【第二章・少女侯爵】05
案内してくださいますか、と請われ、断りようも無く、ベルノは一行を竜神殿へ架かる橋へ引き連れて行った。馬の見張りに半数を残し、ガーランド姫と金髪の従者ヴィクトル・ルヴァデ子爵、他二十四人の騎士、それにルーが、ぞろぞろとベルノとミラの後に続く。
どうやら本当に、竜神殿のある島影すらも、ヴァンディールでない者達には見えていないらしい。ルーに至っては、珍しい物を探す仔猫のように爛々と目を輝かせている。
「ベルノ、何も見えないよ。本当にここに橋があるの?」
「ああ、ある。そのまま真っ直ぐ歩いてみな」
恐る恐る足を踏み出し、それが空中でピタリと止まると、ルーは、わっと歓声を上げた。
「すごい! 本当だ。見えないけど地面がある!」
「いや、橋だけどな……」
ベルノがぼそりと言う横で、常に冷静であるよう訓練された近衛兵達も口々に驚きの声を上げた。我先にと見えない橋の上に駆け出していく。
「信じられん。我々は宙に浮いているぞ」
「なんという面妖な。わけが分からん。いったいどういう仕掛けなのだ?」
「ああ、足の下に、湖岸の砂と打ち寄せる波が見えるぞ」
身分も高い屈強な男達が、まるで子供のような騒ぎっぷりだ。
「そうかい? 俺にはまったくもって石の橋しか見えないけどな……って、あっ、おい、バカ。あんまり端に寄るな! 落ちるぞ!」
言った途端、一人がザブンと湖に落下した。
途端に全員が落下した仲間を救おうと浮足立つ。
「あああっ、止まれ、止まれ! 今いる場所から動くな! いいから、そこからロープを投げてやれ。早くしろよっ。鎧の重みで溺れる。あいつ沈んじまうぞ!」
すったもんだの末、ようやく落ちた騎士を救出し、ずぶ濡れになった彼を馬の見張りに残した仲間の下へ戻させると、ベルノは呆れたように嘆息した。
「俺とミラが、橋の両端を歩くから、その幅からはみ出さないように付いて来い」
まったく、完全にお子様の引率じゃないか……
ぶつぶつと周りに聞こえないように文句を言いながら、橋の中程に差し掛かった時、そこで不意に違和感に襲われた。
ぐにゃりと透明な膜を通り抜けたような奇妙な抵抗。
「なんだ、今の……?」
不快感が肌に纏わりついている。馴染みの無い感覚だ。
「ベルノ……?」
ミラも顔色を変えて近付いてくる。
「さっきの場所、ミラも何か感じたか?」
「ああ、なんだか嫌な感じがあったね。見えない膜のような……」
突然、ルーと騎士達がわっと歓声に似た叫びを上げ、狂騒状態になった。銘々が勝手に何事か叫んでいるから、音が重なり合って内容が聞き取れない。ルーを掴んで引き寄せる。
「どうした? 何を騒いでいる?」
「ベルノ、橋が見える! スゴイ! でっかい神殿も見えるよ!」
「なんだって?」
それはずっとベルノとミラには見えていた景色だ。ガーランド姫とヴィクトルも慌てて駆け寄ってくる。大貴族の姫様が、らしくもなく大声を上げる。
「何が起こったのです? 急に神殿が現れました!」
「貴様、何か怪しげな魔術を我らに仕掛けているのではないだろうな?」
ベルノはやっと事態を理解した。ミラは苦笑いを浮かべて一歩どころか十歩ほども下がってしまった。面倒を押し付けられた。溜息を吐いてベルノは説明を始めた。
「結界だ。よくは分からないが、なにかの術がかけられているのは間違いない。結界の内側に入ったから、急にあんた達にも神殿が見えるようになったんだろう」
「結界を解くことは出来ませんか? 竜神殿が見えないままでは領民が不安がります」
「それは無理だ。他人の施した魔術に干渉する事は難しい。俺達ヴァンディールは互いの術をまったく理解できないんだ。魔物はそれぞれ固有の能力を持っていて、偶然に似た能力を持つ者はいても、同質のものは無い」
