【第三章・因果】02
そんなもの、聞いたことが無い。魔術を行うのは魔物であって、その魔物を使役できるのは魂の契約を交わしたヴァンディールだけだ。
「魔術師?」
青年はおかしそうに喉を鳴らした。バカバカしい、と。
「僕はただの楽士ですよ。貴婦人の愛人になるしか能が無い程度のね。そう言えば、あなたは抗呪術師ではなかったのですか?」
どうやら、ふざけたことを言われた返礼らしい。
「出来ねえよ。適当かまして報酬だけせしめる詐欺だよ、詐欺。本当はわかってんだろ。おまえ、本当にムカつくなぁ……」
話がおかしな方向へ流れているが、そう、詐欺なのである。抗呪術師を騙ってもヴァンディールの虹色の瞳を見せれば疑われない。かけられた呪いを打ち消せると言われれば、怨恨を買った覚えのある馬鹿な金持ちどもは大金を払う。日がな一日のんびりと大麦酒でも飲みながら、あてがわれた部屋に座っているだけで小金が稼げるのである。帝政が衰え、領主同士の小競り合いが続く西の帝域だから出来た芸当だろう。
「つうか、おまえ、こんなところにいて、クラヴィス伯爵夫人はどうした? 三日姿を見せないからっておまえを殺せと命じた女だ。今頃、半狂乱になってるんじゃないか?」
ふふ、と意味深長に青年は肩を竦めた。
「大丈夫ですよ。ご心配なく。ディアドラは優しい女です」
「嘘つけっ。つうか、あの伯爵夫人を名前で呼んでるの? おまえ、すげえな」
突っ込みどころはそこではないのだが、つい相手のペースにはまってしまう。
ふと、奇妙な既視感に囚われた。
クラヴィス伯爵領での見覚えもあるが、それだけではない気がする。この甘ったるくて、優しげで、月の光に揺れる白い花のような儚い雰囲気。誰かに似ている。いや、誰かを、この男に似ている、と思ったような……
なんの確証も無い。それどころか、青年の瞳は虹色の光を宿してすらいない。ガーランド姫から探索と殺害を依頼された相手はヴァンディールであるはずだ。
それでも何かが直感に引っ掛かる。試してみるか、とベルノは思った。
片膝の埃を払って立ち上がり、ついでに青年にも手を貸して立ち上がらせてやる。
それは〝もういい、疑いは晴れたよ〟という態度に見えた。
不思議そうにベルノを見つめる青年。
「そうだ、これ、おまえの指輪じゃないか?」
何気無い調子でベルノは指輪を差し出した。ダンジュール侯爵の居城でガーランド姫から預かったあの指輪だ。白水晶に苦しみ身悶える若き竜が刻まれた──
「ああ、そうです」
あっさりと青年は受け取った。警戒することも無く、優雅に手を伸ばし、無造作に掴んで持っていく。慣れた仕草で左手の中指に黄金の環を通した。あまりにもしっくりと、指輪は青年の指に納まった。
「そういえば、しばらく身に付けていなかったな。いつ失くしたんだろう……」
本当に不思議そうに首を傾げる。
落雷に撃たれたような衝撃だった。カマをかけるまでは、まさか、という気持ちのほうが強かった。この男の瞳はヴァンディール特有の虹色ではない。
しかし、間違いない。こいつだ。
こいつが──貴族にしか許されない『若き竜』の意匠を身に付けるこいつが、あの優しげなガーランド姫に、探し出して殺して欲しい、と言わしめた、失踪した竜神殿の神官……
「そうか。おまえだったのかっ!」
はい? と青年は顔を上げた。何を言われているのか分かっていない。
「ガーランド姫が探してるぞ」
決定的な一言に青年の顔色が変わった。
「ああ、なるほど」
ぽんっ、と青年は手を打った。
「僕は失態を犯したようですね。こんな指輪のことは忘れていましたよ。そもそも気にもかけていなかった。お陰で、うっかり、あなたがディアドラの寝室から盗んだのだと思い込んでしまいました……」
指輪を見つめて、残念そうに言う。
「おまえ、いったい誰なんだ?」
「ラウル……」
ベルノは不機嫌に目を眇める。青年はもう一度名乗った。改めて、正式な名を。
「ラウル・セヴラン・ロア・ダンジュール。ガーランドは、僕の妹です」
「………………っ!?」
言葉を失った。似ているはずだ。血を分けた兄と妹ならば。では、妹が、実の兄を暗殺しようとしているということなのか……
ラウルは、不意に闇の気配を漂わせ、暗い微笑に唇を歪めた。細められた紫色の瞳が射すくめるようにベルノを睨む。
「ベルノ・グランディス。あなたと僕には深い因縁があるんですよ。あなたには分からないかも知れませんが、あなたが持っているその剣はとても貴重で、本来は僕が所有するはずだったものです。それなのに、僕が欲した時には、その剣はもう竜神殿から持ち去られていました。ずっと探していたんです。よりにもよって漆黒の魔境の向こう側で、女神の雷鎚を従わせた者に、偶然巡り合えるなんて、最初は信じられませんでした」
くすっ、とラウルは楽しそうに喉を鳴らす。紫水晶の瞳が嗜虐の色を増した。
「僕には、その剣と、剣の所有者がどうしても必要でしてね。だから、あなたを初めて見た時は、運命を感じました。ぜひとも、両方手に入れたい」
背筋を舐めるようなゾッとする色気。
「そう言えば、一度、あなたの寝所に会いに行ったのですが、あなたはあの時、夢うつつでしたね。覚えていませんか?」
