6-22
淡く光る紫と緑の液体が、薄い膜の向こう側から通路を照らし、俺達の視界を問題ない程度に確保してくれていた。
最奥へと向かって急斜面を疾走していると、頬に異臭混じりの生暖かい風が撫で通り、粘りつくような鬱陶しさを与えてくる。
酷い臭いだな……いや、それに慣れてきている俺も大概どうかとは思うが。
生臭い、というよりは完全なる腐敗臭が、延々と鼻腔へと侵入してくるので、いちいち気にしていては精神的に持たなくなる。
最初に肉沼に入ったお陰で、臭いに慣れることが出来た俺は、ある意味で幸運だったのかもしれない。
人をモンスターの素材としていることが多い獄級内部では、正直この腐敗臭がデフォルトでついて来るとでも思っておいた方が、きっと感じる嫌悪感は少なくて済むだろう。
でも『いい加減慣れました』なんて自慢にもなりゃしないな。
それにしても……。
思考を切り替え、視線を前方へと向ける。
先へと続く急傾斜をそれなりの距離を走ってきたのだが、未だ底は見えてこない。
もう最奥に着いてもいい頃だと思っていたが、予想以上に深い。
ただ、下に伸びる通路の先からは、今まで会った獄級の主達と同じような気配と悪意をヒシヒシと感じる。
やはり、もうすぐそこまで迫っているのだろう。
恐怖なのか、歓喜なのか、それとも心の底で感じている自分でも訳がわからない悲哀の感情のせいなのか、心臓がバクバクと胸を叩き続け、俺の心は波打つように荒れていた。
奥へと近づけば近づくほど、リドル襲撃の時と同様に心が荒れて不安定になっていくのを感じる。
正直、こんな精神状態のままで主との戦闘をする気など起きなかった俺としては、最奥まで少しの余裕があるのはありがたい。
今の内に、自身の心の安定をはかっておかないと。
心の安定――そう思っている割には、俺の頭に浮かんでくるのは、少し前に見た遺体の詰まった血管柱、蟲達の闘技場、卵の密集していた産卵場、と悪趣味極まりない光景ばかり。
思い出していて気分の良いものじゃないし、怖気が走るような景色ではあった。
ただ、何も得られるものが無かったかというと、そうでもない。
あの一連のエリアを通しで見たことによって、蟲達の目的をある程度まで予測することが出来た。
正直憶測の範囲を超えられないし、この想像が間違っているかもしれないが……多分、あの蟲達はより強い子孫を残し、何かを目指して進化を繰り返しているのではないだろうか?
殺し合って残った蟲が子孫を生み、その強い遺伝子を受け継いだ蟲が増えて、また殺し合う。
そうやって長き年月を掛けて進化していったのが、今蟲毒に蔓延る蟲達で、振り落とされていった死骸が、この蟲毒を形成している壁や地面なのでは……。
そう考えると、下に行くほど退化するように蟲の姿が変化していたのも納得がいく。
恐らく、下層に行けば行くほど、蟲の死骸が古いモノになっているのだろう。
あの紫色、赤、そして変化した緑色の液体は、一体何に使っているのかまではわからないが、蟲達にどこか人の面影が残っている所を見ると、進化の為に何かしら人の素材が必要なのではないだろうか。
蟲の目的が予想できるようになったからといって、やらなきゃならないことが変わるわけでもなし、わかったからどうした、という話でもあるのだが、何もわからずにモヤモヤとした気分でいるよりは幾分かマシだ。
多少スッキリとした気分になりつつも、先頭を走る俺の更に先――導くように飛び交う蝶子さんへと視線をやる。
ひらりひらりと蒼い燐光を残し、現実味の湧かない速度で飛ぶ蒼い蝶。
今の所は大分落ち着いているようにも見えるが、蟲達が殺し合っていたエリアに入った時は、酷く慌てた様子だった。
隊から離れ、右へ左へ。
蟲達の頭上をぐるぐると飛び回っているあの様子は、こちらまで落ち着かない気分になってしまったほど。
俺とドリーにしか見えない蝶子さんではあるが、ここまで一緒にやってきた立派な仲間、心配だってする。
正直一番の謎は、この蝶子さんかもしれないな……。
動きや道案内をしてくれるあの行動から見ても、何かしらの目的か意思のようなものを感じるが、それが何なのかはまるでわからない。
少なくとも悪意は感じ取れないので、そこまで気にする必要はないのかもしれないが、やはり考えてしまう。
粘りつく風を切るように走りながらも、様々な疑問をどうにか解こうと四苦八苦していると、
「クロ坊、どうやら坂が終わるようじゃぞ」
俺の横を走っていた岩爺さんが遮るようにして、警告を飛ばしてきた。
先ほどまで考えていた疑問の束を一瞬でかなぐり捨て、俺は警戒の眼差しを前方へと向けた。
確かに岩爺さんの言うとおり、先に行けば行くほどに、斜面が徐々に緩やかになっているようだ。
「速度を緩めろ、勢いのまま突っ込んで転んだら良い笑いものだぞっ」
背後に続く皆へと指示を出し、自身の駆ける速度も少しずつ落とす。
