黒鎌参上 都市惨状
ファシオンの死体が転がっている。地面には持ち主の居なくなった武器が刺さり……そして散乱している。
そんな日常の代わりに戦場が蔓延っている大通りの中央で、俺は樹々に騎乗した状態のまま斧槍と対峙していた。
心臓がドクドクと音を立てている。激情が胸の内で産声を上げている。
俺の七メートルほど前方にいる斧槍の姿を見るほどに、ソレは大きく膨らんでいくようだ。
覚えのある感覚、これは一度体験したものと同じだ。
ただこの間と違うのは、ソレはまだ我を失う程大きなものではなく、意識が持っていかれるほどの強さじゃなかったことだろう。
今回は二度目ということもあって、さすがに動揺は少ない。まだ十分に耐えられるレベルだ。
それに、怒りだったり、悪意だったり、そういった激しい衝動のような感情を抑えるのは――予測して、覚悟を決めていれば――蟲毒で嫌というほど体感して慣れたものではあった。
グッと口を引き結び、視界に映る赤錆の戦士の姿を眺める。
見覚えのある赤錆色をした斧槍、顔を隠した角付き鉄仮面。
再開とでも言うべきか、そいつは俺が知っているアノ鉄仮面の戦士であった。
っち、またコイツかよ、他の奴が良かったんだが。
特に望んでもいなかった再会に、少しだけ残念な気持ちが湧く。
出来るならば“斧槍”だからこそ胸内が疼くのか、それとも“鉄仮面”だからそうなるのかを確認しておきたかったところだった。
仮に斧槍限定なのであれば、コイツを避けて他の面子に当たれば、俺の不安要素は減ることになる……いや『敵を選ばないと戦えない』なんて微妙にもほどがあるし、コレに関しては余り期待するもんじゃないか。
ガクリと頭を少し落として項垂れていると、斧槍がギッ、と赤錆の鎧が鳴かせながら、武器の切っ先を俺へと向けてきた。
【……久しいな……槍使い、ようやく見つけたぞ。逃げる様子が無いところを見ると、どうやら肉片になる覚悟を決めたようだな】
独特の声質を持った斧槍の言葉は、騒がしい周囲の音も関係なしに俺の耳へと届く。
どうにもその口調は、怒りを湛えたようでもあり、俺を見つけて歓喜しているようでもあった。
「え、あれ……僕達……初めてお会いしますよね?」
と、心に募る悪感情を抑えながらも、素知らぬ振りで返答してみた――が、
【ッハ、悪ふざけはよせ槍使い。お前のその目も、殺気も、その武器も……私は詳細に覚えている】
それは、あっさりと断言され否定されてしまう。
っち、覚えてやがった。
別に本気で隠そうと思ってとぼけた訳でもなく『出来れば忘れててくれたらなー』位の気持ちだったのだが、やはり僅かに期待していた部分もあったので、思わず舌打ちが漏れた。
なんというか……嫌な奴に目を付けられちまったな。
仕方ないと誤魔化すのは諦めて、俺はスンと鼻を鳴らして斧槍を睨む。
殺気を孕んだ視線が交差する。以前とは逆で、俺が見下げて斧槍が見上げている形で。
まるで瞑目しているかのように、肩に斧槍を担いだ赤錆の戦士は、殺気だけはコチラに向けているものの、少し足を開いた姿勢で動かない。
その様子はナニカを待っているように見える。
あーそういうことね……これはどうもご丁寧に。
斧槍の性格から理由をなんとなく察した俺は、小さく嘆息して、後ろに乗っているサバラに声量を落として言葉を掛けた。
〈サバラ……時間まで適当にそこ等を逃げ回っててくれ。合流するのに困るから、余り遠くには行くなよ〉
〈え、降りて待ってればいいんで?〉
〈いや、乗ったままだ、俺が下りる〉
〈ええっ、オイラがこいつに乗るの!?〉
外套から垣間見えるサバラの目が、驚きからかパッと開いて丸くなる。
しかし、俺としても一々細かく説明している暇もなかったので、特に何を告げるでもなくさっさと地面に下りて『任せたぞ』と樹々の首を叩いて押し出した。
――瞬間。
〈ギャっ〉
「――うおおぉぉぉ」
短く嘶きが上がり、樹々が首に捕まっていたサバラを振り回すような勢いで、疾走を開始。
サバラの悲鳴はあっという間に騒ぎの中に攫われていった。
サバラ……落ちないように頑張ってくれ。
ヒラヒラと手を振りそれを見送って、俺は赤錆の目前で暢気に屈伸運動して体の硬さを解していった。
……んー、やっぱりこないか。
わざと隙を晒した振りをして様子を伺ってみたのだが、やはり斧槍はこちらに襲いかかってはこない。
なんというか……
「本当……その親切心を別の方向に向けたらどうよ、殺し合いなんてするよりよっぽど建設的だと思うよ俺は」
【戯言を……私が満足いくように、お前を殺す、これが全てだ】
心の内で考えていたことを素直に吐いてみたが、斧槍はさもツマラナそうに答え、そのまま左手の指を俺の首元へと示してくる。
【首に巻いているソレは下さんでも良かったのか?】
「そりゃ、余計なお世話だ。俺はコイツが居ないと逆に調子が出ないんでね」
しめしめ……まだバレテないな、と心の中で舌を出しながら、シッシッと邪険にするように斧槍へと向かって手を振った。
だが、実は余裕の素振りを見せてはいたが、内心では冷や汗をダラダラと流していた。
というのも、樹々から下りる暇を与えて貰えなかったら、かなり危なかったからだ。
騎乗――というのは、確かに突進力や一撃離脱に秀でているのかもしれないが、所詮自分の足ではないので、瞬間的な自由度は著しく減少してしまう。
