赤錆の刃先は一人に向けられる
ハルバが一人でブチ切れて、裏通りを破壊しながら駆け巡っているその時。
戦場の真っ只中で、レイモアは相変わらず嗤いながら血雨を降らせていた。わざわざ逃さぬように亜人を囲ませ、自身の手により殺していく徹底振りだ。
【アハハハッ――逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目よ!】
赤錆の剣線が走る。
助けてくれ、そんな懇願は彼女は聞かない。
死にやがれ、そんな反抗は彼女には届かない。
周囲の地面は血と肉で溢れ、レイモアはすでに真っ赤に染まっている。
そこはただの惨劇の踊り場だった。
だが、そんなレイモアの一人舞台に、突如として一抱えほどの大きさがある樽が飛来した。
樽の数は一つ、中々の速度。狙いは正確。
タイミング的にも見事な不意打ちではあるが、レイモアほどの使い手にそんなモノが当たる訳もなく、樽は簡単に避けられ地面に激突、木屑を散らして粉砕してしまう。
【なんなのかしら、いきなり……私にちょっかいかけるなんて、馬鹿な子もいるのね……?】
大剣の背を担ぐように肩に置き、苛立ちながらもレイモアが視線を移動させると、少し先の民家の影から顔の右半分だけを覗かせた男と、その頭の上に乗っている砂蛇を見つけた――言うまでもなく、メイとドリーであった。
【アレって……確かハルバがいつも追い掛け回してる奴じゃない……こんなところに遊んでるってことは、また逃したのかしら、しょうもない】
十分反応できるほどに距離は離れているし、わざわざ獲物が溢れるこの場所を離れてまで、レイモアがメイを追いかける理由はない。
とはいえ、ハルバが毎度取り逃がしている……などと聞いていたこともあり『面白そうだから』と、何度か隙を晒して誘いをかけてみる、といった遊び心は湧いた。
が、メイは観察するだけで出てこない。
――なんだ、ただの臆病者じゃない。
『すぐに逃げおるッ』とか『中々の腕があるくせにまともに戦わんッ!』といったハルバの愚痴も相まって、レイモアの憶測は加速する。
いや、そもそも、この様子ではハルバの言う“腕”とやらも『逃がしたことを取り繕う言いわけではないか?』とさえ思えてくる。
――アイツも随分と腕が落ちたものね。
警戒こそ切らさなかったが、レイモアは、メイを弱者で臆病者で、大して気にすることもない相手、といったところに落ち着かせた。
宙に舞う血飛沫が綺麗だ――そう想いながらも剣を振り回す。
昔、血を浴びると美しくなるという話を聞いた。
人種よりも、寿命の長い者が多くいる亜人の血液は、きっと自分を美しくしてくれる。
だから血を、もっと赤を。
王に比べると、レイモアは亜人という種族に対して、そこまで深い憎しみや嫌悪の感情はない。ただ、ズルイ、卑怯だ、そう思っているだけだ。
――種族が変わるだけで、生まれが違うだけで、随分と扱いが違うじゃない。
ズルイズルイ、だから分けて欲しい、血を分けて。
そんなワガママとも狂気とも言える思いが、レイモアの奥には燻っている。
【撒き散らしてよ……ねえ、私のために】
「来るなッ、来るなっ……来るなッ!!」
【じゃあね、サヨウナラ……っ!?】
一人の亜人を殺そうと、レイモアが剣を振り上げたその時――先程と似た樽が今度は二つ、無駄に正確な狙いで撃ちこまれてきて、邪魔をする。
【ああ、鬱陶しいッ】
苛立ちを発散するように、レイモアは赤錆の大剣を一閃、二閃、瞬く間に樽を残骸へと変えた。
一応ソレを壊す際、すぐに避けられるように身構えていたが、取り越し苦労。
中身は空で、ただの樽。木屑が散らかっただけでそれで終わり。
――何がしたいの?
剣舞の代わりに疑問符が踊ったが、ハルバやハマよりは“若干”冷静なレイモアは、この程度では混乱せず、余裕を持った澄ました態度で『その手にはかからないわよ』と視線を亜人へと戻す。
途端……また樽が飛んできた。
今度は三つ、徐々に撃ち出す時間が早くなってきている。
だが、樽は増えたが、民家の影から覗いている人数は……なぜか減っていた。
メイがいなくなって、地面の上でドリーだけが覗いていたのだ。
【もう、何なのいったいッ! 木偶共、包囲を薄めてもいいから、数名使って、あの訳の分からない馬鹿の首を取ってきなさいな!】
樽を破壊しながら、レイモアが指示を飛ばす。
ファシオンの行動は迅速で、包囲を張っていた場所から数名抜け出し、いつの間にか消えているドリーとメイを追って、民家の陰へと走り去る。
【さて、と】
どの程度の実力か分からないが、これで暫く邪魔は入らないはずだ。
そう判断したレイモアは、先ほどと同じく武器を握り直し、先ほどと同じく亜人へと顔を向ける。
すると。
当然の如く先程と同じく……いや、今度は樽が四つに増えて飛んできた。
【嗚呼ッ! 木偶は何をしているのッッ!】
余りのしつこさに思わず怒声を上げて、レイモアは飛来した樽を力任せに叩き切る。
一つ、二つ、三つ、そして四つ!
――バシャッ!!
レイモアが四つ目を叩き壊すと同時に、予期せぬ水音が響き渡り、樽の中からナニカが飛び出し、雨のように降りかかる。
【――ッ!?】
即座に大剣で身を守る盾を作るが、相手は液体。その全てを防げるはずもなく、ソレはレイモアの左半身にべちゃりと付着した。
毒液か、それとも火をつける燃料か、どちらにせよそんなモノは自分には効かない。
そう、当たっても大した被害は…………
無言。
改めて自身の半身を眺めたレイモアは、完全に押し黙り、沈黙状態となっていた。
――泥。
水と土、いや、今回は砂を混ぜ合わせてできた物体……泥。攻撃力なんて皆無で、別に痛くもなんともない泥水。
レイモアが被ったのはソレだったのだ。
頭部から泥水が滴り、先程まで血塗れだった鎧は、チョコとイチゴのマーブルアイスのような色となっている。
レイモアの頭部が小刻みに震えだす。後部に下がっていた装飾もチャラチャラと鳴る。
そして、ポタリ、とレイモアの視界を泥水の雫が通り過ぎ、地面に落ちた。
瞬間。
【――こッ――のッ!】
殺意が、爆発した。
出すべき言葉も見つけらない。荒げる声すらも選べない。
レイモアが怒りをあらわに、刺すような眼差しを民家の場所へと向けると、いつの間にか、戻ってきているメイの姿がソコに在った。
その恐ろしい眼差しを向けられたメイは、左手に槍を持ったまま、ワタワタと『俺じゃないよッ、知らないよ!』と、ボディランゲージして無実を訴えている。
ドリーも、知らないフリをするように、上空に顔を逸らしていた。
だが、よほどメイは慌てて……いたのか、持っていた蒼槍の柄尻で、民家の陰のナニカを引き倒して、表に晒してしまう。
ゴロリ、と転がり出たのは樽、中から零れたのは……砂泥だった。
「…………」
【…………】
沈黙。
一拍の間ソレが流れ……メイは恐る恐るとレイモアに顔を向けると、
『ははっ、こいつはまいったぜ!』と言わんばかりばかりに、両手を顔の横で振って、首をふるふると動かした。
【――ゴミ屑がッ、ぶった切ってあげるッ!!】
当然の如く、メイの行動は怒りを大人買いしただけであったが、メイもそれを予想していたのか、レイモアが怒り狂った瞬間に、もう逃げ出している。
【絶対に……絶対に逃さないッ】
民家を曲がって裏通りに入ると、少し先で、首を刎ねられたファシオンの死体が転がっており、更に前方には逃げていくメイの姿があった。
――やはり腕は良いのかしら?
