【第四章・若き竜】02
何が──と問う時間は無かった。甲高い獣の哭き声に似た耳障りな音が辺りを包む。森の木の葉が共鳴して震え、嵐に吹き飛ばされるように、飛び散り、降り注いだ。
目の前で空間が黒く歪む。ぐにゃりと漆黒の闇が無数の触手のように広がり、その中心から、優美な人影が現れた。闇色の歪みは溶けるように消えた。
黒いローブを纏った細身の青年。長い黒髪を揺らし、深い紫水晶の瞳は射抜くように真っ直ぐベルノを見据えていた。
ラウルは妹に穏やかな笑みを向ける。それは、何も言うな、という拒絶にも見えた。ガーランド姫は立ち竦み、ラウルは優しく頷く。
「兄様……っ!」
ラウルは妹から目を逸らし、ヴィクトルに声をかけた。
「ヴィクトル……おまえは殺したくない。妹を連れて立ち去ってくれ」
「ラウル様っ!」
ヴィクトルは弾かれるようにラウルの足元に駆け寄りひざまずいた。地面に額をこすりつけて懇願する。
「お許しください、お許しくださいっ! 我々がお助けできなかったばかりに──っ!」
トン、と軽くラウルはヴィクトルの肩を手の甲で打った。臣下へのねぎらいだ。
「……許す。してくれた事、感謝している」
うっ、とヴィクトルはむせび泣いた。
「では、では、どうか、西の帝域の民を生贄にすることもお止め下さい。このままでは、西の帝域は焼き尽くされて荒廃してしまいます。どうか、お願いでございます!」
「もう初めてしまったことだ。おまえは信じないだろうが、この国の人と触れ合い、一度は思い止まろうとしたのだ。だが、彼を見付けてしまった」
ラウルはベルノを指差した。
「アルフィニアに奪われた『竜珠』を取り戻せば、僕の願いも不可能ではない。父上と母上を甦らせ、すべてを取り戻すのだ。その為には『竜珠』と、十万の生贄が要る」
「兄様……っ!」
ガーランド姫は喉を詰まらせ、ヴィクトルは初めて見る情けない顔をしていた。
「ラウル様、どうか、どうか、お止まりを──っ!」
ヴィクトルは身を投げ出すようにラウルの足にしがみつく。ラウルは氷のような表情を浮かべた。静かな感情の無い声が、下がれと命じる。
「いいえ、いいえ、下がりません。どうか、お聞きください」
ラウルは鬱陶しそうに片手を上げ、たちまちその掌で光が弾けた。ヴィクトルは弾き飛ばされ地面を転がる。低くうめいて、起き上がろうとするが、再び倒れ伏す。ガーランド姫が助け起こそうと駆け寄った。ルーとミラも、ヴィクトルの側に走って行く。
ラウルはベルノだけを見ていた。圧し掛かるような威圧感。先日とは纏う空気が違う。すでに数百から数千の魂を喰らい、魔力は飛躍的に増幅し、その身から溢れてすらいる。もはや戦いに不安は無いのだろう。今の彼は本気だ。
ラウルは、すっ、とベルノが腰に下げている剣に視線を向けた。
愚かで無知な者を諭すように淡々と語り始める。
「その剣は君には過ぎた宝だ。徒に君が抜きさえしなければ、僕が抜く運命だったのだ。女神は君を選んだが、若き竜はこの僕を選んでいたのだから……死に際したあの日、封印が成されたままだったならば、僕が剣の祭壇に呼び寄せられただろう。それなのに、若き竜の目覚めを予見した女神が先んじて君を招いたが為に、剣は君の所有になってしまった。君は女神にたぶらかされ、この運命に巻き込まれただけだ……」
ベルノは我知らず動揺した。自分が気紛れでやってしまった事が原因で引き起こされた災禍だと思っていた。だが、その気紛れを起こさせたのは女神だったとでも言うのか。すべてはより大きな力に導かれたもの、女神の御導きだったと……そんなことは、受け入れ難い。
ラウルは真っ直ぐに片腕を差し延べ、手の平を上向けて要求する。
「ベルノ・グランディス……『アルフィニアの剣』を渡せ。闇雲に振り回しているだけの君には、剣の真の力など引き出せない。持っているだけ無駄だぞ?」
「……へえ、渡せば見逃してくれるのか?」
