1
ゆったりと紡がれる唄が聞こえる。
母親の胎内で微睡みながら、その心地よいリズムに身体を揺らした。
「動いたわ」
母親の声が聞こえ、唄が途切れる。
その後、母親の身体を通して送られてきた力は、自分が無事に生まれることを望むもので、少しくすぐったくなる。
母親の思考を辿れば、自分は望まれた子だと分かった。そう、以前のように生まれてすぐに殺されることも、売られることも、捨てられることもない事が分かり安堵したのだ。
―――今度は……
また歌声が優しく響く。
疎まれるでもなく、蔑まれるでもなく、ただ純粋に無力な胎児が丈夫な赤子となり無事に産まれてくるよう願いを込めた歌声。
唇に笑みを浮かべ微睡んだ。
「この子、きっとエリーママンの唄が好きなのよ」
息子の妻ソフィアの言葉に恵理は笑みを浮かべた。
恵理が胎児に歌って聞かせている唄は、隠れ里に伝わる子守唄。笠間稲荷を詣でる子供らが無事に成長するよう願いを込めて歌う唄だった。
新しい家族を待ち望む息子夫婦の姿に、昔見守った稲荷神に祈る若い夫婦の姿を重ね、ふと思い出した子守りの唄を口ずさむ。
ソフィアは、毎日聞かされる唄をハミングしながら編み物を続ける。穏やかに編み物など出来るのは今のうちと、産まれてくる我が子への靴下やケープなど、さまざまな物を作っているのだ。
アンティーク調のダイニングテーブルの上には、毛糸玉が入った籠が置かれていて、ソフィアの手元に合わせてコロコロと回っていた。
彼女は時折手を止めて、かなり目立つようになったお腹を撫でた。
「楽しみね」
ソフィアの家に訪れたリュシーは、大きくなったお腹を眩し気に眺める。彼女は、絵本作家であるソフィアの担当者。この日は友人でもあるソフィアの元へ遊びに来ていた。
幸せそうに微笑むソフィアの姿に、リュシーもニッコリと笑う。
「次に来る時はプチ・ココちゃんへのプレゼントを持ってくるわ」
リュシーの言葉に、ソフィアは、「もう貰っているわ」とリビングのソファで恵理が見ている絵本を示した。
「新刊の贈呈本、出産前に持って来てくれるなんて思ってもみなかったわ。ありがとう、嬉しいわ」
「気にしないで。たまたまなんだから」
「それでも、この子の一番のプレゼントだわ」
「予定日ってクリスマスのころだったのよね。クリスマス休暇を利用して、お祝いに来るわよ」
愛おしそうに大きくなったお腹を撫でながら「ありがとう」と柔らかく微笑むソフィア。
恵理は時計を見て、読んでいた絵本をテーブルの上に置くと、「私からもお礼をしなきゃね」とキッチンへと入っていった。
「一番初めに、ソフィアの絵本を読ませてくれたお礼よ」
冷蔵庫を開けて、何かを取りだすと、なにやら作業をする恵理。二人は興味津々とばかりに、恵理の様子を窺った。
恵理は、クスクス笑って、二人分の赤茶色の湯飲みと黒い小鉢を盆に載せて現れると、それらを彼女たちの前に置いた。
「リュシー、来たタイミングが良かったわね。はぃ、どうぞ。召し上がれ」
「ゼリーかしら? 綺麗ね」
三色の丸い餡が透明なゼリーで包まれている菓子を見て、リュシーは歓声を上げる。ソフィアも恵理の作ったお菓子に目を輝かせた。
「赤いのはイチゴ、黄色いのはカボチャ、黒っぽいのは小豆餡。まわりの透明なのは寒天で作った葛……『葛玉』って和菓子よ」
「凄く幻想的だわ」
スプーンで掬うとプルプルと震えだし、ツルリと口の中に入れば絶妙な弾力感。あっという間に食べ終わったリュシーはため息を零した。
「エリー、美味しかったけど、量が少ないわよ」
「次来た時のお楽しみね」
笑って恵理が答えると、リュシーは「待てない」とテーブルに突っ伏した。
その姿に恵理とソフィアは笑う。
「リュシー、いくら日本食がヘルシーだって言ったって、量食べちゃったら意味ないわよ」
「分かってるわよ! もう、エリーの作る物がおいしすぎるのが悪いんだわ」
頬を膨らませて告げるリュシーの言葉に恵理とソフィアは顔を見合わせた。
柔らかな午後の日差しが小さなビストロに入り込み、出窓に飾られたサントンたちに交じって飾られた小さな狐の人形が陽の光で優しく微笑む。
そして、その年のクリスマス、ソフィアは可愛らしい男の子を出産した。
「名前はフランシス・ノエ・ラファエルだよ」
息子の言葉に、シリスはソフィアの腕に抱かれる赤子に「はじめまして」と声をかけながら軽く頬を突っついた。
「母さんもお祖母さんだね」
息子に促されるように恵理はソフィアに抱かれた赤子を見て、動きが止まった。
ごくりと唾を飲み込んで、己の孫を食い入るように見つめた。
何かの間違いであって欲しいという恵理は願ったが、己が目に映る禍々しい妖気の渦を見ぬ振りをすることは叶わなかった。
「母さん?」
急に動きを止めた恵理に息子は不審そうに声をかける。
振り返ったシリスが「エリー、どこか具合が悪いのかい? 顔色が悪い」と尋ねるが、恵理は返事をすることが出来なかった。
心配そうに此方を窺うソフィア。腕の中で赤子がパチリと目を開けて、恵理を凝視した。
その視線の強さに、恵理の背筋に冷汗が流れる。
(なんてこと!)
口の中がカラカラに乾く。
周りは急変した恵理の態度に首を捻りつつも、「具合が悪いなら今日は失礼しよう」とシリスに促され、産院を後にした。
翌日、心を決めてソフィアのもとを訪れた恵理は、赤子を受け取ると里で唄われている呪い歌を口ずさむ。
まだ産まれたばかりの身体では、膨大すぎる妖気を抑えることが出来ず、自滅してしまうことが多い。
この力を抑えるための呪い歌は、隠れ里に住む幼狐たちが、自分の力をうまく扱えない時に歌って聞かせていた。
力を弱め、力に馴染むまで必要以上の力を出せなくするそれは、里の幼い子供たちに毎日歌ってあげていた恵理にとって懐かしい歌だった。
力充ち溢れる赤子の健やかな成長を願って、遠く離れてしまった故郷を思って、ゆったりと唄いながら涙ぐむ恵理。
日本の歌、しかもゆったりとしたテンポの曲は、フランス人のソフィアには子守唄に聞こえたようで「優しい曲ね」などと言いながら微笑ましそうに祖母と孫の様子を見ていた。
恵理は心をこめて歌う。
(この子が健やかに、真っ直ぐ育ちますように……)
その後、平日ソフィアが店に手伝いに来たときに、休日には息子夫婦にデートに行くよう図り、幼いフランシスを預かった。
自分の腕の中に抱き、膝の上に座らせ、毎日祈るように唄い聞かせる。
そんな恵理の姿を見てシリスは「自分の孫は可愛いかい?」とからかうが、恵理は曖昧に微笑んだ。




