赤錆を穿て貫け羽が飛ぶ
土埃が漂い濁っていた空気が、戦士の凶刃で削りとられるかの如く切り裂かれていく。
恐ろしい速さで、容易く命を刈り取るだろう一撃が、躊躇いなく振りぬかれた。
が――鉄仮面の戦士の斧槍が描いた横倒しの三日月は、俺の頭上を過ぎ去っただけで、身体を分断するには至らない。
膝を折りたたみしゃがみ込んだ体勢で見上げる俺と、斧槍を振り切った姿勢で見下ろす戦士の視線が、押し合うように衝突する。
【……あの間で避ける、か】
余程先ほどの攻撃を避けられたことが意外だったのか、次の一手を打つこともなく、斧槍の戦士が少量の驚きを含ませた声音を頭上から被せてきた。
今の内に……。
戦士が見せた少しの硬直の隙をつき、俺は折りたたませた膝を一気に伸ばし、反動で攻撃範囲外まで飛び退る。
ザザッ、と紙やすりで木の棒を擦ったかのような音を、足裏で奏でながら、数メートルの距離をどうにか確保した。予想していた追撃は来ず、未だ戦士は動かない。
さっきのは、相当危なかったな。
安全圏とは到底呼べないが、仕掛けられても十分に対応できる間合いを手に入れ、どうにか一息つく――だが、すぐに先ほどの攻防の危うさを思い出し、ヒヤリと背筋を凍らせた。
額を覆っていた布を、滲んだ汗が濡らしているのが良くわかる。それほどまでに先ほどの一撃はギリギリだった。
正直『良く避けられた』と自分自身を褒めてやりたい位のタイミングだ。
炎で炙られたかのように熱く高ぶった感情と、それに伴い自然と鈍った反応と身体。そこに加えて、先ほどの鋭い一振りを見ただけでも、十二分に理解できるほどの戦士の力量――後数瞬でも遅れていたら、間違いなく俺の頭部は地面に投げつけた卵のように砕け散っていただろう。
『大丈夫ですか相棒?』
俺を案じて声を掛けて来てくれたドリーに、口を噤んで小さく頷きを見せる。
とはいえ、所詮これも強がりでしかない。
ジクジクと胸の内で黒い何かが渦巻いている。
先ほどよりはかなりマシになったとはいえ、未だに戦士の姿を視界に納めると、凄まじいまでの苛つきが暴れ狂う。
訳が分からん……少しは落ち着きやがれ。
自分自身に向かって言い聞かせるように文句を零し、ぎゅう、と槍を持っていない方の手で胸を押さえて、感情の波を強引に鎮めていく。
なんでこんなことになっているのか――確かにソレは気になるが、残念ながら今考えるべきことでもなかった。
そんなことを気にしながら戦闘する余裕は無い。万全とは呼べなくても自身の身体をコントロールしなければ、間違いなくこの戦士からは逃げおおせないのだから。
油断するな。
直感……経験からくる勘の様なものが俺の脳髄にそう囁いている。
ジリジリとすり足を使い、屋根に開いた大穴を挟む形に位置にまで体を移動させる。
俺と相対している戦士は、至る所から聞える轟音や怒号をまるで意に介した様子もなく、じっと此方へと顔を固定し視線を据えていた。
不意に、冷徹な仮面の目元部分に開いた切れ目――そこが黒紫色に輝いたように見えた。
【面倒だ……と最初はそう思ったが、これは中々どうして存外楽しめそうだ。いい加減家畜狩りばかりで満たされなかった所だ。これは良い獲物に出会えた――ということか】
ゾッとする、蛇のような嗤い。
表情こそ見えないが、俺の身体に纏わり付いてくる粘ついた視線は、そんな印象を抱かせるほど悪意に満ちている。
戦士が慣れた動作で武器を動かした。柄を握る右手を上段に、左手を添えた刃先を下段に据え、斧部分を俺へと向ける。
左脚を前に半身にとなったその構えは独特な雰囲気を纏っていた。
逃げるにしても、戦闘は避けられないか……話し合いとかは、どう考えても無理そうだな。
戦士の様子を見て、こちらを逃す気など毛頭無いことを理解した俺は、槍を左手に持ち直し腰後ろへとやると、右足を前に半身となり片手を突き出し、構えを返す。
ギチギチと撒き散らされる殺意が膨れ上がる。重力が増したかのように空気が重く、澱んでいる。
動けない――迂闊には動ける状況ではない。
戦士の一撃を見る限り、相手の強さは最低でもキリナさんレベルと思ったほうが良いか……さっきのが本気だとも思えないし、油断は出来ない。
膂力は屋根を易々と破壊したことから見ても相当だ。
身体に纏う雰囲気はどうみても歴戦の戦士『なんとも面倒な奴に捕まってしまった』というのが今の正直な気持ちだった。
ジリジリとした間合いの計りあいが続き、互いが互いの力量を探りながらも機会を伺っていく。
首元で巻いていたドリーが戦闘に入るのを感じたのか、落ちないように力を込めてくる。
シン、と怒号や爆発音が一瞬だけ消失し、まるでその静寂を破るかのように、斧槍の戦士が動きを見せた。
【嗚呼、楽しみで仕方が無い。すぐに死んでくれるなよ――ッ!!】
戦士の嗤いと共に屋根の一部が蹴り足の形を残す。
弾丸のような速度、それを持って一足で距離を擦り潰した赤錆色の金属塊は、突っ込む勢いそのままに、握っていた斧槍を添えていた左手を軸に、跳ね橋の如く穂先を上げた。
狙いは俺の顎先。
かなり速くはあるが、避けきれないほどではないッ。
迫る凶刃の軌道上から、前方へと差し出していた右足を下げることで、俺は難なくその一撃から逃れる――が、向こうも向こうでそれを分かっていたのか、上昇していた筈の穂先が、俺の顔の高さでピタリと止まった。
【まず、その目から頂くッ!】
戦士の言葉と同時に、振り上げが突きへと変貌し、右手のみで放たれた戦士の片手突きが、俺の右目を穿たんと迫る。
「――ッチ!」
舌打ちを一つ漏らし、突きを最小限の動きで避けようと、身体を左へと流したが、それすらも予想の内だと言わんばかりに、戦士が右腕をグイと捻り、斧槍の向きを変化させた。
縦から横へ、まるでこちらの避ける先を追うように、鉤爪状の突起が横倒しになる。迫りくる曲線を描いた鉤爪は、どこか首切り鎌のような狂気を秘めていた。
最小限では駄目だ。鉤爪で切り裂かれるッ……。
瞬時にそう判断を下し、上半身を後方へと逸らし刺突から間一髪で逃れた。
自然と空を見上げる姿勢となった俺の眼前で、空気が貫かれ悲鳴を上げ、顔を覆っていた布が少し切り裂かれ、ハラリと切れ端が中空を舞っている。
こいつ……洒落にならん。
思わず心中で驚きの声が漏れ、ゾロリと恐怖心が背中を這い回った。
しかし『恐怖を感じる暇すら惜しい』とばかりに、俺はそれを強引に振り払い、攻撃終わりで隙を晒している戦士に向かって、左手から蒼鋼の槍を薙いで反撃を返す。
真一文字に線を残そうと、蒼い刃先が戦士の腹部へ迫ったが、それに易々と当たってくれるほど相手は甘い使い手ではなかった。