動揺を押し隠してベルノは敢えて軽口を叩いた。
「まさか。僕は君も欲しいと言ったはずだ」
「誤解を招く言い方はやめろよな。俺の中にある剣の力が欲しいんだろ? 分離出来ないのかよ? 俺だって、おまえなんかに関わって命張りたくねえっ」
「女神はすでに遣い手を選んだ。君が死ぬまで、その力は君のものだ」
ふっ、とベルノは鼻で笑う。心は決まった。
「そうかい。じゃあ、渡すもんかよっ!」
言下に剣を引き抜く。澄んだ鞘鳴り。瞬時に青い稲妻が噴き出し、雷鎚の触手が神経に腕に絡み付く。
全身が剣の魔力に侵食される。
脳が一気に覚醒し、女神の戦言葉が耳の奥で鳴り響いた。
『我が成すは至高の正義 雷鎚の子よ 嘆きを退けよ 我と汝が敵を討ち滅ぼせ──』
振り上げた一閃は輝く軌道となり、光が青く尾を引いた。
キイイインッ──耳が痛くなるほどの金属質の音。
斬った、と思った。
あらゆる抵抗を無力化し、まるで水でも斬るようにすべてを斬り裂く女神の呪い──それが『切断の呪詛』だ。この世界にこの剣で斬れない物は無い。
しかし、攻撃は光の壁に阻まれた。
「な……っ、斬れない? 嘘だろうっ!?」
抜き放たれた刀身は硝子のように透き通り、薄青い光を放っている。剣は健在だ。
なぜ? どうして阻まれた──?
ラウルは不気味な剣を携えていた。
鍔迫り合い。それなのに刃と刃は触れ合わない。間隙に光の壁が立ち塞がり、青と紫の稲妻が絡み合う。細腕でびくともせずに斬り込みを支えられている。癪に障る余裕の笑み。わざとこの体制に持ち込まれたのだと悟り、ぞわっと肌が粟立った。
「愚かな……顕現する呪詛を持っているのは自分だけだと思っていたのか?」
瞬間、光の盾が爆発し、ベルノの剣は弾かれた。
ザッと靴底で地面を削り一歩退く。冷や汗がこめかみを伝う。
「なんだ、その剣は……?」
溶解した黒曜石が再び凝固したような歪で奇怪な漆黒の宝剣。鞘は無く、剣身は片刃だが幅広で分厚い。優美な青年には似合わない巨大で武骨な姿。夜空に星が散るように、その身の内側で光が瞬いている。
「若き竜の鱗から、僕が創った」
嫌な感じがする。首の後ろの産毛がぴりぴりと逆立つ。強力な魔力を秘めた魔剣だ。
ラウルは蔑むように目を細める。
「女神の剣に『切断の呪詛』が掛かっているように、若き竜の鱗には『拒絶の呪詛』が掛かっている。何人も竜を傷付けることは叶わない。女神自身が振るうならばともかく、たかがヴァンディールが振るう剣に、竜の鱗を斬る力があるわけがないだろう」
「そんなこと、やってみなけりゃ分からねえだろっ!」
踏み込みと同時に足元から叩き上げるように頸を狙う。女神の雷鎚が体内を駆け巡り、身体能力を増幅している。剣技の不得手なベルノが扱ってなお、常人の目には認識できないスピードで剣は振り抜かれる。風切り音が一瞬置いて聞こえた。
だが、届かない。
ピシッと硝子が軋むような音。光の壁が衝撃で砕け散り、欠片がキラキラと舞う。
ラウルは軽い仕草で漆黒の大剣を面前に翳しただけだ。『拒絶の呪詛』が攻撃を防ぐ盾になっている。すべてを斬り裂く『アルフィニアの剣』を止められるとは──
「くそっ、ムカつくんだよっ!」
もう一撃。真横に剣を振るう。また弾かれた。ラウルはただ刃を合わせるだけで、ベルノの攻撃を退ける。力を入れているようには見えない。剣が打ち合わされると同時に、強烈な光の壁が生じ、満身の攻撃が打ち消される。もう一撃、もう一撃、もう一撃──打ち込んでも、打ち込んでも届かない。上段から斬り下ろした決死の一撃も弾き飛ばされる。
衝撃で投げ出され、派手に地面を転がった。
血の味が口いっぱいに広がる。
信じられない。あの華奢な青年と、まともに切り結ぶことすら出来ない。
「ちくしょう……悪夢かよ……」
女神の剣が沈黙している。討ち破るには魔力が足りない。斬れない。弾かれる。
アルヴァは決して弱くない。それでも──竜とは、格が違う。
