一夜 月のない夜
月のない夜は、星の明かりだけが頼りだ。
穏やかさと安堵を帯びる月明かりとは違い、心に僅かな不安を覚えてしまう。
そんな感情に揺れながら黒い猫の獣人、黒曜は細い路地を歩く。
左手には自身の手に収まるサイズの濃紺の手帳。
「確かこの辺りらしいけど、まだ足りないな」
手帳に記してある情報に視線を落とし、疲れの色がついた溜め息が溢れる。
多くの獣人種が存在する世界ーー儀都 では、治安を直接維持するシステムは存在しない。
【弱き者は強き者に従う】などという遠い昔の概念が今も燻りを残しているのだと、幼い頃両親が教えてくれたものだが、そんな概念では世界の安定は難しい。
それは各々の土地を管理する領主達も理解していたらしく、二千年程前に儀都全域に共通するとある機関が設立された。
世界共通治安維持管理機関、別名【リスト】である。
リストは儀都に住む一般住民から治安に関する情報、簡単に言うなら治安悪化に関係する人物の情報を常に求めている。
住民も治安の良い環境を常に求めているので、情報の集まりは良いらしい。
住民から届けられた情報は重要と判断されたものだけをリストの管理者が五つのランクに分け、その後報酬と詳細を各地に点在するリストの系列機関に送り届けられる。
それを確認した報酬目当ての者達が各々で仕事をして、リストへと届け報酬を貰う。
そうして治安が守られているのだから、良く出来ている仕組みだと思う。
需要があるから供給がある。
治安を荒らす者がいるから、それらを処罰する者が現れる。
荒らす者は狩られ、処罰するものは狩りを行う。
当然処罰する者が荒らす者に命を奪われるケースもあるが、命を奪い合うような事をしているのだからそれも受け入れるしかない。
「今回は情報が少なかったな」
小さく一人呟く黒曜の言葉は、冷えた夜風に白く舞いふわりと消えてゆく。
手帳にはリストから手に入れた現在追っている人物の簡易な情報と、それらを元に黒曜が探し集めたいくつかの情報と数枚の写真が収まっている。
そして今現在黒曜の追っている人物こそ、報酬と引き換えにリストから依頼されている対象人物だ。
路地を進んで行くと、人の多い通りが見えてきた。
通りの両側には様々な店舗が土地を余さぬよう建ち並んでいる。
行き交う人々を柔らかく温めるよう、橙色の街灯が一定の距離を保ち周囲に灯りを浮かべていた。
街灯の作りはガスを利用したものだと幼い頃聞いた事を思い出して、ガス灯の灯りは何故あんなにも優しいのかと思いを抱いてしまう。こんな感情を抱くのは少し不思議な感じだ。
(っと、そんな事考えている場合じゃなかったな…)
通りに出るまであと三歩程の位置で、黒曜は踏みとどまる。
これ以上進めば、せっかくの路地内にある薄闇を無駄にしてしまう。
手帳の情報では黒曜の狙っている人物は、向かいに見える薄茶色のアンティーク雑貨店の隣に並ぶ、生花店によく現れるらしい。
生花店から見るとこの路地が死角となる事は、昨日の昼に確認をしておいた。
その為こちらに気づかれる可能性は、かなり低いだろう。
それでも息を殺してしまうのは、この仕事をはじめた頃からの癖と言える。
別に悪い癖ではないだろう。どんな状況でも慎重に警戒して損はない。
常に抜けないという事は、逆に言えば睡眠時や食事中も隙を見せず、自身の身の安全と仕事中のミスを減らす事に繋がる。何の問題もないのだから気にする必要はないはずだ。
人によっては疲れを感じるらしいが、黒曜にはよくわからない。
「そろそろ現れても良い頃だな…」
黒曜が腰のベルトに繋いである懐中時計を確認すると、時刻は二十二時をまわろうとしていた。
この辺りの情報屋から買った話では今の時間帯が一番現れやすいらしいが、本当に現れるとはかぎらない。
情報屋は利益第一主義の者が多く、基本的に売る相手を選ばないとの噂だ。
つまり、黒曜のような狩る者達、狩る者に追われる者達、そして一般住民もリストも関係なく多くの者に情報を売り買いする。
その上真実と嘘が混ざっている事がほとんどで、買う側は常に見極めと駆け引きが必要となる。
それゆえ、情報屋の話は一概に信用などあってないようなものだ。