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【序章】

   


「待って、兄様……」

 高く澄んだ少女の声が響いた。どこか喘ぐような声だった。

「お願いだから待って。そんな事をすれば、もう取り返しがつかないわ。兄様だってそのままでは……」

 返事はない。シンと静まり返った暗い部屋。季節は夏も終わりに差し掛かった頃。閉め切った室内には、濃密な湿気と嫌な臭気がこもっていた。石造りの壁に囲まれた、さして広くもない一室である。酷暑の熱が、闇の底に疫病のように揺蕩っている。肌がじっとりと汗ばんで嫌な気分だ。小さな窓が一つ。重い木戸に閉ざされていて、月の光さえ届かない。燃え尽きかけた蝋燭が最後の光を放っていた。弱々しい光に照らされた室内には、粗末な寝台と簡素な机と椅子が一脚、他には古びた衣装箱が一つあるだけで、他には何もない。

 少女はその片隅、重い樫材の扉を背にして立っていた。

「兄様……」

 不安げな少女の声がもう一度囁く。その時、不意に部屋の中央に黒い影が立ち上がった。

 ゆらり、と周囲の空間が歪んだように見える。

「いいんだ。いいんだよ」

 声は、親しい兄の声だった。しかし、何か違和感がある。少女は確かめようと目を凝らすが、蝋燭の灯り一つでは、暗くて何も判然としない。浅い息を吐く彼女の方に、影はゆっくりと振り返った。瞬間、兄に呼び掛けていた少女は、怖じけるようにあとずさる。

「そんな……」

 それはすでに兄と呼べる姿ではなかった。

 暗闇に浮かび上がる奇妙に輝く瞳。チラチラと油膜のような虹色が揺れる。死人のように白い肌。耳もとまで裂け上がった恐ろしい唇。振り向いた影は、不気味な微笑を浮かべていた。

 少女はじっと目の前の不気味な影を凝視する。

 痛いほどの喪失の予感があった。

 大切な存在を、永遠に失ってしまう──いや、すでに失ってしまったような……

「兄様……」

 それでも彼女は『兄様』と呼んだ。目に映るものを信じまいとするように、震える声で『兄様』と呼んだのだ。優しく、穏やかに、その恐ろしい影を……

「兄様、お願いだから待って」

 影はゆっくりと首を横に振った。そして、再度同じ言葉を繰り返す。

「いいんだ。いいんだよ、これで……」

「よくない。よくないわ、兄様。そんな……そんな事、神に許されない……恐ろしい地獄へ堕ちるのよ。兄様、お願いだから行かないで!」

 彼女が叫んだ瞬間、どこか遠くで甲高い獣の哭き声があがった。

「ああ、呼んでる……」

 影はぽつりと呟くと、祈るように両手を合わせた。そして、じっと妹を見つめると、突然、煙のように掻き消えた。何が起きたのか訝る隙も与えない程、唐突に……

 少女は二、三度瞬きを繰り返した。

 しかし、そこには闇があるだけで、もはや何も無い。

 兄の姿も、あの異形の影すらも……

「嘘……嫌……嫌だ、兄様……」

 呼吸が乱れ、今にも心臓が破裂しそうに痛む。

 こんな事、悪い夢に違いない。だって兄様が、あの優しかった兄様が、私を置いて行ってしまうはずがない。私達はたった二人きりの家族なんだもの……

「待って、待ってよ! お願いだから、兄様!」

 少女は叫んだが、返事はやはり無い。ただ冷え冷えとした漆黒の闇があるだけで。少女は兄を追うように、堅く閉ざされた窓に取り縋り、叩き付けるようにそれを開いた。だが、その向こうにも期待した者の姿は無かった。

 どこまでも長閑な牧草地が広がっている。なだらかに連なる丘陵。ところどころに白く浮かび上がって見えるのは夏の花の群生か。その景色の向こうには満天の星空と甘い色の下弦の月。黒いレースのような樹冠とアルフィニア山脈の険峻な影が夜空の縁を飾っている。いつも通りの風景だ。見慣れた、平凡な……

 ただ、空気だけがいつもと違っていた。

 どんよりと濁った、重く纏わり付くような空気。熱い湿気を孕んだ息の詰まる風が、強く少女の顔に吹き付ける。

「兄様、どうして……」

 悲痛な叫びを漏らした少女の頬には、零れ落ちた涙が伝っていた。

 少女は悟っていたのだ。

 もう二度と、元の優しい兄には会えない……

 うだるように暑い八月の夜だった。


   †††


 針葉樹森に囲まれた険しい山の頂に建つ黴臭い城塞。

 象牙の塔と呼ばれるそこは、古文書を紐解き、失われた古代の偉業を研究する学者たちの聖域だった。塔の奥へ至る螺旋階段の大理石は擦り減り、中央が滑らかに湾曲している。溶けた蝋のようなとろりと柔らかな乳白色の石肌。その色が認められるという事は手入れが行き届いている証拠だ。古い学びの塔ではあるが権威は未だ健在である。

 雪のちらつく夜、とある尊貴の一行が象牙の塔の城門を荒々しく叩いた。城塞の主でもあり学者の長でもある白い山羊のような髭を蓄えた老人が、数人の弟子を伴って、自ら松明を手に出迎える。重い鎧戸が引き上げられると、両手の指に余るほどの人馬が白い息を吐きながら、か細いランタンの灯を掲げて待っていた。仰々しい戦装束とマントに身を包んだ兵士達と、城付きの立派な馬。輪の中心には、場にそぐわない小さな人影が立っていた。

