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俺の人生ヘルモード  作者: 侘寂山葵
混淆都市シルクリーク
95/109

豹と土竜 砂色と瘴気

 




 まるで裂けた化け物の口の如き妖しさで輝く三日月が、薄く流れる雲に浮かび上がり、砂地広がる一帯にぼんやりとした明かりを落としている。

 起伏ある砂地がうねるその様はまるで波のようで、それが広がるこの場所は、言うなれば砂水が溢れる大海だった。

 

 ここはシルクリークから真っ直ぐ西――【死狂い牢夜】で挟んだ位置にある砂海原。

 そして……現在、サラサラと砂風が舞う夜闇が満ちるそこには、もそりと蠢く影が二つ程あった。

 仮にメイが見たら『豹と、モグラか』と言ったであろう容姿をした亜人の男二人だ。


 這うように砂地に伏せた二人の姿は、メイが樹々に施したのと同じように、砂まみれの服となっている。

 動きを阻害しない薄生地の服と、覆面のようなモノでほどほどに隠された顔。

 薄暗さもあいまって、目を凝らしてもすぐに見つけられないほど、彼等は周囲の風景に溶け込んでいた。

 

 しばらくの間、冷たい砂漠の夜にシンと静寂が流れていた……が、口を噤んで前方を伺っていた豹型の男が、不意にパタパタと砂だらけの尻尾を揺らし、隣で伏せていたモグラへと静かに声を掛けた。


〈ようやく奴さん達が動きをみせてくれたのはいいが……もうちっとサクサク進んでくれねーかな。寒くて仕方ねーよ〉

〈……で、でも、兄貴、余り早く進まれるとオレ絶対に追いつけないし……こ、これくらいで丁度良いんじゃないかな?

 オレ……本当にこういう追跡とか得意じゃないし〉


 ブルリと寒さで身を震わせた豹の男に、モグラの男が少しどもり気味な調子で返答する。

 モグラの男は余程不安なのか、今もとんがった鼻先で砂地をほじくって、自信なさげに視線を落としていた。


〈……はぁお前は〉


 その様子を見た豹の男が、一度呆れたように溜息を吐いて、今もむにゃむにゃと呟いているモグラの男の横腹を、外套の上から軽く蹴りつける。


〈――ッ!?〉


 決して盛大な音が鳴らないように気を使われた蹴り……というより押し出しを受け、モグラの男は声を出さないように口元を押さえて、伏せたまま横にコロコロと転がった。

 少し丸みを帯びた彼の体が転がる様は、どこかコミカルで、蹴った豹の男も堪えきれず、小さな笑いを洩らしている。


〈な、なにするんだょ……兄貴、痛いだろ〉

〈うっせぇな真ん丸……地形的に考えてもオレよりお前の方が有利だろうが、何の為に連れて来たと思ってやがる。もうちっと自信持ちやがれ……〉

 

 真ん丸、と呼ばれたモグラの男が抗議の声を洩らすが、豹の男はそれをバッサリと切り捨て、頼りない子分に発破をかけようと、言葉を続けようとした。

 が、


〈……っと……動いたか〉


 百メートルほど前方にいる、砂色の兵装を纏った集団に動きがあったのを確認し、すぐさま言葉を切って、何も見逃すまいと視線をそこへと固定する。

 見えたのは、砂原に蠢く百二十名程の兵士――つまるところ、ファシオン兵達が、ケイメル(ラクダみたいな生き物)に跨り、悠々と移動を開始している姿だった。


〈行くぞ、真ん丸っ〉

〈もう、その呼び方やめておくれよ……〉

〈ぐだぐだ言ってんな、ほら手貸してやっから、身を低くして立て〉


 砂地に転がっていた真ん丸に手を差し伸べて、グイと引っ張り助け起こす。

 豹の男は、子分の準備が整ったのを確認すると、ソロリソロリと、さながら獲物に飛び掛る直前の獣のような静けさで、ファシオン達の後を付け始めた。

 

 サクサク……と砂地が亜人二人の足音を、軽快な音へと変えている。

 静まり返る夜に響くソレは、立てている本人からすればかなりの騒音ではあったが、百メートル以上離れている相手にばれるような音ではなかった。

 

 口を噤んで前を睨み、付かず離れずの追走が続く。

 後を付けること自体はそう難しい事でもなかった。相手の進行速度は、人が走る程度。身体強化と重量軽減を掛けている亜人二人……いや、走るのが得意な豹の男からしてみれば、慎重に進んでも置いていかれる程ではなかったのだ。


 もし速度を上げられたら? という焦りも特にはない。仮に置いていかれたとしても、その時は――真ん丸を置いて――足跡が消える前に、全力で辿っていけばいいだけなのだから。


(しっかし……あいつ等いつ食事取ってやがんだ? 何度か休憩は挟んじゃいるが、焚き火も数がやたらと少ねぇ……移動中に食ってるだけか?)


 豹の男の脳裏に過ぎる、違和感程度の小さな疑問。

 実際移動速度はそこまで速くはないのだが、休憩の回数が大分少ない。あったとしても、火を殆ど炊かず、食事を取っている様子は見られない……いや、一応あるにはあるのだが、風下に香るそういった匂いが異常に薄い。

 言うなれば、まるで食事を取っている者が一人か二人しか居ないかの如き薄さである。


 恐らく……兵は水と匂いの少ない保存食でも食べていて、位の高い指揮官がまともな食事を取っているのだろう……そう自身を納得させて、豹の男は湧いた疑問を振り払った。

 だが、いざそれを振り払ってみれば、今度はまた違う疑問が姿を現し、また豹の男を悩ませる。


(もう三日……一体どこに向かってやがる……この方向に街なんてねーぞ。淡々と歩き続けやがって、こっちは昼間の暑さも夜の寒さもウンザリだってのに)


 サバラの命令によって、ファシオンの追跡を行っているのは良い。しかし、歩き尽くめで砂まみれ、気温の変化も激しいとくれば、流石に若干の嫌気も差してくる。

 後どれくらい歩くのか、後どれくらいこのまま追跡しなければならないのか、中々見えない終わりに、我知らずと寒空を睨む。

 

