蟲毒の王
長い、長い時を遡る。
グランウッドという国すらも無く、走破者と呼ばれる職種すら無い時代。
今現在シルクリークと呼ばれている国と同位置に【侵略国家タイリア】と呼ばれる国が存在していた。
国を率いる王の名は【ダド・ウィンブランド】
亜人を心底から嫌い、民衆から暴王とすら呼ばれ恐れられている男だった。
人種こそが頂点で、亜人共など家畜にも劣る。
逆らうものは皆殺せ。
欲しいものは奪い取れ。
他国を侵略し、嫌悪する亜人を迫害し続ける暴王ダド。
彼にはそれを行えるだけの力があり、その暴政を何の躊躇いも無く実行出来る優秀な配下も揃っていた。
強き相手を求め、斧槍を手足の如く操り敵を殺す【ハルバ】
鮮血をこの上なく愛し、特大剣を易々と片手で振るう【レイモア】
王の為に、ただそれだけを考え大槌で敵を砕く【ハマ】
巨大な戦弓で、王の敵を無感情に撃ち殺し滅ぼす【アロ】
元々名無しの捨て子だったこの四人を拾い育てたのはダド自身。
彼が王になる以前、まだ傭兵だった頃に戯れで連れて帰り、武器の名をつけ鍛え上げた子供達。
四人は決して逆らわない。
四人はダドの命令にしか従わない。
当然だ――武器の名を付けられ鍛え上げられた四人は、正しく彼にとっての“武器”なのだから。
強者だけが得をして、弱者はこぞって食い物にされる。
暴王が治めるタイリアの民は、大半が彼らと同じように暴力を愛する傭兵で、残りは侵略された国から攫われた奴隷で構成されていた。
戦争で殺せば殺すほどに地位も上がり、奪えば奪うだけ我が物と出来る。
暴力と差別が支配するこの国は、弱い者と亜人にとっては地獄のような場所だった。
そんなタイリア片隅――奴隷や弱者が住まうスラムの路地に、弱いながらも必死で生に縋り続ける一人の若い孤児がいた。
男の子の名前は【セト】
乱雑に切られたボサボサ髪。その奥に時折垣間見える、少年とは思えぬほどに疲れ濁った黒い瞳。
身に纏うのは泥まみれになったボロキレのようなローブと、ゴミのように穴だらけの衣服。
セトは持たざるものだった。セトは奪われる側の人間だった。
元々の故郷は侵略されてしまった隣国で、捕まり連れられ嬲られて、両親などとうの昔に死んでいた。
まだ幼かったセトには、両親の顔など記憶にない。
彼にとっての母の温もりは、風を避けるゴミ溜めで。
彼にとっての父の厳しさは、弱者を虐げる傭兵達の拳。
生きるためにゴミを漁り、盗みを働き日々を暮らす。
地獄のような……いや、普通を知らないセトにとってはこれこそが日常だった。
――だれも信じるものか。
弱者の中にも強者はある。
タイリア全体から見れば同じ穴のムジナでも、仲間と呼べる者などできるわけが無い。
油断をすれば奪い取られ、隙を見せれば食い物にされる。
彼はどこに行っても一人ぼっちで、どこまでいっても孤独でしかなかった。
国を出ようと思ってみても、旅を続けられるほどの食料を確保できるわけも無く、途中で野たれ死ぬことなど明白だ。
盗んで盗んでゴミを漁り。
漁って漁ってまた盗む。
繰り返される日々をただ生きる為だけ費やして、セトはタイリアの片隅でゆっくりと成長していった。
子供から少年へ。
痩せた体は少しだけ肉がつき、相変わらず泥塗れの顔は、ほんの少しだけ成長して、少年のものとなっていた。
成長したのは体だけではない。
盗みの腕だって上がり、逃げ足だって早くなり、以前より飢えることは少なくなっている。
捕まらないさ、あんた達には。生き延びてやるさ、こんな場所でも。
仲間なんて誰もいなくてもセトは一人で生き延びて、盗みを繰り返し、暮らしていた。
だがある日、セトは最もしてはいけない失態を犯してしまった。
盗みの途中で、逃げ切れずに捕まってしまったのだ。
この街で盗みを失敗するということは、そのまま死へと直結する。
怯えて震えるセトの周りには、棍棒を握り取り囲む大人達。
投げかけられた言葉に慈悲はなく、浮かべられた表情に容赦はない。
もうしないからッ、止めてくれッ!
セトの言葉は届かない。弱者の言葉は届かない。
殴打と出血。
悪意のこもった棍棒は、叫ぶセトを打ちのめす。
両腕は折れ、両足も折れ、全身で痛みを感じない場所がないほどに嬲られて、セトは乞食すらも通らぬようなタイリアの死体置き場に捨てられた。
シトシトと降りしきる雨が頬を濡らし、体を冷やしてピクリとも動けぬままで、暗い暗い死体置き場で横たわる。
痛い……体が痛い。
朧な視界の中で飛び回るのは、死体にたかる蠅の姿。
それを見てセトの心に浮かんできたのは、嫌悪ではなく羨望。
いいなお前達は、そんなに立派な羽をもっているんだから。
きっと好きなところに飛べるのだろう。きっと好きな場所へといけるのだろう。
嗚呼、僕の人生は、なんて、なんてつまらないものだったんだ――。
せめて最後くらいは安らかに死にたい。
痛みを忘れ全てを忘れる為に、セトは薄らいでいく意識に任せ、瞼を下ろした。
太陽が昇り、また沈む。
雨が降って晴れ渡る。
あれから少しばかり日が経ち、既に死んでいるであろう筈のセトは――未だ死骸の中で生きていた。
打ち所が良かったのか、それとも体が頑丈だったのか。
セト自身よくわからないが、彼はそれでも生きていた。
あれから何も食べていないはずなのに、あれから何も飲んでいないはずなのに。
僕は何でまだ生きているのだろうか。
雨で溜まった腐れ水に左半身を埋めたままで、セトは一人時を過ごす。
日が経つごとに痛みが引いていき、徐々に徐々にだがセトは体を動かすことが出来るようになっていた。
生きてる。僕はまだ生きている。
腐り溜りから身を起こし、死を覆したことを知ったセトは、歓喜の感情を顕に己の体を抱きしめた。
――グジョ。
左半身を抱きしめた右手に、気味の悪い感触が伝わった。
水に浸かっていたのだから濡れているのだろう。
そんなことを考えて、呆然と己の左半身を視界に入れた。
――ヒッ!?