ファシオン兵が相手ならばまだしも、この実力の敵に騎乗したまま戦ったら――きっと、即座に樹々を狙われ、武器を受け止められずに叩き切られて終わりだっただろう。
それに、逃げ回って一撃離脱なんてしていたら、自分の務めは果たせないし……サバラの面倒見ている余裕が無いというのも一つの理由だった。
チラリとそこら中を駆け回っているサバラと樹々へと一度視線を向け、直ぐに赤錆へと戻す。
まだ強襲してくる様子がないことを確認して、俺は首に巻いていたドリーにボソリと声を掛けた。
〈よし、ドリー、せっかく待っててくれてんだ、蝶子さん無しの状態で万全にまで持っていくぞ〉
『ふみゅ、了解ですっ、では合わせてくださいねっ』
〈当然だな〉
出来ればもう少し時間稼ぎをしたい所ではあったが、いつ相手が我慢しきれず襲いかかってくるか分からない。
俺は右手をドリーの眼前に掲げ、声を合わせて水のエントを付加。そのまま流れるように澱みなく、身体強化と重量軽減を掛けた。
そして、ヒュンと左手にもった蒼槍を風切り回し、最後にエント・ウィンドを纏わせる。
右足を前に身体を半身、蒼槍を腰後ろ――そして水の篭手となった右手を前方に。
この間と同様の構えを取って、俺の準備は完了した。
堂々とした態度で鉄仮面もソレに応え、斧槍の柄尻を上に、穂先を下へと向けて構えを見せる。
互いに無言で相手を睨み――初手を打つタイミングを伺う。
首筋がチリつき、全身の毛がザワリと逆立つ。毛穴が沸々と開いていくようなそんな緊張。
既にとても身近になっていて、とても覚えのある感覚になっている。
四肢にゆっくりと力を漲らせていき、肺に空気を取り込んで、俺は……強敵の気配を突き破るべく、今も渦巻く苛立ちの気持ちを晴らすべく。
遠くで聞えた爆発音を発端に――
「――その仮面ぶち抜いてやるッ!」
【――その顔面抉り取ってやろうッ!】
槍先を敵に向けて大地を蹴った。
身体が加速し、空気を押しのけていく。
走るは正面、言葉通りに俺と斧槍は、槍先を愚直に頭部へと進ませた。
轟々と唸りを上げて赤錆の刃先が迫ってくるのが見える……刃先の輝きまでハッキリと確認できている感覚。
――やっぱり今日は調子が良いな。
瞬きする間も無い一瞬で、俺は斧槍の突きを屈んで避け、そのまま斧槍の頭部を穿たんと槍を閃かせた。
【甘いッ!!】
が、斧槍の腕がギィ、と鳴いたと同時に、突きから払いに――蛇のように軌道を変化させたハルバードの柄が、俺の突きを打ち払う。
更にそれだけでは終わらず、オールでも漕ぐかのように柄を戻し、今度は斧部分を下に向けて、屈んでいた俺の頭上へと落としてきた。
迫る赤錆の断頭台を瞳に映し『やっぱり巧いなコイツ』等と考えながらも、俺は右手方向に動いて身を躱す。
が、落とされた筈の斧が急激に跳ね上がり、執拗に俺の身体に刃を埋めようと追いかけて来る。
考える暇すらなく、迷う暇すらも惜しみ、俺は反射的に右手を下方に延ばし、地面を叩くように手の平を押し付けた。
――瞬間。
『むふぉぉ、にょきにょきっ』
ドリーが妙な掛け声を上げて右手に纏わせていたエントを操作。押し出すように水で地面を打って、俺へと逃亡の糧となる反動を与えてくれる。
ダンッ、と地面を殴る音と共に、小さな水しぶきが上がり俺の体が右方向へと回転。
俺は一気に赤錆の刃の軌道上から免れた。
【ッチ――ッ!!】
しかし、ソレを見た赤錆は、足裏で砂を擦りながらも着地した俺へと向かって追走。
一足で距離を削り、刃先を溶かすような速度の三連突きを放ってきた。
ああ、面倒臭いこいつッ!
脳裏の片隅でウンザリしながらも、俺は折りたたんでいた足を伸ばし、右手のみを使ってバク転、更に後方へと逃げ延びる。
グルリと回る視界の中――先ほどまで俺が居た地面が三度弾けるのが見えた。
恐らくまた追撃が来る。
確信に近いソレを防ぐ為に、バク転の最中に確認していた位置へと俺は右手を伸ばした。
グッと掴み取ったのは、地面に刺さっていたファシオン兵の曲刀。
「『エント・ウィンドッ』」
俺は即座にソレに風のエントを掛けて、予想通り迫ってきていた赤錆へと投擲した。
ひゅんひゅんと、風の刃を纏った曲刀が空を切り裂き、俺はソレを追うように地面を蹴って肉薄してゆく。
【しゃらくさいッ】
「っは! じゃあ、こいつもオマケだッ!」
落ちているモノは死体でも使う。
斧槍が曲刀を弾くのを確認した俺は、向かう途中に転がっていたファシオン兵の足を掴み、多少の重さは気にもせず、全力で赤錆に投げつけその視界を遮った。
「ペネトレイト・ウォーター」『ペネトレイト・ウォーター』
指示を出すまでもなく俺とドリーの声が重なって、即座に貫通力の高い水弾が二連射。
グルグルと回転しながら放たれた二発の弾丸が、コチラの狙い通り死体ごと貫く軌道をとって斧槍へと迫った。
【――ッ――ッ!】
恐らく俺の声に反応したのだろう……それに対する赤錆の対応は実に単純なものだった。
死体を切り伏せるわけでもなく、ただ上空へと飛んだ――。
なんとなく全身鎧が舞うイメージが湧かなかった俺は、促されるように天を仰いで動きを止めてしまった。
【ウオオオオオオオッッッ!!】
吐き出された斧槍の咆哮が、俺の鼓膜と全身をビリビリと揺らす。
赤錆色の塊で陽光が遮られ、地面に暗い影が映る――やがてそれは隕石の如き勢いで、重力に引かれて大地へと落下してきた。
拙い――!?
