5:アリス曰く
その日、アリス・ルーグはダイル男爵家の邸宅にいた。
父であるルーグ伯爵がダイル男爵領のカカオを買い付けに行くと言うので、後学のために同行したのだ。
「ようこそお越しくださいました、ルーグ様」
「すまない、ダイル殿。突然娘も連れてきてしまって…」
「いえいえ、とんでもございません」
下卑た笑みを浮かべながら、男爵は舐めるように美しいアリスを見る。
その視線を不快に感じながらも、アリスも伯爵も眉一つ動かさず、完璧な笑顔を貼り付けたまま男爵と言葉を交わす。
「そういえば、お嬢様はアカデミーに通っていらっしゃるのでしたな?」
男爵はチラリとアリスの方を見た。
アリスは隣の父に促され、言葉を返す。
「はい。ご子息にもいつもお世話になっております」
本当は会話もした事など無いが、アリスは息を吐くように嘘をつく。
「ほう、アレの存在をご存知でしたか」
「もちろんですわ、学友ですもの」
「あのような容姿で、特に秀でた才能もない男を貴方のような方が気に留めてくださるなど、光栄な事です」
アリスは男爵の反応に首をかしげた。
たしかに話した事はないが、彼女の認識ではキース・ダイルという男はかなり優秀な部類だ。
「彼の学園の成績は上から数えたほうが早いくらいに優秀ですよ?彼はいつも成績上位者の欄に名前が載りますし、彼を知らぬ者の方が少ないのではないでしょうか」
「いやいや、筆記試験の成績だけでしょう?」
「成績が貼り出されるのは筆記試験のみですので…」
「筆記試験の結果などいくら良かろうと、意味はないでしょう。アレは魔力があるというから一応アカデミーには入れましたが、あんなに魔法の才能がないとは恥ずかしい限りです」
男爵は嘲笑うように言う。
アリスは不快な気分になったものの、表情は崩さなかった。
『魔法学園』と名乗っているせいか、アカデミーの外では、魔法の実技試験の成績が重要視されがちだ。
だが、魔法の才能は持って生まれた魔力量に大きく左右される。勿論魔力量が多いに越した事はなく、魔法の才能に秀でたものは宮廷魔導士になることも夢ではない。
だが、アカデミーでの成績の付け方は、公平を期すために、魔力量の差という本人の努力ではどうしようもない者に左右される実技試験の結果はさほど重要視されない。
それよりも、本人と取り組み次第でどうとでもなる筆記試験の成績のほうが、よほど重要な項目だ。
アカデミーで上から数えた方が早いほどの成績を修めるなどそう簡単にできることではない。
魔法の才能に恵まれなかったキースは、父の期待に応えようと、せめて筆記試験だけでも良い成績を残そうとしてとても努力していた。
その彼の努力を見ようともしない父親に、アリスはまるで自分の努力まで否定されたような気分になった。
(…毒親か)
アリスは心の中で悪態をついた。
伯爵と男爵が暫く中身のない会話をした後、カカオの買い付けという本題に移ろうとしたところで突然、バンッと何かを叩くような大きな音がした。
何やら部屋の外が騒がしい。
人が大声で叫ぶような声も聞こえる。
怪訝な顔をする伯爵に気圧されたのか、男爵は慌てて二人に謝罪すると、外の様子を確認するため、断りを入れて一時退室した。
アリスはその隙に、男爵に気づかれないよう【式】を飛ばした。
そして、【式】を通じて廊下の様子見る。
『何故貴方が私のイヤリングを持っているのよ!盗んだのね!この泥棒!』
『ち、ちがいます!奥様!書庫の掃除をしていたときに見つけたのです!お母様が失くされたと沈んでいらっしゃったので、すぐにお届けせねばと…』
『嘘おっしゃい!私は書庫になど行っておりませんわ!やはり蛙の子は蛙。泥棒猫の息子は泥棒ね!』
『や、やめてくださいお母様!殴らないで…。痛い、痛いです』
『お母様と呼ばないでと何度言ったらわかるのよ!』
『も、申し訳ありません奥様』