ゴボリ、吸い込んだ息が奇妙な音を奏で、セトの吐き出した絶叫が、夜の空を貫いた。
なんだよこれ。なんでこんなことになってるんだよッ!
腐った腕と涌いた蟲。
セトの左半身全てが腐り爛れ、おびただしい数のウジが蠢いていた。
掻き毟る。必死になって掻き毟る。
僕の体を食べるなッ。僕の体は僕のものだッ!
取っても取っても涌いてくる。尽きることのないウジ達を、セトは必死で掻き毟る。
しかし体の奥にはいった蟲を全て取り除くことなど不可能で、やがてセトは諦め手を止めた。
せっかく生き延びたのに、何でこんなことに……。
無事だった右目からは涙が溢れ、嗚咽が静かに響き渡る。
絶望を抱くセトの心には、暗く濁りきった感情しか残っていなかった。
セトは知らなかった。この体に巣食うウジ達が、彼の命を繋ぎ止めた原因だということを。
セトは知らなかった。彼らがいなければ今頃死体の仲間入りをしていたという事実を。
【死蠅】そう呼ばれ、人々から嫌われるこの蠅は、生物に寄生して卵を産むことがある。
普段は動物などの体に入り込むだけで、人の体に巣食うなど極々稀なのだが、微動だにできなかったセトの体は、彼らにとって絶好の家で、住みやすい獲物。
卵を産みつけられた宿主は、蠅にとっては食料ではなく巣と同じ。
共存をはかり痛みを感じさせないように特殊な体液を出し、子供のみならず、宿主にも栄養を運び、守る本能がある。
その蟲の本能がセトの体に栄養を運び、体を癒して生きながらえさせた。
彼らは宿主を守る。
彼らは宿主を傷つけない。
実際彼らが今も食らっているセトの皮膚は、既に壊死して毒となってしまった肉なのだから。
そんな事実を知る由もないセトは、重く沈んだ思いを抱えたまま、繰り返されるであろう日々へと向かって足を向けた。
しかし、それからのセトの日々は、想像していた以上に苦しく辛いものだった。
亜人を差別するタイリアで、セトの醜い体は酷く目立つ。
少し歩けば石を投げられ、盗みを働こうとしても、すぐに見つかって武器を向けられる。
セトに向けられる嫌悪の感情は、弱者も強者も一様に同じ。
殴られるだけなら優しいもので、必死になって逃げなければ今頃生きてはいないだろう。
食べることすらままならず、暮らすことすら容易ではなかった。
だが、それでもセトは生き延びる。
食べ物がなくとも蠅が運ぶ栄養がある。
殴られようとも痛みを感じぬ体があれば、逃げることぐらいは出来る。
逃げて逃げて逃げて。
虫のように物陰に隠れ、息を潜めてやり過ごす。
憎い、憎い、見える人間全てが敵で、誰一人すら味方などいない。
セトの心は磨耗して、いつしか涙を流すことすらなくなっていた。
そして、そんな日々を続けているうちに、セトは己の体が殆ど食事を取らなくても生きていけることに気がついた。
これなら、この国から逃げて旅をできるんじゃないか?
セトにとってそれは希望で、縋りつかずにいられない道だった。
この国じゃなければきっと僕を受け入れてくれる場所がある。こんなに苦しい思いをしなくても済むようになるかもしれない。
タイリアしか知らないセトにとって、他の国は夢のような場所だと信じて疑いはしなかった。
纏める荷物なんて持っていない。別れを告げる相手なんている訳もない。
ゴミ捨て場に捨てられていた錆びだらけの汚い金属棒を片手に、セトはタイリアに別れを告げた。
歩く、歩く、ひたすらに。セトはどこかへと向かって足を進める。
セトにとって幸運だったのは、タイリア周辺の地域に腐肉を漁るモンスターがいなかったことだろう。
本来ならば、ひ弱な少年一人が旅に出て無事に済むわけがないのだが、セトの腐りきった左半身から漂う腐臭は、人の臭いを打ち消して、モンスターを遠ざけ、彼の旅を安全なものとしていた。
なんだ、こんな簡単ならもっと早くに旅に出ればよかった。
意気揚々と歩みを続けるセトは、やがて一つの村へとたどり着いた。
タイリアから少し離れれば、亜人の差別は少ないと聞いていたセトは、期待を胸に村へと入る。
だが、セトにとっての不幸は、世界は彼の考えているほど甘いものではないということか。
何で……何でさ?
願っていた筈の暖かさなどなく。向けられるのは嫌悪の眼差し。
期待していた希望など無く。投げられたのは石の礫。
澱む心と打ち砕かれた希望。でもそれでもセトは諦めなかった。
そうか、まだ近いんだ。もっと遠くに行けばいい。
もっと遠く、今度こそ楽園に。
そう信じて旅を続け、幾度となく村に入ったセトだったが、村にたどり着く度に繰り返されるのは、故郷となんら変わらない絶望。
僕は人間なのにッ! 亜人じゃないんだッ!
