【第四章・若き竜】01
漆黒の魔境を抜けて、最初に目に入ったのは青い空に幾筋も立ち昇る黒煙だった。
「ベルノ、クラヴィスの都が燃えてる!」
「大変だっ、ご主人様のいるお城が燃えてるだあ!」
ルーとゴーシュが血相を変えて叫び、駆け出そうとする。ベルノは咄嗟に二人の襟首を掴んで引き留めた。
「バカッ、急に駆け出すんじゃない!」
なだらかに続く平原の中央に、遠く霞むクラヴィスの都の影。目を凝らせば、都を包囲する軍勢が、雲霞の如く城壁に取り付いているのが見える。攻め手の旗も翻っているが、この距離では紋章など見分けられるはずも無い。
クラヴィスの都は西の帝域の東端だ。漆黒の魔境に張り付くように築かれているが、それでも、森の出口から市の城門まで徒歩で半日はかかる。
空を覆うのは細く白い煮炊きの煙ではない、濃密な黒煙。こうも異常が明らかな煙が上がっているなら、もはや戦端は開かれ、城壁も破られたと言う事だ。
──クラヴィスの都は落ちた。
兵力に数えられない少数の一行が、今から駆けつけてもなんの意味も無い。
ベルノは呆然と眼前に広がる景色を見詰めた。
クラヴィスの都の周辺には、どこの都市でもそうであるように、豊かな農地と、広大な牧草地が広がっていた。放牧されているはずの牛や羊の姿は無い。領民達と共に市城壁の内側に避難させられているのだろう。麦は夏の始めにとっくに刈り取られているが、どちらの陣営が先に城下の穀倉を押さえたのか分からない。兵糧の有無で情勢は変わる。
それにしても、もはや晩秋だ。赤く色付いた葡萄畑の葉はほとんど落ちてしまっている。間も無く冬が来る。この時期に堅牢な市城壁を巡らした都を攻めるなど、戦の定石ではない。籠城されれば、包囲する軍勢が不利なのだ。
だからこそ、まだ内乱は始まらないだろうと高を括っていた。冬の間にラウルを止める事が出来れば間に合うだろうなどと、甘い考えを……
「どういう事だ、どこの軍隊が攻めてる? ここからでは旗が見えん。偵察に……」
動揺するヴィクトルを、ミラが片手を振って遮る。
「時間が惜しい。私が見せてやる」
小さな呟き。瞬く間に赤い魔方陣が弾け、異界から両腕でも抱えきれない巨大な水晶玉が出現した。赤い燐光がはらはらと散り、水晶玉は緩やかに回転しながら、空中に浮かんで静止した。透き通った中心が鈍く光り始める。ルーは歓声を上げ、ガーランド姫とヴィクトルは驚きに息を飲んだ。立ち竦む彼等の面前に、たちまち遠くの景色が映し出されていく。
「これが……ヴァンディールの魔術か……」
ヴィクトルは噴き出した汗を手巾で拭いながらも、じっと水晶玉を覗き込んだ。他の者も彼に倣う。水晶玉には、クラヴィスの都を守ろうと奮闘する騎士達と民兵達、逃げ惑い泣き喚く女や子供や年寄り達と、情け容赦なく攻撃する敵軍が映し出されていた。
濃い土煙。衝突する両軍の将兵達。城壁には大穴が開き、城下にも侵略軍がなだれ込んで、どこもかしこも混戦に陥っている。馬上で剣を振り回し指揮する騎士。その周りには、槍を掲げた軽歩兵達がひしめいて殺し合う。死傷者が累々と石畳の路地に倒れ、物陰には為す術もない人々が震えている。無抵抗の市民であっても、運が悪ければ兵士の目に付き、次の瞬間には剣と槍を振るわれる。
音が聞こえないのがせめてもの救いか。あまりにも惨たらしい情景だ。映っている景色の隅で、悲鳴を上げ立ち竦んだように見えた少女の首が飛ばされた。兵士と市民の区別も無く、獲物と見られた者は野蛮な運命に飲み込まれる。刃を突き立てられ、四肢を斬り落とされ、頭を割られ、首を斬られ、次々に人が死んで行く。血飛沫がそこかしこで噴き上がる。崩れた建物。瓦礫と死体が散乱し、火事の煙が充満する。馬蹄と軍靴にあらゆるものが踏み荒らされていく。
混乱の手前、開けた緑の平原に将軍の陣が築かれ、鮮やかな軍旗がひるがえっている。
色とりどりの旗の中、最も高く掲げられているのは緑地に金の鷲の紋章。
