【第二章・少女侯爵】04
翌日、ベルノとミラ、ルーは、三人そろって市城壁の外にいた。
巨大湖は三日月の形をしているらしい──らしいと言うのは、湖岸をぐるりと廻れば、馬車を急がせても一か月以上、徒歩では四か月以上もかかるからだ。全形を見た者はいないし、対岸も青く霞んでしまって見えない。巨大ではあるが内海ではなく淡水湖だ。
母なる湖に名前を付けることは古代より禁忌とされており、周辺諸国の者は皆、飾り気の無い古代の言葉で『巨大湖』と呼んでいる。
巨大湖の南岸にある南方王国と北岸にある東の王国との貿易は、主に三角帆のガレー船に依存している。船ならば、風に恵まれれば三日ほど、長くとも十日ほどで巨大湖の対岸へ到達できる。南方王国との交易の玄関になっているダンジュール侯爵領は東の王国で最も豊かな領地だ。その強大な財力ゆえに、歴代領主は王冠の無い副王と呼ばれている。
広大な湖畔はすべて神域とされていて、いくつもの都が巨大湖に流れ込む河川の水を利用しているが、どの都にも、軽微な魔力を持つ特殊な二枚貝を利用した浄水用水路が整備されていて、湖の水が汚れることは無い。五百年以上も昔、この技術を伝えたのは賢者と呼ばれたヴァンディールで、彼は南方王国の始祖になったと伝説は語る。
海のように広大な湖であるから、各々、自国の沿岸に固有の神話を持っている。湖底に眠る若き竜の伝説はダンジュールの都だけのものだ。昔語りを裏付けるように、湖岸から目と鼻の先に若き竜を祀る神殿の建つ島があり、石造りのアーチ橋がかけられている。島には侯爵の城とよく似た白亜の城壁が巡らされていた。
「……ったく。やっと竜神殿が見えてきたか。意外と都から距離があるんだな……」
ベルノは独り言ちた。
早朝に宿を出たというのに、ここまで半日以上かかった。馬車を調達できなかったので歩くしかなかったからだ。良く晴れた水色の空に白い綿雲がほんわり浮かんでいるし、石畳の街道添いに等間隔で植えられたプラタナスの葉は黄色く色を変え、なだらかに続く緑の丘には白い羊の群れがゆったり歩いている。丘の向こうには、麦畑の金色の波と真っ赤に紅葉した葡萄畑のモザイク。右手には青い湖と白い砂岩の岸辺が広がっている。拍子抜けするほど長閑で美しい眺めだ。肌を撫でる風は冷涼で心地好い。
「ベルノ、ちょっと遠くて大変だけど楽しいね」
「おまえはピクニック気分だもんな」
「えっ? ベルノは楽しくないの? こんなにお天気も良くて、景色も綺麗で、美味しいお弁当もあったし、最高の気分だよ」
「ああ、まあ、確かにな。何も問題が無ければ最高だよ」
くるくると楽しそうにステップを踏むルー。少し前に木蔭で食べた黒パンにドライソーセージと玉ねぎを挟んだ昼飯が予想以上に美味しかったようで上機嫌なのだ。はは、とベルノは苦笑した。食い物さえあれば機嫌が良くなる単純なタイプで良かった。
片や、ミラに視線を向けると苛立ちで人をくびり殺しそうな顔で歩いている。館に籠りっきりで、たまに占術師としての仕事をする以外は、飯屋と酒屋と近所への買い出しくらいしか出歩かない出不精で、「よほどの事でもない限り歩きたくない」と昔から公言していた。
「うう、ちくしょう、失敗した。馬車が借りられなかった時点で来るのをやめりゃ良かった。だるい。面倒臭い。なんだか無性にベルノを殴りたい気分だ……」
「なんでだよっ!?」
「ねえ、早く用事を済ませちゃおうよ。急がないと竜神殿に着くまで日が暮れちゃうよ」
ベルノとミラは憂鬱な気分なのだが、ルーは何も気にしていないらしい。楽しそうに駆け出した。少し先に進んだところで二人が突っ立ったままでいる事に気付いて、ぱたぱたっと戻ってきて腕を掴み、早く行こうよ、と引っ張る。