 愚痴を零せれば少しはスッキリするかもしれない。でも隣にいるのは少し頼りない子分、真ん丸だけ。

 彼に不安を覚えさせない為にも、豹の男としては愚痴を吐いて見せる訳にもいかなかった。

 楽しい遠足とはいかねーな――と豹の男はフンっと鼻を鳴らして、付いていた砂粒を吹き飛ばした。

 

 好んで行いたい仕事じゃない……が、やはり手だけは抜けない。

 ファシオンが兵力を殺がれたこのタイミングで動いたのだ、サバラの求めていた情報に辿り着ける可能性は非常に高い。

 豹の男としても、これが重要な仕事であることは重々承知している。

 それに……目の前に勝利の光がちらついているだから、多少面倒だとは感じても、やる気がなくなる筈もなかった。


(あの鉄仮面達の姿見ちまったら、多少の苦労はなんのそのってもんだ)


 豹の男の脳裏に巡る、最近の局地戦で見た光景。今まで自分達を好き勝手に甚振っていた鉄仮面達が、おちょくられ、怒りに身を任せている光景。

 ざまあみろ、スカッとする……爽快な気分だ。

 思わず豹の男は口端をついと吊り上げ、静かに笑う。


 一応緊張感をもたなければならない状況ではあるのだが、心躍るような感情が湧き上がるのを、思うようには止めらない。

 ――完全に殺しに来ているあの戦士から、未だ逃れ続けている者がいる。

 しかも彼等は自分達の味方……それは豹の男の、否、亜人達にとっては震えるほどの光を宿した希望であった。


 今まで固く閉ざされていた勝利への壁は、その味方によって穿たれた。それはまだまだ小さな穴なれど、覗いてみれば先に光が見えている。

 もし自分がここでサバラの求めている情報に辿り着けたのならば、覗き穴でしかなかったソレは、きっとデカッイ穴になる。


 奴らの所為で、仲間が死んで。

 奴らのせいで、知り合いが死んで。

 そして自分の好きな都市の雰囲気までもが、吹き散らされるように死んだ。

 恨み言を吐けばきりが無く、憎む心は消えなどしない。

 でも……勝利を手に掴めば、少なくともソレは無駄ではなかった証明になる。


(嗚呼、さっさと仕事をやっつけちまおう……この糞つまんねー追跡が、勝利へと向かう鍵になるかもしれねーんだからよ)


 豹の男の心が燃ゆる。獣の瞳が意思の力に輝いた。

 既に見えている希望を掴み、上手い酒と気ままな暮らしを夢に見て――。




 西へ、西へ……黙々と。

 ファシオン兵を亜人二人が追いかけ続け、更に数日――ようやく砂漠地帯を抜けて、砂色の兵隊が目的地と思わしき場所へと入っていった。


〈兄貴……ここって〉

〈ああ、一体何でこんな所に……〉


 時刻は夜、鳥かなにかの鳴き声が微かに沁みる岩場の陰――そこに隠れてファシオンの動向を伺っていた亜人二名は、相手の目的が全く理解できずに混乱していた。

 何故こんな場所に?

 二人がそう思うのも無理もない。

 何故ならば……ファシオンが辿り着いたのは、シルクリークから西に位置する“三級危険区域”であったのだ。

 

 深い渓谷とソコを流れる幅広い川、崖や岩場が多いこの区域は、特筆すべき箇所などそれほど無い。しいていうならば、ここから更に西に行けば獄があると言うくらいだろうか。しかし、何故そんな場所をファシオンが目的地に定めたのか、それがどうしても二人にはわからなかった。

 

 ジリジリと、砂色の兵隊の背を追いかけながらも、二人は暗い夜道を進んでゆく。


〈兄貴……オレ、てっきりどっか他の街とか、他国にでも行くのかと思ってたんだけど〉

〈まぁ、真ん丸の気持ちもわからなくはねーな……実はオレもそう睨んでたからな〉


 相手に聞えない程度に落とされた声量で、真ん丸が自信無さ気に呟いて、豹がそれに肯定を返す。

 二人の今回の目的は、ファシオン兵の補給地点を探ること。なれば、やはり『人が集まる場所に向かっているのだろう』と思うのも当然だった。


(なんだか良く分からないけど、不気味だなー、この辺)


 暗い区域を躊躇う事無く先へと進んでゆくファシオン兵、その後ろ姿を見ているうちに、真ん丸は小さく身を震わせていた。

 嗅覚と聴覚には自信があるが、元々真ん丸の種族は余り視力が良いほうではない。

 

 その所為で、先を進むファシオンの背中が、なんとなく暗闇に人が飲まれてゆくように見えてしまい、思わず恐怖を感じてしまったのだ。


 嫌だなーと、真ん丸は無意識のうちに、助けを求める視線を豹の男へと泳がせる。

 が、隣を歩く兄貴分の姿を見て、その機嫌の程を悟ってしまい『今は余計な事を言わないほうが良いや』と静かに口を噤んだ。


 右へ左へと、撓りのある動きで揺らされた豹の尻尾。普段は手の平に隠れている鋭い爪が少し顕となって、キチキチと静かに擦り合わされている。

 あれは間違いなく苛付いている時に見せる動作だ――と、それなりに付き合いの長い真ん丸にはお見通しだった。


(兄貴の様子からしても……やっぱり、これって(かしら)の知りたかった情報じゃないのかな)


 心中に流れる少し居た堪れない気持ち。

 せっかく掴めたと思ったのに、有力な情報になると思ったのに。

 サバラも、自身の兄貴分でもある豹の男も、今回のファシオンの動きには少なからず期待している部分があった筈だ。

 ならば……それが目的とは違っている可能性が高まった今、やはり期待していた分だけ、気落ちしてしまったり苛付いたりしてしまうだろう。

 そう考えると、やはり渦巻く曇天の如き澱んだ感情は、中々消えてくれやしなかった。


 ――あんまり、知り合いのそういう姿は見たくない。

 少し乱暴で、いつもからかうばかりの兄貴分ではあるが、良い所だっていっぱいある。

 そんな彼に、真ん丸は悲しい顔をさせたくなかった。

 

(出来れば良い情報を得られますように)

 

