【第三章・因果】07
ベルノが過去に思いを馳せる事は多くない。思い出に浸っても無意味だからだ。
漆黒の獅子の魔物と出会う前に、すでにベルノは世界を捨てていた。世界から捨てられていたというほうが正しいかもしれない。
絶望していた。わずか十二歳にして。もう、生きてはいられないのだ、と。
ベルノには姉がいた。漆黒の髪を持つ美しい少女だった。此の世の者とは思えぬほどに。
その美貌が災禍を招いた。
姉を妻に欲しいと請う男が現れたのだ。男は北方小国群の片隅にある小さな国の王だった。
しかし、ベルノの父は男の申し出を拒んだ。父は一族の長であり、姉は一族の神聖な巫女だったからだ。一度神に捧げられた女は死ぬまでその戒めから逃れられない。他の娘を代わりに差し出す、と宥めたのだが、求婚者の男は断じて退かなかった。矜持を傷付けられたと喚き立て、王が望む娘を差し出せ、と剣に手をかけた。
父や、母や、一族の者達すべては、姉を愛していた。美貌と叡智を兼ね備えた姉と違い、族長の嫡男でありながら同じ年頃の子に比べても才覚で劣るベルノを顧みる者はいず、誰もベルノの命を惜しまなかった。小国とはいえ一国の王と、険しい山に生き、蛮族と謗られる事すらある小さな一族。戦になれば勝ち目はなかった。皆殺しにされると分かっていたのに。
姉の為に戦端は開かれ、戦神と死神が一族の領地を踏み荒らした。
誰が死のうが涙ひとつ零さず、姉は最初から最後まで冷たい美貌を崩さなかった。
激しい戦いの末、巫女の祭殿はついに包囲された。一族の勇猛な戦士はみな死に絶え、鴉に死肉を啄まれていた。父の討死を報せる為に、片腕を失い夥しい血を流しながらも、包囲の目を掻い潜ってベルノが祭殿の洞窟に辿り着いた時には、女達は姉の周りに集まり短剣で我が子の喉を突いていた。もはや抵抗の道は無い、と。絶望に膝をつくベルノの目の前で女達も次々と自害していった。
ベルノの狭い世界を焼き尽くす炎が傍らまで迫っていた。
炎を背にした姉は壮絶な微笑みを浮かべた。
最後まで息をしていたのは、夜更けに降った雪のように清らかな姉と、体中に矢を受け、斬り刻まれ、血を流し、襤褸切れのように横たわるベルノだけだった。片腕を失い、片目も潰され、足は動かず、喉も嗄れて声も出ない。すべてが重く、冷たく、苦しく、ただただ、早く死んで楽になりたいと諦めていた。
そんなベルノを常と変らぬ冷たい眼差しで見つめながら姉は言った。
「おまえをこんな場所で死なせはしない。私がそう望むのだから」
床の血溜まりに指を浸し、姉は黙々と岩の祭壇に古代文字と図形を描き始めた。一族に伝わる守護の獣に願いをかける魔方陣だ。鬼気迫る姿で、累々と横たわる死者の体から零れ出た赤黒い血を使って、姉は呪術を執り行う。白い息が静かに流れる。花弁のような雪がどこかから吹き込んでいた。微かな歌声。運命を捻じ曲げようとする暗い禍歌。蛮族の巫女に相応しい、浅ましく、おぞましい姿……
ベルノはその時初めて、この姉だけが自分を愛してくれていたのだと理解した。姉は悲しんでいないわけでも、苦しんでいないわけでもなかった。ただ、感情を現す術を知らなかっただけなのだ。巫女として、そう育てられたのだから……
「可愛い弟、おまえを愛しています」
そっと血塗れの手で頬を撫でられた。意外にも優しい感触にベルノは慄いた。
「姉上……!」
チカッ、と不思議な光が瞬いて、青い炎が爆発するように辺りを包み込んだ。自分の体が焼かれる感覚を味わった。痛い、悔しい、恐ろしい。
なによりも辛いのは姉の美しさが損なわれる事だ。あの艶やかな黒い髪が、透き通るような白い肌が、夜の泉のような瞳が、燃えてしまうのは嫌だ。