一瞬そんなことを考えたレイモアだったが、メイのフザケタ態度からは、強さなど微塵も感じられず『気のせいね』と、思い直して追走を再開した。
【馬鹿ね、逃げ足に自信はあるみたいだけど……私ならこの程度】
先行くメイの走る速度は、全力で駆ければ追いつけそうに見える。
これくらいなら追いつけると判断し、レイモアは両足に更なる力を込めて走った。
【待ちなさいッッ!】
逃げるメイと、追うレイモアの距離がジリジリ消えていく。
しかし。
なぜか寸前になると、メイの速度が若干上がり、ギリギリで追いつけない。
必死になって底力でもでているのか。
面倒だ……そう感じたレイモアは『相手の息を切らせてやろう』と画策し、猫なで声でメイへと向かって言葉を掛ける。
【ほら、止まりなさいな。怒ってなんていないから、少し足を止めてごらん。ねえ?】
「嘘だッ! 怒っている人は皆そう言うんだ! 言わない奴は本当にブチ切れてる奴だ!」
【大丈夫、私は優しいのよ、今なら痛くしないから】
「血塗れの奴の言葉なんて誰が信じるかッ! あ、すいません、今は泥まみれでしたねっ」
【殺すッ!】
猫が一瞬で虎に。
獰猛さを表に、殺気をふり撒いてレイモアが追い始めると、メイは恐怖を感じたかのように『うわぁあぁあー』と声を上げて逃げる。
その姿は、通り道に立てかけてある角材を蹴倒したり、落ちている石を柄尻で後方に跳ね飛ばしてみたりと、一見すれば必死な様子。
チリチリ……と燻っていたレイモアの嗜虐心に火が灯り、殺気の質が怨敵を狙うものから、ネズミを追う猫のようなものへと変化する。
【ほらほら、早く走らないと、もう追いついちゃうじゃない。アハハハッ】
「くそッ、まじでヤバイ! このまま殺されてなんか堪るかよぉッ!」
レイモアの狂気の嗤いと、振り回される大剣に脅かされ、メイは声を“一生懸命”に震わせ叫んでいる。
もう少し、あと少し、そんな一進一退の追跡劇だ……
『むほぉぉ相棒っ、すげえええ、いい演木ですよっ! 凄く幹の芯に迫っていますっ』
ただ、ダバダバとメイの首元で揺れながら、好き勝手な自分語録で喜んでいるドリーの声がなければ、の話ではあるが。
レイモアなど、自分が誘導されていることとはつゆ知らず『そろそろ速度が落ちる頃ね、ふふふ』と笑っていた。
そして、遂にあと三メートルほど近づけば大剣が届く――そんな距離となった時のことだ。
メイが突如として民家の壁を蹴り、鋭角に左へと進路を変えて、レイモアの追跡を揺さぶった。
突然の進路変更を予期できず、急停止をすることもできなかったレイモアは、メイの曲がった横道を少し通り過ぎてしまう。
【こんな小細工でッ】
忌々しそうに吐き捨て、地面を抉り慌てて転進――メイの曲がった角へと少し遅れて入り込んだ。
が、
【……いない……わね】
肝心のメイの姿がどこにもない。
左右には民家が並んでいる。人が三人横並びで通れる程度の道幅が、真っ直ぐに続いていた。
どうにも違和感を覚え、レイモアは足を止めた。
少し先に行けば裏道はあるが、そちらに曲がったにしては早すぎる。“先ほどまでの”逃亡速度から考えれば、曲がる姿くらいは見えないとオカシイ。
上か……いや、よく見れば、少し前方にある、民家のドアが開いているし、その中かもしれない。
罠があるかもしれないが、そんなもの打ち砕けば済む話。
逃げ出す足音も聞こえないし、恐らく隠れて不意打ちを狙っているのだろう……フザケタ真似を。
と、そんなことを考えながら、隙を晒さないよう、レイモアがソロソロと開いているドアから部屋の中を覗きこんだ。
――瞬間。
背後にある民家の窓を突き破って、一発の水弾が不意を突いて撃ちこまれた。
【誘導かしらッ、しゃらくさいわねッ!】
音に反応して、武器を背後に回し、剣の腹で水弾を防ぎきる。レイモアは即座に反転すると――叩きつけるように反対側の民家の壁を打ち壊した。
轟音。
豆腐の如くやすやすと、民家の壁は崩れ去り、大穴が開いて室内が表に晒される。
【ほぅら、でてきなさいなッ、逃げるしか能がない臆病な坊や……あら?】
嘲るように声を上げ、残骸を踏みしめ、開いた穴から進入するも、その部屋にも……敵の姿はない。
あるのは小さな壷や、食器をしまう棚ばかり。外に続くドアはしっかり閉じている。開閉された音は絶対になかった。
【隠れた? ……いえ、そんな時間はないのだけど】
いくら部屋の中を見渡しても、明らかに“人”が隠れるスペースは存在しない。
レイモアは、少しだけ警戒ラインを引き上げながらも、不意打ちに反応できるよう、見通しの良い通りへとジリジリと後退した。
通りは不気味なほどに静かだ。
聞えるのは少し遠くで聞える戦闘音と、木屑が風に弄ばれてカタカタと地面で遊んでいる音ばかり。
人の動く気配も、足音すらもしない。
きっと相手は逃げていない。恐らくまた不意打ちを狙っている。ならばここは動かずに待つべきだ。
レイモアにとって、戦闘できないことは不満ではあるが、ここで時間を無駄にすることは、痛手ではない。だが、相手は時間が経つのを嫌うはず。
きっと動く。そのときに位置は掴める。こういった面倒な相手は、一刀で決めるのが定石だ。
そんな経験からの判断に従い、右手に握る大剣をダラリと後方に下げたレイモアは、自身が放てる最速の一撃を叩き込むために、構えを取った。
剣豪同士の死合の如く、瘴気も漏らさず集中して、動きを止める。
力を適度に抜いた自然な構え。
怒りを静め、狂気も抑えた落ち着き払った精神で、赤錆はただ好機を待った。
そのまま、おおよそ七分ほど経った頃だろうか、遂に、レイモアは先ほどドアが開いていた民家の中から……カタリ、とナニカが動く物音を捉えた。
【見切ったッ! そこよッ!!】
ぞわりと鎧の隙間から瘴気が噴出し、大剣の刃を絡め取るように覆い、剛剣が砂色の壁を破壊する。
民家に竜でも突っ込ませたかのように、壁が粉々になり、残骸が部屋の中へと吹き飛んだ。付近の壁にも亀裂は広がり、一撃をまともに受けた屋根の端など、ガラガラと崩れ落ちているほど。
凄まじい威力。凄まじい一撃だ。
でも、そんな渾身の一撃は、
バシャッ!!
大剣を振り切った姿勢で止まっていたレイモアに『崩れた屋根から落ちた樽が、頭から泥を被せる』という結果を生んだだけだった……
【……な……な、な】
全身砂泥塗れとなった自分の姿を見たレイモアが、まともに言葉も出せずに固まって、手の平に付いた泥を眺めている。
と、
『むおおお、脱出、ですっ!』
コロっ、コロコロコロっ。
壮絶に間の抜けた音を奏でながら、鉛筆を転がすような移動方法で、崩れ去った民家の中から砂蛇が出てきた。
民家の中に、人の隠れるスペースはなかった……だが逆に言えば、ドリーが隠れるスペースは普通にあったということである。
『わーー』
なぜ、なぜ蛇が転がっているのだろう。
呆然とレイモアが固まっているのを他所に、ドリーは曲がり角に消えてゆく。
直後、ドリーと合流したメイが、ヒョコリと裏道から顔を出し……若干楽しげな調子でレイモアに向かって言い放った。
「ミキッタッ!」
『べしゃーっ』
「ソコヨッ!」
『ばしゃーっ』
レイモアの仮面の隙間から『ィッ』だとか『ュッ』だとか、なんとも言葉にならない声が漏れる。
ドリーの効果音こそ聞えていないが、メイの言葉が、先ほど自分が放った台詞だと気が付いたのだ。
震えが、怒りの震えが全身に、ふるふる、から、ガタガタへ。殺気を含んだ瘴気も既に止まることなく漏れている。
メイもその変化に気がついたのか『やっべ』と小声で呟いて、レイモアに向かって宥めるような調子で言葉を掛けた。
「いや、そんな怒らないで、誤解です。本当に、誤解なんですよ。
実は、僕の故郷では泥パックなんていうものがありましてね……なんとっ、お肌をツルツルにしてしまうという優れものなんですっ。
素敵っ!
あれ……気に入らない? ああ、それなら白粉って化粧道具があるんですが、いります?