一目見ただけで分かる威力、ソレを受けられると微塵も思わなかった俺は、躊躇いなく左へと転がった。
直後。
天空を裂かんばかりに振り上げられた斧が、地面に鉄槌を下し轟音を生んだ。
容易く地面が割られ、粉砕された破片がバラバラと周囲に爆散する。
「っぶねーな……おいッ」
その威力を目の当たりにし、俺は我知らずと背筋を凍らせた。
が、びびって固まっているなんて、そんな勿体無いことしている余裕はない。
無理やりに恐怖心を踏みつけ殺し、俺は武器頭を地面に埋めている赤錆を討つべく走り出した。
一瞬で身体が最高速まで乗る。
走りやすい、動きやすい――以前の外套と違って、今の装備は駆け出す俺を邪魔することはなかった。
風を押しのけ、前へ前へ……力を漲らせて、速く速く……
「――ッ――ッツ!!」
【させるかアアアアアッッ!】
蒼槍を突き出だしながら俺が叫び、強引に武器を引き抜きいた斧槍が轟喝する。大気に互いの怒号が混ざり合う。
放った一撃はあえなく斧槍に弾かれたものの、俺はその場から離れようとはせずに距離を保ち、イライラと渦巻く感情をぶつける気持ちで、斧槍との接近戦を開始する。
左薙ぎ払いの勢いに乗せて右拳で裏拳。同時にドリーの操作によって水が曲刀にように変わって斧槍の首を狙う。
斧槍が巧みにソレを捌いて逸らしても、お構いなしに柄尻へと風の刃を集中させて両刃を創って斬り込む。
激流のように止まる事無く連撃を見舞う。相手に攻撃させなければ、受けることはなくなるのだから。
弾かれても、弾かれても、それでも構わずに体を撓らせ槍を操り、剣閃を浴びせる。
右、左、斜め、突き――斜め下から足を蹴り上げながらも、交差するように右手でエントを付加。
そのまま蹴りを風刃へと変えて鉄仮面の側面を狙うが、上半身を退け反らされて空を切った。
まだまだッ!
斬り込む俺と受ける斧槍の剣戟が、なだれを打って加速する。
ヂィッ、ヂィッ、と赤錆と蒼槍が打ち合わされて、オレンジ色の火花を幾つも幾つも瞬かせた。
【いつまでも……好き勝手させるものかッッ!】
――ッツ!? こいつッ!
怒りの咆哮と共に、斧槍の身体から怨恨を感じさせる黒紫の瘴気が零れ、呆気なく攻守が入れ替わる。
柄尻が回り、斧が唸り、引き戻し際にピックが斬首を狙って俺を襲う。
しかし、その全てを見逃さないように視界に映しこみ、呼吸するタイミングすら選び取りながらも回避した。
目の前を強烈な暴力が過ぎ去って――風が掠める度に背筋がざわめいたが、俺はそれをねじ伏せ、やはり近距離から離れない。
直撃したら瞬間死ぬ。
そう思えるほどの猛攻が行き交う死地とも呼べる空間の中でも、俺は――
当たらない……当たってやるものかッッ!
と、渦巻く衝動に促されてなのか、ただ斧槍に負けたくなかっただけなのか、半ば意地のように真っ向からの勝負を挑んでいた。
『いいですよー相棒っ、頭を伏せてその次ぎ左……そこで右右、ぴょんと下がって、たたんと左っ』
斧槍の腕の動き、肩の動き、指の動き、それにだけ集中していたドリーが、攻撃を先読みして指示を与えてくれる。
踊るように地面を蹴って、小気味良い音を鳴らしながらも俺は死線から脱してゆく。
斧槍が殺意を膨らませ、武器を旋風の如き勢いで振り回しながら笑った。
【はははは、楽しい……楽しいなぁ、槍使いッッッ!】
楽しくねーよ全然――と言い返してやりたかったが、そんな言葉を吐く為に、貴重な酸素を使うのが惜しかった。
潜水するかのように息を止め……延々と刃の海へと潜り続ける。
こいつの技術は見逃せない。余す事無くものにしたい。
湧水の如く溢れる強さへの渇望。
それに背中を押されるように、俺の視界は狭まって、集中力がガンガンと高みへと登っていった。
調子が良い……早くなればなるほどに、視界がクリアになっていくようだった。
かつて無いほどに敵の攻撃軌道が見える。
避けて避けて躱し続けて――段々と避けるという行為が楽しくなってきた。
――そんな時。
【やはり亜人如きではこの境地は味わえない。良いぞ……槍使いッ!
強きものこそ人で在れ、家畜にも劣る亜人など我が手で死ねるだけ光栄というものだッ!】
「――ッツ!?」
遂にというべき衝動が俺の体を駆け巡った。
カッと脳髄が沸き立つ。全身が一斉に粟立った。斧槍の放った台詞によって、俺の心臓が狂ったように脈動を始める。
ヘドロの……いや、洗っても取れないコールタールのように、執拗な粘つきを持った黒い衝動が、この間と同じように奥底で湧き出したのを把握した。
このタイミングで来やがったか……取りたかった確認は出来たけど、せめてもうちょっと後なら。
思考が澱む感覚と、心臓を握りつぶさんばかりの憎しみに歯軋りして、俺はすぐさま間合いを離す為に後方へと退いた。
【ッチ……もう終わりか……】
うっせ、それ所じゃねーんだよ……。
玩具を奪われた子供の如くつまらなそうに零した斧槍。しかし、俺にはそれに構ってやるほどの余裕は無かった。
この間のことも鑑みるに、このままコレを放っておくと、意識を飛ばされることになりかねない。
もしあの剣戟の中でそうなってしまえば?
