【第三章・因果】01
ダンジュールの都に戻る頃には、日はすっかり暮れていた。
戻りの道はアルヴァの背に乗って、大地を滑るように駆けた。近衛兵達も愛馬に鞭をくれて必死に付いて来る。
神殿での戦いをその目で見た騎士達は、ベルノに敬意を払うようになっていた。彼等に話を聞かされ、戦いを見ていなかった者達も幾らか仲間に同調する。結局、ベルノは彼等に受け入れられてしまった。
都に近付くにつれ、ランタンを灯した南方王国からの隊商の列が見え始めた。人気の無い場所はアルヴァに乗って駆けていても問題なかったが、そろそろマズイ。騒ぎを避ける為にアルヴァを異界へ帰らせようとしたが、ガーランド姫が機転を利かせた。アルヴァの背に紋章入りのマントをかけて、隊列の真ん中を歩かせてくれたのだ。領主が珍しい動物を連れていても、誰も不思議には思わない。金持ちは気紛れだ、という偏見を逆手に取った妙案だ。
嬉しそうにアルヴァは喉を鳴らした。どうやらガーランド姫を気に入ったらしい。
藍紫の空に都の白亜の城壁が宵の色に染め上げられて浮かび上がり、城壁の上ではオレンジ色の松明が火の粉を光の花弁のように散らしている。竜神殿は廃墟と化していたというのに、ダンジュールの都は何事も無いように繁栄している。
それは、とても奇妙な事に思えた。
†††
「まさか、城に泊めて貰えるとは思わなかったな」
ベルノは上着を脱ぎながら、ミラとルーに声をかけた。二人はクッションの良いソファに腰を落として、ティーテーブルに用意された紅茶を飲んでいる。茶請けの焼き菓子には蜜漬けの野苺が添えられていた。秋には高級品だ。
部屋も、兵士用の宿泊棟ではあったが、位の高い騎士に与えられる調度の整った客間だった。居間には暖炉が、上階には寝室が二つあり、南向きに大きく開いた露台からは城に仕える者達に解放されている中庭に出られた。
「上等な客室じゃねえか……」
魔物憑きが使った部屋など、他の客にあてがうわけにはいかないだろう。呪われた部屋として閉鎖せざるを得なくなるのではないかとベルノは余計な心配をした。
少し前に供された晩餐も素晴らしい饗宴用の料理だった。姫様や騎士達とは別のこぢんまりとした食堂で、三人だけの晩餐ではあったが、澄んだスープ、子羊の香草焼き、檸檬バターソースをかけた鱒のソテー、鴨のコンフィ、茸の香りを利かせた卵のパイ、チコリと茹でた蕪が付け合せに用意され、デザートには数種のチーズと梨のタルト、葡萄酒と火酒もたっぷり用意されていた。
ルーは目をキラキラさせて歓声を上げた。
「うわあ、すごいご馳走。ボクこんなに食べきれない。お弁当に包んでもらえないかな」
子供に貧乏くさい事を言わせるベルノを、ミラは呆れて罵った。
「あんた、ルーにどんな生活させてたんだい? 甲斐性無しだねぇ……」
「う、うるさいな。しょうがないだろ」
愚痴りはしたが、いずれはルーをどこかへ落ち着かせてやらねばならない。一生放浪暮らしをさせるわけにはいかないし、そもそもヴァンディールと人間は時の流れが違う。ヴァンディールは願いを消費しなければ歳を取らずに何百年でも生きることが出来る。普通に歳を取り死んでいく人間と、いつまでも一緒にはいられないのだ。
食事を終え、宿泊用にあてがわれた部屋に戻ってからも、ベルノは少し沈んでルーの将来を思い悩んでいた。前々から考えていた事ではあったが、なんとかしたい。
そんなベルノの横顔を軽く睨んで、ミラはわざとらしい仏頂面で呟いた。
「湯浴みがしたい」
ベルノの反応などお構いなしでさっさと立ち上がる。ルーも一緒に立ち上がり、こちらは対照的な上機嫌でベルノに抱きついた。甘えるようにベルノの服に額をこすりつけてから、にぱあっ、満面の笑みでと見上げてくる。