その辺で拾ってきた粉なんですけど、紅と白で、おめでたい感じにっ――――」
【……ふふ……ふふふ……ッ嗚呼!!】
完璧なる言葉の死体蹴りに、レイモアの怒りのリミッターが制限を振り切った。
怒りにまかせて腕をしならせ、大剣をまるでブーメランのように、投げる。
轟音。
赤錆の刃は、やすやすとメイの隠れていた民家の角を吹き飛ばし、その向かいの民家の壁をも破壊、そこでようやく地面に刺さって止まる。
ただ、肝心のメイの姿は既になかったが。
【はは……ふふ……】
どんな文句を言っても足りなかったレイモアは、ただ笑いながら、己の投げた大剣の元へと一足で飛ぶと、武器を拾って怨敵を殺さんと走り出した。
「わー、なんだか分からないけど、オコッターー」
『きゃー、よく分からないですけど、オコッター』
癪に障る棒読みの叫びあげながら、メイとドリーが走る。
その速度は明らかに先ほどより上で、レイモアが全力で追いかけても、その差は開くばかり。
わざと速度を落とされ誘導されていた――それをこのタイミングで知らされて、レイモアの怒りは更に沸騰する。
今までにないほど全力で、今までにないほど切れている。
だが追いつけない。
その怒りをぶつけようにも全く届かずに、レイモアは二度ほど角を曲がった時点でメイの姿を見失ってしまった。
ぽつん……
と、裏道が縦横無尽に走る小さな通りに残された赤錆。その仮面の隙間からは、今もコフー、コフー、と荒い吐息のように瘴気が零れている。
――絶対にぶち殺す。
もう……追いかけないという選択肢は、レイモアの頭からは消えさっていた。
【ぐ、なにか、手がかりッ……をッ……あ】
右へ左へと視線を動かしてみれば、少し先の地面が抉れ、足跡が残っているのを発見した。
思わず飛び上がらんばかりに歓喜しそうになったが、レイモアはグッと堪えて、考える。
この足跡は別人のものではないか? いや、抉れ方がかなり鋭角だ。よほどの速度で走らないと、ここまでにはならない。
つまりこれはアイツの足跡に違いない。やった殺せる!
……まだ見つけられるかどうかは定かではないが、少なくともなにも手がかりがないよりは良い。
――絶対に逃してなるものか、絶対に許してなるものか、必ず殺す。
きゃらきゃら嗤っていた女戦士はもういない。ただ殺意を固めて足跡を辿る追跡者は、通りから……静かに姿を消していった。
ボコッ……
レイモアが消えて、ひゅるりと木枯らしのような寂しい風が吹く通りの中央で、突然、地面が妙な音を立てて口を開ける。
「いやー怖かった、怖かった」
『ふっふっふ、気がつかれませんでしたねっ』
何事もなかったかのように地上に出てきたメイとドリーは、キョロキョロと辺りを見渡しながら、ふぅー、と汗を拭う。
まるで、一仕事終えたサラリーマン並みの爽やかさである。
「とりあえず、準備してた泥んこは全部使わなかったけど、十分怒らせた……よな? それとも、もうちょっと煽ったほうが良かったかな……」
『んー、火事みたいにモヤモヤしてましたし、大丈夫ではないですか?』
「そうか?」
『恐らくっ』
メイは『良かった』と服についた土を払い、ドリーもそれを手伝い、背中を払う。
全て作戦通り――とまではいかないが、ここまで、おおよそメイの望んでいた展開通りとなっていた。
どうすればレイモアを怒らせることが出来るのか。
それをリーンから聞いた話と、自身の目で見た様子を統合して考えた結果、メイはレイモアを『血が大好きな変人』と判断していた。
そのための泥。
きっと泥で汚せばめっちゃ怒るに違いない。女の人は汚れるの嫌がるだろうし……といったある意味で単純な作戦である。
準備は比較的簡単だった。
マッド・ウォーターで泥を作り、そこらで集めた樽にせこせこと投入。それを逃走予定経路の数箇所に配置したあと、レイモアに自分を追跡させるよう、民家裏から樽を撃ち出す。
その際に使ったのは『プラント・ランチパッド』という名の、土の新しい下位魔法だ。
効果は――植物製の大砲のような発射台を作り上げ、術者の操作によって、円筒状の内部に込められた弾を撃ち出す、といったもの。
ただ、所詮は下位魔法でしかなく、砲弾は作れない。つまり、先ほど、たーまにメイだけ姿を消していたのは、民家の裏で樽を詰め込む作業をしていただけである。
レイモアが追いかけ始めたら、適度な距離を保ちながらも誘導。
ドリーと二人で分かれて相手を所定の位置に動かして、存分に嫌がらせを行って終了だ。
まだ泥沼や、泥落とし穴など――他の人がハマルといけないので、浅い――を、幾つか用意していたのだが、レイモアが切れるのが予想していたよりも早く、残念ながら無駄となってしまった。
とはいえ『終わりよければ全て良し』と、メイは大満足な様子である。
当然、現在レイモアが追っている足跡もフェイク。怒りそうなポイントには、事前に付けていただけ。
レイモアがもう少し冷静であったのならば、重量軽減を掛けたメイの足跡が、今まで残っていなかったことに気が付いただろう。
いや、それを気が付かせないための挑発なのだから、言っても仕方の無いことかもしれないが。
「さて、次は一番楽そうだけど、方法的に危険度が一番高いアイツだな。頼むぞドリー、お前が頼りだからな?」
『ふふ、任せてくださいっ。相棒には枝一本掠らせませんよっ』
「うむ、頼りになる。じゃあいくぞー」
『おーーっ』
メイは腰元に吊るしていた布袋から魔力回復薬を一本取り出すと、ソレをごくごくと飲み干し、ドリーと共に次の戦場へと駆けて行った。
◆
メイが次の相手へと向かっているその時――民家の屋根を飛び跳ねる樹々の上で、シズルは混乱の最中にいた。
いや、状況は悪くない。むしろすこぶる良くなっている。
足の怪我の治療も少し終えたし、後方に座りなおして落ちる心配もなくなった。
撤退も順調に進み、追いかけてくるファシオンも、飛んでくる剛矢も、自分の乗っている不思議な爬虫類と、前に座っている亜人女性のお陰で問題もなく捌けている。
が、ソレを分かってはいても、シズルは前に座っているリッツに、問いかけを放たずにはいられなかった。
「な、なぁ、白い亜人殿? 赤錆がいつの間にか二人消えているのだが……何がどうなっているか、わかるか?」
「そりゃ、アタシの……な、な仲間がなんかしたんでしょ。別に今はそんなことどうでも良いじゃない。さっさとコッチはコッチで仕事続けるわよ」
若干恥かしそうに仲間と言う単語を呟いたリッツは、上ずった声音で誤魔化すように話を打ち切ろうとする。
だが、シズルは驚きで眼を見開き、その言葉に反射的に返答した。
「いや、しかしだな……赤錆が二人居ないということは、先ほどの槍使い殿が、一挙に引き受けているということでは……放っておいて大丈夫なのか? 私も動けるようになったことだし、援護に入ったほうが……」
「ああー、別に良いわよ、こういうのは任せとけば。
アタシも大まかにしか聞いてないけど、どうせアイツのことだから、適当に相手怒らせて、どっかそこらに誘導してるに違いないわ。
まともに戦ってるなんて、絶対に! 絶対に! あり得ないから、そういう妙な心配いらないわよ」
と、そこまで言い切ったリッツは、一度『うーん』と唸ると、そのまま言葉を続けた。
「そうね……とりあえず、あの弓野朗がアタシを狙ってる内は間違いなく平気。
だからさっさと逃げられるように、頑張って撤退済ませてくれるのが、アタシ達としては一番助かるわね」
「ぅむ……しかし別に撤退指示は私でなくとも済むだろうに……」
どうにも納得できず、シズルが唸る。
というのも、リッツから聞いたシズルの仕事が『戦域を走り回り、姿を晒しながら撤退指示を出し続ける』といった実に単純なものだったからだ。
恐らくは士気の高揚と、立場が関係しているのだろうことは分かるのだが、それでも未だ暴れているファシオンの数を減らすために、自分が下りて戦ったほうが良いのでは? と考えてしまう。
この状況を作り上げたのは自分なのに、こんな安全な場所で指示を出すだけなど、と、我慢できない気持ちもある。
落ち込んでいた心は大分和らいでいるが、刻まれたあの時の感情は、未だにジクジクとシズルを悩ませていた。
一番苦労をしなければ、一番無理して頑張らないと、そう思えてどうにも落ち着かない。
と、そんなシズルの納得いかなさそうな声音を聞いたからか、リッツが仕方無さそうに溜息を零し、諭すような口調で言った。
「その、ね……アタシは指揮側の経験そんなにないし、自分の視点でしか言えないけど。
簡単な指示を出すのだって指揮官か、それとも他の人かって結構違うもんよ。
元気な姿を見せて回って『まだ平気だ』って勇気付けるのって、大事だと思う。
だから、手を出したくても我慢して、撤退が完了するまで、絶対に生き残って、死んじゃ駄目。
なんというか、指揮官が死んで良いのって、最後の最後、目的を達成するために必要な時だけなんじゃない?」
「…………」
なんとなく反論できずに、シズルは押し黙る。
リッツの言葉はまるで見てきたかのようで、妙な説得力があったのだ。
指揮経験が浅いのも分かっているし、一度折れたシズルには、自分が正しいと言い切る自信もなかった。
(ならば、もしかして……あの時)
先ほど聞いた言葉を切っ掛けに、脳裏にある考えが過ぎる。シズルはそれがどうしても気になって、恐る恐ると零すように吐き出した。
「私が……槍使い殿に『連れて行ってくれ』と頼んだのは……その、もしかして怒らせてしまっただろうか?」
リッツにとっての指揮官はメイであることが明らかだ。
つまり、いま聞いた言葉は、体験したであろうソレは、彼が導いた結果ではないか。
そんな者の前で、諦めるように膝をついた姿を晒し、真っ先に死を覚悟して特攻し、それを救って貰った直後に、まだ諦めずに連れて行ってくれと頼んだ自分は、一体どう思われたのだろうか。
――情けない。
明らかな嘘をつかれ、素気無く断られた場面を思い返し――また少し居た堪れない気持ちになる。
だが、それを聞いたリッツの反応はシズルの予想とは、少し違うものだった『ぶふっ』と噴出して、笑い始めたのである。
馬鹿にされているのだろうか、と少し棘を含ませながらシズルが呟く。
「私は……なにかオカシイことを言っただろうか」
「いや、怒らないでよ。そうじゃなくて、アイツが微妙に不機嫌になってたのが可笑しかっただけ」
「だから、私が怒らせてしまったからだろう?」
「むぅ、そうね……あの状況で突っ込んだのは、多分なんとなく気に喰わなかったんだろうけど、どっちかって言えば“身に覚えがありすぎて”複雑だったんじゃない」
――身に覚え?
