12
拒絶するかのように立ち並んでいた木々が、その境を越えた瞬間、柔らかな光を帯びて、包み込むような雰囲気を漂わせた。
余りの違いに露紅は何度も振り返り、彼方と此方とを見比べる。
ミモザの花が咲き乱れ、奥へ誘う様に揺れる。足元に目を向ければ、柔らかな草が生い茂り、小さな白い花が転々と咲いていた。
黄色に彩られた獣道の奥、森の妖精たちに導かれるがままに歩みを進めれば、大きな泉のほとりにたどり着いた。
泉の中には心配そうに此方を見つめる人魚たちの姿。
泉の傍らには草が木々の間に生い茂り、まるで壁のようだった。その緑の壁の前に立っていた少年が、用心深そうに露紅を観察していた。
「オバサン、大丈夫だった?」
小生意気な少年の声。
露紅は呼吸を整えて、「助かったわ」と答えた。
油揚げに夢中になっていた獣から離れた時、とっさに放った幻覚の術。恵理に執着しているようだった獣に恵理の幻覚を見せ、彼女を数千の蝶の姿に変え、空へと飛ばした。
運よく獣は幻覚を追って遠ざかっていった。安心したのも束の間、術の媒体にと使った恵理から貰った守り袋を、術を使っている間に森の中に落としてしまった。
次は同じ術は使えないとため息をついて帰路につこうとした時に、森の妖精たちがこの場所へと誘ってくれたのだ。
「フェアリーたちってば、オバサンとエリーママンを勘違いしたみたいなんだ……あいつら、着物を着てりゃ、全部エリーママンだと勘違いしてやがる」
「坊や、恵理の友人よ、私」
悪態をつく少年に苦笑交じりに露紅は告げた。
眉をひそめる少年に、露紅は恵理の店『瑞穂庵』の事や妖怪ネットワークの事を説明した。
「―――ってわけで、恵理とは古くからの知り合いなのよ」
「ふーん」
恵理以外は興味がないのだろう、そっけない少年の態度に苦笑する。
「それで、一寸聞きたいんだけど、あの獣って何? 此処のガーディアンか何か?」
「なわけねぇだろっ!」
少年は嫌そうな顔を作った。
「アイツはユールが終わってインボルクに入る前に現れたんだ」
「ユール? インボルク?」
少年の言葉に露紅は首を傾げた。
「あぁ、えっと、なんて言うんだっけ……ユールってのがジャポネでいうトージって奴で、インボルクは?」
頭を抱え出した少年の姿に露紅はクスクス笑い出した。
ムッとして自分を睨みつける少年に、「ごめんなさい」と笑いながら謝る露紅。
「ユールって言うのが冬至、インボルクは……立春の頃かしら。冬至と春分の中間の頃よね」
「そう、なのか?」
露紅の言葉に首を傾げた少年。
露紅はブルゴーニュで出会った龍女から教えてもらったケルト暦を思い出した。
日本が季節の移ろいを二十四節季で分けるとしたら、ケルトの精霊たちは一年を八つの時期に分類していた。
サーウィン・インボルク・ベルティナ・ルーナサドと呼ばれる四つの節目と、それぞれの節目の真ん中に当たる冬至・春分・夏至・秋分の四つの時季。
サーウィンと呼ばれるのは、一年の終わりと始まりの日で、沢山の精霊たちが飛び交うと言われている。人間世界で言うとハロウィンの事で、キリスト教の宣教師たちが土着の祀りを『諸聖人と殉教者の霊をまつる日』として位置付けた。
森の主たるドルイドはサーウィンに精霊たちへ祝福を与え、ユールの頃に冬眠に入る。
インボルクになると動物たちが冬眠から目が覚め、虫たちが動き出し、植物が芽吹きだす。それに合わせてドルイドも目を覚ましすのだ。
「貴方が、この森のドルイド? 恵理からは蛇女の女の子って聞いてたんだけど?」
そうは見えないと頭から足先まで注視する露紅に、少年は勢い良く首を振った。
「違う! オレはエリーママンの胡桃の樹。この森のドルイドはマリー。でも、マリーが目覚めないんだ……」
恵理の知り合いと分かったからなのか、少年は心底困った顔を見せた。
「ドルイドが目覚めない?」
露紅は眉を寄せた。
ドルイドが目覚めなければ、森の草木は芽吹かず、森周辺の畑では種を蒔いても秋の実りは期待できない。
森の草木が生育出来なければ、森に住む虫や獣などの動物たちも食べる物が無くなってしまう。
次期ドルイドたる自身の子が居る場合は目覚めない場合もあるが、この森のドルイドは代替わりしたばかりだと聞いているから、ソレは無いだろうと露紅は考えた。
「……魔力枯れ?」
自然からの魔力を上手く吸収できなかったり、人間による都市開発で自然の魔力が枯渇してしまったりした場合、ドルイドが上手く魔力を貯めることが出来ず、目覚めないまま森全体が死んでしまうことがある。
露紅の友人でケルトについて教えてくれた件の龍女も、人間たちの身勝手な工場建設による公害で、魔力枯れを起こしてしまい、亡くなってしまったのだ。
「そういえば、一月は毎年、恵理はフランを連れて森に遊びに来ていたわね」
「あぁ……そういえば、この時期、エリーママンは遊びに来ると、マリーの繭に触ってたぜ」
今年は事故があったり、葬儀があったりと、森に行くどころではなかったため恵理も忘れてしまったのだろう。