届かないのだ。
「ベルノ・グランディス……今ここで喰ってやりたいところだが、妹とヴィクトルを巻き込みたくない。仲間を置いて、出直して来い」
言うが早いか、激しい地鳴りと共に衝撃波が来た。
大地を巻き上げる黒い波。
まずい、真後ろにみんながいる。このままでは攻撃に巻き込まれる。
「アルヴァ、俺達を放り投げろ。早く──」
†††
鼓膜の破れそうな甲高い音が響き、視界がぐにゃりと歪んだ。平衡感覚が消失する。めちゃくちゃに揺さぶられ、強い吐き気と四肢がばらばらになりそうな恐怖に襲われる。
上下の定まらない撹拌状態が徐々に緩やかになり、足下に柔らかな床のような力場が生成された。アルヴァが人間達を其処に置こうとしてくれているのか、重い物が落ちる音があちこちから聞こえてくる。ベルノもクッションの利いた寝台のような感触の上に乱暴に投げ出された。痛みは無いが、違和感が酷い。
「うう……気持ち悪りぃ……」
やっと目を開けると、頭蓋骨の内側と胃の腑の辺りに、安酒に溺れた翌朝のような最悪の気分がこびりついていた。
アルヴァが心配げに覗き込んでくる。
「あ、剣は……?」
咄嗟に周囲を探す。柄を放してしまって焦ったが、『アルフィニアの剣』はベルノの横にふわふわと浮かんでいた。アルヴァがそうしてくれたのだろう。
よくも我が身を斬り裂かなかったものだと、今更ながらに冷や汗が噴き出す。
「みんな、無事か──?」
「ううっ、ベルノ~~っ、気持ち悪いよぅ……」
「もう少し丁寧にやってくれとアルヴァに頼めなかったのかい?」
目も眩むような青い光──
硝子円盤のような不思議な力場の上に乗っていた。足元が透けて見える。小さな部屋ほどの大きさがあり、さっきはクッションのようだったのに、今は硬い。人間達が動きやすいようアルヴァが調節してくれたのだろう。
「何が起きたのですか? ここはいったい……?」
ガーランド姫は乱れた髪を耳にかけながら訊ねた。驚きが抜けていないようで、ぺたんと力場に座り込んでいる。ミラとルーも似たような状態で、ヴィクトルは苦悶の表情を浮かべながらも立ち上がり、ベルノの横に並んだ。
「なんという事だ、空の上ではないか──!」
一瞬で、遥か上空に飛ばされていた。
凍えるほどに冷たい風が強く吹き抜けて行く。キラキラと陽光を反射しているのは微細な氷の粒だ。吐く息が白くけぶる。足下には白い雲と緑の大地が広がっていた。茶灰色に霞んでいるのはクラヴィスの都。黒煙はたなびき、城を中心に亀裂のように幾つもの破壊の筋が走り、城壁や街並みの三割方が瓦礫と化している。
兵士達の戦闘は続いているが、すでに陣形は崩壊し、混乱に拍車がかかっている。すべてが遠く、小さく、現実感が無い。模型でも見ているような妙な気分だ。
茫然と見続けていると、城の尖塔から黒い一閃が迸り、大地が深く抉られ、土埃が舞った。ラウルが魔力の衝撃波で突き崩したのだ。
悪化していく現状を悟る。
「あいつ、まだ……」
空間を歪ませて瞬時に移動する術で城の尖塔へ戻ったのだろう。ラウルは『アルフィニアの剣』とベルノを追わず、まるで余裕を見せ付けるように、都の破壊と生贄を狩ることを優先している。再び黒い衝撃波が都を駆け抜け、もうもうたる土煙が上がる。濃い茶灰色の煙の中から、小さな光の珠が浮かび上がり、輝く尾を引いてラウルのいる場所へと飛び集う。
若き竜は大量の魂を喰らい続ける。
猛然たる破壊。
漆黒の攻撃が一閃される毎に、都は瓦礫と化していく。
ゾッとする。あの破壊を引き起こしている奴と戦うのか──
だが、時間が経つほどこちらが不利になる。若き竜は犠牲者の魂を喰って刻一刻と魔力を増していくのだ。そうして万全の準備を整えてから、ガーランド姫を巻き込まずに済む場所でベルノを襲撃すればいい。他の犠牲は考慮する必要が無いのだから、あちらは楽だろう。
要するに、この猶予は敵の都合で与えられたものなのだ。