喉を嗄らして叫びを上げても人々の視線は変わらない。
心に抱いていた希望は既に干からび、思いを馳せていた楽園は朧な夢のように消え去っていった。
いっそ、死んでしまったほうが楽になるのかもしれない。
打ちのめされて、生きる希望すらなくしたセトは、己の死に場所を求めて旅を続けていく。
僕はきっとこのウジよりも下なんだ。地べたを這いずるウジと違って、僕は成長して羽ばたくことすらできはしない。
でも……せめて死ぬ場所くらいは自分で選びたい。
綺麗な場所が良い。醜い僕でも死ぬ時くらいは綺麗な場所で眠りたい。
ふらふらと彷徨い続け歩き続け、やがてセトはとある一つに森へと行き着いた。
ここだ、ここがいい。
美しい場所だった心が震えるほどに。
草木が生え花は咲き誇り、さわさわと風に揺れる樹木の葉は、不思議な光を発して、中空に淡い燐光を漂わす。
鳥の鳴き声は美しく耳を打ち、ヒラヒラと飛び交う蝶は花びらが散っているようだった。
【魂宿りの森】タイリアから東南に位置するこの場所は、そんな名前が付けられた不思議な力を宿した森だった。
もっと綺麗な場所へ、もっと美しい場所へ。
ここで死ねれば本望だ。
震える心をそのままに、セトは森の奥へ奥へと足を進めていった。
歩いていくうちに、急に森が開け、セトの視界いっっぱいに、蝶のように乱れ飛ぶ花びらと、ゆらゆらと揺れる、透き通った水を湛えた美しい泉が映り込んだ。
呼吸が止まり言葉も出ない。
楽園だ、楽園があった。
一歩、また一歩と歩みだした足は徐々に速くなり、セトの体を泉へと向けて運んでいく。
心に溢れる歓喜の感情と、泣き叫びたくなるような心の震え。
セトは泉へと駆け寄って、その美しい湖面を覗き込んだ。
ぁあ……。
鏡面のように輝く水面に映ったのはウジの涌いた己の醜い体。
間近に見せられた現実を目にして、セトの心は歓喜の心を無くしていった。
ありがとう、一瞬だけでも僕に夢を見せてくれて。
ありがとう、僕はここで死ねるだけで満足だ。
そよぐ風はとても澄んだもので、きっと、自分の体の臭いを消してくれる。
太陽をいっぱいに受けたこの大地は、醜い僕の体を還してくれる。
セトはゆっくりと横たわり、静かに眠りについた。
――起きてっ、大丈夫? 起きてっ。
このまま動かずじっとしていれば、きっといつか死んでしまうだろう、と浅はかな考えを抱いていたセトの耳に、鈴でも転がるような可愛らしい声が届いた。
太陽の光を受けて、スピスピと間抜けないびきをかいて寝ていたセトが、その声で嫌そうに顔を顰めて目を覚まし――目の前にいた少女の姿を見て、飛び跳ねるように起き上がり、後ろに後退った。
人では持ちえぬ複眼と、絹のように白い肌。
泉の水の如き蒼い髪が、まるで滝のように腰元まで流れ落ち、その髪と同じ色をした蝶の羽が、背中でパタパタと羽ばたいている。
少女はまるで、泉に咲く蒼い花の化身のようだった。
不思議そうに小首をかしげて自分を見ている少女を見て、
――怖い。
セトの心の中に恐怖の感情が浮かびあがる。
人ではない種族だから怖い――そう思ったわけではない。
単純に、自分の姿を罵られるのが怖かった。
せっかく楽園を見つけたのに。
セトにとってこの少女の姿はとても美しく、目も眩むような眩しい存在だった。
また口汚く罵られ、石を投げつけられて殴られる。
嫌だ、嫌だ、もうあんな思いはしたくない。
しかし、ガタガタと震えながら尻餅をついて怯えるセトを見て、蝶の少女はとくに罵るわけでもなく、パタパタと軽い足取りで近づきセトに声を掛けてきた。
こんなところでどうしたの? 体がどこか悪いの?
そう言ってセトの体をぺたぺたと触って調べまわる少女の姿は、嫌悪感という感情をまるで抱いていないようだった。
なんで何も言わないんだ、こんな僕の体を見て。
わからない。気味が悪いこの体に、なんで簡単に触れてくるんだ。
先ほどとは違った意味で震えてくる体に力を込め、湧き上がりそうな思いを強引に抑え付けた。
駄目だ、駄目だ。そんなことあり得ない。受け入れてくれるわけないじゃないか。
信じるなんて馬鹿らしい。
もう嫌だ。苦しいのはもう嫌なんだっ。
心を固めてこれ以上痛い思いをしなくて済むように、底へ底へとしまい込む。
だが、そんなセトの想いなんてお構いなしに、蝶の少女が手を伸ばす。
きっと殴られる。
怯えて瞼を閉じたセトだったが、一向にこない衝撃にふと目を開けた。
……え?
信じられない光景を目にして、セトは逃げ出すことすら出来なくなっていた。
蝶の少女の白い指先には、何故かセトの左腕に蠢いていたウジが一匹ちょこんと乗せられている。
ゆらゆらと指先を揺らし――少女は、向日葵のような明るい笑顔を浮かべてこう言った。
可愛らしいお友達ね。元気そうでなによりだわ。
嗚呼……。
その言葉を聞いた瞬間、セトはもう耐えることなど出来なくなっていた。
必死になって閉じ込めていたはずの心の扉はいとも容易く決壊し、押さえ込んでいた思いが溢れていく。
大粒の涙が後から後から零れ落ち、止まらない嗚咽が体の内から次々と漏れていく。
そんなセトの姿を見て、大丈夫? なにか私失敗したのかしら、と少女が心配そうに声を掛けるも、セトにとって逆効果。
【魂宿りの森】にわんわんと年齢相応の少年の鳴き声が響き渡った。
頬を優しく撫でる温もりと、掛けられ続ける少女の声音。
溜め込んでいたもの全て吐き出すように、セトは嗚咽交じりに泣いていく。
暫くたってようやく泣き止んだセトに、少女が『迷子にでもなったの?』と声を掛ける。
それを受けたセトが『帰る場所なんてない』と返すと、うんうんと唸った少女が手を差し出して言った。
私の名前はフライヤ。この場所に住んでいるのだけど、帰る場所が無いのならここに住めばいいわ。
恐る恐ると伸ばされたセトの手は、初めて他人と繋がった。
フライヤと名乗った少女は――【セクトリア】そう呼ばれる、亜人の中でも特別嫌われている種族だった。
虫の亜人であるセクトリアは、姿が醜いものが多く、触覚を持っていたり、瞳が複眼だったり、多関節であったり、複数の腕を持っていたりと、人から好意的に受け入れられることは少なかった。
だが逆に、セクトリアであるフライヤにとって、セトの姿はなんら醜いものではない。
普通ならば嫌われるであろうウジでさえも、彼女にとっては可愛らしいお友達。
根本的な美的感覚が違っていたのだ。
夢、希望――呼び方はなんであれ、セトは彼女に救われた。
世界が変わり、歓喜が溢れる。
彼女と出会ってからセトは変わっていった。
笑顔が生まれ、人生で初めて上げた笑い声は、澱んだ心を洗い流す。
仲間が出来た。友達が出来た。
この森にいるセクトリアはフライヤ一人ではなく、他にも大勢隠れ潜むようにして住んでいたのだ。
その全ての者達がセトを快く受け入れて、手を差し伸べてくれた。
楽しい、嬉しい……。
あんなにも苦しかったはずの毎日は、ここに来てから明るく彩られたかのように変わってしまった。
こんなにも色々なものを僕にくれたこの人達に、なにかお返しをしたい。
生まれた始めて感じたそんな想いに、セトは素直に従った。
毎日のように森の中を駆け回り、何か手伝いはないかと尋ねまわる。
ここに隠れ住んでいるセクトリアが見つからぬように、タイリアで学んだ生きるすべを、試行錯誤し適応していった。
そうやって毎日毎日駆け回るセトを見て、セクトリアの人々は少しずつ信頼を寄せていく。
楽しそうに人々を助け続けるセト。
明るくそれを手伝うフライヤ。
セトがフライヤに恋心を抱くのはごくごく自然な成り行きだった。
――フライヤ、君はきっと僕の“羽”なんだ。
セトは生まれて初めて抱いたそんな想いを、彼女と初めて出会った泉で告げた。
――じゃあセト、貴方はきっと私の“家”なのね。
そう言ってフライヤは優しくそれを受け入れた。
――ありがとう、フライヤ。君がいればきっと僕は幸せな道を歩んでいける。
――ふふふ、当たり前でしょ。セトが間違った道を進んでいきそうになったら、きっと私が戻してあげる。
少年と少女の子供らしい恋ではあったが、二人はとても幸せそうで、周囲はその笑顔を見て微笑んだ。
幸せな日々、忙しく駆け回り人々の手助けをしていく毎日。
セトが少年と青年の狭間の歳となった頃、彼はいつの間にか人々からこう呼ばれるようになっていた。
王様――楽園の王セト。
まだまだ若いセトは自分にそんな役は無理だといったが、セクトリアの人々は、こぞって同じ言葉を返してくる。
一番皆の為に働いている奴が王様になるのは当然だろ?