右手を伸ばした状態で固まっていた筈の戦士は、俺の攻撃を見るやいなや、握りを順手から逆手に変え、手首の返しと指先のみを使って斧槍を縦方向に半回転。
前方から後方へ、ぐるりと向きを変えた斧槍が、薙ぎ払いの軌道上に強引に割り込みをかけ、此方の一撃を妨げる。
駄目だ、こいつマジで面倒だ。
自然と相手の力量を把握しこちらの分の悪さを悟る。感じていた懸念が的中してしまった。
こちらの攻撃は、相手が片手で受け止められるほどに軽い――。
愛用の槍斧ならば受け止めた相手を吹き飛ばすか、能力発動していれば武器ごと切り裂けていたはず。
しかし、この武器、そしてフェザーを掛けた今の重量では、そんなことなど到底無理だと理解した……いや、させられた。
【疾ッッ!】
戦士が短い気迫の声音を響かせて、止まることなく此方へと追撃を掛けてくる。
柄尻から刃先の方向へ……指を緩め柄を滑った戦士の右手が、斧頭近くへと握りを変え、杭の如き尖った柄尻を、未だ逸らしたままの俺の半身へと目指して、突き放った。
「――ッ――ッっぶねーな!!」
弾かれた槍を縦に動かし、柄尻を地面に突き立て、地面を全力で蹴り上げ、槍を高飛びの棒のように使い、空へと身を浮かべて躱す。
視界がグルグルと回り、身体も回る。
そんな後方への宙返りの最中、風でハタハタと揺れた外套がドリーの姿を戦士の視界から一瞬だけ覆い隠した。
『ペネトレイト・ウォーター』
ソレを見て『待ってましたっ』といわんばかりに、ドリーが四度連続で牽制弾を放つ。
撃ち出された四発の水弾は外套を軽がると貫き、戦士を強襲した――が、
【ハハッ、この程度では当たってはやれんなッ】
それすらも、風車の如く回転させられた斧槍で、敢え無く大気へと散らされる。
意外と技巧派……か、ますます、嫌な相手だ。
呆気なく防がれたことに多少不満は抱いたが、あのまま追撃されていたら到底避け切れなかった。ドリーのフォローには感謝しなければならない。
再度距離を離すことに成功したが、先ほどのように一息つくことなど出来そうにもなかった。
正直、あの戦士の速度から鑑みると、こんな距離では、障子紙一枚程度の安心感すら抱けない。
拙いな……逃げるにしても、もう少し手の内を明かさないと無理そうだ。
逃げる――それを考えただけで、頭の内側で『駄目だ殺せ、アイツを捻じ切れ』とナニカが喚く。そちらに耳を傾けると、思わず惹き込まれそうになり、束ねていた集中力が解けそうになる。
落ち着け、落ち着け……。
そう連呼しながら、俺は強引に押さえ込み頭を振って思考を切り替えた。
逃げるにしても、魔力を惜しまず全力で。
俺は槍を眼前に横倒しに、右手の指を二本立て柄に添えて、
『エント・ウィンド』
風のエントを三度ほど掛けていく。
轟々と逆巻く透明な風が魔名を唱えるごとに強くなり、刃先を覆って風刃を伸ばして強化する。
斧槍の戦士はこちらの邪魔をする様子は無い。ドランに聞いた大槌もそうだったが、余程自分の腕に自信があるようだ……その上、斧槍の言葉を聞いている分には、どうにも戦闘狂のような印象が垣間見える。
性格的には是非ともお帰り願いたい相手――ではあるが、そんな願いを聞いてくれる相手だとは思えない。
待ってくれると言うのなら、こちらとしては、ありがたく準備するだけだ。
俺は、警戒だけは解かないままに、ドリーを隠すように蛇の眼前に右手を上げた。すると、それを見て何がしたいのか把握してくれたのか、手の平の裏でドリーが篭手へと鼻先を寄せてくれる。
二級区域の中で練習もちょっとやったし、大丈夫だろう。
目線だけでタイミングを伝えた俺とドリーは、ズレなど見当たらないほどに呼吸を合わせ、
「エント・ウォーター」『エント・ウォーター』
魔名を重ねるように唱えきった。
右手の篭手に透き通った水が絡みつき、ゴボゴボと細やかな気泡が湧く。
虚飾の魔名と、声無き魔名。
ドリーの声を伝えていない戦士にしてみれば、俺がエントをかけたようにしか見えなかっただろう。
これでいい、ドリーが魔法を使えることを、わざわざ相手に知らせてやる必要なんてないのだから。
更にブーストとフェザーを同じように唱え、現状で出来る限りの強化を施し、戦闘準備を整え終わる。
【さて、もうそろそろ良いか……待ちくたびれて何度切りかかろうかと思ったか】
「態々待っててくれるとは、中々優しいところもあるな。俺としてはその優しさで、見逃してくれると嬉しいんだけどな?」
【笑わせるな、槍の使い手。
弱者を斬るのはつまらない。強者を斬るのは痛快だ。同じ殺すにしても楽しめるほうが良いというだけだ。
王の命令以外の事柄は、私の好きにやらせて貰う。端的に言おう……逃げられると思うなよ】
「本当に……中々素敵なご趣味をお持ちなようで」
戦士の錆び付いた声音と、布に阻まれくぐもった俺の声が交わされ合う。
両方の構えは最初と同じ、唯一異なる点は、俺の左手には風の槍があり、右手には水を纏う篭手を伴っていることか。
『相棒、決して刃先を柄では受けないように、間違いなく叩き斬られます』
ココに来てドリーからの嫌な忠告を受け取る。
それを聞いた俺が溜息を吐いたのが先か、それとも後か。そんなどちらか分からないタイミングで――我慢しきれなくなったか戦士が動きを見せた。
【必死で抗い、必死で叫び、そして必ず死ぬがいいッ!】
殺意の塊が前方から襲い掛かってくる。
右から襲い掛かってくる斧で描かれた斬月を下がって躱し、上空から振り落ちるギロチンを左へと移動しながら、すり抜ける。
一瞬の攻防――お返しとばかりに三連突きを放ってみるも、風刃の間合いすらも見切られ、柄を軽く弾かれ掠りもしない。
やはり打ち合いはするもんじゃないな、と愚痴を零しながらも、俺は自分の現在位置を確認しながら崩れそうになった体勢を戻す。
戦士の背後、俺の視線の先にはぽかりと天井に開いた大穴が映っていた。
あそこが一番近いか……そんな判断を下し、右へ、左へと、身体を揺らしながら、速度に任せて戦士へと疾走を開始する。
「そろそろ反撃開始だ、胸に穴あけてやるから覚悟しやがれえッ」
【面白い、やってみろッ!】
吼える俺と、受けて立つ戦士。
前傾姿勢のままに俺は槍を煌かせ、戦士の胸へと刃先を滑らせたが、それは予想通り上から叩き付けるかのような、斧槍の一撃で逸らされた。
が、これが目的ではないので気にしない。
刃先が下に落とされて、自然と柄尻が上がる。
瞬時に掴んでいた握りを解き、先ほど見た戦士の真似をするかのように逆手で握り直すと、そのまま勢いに任せて左から槍を振るった。
半円を描く軌道で、穂先が戦士の頭部へと襲い掛かる。
【――ッチ!】
受けが間に合わないと判断したのか、戦士が膝を折り曲げ頭を落とす。
掛かったッ!