ガーランド姫は口元を手で覆って蒼褪めた。
「金の鷲はフェイ大公です。大物ですよ。シャーウェイ伯とイルザ侯、大神官モードレット卿の旗もあります。フランザスタ侯爵まで……」
フェイ大公の領地は西の帝域の西端だ。国土の東端にあるクラヴィス伯爵領まで、帝域を横断して進軍してきたばかりか、他の大領主とも呼応して挙兵している。シャーウェイ伯爵とイルザ侯爵の領地はより遠く帝域の北方にあり、フランザスタ侯爵の領地は比較的近いがそれでも数日で到着できる距離ではない。ベルノがクラヴィス伯爵夫人の手先から命を狙われ、東の王国へ逃げだした頃には、大領主達の連合はすでに成立し、とっくに進軍を開始していたと言う事だ。
西の帝域は、帝政が衰退して以来百年にも渡って、形ばかりの皇帝を頂きつつも各領主が独立割拠し、敵が帝位に就けないよう互いに足を引っ張り合って綱渡りでバランスを取っている危険な情勢だった。クラヴィス伯爵のあからさまな軍備増強は、諸侯の危機感を煽って同盟を結ばせてしまったのだろう。
無力感が込み上げる。元より、この戦は防げない運命だった──
「ベルノ……」
ルーが怯えてしがみ付いてきた。頭を抱き寄せ撫でてやる。
「袋叩きに合ってるだあね?」
ゴーシュも怯えた声を出し、ベルノの上着の裾を掴んだ。
「ああ、クラヴィス伯爵は下手を打ったんだ。悪目立ちしたらこうなる」
ビクッとゴーシュは震え上がった。
「オラ、オラは……怖いだよ」
これにはルーが眉を吊り上げる。
「おまえ、ボクの命令はなんでも聞く約束だったよね? ベルノと一緒に戦えっ!」
ゴーシュは悲鳴を上げて両腕で頭を庇った。殴られ癖がついているのだろう。
「ルー、無理強いは無しだ」
「でも、だって……こいつ、戦う力を持ってるのに……」
ボクには戦う力が無い、とルーは言外に悔しがっている。それでも、恐がっているゴーシュを無理に戦わせることは出来ない。自分の都合の良いようにゴーシュの力を利用すれば、ラウルと同じになってしまう。
「あいつに名指しで命を狙われてるのは『アルフィニアの剣』を持ってる俺だけだ。おまえ達は、歯向かいさえしなければ見逃されるはずだ。俺に付き合って命を賭ける必要は無い」
「ベルノ……」
ルーは泣きそうな顔をする。ぽんぽんと頭を撫でてやると黙ってしがみついてくる。
「しかし、この戦況では、最初に敗北し滅ぶのはクラヴィス伯爵だ。ラウル様は、クラヴィス伯爵を噛ませ犬に仕立てたのか?」
ヴィクトルの言に、ミラは不機嫌そうに腕を組んだ。
「西の帝域を平定するつもりは無いと言う事だね。ただ戦乱を起こすだけが目的とは……」
人間達に勝手に殺し合いをさせて、座したまま犠牲者の魂を貪り喰うつもりだ。
「ったく……ここまで見下げ果てた奴だとは思わなかったぞ。生贄さえ得られれば、西の帝域が内乱で焼き尽くされようが知った事じゃねえってのか……」
ベルノは心底腹を立てていた。やりようが、あまりにも汚い。
「私の為に……」
ガーランド姫は傷付いたように目を伏せて震えていた。
突然ルーが驚きの声を上げる。
「なに、あれっ!?」
水晶玉を覗き込むと、人が倒れた場所から光の珠が無数に浮かび上がっていた。
「光の珠……?」
それは一瞬その場で揺蕩ったかと思うと、次の瞬間には放たれた矢のようにヒュッと輝く尾を引いて青空を飛ぶ。戦場のあちこちから光の珠は発生し、誘われ、吸い込まれるように一か所に集まっていく。クラヴィス城の一際高い尖塔の頂きに。
目を凝らすと、尖塔の上には細身の人影が立っていた。長い黒髪が風に舞い上がり、黒いローブの裾は翼のようにはためいている。
その人物を見極めようとミラは慎重に水晶玉を操る。しなやかな指の動きに呼応して、まるでこちらの目が近付いて行くように、彼の姿は大きく映し出されていく。麗しい顔が見分けられるほどに近付いた時、パチッ、と水晶玉から火花が散った。
「つっ!」