幾ら否定しても聞かない皆に、やがてセトは頷いて、国名すらもないこの森の、小さな小さな王様になった。
ねえ王様、困ったことがあるのだけど。
任せておくれ、僕がきっとなんとかしてみせる。
王様、これはどうしたらいいのかしら?
僕だけじゃわからないし、皆で一緒に考えようっ。
頼り、頼られ支えあい。次第に魂宿りの森は、セクトリアにとっての楽園へと変わる。
聞いた? どこかに私達が幸せに暮らせる国があるらしいわよ。
聞いたことがあるな。とても住みやすい場所だとか。
決して人には漏らさぬように、セクトリアの楽園の噂が広がりを見せる。
やがて、噂を聞きつけセトの仲間が少しずつ増えていった。
カマキリのセクトリアが、己の腹を撫でながらやってきた。
――私の名前はカトラ。子供を愛して止まない私ですが、愛した相手を殺さずにはいらない。
そんな私にも、種族こそ違えど子供が出来ました。どうかこの子と二人、この国で暮らさせては貰えませんか?
セトはそれを受けて満面の笑みを浮かべて返す。
いいに決まっているじゃないか。この森はセクトリアの楽園。皆でともに暮らしましょう。
暫く経って、今度は蛍の女が訪れた。
――私は綺麗な水がある場所でしか生きられません。どうか短い寿命を過ごせる場所を……ここを私の家にさせてはくれませんか?
笑ってセトは受け入れる。当然のように迎え入れる。
続々と増え続ける仲間達。
蜂の少女が泣きながらやってくる。
――私の毒は強すぎて、いつか誰かを殺してしまう。
怖くて怖くて堪らない。皆が私を怖がって、誰も受け入れてくれはしない。助けて助けて。
差し伸べられた手が繋がって、やはり仲間が増えていく。
ムカデの戦士が勇ましい足取りで歩み出る。
――やあやあ王様。俺の鎧は強靭で、この手の数だけ武器を持てる。王が守りたいであろうこの楽園を、百人力の強さで守ってみせる。
さあ、どうだ、俺をここに加えてはくれまいか?
嗚呼、力強い。なんとも心強い仲間だ。
その後も続々とやってくるセクトリアを、森は優しく受け入れる。
狩人の蜘蛛、農夫のミミズ、番兵サソリ、蟻の兵士、巨体をもったダンゴムシ、擬態の得意なナナフシに、空を守る蚊とトンボ、すこし間抜けなカタツムリと、その友達の頭の良いロイコクロリディウム。
そんな賑やかな仲間の中でも、カマキリ、蜂、蛍、ムカデ、蜘蛛、ミミズの六名は、特別セトと仲が良く、時が経つにつれて、家族といっても差し支えないほどの存在になっていた。
増えた人々皆がセトのことを愛してくれた。
やがてセトの暮らす森はセクトリアから、こう呼ばれることとなった。
【森の楽園グレイトリーフ】
ひっそりと生まれたセクトリアの国――人間のセトはこれで本当の王となった。
人間であることもセクトリアの民は気にしない。
彼らが寄せる信頼は、そんなつまらないことでは揺らがない。
新たな国名。若い王様。
暫くの間、平和な日々が続いたグレイトリーフであったが、ある時一つの事件が起きた。
森へと入ってきた旅人に子供の一人が見つかってしまったのだ。
急がないと。
それを聞きつけ焦ったセトは、フライヤと共に森を駆け抜けその場に向かう。
人間なんて碌なものじゃない。彼らに見つかった子供の命が危ない。
心が煮えたぎり、負の感情が浮かぶ。
セクトリアの人々の優しさで癒されていたセトの心ではあったが、やはり人を憎む心までは消えていなかったのだ。
だがしかし、焦って駆けつけたセトではあったが、いざその場に着いてみれば、予想外の光景を目にすることなる。
旅人二人と楽しそうに遊んでいるセクトリアの子供。
一人は少し怖がっている様子を見せていたが、特に危害を加える様子もなく、連れの旅人など、本当に楽しそうな表情で子供の相手をしている。
その子を離せッ。
セトが警告の含みを持たせた声を旅人二人にかけても、どうぞどうぞ、とあっさりと返事を返してくる。
また彼の予想とは違っていた。
絶対油断して堪るものか。
いや、いっそこいつらはここで殺してしまった方が良いんじゃないか。
国の為なのか、自分の憎しみの為なのか、膨れ上がるセトの想い。
だがそれは、意図せずしてフライヤによって止められる。
楽しげに響く笑い声と、談笑。
よりにもよってと言うべきか、フライヤが旅人の連れと少し話しただけで意気投合してしまったのだ。
似たもの同士と言えばいいものか。
明るい性格の二人は、セトの考えなぞすっかり蚊帳の外へと追い出して、早く奥に行きましょう、と互いの連れに声をかけ、楽しげに森の奥へと行ってしまった。
呆気に取られたままで残されたのは、人を信頼しないセトと、正常な感覚をもっているのか、セトの体を見てほんの少しだけ嫌そうな表情をした旅人。
なんというか、この二人もどこか似たもの同士だった。
ここからさっさと去れ、そして忘れろ。じゃなければここで殺してやる。
セトのそんな冷たい言葉を聞いても、旅人は困ったような表情を浮かべ、連れが戻らないとそれは出来ない、とあっさりと断った。
互いに困った表情を浮かべて佇むセトと旅人。
セトとしては強引にでも追い出したいのだが、フライヤに決して頭の上がらぬ彼は、彼女を悲しませるようなことなど出来なかった。
渋々であるが、旅人を連れて森の奥へと向かうことに――。
その後――フライヤが楽しげにセトへと語った話によると、あの二人の旅人は、ただ泉を見る為だけにココへとやってきたと判明した。
珍しい、というか物好きな輩ではある。
セクトリアにとっては楽園のようなこの森ではあるが、人種にとってはまた違う。
樹木の発する光が理解できないらしく、普通は好き好んで入って来ることは無い。
どうせすぐに出て行くだろう――セトはため息を突きながら、楽しげに語るフライヤの話を、何時ものようにウンウンと頷き聞き続けていった。
旅人が森へとやってきて一ヶ月が過ぎた頃。
すぐに出て行くであろうと思っていた旅人は、気づいた頃にはセクトリアの人々と馴染みきっていた。
……何故こんなことに。
セトにしてみれば頭を抱えそうな事態ではある。
旅人の連れは相変わらずフレイヤと意気投合、明るく物怖じしない性格のせいで、セクトリアの人々からも親しまれている。
最初は怯えた様子を見せていた旅人だって、一ヶ月もいればセクトリアの見た目に慣れてしまったらしく、なんだかよくわからない内に馴染んでいた。
人間なんてッ!