 祈るような心境で、ピクピクと、とがった鼻先を動かして、真ん丸は臭いと音に集中しながらも、ファシオンの姿を追ってゆく。

 怖くはあったが、もし見つかりそうになったら、使える分岐魔法でちょちょいと穴を掘って隠れれば良いのだ……そう、自分を励まし怯えそうになる足を動かした。

 

 足も遅くて、大して強くもない真ん丸ではあるが、種族の恩恵による鋭い聴覚と嗅覚――そして、ただ穴を掘ることに特化した、己の分岐魔法には、少しだけ自信があった。

 地面が土や砂、普通の岩程度であるならば、兄貴分でもある豹の男と一緒に入れる穴くらいは簡単に掘れる。

 さすがに完全に発見されてしまった後では、この特技も余り役に立たないかもしれないが、そうなる前に隠れて見つからないようにするのが、真ん丸に課された役割だ。


 真ん丸は己の平べったい両手に生えている指、その一本一本を覆うように装着されている金属爪を、一度カチャリと確かめて、安心したのか満足そうに頷いた。

 

 ぺたりぺたりと、両手と同じく平たい両足を……静かに地面につけて穴掘りモグラは闇を進む。

 向かう先に、暗い宵闇の先に、きっと希望があるのだ――と、願うように、祈るように信じて進む。

 ふと空を見上げると、雨を含んだ雲の所為なのか、弧を描いた月は、深海の如き不気味な蒼闇(そうえん)色で輝いていた。


(あの色、なんだか余り好きじゃないな)


 自分を嘲ける口のようなソレから視線を外す。まるで今も背筋に感じる怖気から目を背けて見ない振りでもするかのように……。




 真ん丸は豹の男と共に、三級区域を更に奥へと進んでいった。

 岩場が転がる地帯を抜けて、見通しの良すぎる広場をソロリソロリと通り抜ける。

 時には穴を掘って身を隠し、時には物陰に隠れて息を殺す。

 モンスターは意外なほどに出現しなかった。いや、出てきてはいたが、先行くファシオン達がモンスターを切り刻みながら進んでいたので、真ん丸達までモンスターが来なかったのだ。

 

〈助かるっちゃ助かるが……せめてもうちっと素材なり何なりを拾って欲しいもんだな〉

〈そ、そうだね。なんか勿体無い気がするよ〉


 まるで道しるべのように点々と転がるモンスターの死体と、時折転がるファシオンの死体を見て、豹の男がつまらなそうに吐き捨て、真ん丸はそれに同意した。

 恐らく怪我人でもいるのだろうか、地面にはポツポツと血液の染みが黒い跡を残している。


 ドクドクと心臓が破裂しそうな程の緊張を感じながらも、更に十分程足を進めて行くと、渓谷に掛かる大きな吊橋を数本渡った先で――ついにファシオンが歩みを止めた。

 ……いや、歩みを止めたというよりは、中に入っていったと言った方が正確か。

 

 一抱えあるような岩、とても持ち上げられそうにも無い大岩。そんな灰色の岩石達が、小山でも作るかのように積み上げられている。

 円を描くように作られたその岩石山の下部――その一箇所には洞穴のように暗い入り口が開けられていた。


〈真ん丸……慎重に近づくぞ、絶対に音は立てるなよ〉

〈う、うん、分かってるよ兄貴〉


 息を殺し、気配を殺し、二人は前方の様子を注視しながら忍び歩く。

 入り口は一つしかない。だが、隠れる場所がない入り口からそのまま入るのは考え無し過ぎる。

 ではどうするのか?

 ……二人の選んだ方法は“岩を登る”と至極単純なものだった。


 豹の男が己と真ん丸に、重量軽減と身体強化の魔法を掛けて準備を整える。

 

 不可能ではない……というか容易いと言ってもいい。

 岩壁が周囲を取り囲んでいるとはいえ、流石に洞窟ではないので、上部は開いている。岩を積み上げただけの壁には隙間が多く、登ること自体はさほど難しくはない。


〈登るぞ真ん丸、落ちんなよ〉

〈わかった……頑張る〉


 魔法の恩恵で身体が軽くなった二人は、ソロソロと岩壁に近づき、その隙間に手を掛けた。

 真ん丸が先、豹の男がそれを助けながら、右手、左手、と交互に動かし、上を目指す。

 幾度か、真ん丸の平たい手の所為で危なっかしい場面もあったが、それも身軽な豹の男のフォローによって、落ちることだけは免れていた。


(上に見張りはいねーし、このまま最上部から中の様子を確認すっか……内側から微かに金属音が聞えてきてるし、流石にそれ以上近づくのは無理だろうな)


 頭部に巻いた布から除かせている三角の耳を、豹の男は集中するようにピクピクと動かす。

 カチャカチャとした硬質な音は、恐らく防具か武器が擦りあっているものだ。一人、二人……と、そんな少ない数ではない。ただ、漏れている音はかなり小さく、正確な数を把握することは出来なかった。

 一体何をしているのか……と気になって仕方なかったが、それも上に行って確認してみれば分かること。

 豹の男は先を進む真ん丸の身体を、頭や手などで押しながら『早く早く』と登っていった。


 石片を下に落とさないように慎重に登り続けて暫く。

 下を見れば少し肝が冷えそうな高さにある、頂上付近へと二人はようやく手を掛けた。

 顔を出して見つからないだろうか……そんな不安を感じて、一瞬豹の男は躊躇いそうになったが『見なければ何もわからねー』と覚悟を決めて、岩壁の天辺からソロソロと顔を覗かせ内側を伺った――瞬間。


〈――っ――ッ!?〉


 思わず情けない悲鳴を上げそうになった。

 喉元からせり上がってくる叫び声、己の全身の至るところから冷や汗が噴出しているのではないか、そう思ってしまうほどの光景がそこに在った。

 声を洩らさないように必死になって口を噤み、岩壁を掴む力が抜けてしまいそうになっている両手を、懸命に握り締める。


(あり得ねぇ……なんで、なんでこんなに居やがるんだこいつら……)


 豹の男の瞳が岩壁の内側を映す。

 小さな岩は転がっているが、比較的平らな地面が、かなり先まで延々と広がっている。

 そして……そこには、ウゾウゾと蠢くように、規則正しく隊列をなした砂色の兵隊の姿が在った。

 見渡す限り砂色――その数は膨大で、豹の男からしてみれば眩暈がする程に多かった。

 

(七万……いや、十万くらいはいるかもしれねぇ。糞ッ、どうなってやがる、どうなってやがんだッッ!)