「おまえ、今日は珍しく可愛いな」
「なっ、なんなのよ、急にっ!? つうか、ボクはいつも可愛くないってことっ!?」
「いや、そういう意味じゃねえけど……つうか、普段はやさぐれてるからなぁ」
「ベルノのバカっ!!」
げしっ、とすねを蹴られた。
「いってぇ……」
十一歳の娘をやさぐれさせてしまった自分の責任を痛感する。なんとかしないと嫁の貰い手が無くなるなぁ、などと考えつつ、ふと顔を上げると、通ってきた街道に土煙が上がっているのが見えた。
おかしい。まるで騎兵団が戦場で馬を駆っているような勢いだ。
「ルー。ちょっと待て」
土煙は無遠慮に近付いて来るし、荒々しい馬蹄の音も次第に轟き始めた。ミラも怪訝そうに顔を上げる。
「いったい何の騒ぎだ?」
騎馬の一隊が土埃を巻き上げてこちらに向かって駆けて来る。一個小隊、五十人ほどの騎影だ。全員が上等な設えの銀色の鎧に身を固め、青いマントをなびかせていた。
彼等はベルノ達に近付くと徐々に速度を落とし、速足で三人の周りに包囲陣を敷いた。騎兵の垣根が幾重にも密になる。馬は荒い息を吐き、苛立ったように前脚で地面を掻き、嘶いた。
青いマントには、盾にアカンサスと竜の紋章が白く染め抜かれている。ダンジュール侯爵旗下の兵──精強な体躯の偉丈夫の集団。馬まで華麗な装備で統一されている。こんな贅沢な装備を与えられている一団となると、おそらく侯爵の近衛兵だろう。昨日ベルノを捕縛しに来た下っ端衛兵などではない。叙勲された騎士達だ。
小柄な指揮官らしき者が、騎乗したまま、横に張り付いている従者に何事か指示する。彼は声を張り上げ、散開を命じた。ベルノ達を中心に小さな広場ほどの空間が開ける。指揮官らしき人物が、身軽に馬から降りて近付いてきた。主を庇うように従者も。
指揮官は一人だけ軽い軍装で、帯剣はしているが、兜も無い。男にしては華奢で小柄だなと思ったが、埃除けの頬被りを外すと豊かな黒髪が零れ落ちて、ベルノもミラも、おしゃべりなルーまでもが絶句した。
白い花が零れるような清楚な美貌。
ダンジュール侯爵ガーランド姫──その人であった。
†††
「なんであんたがここにいる?」
ベルノは、ガーランド姫に訊いたのだが、金髪の従者が代わりに口を開いた。
「口を慎め。この穢らわしい魔物憑きめが」
話にならない。身分の高い貴族や騎士はたいていこうだ。大上段から抑えつけるように物を言って、下賤な魔物憑きの言う事になど聞く耳を持たない。
ガーランド姫が、なぜか従者を手で制した。
「おやめなさい。口を慎むのはあなたです、ヴィクトル。いえ、ルヴァデ子爵」
「姫様……っ!?」
改めて階級と領地の名で呼ばれ、叱責が本気だと悟ったのであろう、金髪の従者ヴィクトルは、一瞬驚愕に目を見開き、それから感情を抑え込むように目を閉じて一礼した。
「御意に……」
近衛兵達の控えている場所までは少し距離がある。詳しい話の内容までは聞こえてはいないだろうが、じっとベルノの動向を注視している。魔物憑きを警戒し、幾人かは剣の柄に手をかけていた。ガーランド姫の命令を無視して血気に逸る事は無いだろうが、嫌な感じだ。
「ベルノ・グランディス、あなたには申し訳ないと思いましたが、尾行と見張りを付けさせてもらいました。その者から、あなた方が城門を出たと言う知らせを受けて、急ぎ追いかけて来たのです。私はあなたに助けてもらわなくては困るのです」