「ベルノも行こうよ。すごい浴室があるってヴィクトルさんが言ってたよ」
「ヴィクトルって、あいつがっ!?」
厭味ばかり言う金髪の従者のしかめ面を思い浮かべて、ベルノは眉間に皺を寄せた。
「けっこう良い人だよ。親切に井戸の場所とか浴室の事とか教えてくれたし」
「嘘だろ? 信じられん」
「女には失礼な態度は取らない、というのがあの坊やの信条のようだよ。魔物憑きの私にも、ずいぶん抑制の利いた対応をしてくれた。まあ、複雑そうな表情は隠せてなかったけどね」
ミラは腕を組み壁に背を預けて、笑いを噛み殺したような顔でベルノを見ていた。
「はあ~~?」
信じられない。初めて会った瞬間から、ヴィクトルはベルノを〝魔物憑き〟と呼んで蔑み、遠慮なく厭味を投げつけまくり、いっそ清々しいほど差別してくれたというのに……
「あのスケベ野郎。女にだけ良い顔しやがって……」
小声で文句を言うと、ミラが呆れたように唇の端を上げていた。
「で、一緒に湯浴みに行かないのかい?」
「行こうよ、ベルノ」
ルーが無邪気に腕を引くが、そんな真似はいたしかねる。
「おまえらね……俺が一緒に行ってどうすんだよ」
「一緒に入ればいいじゃないか。馴染みの仲だ、問題無い。ヴィクトル坊やが、今夜は私達の為に浴室を一つ借り切りにしておくってさ」
「そうだよ~~昔はボクと一緒に入ってたじゃん」
「いやいやいやいやっ、まだおまえが五歳か六歳までの話だろ? 今、一緒に入れるわけないだろ! ミラもまるで過去に一緒に風呂に入った事があるみたいに言うのはやめろ! 俺をなんだと思ってるんだっ?」
あははは、と笑いながらミラとルーは湯浴みをしに出て行った。どうやら二人とも本気ではなく、ベルノを揶揄っていただけのようだ。
「うう、ドッと疲れた……」
†††
女二人が連れだって湯浴みに行ってしまうと、途端に室内の静けさが気になった。
普段は安宿か野宿なので、街の喧騒や隣室の物音、虫や獣の声なり気配が、常に周囲に満ちていた。城の中庭にも虫の声は響いているが、いつもと勝手が違って、物悲しく聞こえる。
竜神殿の事も、指輪の持ち主の事も、消えた屍人使いの事も、ガーランド姫の思惑も、ルーの行く末も、様々な事が有耶無耶で、まるでスッキリしない。
これからどうしたものかと思案しながら、ベルノは中庭へ続く露台へ歩み出た。
そこかしこに灯篭が灯され、夜でも庭の散策が出来そうだ。無駄に金をかけているなぁ、と呆れたその時、視界の端で、黄色い火の粉のような光が舞った。錯覚かと思ったが、光は尾を引き、ひらひらとベルノの周りを飛び回る。
金色の蝶だ──
ベルノがハッキリ視線を向けると、まるで誘うように庭園の方へ飛んでいく。
「ゴーシュか? あの野郎……」
言葉に独特の訛りがある、ガマガエルのような醜い男の姿が思い出された。敵ではあるのだが、なぜか憎めない。襲ってきたくせに、撃退されると子供のようにわんわん泣き出した。あいつには悪意が無いのではないか。いや、むしろ自分の意思で誰かを害すほどの知恵があるようには見えない。きっと誰かがゴーシュをたぶらかしているのだ。本人も〝ご主人様は恐い〟と言っていた。
「くそっ、こういうの黙っておけないんだよな……」
ベルノは義憤に駆られて、歩みも荒々しく金色の蝶を追った。部屋の隅に寝そべっていたアルヴァも、ベルノが庭園の奥に踏み込んでいく姿を見止めて、大儀そうに起き上がる。
「ゴーシュのバカめ、説教してやるっ」
特別な力を持つヴァンディールが、ご主人様なんて存在に怯えて生きる必要は無い。願えば願うほど魂は熟していく。屍人を操れば操るほど死に近付く。それが魔物との契約だ。自分の命をすり減らしているのだから、願いは自分の為だけに使うべきだ。強いられるべきではない。なのに、誰かがゴーシュの自由を奪っていやがる。そんな事は許せない。なんとかしてやる。