ソレは即座に死に繋がる。
一瞬自分がぐしゃぐしゃになった想像して頬が引くついたが、俺は『大丈夫、対応策は考えてある』と言い聞かせて追い払った。
『相棒……?』
突如後方へと下がったのが意外だったのか、ドリーが不思議そうに首を傾げて見せてくる。
――余計な心配掛けたくない。
そんな思いを燃料に、俺は顔色を変えずに『問題ない』と頷きで伝え、右手をぎゅうと握り締めた。
焦るな……俺の予想通りなら必ず上手くいく筈だ。
荒れそうになる呼吸を抑え、唇を噛んで意識を持っていかれないように、俺がじっと構えて機会を伺っていると……
【さあ、戦え……また槍を振るえッ、逃げるな!】
蝋蜜が溶けるように鎧の隙間から瘴気を流した斧槍が、ようやく俺へと武器を振り上げ襲いかかってきてくれた。
まだ……まだだ。
焦る心を押しやって、迫る敵影をひたすらに見つめて待ちうける。
あと少し、後一歩……と考えている間にも距離が瞬く間に詰まり、遂に――斧槍が武器を振り下ろしながらも、俺の望んでいた間合いに入った。
よし……その攻撃を頂くッ!
俺は脳天を砕く軌道の斧から身体を逃しながらも、指先をそこへと向け、囁くように唇を動かし、魔名を告げた。
「『リベンジャー・フラッピング』」
微小な魔力消費と共に、指先から黒い豆粒が生まれる。
その位置は赤錆の剣線にピタリと重なった場所で、黒ハエは俺の思惑通り出現と同時に消し飛ばされた。
――さあ、本番だ、頼むぞ糞バエッ。
気に食わない魔法ではあるが、今だけは願うように心の中で語りかけ、もう一度先ほどと同じ魔名を口に出してゆく。
「『リベンジャー・フラッピング』」
【……ッツ!?】
見覚えのある変化に斧槍が警戒を見せて後方へと距離を取り、俺はソレを眺めながらも、渦巻いていた衝動が魔力と共に引き抜かれていくのを感じていた。
はは……狙い通りだ……。
思わず上手く言ったことに気が抜けて、身体が弛緩しそうになるのを俺は笑いながら堪えた。
以前、衝動で正気を失った(?)際――俺はこの魔法を唱えたことによって落ち着きを取り戻したと記憶している。
そこから予想されることは単純で『この衝動は馬鹿バエ魔法を使うことによって収まるのでは?』と考えるのは必然だった。
何度か細かく使って試す、とも考えていたが、出来るだけこの間と近い状態で試しておきたかったのと、魔力消費を抑えたかったこと、何よりコントロールが効かない魔法を一般市民がいる状態でぶっ放すのは躊躇われたから、此処まで引っ張ったのだ。
不安はあったし、焦りもあったが、どうやらその苦労は浮かばれ、今回は見事上手くいってくれたらしい。
その証拠に、先ほどまで大荒れだった感情の海が、まるで凪のように静まっている。
まだ安心するには早いと分かっていても、思わずガッツポーズを取りたい気持ちに駆られた――が、その喜びは、残念ながら素直に出すことは叶わなかった。
予想は完璧だった。ものの見事に的中したと言っても良い――。
ただし……出現した魔法の姿形以外は、であったが。
「……え?」
『ひょ?』
間抜けな声が俺の口から漏れ出し、ドリーがきょとんと首を曲げてソレを見る。
先ほどまであった喜びは何処へやら、俺の脳内には戸惑いが占め、思考は混乱から一瞬で停止した。
いや、これは驚いても仕方ないだろう。
なぜなら、現在俺の目の前で羽音を立てているソレは、体長一メートル程の、鋭角なフォルムを持った漆黒色の“カマキリ”だったからだ。
どう見てもカマキリ、右から見てもカマキリ。
死神の鎌を連想させる両腕。背中から生えているのは黒蜂と同じく細長くしたひし形の薄羽。
ただ、頭部に生えている黒い触角は、どことなくウネウネしていて、ハリガネムシを思わせる柔軟性をもっている。
瞳や関節など、細かな部分は象られていないようだが、ソレは明らかにこの間の蜂とは違うもので、二度見、三度見してもその事実は変わらなかった。
おい、何だコレ。俺の頼りになる黒蜂さんはどこですか? くそ、たまには全部予想通りに運べよ。
いや……いや、待て……よ、この際そんな細かいことはどうでも良いんじゃないか?
そうだよ、俺の予想が正しければ、このカマキリだってきっと……。
びしょ濡れになった後の犬のように頭をブルブル振って、困惑を帰路につかせた俺は、自身の考えを信じ、指先をビシリと突き出して斧槍へと向けてやった。
そして、威風堂々と術者として相応しい態度をもって、
「黒マキ先生っ、アイツです。アイツが全部悪いんです、殺っちまって下さい、お願いしますっ」
生まれでたカマキリにビシッと命令を下す。
すると、どうだ。
瞬く間に俺の溢れんばかりの威厳が伝わったようで――ブンッと短い羽音を鳴らした黒いカマキリは、刀を思わせる鋭い薄羽を羽ばたかせ、俺の望み通り斧槍へと目指してカッ飛んだ。
黒い魔力の残光を空に這わせながらも接近し、黒鎌を静かに揺らめかせ、黒カマキリは斧槍の首を狩ろうと強襲。
【――ッチ!?】
斧槍の武器が巧みに操られ、斬り込まれるカマキリの鎌を弾き、返す刀で黒カマキリを地に落とそうと袈裟斬った。
がしかし、空を舞う木の葉の如くヒラリと動いた黒カマキリには当たらない。
一撃ごとにまた空へと戻り、滑空を繰り返す黒カマキリは、執拗でいて鋭敏であった。
……おお、この間も見た光景だ。
【おのれ槍使い……またこの黒い虫を出したかッ! 忌々しいッ!】
どうやら斧槍はこの間の黒蜂さんには辟易していたらしく、沸騰した牛乳さながらの勢いで黒紫煙を吹き零し、黒マキ先生に怒りを向けている。
ただ、黒マキ先生は遠距離戦を出来ない分、その速度は以前の黒蜂よりも速いらしく、手傷を負わせることは出来ないものの、今の所は斧槍を翻弄していた。
正にキリキリ……いや、切り切り舞いとでも言えば良いのだろうか。
これも二度目の感情ではあったが、馬鹿な子ほど可愛い……じゃないけど、あんなに言うことを聞かなかった魔法が、こうやって活躍しているのを見ると、こー少し胸にくるものがあった。
その気持ちを簡単に纏めると……やはり俺の魔法は素晴らしい、という自画自賛だ。
『ふおお、相棒凄いですっ。それよりも、いつのまに使いこなせるようになっていたのですか?』
