彼女の香り
懐かしい香りが僕の鼻をかすめていった。
休日の人混みの中、たしかにあの香りが僕の鼻を通り過ぎた。とっさに周りを見渡して居るはずのない彼女の姿を当たり前のように探してしまった。あの香りが僕を通った瞬間、はっとするほど彼女の存在を感じた。だが、時間が経つにつれて香りは弱まり、どこかへと消えてしまった。
僕はまた一人ぼっちになってしまったことが寂しくなり人混みの中で足を止めて空を見上げると目に映るのは悔しいほどの夕暮れ。彼女がそばに居てくれないことをつい恨めしく思ってしまった。
――記憶とともに頭の中に残った香りはいつまでも離れない。
そんなことを誰かが話していた。忘れたい記憶も、香りが鼻をかすめればその香りとともに頭の中に溢れ出してくる。いまの僕はまさにそんな状態だった。
香りとともに溢れだした思い出は、香りが去っても僕の頭の中をぐるぐると回り続けている。
彼女が転職を機に引っ越した、夏は涼しく冬は寒かった日当たりがあまり良くない部屋。
海外ドラマを見ては、明け方に力尽きて眠ってしまっていたソファー。
一緒に買った一眼レフで、撮った写真を貼りまくった壁。
飲みに行って連絡がつかなくなった僕を、一晩中待っていてくれた玄関。
別れ話のとき、納得のいかない僕が叩いたテーブル。
いつも部屋にあった、リードディフューザー。
楽しかった記憶も、嫌な記憶も、すべて香りが僕の頭の中に運んできた。
アロマとか香水とかは、もともと得意ではなかった。というより、興味がなかった。彼女と付き合ってはじめて彼女の部屋に遊びに行った時に「キミが遊びに来るから、貰い物のやつ思い切って開けちゃった。ホワイトフローラルの香りだって。いい香りでしょ? 結構高いんだよ、それ」と言っていた。リッツカールトンやフォーシーズンズでも同じものを使っているとも言っていた。
確かにいい香りだった。彼女と過ごすだけでも充分だったが、彼女の部屋の香りも僕は好きだった。
仕事のストレスや嫌なことが全て忘れられる。大袈裟かもしれないけれど、そう思っていた。
彼女は僕のことをとても愛してくれた。もちろん、僕も彼女のことを愛していた。
愛し合っているからこそ、小さなすれ違いが誤解を招くことになった。
付き合い始めて二年が経ったころの十一月。僕が彼女の部屋に行くと彼女はあの香りの新しいリードディフューザーをあけたているところだった。
「ただいま。お、また新しいの買ってきたの」
部屋に入った僕は鞄を置いて、ソファーに座る彼女の隣に腰を下ろした。
「……」
彼女は無言のまま、リードディフューザーのアロマの蓋を開けて、アロマの入った瓶にリードを立てていた。
「どうした。何かあったの」
話しかけても彼女は僕の顔を見なかった。お互いに無言のまま一時間が過ぎたころにようやく彼女が口を開いた。
「あのさ……」
「ん、なに」
「私たち、もう別れようか」
「ちょ、ちょっと何でまた、そんな急に。どうした、なにかあった」
「キミのことは好きだよ。でも、好きだけじゃ一緒にいられないと思うんだ」
僕が彼女を見ると、彼女も僕のことを見ていた。その目からは涙がこぼれていた。
「好きなのに別れるのかよ。なんでよ、何かしたか」
僕は、彼女が別れを切り出した意味が全くわからなかった。わからないから納得ができなかった。
「何かしたとか、しないとかじゃないの。嫌いになりたくないから、別れたい」
「ちょっと待ってよ。意味がわからないよ」
「ごめんね。そうだよね、意味がわからないよね」
そう言うと、彼女は俯いてしまった。
僕はどうすればいいのかわからなくなった。俯いたまま泣いている彼女のことを抱きしめたいけれど、僕のことを拒否するかのように僕に背を向けてしまった。無言のままの部屋がとても居心地が悪くて、納得ができない僕の口からは、思ってもないことが口をついて出てしまった。
「もしかして、好きな人でもできた、のか」
僕の口から言葉が全て出たとき、僕は激しく後悔をした。でも、その後の彼女の言葉に僕はもっとその言葉を出してしまったことに後悔した。
「そうだよ。好きな人ができたんだよ。だから別れて」
「嘘だよな、好きな人ができたなんて。別れたいから嘘ついてるんだよな。そうだよな」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ。俺が好きな人でもできたのかって聞いたから、思わず嘘ついたんだよな」
「嘘じゃないって! だから、もう出て行ってよ」
彼女は僕のほうを振り向き、涙でぐしょぐしょの顔で僕のことを睨んだ。
「じゃあ、誰だよ。その好きな人ってどこの誰だよ。教えろよ」
僕は彼女が嘘までついて別れようとしている理由が全くわからなかった。
「教えるわけないでしょ。キミのことは好きだけど、キミ以外の人も好きになったの。だから、キミとはもう一緒にいられない。だから、別れてよ」
「わからないよ。好きな人ができたのは嘘なんだろ。本当は、なんで別れようって言い出したんだよ」
「本当に好きな人ができたの。キミが知らない人だよ」
彼女が泣き止むことは無かった。その後も彼女は、好きな人ができた。別れよう。出て行って。の繰り返しだった。部屋は、開けたばかりのリードディフューザーがいつもの香りで満たしていった。
僕は泣き止みそうのない彼女の肩を掴んで、僕と向かい合うようにして顔を覗き込んだ。
「わかったよ。そこまで言うなら別れよう。その代わり、別れたい本当の理由を教えてくれよ」
「好きな人が……」
そこまで彼女が言うと、僕は頭の中が真っ白になってしまった。
気が付くと部屋の中の香りがいつもよりきつい香りでいっぱいになっていた。足元を見るとテーブルから落ちたアロマオイルの瓶が転がっていた。
彼女は顔を手で覆ったままテーブルでだらりとしたまま動くことはなかった。
顔を覆っている指の間から、何本かオイルに立てていたはずのリードが出ていた。
僕はいまでもあの日、彼女が別れたいと言った理由がわからないままでいる。
そして、あの香りが僕の鼻を撫でるたびに、彼女の記憶が甦る。
―了―