幾度か見たメイの姿からは、なんとなく想像が付かない。気が付くと、シズルは我知らずの内に尋ねていた。
「あるのか? 身に覚えが」
「さぁ、あるかもしれないわね」
「そうか……うむ……そうか」
詳しく聞きたい。そんな衝動に駆られたシズルだったが、リッツの濁すような返答にそれ以上踏み込めず、己を納得させるように何度か頷いただけで口を噤んだ。
(自分の仕事か……今はそれを頑張ってみるしかないか)
経験者の言はきっと千金の価値がある。二度と同じ失敗をしたくはない。そんな想いから、シズルはリッツの言葉をすんなりと受け入れていた。
以前までなら、ここまで素直には頷けなかっただろう。もしかしたら、硬すぎたはずのシズルの生き方は、一度砕かれたことが切っ掛けで、ほんの少しだけ柔らかさを得ることができたのかもしれない。
「ほらほらッ、今はアンタが大将よ!! 黙ってないで声を上げて! それこそ声が枯れるまで、叫んで叫んで、撤退を伝えるのッ。
飛んでくる矢はアタシがなんとかしてあげる。きっと邪魔な鉄仮面はアイツがどうにかするはず。
急いで急いでッ、きっとココに居ないアタシの仲間が、逃げ道を確保してくれてるんだから」
リッツが鼓舞するように声音を上げる。その視線はチラチラと南の黒煙へと向いていた。
きっと仲間が心配なのだろう――その仕草からリッツの心を読み取ったような気がして、シズルはグッと顔を上げて、全身に力を漲らせた。
届かせよう、責任を持って。伝えて見せよう指揮官として。
張り上げるんだ声を。自分についてきてくれた彼等を逃してやる為に。
凛と通ったシズルの声が、ハルバとレイモアがいなくなった戦域に響く。
撤退だ。諦めるな。そんな言葉に応えるように、幾つもの雄叫びが、剣戟を押しのけるように湧き上がった。
◆
城門近くの戦場で、ハマの鉄槌が唸る。周囲の地面は壊しつくされ、凸凹と穴が開いて、無残なありさまだ。
【ハハハッ、弱者が奢るからそうなる、身の程を知れッ!】
武器も人も、防具も全て破砕する。
ハルバやレイモアよりも強い、ハマの豪腕から振るわれる赤錆の塊は、普通の武器では、防ぐことも受けることも、許さない。
辺りにいるファシオンの数も多く、撤退しようとしている亜人達も、中々後方に下がれずにいる。
少し遠めの屋根の上を、リッツとシズルを乗せた樹々が飛び回っていたが、ハマの存在と、飛び交う剛矢のせいで迂闊には近づけないようだ。
この辺りの指揮官もアロの剛矢で不在になり、戦力も圧倒され、絶望感が満ちている。
後は蹂躙されるだけで、勝敗は付いてしまう。そんな陰鬱な空気が一面に漂っていた。
だが、そんな重苦しい空気を吹き飛ばすように、近くの民家の屋根から、飛び出してきた人影が在った。
ザンと地面に着地、同時にファシオンの首を三つ刈る。振り回される蒼槍はいつも以上に風を纏い、右腕には変幻自在の水の刃を象っている。
「雑魚の相手は俺に任せて、総員撤退しろ! 他の区域はシズルさんたちが担当してる! 心配するなッ、急げ急げ!」
『ふっふー、私たち参上ですっ』
現れたメイとドリーは、指示を飛ばしながらもファシオンを切り裂き、戦場を駆け抜け、撤退するための道を開いていく。
風の如き速さで疾走し、羽のように軽々とファシオンの頭を踏んづけ飛び回る。
そのメイの姿に亜人も騎士も見覚えがあった。
助っ人、噂に聞く救援。
士気は自然と向上し、絶望は少しだけ緩和されてゆく。
「お前らッ、助っ人が来たぞ! 退け退けえええ!」
「よし、赤錆さえ抑えて貰えれば撤退できる!」
戦局が一気に動く。
苦戦している亜人の下にメイが向かい、首を狩る。邪魔するように壁を作ったファシオンをも切り崩す。
その後ろから亜人や戦士が突貫し、逃げ出す隙間をこじ開ける。
メイと本隊の人員は、話したこともなく、友情を結んだ記憶はない。だが、最近ずっと赤錆の相手を引き受けているメイ達の姿や話は、反抗勢力側の記憶に深く刻まれている。
彼らにとってメイの姿は、頼れる味方に他ならなかった。
とはいえ、メイの存在を認知しているのは、赤錆とて同様の話。
付近で暴れていたハマも、メイの姿を見つけるやいなや、人波を壊しながら接近。
血塗れの大槌を堂々とかざして、宣戦布告するように雄々しく怒号を上げた。
【お前がハルバを手こずらせる槍の使い手かッ! ハルバとの力の差を示す為にも、このオレが直々に相手をしてやろうッ!