 パッと見ただけでも分かる程の異常な数。

 砂色の人波みが、武器を持って広がるその様は、もう全てが嫌になってしまいそうな程に、豹の男にとって絶望的な光景だった。

 あんなに必死になって数を削ったのに、あれほど仲間が犠牲になってファシオンを殺したのに。

 何でこんなにも、あの砂色の兵隊は残っているのだ。そう叫びたくて仕方が無かった。


 どうやったら、こんな数を集めることが出来るのだろうか。どうやれば誰にも知られることなく達成することが出来たのだろうか。

 ――あり得ない。脳裏に溢れるのはその言葉ばかりだった。

 あり得ていいはずが無い。これだけの数がいれば、間違いなくどこからか情報は漏れる。

 今まで情報を集める網だって張っていたのに、それに引っ掛からずにこんなことができる筈がない。


 必死だった。この広がる現実を否定することだけで、豹の男は精一杯になっていた。


 補給地点を探る……少なくともここが重要な場所であることは間違いないし、その目的はある意味で達したのかもしれない。

 でも、こんな絶望するような光景を見たくて、こんなものを見たくてココに来たわけじゃなかった。


 虚脱感が溢れる。この光景を見ているだけで泣きたくなる。

 この数が一気に押し寄せてきたら、間違いなくシルクリークに潜んでいる亜人達は、全て探し出されて根こそぎ殺される。

 このまま自分の目を抉って死んでやろうか。思わずそんな馬鹿な考えが頭に過ぎる程に、豹の男は気力を失ってしまっていた……。

 だが、


〈兄貴……どうしたの? オレも見ていい〉

〈――ッツ!?〉

 

 不意に聞えた真ん丸の小さな声で、豹の男は我に返る。

 落ち着け……落ち着け……鳴り響く心臓の鼓動を聞きながら、静かに正気を取り返してゆく。

 馬鹿なことを考えるな――そうやって自分を諌めていった。


 そうだ、例え悪い知らせであろうとも、自分がこの情報を持ち帰らなければ、シルクリークにいる仲間が何も知らぬままで死んでしまう。

 この数の兵隊が、いつ都市へと向かうのかは定かではないが、少なくともコレをサバラに教えてやれば、都市から撤退すること位は出来る。


 もし豹の男が一人であったならば、きっとここで諦めていたかもしれない。だが、真ん丸が居るこの状況で、いつも偉そうに兄貴分をしている自分が情けない姿を晒すのは、どうしても許せなかった。


(諦めんのはまだはえー、こいつの前で醜態晒すくらいなら、死んだほうがマシだ)


 両手はまだ震えている。気を緩めれば牙がカチカチと音を鳴らしそうだった。でも、豹の男との胸中には既に諦めの感情はなくなっていて、色々な覚悟も固まっていた。


〈真ん丸……しっかりと見ておけ……でもビビッテ情けない声だけは出すんじゃねーぞ。いいな?〉

〈え、うん……〉


 チョイチョイ、と豹の男が指先で上に来いと促して、真ん丸が少し緊張した様子で頂上から顔を覗かせる。


〈……っ……!〉


 一瞬だけ小さく声は漏れたものの、真ん丸は豹の男の言葉に従い、それに耐えた。それを見て『よしよし』と頷いた豹の男は、左手の指先で壁の内側を差して、次の指示を出してゆく。


〈頑張ったな真ん丸……そのままこの光景を良く覚えとけ。で、さっさと頭を下げて、今度は耳を凝らして音を拾え……何かしゃべっていないか、何でもいいから情報を拾え。

 お前の耳ならソレが出来る。いいか、やれるな?〉


 口をグッと引き結んで頷く真ん丸の頭上に、豹の男はポンと手の平を置き、グッと押さえつけ下方に押しやる。

 

 岩壁に張り付くようにじっと動かなくなった真ん丸と、闇に強い視力を生かして、壁の内側を探る豹の男。

 

(まだ逃げ出すには早ぇー……もうちっとばかし情報掴んどかなきゃ帰るに帰れねーよ)


 直ぐさま逃げ出したい気持ちは吐いて捨てるほどにあった。しかし、それでは悪報だけを届けることになってしまう。せめて、この兵隊を集めた方法の手がかりなり、なんでも良いから新たな情報を手に入れなければ……。

 豹の男はそんな覚悟を心に定め、先ほどとは違うギラギラと力強い瞳で兵隊達を睨めつけた。


(何か、何かないか……ん? なんだ……あの二人だけ格好が違うな)


 豹の男は、覗いている場所からそこまで離れていない位置――ギリギリ姿格好が見える程度の距離にいる二人の人影に違和感を覚えた。

 なんというか、砂色の兵隊の中で、その二人は酷く浮いていたのだ。

 一人は槌を持った――体格からして――大柄な男……装備から予測するに戦士だろう。

 もう一人は背中を向けている所為でいまいち良く見えないが、ナニか皮の袋とスコップの様なものを持っている小柄な人物だった。

 

 あの食事を取っていた指揮官か? それともこのファシオン兵を集める為に協力している誰某(だれそれ)か。

 なんにせよ、普通の兵隊じゃあない。

 豹の男がその二人に注目していると、今まで黙っていた真ん丸が、少しだけ自信無さ気な調子で呟いた。


(兄貴……ナニか喋っている人がいる……多分二人、位置はここから少しだけ左前方)


 でかしたっ、思わず豹の男はそんな叫びを上げそうになった。

 というのも、今も豹の男が注視している二人と真ん丸の示した位置が合っているのだ。

 向かい合っているその姿も会話しているように見えるし、ほぼ間違いないと思って良いだろう。

 豹の男は嬉しさから真ん丸の頭をポスポスと叩いて、その先の指示を告げた。


(よし、良いぞ真ん丸。そのまま拾った会話を小さく声に出してオレにも教えてくれ)