娘の結婚式で見せる親のような仕草で、俺が口元に手を当てウンウンと頷いていると、首に巻きついていたドリーが若干興奮した様子で声を掛けてきた。
……この衝動のことは秘密にしているし、なんと説明したものか。
一拍の間迷った俺は、どうにか誤魔化す妙案をひねり出して、ドンと自身の胸を叩いて口を開いた。
〈ああ、ドリー君……これはアレだ、俺の威厳が遂に臨界点を突破して、彼? 彼女? もなんかカリスマ的なモノに従ってしまったと言うわけだよ。凄いよね威厳って〉
……いかん、ちょっと適当すぎたかもしれん。
グッと拳を握って言ってみたは良いものの、余りに説得力が無さそうなその嘘に、俺は冷や汗を滲ませドリーの様子を伺う。
が、
『……っは!? カリソマンが何か判りませんが……そ、そう言われると、凄く威厳が溢れているように……っく、まるで太陽の如き眩しさっ。思わず芽が出てしまいそうですっ』
その心配はどうやら全くの無駄だったようで、ドリーはなんの疑いも持たぬままに信じきってくれた。
カリソマンてなんだろ……ちょっとだけ、ヒーローみたいな響きでカッコいいかもしれない。あのカマキリの名前にしてやろうか、なんかカミソリ的な語感もある気がするし。
マタタビに飛びつく猫のように一目散に、思考が凄まじくどうでも良い方向へと暴走を始めていたが、俺はどうにか『いかんっ……こんなノンビリしている暇はない』と強引に元の路線へと戻すことに成功した。
どうにも衝動が消え去った反動で、脳内に広がっている花畑が一気に開花しそうになったようだ。
副作用まであるとは末恐ろしい魔法である。危ないところだった。
今のところ、まだ楽観できるような状況でもない。
俺は黒マキさんが消される前に、速く補助に入ってやらないといけないので、遊んでいる暇だってない。
というのも――予測でしかないし、実際どうなるかは分からないのだが――もし黒マキさんが消え去ってしまったら、また例の衝動が湧く可能性があるからだ。
現状では『黒カマキリの目標が敵に向いている』と願ってもない状況だし、ソレを防ぐ為にも、俺は出来るだけあの魔法を援護し、生存させた状態を保たつべく、動いたほうが良いだろう。
仮にまた衝動が湧いても、再度リベンジャー・フラッピングを使えば収まるとは思うのだが、俺にとって中位に近い魔力消費は非常に痛い。出来る限りはその展開を避けたかった。
それに――今なら上手くやれば、相手に痛打を与えることだって望める。
俺とドリーと黒マキさん対、斧槍。
三対一か……ははっ、数の暴力上等だ。獄に入ると大体相手の方が数は多いんだ、この機会にあの仮面メコメコにしてやる。
それこそ人に集る夏虫のように、今も斧槍の周囲をひゅんひゅんと舞い、両鎌で一撃離脱を繰り返している黒カマキリを視界に収めた俺は、多人数で袋にしてやろうと、ニヤニヤしながらその中に参戦していった。
◆◆◆◆◆
屋根を飛び、通りを駆け抜け――追いすがってくるファシオン兵を、走破竜が後ろ蹴りで粉砕する。
まるで時化の海を行く船の如く揺れる樹々の上で、サバラは魔法をばら撒くのも忘れ、知らず知らずのうちに、目を瞬かせていた。
「へぇ、……あんな魔法初めて見るな」
鐙に足が届かない所為で、樹々の首に抱きつきながらといった少々間抜けな姿での独り言。
ただ、呟いたサバラ自身は特にソレを気にした様子もなく、今も視線をメイが生み出した黒い魔法に注がせている。
疾空する燕さながらの動きで、黒い魔法が鉄仮面を襲う。
一度で消えるわけでもなく、餌を取る為に何度も何度も滑空を繰り返すかのように。
先ほどから周囲の状況を把握し、砂弾でファシオンに牽制したり、と動いていたサバラであったが、現在ソレをほんの少しだけ忘れてしまっていた。
ただ……サバラにとって、戦力確認は絶対に行っておかなければならないことの一つでもあるのだから、これもまた重要な仕事ではあるのだろう。
(んー、見た目からすると陰系統の魔法で……多分“分岐魔法”だな)
忙しなく滑空する鎌持ちの黒い魔法を目で追い、サバラは一人考察を続けてゆく。
色は真っ黒……となれば、やはり真っ先に思い浮かべるのは陰系統。
しかし、あの速度と形、更には追尾効果のある陰系統の魔法などサバラの記憶にはなかった。
ただ知らないだけ……という可能性も考えてはいたが、かなり便利そうな魔法だと見る分には思えるし、一度も聞いたことが無いというのは考え難い。
やはりアレは“分岐魔法”だ、と考えるのがサバラとしては納得がいく結論だった。
というのも、分岐魔法とは、
『威力を減らして効果時間を延ばしたい』『射程が短くても良いから威力が欲しい』『命が尽きても構わないから、絶大な威力を』といった風に、独自に改良された――種族、家系、などに伝わっている――少し変わった魔法が多いからだ。
その貴重性はピンきりであり、少し珍しい程度のものから、殆ど見ることが出来ない魔法まで様々。
代々続く有数の家系などには“極大魔法”や“奥技”や“極技”などと呼ばれ――所轄奥の手扱いで秘匿されているものだってある。
ただ、これまで幾つかの分岐魔法を目にする機会があったサバラでも、流石に極大魔法と呼ばれるような魔法には出会ってはいない。
それもある意味で当然か。
絶大とも言える威力を誇るソレは、使用した術者をほぼ確実に死に至らしめるのだから、そう易々とは拝める筈もない。
ただ、目にする機会が無い理由としては『命を落とすから』といった直接的なものよりは『そういった才能を持っている者しか使用できない』といったことが原因としては大きい。
往々にして、ソレを使えるような才能ある者は、国としても手放し難い人材であり、例え使用者が『使いたい』と願ったとしても、迂闊には許可が下りないのが現状なのだ。
もし仮に――そういった使用に関する足枷がなければ『人を燃料のように犠牲にし、極大魔法を連射して獄を滅ぼす』という計画も、実行されていたのかもしれないが。
(でも……あの魔法って結構威力はあるみたいだし、利便性も高い……もしかして兄さんってそれなりに良い家系だったり?