さあ、掛かってくるがいい!】
が、
「よし、壁に穴が開いたぞッ! 余裕がある人は苦戦してるところの援護に入ってくれッ! 幾ら雑魚ばっかりって言っても、さすがに一人じゃ回りきれない!」
肝心のメイはそれに反応せず、顔すら向けずに周囲へと指示を放っている。
一瞬戸惑ったハマだったが『どうやら聞えていなかったようだな……』と、武器を握り直し、先ほどより声量を上げて、再び咆声を上げた。
【おい、そこの槍の使い手ッッ! オレが直々に相手を――――】
「急げ皆ッ! 他の赤錆二名は今は離れた場所にいるッ、この隙を逃さず撤退するんだ!」
再びの台詞は言い切る前にメイの声で完璧に被せられた。というか、どことなく存在すらガン無視しているように思える。
ほんのちょっとだけ、ぷるっと槌の先が揺れたが、ハマは『周囲が騒がしいからな……』と自身に言い聞かせ、その湧き上がりそうな怒りを抑えてみせた。
【そうだ、面倒だな……オレがわざわざ会話を交わすことも無い。叩きのめしてくれるッ!】
どうせなら、堂々と名乗りを上げてから、正面から捻じ伏せたい。
そんな気持ちもあるが、仮にもココは戦場だ、背を向けている方が悪い。
ハマは蹴り足で地面を砕きながら、ファシオンの相手をしているメイへと襲いかかった。
【はは、喰らえぇい!】
怒号を放ち、槌を天空へとかざす。
どうせ不意を突くなら叫ばないほうが良い。
なんというか『これで相手が気が付いて、そのまま戦闘を開始するというのも、それはそれで悪くない』と、まだ正面切って対決することを、諦めきれないハマの気持ちが透けて見える行動である。
しかし、やはりメイは背中を見せたままで、ファシオンの相手をしている。唯一ハマと目が合うのは、首元に巻いて後ろをジッと見ているドリーだけ。
――鈍い奴め。
少々不服ではあるが、わざわざ手を止める気にもならず、ハマは大槌を全力で振り下ろした。
瞬間。
『相棒右ですよっ』
「いいぞッ! 諦めるな皆! ただ、赤錆が撃つ矢に“だけ”は気をつけろよ!」
その一撃を、メイは顔すら向けずに、ひょいっと近くのファシオンに切りかかるといった自然な動作で避けてしまう。
地面が砕けて破片が散って、轟音が鳴っているというのに、未だハマの存在には気が付いていない素振りだ。
おのれ……
完全に無視したまま攻撃を避けられて、グツグツと、頭に血が上ったハマは『叩き潰してくれる』そう呟いて、今度こそメイを殺そうと槌を横殴りに振り切った。
『下ですっ、素晴らしいっ!』
が、無駄。
またもやメイは近くのファシオンに足払いを掛ける動作で身を屈め、ハマの攻撃を自然に避けきった。
【――ッ――!】
それでも負けじと今度は地面を抉りながら、大槌振り上げるも、メイは左前方のファシオンへと切りかかり、空を殴るばかり。
【っぐ、ぬぬ、おのれえええ】
斜め、横薙ぎ、振り下ろし、突進して手を伸ばす。近くに居たファシオンを掴んで投げ飛ばす。
しかし、その全てをメイは顔も向けず、なにかのついでで躱してゆく。
――ま……さか、本当に気が付いていない?
まるで自分の姿が消えてしまったかのような……そんな不可思議な気分にハマは襲われた。
……いや、それ以上に、ハルバと同じくらいの短気さを誇るハマは、既に我を失いかねないほどの怒りを覚えていたのだ。
でも、その怒りをぶつけるはずの相手は、一瞥すらしないで、未だ雑兵の相手を続けているではないか。
どうすればいいのか分からない。ハマは間違いなく混乱の最中にいた。
生まれてこの方、ここまで戦場でないがしろにされたのは、ハマとしても初めての体験である。
いつも恐れられ、群がる敵を粉砕し、四人の赤錆の中でも自分が一番強いと信じているのに、この扱い。
――わざと……わざと無視をしているのか? いや、そんなはずは。
少し考えれば明らかにわざとだと分かりそうなものだが、ここまで自然な動作で避けられてしまうと、そんな錯覚を覚えずにはいられない。
自分が戦場で無視されるなんて……という自尊心も働いていた。
大体、後ろを向いたままで、一撃を避けるなんてマネができるわけがない。
もしそんなことが可能だとすると……実力差がそれほどに開いて……いる?
【ありえぬッ、ありえぬわッ! そんな馬鹿なことッッ】
怒号と乱打がハマから放たれる。
不安を殺すように、鉄塊の嵐がメイを襲う。全力だ。渾身を込め、培ってきた技術を込めた猛攻だった。
『右にひょいひょい、下にズバッ、上にピョンでくるっと回って、前にズドンですっ』
「よしよーし、いいよー、押してる押してるっ! あと少しで撤退に入れるぞ!」
だが……それすらも、悲しいことにメイには当たらない。
撤退準備をしている亜人や騎士すらも、そんな異常な光景に頬を引きつらせて視線をやっている。
苦笑いしている者もいる。というか、むしろ噴出している者すらいた。
【ぬうううぅぅ嗚呼嗚呼ッ!】
全てから馬鹿にされているような、壮絶な苛付きに、ハマは思わず『もうどうでも良いから、先ずは気づけ』そんな思いを感じさせる咆哮を轟かせた。
一方。
背中から聞えるハマの咆声を聞いていたメイは、自分の寿命がガリガリと消失して逝くのを感じていた。
――死ぬ、死ぬ、マジで死んじまう!
轟風が近くを通り過ぎるたびに、破片が身体に当たるたびに、すぐ側を死が横切ってゆく。
鼓動は限界近くまで早くなり、呼吸は荒れに荒れている。冷や汗も脂汗も、全部一緒くたに混ざっている。
ギリギリだった。余裕なんて一ミリもない。
ドリーの指示、限界まで掛けた身体強化と重量軽減のお陰で生き延びている。
攻撃を返す? ……そんなことできる余裕なんて、あるわけがない。
エントを掛けていなければ、ファシオンの首すら刈り取れないほど、武器にも振りにも重さがなかった。
だが、武器に重量軽減を掛けていなければ、自分が振った攻撃に身体が流され、簡単に体を崩してしまう。
速さだけを追求し、避けることだけを主眼にすえた今の状態では、赤錆を打倒することなどできやしない。
メイとしても、こんな戦場の真っ只中には入りたくなかったが、そうもいかない理由がある。
ハマの暴れる位置は城に近い。その上、周囲のファシオンの数も多い。となると、メイがやらなければならないことは、自然と増える。
ハマを誘導することと、ファシオンの数を減らすこと。
そして、それを同時に達成するには、今も続けている、この命懸けの行為をせざるを得なかったのだ。
誘導するだけならきっと扱いやすい部類に入るハマだが、状況も相まって、もっとも命の危険に晒される相手となっていたのである。
ハルバやレイモアを先に的に掛けたのも、この状況で安全に戦うため。
アロを放っておいたのは、余計なことをしなければリッツを狙う可能性が高いと踏んだから……あとは他にも色々な理由があり、後回しにしたかったというのもある。
【墳ッぬぅうッッ!】
また背後から、ハマの騒いでいる声が聞えていたが、そこに意識を割くほどメイに余裕はなく、ただ黙ってドリーの指示を聞き、近くのファシオンを倒しながら避けていくだけだった。
幸いにも、ハマの攻撃速度はハルバより遅く、この状態ならどうにか見ずとも避けられる。
だが、それでも、
当たれば、掠れば、躓けば、体勢を崩せば、一刀でファシオンを殺せなければ。
どこかでミスをした瞬間、そこで死に至る。
蟲毒で目隠ししたまま戦った経験がなければ、メイもこんなマネをしようとすら思わなかったに違いない。
心臓は悲鳴を上げている。身体は逃げろと叫んでいた。
他二名の赤錆が戻ってきたら、かなりマズイ状況になるのだってわかっているが、まだ逃げられない。
延々と、メイは『早く撤退してくれ、早く後方に下がってくれ』そう願いながら、焦りと緊張と、少しの苛立ちを強引にもみ消していく。
――余計なことを考えるな。
無心に近い心持になりながら避ける。死ぬ気も、当たってやる気も毛頭なく、頼りになる相棒の声だけを信じて、死地の中で、猛攻から身体を逃すことに集中し続けていった。
七分……いや十分ほどの時間があっという間に経ったが、未だハマの攻撃は当たらない。
攻撃を続けているハマも、半ば意地となってメイを狙い続けているのだが、一度たりとも視線が合わなかった。
ファシオンの数も、先ほどと比べ明らかに減っている。というか、ハマがメイに掛かりきりになっている間に、反抗勢力側の人影も、この周囲から殆どいなくなっていた。
【……ッ……ッ!】
だがハマはそれに気が付いていない。いや、もしかすれば分かっていたのかもしれないが、意識はメイに持っていかれている。
――当たれ当たれ、気がつけ、振り返れ。
武器を振るうたびにハマの心の悲鳴が聞えてきそうな様子だった。
ハマのプライドは軋んでいた。ここまで蔑ろにされ、攻撃も当たらず、相手は悲鳴すら漏らさない。
だんだんと自分が弱いのでは? といった妄想すら抱きそうになる。そこらにいる雑兵よりも自分の方が下なのか?
――否、否、断じて否!