「要するに手出し出来ないのだな? 案外、魔物憑きも役に立たん」
ヴィクトルが敢えて蔑む調子で言った。ガーランド姫がたしなめるように彼を一瞥したが、ヴィクトルは憎々しげな視線をベルノから外さなかった。
このくそガキが──
「この際だから言っておくが、俺はあんたのじいさんより年上だ。少しは敬え」
ふんっ、と上から目線で鼻を鳴らされた。
「そのような戯言バカバカしくて聞く耳持てるか。貴様は俺より若い青二才にしか見えぬわ。くだらない事を言う暇があったら、結界をどうにかしてみせろ」
「はあ、まったく……」
ベルノは心底うんざりした。少しは知識があるだろうと思っていたのに……
「魔物憑きだからって何でも出来る訳じゃないぞ。まず、なんらかの魔術を行使するには魔物に願わなければならない。魔物との契約は、願いを叶えてもらう代わりに、願いによって満たされた魂を供物として差し出すというものだ。俺達は最期には喰われる関係なんだ。願えば願うほど死期が早まる。それに、いくら願っても〝失われた魂を取り戻す事〟と、〝時間を巻き戻す事〟は絶対に出来ない。それ以外の願いの成否も、魔物が元から持っている魔力の質や大きさにも左右されるし、最初の願いにも影響される」
ベルノやミラには自明の理である。ヴァンディールは、魔物と契約を結んだ瞬間に、自分自身と魔物の性質、それから契約の摂理について自然と理解する。言語で理解する事ではないのだ。目を閉じ、そして開けたら知っている。不安や疑問も無く、困ることも無かった。
ガーランド姫は、ひとつひとつ覚え込むように頷いた。それから学徒が師に質問するように真っ直ぐ顔を上げた。
「最初の願いとは、古い詩歌にある『試練』の事ですね? 恐れを抱かず、偽らず、心の底から求める、真実の願いを唱えなければならないという……」
間近で目を合わせられて、再度ベルノはたじろいでしまう。不思議な姫様だ。穢らわしいと忌諱される魔物憑き相手に、蔑む様子も、怯える様子も無い。
「そ……そうだ。最初の願いを正しく唱えられる者は少ない。大人は理想に負ける。自分がどんな欲望を抱いているのか素直に認められないんだ。だから、ヴァンディールになる奴等はたいてい幼い頃に契約を果たしている」
「そうなのですね……」
大貴族の侯爵様だと言うのにずいぶん気さくで優しい調子だ。心が通じる、と錯覚しそうになって落ち着かない。
「ベルノ・グランディス。最初の願い、あなたは何を願ったのです?」
問われて、不意に記憶が甦る。強烈に覚えているのは、視界を覆う吹雪と、燃え盛る炎。それから、血塗れの屍の山。遠くに鬨の声が聞こえていた。ベルノはただ、殺されたくない、と願った。それ以外には、何も無かった。
「忘れた」
ベルノは軽い調子で言って、わざとらしく話を変えた。
「それより、この指輪の持ち主は何歳だったんだ?」
「今の私と同じ、十七歳でした」
「珍しいな。そんな歳になって契約を果たせるとは、よほど強い願いがあったのか?」
「それは……さあ、分かりません」
途端にひやりと空気が変わった。親しげな雰囲気は消え、ガーランド姫はそれ以上話に乗ってこなかった。まだ標的の情報は出せないと言う事か。
ごほん、とヴィクトルがわざとらしい咳払いをする。眉間のしわが益々深くなっている。姫様と馴れ馴れしく口を利くな、という意味だろう。はいはい、とベルノは口を閉じた。
ルーが不安そうに手を繋いできた。ガーランド姫と話していた時は遠慮していたらしい。これはこれで珍しい。
橋を渡り終え、なにげなく開け放たれた城門をくぐったところで、全員が衝撃に打たれた。
「なんなのだ、この有様はっ!?」