我慢できずに釣りあがる頬――俺の腰元には既に引き絞るように右拳が装填されていた。
下方から、戦士の頭部目掛けて拳打を解き放つ。ラングの物真似でしかないまがい物の拳ではあるが、準備をしていたこともあり、十二分に威力が乗っているのを感じる。
戦士は俺の打ち出した拳を見て、特に慌てた様子もなく頭を動かし躱そうとしているが、それも予想の範囲内。
頼むぞドリーッ、といった胸中の叫びに呼応するかのように、篭手に掛かっていた水が、氷柱の如き三角錐へと形を変えた。
近接が出来ないドリーにどうにか近接をさせるための打開策。
エントを俺に掛けてドリーがそれを操作、これならば、多少の戦力不足は埋められる。
戦士を強襲するエントを纏った拳。
伸び上がった間合いと、抉るには上等な程に尖った拳が、鉄仮面を付けた頭部へと向かう――が、それでも尚、決定打には届かない。
ギャリギャリッ、と避けきれずに掠っただけの水針が、金属を擦る嫌な音を奏ではしたが……ただそれだけだ。
驚いたことに、あの状況で斧槍の戦士は拳の間合いを冷静に見極め、頭部をグルリと回すことでソレを回避してのけた。
これだけで決まるとは思ってはいなかったが、傷も負わせられないのは少し予想外だ。
とはいえ、さすがに掠った衝撃はあったのか、戦士の身体が少しだけぐらつき、少量の隙をみせた。
今しかない。ココしかない。そんな絶好の機会を見いだした俺は――
「さらばだ、錆仮面ッ!」
『にゅはは、おさらばですっ』
迷うことなくその隙をついて、戦士の空けた大穴へと走って飛び込んだ。
あんな少しの隙で止めなんて無理に決まっている。唯でさえイライラして集中力が途切れそうなのに、長々と戦闘して堪るかッ。
【――逃すかッッッ!!】
四方形の民家の二階、そこに逃げ込んだ俺の背に向かって、戦士の怒号が追いかける。
俺は怒りを含んだ声を知らぬ存ぜぬで聞き流し、瓦礫が散乱している部屋を駆け抜けて、廊下に通じているであろうドアへと手を掛けた。
だが、その瞬間。
【逃げるなッ、まだ戦え! お前の死体を王への手土産にしてくれるッ!】
望んでも居ない、追跡者の声と着地音が部屋の中に響き渡った。
「畜生ッ、追いかけてくんのはえーよッ!?」
イライライライラ、と脳内に黒い塊が駆け巡る。一度は抑えた感情の波は、徐々に徐々に膨れ上がっているようだった。
歯を食いしばってソレに耐え、俺はドアを蹴破らんばかりに開け放って部屋の外へと逃亡していく。
狭い廊下を走りぬけ、一階へと通じているだろう階段から飛び降りて、着地。
『相棒、右へ避けてッ』
ドリーの声に従い、右手にある部屋へと横転するように身を投げ出した。
轟音、そして破砕音。一瞬の間を置いた後に、民家を揺らすほどの盛大な音が更に部屋の中に充満する。
振り返れば、舞い上がった土埃は砂嵐のようで、破壊された壁はとても風通りが良さそうなことになっていた。
視界に映っていたのは、斧槍を壁に叩きつけたままで屈んでいる戦士の姿。何が起こったのかなど、実際の場面こそ目にしてはいないが、簡単に想像が付いた。
俺を追って階段から飛び降りた戦士が、そのままの勢いで破壊した――で十中八九間違いないだろう。
技量のみならずこの膂力、なんともフザケタ相手だ。
むくりと起き上がった戦士に焦りを覚え、急いで出口を目で探す。
一つは戦士の背後に開いた大穴。もう一つは自分の背後にある玄関のドア。
悩むことなどなく背後一択――だが、このまま無防備に振り返ってドアを開けるなど正しく自殺行為にしかならない。
何かないか……と更に視界をめぐらすと、右手に天井近くまでの高さがある大きな食器棚がグラグラと揺れているのが目に入った。
位置は戦士がとるであろう直線上に近く、更に俺の側には木材テーブルが据えられている。
これなら多少は隙を作れるか……。
迷う暇を惜しんで俺が棚へと距離を詰めると、
【ハハッ、観念して構えろ、槍の使い手ッ!】
それと同時に戦士が猛りの咆哮を上げながら、襲い掛かってきた。
〈ドリー、伸ばして引っ掛けてくれ、倒すぞ〉
『へい、了解ですっ』
ドリーに小声で指示を出し、真っ直ぐに進路を取ってくる戦士を見ながらタイミングを測る。
速度を予想し狙いのラインを越えたことを確かめて、俺はエントを纏った右拳を棚の上部へと突き出す。
水がボコボコと音を立てて棚の上部を貫き、俺がそれを全力で引っ張り横転させる。
壁に固定されていない棚が、ガシャガシャと甲高い音を鳴らしながら戦士を押しつぶさんと倒れこんでいく。
【馬鹿がッ! この程度で殺れるとでも思ったかッ!】
斧槍を握っていた戦士の左腕が一瞬霞み、続いて棚が粉々に吹き飛び粉砕される。
がしかし、俺はその時既に目の前にあったテーブルを下から蹴り上げ、畳返しのように戦士へと蹴り飛ばしていた。
倒れた棚を砕いた先にはテーブルの目隠し、さすがにこれなら多少は時間が稼げるだろう。
俺は即座に方向転換し、全力でドアへとダッシュ。肩上ではついでとばかりにドリーが、後方に水弾を数弾撃ちこんでいる。
せめて手傷を負ってくれていたら、そんな調子の良いことも願ったが、背後から聞こえる破砕音が、戦士が未だ健在だということを俺に伝えてくれていた。
あのまま倒れてくれれば助かったのに。
言っても仕方ないことを吐き出しながら、土埃溢れた民家から飛び出すと、視界の中に相変わらず噴煙漂っている通りの様子が映りこんだ。
右を見ればファシオンが武器を手に持ち疾走し、左を見れば亜人が魔法を放った反撃を繰り返している。
少し先の民家の屋根には、最初に斧槍に追われていた亜人達、と思われる外套を着込んだ数名がチラリと見えたが、今はそれを気にしている余裕も無かった。
〈ドリー、蝶子さん付きでペネトレイト。タイミングは斧槍が飛び出すと同時だ〉
『では相棒、私を隠すのをお任せしますっ』
〈あいよ〉
肩膝を地面に近づけ身を屈め、外套を右手で持ち上げドリーを隠す。恐らく周囲からは膝をついて蹲っているように見えているだろう。
隠された外套の中でドリーが蝶子さんを発現させる。
『蝶子さん頼む』と俺が声を掛けると、任せろと言わんばかりに前方へと向かって舞い飛んだ。
【チョコマカと小賢しい真似ばかりをッ!!】
苛付いた怒声が上がり、ゴガッ!! と民家の壁が粉砕され、その中から土煙を吹き散らしながら武器を肩に担いだ斧槍が現れた。
『ペネトレイト・ウォーター』
俺とドリーの声が重なり、空を舞う蝶子さんを目指して一発の水弾が放たれる。
空気に溶け込むように燐光がチラチラと漂い、水弾へと吸収され、一気にその大きさを膨れ上がらせる。
一回り、二回り、とグングンと大きさを増した水の塊は……やがて限界に達して爆撒した。
撒き散らされた横殴りの豪雨が、姿を見せたばかりの斧槍へと一斉に殺到する。
予想以上の攻撃範囲を見て、こちらまで若干驚いてしまう。
普通であればこれで終わりだろうが、俺はそうは思わなかった。
絶対アイツはコレぐらいじゃ倒せない。そんな妙な確信を元に、結果すらも見ずに反転、先ほどと同じように大地を蹴って逃亡し、どこかの路地裏にでも入るべく足を動かした。
……ん?