ミラは弾かれるように手を離した。
「どうした?」
「まずい、盗み見に気付かれた……」
水晶玉の中で青年が振り向く。夕闇を溶かしたような深い紫水晶のエーテルが、噴き出す炎の如く揺らめき、妖しく輝く。真っ直ぐ射抜くような視線。ゆっくりと口角を上げて彼は微笑んだ。不思議だ。恐ろしい敵だと分かっているのに、ただ純粋に綺麗だ。
禍々しい漆黒の魔王──若き竜──ラウル・セヴラン・ロア・ダンジュール。
「ご主人様だあ! ああ、ご主人様が怒ってこっちを見てるだあ!」
ゴーシュは怯え震えているが、ベルノは敵の姿に見惚れていた。若き竜がラウルを選んで顕現した理由が分かる気がする。あの美貌、損なわれたまま死なせるのは惜しい。
ラウルは挑発の笑みを浮かべ、見せ付けるようにフェイ大公の陣を指差した。それから、優美な仕草で片手を挙げ、振り下ろす。
ドオッと黒い影のようなものが迸る。市城壁が突き崩され、外に陣取った軍勢も巻き上げられた瓦礫や土塊もろともに薙ぎ倒されていく。血飛沫が弾け、数百、数千の兵馬が一瞬で吹き飛ばされた。もうもうたる土煙が水晶玉の視界を覆い、一瞬遅れて、遠くから地鳴りが轟いてきた。視線を向けると市城壁の上空に土埃の雲が立ち昇っている。
「なんという事だ……クラヴィスの都の城壁は攻め落とされたのではなく、内側から崩壊したのではないか?」
「あり得るな……」
水晶玉の中では、濃い土埃を透かして、人が倒れた場所から光の珠が無数に浮かび上がり、尖塔の上へヒュンヒュンと吸い寄せられて行く。
ミラは自分の体を抱いて、震える声で呟いた。
「あれは、人間の魂だ。若き竜が死者の魂を喰ってる……」
膨大な数の光の珠はすべてラウルの体に吸い込まれていく。衝撃で漆黒の髪とローブが膨れ上がり、ラウルは受け入れるように喉を逸らす。快楽に打ち震え、身悶え、潤んだ目から涙を零し、白い手で露わになった首筋をなぞる。身の内を満たされていく者に特有の淫らな酔態だ。喘ぐように激しく肩で息をした後、すっ、とこちらを指差した。
ハッ、と直感でベルノは悟る。
「まずい、あいつ、俺達を狙ってるぞっ!」
パキンッ、と澄んだ破砕音。
「アルヴァ!」
水晶玉は光の欠片になって砕け散る。破片が仲間を傷付けるより早く、アルヴァの障壁が水晶玉のあった場所を覆った。破片は水晶玉より一回り大きな光球に抑え込まれ、内側で激しい光の爆発を起こす。数瞬後、光球は急激に収縮して消えていった。
†††
わっと叫んでゴーシュは駆け出した。
「もうダメだ、もうダメだ、オラ、もうおっかなくって耐えられねえだっ!」
キンッ、と小さな金色の魔方陣が無数に空中に展開する。幾千幾万の金色の蝶がゴーシュの周りから噴き出すように現れ、渦を巻いてゴーシュを包み込む。それは立ち昇る竜巻となって舞い上がり、何を言う間も無く、ゴーシュを抱いた金色のつむじ風は空の向こうへ消えた。
あまりにも一瞬のことで、ベルノは呆然と口を開けて見送るしかなかった。
数瞬の間を置いて、我に返ったヴィクトルが憎々しげに怒鳴り出す。
「あの卑怯者っ! この期に及んで逃げるとは何事だ! ベルノ・グランディス! だから言ったではないか! あんな下郎を一行に加えるのは反対だと!」
ベルノは拍子抜けすると同時に軽い失望を感じていた。いや、もしかしたら裏切られて寂しいのかもしれない。なぜか、ゴーシュは自分の側を離れないと軽く考えていた。自分より可哀想な奴を憐れんで助けて親切にしてやっているのだ、自分は良い奴だ、好かれているに違いないと思い上がっていた。ショックだった。
「いや、放っておいてやろう。あいつは逃げたほうが良い。わざわざ他人の闘いに関わって命をすり減らす必要は無い。それに、自由に生きろと言ったのは俺だ。あいつは自由を選んだんだ。これでいいんだよ……」
ヴィクトルはまだ何か言い募ろうとしたが、ベルノは片手を挙げて遮った。
「それより、来るぞ!」




