13
マリー=アンジェの森には、昔から脈々と受け継がれている結界がある。その境界線にいくまでには深い深い森の中を通らなければならない。
恵理は森の入口の傍で車を止めた。
何時も優しく招き入れてくれていた森の様子は、どこか余所余所しく冷たかった。
車の中にフランシスを残して森に入った恵理。不満げなフランシスだったが、大好きな祖母から「良い子だから、言うことを聞いて」とお願いされ、唇を噛みしめてコクンと頷いたのだった。
素直に言うことを聞いてくれたフランシスに安堵した恵理は、独り森の中に入っていく。
恵理は知らない。祖母が森の中に入ったのを確認すると、そぉっと車を降りて、ちょこちょこと後を付ける小さな姿の事を……。森の中を進む恵理と、それを追いかける小さな影。
しかし、歩幅の違いはいかんともしがたく、小さな影は徐々に離されていった。
祖母の姿を見失ったフランシスだったが、行くのは何度も通い慣れた場所。見つからないように気をつけて、獣道をてくてく歩いて行った。
もう少しでマリー=アンジェの森の領域にたどり着くところまで来た恵理は、一人の青年に呼びとめられた。
「恵理……探したよ」
「っ!」
静かに掛けられた声。その声の主を見た恵理は絶句する。
目の前に居るのは、十七年前と同じ姿の弓人だった。彼は恵理を見ると、にこやかに微笑んだ。
「何故……何故、此処に?」
「恵理の匂いを辿ってきたら、こんなに遠くまで来たよ」
苦労したんだと言わんばかりの青年の言葉に、恵理は首を振って後ずさった。
弓人は、何故恵理が離れて行くのか分からないのか、大きく一歩、恵理に近付いた。
「あの邪魔な男は、排除してあげたよ―――もう、俺とキミを邪魔するものはいないんだ」
「い……嫌よ」
「里のみんなも待ってるよ。ねぇ、恵理」
首を振って嫌がる恵理を不思議そうに見る弓人。
「もうそんな嫌がる振りなんてしなくていいんだよ。他にも邪魔をするヤツがいるんだったら、全部俺が退治してあげる―――あの忌々しい男だって、あの飛行機ごと消してあげただろう?」
「飛行機事故……もしかして、シリスを!」
無邪気に笑う青年。恵理は彼の台詞が信じられなくて、自分の耳を疑った。
恵理の驚愕をキョトンとした目で見た弓人。
「ねぇ、シリスを……貴方はシリスを知っているの?」
否定してほしい気持ちと、否定されないだろうと推測できる哀しさ。恵理はこぼれそうになる涙を堪えて、弓人をジッと見た。
恵理に見つめられて、弓人は嬉しそうに笑う。
「あぁ……あの嫌なにおいの男だろう。馬鹿な奴だよな。狐の鼻を甘く見やがって……恵理の匂いを漂わせて、東京別社に参拝に来たんだよ」
「そんな……」
自分の香りと聞いて考えられるのは毎年贈っているお守り。自分の祈りを込めたソレが、シリスの死期を早め、この男に殺されてしまう原因になったことを知ると、恵理は崩れ落ちた。
弓人は恵理の様子を気にした様子もなく、自慢げに言葉を続けた。
「そいつの後を付けて、この近くの空港まで来た時、恵理の匂いのする森を見つけたんだ……用済みになったから、飛行機ごとアイツを消したんだ」
自分の贈り物が彼の死期を早めてしまったのだと知った恵理は泣き崩れた。
「ねぇ、恵理。早く里に帰ろうよ。あの忌々しい西洋妖魔がキミを隠してしまったから、里のみんな、心配してたんだよ」
「ダメよ……私は、日本には帰れない」
恵理の返事に弓人は顔を歪めた。
「この森だね? この森に恵理をこの地にとどめる何かがあるんだね?」
「ち、違うわっ!」
弓人は邪気のない笑みを浮かべると、マリー=アンジェの森の方をチラリと見た。
弓人の視線の動きに合わせて、恵理も森の奥を見る。
「胡桃の呪木かな? ノコノコと出てきたよ」
弓人が呟いた瞬間、森に重低音が響き渡り、稲光が木を貫く。恵理の鋭敏な嗅覚が生木の焦げる臭いを捕らえた。
思わず恵理が妖怪の姿に戻り、境界に向かって駆け出した。
