名前
あれから数日経ち、何度かビーストの元にいって傷の手当をした。
チトの生い立ちを知らないからか、チトはビーストと話しやすかったし、話すことの楽しさというものを久々に感じるようになった。
ビーストの肩辺りに背中を預け、話をするのがチトの日課になったほどだ。
彼の毛は温かくて優しくて、母親に抱かれているようだった。
「おい、チト! おまえ、最近何処いってんだよ」
明るい栗色の髪をした少年が、ビーストの場所へいそぐチトに駆け寄ってきた。
チトは翡翠の瞳で少年を一瞥して「別に」と愛想も無く言う。
彼はティノだ。身長は150センチ程で、人懐っこい笑みを浮かべている。
「そんな意地悪いうなよー。あ、これ、パン屋のおばさんからもらったんだ。いる?」
足早になったチトに自然と速度をあわせて、手に持っていた紙袋からパンを取り出す。
チトにはあまり手の届かないふんわりとした生地の丸いパンだった。
「……嬉しいけど、そんなことした父さんに怒られちゃうでしょ?」
困ったように息をついて、チトが立ち止まる。
ティノも立ち止まり、またニッと笑った。一体この人はいくつの笑いのバリエーションがあるのだろうと疑問に思う。
「チトの苦しい気持ち、分かるからさ。僕に出来ることなんてあんま無いけど、……あ、ほら、おいしいもの食べると少し気持ちが和らぐから」
そういって、紙袋にパンを戻すと、ティノはそれをチトに無理やり押し付けた。
「――ありがとう」
ティノは、ティノが10歳の頃に親が遠くに荷物を送るときに賊に襲われてなくなってしまった。それから暫くは一人で何でもやってやると意気ごんでいたが、10歳の少年に出来るはずも無く、しかも親の財産も豊かではなかったから、塞ぎこんでいき、みかねた村長が引き取った。
チトは去年、母親をなくした。父は元からいなかった。チトの場合はそれなりの財産と、生きる術を知っていたし、母が死ぬ前に何かあったら仕事をチトにさせてくれと頼んであったようだった。だから、何となく村人と壁のあるチトでも、ぎこちなくはあるが、生活に困ることは無かった。
「ま、本当にお前は立派にやってるよ。僕より一個しか違わないのにさ。……んで、いつも何してんだ。このごろ姿、あんま見かけないけど」
ティノとは格別仲良かったわけではないが、去年母が亡くなったことを切欠に何かと話しかけてくるようになった。
元々面倒見のいいお兄ちゃん気質だったこともあるのだろう。
ティノが、ぐっと顔を近づけて、内緒話をするように囁く。
「森に行ってるの、知ってるんだぜ」
どきりとした。
目を丸くして、ティノを見つめる。青色の瞳とぶつかった。
「え、えっと、……森のほうがね、ごはんとかおいしいし、……知ってるでしょう? 木の実がとれるから」
森は特別な事情がある限り立ち入り禁止。
それは村人が誰でも守っている村の、村を守る領主との約束だ。
だが、実際、村人も目を盗んで森には入っている。見張りがいるわけでもないし、進入は容易だった。
ふうん、とティノが疑わしそうに目を細める。
「そんなにいいのかよ」
「まあね、……ええっと、でも暮れる前には戻りたいから、じゃあ、またね! ありがとうね、パン」
口を尖らせて腕を組むティノを置いてけぼりにして、チトは走って、それから注意深く周りを見ながらビーストの元へと向かった。
▽▽
「俺の場所が分かるのか」
その日、ビーストのもとへ行くと突然そういわれた。
チトはわけがわからなくて、首をかしげる。
「なんでだろうね」
思えば道筋を記憶しようと思ったことは無い。初日は彗星を目印にしたが、それからは一回も迷うことなく此処に来れていた。
「どうして?」
「いや、なに、森の空間を切り離して場所を惑わしているのに、お前は毎日来るからな。まあ、この魔法を使うのも久しぶりだし、何か術式がおかしい可能性もあるか」
空間、切り離す、惑わす。
あまり聞きなれい言葉に曖昧に相槌をうつ。
が、魔法という言葉は分かった。今はそれほどではないが、昔は魔法使いという者たちが多く居たという。
彼らは精霊と契約して魔法を発動させたり、魔力そのものを吸収して魔法を編み出すなどして、超常現象のようなものを引き起こすのだ。
今は、魔法を発動できるほどの器を持つ人は少なくなってしまったという。
それでも、今でも「はじっこ」にも小規模魔法なら行使できる人がいるほどに、それなりの規模で存在している。
「私、魔法のけんさはしたことないけど、もしかして魔法の素質あるのかなぁ」
「どうだろうな、ただ、無意識に魔法を破る芸当が出来るほどの魔力や精霊の加護なんてものがあったら、俺が分かる……と、思う」
少し自信がなさそうな理由は手負いだからだろうか。
「もし魔法が使えたら色々ちがうんだろーなー」
ひとり言のように呟いて変哲の無い自分の手を見る。あかぎれやタコ、節々とした赤い手は、なんともいえない痛々しさがあった。
「……でも、ビーストって魔法使えるんだね」
「魔法、というより固有の能力といったほうが近いか。元からそういう能力があるんだ、巣を敵から守るためにとか、そういうので編み出された能力は種族の血に刻まれ、忘れ去られることは無い」
聞いたこと無い話にチトは目を丸くした。
「忘れないの?ずっと?」
「正確には、必要な過程もあるが、それさえ通過すればな」
やはりビーストは巨大なのだと思った。嘗て人類を滅ぼしかけた一味。
人間はそんなふうには出来ない。
それでも、やっぱり話を聞いてると憎みきれないものがあって、また彼の傷を心配して訪れるのだ。
村人が知ったらどう思うだろうか。
きっと恐れるに違いない。もしかすると殺しにくるかもしれない。
だから、これは内緒だ。
チトはふさがってきた傷口のかさぶたを撫でて、思う。
「傷が治ったら、もう此処からいなくなるの?」
「そうだな。元居たところに戻る」
そうだよね、と呟く。
思ったより素っ気無い声音が出て、自分で驚いた。
「じゃあ、あと少しだね」
返事のかわりにビーストは喉を鳴らした。
「――感謝するよ、人間の娘」
「……チトだよ」
そういえば自己紹介をしていなかったと思い、名前を言う。
「ああ、そうか、チト。――ありがとう、チト」
誰かに名前を呼ばれるのは嬉しい。チトは嬉しそうに目を細めて「此方こそ」と呟いた。
▽