【そんなことが、あり得て良い訳がないだろうッッ!!】
震えるような咆哮をハマが上げた。
そろそろ気がついて貰えないと、さすがのハマとも言えども、ちょっと落ち込んでしまいかねない。
そして……『こちらを向け』そんな、ハマの心底からの雄叫びは……
ようやく、遂に、相手に届くこととなった。
回転しながら振り下ろしを避け、そのままファシオンの首を薙いだメイが振り返る。そのとき、ハマとメイの視線は、言い逃れできないほどにかち合った。
「お、お前……」
赤錆の姿を視界に収めたメイは、少し肩をビクリと竦め、さもいま気が付いたような態度で、ハマに言葉を掛けてゆく。
「いつの間に……そんなところに。不意打ちでもしようって腹か? はは、残念、そんなもん通用しないからな」
確かに通用しなかったがなッ――とメイの台詞に、ハマは若干イラッとしたが、気がついて貰えたことは望んでいた展開、武器を握る手にもグッと力がこもる。
【ふふ……笑止ッ! お前のような弱者に不意打ちなど必要がないッ。
真正面から叩きのめしてやるから、さあ、かかって来い! すぐにかかって来い! 早くッ!】
散々背後から攻撃していたものの、それを伝えるのも癪である。勢いで誤魔化したハマは、さっさと戦闘に入ろうと武器を構えてみせた。
が、メイはそんなハマに向かって片手をフリフリと振ると、ふっと視線を遠くにやった。
「いや、遠慮しときます。なんか弱い者イジメみたいになりそうじゃないですかー、僕そういうの嫌いなんで……ちょっと」
【――なッ、ぬぅッ!?】
弱い者イジメ。
予想だにしなかった言葉に、ハマは極度の混乱状態に陥り、メイは世間話でもするかのように、更に口を開く。
「ほら、大槌さんって、うちのパーティーの中で“最弱”のリキヤマさんに、いつも攻撃防がれてるし、取り逃してるでしょ?
僕たちが相手してる赤錆の人たちなんて、攻撃受けることもできないし……ほら……ねぇ?
なんて言うか……はは、大槌は四天王の中でも最弱ッ、みたいな?
もう格付け済んじゃってるし、挑戦したいなら、下から這い上がって来てからにして欲しいなー、なんてっ」
『ぉぉ……微塵も思ってもいないのに、流れるように嘘を吐く相棒……恐るべしっ』
嘘の成分が九十パーセント以上のメイの台詞に、ドリーが恐れ慄いている。
とはいえ、全部が嘘ではないだろう。
確かにドランは最弱といえば最弱だからだ。ただ、それも『広い場所、戦闘開始の合図で戦う』と、そんな条件が整った場合の話ではある。
強さなんて、相性だったり戦う状況で幾らでも変わるし、移動を限定された空間であれば、下手すればぶっちぎりでドランが最強だ。
そのドランに攻撃を防がれたからって=ハマが最弱になるわけがない。
実際、いまの重量が軽過ぎるメイがハマと戦っても、有効打を与えられず、下手したら弾かれただけで体勢を崩して一撃くらってお陀仏である。
嘘、嘘ばっかりの言葉。
しかし、
【そ……そんな馬鹿な……こと】
今のハマにとって、メイの言葉は心を抉るような威力を秘めていた。
グラリ、とプライドにダメージを負って、少しだけハマの身体が揺らぐ。
冷静に考えれば分かること……しかし、メイが視線もやらずに攻撃全てを避けていたのが、ハマには忘れられない。
【オレが……弱いなんてことがッ】
自身の強さに誇りを持っているハマにとって、そんな事実は受け入れがたいもの。その辺り、ハマとハルバは少し似ていると云えるだろう。
ただ、ハマは黙々と鍛錬して自身が強くなっていくタイプであり、ハルバは強い相手を下すことで、高みに上った実感を得る……と、少しだけ方向性が異なってはいるが。
「じゃあ、大槌さん、いつか僕のところまで上ってくることを祈っているよっ。ハーハッハッハーっ」
『相棒っ、なんだか、どちらが悪役かわからない感じになっていますっ』
呆然としているハマを放置して、メイは高笑いしながら、戦域から離脱を始める。首に巻いているドリーの言葉通り、その台詞は、後に出てきて成長の糧になりそうな、小悪党さながらのものであった。
【ぬうう、待てぇぃッ! オレの腕をしっかりと確かめろッ! くそッ、おのれッ、力ずくで訂正させてやるッッッ!】
逃げていくメイを見て、怒りとか、悔しさとか、そんなもので一杯になりながらもハマが追いかける。
もう彼の頭の中には『必ずあの言葉を訂正させてやる』というもので埋めつくされていた。
全力で追いかける。怒りのままに追いかける。
そして……赤錆はまた一人、戦場から姿を消したのだった。
◆
城壁の上で、黙々と矢を放ちながらも、アロが訝しげに首を捻る。
――戦場から三人消えた。
というよりは、かなり離れた場所で、走り回っている。
何をやっているんだアイツラは……と、若干の呆れを抱きながらも、アロは顔を右下にある民家へと向けた。
一人、と一匹。
その家の裏手には、今も隠れているメイとドリーがいた。
アロは既に、ハルバたちを牽引したのがメイであることに気が付いており、その位置も先ほどからずっと把握していたりする。
だが、この場所から移動する気もないし、標的にする気にもなれず『放っておくか』と、位置だけ追って遊ばせていたのだ。
一人一殺、ではないが、わざわざ人の獲物を奪う必要性を感じなかった。
別にこの場には自分一人がいれば事足りる。もし突っ掛かってきたら、その時に対応すればいいのだから、自分から仕掛けるまでもない。
それに、アロの個人的な理由から、少しだけメイたちに関わりたくない気持ちもあった。
【…………】
――にしても、一体ナニがあったのだろうか。
ハルバたちの位置も、メイたちの位置も、アロは今のところ完全に把握できているが、そこで何があったのかまでは分からない。
ただ、何かしらの方法でおびき出されて、罠に掛けられたのだろうとは予想している。
――アイツラは単純だからな。
小ばかにしたように、アロは近くに置いてある混合建材にふらふらと手を伸ばすと、矢弾を作って、また撃ち放った。
弦の鳴く音と、矢弾が風を切って飛び交う音が気持ちよく響いている。
アロは矢が飛んでゆく、その風切り音が好きだった。そして、その矢が獲物を貫く音が好きだった。
しかし、いつもならば、自分の撃った矢の音に聞き入るのだが、今日は……いや、最近はどうにも浸れない。
撃っても当たらないからだ。
狙っている獲物が、妙に早い生物に乗っているせいで捉えきれない。先読みして撃ってはいるが、それだって乗っている射手のせいで、軌道を変えられてしまう。
尋常ではなく気に喰わなかった。
アロにとって亜人は獲物。狩人が撃つべき獲物なのだ。その獲物が延々と矢を避け、その上、似たような武器を使ってソレを防ぐなど、屈辱に近い行為である。
絶対に殺してやる。と心に定め、アロは遠くにいるリッツへと視点をあわせた。
色の無い世界に、波紋が幾つも広がっているのが見える。
紅い波紋。緑の波紋。黒い波紋。白い波紋。
それは魔力や命力などの、体に住まう力の波紋であった。
射手であるはずのアロの視力は、実は最低値とも言えるくらいに弱い。すぐ側にある混合建材の位置すら、ときおりアヤフヤになってしまうほどだ。
人の輪郭などは光っているのでわかるが、肌やそういったモノの色は、暗い灰色のような……不可思議な色にしか感じない。
アロ自身が作り上げた矢弾でさえも、砂色ではなく、緑色の発光した光矢に見えていた。
が、その代わりに、アロは他の者には見えない世界を眺めることができた。
はるか昔からそうだった。生まれた時からそうだった。
森に生まれ、森で育ち、その視力のせいで――昔は――接近戦ができなかったアロは、生きるために矢をつがえ、獣を狩る狩人となった。
頼りにするのは、他人と違う目と、鍛えられた聴力。口などは必要ない。むしろ邪魔だと言っていい。
悲鳴を漏らせば猛獣に居場所を知られてしまう。驚きの声を上げれば自分の命がなくなってしまう。
そんな生活を続けていくうちに、いつしかアロは喋らなくなった。
――あの区域は“薄く”なっているな。
アロの視界、その一角に、波紋が弱々しくなっている場所があった。それを見て取ったアロは、リッツに矢を一本放ちながらも、もう一本をそこに撃ちこんだ。
グン、と矢が曇り空に飛び、薄くなっていた場所にいた小さな波紋が、ポンと震えて一つ消える。
途端に――他の波紋が強く光った。
共振。
アロの元々の視力では、遠くまで見通せないが、自分が創った剛矢があれば、話は別。
その矢弾は少し特別で、いわゆる電波塔の役割も果たしているのである。
ソレは、はるか遠く、彼方の相手の位置を掴むために、アロが過去に覚えた魔法の一つ。
昔使っていた“ソレ”と、今の“ソレ”では、使用する力や、効果範囲も違っているが、効果は似たようなものだ。
力の波紋を矢が受け取り、次の矢がまた受け取り、ソレを術者まで報せる。
無数に撃ちこんだアロの剛矢は、一定時間を過ぎると崩れ去ってしまう欠点もあるが、こうやって薄くなった部分に、また撃ちこむことで補強できるのだから、さしたる問題でもなかった。
人の判別だって、苦ではない。