(う、うん)


 小さく頷いた真ん丸は、豹の男の指示に従い、途切れ途切れにその会話を再現していった。


《……器と武器……うずる?》

《シャ……が手配してくれる……大丈夫》

《オデは……もう……けど……ャイドに……い加減返せ……っで》

《……オレに言われ……いやっ、分かった言っておく》

《球も残りが……もうごれで最後……》

《いやだからオレに……兵が足りなくなったら、またここで……》


 聞えるだけの言葉を拾い、真ん丸が懸命に喋って行くが、ソレは酷く切れ切れで、まともに内容を把握することは豹の男には出来なかった。


(くそ……殆どわからねーな……でもやっぱり兵を手配している奴がいて、その受け渡しがここってことか? またって言ってやがったし、此処が関係してくるのは間違いないだろうな)


 グルグルと千切れた会話を繋ぎ合わせて、少しだけでも情報を掴む。

 とても満足いくものだとは言えなかったが……これ以上は危険だ。一度帰って、先ずサバラ達に撤退の準備をさせ、それからもう一度来るしかないだろう――。


 だが、豹の男がそれを決めたのは、少しだけ遅かった。ほんの少しだけ遅かった……。

 豹の男が逃げようと頭をしまう直前で、小柄な男が百八十度グルリと頭を回して顔を向け、

《獲物……を見つげた》

 真ん丸の口がそんな言葉を紡いで語った。


 ゾクリと背筋に悪寒が走る。口内に抜き身のナイフを刺し入れられているような、危機感が全身を這い回った。

 暗くて小柄な人物の顔は見えなかったが、何故だか分からないが、嫌な予感しかしなかった。


〈くそッ――真ん丸逃げるぞッ。背中に乗れッ〉

〈え、え? 分かったっ〉


 豹の男の判断と動きは極めて俊敏だった。困惑する真ん丸を背中に担ぎ、その重さに負けることなく岩の壁をスルスルと下りていく。

 最初にかけた二つの魔法が無ければ、こんなことは出来なかっただろう。登る時は体力の消耗を考えてそのまま登ったが、今はそんなことを言っている余裕すらなかった。

 

〈兄貴っ、中が騒がしい……結構大勢出てくるみたい〉

〈分かってるっ、なんか妙な奴に見つかっちまったからそのせいだろう〉


 ガチャリガチャリと豹の男の耳にも、嫌な金属音が届いている。

 急げ急げ、急げ。

 ずり落ちるように岩壁から降り、ある程度の高さまで来たことを確認した豹の男は、真ん丸を背負ったままで、地面に向かって飛び降りた。


〈――ッグ!?〉


 ビキリと着地した脚に衝撃と痛みが走る。折れてはいない。逃げるにも問題ない程度で済んでいる。


〈大丈夫……兄貴?〉

〈おら、お前が重いからだよ、さっさと下りて走れ走れっ〉


 心配そうに問いかける真ん丸を地面に下ろし、豹の男はその尻を蹴飛ばすように足で押した。

 真ん丸はそれに促されてペッタンペッタンと駆け出して、豹の男もそれに続いて走りだす。

 背後からは大量の足音と装備が擦れる音が追いかけてきている。


(くそ、真ん丸を背負って走っても大して速度はかわらねーか……岩陰に隠れるか? いや、あの数じゃ直ぐに見つかっちまう。真ん丸に穴を掘らせて……いやそれも駄目だ。ここまで完全にバレてる状態で隠れても)


 手詰まり……豹の男は現状の悪さに悪態を吐きたくなった。

 真ん丸の穴掘りは確かに頼れる特技だ。しかし、それは怪しまれている状態や、見つかりかけている時にこそ、効果を発揮するものである。

 完全に相手に見つかってしまったこの状態で、二人で地中に隠れたとしても、恐らくあの数で周囲を完全に包囲されて、地中から出れなくなるだけだ。

  

 もしそうなってしまえばどれだけ地中に隠れれば良い? そんな時間の猶予があるのか?

 否、やはり駄目だ。早くサバラ達にこの情報を伝えてやらなければ、逃げる時間が無くなってしまう。

 地中を掘って移動とも考えたが、つり橋が架かっている場所等は地続きじゃないし、やはり地上に出なければならなくなる。相手が自分たちを探している状態で地上に出たら、きっと直ぐに見つかってしまうことだろう。


(くそッ!)


 胸中で悪態を吐きながらも、走る、走る。真ん丸の速度にあわせてやりながらも、豹の男は後方を気にして足を動かしてゆく。

 岩場を抜けて、吊橋を一本越えて、ただ逃げ続ける。

 

 ……でも、やはりそれは叶いそうにはなかった。


 迫るファシオンの足音は既にかなり近い位置に聞えている。

 岩場が多いお陰でまだコチラの姿までは確認されていないが、明らかに向こうの方が、足が速い。

 

(くそ、くそッ……畜生ッ!)


 悔しさが胸の内に込み上がってくる。諦めが脳裏を占めている。

 普段だったらこんな状況でもまだ余裕を持てた。でも、今は豹の男にそんな余裕は微塵もありはしなかった。


 速度の差のせいか? 数の差のせいか……否、違う。

 恐れているのは、今も背後から迫る奇妙な威圧感。

 ……姿も見えていないはずなのに、ただならぬナニカの気配が追ってくるのが分かってしまう。

 

(嗚呼、嗚呼――駄目だ“オレは絶対に逃げられない”)


 なんの証拠も無い勘だった。なんの理屈も無い直感だった。

 でも、それは、間違いなく真実であると豹の男は確信してしまっていた。


 せめてこの情報はどうにかサバラに伝えないと……どうにか仲間を逃さないと。

 そんなことだけを延々と考えて走っていると……不意に、豹の男の脳裏に一つの希望が浮かび上がる。


 ――これなら、これならきっと上手くいく。大丈夫、(かしら)に情報を伝えられる。


 その選択を選ぶのは、とてもとても怖いことだった。

 その選択を覚悟するには、少しだけ勇気が居ることだった。

 でも、豹の男は隣を走る真ん丸を見て、怯えるでもなく、泣き叫ぶでもなく、少しだけ笑いながら決断した。


(さっき見つかったのは誰だ? 二人とも見つかったのか? いや……そう、オレ一人だけじゃないか)