いやでも、身ばれしそうな魔法を兄さんが迂闊に使うとも思えないしなぁ……)
鼻をムズムズと動かして、暫くアレヤコレヤと考えていたサバラだったが、やがて一つの結論に至った。
まあ、どうでも良いか……と。
確かに珍しいとは思い、好奇の感情も湧いたが、サバラとしては有益な力になることがなにより重要で、分岐魔法自体にはそこまで特筆すべき感情を抱いていなかったのだ。
驚かなかった理由の一つとして、サバラ自身が分岐魔法を取得しているから――というのも関わっているだろう。
『イミテーション・サンド』――メイとの模擬戦で使った砂の分身。
実はあれも一応ヤカルに伝わる『砂』の分岐魔法である。
ただ、この砂の分岐魔法は、世間一般的に見て、大して珍しい部類ではない。
その理由は簡単で、最初にヤカル達がソレを作った切っ掛けが『一杯ある砂を使えるのは便利じゃん、いやっほーい』といった実に軽いものであり、秘匿する気がなかったからだ。
よって――その辺りの店には売っていないが――覚えようと思えば彼等の集落などを訪ね、それに見合う金を渡せば、何の苦労もなく手に入れられる程度の貴重性しかない。
家系に伝わる……などと言えば聞こえは良いが、元々万人に受けいれられるような魔法というのは、やはり長年使われ洗練されてきた店で売っているような代物。
つまり、誰が見ても驚くような魔法で無い限り、少々珍しい程度で流されてしまうということで、それは、現在メイの魔法も見ているサバラとしても同様であった。
と、そんな理由もあって、先ほどまでメイの魔法に興味を持っていたサバラだったが、既に別方向へと、思考の矛先を変えていた。
考えていることは一つ『今の状況なら、自分に何が出来るのか』である。
鉄仮面は未だに無傷。ファシオン兵はまだまだ健在だ。
数の上では不利――しかし、サバラからすると、自立して動いているように見える黒い魔法は、心強い味方が一人増えたように思えてならない。
色々な情報を纏めながらも、グルグルと考えを巡らせている内に……サバラの心に不意に希望的観測が芽吹いた。
(これはもしかして……オイラも上手く協力すれば、あの仮面野朗をここで倒せるんじゃ?)
先ほどまでの鉄仮面対メイの戦況は、それなりに渡り合えてはいるようだが、やはり鉄仮面に軍配が上がると、サバラは睨んでいる。
しかし、そこに追尾性のある攻撃魔法が加わり、更に背後から強襲してやれば?
(あれ……本当にイケルかも?)
考えるば考えるほど、サバラは自身の考えが名案に思えてならなかった。
捕らぬ狸の皮算用、それに近いものであるのはサバラも理解していたが、目の前に転がってきたこの好機を、みすみす逃すなんて勿体無いとも感じてしまう。
今もサバラを乗せて疾駆している樹々。
ソレに言うことを訊かせられるかどうかは、サバラとしても余り自信はない。しかし、一応やってみる価値はある。
背後から回り込み、砂弾で牽制を入れるくらいなら、自分にもできる。そうすれば、少なくとも今よりは戦況は良くなるはずだ――。
とそこまで考えを巡らせたサバラは、周囲の状況把握の為に、一旦視線を彷徨わせ、辺りを見渡した。
左前方――大声で叫べば届く程度の距離にいる、鉄仮面と黒いカマキリ。
そして、今そこに向かって走りこんでいるメイの姿。
しかし、亜人を取り逃がしたファシオン達が、光に集る虫のようにどこそこから戻ってきており、このままでは余り時間がないことも同時に伝えている。
――やるなら、急がないといけない。
が……ようやくサバラが意を決し、樹々の首元を叩こうと手を伸ばした、その時だ。
「うをッ!? 危ねぇっ、止めろ馬鹿! 俺まで巻き込む軌道で飛ぶんじゃないっ。あっちだ、あの赤い方を狙うんだ黒マキさんッ!」
唐突に通り中央からメイの焦ったような声が聞え、伸ばされたサバラの手はピクリと止められてしまった。
「…………ええ、そりゃないよ兄さん」
視界の中に繰り広げられている光景。それを見て、サバラは例え聞えないと分かっていても、抗議の声音を洩らさずにはいられなかった。
今もサバラが見ているのは、黒いカマキリと斧槍の戦闘、そしてそこに参戦したメイの姿。
ここまで……ここまではサバラとしても、素晴らしいと言える展開だった……のだが、残念ながら現実はとても非情である。
術者を裏切る黒い魔法。
そう、サバラが期待を寄せていた肝心の黒いカマキリが、何故かメイ諸共を切り裂く軌道をとって暴れていたのだ。
攻撃頻度としては鉄仮面六、メイに三、そこらにいるファシオンに一、といった程度ではあるが、それでもサバラは『何で兄さんが襲われてんのさ……』と口をポカンと開けざるを得なかった。
「くそ、黒マキめ、お前もか、お前も反抗期かッ!」
『よーしよしよしー、にゅふー、良い子ですから言うことを聞いてくださいねー』
【槍使いッ――っく、この鬱陶しい虫を今すぐ消せッ!】
「うっせ、俺よりもそっち優先して襲ってんだ、消すわけねーだろ! はは、ざまーみろバーカ。
――はっ!? ちょ、止めろ、こっちくんなッ」
通り中央はどう見ても大混乱だった。
斬、斬と、墨筆で書かれているかのように黒い軌道が空気を鉤裂く。
鉄仮面がソレを切り落とそうと憤慨し、メイが喚きながらもその妨害。首元に巻いているドリーは言い聞かせるように黒カマキリに声を掛けている。
言葉だけ聞くなら楽しそうにも思えるが、実際間近にしているサバラからしてみると、その光景は悲惨の一言に尽きた。
黒い軌道に容易く屠られ、量産されるファシオンの死体。
それに伴いばら撒かれる血と肉。
悲鳴すらも上げず、手足を両断されても尚、地べたを這いずり動く兵士の異常な姿。
ここが街中だとは到底思えぬような、不気味を通り越して、怖気を覚える一望だった。
(うっわ……)
若干後方に身をやりながらもドン引きしていたサバラ。
その胸中は、凄惨な光景を見ての少しの恐怖と、良い意味と悪い意味での“呆れ”の感情で埋めつくされていた。
黒い魔法の凶暴性に呆れ。
背後から迫る鎌を見もしないで避け、戦闘を続けるメイに呆れ。
黒と蒼の攻撃すらも捌ききり、未だに無傷を保っている鉄仮面に呆れ果てる。
(というか……あの様子からすると、もしかしてあの魔法操作が効かないとか?