戦場さながらの通りを全力で疾走していく途中――不意に屋根に上っていた外套を着込んだ背の低い亜人と視線が交差した……ような気がした。
確証はなく、一瞬だったのでただの勘違いかもしれないが。
【武器を取れ、構えを取れ、足を止めて打ち合え――ッッッ!!】
やはり倒れてくれはしなかったのか……背後から轟く斧槍の咆哮に、俺は心の中で舌を出して『嫌に決まってんだろ』とのたまいながらも更に速度を上げた。
駆ける――ただ全力で駆ける。だが延々と背後から追ってくる破壊の音が遠のかない。
嫌な予感がして後方を振り返り、そして後悔した。
視界の中で鮮血が咲いていた。首も高らか空を飛び交っていた。
逃げ惑う一人の住民が吹き飛ばされ、横合いからちょっかいを出した亜人が両断される。
仲間である筈のファシオン兵ですら、進路上にいれば呆気なく胴体が亡き別れをしている。
人を人だと思わぬ所業。
黒紫色の瘴気を全身から吹き上がらせた斧槍の戦士、その進路を妨げているものは例外なく、命を散らして死んでいく。
どれだけ、無茶苦茶やりやがんだあの野郎ッ!
歯噛みする……抑えていた怒りが更に込みあがった。チカチカと視界が瞬いて、我を忘れそうな激情が再墳していく。
感情がささくれ立ってゆく。誤魔化そうとしても意識が散らばり集中できなくなる。
まるで酷く痛む虫歯を必死に耐える感覚によく似ている。
落ち着け、落ち着け――ブツブツと布で覆った口元をその言葉の形に動かしながら、俺はこれ以上被害が広がらないように、目に付いた裏路地へと入り込んだ。
せめて人の少ない場所へ、入り組んだ場所で追跡をまくしかない。
槍も満足に振るえそうにもない幅の道を、置かれた樽や材木を乗り越え走りぬける。
背後からは全てを蹴散らしながら追ってきているであろう破壊の音が、徐々に近づいてきていた。
「ドリー後ろはどんな感じだッ?」
『追ってきています。同じ速度……いえ、若干向こうの方が速いかもしれませんっ』
ッぐ、と喉を詰まらせる。思わず苛立ちで喚きたくなった声を抑える為に。
やはり鉄仮面の戦士が人間ではないということは本当だろう。あの瘴気めいた煙はドランから聞いていたが、実物を見ると異常さが良くわかる。
怨念のような、死をそのまま振りまいているかのような嫌悪感。獄の主ほどではないが、動きを鈍らせるような威圧感もあった。
化け物と身体能力を競い合う気は更々無い。
まだ一対一なら良かったモノを、長々と戦闘していれば絶対に囲まれる。少しでいいから距離を開き、どこかに隠れてやり過ごすのが無難だろう。
足だけは止めずに判断を下し、俺は少しでも引き離せる可能性を上げるべく、ドリーへと指示を出す。
「ドリー、身体強化を蝶子さん付きで、重量軽減も同様にッ、何が何でも逃げ切るぞッ」
俺の出した指示の返答代わりに魔名が囁かれ、俺の速度が一段階ギアを上げる。
自身の身体が風になったかのように軽くなり、四肢に力が張り詰めた。
タッ、軽やかなる足音が地面を叩き、身体を前に前にと進ませる。足跡すら残さず、踏み台にした樽を蹴りぬくことすらもない。
俺は苛つきをかみ殺しながら、地面を蹴った――。
逃走者と追跡者。暫くの間距離は離れず追いかけっこが続く。
前方に人がいれば屋根へと飛んで進路を変え、追いつかれそうになれば木材を倒して足止めをする。
走って蹴って、グネグネと曲がる路地裏を、疾風の如く走り抜ける。
追いつかれる気はしなかった。強化を掛けている身体は驚くほどに軽かった。
でも、その反面――
【闘えッ、家畜共と違って誇りがあるなら足を止めろ!】
背後から聞こえてくる罵倒とも呼べる声を聞くにつれ、俺の心は深く重くなっていく。
重みがドンドン酷くなる。聞けば聞くほど悪化する。
誇りなんてしったことじゃない。敵の言うことを何故わざわざ聞いてやらなきゃいけない。
この程度の罵倒程度じゃ幾ら何を言われても気にならないはずだった……いつもの俺ならば。
背後からまた声が聞こえた。
【家畜】と聞こえた瞬間、ナニカが『違うッ』と吼えた。
【亜人と同じで臆病者なのかッ】と耳に入った瞬間、ナニカが『臆病者なんかじゃないッ』と叫んだ。
グツグツ、グツグツ、煮えたぎる……殺意という名の黒い塊が。
亜人を馬鹿にされて気分が悪いのは俺だってそうだ。でも、なんでこんなに怒りが湧くのか分からない。
幾ら何を言われても、最後に勝てば良いじゃないか。
仲間を含めた亜人達の良さなんて俺自身が知っているのだから、別に気にしなければ良いじゃないか。
いつもだったらそう思う。いつもだったら開き直る。でも、今の俺にはそれができない。
とても危うい思考の流れ、それに俺は抵抗する間もなく惹きこまれていく。
溢れかえりそうになっている感情のダムを、とどめていたのは理性の堰。
すぐに氾濫しそうになるソレを抑えに抑えて、塞き止めていた。
でも、そんな俺の必死で作った堰は、
【糞蟲共もめでたく消え去ったことだ――もし、これ以上逃げるのならば、四肢を切り落として、お前もあの死骸捨て場に蹴り落としてくれるッ】
斧槍の戦士が声高に叫んだそんな台詞で、いとも容易く崩壊した。
真っ赤に熱せられた火掻き棒で、脳を捏ね繰り回されたかのように、思考がカッ、と熱を持つ。
逃げ続けていた足が速度を緩め……やがて静かに足を止めた。
『――ッ――ぁ!』
ドリーがナニカ叫んでいるが、理解できない。
冷静な自分が、己の体を観察しているような、そんな不思議な感覚に襲われる。
視界は赤い、真紅のような鮮血のような赤い色に染まっていた。
瘴気を爛れさせながら、怒涛の如き勢いで障害物を壊して迫る鉄仮面の姿が目に入る。
早く逃げなければ――そんな俺の意思とは正反対に、身体は戦士へと向き、右手が真っ直ぐ並行に持ち上げられた。
唇がポツリ、とナニカを呟く……更に声にならない言葉がもう一度漏れる。
「リ……ベ……ライ」
意識がどうにも混濁していた。
上手く喋れず目的の言葉が出てこない。もっとはっきりと、しっかりと発音しなければ。
もう一度口が動いた。先ほどよりも精密に。
『リベンジャー・フラッピングッ!!』
指先から黒い魔力塊が生まれ、小さなソレが斧槍へと駆う。
とてもとても小さなソレは、戦士に向かって羽ばたきを見せ――呆気なくとても呆気なく三日月斧で消し飛ばされた。
斧槍が【なんだこの弱々しい魔法はッ!】と叫んでいるのが耳に入った。
雑音だ。消せば良い。
黙々と戦士に向かって手の平を向ける。
底に溜まった暗いヘドロが湧き出して、その全てを吐き出すように手の平へと流れていった――。
ドロドロと氾濫した黒い感情の濁流が、喉を通って口内へ、そしてそのまま一気に声音に混ざり、
「復讐者の羽ばたき!!」
俺の咆哮と共に吐き出された。
身体から魔力がゴッソリ奪われる。中級にはギリギリで届かない程度、だが俺にとっては大量の魔力が、怒りと共に毟り取られていく。
黒いナニカが手の平から生まれ出て、色々なものが引き抜かれ――それを切っ掛けに、俺の意識がバチッ、と音を立てて修繕された。
あれだけ感じていた激情はすっかり消えていて、頭の中がやけに清涼に冴え渡っている。