弓人は慌てた様子もなく、ふわりと浮きあがるとスーッと進みだす。楽々と彼女を追い抜き、小川の中に居る少年と若い女を見つけ出す。
追いかけてきた恵理が人間の姿に戻り、危険を知らせようと口を開く。
川の中に居る少年が弓人を気づかわしそうに見て、声をかけてきた。
「おぃ、あんた、此処は危な……」
「キミが、恵理を外国に縛り付ける心残り?」
にっこりと笑って尋ねる弓人。
後ろから恵理の叫び声が響いた。
「逃げてっ!」
「エリーママン?」
少年が何処か嬉しそうに恵理を見る行為に虫唾が走る。
「ダメだよ、恵理……俺以外を見ちゃ……」
少年の身体を雷が貫く。
自分の身体に起こった現実に、ついていけない少年が不思議そうに視線を彷徨わせる。
「クルミッー!」
「坊やっ!」
二人の女性の叫び声が木霊した。
弓人はニッコリと微笑んで、ボロボロの女を見た。
「キミは……日本の妖怪のように見えるけど?」
「弓人、止めて……」
涙ながらに恵理が懇願する。
それを不思議そうに弓人は眺めた。
「どうして泣くの? 邪魔ものは排除しなきゃ、帰れないでしょ?」
弓人の言葉に首を振った恵理は、走り寄ると小川の中で動けなくなっている露紅と彼の間に割り込む。
「もう……止めて」
「俺はね、学んだんだ……禍根は根っこから絶たなきゃいけないんだってね。この森が、恵理の心をとらえて離さないなら、無くさないといけないよね」
自分以外に心の中に住まうモノがあってはならないと、弓人は晴れやかな笑みで告げた。
「く、狂ってるわ……」
思わず露紅の口から洩れた言葉。
弓人が目を細めて、ぐるりと森を見渡す。
「一本残らず、消し炭にしてあげるよ」
彼の言葉に、森がざわめく。
ゴォッと強風が森を駆け抜け弓人を襲ったが、弓人が無造作に腕を振ると、風撃が霧散した。
「森を傷つけるのは、アナタ?」
ゆらりと空間が歪み、現れたのは全身濡れそぼった半人半蛇の少女。銀色の鱗が白くきらめく。
その姿を見た恵理は力いっぱい叫んだ。
「ダメ、リトルマリー……森に、森に戻って!」
静かに首を振るマリー=アンジェ。キッと弓人を睨んだ。
震える声で露紅は呟く。
「今の状態じゃ……危険なのよ」
繭から出たばかりのドルイドは、身を守る魔力が弱くとても無防備だ。
それでなくても、マリー=アンジェは魔力が足りなく、孵化出来なかったのだ。
そんな不完全な状態で出て来なければならなかったのは、森に危険が迫っているからなのだろうが、万全でない状態で、この男に勝てるはずがない。
「そんな状態で戦えないわ」
「結界の中へ」
二人の声に、マリー=アンジェは首を振って、「私の森は私が守るわ」と宣言して、木々の枝や絡まるツタを伸ばし、弓人を拘束しようとする。
マリー=アンジェの求めに応じた森精たち(アルセイデス)や木精も、彼女とともに弓人に攻撃する。
「この森の主ってワケ―――なら、キミを殺せば、恵理は戻ってこられるんだね」
ふんわりと微笑んだ弓人は、軽やかにそれらをかわすと、マリーに雷撃をくらわした。
マリーの叫び声と恵理と露紅の悲鳴が森に響く。
「なんで……マリーねえちゃまを、いじめりゅの?」
後ろから聞こえてきた幼い声。弓人が振り返ると柔らかな黒髪の何処か恵理によく似た幼子がポツンと立っていた。
「ねぇ、なんで……ぼくのたいしぇちゅなひと、いじめりゅの?」
「フランっ、来ちゃダメ!」
「恵理の……子? ねぇ、なんで子供なんているの?」
恵理の叫び声と平坦な弓人の声。
ギリリと歯を噛みしめると、憎々しげに「あの嫌なヤツとの子か?」と呟いた。
その憎しみに満ちた声に、その場にいた三人の女性の背筋が凍った。
「邪魔なのは、この森だけじゃなかったんだね―――一番の禍根は、この子供なの? 無理やり作らされた枷、なんだね」
ブワリと青年の身体が膨れ上がり、バチバチとした白い光を纏った大人の背ほどの巨大な狐が出現した。