普通の人が容姿で見分けるように、波紋の色や形だけでも区別ができる。というよりも、アロはこの視界以外しらなかった。
亜人の判別もすぐにつく。
人と亜人で比べると、亜人の方はなにか混ざっているようで、色がごちゃごちゃと曖昧だった。
獣と人が混ざったような……その“殆ど”が、アロにとっては汚い色。視界に入ってくると随分とわずらわしく感じてしまう色。
――消えてしまえ。
狩人は矢を放つ、獣を狩るという仕事を行うために。
アロは矢を放つ、目障りな波紋を一つでも多く消してしまうために。
黙々と矢を撃ち続け、ほんの少しの時間が流れた……その時。
薄くなった区域に放った一本の矢弾が、二つの波紋によっていきなり軌道を変えられた。
【…………っ】
覚えがある色と形――その独特過ぎる波紋を見て、アロは一人忌々しそうに瘴気を漏らす。
ギザギザで、綺麗な円で、蒼で、黒で、白で、緑で………………。
ポン、ポン、とその時々で色が変わり、形が変わり、それに呼応するように、もう一つの小さな波紋も一緒についてゆく。
そんないまいち掴めないソレは、メイとドリーのモノだった。
ソレは亜人のモノよりごちゃ混ぜで、汚いようで綺麗であって、アロにしてみれば、訳の分からない初めて見る波紋である。
シャイドの波紋も、ウネウネと形を変える不気味なモノであったが、それとは違う意味で、奇妙な見た目。
どうにもそれが不気味……というか慣れなくて、アロはメイとドリーに関わりたくなかった。
が、アロがそう思っていても、次に撃った矢も、また次に撃った矢も、メイとドリーがちょっかいを出してきて、軌道を変えて打ち落とす。
――邪魔ばかりして。
少しだけアロが苛立ちを見せる。放った矢を、狙い通りの場所に当てられないのはストレスが溜まるからだ。
他の場所に変えようか、そう思ったが、その付近は段々と矢が薄くなっている場所だったので、補強するために撃たざるを得ない。
――数本いっぺんに撃って誤魔化すか。
手の届かない位置に放てば、どうにか補強できるだろう。そう判断し、アロは建材に手を伸ばした……のだが、予想外の事態が視界の中で起こり、思わず手を止めてしまった。
近づいてくる。メイとドリー、その二つの波紋が、なぜか剛矢を三本ほど持って、アロのいる城壁付近に接近してきている。
かなり速い。凄まじい速度で迫っている――なぜか矢を持ったまま。
多少間の抜けた状況ではあるが、アロ油断するでもなく、逆に警戒心を抱いた。
――アレはハルバたちを誘導した張本人だ。注意せねば。
矢弾を先に作り出し、十分に弾を確保する。城壁上にいる兵を十五名ほど呼び寄せ、時間稼ぎの盾を作る。
いまのアロなら接近戦だって勿論できるが、ハルバたちに比べれば、それは、少し拙いモノである。
距離を離すにしても、相手の速度から考えれば足止めは必要だ。
さすがに城壁を登ってくるなんて、馬鹿なマネをしてくるとは思っていないが、それでも念のための準備は怠らなかった。
矢弾の数も十分、盾も十二分。位置関係も完全に優位である。何をしてきても対応できる自信があった。
――来るならばこい。
と、油断無く待ち受けていると、まるでソレに応えるように、突如、一本の矢弾がアロへと向かって、撃ち出された。
いや、撃ち出されたというよりは、ドリーが剛矢を咥えこんで、走った速度をそのままに、槍投げのように、ぶん投げただけだ。
ただ、相変わらず狙いは正確で、身構えていたアロの元へと、逸れることなく一直線に飛んでいる。
避けるか? 一瞬そう思ったが、アロの背後は王が居る城。そこに自分の作った矢弾が撃ち込まれるなど許せなかった。
【……っ……!】
アロ独特の感覚で矢弾をしかと捉え、左腕を払うように動かしソレを一瞬でつかみ取る。
ギャリギャリ、と金属を擦る音と火花が散ったが、アロは身体を回転させることで矢の勢いを殺し、手から零すことなく矢弾を掴みきった。
「おお、掴んだ!」
近くの屋根の上で、メイが足を止めて騒いでいる。
――なにがしたいんだ……アレは。
優れた聴覚で、その歓声を聞き取ったアロは『とりあえず訳が分からないから撃ち殺そう』と、先ほど受け止めた剛矢を弓につがえた。
が、
【……?】
引き絞ろうと握りを変えた瞬間に、指先に違和感が走る。
場所は矢の半ばほど、ナイフで刻まれたかのように、デコボコになっている。
傷? いや、よく確かめてみれば、それは文字であった。
アロが覚束なげに指を動かし、その文字を読み取ってゆくと、そこにはこう書かれていた。
『“射的”の“練習”をするのは良いのですが、できれば“外した”矢をしっかりと回収してください。後始末も自己責任ですっ』
――こいつ……ッ。
読み終わった後に、アロは言いようのない苛立ちを感じてしまったが『狩人は冷静で在れ』と、強引にソレを抑え込んだ。
そして、そんなアロの怒りを煽るかのように、メイは残り二本の矢を手に持って、茶碗を箸で叩くように、屋根にチャンカチャンカと打ち付け遊んでいる。
首に巻いているドリーも、楽しそうに頭をシャバダバと動かしていた。
詳細な動きこそ分からないものの、相手がふざけていることぐらいはアロにも分かる。
いや、もう誰が見ても、ソレは明らかな挑発だった。
――ハルバたちがどこかに行ったのも、これが原因か。
なんとなくではあるが、アロはメイのやりたいことを掴みとっていた。というか、現時点でアロ自身が若干イラ付いているのだから、もう間違いない。
――まぁ、ハルバたちでは仕方ない。
アロは怒りっぽい他三名を思い出し『自分はこんなものには引っ掛からないぞ』と冷笑した。
こういうのは、相手にしたほうが負けである。
ただ……好き勝手させておくのも、それはそれで危険だろう。
アロは熱くならないよう自分を諌めながら、五~六本に一本程度の割合で、邪魔なメイへと矢を向けることを決めた。
戦弓を構え、弦の音を連続で鳴らしながらも、アロは砂色の矢弾を次々と放つ。
すると、定期的に狙われ、メイは自由に動くことができなくなった…………のか、一定範囲内で飛んでくる矢を避けながら、何をするでもなく、歩き回り始めた。
剛矢が地面に次々と飛ぶ。メイはそれを待ち構えるように動きを止めて、自分に飛んで来たときだけ、ほんの少し動いては悠々と避けて見せている。
――ふん、そんな挑発には乗らんぞ。
おおかた、矢を避けて見せることによって、怒りを煽ろうという腹積もりだろう、と思ったアロは、冷たくメイを見下ろすだけで、決して五本に一本のペースを崩さなかった。
冷静である。いたって冷静に対応している。
亜人が大分撤退しているのは気に喰わなかったが、アロとしては自分が他の武器たちとは違い、挑発に乗らなかったことに満足していた。
――どうだ、こうやって定期的に矢を撃ちこんでいれば、満足に動けまい。
相手を自分の矢で動かしているような感覚。徐々に追い詰め、動きを封じる達成感。
何も出来ないだろう。できることすらないだろう。
だが、
そんな考えは、少しばかり甘かったと言わざるを得なかった。
【……ッ……!?】
ソレにアロが気が付いたときには、もう遅い。完全に手遅れだったのだ。
気分良く撃っていたアロの矢弾。
ちょこまかと止まっては避けてを繰り返すメイ。
その結果が、アロの視界の中――広々とした城門前の広場に刻まれている。
地面に突き刺さった砂色の矢弾は、アロの居る位置から見ると、まるで発光する点字のようになって、一つの文章を作り上げていた。
それを日本語に直すとすればこうだ。
『矢で文字を書くなんて新しいでつね。的にあつゑ練習から始ぬた方が良いと思いますっ』
【っっ!】
異常に腹がたつ。所々間違えているのも腹立たしいし、わざわざ全部をアロ自身の手で書かせたのも、苛立ちを助長する。
――いかん落ち着け、見るな、アイツの相手をするな。そうだ矢を撃てば落ち着ける。弦の音を聞けば……獲物に当てれば……
必死にメイから顔を背けて、湧き上がってくる怒りを押さえ込んだアロは、精神衛生上、もう構わないほうがいいと判断し、他の区域へと向かって射撃を始める。
が、それがいけなかった。
メイから視線を外して暫く――延々と矢を撃っていたアロは、全く望んでいないソノ声を聞いてしまった。
「ははは、逝け、発射ッ!」
『むうう、どーんっ!』
メイとドリーの声を切っ掛けに、ジャラジャラジャラと、鉄箸でも纏めてばら撒いたかのような、硬質でけたたましい音が空に響き渡る。
アロが驚きそちらに顔を向けると、ソコには放物線を描き飛んでくる、砂色の剛矢が十数本。
発射下は民家の屋根。撃ったのは、蝶子さん付きで射程距離が異常に伸びた『プラント・ランチパッド』の植物大砲。
矢を集めたのはメイで、射手はもちろんドリーである。
――この程度で……ッ。
空から降り注ぐソレに視線を向けたアロは、巨大な戦弓の両端を巧みに使用し、自分に当たりそうなものだけ選んで跳ね除けた。
しかし、周囲にいたファシオンはそうは行かず、頭部を、肩口を、はたまた腹をと、あっさり数人が貫かれ被害が出ている。
――ふざけてばかりと思えば、隙を見せればこれかッ!