理性が戻り、思考が戻り、感情の波が静寂を取り戻す。
俺は色々な思いを込めながら、今の状況を的確に表す言葉を口からぽつりと漏らした――。
「え……何これ、全く意味が分からないんだけど……」
『おお、相棒っ、おはようございますっ』
呆然としたまま呟くと、ドリーが妙な挨拶を入れてきたのだが、混乱していてそれに返答することすら儘ならない。
俺は、眼前に見える奇妙な光景に、完全に目線を奪われていた。
空に浮かんでいる大型犬程もある黒い魔力の塊が――まるで彫刻等で削り取られていくかの如く、目の前で姿を変貌させていく。
鋭利な刃物を思わせる三角の頭部、そこに生え出した鞭のような触覚。
胴体には六本の足が生えだし、足先には鉤爪を思わせる鋭い爪が付いている。
円錐を思わせる下半身の先には、氷柱を思わせる毒針が黒く輝き、背中には引き伸ばしたひし形状の二対四枚の鋭角な薄羽が、ブブッ、と短い音を鳴らし、力強い羽ばたきを魅せていた。
見覚えがある――というか、全身が黒く染まってはいるし形が若干シャープなようではあるが、ソレは紛れも無く蜂の姿だった。
ハッ!? とその姿を見て脳が冷静さを取り戻し、現状を把握する為に動き出す。
俺が唱えたのは馬鹿蠅の魔法、そして受けた攻撃は戦士の斬撃。
そのせいなのか不思議なことに何故か立派に成長した蜂が俺の目の前に。
つまりは――実は今って、素晴らしくヤバイ状況なのでは?
もうすぐ近くまで迫っている戦士と、術者を狙う魔法の板ばさみに冷や汗を流し、ブブッ、といきなり激しく羽を動かした蜂を見て思わず『今は止めて、後にしてくれッ』と叫んでしまった――のだが、何故か蜂は俺へと向かわず、凄まじい速度で戦士目指してかっとんでいった。
……ん?
空気を切り裂き右へ左へと、鋭く身を揺らす蜂を見て、俺は思わず肩に担いでいた槍を揺らして、口を真一文字に結んで首を捻る。
てっきり、こちらに襲い掛かってくるものだとばかり思っていたのだが、どうやらそんなことはないようだ。
【ッチ――なんだこの蟲はッ! 鬱陶しい、私の邪魔をするな!】
周囲をブンブンと飛び回る黒蜂に、戦士が怒りを顕に武器を振るっていたが、触れれば即座に砕け散りそうな轟風の斧槍を、黒蜂は高度を上げることで躱していた。
「なあドリー、アレなんだろうか」
『ふむ……私の樹脳によると……きっと、蜂……かと思いますがっ、どうでしょう?』
あ、いや、それは知ってます。
自信満々に言い切ったドリーに『それは当たり前だ』等とはなんだか悪くて言えず、俺はさっさと諦め『さすがだな』と返答しておいた。
蜂と戦士との戦闘が少し先で繰り広げられている。
なんだか突然の急展開に遭遇してしまい、俺は少しの時間呆然と突っ立って状況を見守ってしまう。
が、やがて事態が少しの変化を見せた。
高度上げ、空を自由に飛びまわる蜂にさすがに嫌気が差したのか、鉄仮面の戦士がその存在を無視して、本来の獲物である俺へと体の向きを変えた――その瞬間だ。
黒蜂が円錐状の下半身を戦士へ、そのまま生えていた毒針をダッダッダッ、と短い間隔で撃ちだした。
なんだかとても嫌な覚えのある針の弾丸が、戦士の背中に降り注ぐ。
【邪魔をするなと何度言わせればわかるッ!】
怒号を上げて斧槍を旋風の如く振り回し、針を叩き落す鉄仮面の戦士と、しつこくその周囲をうろつき攻撃を続ける黒蜂……いや、黒蜂様。
……俺の魔法、なんて素晴らしいんだ。
正直、未だに状況は全く把握できていなかった……だがしかし、一個だけ間違いないと言えることがあった。
これはどう見ても大チャンス。
今のところは蜂が優勢。そのせいで随分苛付いているのか、戦士の意識は俺から外れている。正直逃げるなら今しかない。
というのも、もし戦士が冷静になってしまえば、あの黒蜂は残念ながら負けてしまうからだ。
確かに現状では有利に見える。実際速度もあるし、あの針の弾丸は絶対うざったい。がやはり戦士を倒せるほどとは到底思えない。
黒蜂さん……もう少し耐えてくださいお願いします。
ジャリ、と足裏が音を鳴らす――静かに抜き足、大胆に差し足、そして軽やかに忍び足。
コソコソと距離を取りながら、路地裏の角を曲がったと同時に即座にダッシュ。
後ろを振り返ることなく駆け出した。
黒蜂を放っておいても大丈夫か? とは少しだけ考えたが……あの様子じゃ蜂は戦士に延々と付きまとうだろうし、その内やられて消えてしまうから大丈夫そうだ。
……俺の身体は一体どうなってんのか。
不意に頭に流れたそんな疑問のせいで、思わず陰鬱な感情が湧き上がりそうになる。
色々と不安が胸中で渦巻いて、ほんの少しだけ弱音を零しそうになったが、俺はそれを奥の方へとしまいこんだ。
残された疑問は山積みではあるが、考えれば考えるほどにグチャグチャと頭が混乱してしまうし、満足のいく答えも出そうにはない。
一先ず今は逃げることに集中しよう。
焦げ臭い空気が漂う路地裏を、俺は身の安全が保障されるまで走り続けていった――。
◆◆◆◆◆
【己ッ、あの槍使いがッッ!!】
甲高い破砕音が響き渡る。
シルクリーク城内の一室――“アッシ”の目の前で斧槍の旦那が怒りを顕に武器を振り回して暴れていた。
花瓶が破壊され、テーブルが叩き壊され、椅子が粉砕し、破壊の音が延々と鼓膜を揺らし続けている。
「ちょ、落ち着いてくだせーや旦那ッ」
【黙れ“ラッセル”これが落ち着いていられるかッ!】
どうにかアッシが止めようと声を掛けるも、聞く耳すら持っては貰えず、それどころか余計に怒りを増大させてしまう。
嗚呼、なんでアッシがこんな面倒なことやらなきゃならねーんですかい……。
お目付け役、歯止め役……とでも言えばいいのか、この話も聞かない戦士達をどうやって止めろというのか。
例のやつはこれ以上使う気にはなれないし、身体を張って止めようにも、そんなことしたら粉みじんにされてしまう。
溜息が止まらず、嫌気も差す。
アッシがそうやって一人額に手を当て不幸を呪っていると、
【ラッセル……何があった? 随分と騒がしいが】
背後のドアがギシリと開いて、苛立たし気な声音と共に、ノソリと巨躯の男――というより、大槌の旦那が姿を現した。
良い所に……大槌の旦那に頼めばどうにか止めてくれるやもしれない。
「あ、いや、どうにも今日の亜人狩りの際に色々あったみたいで、ちょっと止めてくだせぇ」
【……止める何故だ? それよりもまさかと思うが、亜人如きに不覚を取った訳ではないだろうな?】
噴火前の火山――そんな印象を抱く程に、大槌の旦那の全身から憤怒とも呼べる空気が漏れ出している。
これは非常に拙い……。
嫌な予感を感じ、ズサリと後ろに逃げようとしたが、ある筈もない壁に背中がドンと当たり、それ以上下がれなくなった。
恐る恐ると振り返ってみると、そこには先ほどまで暴れまわっていた斧槍の旦那の姿。
その姿は大槌の旦那と同じく、凄まじい怒りを内包させているように見える。
空気が一瞬で重くなり、ダラダラと、アッシの背中に冷や汗の滝が流れ始めた。
【ほう、それは誰のことを言っている。私か? それとも己自身のことか?