「姫様、なんというお姿で……」

 一行の中心にいたのは少女であった。馬車を使わず、自ら騎乗し馬で駆けて来たのであろう。分厚い毛皮のマントを纏っているとはいえ、寒さに身を震わせている。男物の騎乗ズボンとハイブーツ、腰には帯剣までしている。漆黒の髪は乱れ、頬は赤く上気し、荒い呼気は白い雲になって宵闇に流れて行く。とても高貴な姫の在りようとは思えない。

 一人だけ華美な文官の衣装を身に付けた金髪を短く刈り込んだ若い従者が、高慢な所作で人払いを指示した。精悍な顔立ちはむしろ武官のほうが相応しく見える。

 危急の事態なのであろう。あるいは隠密の行動か。

 キナ臭さに塔の長は眉をひそめたが、さりとて、先頃亡くなった先代様に代わって領地を継いだ侯爵様のご僥倖である。恭しく腰を折って彼らの領主を迎え入れた。

 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる。領主の為の部屋は、いつ主を迎えても差し支えないよう常に清潔な状態に保たれていたが、暖炉の火が部屋を暖めるまでにはもう少し時間がかかるだろう。温めた蜂蜜入りの葡萄酒を若い学徒が差し出すと、猛々しい文官が姫の代わりに受け取り、銀の匙に一口すくって毒見をしてから主人に手渡した。

 姫は怯えているように見える。淡い紫水晶の瞳で追われた兎のように辺りを窺っていたし、人払いが済むまで一度も口をきかなかった。よほど警戒する事があるらしい。

 椅子に深く座り込み、溜息をひとつ吐くと、ようやく口を開いた。

「ここには、闇の民に関する文書があると聞きました」

「ええ、はい。まっとうな文書という形ではございませんが、幾許かの紙片でしたらございます。しかし、あれはお伽噺の類でございまして、学術的な価値は……」

「委細はよい。すぐに持ってまいれ!」

 金髪の従者に鋭く命じられ、塔の長は渋々の態で、扉の向こうに控えていた弟子に所望された資料を取りに行かせた。届くのを待つ間も、姫は黙然と、両手で包んだ銀杯の中の葡萄酒を見つめていた。暖炉の火が可憐な顔をゆらゆらと照らしている。揺れる光はなんともなしに物悲しかった。

 若い学徒が控え目に扉を叩き、くだんの物を塔の長に手渡すと、そそくさと逃げるように出て行く。金髪の従者が不躾にそれを引っ手繰り、銀杯と引き換えに主に差し出した。

「どうぞ、姫様」

 こくん、と頷いて、彼女は丸められていた文書を開いた。

 古い羊皮紙には、贅沢な金文字が躍っていた。美しい拵え。貴族の子女向けの絵物語の一部のようだ。高価な色顔料で描かれた絵の中心には奇怪な黒い獣とひとりの人間がいる。


『ひとつ、彼等は長命ではあるが不死ではない。魔物と契約を結び、心を映した姿でかりそめの命を生きている。幼き者も、若き者も、年経た者も、男も女もいる。

 ひとつ、彼等は喰われる。魔物は願いを叶え続けるが、その願いによって満たされた魂は魔物の力を強める秘薬となる。喰われるために、彼等は願い続ける。

 ひとつ、彼等を見分けるには瞳を見よ。彼等の瞳は虹を宿している。魔物との契約の証は揺れる虹の色となって現れる。

 魔物との契約は魂の婚姻である。魔物を愛し、信じ、己をさらけ出し、すべてを委ねねばならない。契約を望む者は正直であれ。

 願いを唱える前に恐れを抱けば殺される。

 偽りの願いを唱えても殺される。

 乗り越えよ、試練は最初の願いだけである。

 最初の願いが届きさえすれば、そなたは【闇の民(ヴァンディール)】となる。

 魔物に喰われ、魔物の力となるその日まで、魔物は常に側に在り、そなたを愛し、護り、願いを叶え続けるだろう……』


 短い詩歌。珍しくも無い炉部の昔語り、ただの言い伝えだ。それでも、これを、彼女は探していた。やっと満足のいくものに巡り合えた。断片ではない、欠けの無い完全な詩歌。

「闇の民……ヴァンディール。これが、お兄様の……」

 姫は愛しむような不思議な眼差しで虚空を見つめた。

「もうよい。用は済んだ。戻ります」

 毛皮のマントをひるがえらせて彼女は立ち上がり、金髪の従者もすぐさま主に従った。

「おまちください。ただいま歓待の宴を用意させておりますので」

「姫様がよいと仰っている。それ以上言うな」

 しかし、姫様は塔の財産である貴重な文書を持ったままだ。さして古くも無く、価値の高い物でもないが、それでも保管すべき古き資料のひとつである。なんとか遠回しに取り返そうと、塔の長は狼狽えて追い縋ったが、金髪の従者は取り合わなかった。気紛れな領主の嵐のような来訪は、かくの如く、あまりにも呆気なく終わった。

 そして、再び季節は巡る──


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