未だそんな気持ちは消えてはおらず、フライヤと連れはともかく、セトと旅人は仲が悪かった。
お前、てめぇ、こいつ。
など、互いの名前を呼ぶことを嫌がり、すぐに喧嘩を始めようとする二人。
ただ、セトはフライヤに、旅人は連れの明るさに引きずられてしまい、手が出るような喧嘩にまで発展したことは無い。
セトと旅人は仲が悪い。
と、本人達は信じて疑わなかったが、セクトリアの人々から言わせれば、彼らは仲が悪いのでなく、ただの喧嘩友達だということらしい。
なんだかんだと行動を共にしていくうちに、セト自身の心境にも変化が訪れる。
相変わらず気に食わない相手――でも、少しだけ、ほんの少しだけ信頼してもいいかもしれない、そう心の隅っこで思い始めていたのだ。
何度も何度も喧嘩して、互いの悪口を飛ばしあう。
そうやって幸せとも言える日々が流れ、更に一ヶ月経った頃、二人の旅人は遂にグレイトリーフから去ることとなった。
嫌だ嫌だと引き止めるフライヤだったが、それは叶うことはない。
旅人達にも目的があり、そろそろ次の場所へと向かわないと行けなかったのだ。
涙を流し、別れを告げるフライヤと旅人の連れ。
そして相変わらず嫌そうな顔つきを互いに向けるセトと旅人。
どこかで野たれ死んでしまえばいいのに。
お前こそな。
悪態を吐きながら嫌そうに差し出される旅人の手。
恐らく握手を交わそうということらしいが、その手は左手だった。
困惑して固まるセトに向かって、さっさとしろよ、と言い放った旅人は、強引にセトの腐った左手を掴んで、ブンブンと振り回した。
なんてムカつく奴だ。
左手での握手は余り一般的なものではない。それどころか国によっては相手を貶す意味合いだってある。
しかし、セトは旅人に文句言うことなど出来なかった。
彼の腐った左腕を握った人間は、旅人が初めてだったのだから。
平和な日々。大事な仲間達。
永遠に続くだろうと思われたセトの幸せな日々は――
唐突に終わりを迎えることとなった。
旅人達が去ってから一ヶ月程過ぎ去った頃。
グレイトリーフのセトが住まう家に、とあるものが届けられた。
セクトリアの生首。
焼き鏝でも使ったのか、その生首の額には、ある刻印が押されていた。
暴王ダド・ウィンブランドの刻印。
見覚えのあるソレを見て、セトは絶望の淵へと叩き落されたかのような感覚に陥った。
一番見つかってはいけない相手に見つかった。最もばれてはいけない相手にばれてしまった。
タイリアに住んでいたセトは知っている、この生首と刻印の意味を。
これは、問答無用の宣戦布告。
話し合いなどする必要はない、ただお前らを侵略するとの意思表示。
手足が震え、喉がカラカラに渇いて呼吸が荒れた。
いつかはバレルだろうとは思ってはいたが、幾らなんでも早すぎる。
戦力が足りない。武器だって足りない。
こうならない為に、噂をできるだけ公にしないように注意を払い、この場所を知るには何重にもセクトリアを通さねばならないようにしていたのに。
人にだってばれてはいない。唯一人と出会ったのは、あの二人の旅人だけ……なんだ。
ドクリッ、とセトの心臓が大きく跳ねた。
まさか、といった疑惑と、そんなわけが、といった否定が重なった。
アイツは僕の腕を取ったじゃないか、そんな訳あるはずが。
膨らむ疑惑はとどまることを知らず、それを否定する気持ちも同じように膨らんでいった。
だが、そんなことをいつまでも悩んでいる暇すらセトには無かった。
彼が来る。暴王がグレイトリーフにやってくる。
蜂の巣を突付いたような騒ぎ――そんな言葉が相応しいほどに、グレイトリーフは喧騒に包まれた。
武器を握った兵士が並び立つ。
戦えるものは皆が立ち上がった。
命をかけて自分達の楽園を守る為に。
悪い夢であってくれれば、そんなセトの願いをあっさりと裏切り、タイリアの先発隊がグレイトリーフに襲い掛かってきた。
数の上ではこちらが有利、それに頼りになる仲間がセトにはいた。
鎌が唸って敵を切り裂き、蛍の光が目を眩ませる。
蜂が毒針を突き刺して、ムカデの戦士が縦横無尽に暴れまわる。
蜘蛛の女が糸を張り巡らせ罠を張り、ミミズの農夫が大地から吸いだした毒を吐く。
サソリの番兵が両腕の鋏で住民を守り、蟻の兵士が勇猛果敢に突撃を行った。
ダンゴムシが戦車の如く敵を潰し、擬態で隠れたナナフシが突き殺す。
空を舞う蚊の亜人が吐き出した血で敵の目は潰され、トンボが高速で飛行し首を裂く。
カタツムリの亜人がそのやわらかい体を生かして、狭い場所に潜り込み、探った情報を元に、友が頭脳を巡らせ策を立てた。
セクトリアは強かった。
各々持った特殊な能力を存分に生かしてタイリアと渡り合った。
先発部隊を返り討ち、続く部隊も全滅させた。
やれる。僕らが力をあわせればきっとやれる。
しかし、タイリアでの弱者であったセトは知らなかった。
暴王の元には四人の武器がいることを。
油断していたわけではない。侮っていたわけでもない。
ただ……知らなかったのだ。
グレイトリーフの森の中――状況がセクトリア側に傾いていることを確認し、セトは軍の後方で今回も勝てそうだと安堵のため息を吐いた。
そこは安全な場所で、弓矢すらも届かないはずの場所。
僕も前線に出られれば。
セトは自分が後方に引いていることが、嫌で嫌で堪らなかった。
今こうやっている間にもきっと大事な仲間が死んでいっている。そう思うと悲しくて怒り涌いて自分が許せなくなりそうだった。
だが、実際セトが前線に出た所で状況が良くなる訳ではない。むしろ、流れ矢にでもセトが倒れてしまえば、それこそ最悪な事態になってしまうだろう。
そんな顔をしないでセト……貴方がいるから皆は頑張れるのよ。
ギチギチと握り込まれたセトの手を、フライヤが優しく包み込み、何度も何度も声を掛ける。
壊れそうになるセトの心を支えているのは、やはりフライヤで、彼女がいるからこそセトはここまで気持ちを保てていたのだろう。
いつも……ありがとうフライヤ。
そう呟いて、俯いてしまっていた顔を上げたセトの目に飛び込んできたのは、いつもの明るい笑顔ではなく、クシャクシャに泣きそうなった彼女の顔。
あ……い……てるわ、セト。
それが……セトが聞いた彼女の最期の言葉だった。
――トスッ!!
