隠していく。

 ごごごごごごご、と地鳴りのような音だけが聞こえてくる。

 城のあった場所から、巨大な翼のように、紫色に輝くエーテルの炎が立ち昇り、揺らめく。

 暗いエーテルの輝きが、熱量を持って網膜を灼く。闇のような禍々しさを放っているのに、目映い。強烈な閃光に目が眩む。闇の霧がエーテルに飲まれるように収縮していく。

「若き竜の顕現か……」

 ベルノはもう何事も見逃すまいと目を細め、異変の中心を睨み続けた。

 やがて、土煙がやや薄らぎ、輝きに目が慣れると、目の前には深い闇色の巨躯があった。

 若き竜が身に鎧う鱗は──アルヴァと同じ、漆黒。

 なんということだ……黒は絶望の色だ。

 アルヴァダーナが漆黒に染まったのはベルノの絶望のせいだった。

 若き竜が漆黒に染まったのも、ラウルが救いようもなく絶望していたからだ──

「ああ、俺達は似てるな……ちくしょう……ちくしょうっ!」

 過去が胸に去来する。ラウルの過去と、自分の過去が……どちらも悲しい。

「だから、俺が止めてやる──────────っ!!」

 アルヴァの背から身を捩り、全身に魔力を駆け巡らせて跳躍。呼応するアルヴァによって光の力場が展開されていく。爆発させて疾駆。薙ぐように剣を振り上げ、そのまま斬撃。『拒絶の呪詛(カース)』に阻まれる。もう一度、返す刃で、斬る──光の盾が阻む。だが、弾かれてはいない。このまま──

「くそっ、剣が通らねえ──っ!」

 ラウルが振るった漆黒の魔剣だけでも厄介だったと言うのに、竜の全身を覆う鱗すべてにその魔力が宿っているのだ。

 もう一撃叩き込もうと一歩退いた瞬間、視界の端を黒い影がよぎった。漆黒の衝撃波。耳を掠め、風圧で肌が裂ける。痛みに気を取られてはいられない。もう一撃、来る。漆黒の衝撃波。後ろに跳んで自然落下──狙い撃ちだ。凄まじい数の黒い矢がベルノを襲う。落下しながら力場を蹴って位置を変え逃れる。敵が大き過ぎて狙いを定められない。突破口が見えない。

 まずい──悩むな。走れ。駆け上がれ。斬撃を叩き込むんだ。

 ベルノは再び駆け上がる。背後では次々に力場が砕け散り、光の粒子となって消えていく。

 若き竜の攻撃。全身を震わせ、漆黒の鱗から無数の魔剣が生成された。ラウルが振るっていた大剣とは凶相が違う。溶解した黒曜石が再び凝結したようなおぞましい形は似ているが、剣と言うよりは、盾ほどの大きさの(やじり)に近い。

 それが、一斉に放たれた──

 漆黒の嵐。百本ほどの不吉な魔剣が、それぞれ意思を持って空間を斬り裂く。蜂が翅をうならせるような音が鳴り響く。

 襲い来る魔剣をベルノは跳躍して避ける──が、数が多過ぎる。力場がすべて砕かれ、生成が間に合わない。光の残滓と共に逃げ場も失われる。落下の軌道を狙われた。ダメだ、避けられない。苦し紛れに『アルフィニアの剣』で薙ぎ払った。そして、予想外の事が起こる。

 パキンッ、と澄んだ破砕音。

 黒曜石のような破片が散り、魔剣は黒い闇の残滓を残して消えた。

「斬れた──っ!?」

 どういう事だ?

 着地。瓦礫が邪魔だ。後方に宙返り、回転しながら魔剣を斬り、また跳躍。崩れた城の残骸が巨大な墓標のように屹立している。その巨魁の上を飛び跳ね、次々に飛来する鏃のような魔剣を片っ端から叩き斬る。透き通った破砕音が連続する。

 弾かれるものと、砕け散るものがあった。そして、弾かれたものも、再びの襲来では女神の剣の前に砕け散った。

 呪詛(カース)の強さに波が──ムラある──!

「そうか。突破口が見えたぞ」

 最初に『拒絶の呪詛(カース)』を破りラウルの身に斬り付けることが敵った瞬間、ラウルはベルノから〝ガーランド姫を苦しめているのはおまえだ〟と指摘され動揺していた。砕けた魔剣は若き竜の躰から離れてしまっていた。様々な要因で『呪詛(カース)』は強くもなり、弱くもなる──

「付け込んでやるっ!」

 シャキルの魔力を予知から透視に切り替える。負傷は覚悟の上。どのみち簡単には死なない。分の悪い賭けではないはずだ。

 シャキルを奮い起こす。『拒絶の呪詛(カース)』の波を読め。どこだ、どこが弱い?