 豹の男が密かに笑う。牙をむき出し獰猛に――。




 トントン、と必死になって走っていた真ん丸の肩が、叩かれる。

 なんだろう、そう思って真ん丸がその方向へと視線をやると、真剣な顔つきをした豹の男が、少し先の地面へと向けて、無言で指を差している姿が映った。


〈おい真ん丸……このままじゃ逃げ切れねーし、こうなったら穴を掘って隠れるぞ〉

〈え、でも兄貴、今隠れて大丈夫?〉


 思わず豹の男に真ん丸が問い返す。

 隠れることには大賛成ではあるが、今隠れると暫く外に出れなくなることは、真ん丸にも予想がついていたからだ。

 でも、豹の男は小ばかにしたようにフンッ、鼻を鳴らすと、諭すような調子で真ん丸に言った。


〈ったく、お前は馬鹿だな。秘策があるに決まってんだろうが。一旦隠れないと使えねーんだよ。だからさっさと穴掘って、終ったらきっかり五秒後に閉じろ良いな?〉

〈うん、頑張るよっ〉


 さすが兄貴だ……と、思わず尊敬の念を浮かべながらも、真ん丸は指示された地面に駆け寄って、パンパンと、自身の両手に順番に手を当てながらも魔名を唱えていった。


『エント・ディグ』


 真ん丸の指先に付いていた金属爪に、分岐魔法である特殊エントが掛かる。薄く淡い黄土色に光った爪を確認した真ん丸は、ソレを慣れた手つきで地面に突き刺してゆく。

 すると、ボコリ――とその爪先を中心に、まるで土が逃げるように引いていき、円状の凹みが地面に開いた。

 右手、左手、とザクザクと掻き分けるように真ん丸の手が動き、それに伴い穴がドンドン見る間に穴が深くなる。

 真ん丸の種族に伝わる、魔法エント・ディグ。

 エント・アースとアース・メイクを元に作られたソレは、ただ穴を掘る為だけ、それだけの為に作られた魔法であった。

 

 攻撃力なんて微塵も無いその特化型の魔法は、軽々と地面を抉り、信じられない速度で穴を作り上げてゆく。

 そして、それほどの時間も掛からずに、深さ六、七メートル、底には二メートルのほどの横穴を持った隠れ穴が完成した。

 真ん丸は、ひょいと横穴から顔を覗かせ、上を見ると、豹の男に小声で合図を送る。


〈兄貴っ、五秒数えるよっ〉


 ヒラヒラと視線の先で、豹の男が手の平を振ったのが見える。

 一つ、二つ、三つ……と、ちょうど四まで数えたところで、バサリと音がして、穴の中にナニか飛び込んできた。


 それを確認した真ん丸は、穴の上部へと手を向けて、

『アース・メイク』

 魔名を呟き入り口を見る間に塞ぐ。

 

 月明かりすらも締め出して、穴倉の底に篭った真ん丸は、ほっと一息はきながら、自身の隣に声を掛けた。


〈兄貴、外はどうだった? まだ兵隊は来てないんだよね?〉


 が、返ってきたのはシン、とした静寂だけだった。


〈……?〉


 首をキョトンと傾げた真ん丸の左手が彷徨うように伸ばされる。そして、サワリ、と指先に触れた布を、確かめるように軽く掴んで引っ張った。


 随分と軽い重み、随分とあっさりと自らの元にくるソレ。

 確かめてみて、掴んでみて、真ん丸はソレがナニカをようやく理解する。

 ――外套……ソレは外套だけだった。

 着ているべき筈の身体はなく、ただ布切れだけ、真ん丸の身体から一瞬で血の気が引いた。


〈兄貴……兄貴?〉


 呼んで見ても、見回してみても、居ない。穴の中に、豹の男の姿はなかった。

 ――まさかまだ外に!? 

 なんてことだ、五秒数えるのが少し早かった。きっと間に合わなかったに違いない。

 大丈夫、まだ助けられる。まだ間に合う。

 右手が即座に動き、穴をもう一度開けようと、真ん丸の口が魔名を唱える為に動いた。

 だがそれは、


「糞ったれ共がッッ! 殺れるもんなら殺ってみやがれッ!

 オレは死なねーぞ……“この大事な情報を絶対に伝えなきゃなんねーんだッ!” オレが死んだら伝える奴が“居なくなっちまうだろうがッ!”」


 豹の男の怒号と、ドンッ、と力強く地面を蹴った音によって遮られてしまう。

 呼吸が止まりそうになる、心臓も止まりそうになった。

 

 もう、何も言葉が出てこなかった。真ん丸は理解してしまっていた……豹の男は最初から自分が囮になるつもりだったのだ、と。

 真ん丸は岩陰に隠れていて姿を見られてはいない。だから豹の男が進んで敵に見つかれば、真ん丸が隠れているのはわからない。

 

 助けないと――そう思って、真ん丸は震える手を伸ばしたが、魔名を唱えることは出来なかった。耳には大量の足音が聞えている。武器を抜く音も聞えている。

 今この場で入口を開けてしまえば、二人とも見つかって全部終わり。手に入れた情報を失って、サバラ達に何も伝えることが出来ないで……終わり。


 不意に、ポロポロと両目から涙が零れてきた。穴から飛び出したくて仕方がなかった。

 でも、真ん丸は……豹の男の覚悟を思うと、それがどうしても出来なくなってしまっていた――。




 月明かりの照らす下。血飛沫が舞って、首が転がり落ちてゆく。

 四肢の全てにエント・ウィンドを纏わせた、豹の男が風の如く飛び回る。


「――全員とっとと死ねやッッ!」


 地を這うように身を低く、獣の如き姿勢を取った豹の男が、咆哮と共にファシオン兵を襲う。

 右手のエントを操作して、鋭い風爪を作り上げ、交差した瞬間に首を狩る。

 止まるな、止まるな。

 ガリガリと爪を立てて地面に着地し、すぐにまた近くの兵士を切り裂く。

 返り血なのか、腕に突き刺さった矢による己の血液なのか。それが分からないほどに毛並みを赤く染めた豹の男が疾駆する。


「――ッッ――ッッツ!!」


 獣が叫ぶ、力強く。

 肩を曲刀で切りつけられても構わずに、腹に矢が刺さろうともお構いなしに、手当たり次第に襲いかかる。

 