「大丈夫、枷は、俺が壊してあげる」
とても優しい声が獣の口から零れた。
その言葉の内容に恵理は真っ青になり叫んだ。
「やめて! それだけはやめてっ!」
弓人の身体に縋ったが、彼の身体を覆う電気を帯びた光に弾かれてしまった。
森精たち(アルセイデス)や木精たち(ドリュアデス)も弓人を攻撃するが、彼にダメージを負わせることは出来なく、逆に鬱陶しそうに振りはらわれ、感電させられてしまう。
マリー=アンジェもフランシスを助けようとするが、雷によってしびれた身体は思うように動かせなかった。
彼女の意を汲んで精霊たちが襲いかかるが、弓人の牙や爪によって霧散して行く。
露紅は反物の姿へと変化し、歩き出す弓人の足に巻き付いたが、彼が勢いよく足を動かすとビリリと破けてしまった。
傷ついていく大切な人たちの姿にフランシスは駆け出した。
向かってくるフランシスを迎え撃つように態勢を低くして構える弓人。
フランシスは獣道を走った。道に張り出した小さな枝が、フランシスのスタイ代わりのバンダナを引っ張った。そのまま走ると、バンダナは耐え切れずに千切れて枝に残った。
フランシスの首から無くなる枷。
(あぁ……)
フランシスの中から外へ溢れだす膨大な妖気に、恵理は目を離せなかった。
ブワッと急激に力が満ち溢れ、押し寄せる知識や記憶の数々にフランシスはグラリとよろめいた。軽く頭を振って、自身の不調をねじ伏せ、目の前に立ちふさがる敵をキッと睨む。
「みんなを……たすけなきゃ」
自分にはその力があると確信するフランシス。
放たれた雷撃が襲ってくるが、ふわりとゆっくりとした仕草で避ける。バサリと背後に広がったのは六対の黒い翼。羽ばたけば、身体は空に浮かぶ。
手の中に渦巻いた力を獣に叩きつけた。力は突風となって獣に襲いかかり、獣の身体を吹き飛ばした。
噴き上がり空に飛ばされ、ガツンと地面にたたきつけられた獣は一度空中を舞い地面に投げ出された。
黒い翼はフランシスの身体の中に消え、フランシスは獣の末路を確認することなく走り出した。
「マリー! 大丈夫?」
一直線でマリー=アンジェのもとに向かったフランシス。
身体のあちこちを雷撃で黒く焼かれた少女の姿に、顔をくしゃくしゃにするのは見慣れたフランシスの顔で、ためらわず抱きついたマリー=アンジェ。
「フ、フラン……」
「大丈夫、安心して……あたしが助けてあげるわ」
確かに声はフランシスの物なのに、フランシスだとは思えない口調。そのアンバランスさにマリー=アンジェの身体は固まった。
「……アナタは、ダレ?」
ぼそりと呟いたマリー=アンジェの言葉は、森に響く恵理の悲鳴にかき消された。
フランシスが振り向くと、地面にたたきつけられた獣がゆったりと起き上がり、赤く光る目で彼を睨みつけていた。
「邪魔をするな、小僧。俺は……助けなきゃならないんだ」
フランシスに襲いかかろうとする獣。フランシスは慌てることもなく、マリー=アンジェを抱きしめ、小さな手で頭を撫でながら、歌う様に蛇たちに命じる。
「アレをあげるわ。たくさん遊んでいらっしゃい」
「風撃で叩きつければ、妖狐のタタキのいっちょ上がりだぜ」
「狐さん、苛めは良くないと思いますぅ」
「風撃で吹き飛ばせば、掃除終了じゃね」
「殲滅なう」
「かしこまりましたわ」
「腕が鳴りやがるなのぉ☆ らっぴぃが一番なのぉ♪」
フランシスの命令に色とりどりの六匹の蛇が彼の両肩から飛び出して、楽しげに獣に飛びかかっていった。
「宜しいのですか? アザゼル様?」
スルスルとフランシスの足元で鎌首をもたげた白い蛇が、幼子に問う。
「構わないわ。あたし、自分の玩具にちょっかい出されて黙っててあげるほど、優しくないもの―――あぁ、ガレーネ。お願いがあるの」
肩をすくめてフランシスが出した答えと願いに、白蛇は恭しく「御心のままに」と告げると草むらに消えて行った。