金色の蝶が茂みの奥に消えて行く。ベルノは乱暴に枝を掻き分けた。
「おいっ、ゴーシュ。おまえ、誰に命令されて……」
ハッ、とベルノは身を引いた。
違う。ゴーシュではない。
掻き分けた茂みの向こうには、黒いローブを着たほっそりとした人影が立っていた。
「誰だッ!?」
ゴーシュを操っている黒幕か。誰何の声に驚いたのか、人影は逃げるように駆け出した。
「アルヴァ、捕まえろ。殺すなよ」
即応。
漆黒の獅子は疾風のように駆け出す。一呼吸終わらぬうちに、人影を石畳の上へ押し倒して捕獲した。本来の城塞のような巨躯ではないが、それでも充分に大きな獅子だ。不審な人物はさしたる抵抗も見せず、おとなしくアルヴァに組み敷かれていた。
しかし、ベルノが駆け寄るとビクッと身を竦めて反応を示す。屍人ではないようだ。
「おまえは何者だ?」
問い掛けても答えない。ちっ、と舌打ちして、ベルノは乱暴に相手の衣服に手を掛けた。襟元を掴んで引き起こす。心得たもので、アルヴァは呼吸を合わせてサッと横に退く。
「ツラを拝ませてもらうぞ」
わずかな抵抗はあったが、簡単に手首を掴んで捻じ伏せられた。弱い。それに、腕も細かった。女かも知れない、と一瞬戸惑ったが、相手が悔しそうな呻き声を漏らし、それで顔を隠したこの人物が男だと分かった。ならば遠慮する必要は無い。
「余計な抵抗はするなよ」
念を押しながらフードを剥ぎ取ると、息を飲むほど美しい顔が現れた。長い黒髪に、夜の泉のように深く澄んだ紫色の瞳。まるで妖精のような美貌……
「ああっ、おまえっ!」
クラヴィス伯爵夫人の愛人──命を狙われていた彼に、逃げろと伝え、逃してやろうとしたベルノの好意を裏切り、恩人であるはずのベルノを伯爵夫人の衛兵から命を狙われる窮地に陥とし入れてくれた、あの青年楽士だった。こいつのせいで七日もかけて漆黒の魔境を踏破する羽目になったかと思うと腹立たしい。
「この恩知らずっ。なんでこんなところにいやがるっ!?」
青年はきょとんとした表情で、片膝をついて彼の顔を覗き込んでいるベルノを見上げた。
乱れた髪が一筋額にかかって妙に色っぽい。調子が狂う。ベルノはどうもこの顔に弱いようで、殴ってやりたいのに殴れない。
「おまえがブサイクなら歯の二、三本折ってやるんだがな……」
ふっ、と青年はバカにしたように鼻で笑った。
「あなたは、つくづくお人好しなんですね」
初めてまともに声を聞いた。やや中性的だが紛れもない男の声だ。それでも、澄んでいて美しい。吟遊詩でも歌わせたらなかなかのものだろう。
甘い雰囲気に飲まれそうになるが、訊かねばならない事がある。ベルノは青年の襟首を掴んだまま、敢えて乱暴に揺さぶった。
「おまえ……自分の立場わかってんのか? ここで何をしていた? 屍人使いのゴーシュをけしかけて俺達を襲わせたのはおまえか? 神殿のやつらをどうした? おまえが殺したのか?」
取り繕った困り顔で青年は溜息を吐く。
「質問の多い人だ。口うるさい男は女性にモテませんよ」
揶揄うような口調。甘く見られている。
「ムカつくなぁ……」
その時、ふとバカな考えが頭をよぎった。ありえないと思いつつも一応は確認してみる。
「おまえもヴァンディールなのか?」
「さあね」
「もっとよく目を見せろ」
襟元を掴んで乱暴に引き寄せる。透き通った紫水晶のような瞳。色は揺らがない。ベルノやミラのような虹色ではない。やはり違う。この男はヴァンディールではない。では……
「おまえは『人間の魔術師』なのか?」