ベルノは炎の中で涙を流した。
しかし、姉の体は燃えなかった。光になって飛び散り、掻き消えたのだ。
後に残ったのは、透明に輝く獅子の魔物と、傷一つ負っていない自分だけだった。
力を取り戻した鼓膜に、荒々しい足音と、甲冑と剣が立てる音が響いてきた。
誰からも惜しまれず、自分自身も少しも惜しいと思っていなかったが、姉が惜しんでくれた命だと思ったら唐突に惜しくなった。
……殺されたくない……
……殺されたくない……
「殺されたくない────っ!」
絶叫が身を圧し、ベルノはその時、契約を結んだ。
†††
遠い空に雲が流れる。宵闇に包まれた世界に凍える星が瞬いていた。
尖塔に登る螺旋階段は冷たい玄武岩で、面白味のない灰色の肌は燭台の灯りを反射してなお死者の世界へ通じているような不気味さを漂わせている。
銀髪の麗しい伯爵夫人が、高価な絹のドレスを引き摺り、苛立った足取りで暗い螺旋階段を登って行く。彼女は腹を立てていた。
尖塔の最上階へ達すると不意に視界が開ける。降るような星空に、沈みかけた上弦の月が西の空に傾いている。眼下にはクラヴィスの都が一望できた。明かりは少ない。
そこは人が二人ようやく並んで座れる程度の狭い空間だった。本来は警邏の兵が詰める見張り台であり、身分の高い女性が足を運ぶような場所ではない。
伯爵夫人は探していた人物をその場に見付け、胸元に手を当て、すっと顎を上げた。
「ラウル、何をしているのです?」
「ディアドラ……」
景色を見ていただけですよ、と言った青年の長い黒髪が、夜風に吹き上げられて波のようにうねる。紫水晶の瞳が不思議な憂いを帯びていて、胸が奇妙にざわめいた。
「どこかへ行くのですか?」
「どうしてそう思うんです?」
伯爵夫人は目を眇める。青年に特に変わった様子は無いが、気になる事ならばあった。
「あの気味の悪い男。妾がいくら嫌だと言っても追い出さなかったのに……」
ゴーシュとか言う魔物憑きの醜い男。あれをラウルが側に置いている事が、彼女には不満だった。彼女は恋人の美しさを愛していた。その恋人に纏わりついていた醜い男は邪魔で鬱陶しかった。何度も文句を言ったのに、ラウルは笑って取り合わなかった。それなのに突然、あの醜い魔物憑きを追い出してしまったのだ。
伯爵夫人は不安を感じていた。ラウルの心境に何か変化があったのではないか、と。
ラウルはなんでもないという調子であっさり言った。
「もう必要無くなったんです」
伯爵夫人は眉をひそめる。今夜は若い愛人に誤魔化されてやれる気分ではない。
「そう、そんなものなの? 妾のことも必要無くなったら捨てるのかしら?」
これにはラウルのほうが驚いたように目を見開いた。彼女がこんな縋るような物言いをするとは思ってもいなかった。もっと傲慢に、命令だけを口にする女だと……
「あなたは、魔物憑きの抗呪術師に僕を殺すよう命じたではありませんか? お陰で僕は宿敵であるベルノ・グランディスを見出す事が出来たのですが……あなたこそ、簡単に僕を捨てるだろうと思っていましたよ」
パシ、と乾いた音を響かせて伯爵夫人は金の扇を開いた。煌びやかな芸術で口元を覆い、驕慢な笑い声を上げる。嘲るようでもあり、虚勢を張るようでもあった。
「ラウル、そなたは勘違いをしています。妾は生きて別れるのは嫌だっただけです。そなたとの別れは死に因ってでありたい。捨てられて死を選ぶのは『別れに因る死』──それは惨めで寂しい死です。もしもそなたが妾を生かしたまま捨てて行くつもりならば、妾は幾度でも刺客を差し向けます。『死に因る別れ』を得る為に──意味はわかりますね?」
「わかりにくい人だ」