もっさりとした髪型の少年が、奥方らしき女性に殴られていた。
ヒステリックに叫ぶ奥方と、彼が殴られる様子を遠くから眺めるだけの使用人。
そして、その奥には薄気味悪い笑みを浮かべた少年より少し年上に見える男がいた。
『やめないか!お前たち!お客様が来ているのだぞ!』
そこに男爵が血相を変えて仲裁に入る。
男爵は少年を気遣う事なく、奥方を奥の部屋へと連れて行く。
薄気味悪い笑みの男はいつの間にかいなくなり、使用人たちは散り散りに仕事に戻った。
少年一人、殴られた拍子に飛んだメガネを手探りで探す。
彼の虚ろな瞳はふと、宙を見た。
(キース・ダイル…)
アリスは彼と【式】越しに視線が合ったような気がした。
アリスはすぐに【式】戻すと、手元に戻ってきたそれを握りしめ、彼女は顔を伏せた。肩は震え、頬は少し赤く染まっていた。
「アリス、どうした?何を見た?」
伯爵は、珍しく動揺を見せる娘に何か重要なことを見たのだと察する。
「…お父様。お願いがあります」
アリスは小さく呟いた。
「お父様。私、キース・ダイルが欲しいです」
その後、伯爵は珍しくおねだりをした娘の願いを叶えるため奔走し、最短で全ての手続きを終えた。
アリスとキースの婚約はあっという間に成立したのだ。本人のあずかり知らぬところで。
***
アリスは【式】の事は伏せ、その時の廊下での会話が聞こえていた体で、ダイル男爵家で見た事を説明した。
「では…、やはりアリス様は僕の事を思って…」
キースはアリスの話を聞き、自分が母に殴られる場面を見て、男爵家から助けるために婚約してくれたと思った。
だが、アリスは慌ててそれを否定する。
「違うわ。妙な勘違いをしないでちょうだい」
「では何故婚約を」
「好きになったからよ」
「嘘ですね」
自分の好意をあっさりと否定するキースに、アリスは思わず口を尖らせた。
「アリスがそんな顔をするなんて珍しいこともあるものね」
「何よマーガレット。自分の好意を否定されたら誰だってむくれるわ」
「アリスの好きは胡散臭いのよ」
「失礼ね。ちゃんと好きよ」
「じゃあどこが好きなのよ」
「マーガレットと似ているところ」
その言葉にマーガレットは頬を赤らめた。
対するキースは怪訝な顔をする。
マーガレットと似ているから好きというのは、つまりマーガレットが好きと言っているようなもので、キースは複雑な心境だった。
「マーガレットさんと似ているところなどないように思いますが…」
「似ているわ。貴族らしくないところが」
「確かに僕は貴族らしくはありませんが…」
「あ、容姿や振る舞いのことではないのよ」
「ではどういう…」
アリスは頭の上にクエスチョンマークを浮かべるキースの姿に、自然と笑みが溢れた。
その笑みに、キースは顔を赤くする。
「あの時、貴方は奥方様の大事なイヤリングを見つけたからすぐに渡さねばと思って、彼女に届けたのでしょう?」
「…はい」
母には信じてもらえなかったが、キースは母がイヤリングを無くしたことを落ち込んでいると知っており、すぐに届けてあげなければと思ったのだ。
「そういうところが、素敵だと思ったのよ」
「どういうことですか?」
「自分の事を虐げている人が大事にしているものを見つけて、『コレを無くして落ち込んでいるから早く届けなくては』なんて普通思えないわ。なんて優しいひとなんだろうって思ったのよ」
自分に暴力を振るう人物の大事なものを見つけたら、それを隠したり捨てたりしてもおかしくない。
けれどキースは、『奥方のため』にイヤリングを届けたのだ。
母の愛情を信じたい故の行動だったのかも知れないが、アリスにはその行動がとても新鮮だった。
陰謀渦巻く貴族社会で生きるアリスにとって、純粋な心はとても美しく見えるのだ。
