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ジャポネ風ビストロ『瑞穂庵』では、いつものごとく、早朝からその日に使う豆腐を作っていた。
二階に間借りしている暇な九十九神たちは叩き起こされ、朝の仕込みを手伝わされている。
もちろん、みんなが皆料理上手というわけではない。料理が不得手な九十九神たちには、豆腐用の大豆をすり潰す作業が宛がわれる。
露紅は大豆をすり潰しながら、欠伸を噛み殺した。
昨夜は節分だからと皆で酒を飲んでいた。テーブルの上の歳の数ほどの豆の山をどうするか話し合いながら、恵方巻きを食べ、イワシの頭を店の入り口に飾りと、ドンチャン騒ぎを巻き起こしていたのだ。
「昨日も恵理、来なかったわね」
以前は毎日、料理が好きな恵理は、日の出とともに朝の仕込みの手伝いに来ていた。もちろん、イベント事があったら、率先して企画をしたり、皆が楽しめるよう取り計らったものだった。
しかし、あの飛行機事故が起きてからは、店に顔を出さなくなった。
たまに日本食を恋しがったフランシスが、ソフィアに連れられて遊びに来るので、ソフィアに恵理の様子を聞くと、気落ちして沈み込んでいると答えが返ってくる。
しかも、事故後、シリスが亡くなってからは、部屋から出ようとしなくなったというのだ。
「人間との別れなんて……沢山経験してたんじゃなかったの?」
露紅はポツリと呟いた。
命に限りがある人間と、ほぼ不老不死の妖怪。寿命の違いはいかんともしがたく、得てして寿命の長い妖怪が、愛した人間の最後を見取ることが多い。
現に、露紅もたくさんの友人や恋人を弔ってきた。もちろん、何度経験しても哀しいものは哀しいが、幾度となく経験していくうちに半ば諦めの境地に達している。
そこまで考えた所で、たった一人だけ忘れようとも忘れられない人を思い出す。転生を繰り返す彼を探し、再会を望む自分の姿と恵理を重ね、溜息を零した。
「恵理は、まだ年若い狐じゃからの」
大徳利がポツリと漏らした。
今回、気が紛れればと節分の宴の誘いはしたものの返事は無く、当日も来なかった。
塞ぎ込んでいるのだろうと思って、出来るだけ連絡もとらず、そっとしておいたのが仇になったのだろうか、恵理からの連絡が途絶えて久しい。
「そういや、最近、油揚げを沢山作ることもなくなったな」
日本刀の九十九神が煮物に使う根菜をザクザク切りながら呟いた。
ソレを聞いた露紅は、さほど遠くない場所にある昔から蛇女が住む森の事を思い出した。
大量の油揚げを作った時は、必ずフランシスを連れて恵理はあの森に遊びに行っていたのではなかっただろうか?
かの森に住む蛇女は自分の森に閉じこもっている。そのため、何故恵理が来ないか理由が分かるはずがない。
何も連絡がなければ、あちらも心配している事だろうと露紅はぼんやりと思った。
(蛇女の森へ行ってきましょう)
流石に仕込みをサボると後が怖いので、朝の仕込みがひと段落した後、大量の油揚げを手土産に蛇女に向かう露紅。
彼女が持つ籠からは上げたての油揚げの良い香りが漂っていた。
「油揚げ……」
森に向かう露紅の耳に、人の声のような、唸り声のような、はたまた風の音のような、なんとも判別しにくい音が聞こえてきた。
首を傾げてあたりを見回す露紅。深い苔色のケープの裾が、風に煽られはためいた。ケープの肌蹴、着物の袖や裾も風に流される。
露紅は思わず帯の隙間に挟まっている、恵理から貰った守り袋に手を当てた。
「良い……匂いだ」
ゴーと風の音の中に混じり込んだ声。先程よりはっきりと聞こえてきた声に、露紅は「誰っ!」と声を張り上げた。
「出てきなさい」
森のはずれ。木々が伸ばした枝が互いに擦れ、音を立てる。常緑樹たちは葉を揺らし、ざわめきが露紅を襲う。強風に煽られた落ち葉が露紅の足元を舞い、クルクルと渦を作った。
ザクっと落ち葉を踏む音が聞こえ、露紅はビクッと身体を震わせて音の鳴る方へ顔を向ける。
そこに居たのは白い獣。青白い光を纏ったソレは、黄色く濁った瞳を露紅に向けていた。
「―――の香りがする……お前、誰だ?」
露紅の足元からゾクリと寒気が登ってきた。
四足でいるのに人の背ほどもある獣は、稲荷神社で鎮座する霊獣の姿に似ているのに、纏う妖気は似ても似つかないほど禍々しい。
獣の身体は青白い光に覆われていて、毛先からはバチバチと細かな火花が散っていた。
「あ、貴方こそ……だ、誰?」
こんな妖怪は知らないと露紅は冷たい汗を背中に感じながら呟く。
獣は用心深く露紅をジッと観察していた。
「お前から、恵理の香りがする。なのに、お前は恵理じゃない」
不思議そうに首を傾げながらも、探るような眼差しで露紅を見る獣。
その言葉に、露紅はハッと目を見開く。無意識に帯に当てていた手に力を込めた。
その動きに獣は目を細めた。
「お前……何を隠している?」
「な、何も知らないわ」
森の入口に獣が陣取っているため、露紅が進めるのは森の奥深く。獣に背を向けぬよう、後ろ向きにジリジリと奥へ進む露紅だったが、張り出した木の根に足を取られ、尻もちを付いた。
籠が彼女の手から離れ、獣の傍に大量の油揚げが撒き散らかる。
揚げたての香ばしい匂いが辺りに広がり、ゴクリと獣は唾を飲み込んだ。用心深げにフンフンと油揚げの匂いを嗅いでいたが、危険がないと判断すると、バクバクと食べ始める獣。
獣の意識が油揚げに向かっているうちにと露紅は体制を整えて、森の奥へ逃げ出した。
油揚げを食べ終わった獣があたりを見回すと、恵理の匂いを付けた女は居なくなっていた。
(この森からも恵理の気配がする―――)
獣は空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。
微かに漂う探し求める人物の気配に、此処に捕まっているのかと目を光らせた。
「待ってて……今、助けるから」
切なげに囁けば、森の奥にひらりと揺れる薄紅の衣が見えた。
目を凝らせば木々の間から黒髪の女性が歩く姿が見えた。その後ろ姿に愛しい面影を見出した獣は、彼女に駆け寄る。
ふわりふわりと木々の間を移動する彼女。
今一歩のところで、逃げるように遠ざかる彼女の姿に焦れる獣。
「恵理っ!」
獣は叫ぶと、人間の姿に変化する。
森のはずれで振り返った女性は、ずっと自分とともにいた彼女で、彼は「探したよ」と呟くと手を伸ばした。
微笑む彼女の腕に触れたところで、彼女の姿がはじける。
無数の蝶へと変化した彼女は空高く舞い上がった。
「待って……」
夢心地に呟いた青年は、彼女の姿を追い求めて、空へ駆け上がった。
森はざわめく。
ポトリと落ちた守り袋を、大木の影から見ていた男が拾い上げた。