これじゃさすがに計画倒れだよ、危なすぎてオイラじゃ近づけないし……)
パシリと片手で目を覆い、駄目だ諦めよう――と即座にサバラは決断を下す。
迷いなど微塵もない即断だった。
ただそれも仕方なし、現在繰り広げられている戦闘は、サバラにしてみれば『ちょっと頑張ってみようか』……と思う気すら起こらない、そんなレベルのものだったからだ。
例えるなら、まるで刃が飛び交う暴風。
黒鎌が滅茶苦茶に旋空し、その中央で蒼い槍と赤錆の斧槍が吹き荒れる。
地面が豆腐のようにバカスカと壊れ、度重なる移動戦闘によって、辺りには無数の亀裂が生まれていく。
水弾が飛び交い、落ちている武器すらも、エントを纏った危険な飛び道具と成り代わる。
通りすがりに『邪魔だ』と薙がれた蒼槍でファシオンの首が儚く落とされ、苛立ちの乗せられた赤錆の斧が、更に身体を粉みじんにした。
血肉が地面を汚し、民家の壁にはリーン的なハイセンスで描かれていく、赤い血潮の絵画。
辺り一帯が戦場であることは間違いないが、恐らく此処が最も死臭と血臭が強いだろうと、サバラは自慢の鼻を動かしながらも嘆息した。
(こりゃ後で街の人に金包んで渡しとかないと。他の場所は大丈夫だよね? ここの被害が一番大きいだけだよね)
頬は引きつり、不安が過ぎる。
サバラ達の懐事情は寒冷とは言わないが、そこまで暖かいものではない。しかし自分達に協力的な人達には、迷惑料として幾らか渡しておかねば関係に綻びを生みかねない。
ただそれ以上に、今回の局地戦はそれを払っても良いと思えるくらいに、十分な成果が上がっている。
ある意味では、味方だろうがお構い無しに殺してゆく、斧槍のお陰といっても良いだろう。
しかしそれは鉄仮面との戦闘を継続できるメイ達がいなければ、取れない手段ではあったが。
棚から牡丹餅――ではないが、今回だけでもこの成果。これを幾度か続けていれば『必然的に相手は補給に走る』とサバラは確信を抱いていた。
(シシッ、オイラが絶対に突き止めて、必ずこの戦況をひっくり返してやる)
サバラは粘つく唾を嚥下して、奥歯を強く噛み締める。彼にとっての戦場は、此処じゃない。ここからが本番なのだ。
力足りず、戦場では余り役に立たない自分なれど、あの刃嵐の中に踏み込めない自分なれど、やれることがあってやらねばならないことがある。
そう自身に言い聞かせて、サバラは胸中をやる気と覚悟で塗りつぶす。
思い返されるのは、死んだ部下と、自身が頭になるまえに命果ててしまった彼等。
そして親父と慕う元頭。
――目的の為にも犠牲は問わず、彼等の……親父の悲願を果たしてやる。
鼻筋に走る傷跡を親指でさわりと撫で付け、サバラは更に相手の被害を増やすべく、樹々の背の上で倒せそうなファシオンの姿を探していった。
混戦が変わらぬ継続をみせて暫く。
もはや太陽も完全に目覚めて、都市内を明るく照らしていた。
しかし、その明るさとは裏腹に、戦場は激化してゆくばかりである。
サバラの牽制とメイ達の犠牲になったファシオンは多く、通りに見える死体の数は更に無数に増えている。
ただ、その割には相手の数は未だに減る様子を見せず、どちらかといえば、戻ってきているファシオンによって、逆に増大している始末だった。
(こりゃそろそろ拙いよね)
先ほどよりもメイ達から距離を離し、円を描くように一定を保って逃げていたサバラは、囲まれそうになる頻度が徐々に増してきているのを感じ、少々の焦りを覚え始めていた。
敵の速度よりも明らかに早い樹々の足。しかし一定範囲から逃げられないのはやはり辛い。
樹々自身が矢弾を避けるように走っているお陰もあって、まだ直撃こそしてはいないが、散発的に、サバラの顔を掠める程の距離を敵の矢が通過している。
このまま戦闘を継続していては、いずれ追い込まれることになるのは必至であった。
(撤退するか? でもまだ合図がこないし……いや、もうそんなことを言ってる場合じゃないかも。
ここで兄さんが囲まれるようなことになったら拙い。多少被害が出ようとも引くべきじゃ?)