破滅の音がセトの耳に届き、彼の背中を庇うように躍り出たフライヤの心臓を、一本の剛矢が貫いた。
届くはずの無い凶弾は、セトの羽を儚く散らす。
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼アアアッッッ!!
鮮血に染まり、セトの腕の中で骸となったフライヤを、セトは叫び声を上げてゆすり続ける。
フライヤ、フライヤ、フライヤ、フライヤ!!
セトは、狂ったように彼女の名前を叫び続けるが、返ってきたのは、零れ落ちた血液が地面に滴る音だけだった。
フライヤを胸に抱き、その場で動けなくなってしまったセトの体を、周囲にいたセクトリアの民が無理やりに奥へと連れて行く。
――トスッ!!
また先ほどと同じ音が聞こえ、今度はセトの腕を取っていたセクトリアの頭部が弾け飛ぶ。
訳も分からず混乱し、周囲へと目を向けるセクトリアの民が、それを境に次々と撃ち殺されていく。
幾ら探しても見つからない。どこを探してもソレを撃った弓兵の姿は無い。
見つからないのは当然で、姿が見えないのも仕方の無いことだった。
有り得ぬほどに遠い位置、高く育った木の葉の中、そこに巨大な戦弓を構えた男が居たのだから。
暴王の弓【アロ】
彼は誰に知られることも無く、黙々と亜人を殺し続けていった。
アロの凶弾から逃れたセトは、フライヤの体をそっと建物の中に横たえて、絶望しか感じさせない声音で叫びを上げた。
今すぐ殺せッ、全てを殺せッ、突撃しろ、踏み潰せ、引き千切って肉片に変えろッ!!
王の怒りは民へと伝わる。
いや、フライヤを殺された憎しみは、王だけのものでは無く、セクトリアの民全てが抱く感情だった。
怒号があがり、憤怒の突撃が始まった。
全てを蹂躙するかのごときセクトリアの猛攻は、兵を死兵へと変貌させる。
己の命すら顧みないほどの蟲兵の波は、タイリアの兵を皆殺しにしながら森の外まで向かった。
突撃、突撃、突撃――。
しかし、己のテリトリーを越え、怒りに任せたグレイトリーフの猛攻は、外で悠々と待ち構えていた、暴王率いる本隊に止められた。
死に物狂いの一撃は、王にかすることさえ許されない。
剛風の如き勢いで武器を回し、矢弾も魔法も全てを撃ち落とす斧槍。
狂ったように笑い声を上げながら、戦場の真っ只中で敵を殺す大剣。
潰して潰して叩き潰す。硬い甲殻をものともしない大槌。
一言も喋る事無く、淡々と骸を増やし続ける戦弓。
暴王の武器はひたすらに強く、セクトリアを殺し、民の命を奪っていった。
既に勝敗は決まっていて、後はセト達の死を待つのみとなった。
しかし、何を思ったのか暴王は、セトとその周囲にいたセクトリアを殺さずに捕まえる。
暴れまわるセトと仲間だったが、自由を奪われ、殴り倒され意識を落とす。
縄をかけて引きずり、どうでもよい荷物の如く荷馬車へと投げ込まれたセト達を、暴王達はグレイトリーフ南西に位置する場所へと運んでいった。
暗く、底の見えぬほどの大穴。
そこは地獄へと通じていると噂される場所だった。
地中深くへと口を開く大穴へと落とされ死んだ者は、決して生まれ変わることは無いとさえ言われている。
楽園とは程遠い死臭漂う穴の淵、捕まったセト達全員が、そこに沿うように立たされた。
手足を縛られ動きを抑えられたセトの前に、暴王が四人の武器を背後に進み出る。
見下ろす眼差しはどこまでも冷たく。
瞳の奥に揺らぐ喜悦の感情は、ドロドロと濁り薄汚れているようだ。
お前がムシケラの王か?