あいにくだが私の相手は人だ。大体、貴様じゃあるまいし、家畜如きに不覚を取るとでも思うか?】
【なんだと? もう一度言ってみろ】
斧槍の旦那の台詞を切っ掛けに、大槌の旦那の殺気が膨れ、それに伴いギシッ、とアッシの頭上で空気が絶叫を上げた。
――誰かっ、誰か助けてくだせぇ!
心の中で悲鳴を上げるも、居るのは元凶の二人だけで、助けが来る様子は無い。
アッシの焦りなどお構い無しに、大槌の旦那が右手に持っていた武器を肩に担ぎなおし、殺気混じりの声を吐き出していく。
【誰がいつ家畜に不覚を取ったというのだ? ラッセルが邪魔をしなければ、あの気に食わぬ爬虫類なぞ今頃ひき肉になっていたというものをッ!】
【ほう、私の聞いたところによると、己の武器を吹き飛ばされた阿呆が居た筈だったが?】
ちょッ!?
喉元からせりあがって来た制止の声音。
だが、それを掛ける暇すらなく、斧槍の旦那が大槌の旦那へと煽るような言葉を放つ。
より一層殺意が溢れかえる。部屋の壁が軋んでいるような錯覚さえ抱く程に。
前方に大槌、背後に斧槍、武器を握る手には力がこもり、アッシを挟んで対峙する二人の戦士は、今にも弾け出さんばかりの雰囲気を纏っていた。
このまま怒りに任せて戦闘でも開始されてしまえば、間にいるアッシなんてそれこそひき肉に……。
嫌な想像に寒気が走り、アッシは慌てふためき、二人の間で押し止めるように手を広げた。
「お、お、落ち着いてくだせーやお二人さん方ッ!? こんな場所で暴れたら王様になんて言われてもアッシはしりやせんぜッ」
【む……】
【ぬう……】
唸り声を漏らしながらも、ピタリと止まる旦那方二人を見て、思わず安堵の溜息を漏らす。
やはり城の中ならこの手でどうにかなりやすね。
それに実際派手に壊しでもすれば叱責を受けるでしょうし……どうにか、どうにか死なずに済みやした。
背中にかいた冷や汗が、ベタベタして非常に気持ちが悪いが、とにかく大事にならなそうだ。
しかしこのままではいつ再墳するかは分からない。一先ず会話を変えなければ安心は出来ない。
そう考えたアッシは、どうにか話題を逸らすために、斧槍の旦那へと慌てて顔を向けた。
「し、しかし斧槍の旦那。今日の相手はどんな奴だったんですかい? 旦那が逃すなんてアッシとしては信じられねーんですが」
危ない話題。ただ、かなり危険性が高くはあるが話は逸らしやすい。今は一先ず怒りの矛先だけでも変えるのが先決だった。
不安なままで伺っていたアッシだったが、どうやら上手くいったらしく、眼前にいた斧槍の旦那は、武器の刃先を下ろし、思い返すかのように視線を少し上にやっている。
【どんな奴……と言われると、少し説明し難い。端的に言えば、肩……いや首に使い魔を乗せた蒼色の槍の使い手だ。
力量の方はどうにも掴めん……まともに戦ったのは最初だけだからな】
おや?
斧槍の旦那の言葉を聞いて、頭に浮かんできた姿があった。しかもそれは、アッシが探している人物像とピタリと合う。
これはもしや? と思いながらも、アッシはそれを確かめる為に質問を投げかける。
「斧槍の旦那……使い魔ってもしかして、黒い腕だったりしやせんでしたかい? 使い手の方は褐色肌で黒髪の、武器は確か蒼黒い水晶斧槍」
【む、いやラッセル……残念ながらお前の探している奴ではない。肩にいたのは妙な蛇で、斧槍ではなくただの槍だ。のぞいていた髪は黒だがさして珍しくもないだろう。
さすがに肌色は外套で見えなかったな】
「そう……ですかい」
斧槍の旦那の言葉を聞き、アッシは自身の予想が外れていたことを知ってうな垂れた。
はぁ、なんて面倒な……。
心中で愚痴を零す。影の旦那に探せと頼まれたのは良いが、情報なんて全く入りはしない。
態々このシルクリークにノコノコと来てくれるとは思えないし、どうやって見つけろというのか。
何故自分がこんなことをしなければ、などといった気持ちは常にあるが、無駄に逆らうとどうなるか分かったもんじゃないし、嫌々でも従うしかないだろう。
考えれば考えるほどに、溜息は止まってはくれなかった。
それにしても……クロの旦那は今頃どうなってんでしょうかい……。
頭に浮かぶ仲間の姿。
確か最後に旦那を見たのは、真っ黒に染まった妙な部屋の中だったか。
姿形がすっかり変わり果て、ブツブツと呪うように何事かを呟く旦那の姿は、とても恐ろしく、悲しいものだった。
唯一の救いとしては、アッシ達と会話をしている時だけは、やはり旦那は変わらず旦那だったことだろう。
無事だといいんでやすが……。
恐らくジャイナが側にいる筈だが、アッシとしては様子が分からないので酷く不安だ。
自分の現状だって決して良いとはいえず、余裕もないのだが、やはり長く付き合ってきた彼等のことは気に掛かる。
探しに行こうにも、移動は黒い影に包まれていたせいで、クロの旦那が居た場所が分からず、どうにも打つ手がなかった。
定期的にやってくる影の旦那の使いで、連絡だけはとれているが、向こうの状況は全くと言って良いほど不明瞭。
不安だ。
今はジャイナがいるからいいが、もしクロの旦那を一人で放っておいたら、どんどんと化け物に近づいてしまう気がしてならない。
そのうち、アッシ達のことすら判らないようになってしまうのでは……。
そう考えた瞬間、心がズキリと苛まれる。
いや……アホらしい、アッシらしくもない。
自分の命が一番大事、今は他人の心配なんてしている余裕なんてない……でも何度そう言い聞かせても、アッシの心を刺すジクジクとした痛みは消えてはくれなかった。
今日は、ゴラッソと一緒に酒でも飲みやしょうかね……。
唯一共にやってきた短気な相棒に、今晩は遠慮なく愚痴でも吐こうと心に決めて、アッシは言い合いを再開させ始めた二人の戦士の姿を、そっと視界から外し、ばれないように静かに距離をとった。
◆◆◆◆◆
太陽が地平線へと姿を隠し、代わりに月が空に輝く――そんな夜中というにはまだ早いだろう時刻。
戦士の追走から逃れきり宿屋へと帰っていた俺は、部屋のベッドで寝転び、右頬を片手で押さえてうめき声を上げていた。
「メイって本当に懲りないわよね」
部屋に置かれたイスの背もたれに顎を乗せ、グデェと腕を垂らしていたリーンが、呆れを含ませた声を俺に投げかける。
「イケルと思ったのに……」
俺はヒリヒリと痛む頬をさすりながらリーンに返答し、誰に向けてでもない文句を零す。
枕元付近の小さなテーブルに乗せられていた蝋燭の明かりが、俺の吐いた溜息でゆらゆらと揺れていて、まるでこちらを馬鹿にしているように見えた。
くそ、腹が立つ……。
ズキズキと痛む右頬によって反射的に先ほどのことを思い出した俺は『ぐぐ』と唸りを上げて歯を軋ませた。
更に言えば、俺が頬を押さえて呻くことになった原因が、あの馬鹿蠅魔法によるものなのだから、余計に腹が立ってしょうがない。