 背水を覚悟した一匹の豹は、ファシオン兵を容易に殺す程に強かった。

 一人殺すごとに傷が増える。動けば動くほどに痛みと出血で意識が遠のいてゆく。 

 でも、こうやって暴れれば暴れるほど、必死になればなる程に、自分が一人だという信憑性もきっと上がる……そう思うと、止まることなど出来なくなっていた。


 死ぬのは嫌だ。痛いのだって嫌だ。逃げられることなら逃げてしまいたい。

 しかし、自分が戦闘を行っているこの場所は、既に一部の隙間もなく砂色の兵隊で囲まれてしまっている。

 亜人を捕まえる砂色の檻は、突破なんて一目見ただけで無理だと分かる程に堅牢だった。


 だが、それでも豹の男は笑っていた。獰猛に、そして力強く笑っていた。

 斬、と左の爪で一人殺し。

 断、と右足の風刃でまた一人殺す。

 

 重くなっていく頭で、豹の男が考えていたことは、とても単純なことだった。

 ――どうせ死ぬんなら、格好よく死にてーよな。

 ――どうせ死ぬんなら、ナニかを残して死にてーよな。

 

 手負いの豹を支えていたのは、そんな少しの見栄だった。


 無駄じゃないんだ死ぬことは、無為じゃないんだこの頑張りは。

 そう考えると、抜けていく筈の力はドンドンと湧いてきて、まだまだ相手の首を刈り取れそうな気がしていた。


「ハハッ、オレ相手にこんなもんかよファシオンさんよぉッ! これじゃあ槍の兄さん達相手にしたら肉片も残らねーぞッ手前らッ!」


 また一人の首を落とし、また自分の身体に傷を増やし、豹の男は意気揚々と啖呵を切った。

 サバラの元には頼りになる助っ人がいる。自分なんかよりもずっと強い助っ人いるのだ。

 子分の真ん丸が情報をきっと持って帰って役に立ててくれる。

 ざまあみろファシオン、ざまあみろ鉄仮面。

 

 もう自分でも何を考えているのか分からないほどに、朦朧とした意識の中で、豹の男は考えた。

 自分はまだまだ動ける。自分はまだまだ殺せる。

 自分はまだまだ…………


 ――ゾフッ、と泥沼に杭でも打ち込んだような音が響き、それと同時に豹の男の足が強引に止められた。


「……あ、あれ、オカシイな、おい……足ぃ止まっちまった。それに……は、腹に何か生えてやが……」


 ゴボリ、と口から赤い血液を吐きだして、豹の男は腹に生えたソレ見た。

 背中から腹を貫通していたのは、真っ赤な真っ赤な少し湾曲した四角い金属板。

 先端は研がれているのか刃の輝きを宿しており、ヌラヌラと月明かりで赤黒く光るそれは酷く不気味だ。


【お前……中々良い足を持っでいるね……ココに来て損ばかりかと思っだけど、良いお土産が出来だ】


 背後から聞こえてきた、暗い声音。それと同時に腹部を貫いていたソレがズブリと抜かれ、豹の男は一度うつ伏せに地面に倒れ、そのまま衝撃でゴロリと仰向けになった。


「……気色悪ぃ……奴だ」


 豹の男は、自分の腹を貫いたであろう者の姿を見て、感じている恐怖を誤魔化すように、呟いた。

 嗚呼、こいつがあの威圧感の原因か――と納得したように、豹の男は暗くなっていく視界でそいつの姿を見た。


 百五十センチ程の小柄な体格――薄汚れ、ボロボロになった、麻布の如き茶色の服を着ている化け物。

 頭髪は無い……否、その化け物には、在るべきものがでたらめだった。


 抉られたように暗く落ち窪んだ双眸には眼球が無く。鼻もなく。開かれた口には唇も歯も舌も無い。

 広がっている穴に揺蕩っているのは闇――双眸から、鼻のあるべき場所にある一つの大きな穴から、薄気味悪い半月を描いた口元から、止まることなく、濃い黒紫色の瘴気のような煙が垂れ流れている。


 その流れる瘴気には、時折、何もかもを呪うかのような苦悶に満ちた人の顔が浮かび上がっては消えていた。

 

 顔や見えている腕などの皮膚は、黒だったり茶色だったり、腐食していたりと、まるで継ぎ接ぎされているかのように、箇所によって色が違う。

 左手の指は計七本。手首内側付近と、親指の付け根に、どす黒い親指が一本ずつ生えている。

 右腕の肘部分からは、何故かもう一本右腕が生えており、その腕には、一メートルほどの大きさの、スコップが一本握られていた。

 四角形をした先端は豹の男の血に塗れ赤く、柄は骨で出来ているのか、黄色がかった白色。

 

 化け物の左手――そこには、大人が両手を広げた程度の大きさの、皮の袋が握られていた。

 皮、といえば聞えは良いが、袋の至るところに人面が浮いているのを見ると、その袋の素材が人皮で出来ていることが容易に想像できる。


 不意に、黒い眼窩(がんか)で死にかけの豹を見つめた化け物が、ニタリと、暗闇の口を開けて嗤った。


【本当はね……命は……オデが全部全部……頂くんだ。旦那様とお嬢様がまっでるから、全部ぜーんぶ持って帰らないどいけないんだ。でもここじゃソレは出来ないから、お前さんは死んじまうんだ。

 でも安心するど良い。お前の立派な身体はきっど役に立たせてやるがらね】


 地獄の底から湧いたかのような底冷えする声音と共に、化け物が手に持ったスコップを高々と振り上げた。


 嗚呼、死ぬんだな。

 それが分かっていても、豹の男に恐怖はなかった。いや、それを感じられるほどの意識は残ってはいなかったのだろう。

 だからなのか……死を象ったような化け物を目の前にして、掲げられた凶器を前にして尚、豹の男は不敵に言った。


「息が……くせぇ……だよ、さっさと墓に……帰れ、腐れ野朗」


 ――断ッ!!