本当に困ったようにガーランド姫は複雑な微笑を浮かべた。疲れているようにも、寂しそうにも見える。優しげで弱々しい表情。甘く、息が詰まるような気分に襲われる。この淡い紫水晶の瞳は魔性だ。思わず肩を支えてやりたくなる。
「なるほど。まあ、金貨と指輪を持ち逃げされちゃ困るよな」
ベルノは敢えて憎まれ口を叩いた。ガーランド姫はまた弱々しく微笑む。
「いいえ。そういう意味ではありません。あの指輪の持ち主は、人間には探せないのです。身を隠したヴァンディールを見つけ出せるのは、ヴァンディールだけでしょう」
「はあ? どういう事だ? ヴァンディールを探せだと? そんな話、昨日は一言も出なかった。指輪の持ち主を探して殺せと言う依頼は嘘か?」
「いいえ」
重苦しいガーランド姫の表情。
瞬間、理解が弾けた。
「なるほど……つまり、魔物憑き同士で殺し合いをさせようとしたという事か。この指輪の持ち主、竜神殿の高位神官がヴァンディールなんだな? そいつは魔物と契約を果たしたから失踪したんだろう? その誰かの正体を、お姫様はよく知っているんじゃないのか? どうして昨日言わなかった? 汚いやり方だったな?」
怒りに任せてマズイ物言いをした。貴族を面罵する者はバカだ。しかし、なじられたガーランド姫は真っ直ぐ顔を上げてベルノと目を合わせた。
澄んだ穏やかな眼差しに思わずたじろぐ。
「全てその通りです。その指輪を預ければ、あなたは、まず竜神殿へ向かうだろうと思っていました。竜も魔物ですから、ヴァンディールなら気になるはずです」
ガーランド姫はそこで言葉を切り、ミラの方に向き直った。この近さで正対すれば瞳の色は誤魔化せない。
「あなたも、ヴァンディールですね?」
ちっ、とミラが舌打ちした。悔しそうにベルノの肩に手を添える。
「すまない。余計な入れ知恵をしたね。私が竜神殿へ行こうなんて言わなければ……」
「いや、どのみち、どこへ行こうと見張られてたんだ。同じ事さ。まあ、これも女神の御導きかも知れないぜ。つうか、あんたが謝ると気色悪いな。槍でも降るんじゃないか?」
ベルノがにやっと笑い掛けると、ミラは肩を竦めた。
「それより、お姫様。どうしてこんな回りくどい真似をした?」
腹は立っていたが、理由が聞きたい。標的がヴァンディールだという事を隠す理由は察しも付くし理解もできるが、こうして後を追ってくるくらいなら、昨日、竜神殿へ行けと命じても良かったはずだ。ガーランド姫は、そうですね、と口籠った。
「はっきり申せば、弱みを晒したくなかったのです。私達には、この二年間ずっと、竜神殿が見つけられなかったのです」
「何を言ってる? 竜神殿は有名だ。場所なんて誰でも知ってる。探す必要なんか無いぞ」
「いいえ。事情は変わったのです。二年前の夏から竜神殿を見た者は一人もいません」
「意味が、分からない……」
「竜神殿は消えたのです。ある日、忽然と、跡形もなく」
「いや、待ってくれ。そんなバカな……竜神殿ならすぐそこに見えてるぞ」
ベルノは湖の中の小島を指差した。白亜の壁に囲まれた壮麗な神殿と、そこへ続くアーチ形の美しい石造りの橋が、指呼の距離に聳えている。あれを探せと言われても、バカにされているとしか思えない。
ガーランド姫は首を横に振った。
「私達には見えません」
「ルー?」
ベルノはルーを振り向いた。どうだ、と目で尋ねる。ルーは戸惑ったように首を傾げた。
「えっと……何の話? 神殿なんか無いよ?」
頭を殴られたようなショックを受けた。ミラも同じような表情をしている。
「つまり、私とベルノにだけ見えてるってことだね」
「らしいな……ヴァンディールにしか見えないとは。参った……」
†††