恵理の状況を考えれば仕方がない事なのかもしれないが、この森の主である少女にとっては、あの飛行機事故はとてつもなくタイミングが悪かったと言わざるを得ない。
「拙いわね……坊や、ドルイドの繭に案内してもらえる? 私でも少しは手伝えるかもしれないわ」
露紅の問いかけに、少年はムッとしたように口を尖らせた。
「オバサン、オレは坊やじゃねぇよ。クルミって、エリーママンが付けてくれた名前があるんだ」
「あぁ、悪いわね、坊や」
にっこりと露紅は答えると、森の中をぐるりと見回す。
「こっちね」
そう言って、少年の後ろの緑の壁をかき分ければ、草に守られるように乳白色の繭がポツンとあった。木の葉から漏れる木漏れ日が繭に当たると、淡く虹色に輝く美しいソレに露紅は目を細めた。
「綺麗ね……」
そぉっと手を差し伸べる。
周りの精霊たちは露紅を繭に危害を加える相手だとは見做さなかった。ただジッと露紅の行為を見続ける。
シュルリと繭玉から光る糸が伸び、露紅の手に絡まった。キラキラと輝くそれは、露紅から魔力を奪うと繭の中に運んだ。
露紅の身体から力が抜け出し、ガクリと地面に膝をついた。
「オバサン……大丈夫かよ?」
「結構辛いわね」
正直に漏らす。
それでも腕に絡みつく糸を断ち切って逃げるほどではないと、近くの木の幹に持たれるように座りこんだ。
心配そうに此方を窺う精霊たち。その不安げな様子に露紅はクスリと笑う。
「そう心配しなくても大丈夫よ。本当にダメだったら、悪いけどこの糸を切らせてもらうから」
そう露紅が告げた時、ゾワリとした寒気が森全体を襲った。水の精霊たちは泉の中に沈み込み、木の精霊たちは自身の宿る樹木へと逃げ込んだ。
クルミは気丈にも森の外を睨む。
「また、アイツが戻ってきたみたいだ」
露紅は胡桃の差す『アイツ』が青白い光を纏った獣だと気付き、表情を曇らせた。
「もう少し持つかと思ったけど、幻術に気がついちゃったのかしら?」
「エリーママンの気配も近付いてくる!」
クルミの言葉に彼女の近況を知っている露紅は「そんなはずは……」と独りごちた。
森の境界の外に駆け出そうとするクルミを止めようとした露紅だったが、露紅が止める間もなくクルミは走り出した。
露紅の腕に絡まっていた光る糸は、スルリと拘束を緩めた。
繭に戻っていく糸に驚いた露紅だったが、それがクルミを止めて欲しいというドルイドの望みだと気が付くと「優しいのね」と呟いて、立ち上がった。
グラリと眩暈がしたが、気にせず妖怪の姿に戻る。一着の小袖がふわりと空を舞った。
「坊や、待ちなさい」
風に流されたわけではなく、確かな意思を持って空を翔ける小袖。
クルミが境界から外へ出た途端、突然、青白い稲光がクルミの身体目がけてへ落ちた。
慌ててクルミの姿を確認すれば、間一髪のところで稲妻をよけた彼が尻もちをついて地面に座り込んでいた。
その傍には、稲妻が当たって割れた木の幹があり、その割れ目から火がチョロチョロと見え隠れしていた。
火事になってしまうと辺りを見回せば、小さな川が流れているのを見つけ、慌てて自身を水に浸けて燃えている木に覆いかぶさった。
ジュワッと水蒸気が露紅の身体から沸き上がった。
「オ、オバサン……大丈夫なのかよっ!」
クルミが慌てた様子で露紅に駆け寄った。
「大丈夫……なんて、やせ我慢、するつもり、ないけど、ね。火を消さなきゃ、火事になったら、大変だわ」
文字通り、身を焦がしながら露紅は答える。答える声に力は無い。
ふわりと焦げた木から離れる小袖。幸い火は消えたようで、焦げた木からは煙一つ上がっていなかった。
クルミは露紅を抱えると川に飛び込んだ。
「オバサン……死なないよな」
心配そうなクルミの声に、「そう簡単に人を殺さないで」と露紅は苦笑した。
「私だって、妖怪のはしくれよ。あんな小さな炎で焼かれたくらい、如何ってことないわよ」
川の中から現れた露紅の姿にクルミは目を見開く。
あんなに綺麗だった露紅の黒髪は焦げて短くなっていた。見事な紅の着物は焼けて黒ずみ、所々穴があいてボロボロになっている。穴の向こうに見える肌も焼け爛れているのが見える。
「全然大丈夫じゃねぇだろぉ!」
叫ぶクルミに露紅は静かに諭す。
「坊や、結界の中に戻りなさい……見たところ、坊やに攻撃手段があるとは思えないわ」
「でもっ!」
「坊や、勇敢なのと無謀は違うのよ? 早く……」
露紅の言葉が不自然に切れたことをいぶかしむクルミ。彼女が自分の後ろを見て固まっているのを不思議に思って振り返ると、そこには一人の青年の姿があった。
「おぃ、あんた、此処は危な……」
「キミが、恵理を外国に縛り付ける心残り?」
「逃げてっ!」
クルミが青年に注意しようとすると、青年が首を傾げて訪ねてきた。
そして、青年の言葉にかぶせるように響く大好きな人の声にクルミは青年から目を離した。
「エリーママン?」
青年の遥か後ろに見える大好きな人の姿。久しぶりに目にするその姿に、クルミの口元に笑みが浮かんだ。
「ダメだよ、恵理……俺以外を見ちゃ……」
クルミの身体を雷が貫く。
クルミの耳が最後に拾ったのは大好きな人と、森を守って傷ついた女性が呼んだ自分の名前だった。