戦士から逃亡して宿屋に戻った後――俺は、戦士の邪魔をしてくれたあの黒蜂の勇姿を思い出し、色々と考えた末に『イケルッ』と勘違いをしてしまった。
そのまま『遂にあの魔法を扱える時が来たんだッ』とキャッキャと言いながら魔法を唱えた結果――勿論俺の期待は全力で裏切られることに。
魔法を使用して、出てきたのはいつもと変わらず黒い豆粒で、やはり何の躊躇いも無く俺を強襲。
正直ここで諦めていれば、こうはならなかったのだが、やはり脳裏にチラついたのは、今日の蜂の姿。
そのせいで『衝撃を与えれば今日みたいに大人しくなるかもしれない』……と幸せな思考回路が働いてしまい、全く懲りずに豆蠅を右ストレートで消し飛ばし、もう一度発現。
だが期待していた蜂さんは姿を見せず、出てきたのは見覚えのある羽の生えた黒いウジっぽいナニカ。
そしていつもの如く、俺を襲う。
狭い部屋の中では満足に避けることすら出来ずに、元気よく飛び回った黒い塊は、見事俺の右頬へと直撃を果たし――そして現在に至る。
……使えねぇ。
自分の右ストレートで殴られる、といった貴重な経験と引き換えに得られたのは『やっぱりあれは碌でもない魔法だった』ということが再確認できたことぐらいだろうか。
本来であれば回復魔法でさっさと痛みを消すのだが、今回は反省の意味も込めて暫くそのままにしておいた。
『んーみゅ、蜂さんは良い子でしたのにね』
「いやドリー、期待は裏切られる為にあるんだ。俺しか居なかったらあの蜂も絶対に襲い掛かってきた気がする」
うつぶせで寝転んでいた俺の背中の上で、ドリーがビョインビョインと跳ねながら、今日の蜂について、好意的な感想を漏らす。
しかし、既に俺の心は疑心暗鬼……というか疑心しかなかった為、戦士がいなければ、自分と戦士の立ち位置が入れ替わるだけにしか思えなくなっていた。
「でもメイ、なんでそんなことになったの? 原因は?
ドリーちゃんの言うには調子が大分悪そうだったって聞いたけど」
ガタガタと椅子ごと動かしながら近づいてきたリーンが、心配そうな声音を湛えてこちらの調子を伺う言葉を掛けてきてくれる。
それを聞いた俺は、少し考える素振りを見せた後、
「分からん、調子が少し悪かっただけだろ。特に異常はないよ」
躊躇いも突っ掛かりもせずに嘘を吐いた。
正直原因は分かっている。というよりも冷静になって考えれば、簡単に予測がついた。
恐らく――ではあるが、俺が吸収した主の球と、蠅の能力が関連しているのではないか、と思っている。
何故そうなったかなどの細かい理由は全く分からないが、そこまで大きく外れてはいないと感じていた……いや、ほぼ確定と思って良いかもしれない。普通に考えて、あの妙な苛つきと、限界に達した時に俺が自然と呟いてしまった魔名、あれが全く関係していない訳がない。
前にドリーが、魂がうんたらこーたらと言っていたから、簡単に考えると俺の中にあの主の一部やらなんかが流れ込んでいて、その影響が出た……でいいのだろうか?
きっと……そうに違いない。
つまり、やはりあの蠅が全部悪い。畜生、恨んでやる。馬鹿バエめ、阿呆バエめ。
頬の痛みもあって、なんとなく恨み言をいるかもしれない蠅にぶつけてみるが、特には反応がない。
本当にいるのだろうか?
少しだけ不安はあったが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
正直、蠅の魔法はムカつくし、あの主は嫌いだ。気に食わない感情は溢れんばかりにある……筈なのだが、なぜかそういった気持ちにはなれなくて、自分でも少しだけ戸惑っている。
ただ、さすがに自分の中に他のナニカが入っているのかもしれないのだから、言いようのない恐怖は心の片隅に漂っていた。
ソレは、我を忘れる程ではなく、絶望するような強烈なものでもなく、自分の視界に入らない場所にある、小さな染みのような恐怖でしかなかったが。
今の所、コレはリーンにもドリーにもはっきりと伝えてはいない。それにこれからも特に教える気はなかった。
理由は簡単で『解決しそうにないことを教えても、いらん心配を掛けるだけだから』ということだ。
妙に気を使われたりするのは好きじゃないし、下手にリーンやドランに教えたら無駄に心配しまくって慌てふためくのが目に見える。
リッツ……は良く分からんが、意外と気を使う奴ではあるし、心配くらいはしてくれるかも……いや『アンタは元々オカシイんだから、大して変わりゃしないわよ』等と言ってくる気がする。
ただ、俺としてはそういう風に言われたほうが、妙に心配されるよりは気持ち的に楽かもしれない。
唯一全部気が付いていそうなのはドリーくらいか。
特に何か言ってくる様子が無いところを見ると『分かった上で黙ってくれている』ということだろう。
こちらとしては非常にありがたい話だが、逆に考えると『ドリーでも解決策は見当たらない』とも考えられる。
ちょっと期待していた部分もあったので、少しだけ残念な気持ちが湧くのは否めなかった。
取り合えず、今は気にしないのが一番か。
ズキズキと痛む頬、ほんのりと心に残っている不安の種。自分の身体のことなのに謎は増えていく一方で、先行きは未だ不明瞭。
それでも、背中でビタンビタンと遊んでいる相棒や、しつこく『大丈夫なの?』と心配してくれているリーン。
今頃何をしているのか、我が家のお母さん的な存在ドランと、喧しい白い毛玉。
俺が様子を見に行く度に、嬉しそうにはしゃぐ樹々などのことを思い出すと『どうにかなる』もしくは『どうにかしてみせる』といった前向きな気持ちになってくる。
やはり、不安を晒してそれを皆が心配してくれる……ってよりも、普段通りの姿をこうやって見せて貰える方が、気分は和らぐ。
このまま黙っていると後でバレタ時に怒られるとは思うのだが、ばれなきゃなんの問題もない。
俺の完璧な演技力でリーン達なんて、コロッと騙し通せる。つまり、ドリーさえ黙っていればバレル要素なんて皆無なのだから、一安心ということだ。
うんうん、とそんなことを考えながら俺が一人満足気に頷いていると、
「全く……街中が予想以上に大変なことになっていたわね」
リーンが今日のファシオンと亜人の追いかけっこを思い出したのか、顔を顰め、さも嫌そうに呟いた。
「だな、まさかあそこまで大事になるとは思わなかった……つか、リーンの方はどうだった? こっちは結構滅茶苦茶だったけど」
「ん……こっちも同じようなものね。ファシオンが亜人を追いかけて、亜人がそれに応戦する。そっちほど被害は大きくなかったけど、十分大騒ぎだったわよ」
やっぱり俺のいた場所だけじゃ済まなかったのか……。
リーンの話を聞いて、今日の騒ぎが複数箇所同時に起こっていたのだと確信を持つ。
となると、今日の騒ぎの原因は、散らばっていた亜人を探すためにファシオン側が家捜しでもして回った、って感じか?