「貴方といると癒してもらえそうな気がしたの。私はルーグ伯爵の娘として、悪意に満ちた貴族社会で一生生きていく。だから近くにいる人は純粋で優しい人がいいなって思っていたの」
アリスはそう言うと、そっとキースの髪に触れた。
そして手を滑らせると、そのまま彼の眼鏡を外す。
「後は、貴方のこの目が欲しいと思って」
キースの真っ黒な瞳を見つめ、妖艶に微笑むアリスの美しさにマーガレットは息を飲み、キースは顔を真っ赤にした。
「え、抉り取れと…?」
「違うわよ」
「とても素敵な目をしているから、その目を持つ貴方が私のものになれば良いのにと思っただけよ」
動揺しているのか、小刻みに震えるキース。
アリスはその姿が、可愛いうさぎのように見えてプッと吹き出してしまった。
「まあ、性格がどうのこうのと言ったけれど、白状するなら目があった瞬間、囚われてしまったのよ。一目惚れみたいなものね」
そう言って、アリスは眼鏡を返す。
いつもクールなアリスがクスクスと笑う姿を見て、マーガレットは力が抜けたようにその場にへたり込む。
「アリスは本当にその男が好きなの?」
憧れのアリスがこんな芋くさい男に本気で惚れているなど信じたくなかった。
アリスはマーガレットの前に立つと、彼女の手を取り、優しく語りかける。
「マーガレット、貴女が私のことを思ってくれているのはとても嬉しいわ。けれど思い込みで行動してはダメよ。私は本当にただ、自分の欲しい男を金で買っただけよ。本人の許諾も得ずにね」
アリスは自嘲じみた笑みを浮かべる。
たしかに伯爵家へ住まいを移させたのは、虐待の疑いがあったからだが、あくまでも彼女は自分のためにキースを手に入れたに過ぎない。
「マーガレットは私に夢を見過ぎなのよ」
「…そうね。そうかもしれないわ。ごめんなさい、アリス」
「謝るのは私にではないわ」
マーガレットは叱られた子どものようにしょんぼりしながら、キースに頭を下げた。
「思い込みで酷いことを言ってごめんなさい」
「い、いいんですよ。マーガレットさんのおっしゃる事は確かに正しかったですし…」
そして、アリスもマーガレットの横に並び、頭を下げた。
「キース、私もごめんなさい。貴方の意思も聞かずにことを進めてしまって…」
「アリス様まで、やめてください!僕はアリス様が家から連れ出してくださった事には感謝してるんですから…」
謝罪をするのは慣れているが、されるのは慣れていないキースは、立て続けに二人から謝罪されて狼狽する。
アリスはゆっくり顔を上げると、熱を帯びた視線を彼に向けた。
「感謝、だけ?」
「え!?」
「私は今さっき、貴方に告白したのだけれど」
「えっと…」
「返事はくださらないのかしら?」
ジリジリと近づいてくるアリスに、顔を赤くしながら後ずさるキース。
アリスほど完璧な令嬢が、自分如きを好いているなど天にも登る気持ちだが、正直どうしていいのかわからない。
「キース・ダイル!ハッキリなさい」
マーガレットは、はっきりしないキースに苛立ち思わず叫んでしまった。
アリスがジトッとした目で彼女を見る。
しかし、キースには効果があったらしく彼は静かに深呼吸すると、アリスの前に跪いた。
「アリス・ルーグ伯爵令嬢。生涯貴女のそばにいる事をお許しいただけますか?」
「もちろんですわ、キース」
アリスは悪戯な笑みを浮かべると、不意にキースの唇を封じた。
「な!?」
キースは目を見開いて口をパクパクさせる。
その姿に、アリスは思わず「可愛い」と呟いた。
ふとマーガレットの方を見ると、顔を真っ赤にしてその場に倒れ込んでいた。
「どうして貴女が卒倒するのよ」
アリスは久しぶりに声を上げて笑った。
***
その日の夜、ふかふかの布団に入ったキースはまだ高揚していた。
(アリス様がこんな僕のことを好きだなんて…)
キースは微睡の中で、ふと、いつ自分は彼女と目を合わせたのだろうと不思議に思ったが、気にしないことにした。