くすっ、と困ったようにラウルは笑った。
刺客を送って殺したところで、それもまた『別れに因る死』にしかならない。論理が破たんしている。それでも、彼女は彼女なりに真剣だった。もっと単純に、側にいて欲しい、と掻き口説いた方がよほど情が通じるであろうに。
伯爵夫人は表情を崩さなかった。銀髪の麗人と謳われる美貌は、髪の一筋すらも乱れてはいない。眦も、唇も、白く細い指先も震えず、目元にも頬にも朱は射さない。陶器のような肌は体温を持たない彫像のように冷ややかだ。
彼女は、傲慢であるように育てられた。
常に貴族であれ──と。
嫁ぐ相手は生まれる前から決まっていた。一族の命脈を繋ぐ為の政略結婚であれば、彼女には他の選択肢は無かったのだ。夫を嫌いだと思ったことは無い。
ただ、恋をしたことが無かった。暗い眼差しの哀れな楽士に出会うまでは……
「そなたが何者でも構わない。妾に取ってそなたは初めて心から愛した男なのです。例え神の前で誓えなくとも、妾とそなたを引き離せるのは死だけです」
無造作にラウルの頬に手を添えて、じっと検分でもするように紫水晶の瞳を覗き込む。
「もしも、どこかへ行くと言うのなら、妾を殺して魂を喰らってからにしなさい。そなたの糧になれるなら本望です」
「ディアドラ、あなたという人は……」
細い腰に腕を回して掻き抱くと、伯爵夫人はほんの少し怯えたように身じろぎし、それから、快楽と安堵の溜息を吐いた。もう二度と離れずに済むのなら、些細な痛みや苦しみなど、どうでもよかった。
しなだれかかってきた優美な体を静かに抱き止め、ラウルはふわりと空中に浮かび上がった。初めて人外の力を目の当たりにしたと言うのに、伯爵夫人はほんのわずかに息を飲んだだけで、取り乱しはしなかった。ラウルは麗しい人を抱いたまま闇の中を滑るように進み、幾度も彼女と逢瀬を重ねた私室の露台へ降りる。窓は内側から自然に開いた。
誰もいない静かな部屋。伯爵夫人の体をそっと豪奢な寝台へ横たえる。運ぶ途中で黄金のかんざしが落ちて、銀色の髪が翅のように広がっていた。
唇を合わせると、伯爵夫人は甘い香りで応えた。
六弦を爪弾いていた楽士の優雅な指先が伯爵夫人の清らかな輪郭をなぞり、細い頸にかかり、無情に力を込める。
あ、と細い声が零れ、伯爵夫人は崩れ落ちた。
接吻けに血の味が混じり、世界の音と色が遠退いて行く。だけど、これで、愛する男だけのものになれる。伯爵夫人は歓喜の涙を一粒零した。
ラウルの頬に当てられていた白い手は力を失って滑り落ち、透き通る水のようだった瞳は光を失って淡く濁る。これほど美しい人を醜い死の運命に堕としておきながら、少しも心が揺れない自分がラウルは不思議だった。骨の髄まで魔物になってしまったのだろう……
額にかかった銀色の髪を指先で払い、ラウルは伯爵夫人に声をかける。
「しばしの別れです、ディアドラ。充分な力を得たらあなたも甦らせてさしあげます」
呼応するように、白いレースに包まれた伯爵夫人の胸元から淡い光の珠が浮かび上がり、ふわりと空中に漂い出した。ラウルの周りをゆっくりと廻る。それは優しく愛しむような仕草で、魂になって初めて素直に愛情を示す運命の女がいっそ愉快ですらあった。
ラウルが手を差し延べると、光の珠は彼の胸元に吸い込まれるように消えて行く。
燭台の炎を吹き消すと、しん、と静謐の闇が広がった。その闇を見通して、ラウルは寝台に横たわったディアドラが白い石になり、それから、サラサラと崩れていくのを見届けた。美しい抜け殻を誰にも穢させたくなかったのだ。
「愛していますよ。もっと早く、この身が穢される前に出会いたかった」
†††
そして、ベルノ達は漆黒の魔境を踏破する──