矢を全て防ぎきったアロは、イライラとメイの位置を確認し、新たな矢を作る暇すら惜しんで、地面に落ちている矢を掴み取る。
が、ソレを手にとった瞬間。
アロはその矢を放り投げ、次のモノへと手を向け……また掴んでは投げる……掴んでは投げる。
どこまで馬鹿にすれば……と、アロの手が怒りでフルフルと戦慄いた。
というのもだ……メイが植物大砲で撃ち返したその全ての矢に、
『返品します』『お待ちっ』『へたくそ』『ハズレ』『当たり、やったねもう一本っ』
などなどと、先ほどと同じように文字が刻まれていたからである。
「そこの弓の人、あんまり散らかしたら駄目ですよーっっ!」
『撃つなら拾え、拾わないなら撃つな、ですねっ』
暢気な声でメイが叫び、ドリーが『良いこと言った』みたいに蛇頭を後ろに逸らして、踏ん反りかえったようにしている。
【…………】
黙ったまま、アロはむんずと矢を手に取ると、躊躇い無く弓をはちきれんばかりに引き絞る。
アロの身体からは、瘴気がいっぱい漏れている。でもまだ冷静だ。
矢先は迷うことなくメイに向けられている……しかし、アロは冷静だった。
つまり、冷静に、真面目に考えて、アロはある結論に至っていたのだ。
――アレは、少し構っても余計なことしかしない。放っておいたらもっと余計なことしかしない。
駄目だ……早く殺そう。なにより、アレは生かしておくと、王の為にも絶対に良くない、と。
気が付くと、アロの狙いの割合は、五本中全てがメイへと向いていた。
いや、赤錆全員の標的が、全てメイへと向いていた……。
◆◆◆◆◆
あれから暫く。
既に戦場は、戦場と呼べないほどに人が疎らとなっていた。騒音も剣戟も止んで、怒声も消え失せ、砂埃ですら収まりをみせている。
それも当然か、赤錆さえ居なくなってしまえば、ファシオン兵なんて、本隊の人たちでもどうにかなるのだから。
シズルさんとリッツ、そして樹々の移動速度、そのお陰でかなり広範囲にわたって統制が取れ、撤退も混乱もせずできたのだから、随分と助かった。
完璧だ。
上手くいった。十分に頑張ったといえるだろう。
そう心の中で頷いた俺は、殆ど誰もいなくなった城門近くの広場の真ん中で、
「くそがッ、神なんていないッ! いたら不幸になれッ!」
神様に向けて、呪いの言葉をぶちまけた。
やばい。どうしてこうなった。早過ぎる。正直そう愚痴らずにはいられない。
いや、広い目で見れば戦況は良い。間違いなく素晴らしい状態だ。
ただ……
そこにあえて言葉を付け足すならば“俺以外は”とするのが正解だろう。
ジャリ、と聞えた足音に、俺は嫌々ながらも顔を向ける。
【ようやく見つけたぞ、槍使いは私の獲物だ……“貴様ら”手を出すなよ】
前方、十メートル先から斧槍を担いだ赤錆が一人接近してきていた。身体からもくもくと瘴気を垂れ流し、非常に猛っているのが一目見ただけで分かる。
【はは、ハルバぁ、駄目よ、アレは私がぶちまけないと気が済まないのよッ!】
左へと顔を向ければ、乾いて固まった泥の厚化粧を、ボロボロと地面に零しながら、コチラに歩いてくる、赤錆の大剣を持った女戦士が一名。
なんだか、笑いながらも、周囲に殺気を振りまくという、色々キテいる状態だ。
【戯けどもがッ、そいつにはオレの力を忘れぬように、存分に叩き込んでやらねばならんのだッ! 邪魔をするなッ!】
右へと顔を向ければ『さあ、こちらを見ろッ』と言わんばかりに瘴気をだだ漏らしにしている、大槌を持った戦士が居た。
怒声を放ちながらも嬉しそうにしているが、俺は全然嬉しくない。
【…………】
首筋がチリチリとする感覚に、後方上部に視線をやれば、でっかい弓を限界まで絞った赤錆が、つがえた矢に瘴気を纏わせ俺を狙っている。
突き立てるように自分の周りに矢を並べ立て、連射する準備までしているのはご苦労なことだ。
前も後ろも、右も左も、どこを向いても赤錆。
そう、俺の現状は、撤退した本隊の現状とは裏腹に、完全に四面楚歌そのものだったのだ。
俺は、苦笑いしかでないくらいまずい状況を見て『くそ、だからあの弓野朗を引っ張るの嫌だったんだ……』と、後方にいる弓持ちを呪う。
というのも、こうなった原因のほとんどはアイツにあるからだ。
どんな手使ってるのかは知らないが、あの弓使いは、簡単にこちらの位置を把握して矢を撃ち込んでくる。
そのせいで、他の赤錆まで矢の弾道を辿って……俺に向かってくる始末だ。
いや、俺だってリッツからそれは聞いていたので、ある程度そうなるのは予想はしていた。
だからこそ、アイツをおちょくるのを一番後回しにしたのだ……が、どうやら世の中全て思い通りと言うわけにはいかないようで、今回は、少々俺の予測と違う事態が起こってしまった。
――あの野朗、まさか伝言代わりに矢を撃ちこむとは思わなかった。
完全に予想外。
なんとなく赤錆は個人プレーばっかりして、連携を取らないイメージがあったのだが、本隊の撤退が完了しそうになったのを見た弓使いは、こともあろうに、斧槍や大剣などを誘き寄せ始めたのだ。
もうちょっと遅ければ俺も逃げ出せたものを、弓使いの無駄なファインプレーで、一気にこの状況にまで陥ってしまった。
どんだけ俺を逃したくないんだよ……信じられんしつこさだ。
冷や汗をダラダラと垂らし、近づいてくる赤錆を見ながら必死に頭をめぐらせるが、もうここまで来ると『必死になって逃げる』くらいしか浮かんでこない。
こうなったら、仕方ないか……。
俺は、多少『無駄かな……』と思いながらも、恐る恐る赤錆に向かって話しかけた。
「ああ、皆さん……まずは怒りを抑えてください。僕と貴方たちの間にはー、きっと誤解や、不幸なすれ違いがあったんじゃないかなーと。
そう、まずはそれを解くために話し合いを……」
瞬間。
やんわりと、誠意を込めた俺の言葉は、しっかりと皆の心に響いたようで、赤錆の身体からは、減るどころか一斉に瘴気が爆発した。
なんだか……怒っていらっしゃる。
『相棒ぅ、もうおちょくらなくて良いんですよ?』
「くそ、そんなつもりは毛頭なかったのに、なんであんなに怒ってんだアイツラ」
圧殺されそうな殺気に耐えながらドリーに返答した俺は、覚悟を決め、いつでも包囲を突破できるように、槍を握って四肢に力を漲らせた。