……死ね死ね死ね死ね。
つまらなそうにセトに尋ねた暴王に、セトはただ呪言の言葉を返すだけ。
やはり所詮はムシケラの王か……いや、そんな下等なお前らだからこそ、裏切り者が出るのだろうな。
裏切り者――その言葉にビクリ、と反応示したセトを見て、暴王はさも嬉しそう唇をつり上がらせて、話を続けた。
どうした? 心当たりでもあるのかムシケラ。
そうそう、少し遊んでやっただけで簡単に仲間を売ったぞあの“二人”は。
狂気染みた笑い声を上げる暴王の言葉を聞いて、セトの視界は真っ赤に染まり、思考全てが憎しみに溢れていった。
信じていたのに、裏切りやがった。僕が馬鹿だった。人なんて信じたばかりに。
二人、セトには心当たりなんて旅人と連れの二人しかいなかった。
後悔と憤怒。
爆発しそうな憤り。
繋がれた手足を暴れさせて、ただ殺してやると叫び続けるセトを見て、満足したのか暴王は『落とせ』と死刑執行の合図を上げた。
セトと捕まっていた仲間達が、口々に呪いの言葉を吐き出しながら、深い穴へと落とされる。
セトが叫んだ。
――絶対にお前ら人間を殺してやる。許さない、決して許さない。
カマキリの母が泣いた。
――切り裂いてやる。私とこの子の楽園を、壊した人間共なんて。
蛍の女が涙を零す。
――家が……やっと手に入れられた私の居場所が。
蜂の少女が呪言を呟く。
――私の毒で滅ぼしてやる。すぐに殺すなんて生易しいことはしない。延々と苦しませる毒を練り上げて、お前達の魂にいつか必ず撃ち込んでやる。
ムカデの戦士が咆哮を轟かす。
――許しなどしない、必ず捻り潰すッ! 俺は死んでも忘れない。守りきれなかった仲間のことを。
蜘蛛、ミミズ、蚊にトンボ、その他全ての仲間達が、それぞれに呪いの言葉を吐き零し、暗い穴へと落とされた。
羽を無くした虫の王は、空を飛ぶことなど出来はしない。
縛れたまま落下していく仲間は、王を守ることは叶わない。
木の葉のように風に身を弄ばれて、ゴミのように捨てられたセトは、地獄の底へと身を落とす。
迫る最下層。目前となった死。
それでもセトの心に恐怖は無く、あるのはただ悲しみと憎しみだけ。
黒い感情がセトを焦がし、極限にまで彼の心を黒く虚ろに染め上げた。
皆殺しにしてやる。
そうセトが呟いたと同時に――地獄の底に、新たな骸が花を咲かせた。
◆
既に戦場跡地となってしまったグレイトリーフのセトの家に、二人の旅人の姿があった。
ワナワナと腕を振るわせる旅人と、悲哀の声を上げるその連れは、セトが最期に憎んだあの二人。
彼らのせいでこのグレイトリーフが滅んだ……いや違う。
セトの描いた裏切り者と、暴王が零した裏切り者には、ほんの少しの食い違いがあったのだ。
裏切ったのは、暴王に捕まり拷問を受けた、旅人とはなんら関係のないセクトリアの二人。
旅人達は、セト達のことを誰にも話してなどいなかった。
それどころか、旅の途中でタイリアが戦争の準備を始めていることを聞いて、態々心配して戻ってきていたのだ。
全速力で駆けて、止まる事無く走り続けた。
でも、それでも少し遅くって、旅人達は友を救えはしなかった。
血塗れで横たわっている、記憶に刻み込まれていた人々の顔。
旅人は泣いた。声を上げて泣いた。
いつも喧嘩していたあのセトが、もういないことを知って泣いた。
旅人の連れが泣いた。めそめそと膝をついて泣いた。
意気投合したあのフライヤが、目の前で死んでいるのを見て泣いた。
グレイトリーフの残骸に、二人の旅人は心の底から声を上げ、悲哀の涙を零して叫ぶ。
フラフラと立ち上がった旅人と、鼻を啜るその連れは、フライヤの亡骸を抱え上げ、彼女に相応しい場所へと運んでいった。
彼女の好きなあの泉で、彼女の好きな花を手向けよう。
旅人が美しく揺れる水面に入り、その連れが、咲き誇る蒼い花を彼女の髪へと飾る。
蒼い蒼い蝶のセクトリアは、その亡骸を泉の底へと沈めていった。
◆
幾多の骸が形を崩し、地獄の底で腐敗の海を広げている。
どれだけの人数がここに落とされたのか、それは誰にも分からない。
生命の息吹を感じさせない穴の底――そこには赤黒いクリスタルが怪しい光を灯して鎮座している。
――ドクリ。
生命が存在しているはずの無い骸の海で、一人だけ命を失っていない者が居た。
セトだ。
あの高度から落とされ死んでいるはずの彼の体は、赤黒いクリスタルの明滅に合わせて、不気味に脈動を繰り返している。
ドクドクと脈動を続けるセトの周囲には、仲間の肉塊が花弁を作るかのように円を描いていた。
未だ意識がないセトの体に巣食うウジ達が、一斉に蠢き動き出す……宿主を生かすために。
ウゾウゾと広がったウジが、セトの大事な仲間を喰らい、その栄養を宿主の元へと運んでいく。
虫が集まり蟲となる。
人であるはずのセトの体は、長い時をかけて仲間の血肉を吸収して、彼を相応しい蟲の姿へと変貌させていく。
体に巣食う蠅の姿。
羽を失った蠅の王。
現実では有り得ない筈の異変は、この空間では起こりえる。
喰らう、喰らう、喰らう。
セトの周りにある死体は、次々と骨と化し、死骸の大地が蟻地獄の如く沈み込んだその中心で、クリスタルの光に照らされた一匹の蠅は、静かに瞼を開いた。
――ァァッッッッッッツ!!
緩慢な動きで身を起こし、仲間の残骸をその目に映し、セトは悲痛とも言える産声を轟かせる。
憎い相手は遥か遠く。
愛しい彼女はもう居ない。
仲間は全て喰らって消えて、セトはまた一人になっていた。
セトは死体を積み重ねる。少しでも空に近づけるように。
重ねて重ねて骸の山を、天へと向けて作っていった。
時折降ってくる新たな死体も、セトはひたすらに運んでいく。
やがて重ねる死体が無くなり、彼は山の麓に腰を下ろす。
長い、長い時を、延々と暗い穴の中で座り込んで過ごしていく内に、理性は磨耗し、次第に狂っていった。
寂しい。寂しいんだ。
仲間が欲しい。彼らが欲しい。
羽が欲しい。彼女が欲しい。
膝を抱えんでただそれだけを考えた。
そんな暗い穴の底に、ある時一匹の蜂が迷い込んできた。
嗚呼、この蜂は僕の仲間によく似ている。
黄色と黒のまだらな蜂は、自らの毒に苦しんでいたセトの仲間によく似ていた。
お食べ、僕をお食べ。
自らに巣食ったウジを差し出すと、一匹の蜂は顎を動かしソレを食べた。
また次のウジを差し出した。それを蜂がまた食べる。
いつの間にかセトに懐いたその蜂は、日に日に体を大きく変えていく。
仲間の面影を色濃く現したその姿を見て、セトの心は歓喜に溢れ、希望が宿った。
きっと僕の体に入った仲間が、この蜂に宿ったに違いない。もっともっと与え続ければ、いつしか仲間が戻ってくるかもしれない。
自らの狂った思考に気がつかず、セトは希望を抱いて大事に大事に蜂を育てていった。
しかし、幾ら与えても蜂は仲間の姿になってくれない。
人の面影はどこにも見れず、ただ大きくなった蜂の姿。
そうか、きっと人の成分が足りないに違いない。
嗚呼、でもどうやって人を手に入れようか、羽の無い僕では、ここから出ることすら不可能なのに。
増やそう。もっと増やして捕まえよう。
いつの間にか、何でも聞いてくれるようになっていた蜂に、虫を集めておくれと命じ、高い高い出口へと向かわせた。
カマキリを、ムカデを、蛍を、蜘蛛を。
様々な虫を蜂に連れてこさせ、ウジを与えて育てていった。
ミミズに穴を掘らせて地上を目指し、蜂の数を増やして人間を攫う。
あいつ等に、ばれないように、決して知られないように。
セトは自らの楽園を、地中深くに作っていった。
でも、やがて限界が訪れた。
ある一定以上には仲間達が育たなくなってしまったのだ。
人だってしっかり食べて、ウジだって与えているのに。
どうして? どうして?