「気色悪いこと言うな」
軽口で返すが、冷や汗がこめかみを伝う。嫌な威圧感だ。
「つれないことを言わないでください。僕は本当に運命を感じたんですよ。あなたとは、必ず殺し合うだろう、と」
「……なるほど」
そういう運命なら、ベルノも、今まさに感じている。
「あなたが男で良かった。女を手に掛けるのは嫌なものですからね」
「そこだけは気が合うな。同感だ」
用心深く己が身を庇いながら、切断の呪詛がかかった剣の柄に手をかけた。瞬く間に雷の触手が神経を侵食してくる。感覚の加速と覚醒が同時に、かつ一気に巻き起こる。
アルヴァは低い声で唸りながら姿勢を下げ、いつでも跳び掛かれる体勢を取った。
ラウルは相変わらず薄い笑みを浮かべて突っ立っている。相手はヴァンディールではない。魔術は使えないはずだ。武器も持っていない。もっと言えば腕力も無かった。女と見紛うような華奢で繊細な体つき。
──それなのに、ヤバイ気がする。嫌な予感が湧き起こる。
ラウルは得体が知れない。竜神殿に足を踏み入れた時から感じていた鳥肌が立つような獰猛な獣の顎門の気配。あれは、間違いなく、こいつが発していたものだ。
「ゴーシュ、出て来なさい」
がさっ、とラウルの背後の植え込みが揺れ、灯篭の光の当たっていない暗がりから、おずおずといった様子で醜いヒキガエルのような面相のゴーシュが出て来た。
「ゴーシュ! おまえ、やっぱりいたのか! なんでこんな奴に従ってる? おまえの願いの力はおまえだけのものだ。利用されるな。面倒見てやるから、とりあえずこっちに来い」
ハッ、とゴーシュは身じろぎした。その手を見ると、ベルノが投げてやったスカーフをまだ握りしめている。
「ゴーシュ……」
手を差し延べると、一瞬だけゴーシュは手を動かした。
「ダメだ、ゴーシュ」
ラウルはあくまでも静かな口調だった。しかし、ゴーシュはビクッと身を竦ませて、ラウルの後ろに隠れてしまった。
「ふざけるな! なんの権利があってそいつをこき使うんだ? ヴァンディールは呪いを得た代わりに自由を得ているはずだ。俺達は自由なんだ。誰にも、俺達の自由を侵害する権利はない! ゴーシュを解放してやれっ!!」
ふう、とラウルは溜息を吐いた。
「あなたは何も分かっていない。自由とは、孤独と表裏一体の呪いです。自由でいられるのは孤独を甘受出来る強い心を持つ者だけなのです。ゴーシュも寂しいのは嫌なんですよ」
「はあ? 都合の良い言い草だな?」
吐き捨てるように言ったベルノの厭味に、ラウルは一瞬、皮肉に唇を歪めた。
「あなただって、孤独に耐えかねて子供を連れ歩いているのではありませんか?」
「なんだと? 俺が、寂しさを紛らわせる為にルーを連れ歩いてるってのか? 言うにこと欠いて、てめえ……っ!」
ルーは戦災孤児だ。ベルノが拾わなければ死んでいた。決して自分の孤独を慰める為に連れ歩いているわけではない。魔物憑きのベルノは放浪せざるを得ない。ルーの将来を考え、普通の家庭に預けて落ち着いて教育を受けさせてやりたいとも思っている。しかし、いったいどこの誰が、魔物憑きの養い子を引き受けて、大切にしてくれるというのか。
「おまえに何が分かるって言うんだ?」
緊張が極みに達した時、ラウルはおどけるように両の手の平を上に向けて肩を竦めた。やれやれ、というような仕草だ。
「今は見逃してあげます。まだ準備が整っていないので」
「なっ、なにをスカしたこと言いやがるっ!」
「この城の罪無き人々を巻き込むつもりですか?」
「う……っ」
確かに、何も知らない侍女や下働きの者達を巻き込まずに済む方がありがたいが、しかし、はいそうですか、と逃がしてやるのもおかしい気がする。
「あなたは、さっきは見事に僕を騙したくせに、政略的な交渉は完全に素人なんですね」
クスッ、とラウルは微苦笑を浮かべた。それまでの暗い笑みとは風合いが異なる。
「はあ?」
「いえ、化かし合いに慣れていないほうが、人間としては魅力的です」
「人間じゃねえけどな」
ラウルは笑みを消した。軍を指揮をするように片手を高く上げる。
「ひとつ教えておいてあげましょう。この場合、今すぐ僕の首を刎ねるべきです。僕は体勢を調えてあなたを殺すつもりなんですからね」
ラウルが掲げた手を振り下ろすと、金色の蝶の群れが突風となって吹きつけた。輝く奔流の狭間に、物言いたげなゴーシュの横顔が浮かび上がって消えていく。
「ゴーシュ! ダメだ、行くなっ!!」
叫びながら腕を延ばすが、金色の風の壁に阻まれて届かない。
「ゴーシュ、ゴーシュ、戻って来いっ! 戻って来いよ、バカ野郎っ!」
嵐が止んだ時には、ラウルもゴーシュも霞のようにかき消えてしまっていた。目を凝らすが、金色の蝶の痕跡すらも無い。
「くそ、ラウル……あの野郎……」
短い邂逅だったが、ラウルは幾重にもベルノを傷付けた。ルーはベルノの柔らかな脇腹であったし、ゴーシュを隷属させている事も許せない。
「あいつがゴーシュをたぶらかしてこき使っているご主人様だ」
魔物憑きへの同族意識なのか、愚かに見えるゴーシュへの同情なのか、可哀想だと思ってしまう自分が嫌だった。それでは、自分の弱みを認めるようなものだ……
†††