第三章
まだ怖くはならない。
闘:
特定の場所を過ぎると、周囲の様相が一気に変わるというのが時々ある。
国境の長いトンネルが最も著名なそれであろうし、身近なところでは、パチンコ店の中と外だとか。
藤井隼には、初めて沖縄へ旅行に行った時のことが思い出された。飛行機のドアを抜けた瞬間、南国の熱気が一気に全身を包み込んだ感触を、隼は十年経った今でも鮮明に思い出せる。
一流企業のサラリーマンとして、忙しくも満ち足りた日々を送る隼は、愛車で国道を走っていた。
金曜日の夜は、街中こそ遅くまで騒がしいものであるが、繁華街を離れてしまえばいつもと同じ静かな深夜である。土日が好天の大潮と知った隼は、久々に釣り竿を担ぎ、金曜の夜から出発して、大きな釣果に期待を膨らませているのだった。
ノリノリなロックのナンバーを流しながら、眠気覚ましの缶コーヒーを時折啜って、隼は目的地へと向かう。その道中、街外れの交差点で信号停車。
普段は通らない道筋であるため、隼は今までこの交差点で停車したことはなかった。そもそも、夜間に通行したこと自体初めてかもしれない。
隼以外に、交差点には誰も見当たらない。深夜の街外れならば、何も珍しくない。
「ほう」
そこで隼は、この交差点を境に、周囲が急に暗くなることに気付いた。なるほど駅のある方からこの交差点までは、道路沿いに民家なども多く、夜間でもそれなりに明るいが、ここから先は民家もまばらになり、道路沿いには林と水田が交互に続く様相となる。
田舎と呼んでも差し支えないような小さな地方都市から、本当に田舎になる境界線。それがこの交差点であった。
「こりゃライト上げても走れるな」
民家も少なくなればいよいよ眠気を誘われそうな気がした隼は、独り言ちることで意識を保とうとした。考えてみれば、月曜日から金曜日まで一生懸命に働いて、そのまま休むこともせずに出かけているのであるから、まだ若い隼といえども疲労と眠気がそれなりに強い。缶コーヒーをまた一口飲み、車のライトをハイビームに切り替えて、信号が変わるのを待つ。
数秒して、信号から青色が発せられたのを確認し、隼はアクセルを踏み込む。
オートマチックでギアが二速に切り換わった、その瞬間だった。隼の視界の右端に、何かが見えた気がした。
ゴッ、と、低い音と不気味な振動が、車を通して隼にも伝わって来る。
彼の眠気は一瞬で、完全に吹き飛んでしまった。
「しまった……!」
何か撥ねた! そう思った隼は、後方に注意しつつ車を降りる。
「あァッ!」
彼の愛車の右前方に、黒い服を着た女性がうつ伏せに倒れているのを見、隼は心臓の奥に冷たいものが流れるのを感じた。
「大丈夫ですか!?」
すぐに女性に駆け寄り、反応を窺う。
しかし、女性から返事はない。
「もしもし! 大丈夫ですか!?」
再度呼び掛け、肩を軽く叩くが、一切反応がない。それどころか、肩を叩いても揺すっても、まるで生気が感じられない。
「まさか……」
最悪の結果を想像して、震える手で女性を抱えた。
しかし、隼が次の瞬間に見たものは、予想外のものだった。
「……え?」
見開かれたままの目、力なく垂れ下がった手、呼吸も脈拍も一切感じられない。低速での衝突にも関わらず、女性は完全に死んでいた。
――否、そうではない。
その女性――女性型のそれは、最初から生命体などではなかった。
「……人形?」
背丈こそ成人女性と全く変わらず、精巧に作り込まれてこそいるが、それは完全な作り物、人形であった。
「な、なんで?」
これが人形であることはわかったが、ならばなぜこれが車の前に飛び出し、衝突したのか。
隼は周囲を見回すが、やはり誰もいない。
状況の気味悪さが隼の胸中を支配し、身動きが取れない。警戒心と不安ばかりが渦巻いていた。
隼が正気に戻ったのは、数分後にやってきた後続車の運転手である四十代の男性に、ラブドールを抱えて車道の真ん中でしゃがみ込む自分の姿を見られた時だった。
まだ怖くはならない。