何をやっても駄目だった。まるでこれ以上は世界が拒否してしまっているかのように。
どうしようもなくなったセトは、また長い時をかけて一人で考え続けていく。
だが、ある日。
――おやおや、お困りですか? そうでしょう? そうでしょうね。
誰も居ないはずの楽園に、奇妙な声が響き渡った。
セトが警戒の視線を周囲へと向けると、ゴボリ、と音を立てて、一体の骸の影からナニカが現れた。
奇妙な帽子と真っ黒な体。
裂けるように開かれた口腔は、血のように赤く染まっていた。
目の前に現れた不気味な影の化け物に、セトは怒りを顕に襲い掛かる。
勝手に入ってくるな。さっさと出て行け。僕の楽園楽園楽園。
蟲をけし掛け、巨躯を揺らし、豪腕を振るって殴りかかるが、その全てを容易くいなされる。
ケタケタと気味の悪い笑い声を上げ、まるで子供でもあしらうかのように、影はセトをいなしていった。
イケナイ、イケナイ、駄目ですよ。いくら同胞といえども、貴方はまだまだ若すぎる。
フザケタ態度でセトの頭部を影が蹴り上げる。
巨躯が空へと舞い上がり、セトは一撃で地に沈む。
チッチ、と倒れたセトに指を振り、影がツカツカと近づいた。
他人の領域とはいえ獄の中。貴方程度では子供と同じ、わかりましたか? わかったでしょう?
そんな影を見て、セトの胸中には怨嗟の炎が燃え上がり、永遠になくなることの無い黒い憎しみが、この時ばかりは影へと向いた。
しかし、そんなセトの黒い炎は影が呟いた次の言葉で、容易く消滅してしまった。
わかっていますよ、貴方の願いが叶わなくてお困りなのでしょう? 私が……いえ、私達がそれをどうにかしてあげますよ。嬉しいでしょう?
差し出された影の言葉に無言で頷くセト。
それを見て楽しそうに口を歪めた影は、懐から赤く光る水晶玉を出すと、その手の中でコロリと転がした。
ピカリ、ピカリと数度瞬いた水晶玉が、地の底に朧に揺れる影を映し出す。
輪郭はとてもあやふやで、人かどうかも掴めないその影が、セトの脳内に直接語りかけるような朗々とした声を伝えた。
――新たに生まれた世騙りよ……その古めかしいリジオンでは少々窮屈に違いない。より強く、より広範囲に伝わるように、少しばかり力を貸してやろう。
声と同時に瞬く光と、それに反応したかのように輝きだした赤黒いクリスタル。やがて光が収まると、映し出されていた朧げな影も消え去っていた。
セトの体には、先ほどまでとは比べ物にならないほどの力が漲っており、謎の声が言っていたことが真実だと告げていた。
何でも出来そうだった。今なら仲間を限界以上に育てることが出来るかもしれないほどに。
歓喜で震えるセトを見て、手の内でコロコロと水晶玉を転がしていた影帽子は、醜く口端を吊り上げて、セトに再度声を掛けた。
さてさて、こちらが協力したぶん、貴方も私達に協力してくれるでしょう?
あーいえいえ、貴方は好きなようにしていてくれればそれで良い。ただ、少しばかり貴方の領域範囲に、目を光らせて欲しいのですよ。構わないでしょう?
見つけられないならばそれでも構わないですが、見つけられれば無為な時を短く出来る。
結果は変わりはしませんが、過程がとても早くて済む。
え? 目的? 良いでしょう貴方にだって、関係のある話――――。
楽しげに語られる影の話しを全て聞き終えたセトは、狂ったように笑い声を上げて、大気を震わす咆哮を、彼の楽園に響かせた。
仲間を増やそういっぱいに、取り戻すんだ僕の全てを。
ウジを食べさせ蟲を増やし、セトは己の楽園をただ目指す。
そうだ、僕の仲間は強かった。こんなに弱いはずが無い。
より強き仲間を作る為に、狂った思考が蟲を殺す。
もっと人を集めないと、いや、それでもまだ足りない。死体じゃ駄目だ生きていないと。
嗚呼、そうか。死骸を生きた人間に流し込んで、毒も腐肉も綺麗にすればいい。
ただ捕まえることじゃ飽き足らず、人を捕まえ死骸を溶かす。
できるはずさきっと、取り戻せるはずさ羽を。
蟲の体液を取り込んで、人の残骸を取り込んで、ウジに運ばせ食事を運ぶ。
静かに静かに行おう。憎いあいつにバレナイヨウニ。
でも、やっぱりあいつは許せない。そうだ仲間を使わなければ良い。
お行き、さぁ、お逝き。僕の一部、憎いあの国を襲って来ておくれ。
いつか必ず滅ぼそう。人も国も全部……全部。
クルクル狂った蟲毒の王は、愚直に己の夢を目指す。
楽しかったあの日々を、いつか我が手に握る為に。
嗚呼――愛しい愛しい僕の羽、いつか必ずまた会おう。
◆
セトが咆哮を上げた――いや、朧な影がリジオンの輝きを強めた瞬間。
広がりきったリジオンの領域が、名前も変わり、小さくなってしまった森をも範囲に入れた。
美しい泉の湖面が揺れ動き、水の中から、この世に存在することを許された、儚く蒼い一匹の蝶が現れた。
ヒラリ……ヒラリと不安げに踊る。
森から出てしまえば己の形を保てぬほどに、存在が虚ろな蒼い蝶は、飛びたい場所があって、帰りたい家があった。
でも、一人じゃそこまで飛べなくて、一人じゃそこに帰れない。
ヒラヒラと大好きな花の周りを飛びながら、蝶はひたすらに待ち続ける。
いつか帰れるその日のことを――。
泉の周りに咲き誇る蝶に良く似た蒼い花。
名前は【幻想胡蝶蘭】
花言葉は。
貴方を愛します。幸福の飛来。
――永遠の愛を貴方に。