それとも、亜人達が拡散しながら何か反撃でも試みて失敗でもしたのだろうか。
流石に詳しくは分からない――情報が少なすぎるというか、蚊帳の外過ぎて判断が付けられないとでも言えばいいか。
ただ、一つ分かったのは“こういった騒ぎはどうやら定期的に起こっているようだ”ということだ。
コレに関しては、住民の叫んだ言葉や動揺の少なさから考えても間違いはないだろう。
俺達が来たばかりの時はそんな感じはしなかったが、何か理由でもあって大人しくしていたのだろうか……。
一人悩みながらもゴロゴロしていると、リーンは手をポンと打ち付け、何かを思い出したかのように『あっ』と漏らして目を見開いた。
「ねえメイ、そういえば私のほうでも鉄仮面見つけたわよ」
「ちょ、マジかよッ!? 問題なかったのか、追いかけられなかった?」
「やだ、メイじゃあるまいし、そんな訳ないじゃない。適度に距離を保ってたから大丈夫よ」
平然とそう言い放ったリーンに『失礼な奴だ』と言い返そうと思ったが、実際巻き込まれている俺が言う台詞ではないので、グッと堪えて我慢する。
「で、リーンが見た鉄仮面はどんな奴だった?」
「えっと、確か……やたらと重そうな大剣をもった女、かしら? 鎧ではっきりはしなかったけど、なんとなく体格が女っぽかったのよね。
腕の方は、実際打ち合って見ないとなんとも言えないけど、少なくとも今の代えの武器じゃ受けた瞬間真っ二つでしょうね」
げっ、とリーンの言葉を耳にして、俺の表情はゲンナリとしたモノへと変わる。
今の話を聞く分に、大剣の戦士も俺が会った斧槍レベルであることは間違いなさそうだ……いや、鉄仮面達が全員その力量だと思っておくべきか。
やばい、凄く鬱陶しいです。
今日闘った感想としては、愛用の槍斧が無く、後はドリーが全力を出せない条件だと、一対一だと結構厳しい、といった具合だ。
戦えないことはないが、どうにも相手の攻撃を受けることが出来ないと、ここぞという時にいまいち相手に踏み込めず、一手足りなくなる。
いつも俺が使っている武器の振動能力が、相手にとっていかに嫌なモノなのかが、改めて分かった気がした。
俺の予想していた以上に、今まで武器の能力に頼っていた部分が大きかったということか……でも、今日戦士の動きを見れたのは、少しありがたかったな。アレは参考に出来る類の技術だ。
片腕だけでも自身の一部のように、指先や握りを変えて操作する。
練習すれば出来なくは無い。槍も元のものより軽いし、練習には丁度良い気もする。
うにうに、と武器を握っているかのような想像で、指先を動かしてみるが、なんか少し違う気がした。
色々と思い出しながら、暫くの間、躍起になって動かしていると、
『相棒……こうやるのですよっ』
ドリーが頼もしい声を上げる。
パっと視線を声のしたほうへと向けてみると、そこには蛇ぐるみを着たまま、頭部でペンのような棒をグルングルン回しているドリーの姿が。
やべえ、指全然使ってないけど、すげぇ。
手の甲から平へ、そして甲へ、フラフープでも回すかのごとき速さでペンを回すドリーに、思わず拍手を送ってしまう。
『ふおおおおお、にゅおおおお』
「いいぞドリー、凄いぞドリーっ!」
『ひゃっほおお……あっ』
俺の声援もあって、順調にペンの速度が上がり続けたのだが、どうやら調子に乗りすぎてしまい、ドリーの『やっちゃった』みたいな呟きと同時に、ペンがスパンッと吹き飛んだ。
シャッ、と風を裂く様な音と共にペンがかっとび――椅子に座ってニコニコしていたリーンの額に、ガッ、と縦に直撃。
さすがにフタを閉めてはあったので、尖っては居なかったのだが、それが逆にリーンの油断を誘ってしまったらしい。
いや避けろよ、と一瞬思ったのだが、すぐに『普段のリーンなら当たってもなんらオカシクはない』と妙に納得してしまった。
「――ッ!? ちょ、痛いじゃないっ、何してるのよっ」
「ぶふっ、悪い悪い」
『ぷふっ、申し訳ないっ』
額を両手で抑えて若干涙目になっているリーンの顔は、妙に笑いを誘うもので、俺とドリーは謝罪しながらも笑いを滲ませる。
それをみて更に、頬を赤くしながら怒るリーンだったが、俺とドリーの笑いは大きくなるばかりだった――。
◆
あれから三時間程経過して――今日の当番でもあるリーンが、樹々のいる地下へと戻ろうとしたそんな時のことだ。
不意に、コンコンとノックの音が部屋に響き渡った。
気配で誰かが近づいてきていることは知っていたが、まさかノックされるとは思っておらず、俺は驚きでビクリと体を揺らしてしまう。
誰だろうか……特に敵意もないけど、少し警戒しておくべきか?
昼間に色々と厄介ごとに出会ったこともあり、若干ながら気が立っていた俺は、誰か分からぬドアの向こうの人間に、少しの警戒心を抱いた――が、
「お客さん、ちょっとお客さんに手紙が届いてますよ。ここから入れときますからねっ」
俺の耳に届いたのは、何度か聞いた覚えのある宿屋の主人の声だった。
返答しようかとも思ったが、そんな間もなく主人の言葉通り、部屋のドアの隙間から一枚の手紙がスッと差し込まれ――そのまま、すたすたと部屋の前から足音が遠ざかってしまう。
リーンが『私が取りにいきましょうか?』と視線をこちらに向けてきたので、俺は黙ってベッドから立ち上がり、自身の手でドアの下から手紙を抜き取った。
薄い少し黄ばみがかった白い封書に入っている手紙。
それを光に空かすようにジロジロと眺めながら、俺はドリーとリーンが待ち受けるベッド周辺へと戻る。
『何が書いてあるんでしょうね?』
「分からん……けど今日のこと考えると、大体予想はつくけどな」
「ん? ……ああ、それもそうね」
ベッドの上で胡坐をかいていた俺の膝の上でドリーが小首を傾げ、椅子を移動させて正面に座り込んでいたリーンが、納得の声を漏らす。
ドリーとリーン、二人の視線が集中する中――封筒のような包みに入っていた手紙を、ガサガサと開いて目を通した俺は、
「おお、やっぱりか。今日の戦闘も無駄じゃなったみたいだな……来たみたいだぞ、待ちに待った連絡が」
喜びと緊張混じりの台詞を静かに呟いた。