一見する分には、既にサバラの部下の姿はない。
見えないだけで残っている可能性は十分にあったが、この状態で退けるだけでも御の字と云える。
もう少し引き付けておきたい気持ちはあったのだが、撤退時期を見誤るなんて危険は冒せない。
やはりここは退くべきか。
樹々の上でうんうんと悩んでいたサバラだったが、その実、彼の判断の天秤は既に撤退の方へと傾きを見せていた。
(よし、撤退しよう……)
と、ガタリと音を立ててサバラの判断が傾ききったそんな時だった――俯かせてしまった頭を上げた拍子に、空に浮かぶ赤い輝きを発見したのは。
(って……なんだよ悩み損じゃないか)
見覚えのある魔法球。それを確認して、サバラは思わず口元を歪めて苦笑した。
一つ二つと、今も青空に浮かんでいる複数のパステル・ライトの赤い輝き。
ソレは、サバラ達は事前に決めていた撤退の合図に他ならなかったのだ。
もう少し前に上がれば焦らなくても済んだのに……と少しだけ愚痴零しながらも『敵を打倒することは叶わなかったが、当初の目標は無事に達成できた』と胸を撫で下ろす。
(多分、兄さんには見えてないよね。忙しそうだし)
チラリと通り中央を伺ってみるも未だに戦闘は継続中。
メイの動きにも特別の変化はない。
恐らく周囲を気にする余裕が無いのだろうと判断したサバラは、樹々の首元を叩き少し怯えながらも声を掛けた。
「か、カゲーヌ……さん? えっと、兄さん、いやご主人の所にちょっとだけ近づいてくれる?」
自分で言っている割に、明らかに半信半疑の調子を湛えたサバラの声音。
声を掛けてみたのは良いものの『本当に言葉通じるのかよ』といった気持ちがありありと浮かんでいる。
がしかしだ。
その本人すら信じていない声掛けは、しっかりと樹々に届いたようで……いや、それ以上に上手く届いたようで、
〈ギャッ――ッッ――ッツ!〉
「え、本当に? いや待って、オイラ近づくにはちょっとで良いって言ったよねっ!?」
一際大きく吼えた樹々が、サバラの予測を超える速度を持って、嵐の中心へと向け突撃を敢行した。
今までで最大限の揺れに嫌な予感を覚えて、サバラが必死に抗議をしたが、ソレは虚しくも前方から叩き付けられた向かい風によって、紙ふぶきの如く散らされた。
速く速く――と首を伸ばし、人を容易に踏み殺す重量をもった砂色の弾丸が、背中に小さな獣を乗せて颯爽と駆ける。
〈ぎゃっ、ぎゃっー〉
頭を交互に右へ左へと揺らすその様は、少しだけ離れていた自身の仲間へと向かえる歓喜に満ちているようだった。
走破竜が飛ぶ――まるで宙に足場があるように、屋根から屋根へ、通りに下りて、蒼と黒と赤の刃乱れる暴風の最中に一目散に。
「――っ!?」
轟――と黒い鎌が横を過ぎ去ったのを見て、サバラが反射的に息を呑んだ。
もう少しずれていたら首が飛んでいた。と、冷や汗を流して、目を瞑って何も見ないようにしたい衝動に駆られた。
が、それでもサバラは瞼を下ろすことはない。
(オイラだって……これでも頭やってんだッ、びびって縮こまってるだけじゃあ面子が丸つぶれだぜッ)
バッと俯かせそうになっていた顔を上げ、サバラが力強く眼を開く。
グングンと近づいていく刃嵐の戦場、そこで暴れている二人と二匹。
それをしっかりと視界に収め、サバラは大きく息を吸い込むと、
「兄さーーーんッッッ!! 撤収、撤収だあああああッッ!」
吹き荒ぶ風を押しのけるような咆声を上げた。
必死に叫んだ獣の咆哮。
それは壮絶な剣戟の音すらも割って、ソコへとしっかり届いていった。
変則的な黒い死線の中央。
赤錆の猛攻を避ける為の補助をしていた蛇の頭が、ピクリと動き、視線だけは斧槍へと向けたままで、ドリーは自身の相棒へと声をかけた。
『相棒っ、すたこらさっさのお時間ですよっ』
〈らしいな。はぁ、ようやくか……もうコイツの相手してるとマジで寿命が縮まる〉
頭上を掠める断頭の斧を屈んで避けたメイが、その足をばねの如く伸ばして間合いを離す。
【っち、まさかと思うが槍使いッ、言葉通り撤退する気ではないだろうなッ!】
「ははは冗談言うなッ、まだまだお前の首を落とすまで、俺はタタカイツヅケルゾー」
サバラの声を聞いていた斧槍が牽制の声を差し向けると、それを受けたメイが視線の先から迫ってくる樹々を見ながら挑発的な返答を返した。
ただし、全力でバック走をかましながら。
【待て――ッッツ! 首を取るのでは無かったのか!】
「取る取る、大人しくしてくれてたら黒マキさんが取るからっ」
【おのれええ、――ッツ!?】
即座に逃亡を始めたメイを見て、斧槍が怒りを顕に追走しようとしたが、強襲してきた黒カマキリに足止めされ……しまいにはその少し横合いを樹々にも抜かれた。
「おーーい、兄さーーん!」
〈ぎゃっ!〉
首にへばり付きながらもサバラが叫び、尻尾をビタンビタン揺らした樹々が速度を落とし、バック走から一転、全速力の逃亡へと切り替えていたメイへと並走する。
瞬く間に――怒り狂う斧槍を置き去りに、状況は退避へと向けて円転していた。
樹々の鞍に右手を置いて、ひょいと軽いのこなしでサバラの後ろに飛び乗ったメイは、後方へと頭をむけながらも、疲れた口調で言う。
「サバラ、逃げるにしても、このまま白黒コンビのいる区域を通って行こう、やばそうだったら一緒に連れて逃げる」
「ああ、それもそうだね。その時はオイラとハイク、兄さんと白い姉さんで別れて逃げようか。
オイラ、どうも兄さんと一緒に居るほうが、追われ続ける気がするんだよね」
「…………かもしれん」
一拍の間を置きメイがサバラの言葉に返答した。その視線は、後方で黒カマキリの攻撃を避けながらも追ってくる、赤錆の戦士に固定されている。
「嗚呼、マジでしつこいな、アイツ。お願い黒マキ先生、もうちょっと頑張って」
肩を竦めて呟くように洩らされたメイの懇願は、砂混じりの向かい風によって空気の中に流されていった。