神域には凄まじい破壊の痕跡が刻まれていた。
島の中央にそびえる神殿は、若き竜を封じていた本殿を残して完全に倒壊していた。参道の両脇に立ち並ぶ石造りの建物もほとんどが元の形を留めていない。崩れ落ちた岩材と鎧戸や窓、アカンサスの意匠を彫られた石柱などには沢山の蜘蛛の巣がかかり、奥の神殿へ続く道は敷石が破壊され、雑草に覆われている。
「いったい何が……?」
「神殿が消えた時から異変は覚悟はしていたが……」
神殿は異様な静けさに覆われていた。物音ひとつ聞こえない。
「誰もいないのかっ!?」
ヴィクトルはこわばった表情でぐるりと辺りを見渡した。
「神域すべてがこんな様子なのだろうか?」
「誰か残っている者はいないのか?」
「どうします? 手分けして捜索しましょうか?」
騎士達の問いに、ヴィクトルは厳しい表情で首を横に振った。
「ダメだ。兵を分けるな。少人数になったところを個別に襲われたらどうする? 姫様を中心に一塊で移動するのだ。油断するな。敵は魔物を使役するヴァンディールなのだぞ」
そこで不意に、ベルノに視線が向いた。にやりとヴィクトルは口の端を上げる。
「そうだろう? ベルノ・グランディス」
カチンときた。
「ああ、あんたの言う通りだ。ヴィクトル・ルヴァデ子爵」
張り合ってみたが、鼻で笑われる。めちゃくちゃ嫌な奴だ。
ピリピリした雰囲気で、神殿の正面広場からぐるりと時計回りに神殿の敷地内をひとしきり見て回ったが、人っ子一人いなかった。飼われていただろう馬も、文書保護に欠かせない鼠番の猫も、狩猟用の犬も、煙のように消えていた。ただ、瓦礫と化した建物があっただけで、なんの収穫も無いまま元居た場所に戻ってくる結果になった。さすがに騎士達の間に動揺が広がっていた。こういう場合、何も起こらないほうが緊張する。
「誰もいない……どういうことだ?」
「神官たちはどこへ行った? 襲撃されたのであれば、死体のひとつも残っていないのはどういうわけだ?」
竜神殿には、神官長を筆頭に、高位神官と下位神官、更に見習い学徒や下働きも含めれば二百人以上が生活していたはずだ。
「なぜ廃墟になっている?」
「何者かが神殿を襲撃したのだろう。この破壊は尋常ではない」
「まさか、魔物が……」
「そんなバカな……」
「いや、魔物に決まっている! そうでなければこの状況をどう説明するのだ?」
蒼褪めた額に冷や汗を浮かべて、それぞれが戸惑いと不安を口にする。
「ありえない……二年前からこの状態だったのか?」
「いったい何が起きている? 神官達はどこへ消えた?」
ベルノも背筋が冷えるのを感じた。
「おまえら、ちょっと落ち着けよ」
この場で近衛兵達に混乱されては手に余る。
危険が迫っていると直感が告げている。
目に見える異常も気になるが、もっとおかしなことがあるのだ。
魔物のニオイがする──
嫌な感じだ。さっきから耳の後ろがザワザワと落ち着かないし、鳥肌が立っている。
大きく開かれた獣の顎門がすぐ背後に迫っているような、その獣の唾液の異臭が漂い、息遣いまで聞こえるような気がする。
まるで罠にはまったような感覚なのだ。誰かが、何かを仕掛けている。
苛立ちに手近な植え込みの茂みを蹴った。ザンッと大きな音がして木の葉が飛び散る。
その瞬間、金色の蝶が舞った。
小さな蝶だった。たった一匹ひらひらと、濃い緑の木蔭から現れ、逃げて行くでもなく、キラキラと鱗粉のような光を振り撒きながら、その辺りを優雅に飛び回っている。
ミラは声を詰まらせた。ベルノも息を飲む。
「魔物だ……色付きの……」
契約を結んでいない魔物は透明に光り輝く姿をしている。色が付いているということは、誰かと契約を交わしたという事だ。
ヴァンディールがいる──!!
†††