 カツカツと、ガツガツと、真ん丸の耳に音が響く。豹の最後の言葉を切っ掛けに、鳴り始めた不気味な音が。


 この時ほど自身の聴覚を恨んだことはない。この時ほど自身の弱さを嘆いたことはない。

 耳を塞ぎたい……そう願ったが、残念ながらそれは出来なかった。

 なぜなら、悲鳴と泣き声を堪える為に、己の右腕に噛み付いているのだから、耳を塞ごうにも、残念ながら手が足りない。


(兄貴……あにきぃ)


 涙が延々と溢れてくる。止めたくても嗚咽が途切れない。

 牙を噛み締めすぎたせいで、腕にはジクジクとした痛みが走っている。口内には自身の血の匂いが充満していた。

 声を上げて泣くことは許されない。だから真ん丸は胸中で泣いた。

 

 不意に……先ほどまで鳴っていた、ナニかを切ったり砕くような音がやんで、その代わりに聞きたくも無い声が聞えてきた。


【……なぁお前だち……もう一人いながった? ……そうか……オカシイな、オデの勘だと後一人居ると思ったんだけど】


 冷水を全身に掛けられたかのように、真ん丸の全身が一気に冷えた。

 すぐに息を殺して、胸中の泣き声すらも押さえ込んで、真ん丸が気配を無くす。

 恐怖でガタガタと震えそうになるが、グッと腕を噛んでいた牙に力を込めて、痛みでそれを誤魔化した。

 

(見つかるな、見つかるな、見つかるな……ここで見つかったら、兄貴がせっかく頑張ってくれたのが無駄になる。お願いだから、頼むから気が付かないで)


 怖い――でもそれは、自分が死ぬかどうかの怖さじゃなく、自分の役目が果たせない可能性に対する恐怖だった。

 豹が死んだことが無駄になってしまうかもしれない……そういった恐怖だった。

 下手に動けない……願うことしか出来ない。暗い暗い穴の中で、真ん丸はただひたすらに腕を噛んで耐え忍んだ。

 

【ん……地面がな……可能性はあるな……念の為に確認じでみるが】


 地上から聞えてきたその言葉に思わず悲鳴を上げそうになった。

 ――次の瞬間。

 ジャッ、と奇妙な音がして、真ん丸の左モモに焼きゴテを押し付けられたかのような、熱をもった痛みが走った。


〈……ッ……ッッ〉


 腕を噛んでいなければ、間違いなく絶叫を上げていただろう苦痛。

 それをどうにか耐え、叫びを洩らさなかった真ん丸は――暗闇の中、自分の左足になにが起こったのかを確認する為、視線をそちらに向けた。


(あれは……骨、かな)


 骨のような質感と色合いをした、少し太い木の枝のような形をした白いナニか。それが針のように尖った尖端で、真ん丸の足を突き刺している。

 魔法だろうか……でも、どうやってこっちの場所を……と一瞬だけ真ん丸は疑問に思ったが、その答えすぐに出た。


 良く見てみれば、骨枝は一本ではなく、真ん丸の直ぐ顔の横だったり、縦穴の近くだったりと、何本もあったのだ。

 どんな攻撃方法なのかは真ん丸には分からなかったが、どうやら場所がバレているというよりは、適当に地面に向けて攻撃しただけ……ということだろうと理解した。


(致命傷じゃなくて助かった……あ、でも血は拭き取らないと……)


 骨枝が引っ込み始めたのを見て、慌てて左腕で外套の裾を掴み、自分の足に突き刺さっているソレを、柔らかく布で覆うように極めて軽く握った。


〈――っ〉

 

 ゆっくりと引き抜かれていく骨枝の所為で、嬲られているような継続的な痛みを感じたが、真ん丸はそれに耐え抜き、相手に伝わらないよう気を使いながら、自身の血液を拭い取った。

 ズルズルと地上に引き抜かれていく骨枝の、赤く染まった部分が薄くなる。

 土で茶色に変化している部分もあるし、一見すれば分からない程度にはなった。

 大丈夫だろうか……と少しの不安を覚えはしたが、今下手に余計な事をするのは危険なだけだと真ん丸は自分を律した。

 

 見えていた全ての骨枝が消えてなくなり、一瞬だけ地上の音が無くなり静まり返る。

 大丈夫、大丈夫、と傷を抑えながら真ん丸が口を噤んで待っていると、またあの不気味な声が真ん丸の耳に届いてきた。


【……叫び声……ないね……き、気のぜいだったがな……も、もうオデは帰らないどいけないし、後はゴラッソとか言う人間に任せとけば良いか……】


 そして、その言葉を切っ掛けに、ズル、ズル、ナニかを引きずる音と、大量の兵士の足音が地上から聞え始めた。

 徐々に遠くなっていく地面を擦るナニかの音と、兵士の気配を感じながら、真ん丸は暗い穴の中で、一人傷跡を抑えて息を潜め続けていった。


 やがて全ての音が立ち去ったのを確認した真ん丸は、もそもそと腰元の袋に入れていた薬草を取り出し傷口を処置し、回復薬を飲んで消えそうだっ体力を取り戻してゆく。

 早く外に出たい気持ちで一杯だったが、また見つかってしまいそうな気がして、真ん丸は中々動くことが出来なかった。


 ズキズキと胸が痛んでいる。油断すればまた泣き出してしまいそうだった。


(兄貴……やったよ、オレ我慢したよ……絶対に生き残って見せるから……安心しておくれ)


 でも、真ん丸は諦めることはしなかった。馬鹿みたいに格好良い自慢の兄貴に、情けない姿を見せないために。

 ほろほろと思いだして涙は出てきたものの、真ん丸の意思は、とてもとても固く壊れることはなかった。

 体力をしっかり回復して、傷も治して、この情報をきちんと持って帰って見せよう 


 ――だって、それが自分に出来る、兄貴に対する最大の労いなのだから。


 モグラは一人で、涙を零す。誰にも見えない暗い地下で、誰にも聞えない暗い地下で。

 朗報とは言えない情報を、その胸の内に大事に大事に抱え込んだまま、モグラは一人で夜を過ごした――。




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