「どこが勝機だ──────ッ!?」

 ベルノは三度駆け上がる。

 叩き斬れなかった魔剣がベルノの後を追う。落とせる魔剣は斬り落とすが、しかし、シャキルの魔力は『呪詛(カース)』の波を読む事に集約させてしまっている。目視での回避は刹那遅れる。ギリギリ避け切れなかった刃に肌が裂かれ、血が噴き出す。

 だが、構わない──今は突き進む。

 竜の頭に近付くと、闇の触手も伸びて来た。ヒュンヒュンという耳障りな風切り音が辺りに満ちる。鞭のようにしなり、次々に襲い来るおぞましい触手。だが、斬れる──

 さっきはこちらが腕を切断されたが、もうそんな油断はしない。『汝の道を斬り拓け』──戦場に出る兵士の誰もが耳にする、ありふれた戦言葉だ。それが、ベルノ脳裡に木霊する。

 立ち塞がる闇の攻撃を、ベルノはがむしゃらに叩き斬り、道を斬り拓く──

 ベルノの背後では力場が砕け散り、光の道となっていった。

 竜の頭に近付けば近付くほど、『拒絶の呪詛(カース)』が弱まっていく。シャキルの魔力が告げる。太古の昔、若き竜は、額に女神の剣を突き立てられ、そこから竜珠を奪われ封印されたのだ。傷痕は今も竜の弱点になっている。

「額を狙う────っ!」

 ドオッ、と地鳴りが轟き、竜の尾が振り上げられた。鬱陶しい羽虫を振り払うように、膨大な質量を持つ大地を削る怒涛の如き一撃が来る。

 瓦礫や岩が巻き上げられ、土埃が舞い立つ。

 ドオオオオオオオオオオオオオオオオッ────!!

 竜の顎門(あぎと)が開く──白い歯が山脈のように縁取る、溶鉱炉のような巨大な顎門(あぎと)

 咆哮──衝撃波。

 どちらも跳躍を重ねて避ける。破壊力は凄まじくとも、大振りの攻撃は小回りが利かない。

「行ける──────っ!!」

 ベルノは跳んだ。一際高く、大きく──

 瞬間、視界いっぱいに青空が広がる。

 そして──

 竜の額に、盛り上がった肉塊に埋められるように、ラウルが囚われていた。

 白皙の美貌は目を閉じて眠っているように見える。

 力場を蹴って、魔剣と闇の触手の追撃を避けながら駆け寄る。

 ハッ、とベルノはある事に気付いた。

 ラウルの周りにうっすらと呪詛の鎖が見える。闇が凝固したかのようなその鎖は、ラウルの体を締め付けるだけでは飽き足らず、若き竜の躰にも延び、締め付け、絡み付いている。

 あの鎖は絶望と怨念だ。若き竜とラウルは闇色の鎖に因って縛り付けられ、雁字搦めにされている。お互いがお互いを苦しめ、力を奪い合い、魂を侵食し合っている。

「あの鎖を断てば──」

 一気に間合いを詰めた。

 打突。光の盾に阻まれる。どうしても、どうしても、『拒絶の呪詛(カース)』の壁が厚い──

「くそっ、あと少し、あと少しなんだ──!」

 足りない。あとわずか、ほんの少しが、永劫のように遠い。

 キインッ、と金属質の耳鳴りが響いた。

 巨大な漆黒の魔剣が死角から現れ、すぐ面前に迫っていた。

 ────斬られるッ!!


   †††


 ザンッと砂を煉瓦の上に撒き散らすような音が聞こえた。

 斬られたにしては痛みは無い。

 目を開けてみて驚いた。視界いっぱいに翅を斬り裂かれた金色の蝶がいた──

 手を伸ばすが掴めない。指先に軽やかな感触だけを残して、蝶は金色の光の粒になってサラサラと落ちて行く。ただの蝶ではない。魔物だ。金色の蝶の魔物……それは……

 ザンッ、と再び斬撃の音が轟く。

 顔を上げると金色の蝶の壁が、またも無残に引き裂かれていた。それでもひらひらと、直撃を免れた蝶達は煌めく鱗粉を撒き散らしながら舞い、飛び続けている。

 まさか、と思った。そんな都合の良い……あいつは俺を見捨てたはずだ。

 愛嬌あるダミ声がベルノの鼓膜を叩いた。

「ベルノを苛めちゃダメだあ──ッ!」


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