視線を巡らし周囲を警戒しながらも、俺達は遂に水平へと傾斜を変えた蟲毒の底へと辿りついた。
――ジャリッ。
トット、ケンケンでもするかのようにして、勢いを殺した俺の足に、土を噛んだ軽い感触が返ってくる。
少し懐かしいその感触に思わず足元を見ると、そこにはブヨブヨの地面でもなく、死骸の床でもなく、土の大地が敷き詰められていた。
確認の為に少し手で取ってみるが、やはり本物。
『相棒、見て下さい、なんか大きな入り口がありますっ』
地面を確かめていた俺の耳に、ドリーの言葉が届く。
手に握っていた土を落とし前方へと眼差しを向けると、そこには城門もかくやと言うほどの、大広間へと続く巨大な入り口があった。
収束するように集まっている緑と紫の血管。
入り口から漏れ出している重圧。
ようやくここまで。
まだ大きな壁が残っているものの、思わずそんな感慨を抱かずにはいられない。
今までの苦労を思い出し、感傷に浸りそうになっていた俺だったが、頭を振って気持ちを切り替え、雰囲気に呑まれて立ち止まっている走破者達に向かって、急ぎ指示を出す。
〈この先に主がいるはずだ。今の内に戦闘の準備と、魔法の入れ替えを済ませておけ。
それが終わったら壁沿いに進行、正面からは進むなよ、見つからずに済むならそっちの方が良いからな〉
俺の指示にハッと顔を上げた走破者達が急いで準備に取り掛かる。
自分自身もボルト・ラインをウィンド・リコイルに入れ替え、ドリーの魔法も少しだけ変えていった。
全員の準備が終わったことを確認した俺は、隊を左右にわけ、壁際を沿うように進んで入り口へと近づき、身を隠して中を伺った。
血管の光が溢れるドーム状に広がる大空洞――天井は見上げる程に高く、遠く。
周囲はいまにも動き出しそうな生々しい死骸の壁が取り囲み、蟲の通り道なのかボコボコと穴が口を開けている。
視線を巡らし地面を見れば、うず高く積まれた骸の山が、蟻塚のようにいたるところに点在していて、こちらの視界を遮り奥の様子を隠してしまっていた。
死体の山で主の姿は見えないな……迂闊に入っていいものか? でもここで悩んでいても何も変わらないし。
入らなければならないことは、俺だって重々承知してはいるが、本能的な恐怖からか、心には少しの躊躇いが生じていた。
『あっ、蝶子さんがっ』
ドリーの慌てた声に反応し視線を動かすと、隊から離れ、奥へと向かって飛び去ってしまう蝶子さんの姿が。
嗚呼、もう……また勝手にどっか行って。
止めたいけど、その手段が俺にはない。
せめて魔法で捕まえられれば良いのだが、蝶子さんには魔法すら通り抜けてしまうので、手の打ちようがない。
とりあえず目に見えた罠も無さそうだし、行くしかないか。
怯える心を抑え付け、俺は骸の山に隠れるようにして蝶子さんが向かった奥へと足を進めて行った。
ザクザクと音を奏でる土の地面と、バクバクと音を鳴らす俺の心臓。
緊張で妙な汗が額から流れ出し、指先は痺れてしまったかのように感覚が鈍い。
周囲に積まれている死骸の形は、複眼だったり、腕が複数あったりと、どれもこれも気味が悪いものばかりで、そんな中を歩いていると、死骸が突然起き上がって襲い掛かってくるのでは、と不安に駆られてしまう。
どこ行っちゃったんだ蝶子さんの奴……。
心配するこっちの身にもなってくれ、と若干のため息を漏らしながらも、俺はキョロキョロと周囲を見渡し足を進め、前方に立っている骸の山を迂回するように回り、先の光景を伺った。
――瞬間。
視界に入ってきたモノを見て、俺の心臓が一際大きく跳ね上がり、反射的に後方へと飛び退る。
くそ、居たには居たけど、余計な奴までッッ!?
〈全員止まれッッ〉
俺の言葉に隊全体に緊張が走り、ビクリ身体を揺らして足を止めた。
どんどんと早くなる鼓動を、握り締めるように胸の上から抑え付け、触りたくもない死骸の山に手をかけ体を寄せて、恐る恐る顔を覗かせ確認を取る。
視界の先には、死骸の山が急に無くなり、切り取られたように円状に開かれた空間が広がっていて、その一番奥には、骸の山が天井近くまでうず高く積み上げられていた。
はぁ、やっぱりいるな……。
山の麓には、まるで玉座にでも寄りかかるようにして座り込んでいる化け物と、その顔の前をグルグルと飛び回る蝶子さん。
――絶対あいつが主だ。
人型……と言ってもいいのだろうか。
大きさ二十五メートル程の異形の化け物は、正中線から左右にわかれて姿形が異なっている。
右半身は、赤い複眼、円筒状に伸びた腕と足、黒い短毛に覆われた上半身と、横縞の模様が入った下半身。
羽が生えている訳ではないのだが、なんとなく俺の脳裏に浮かんできたのは、どこにでもいそうな蠅の姿。
対して、左半身の全体的なシルエットは殆ど人と変わらない……のだが、その皮膚全てが腐りきった肉のようにドス黒く爛れ、至る所に点々と白い模様が浮かんでいた。
いや、違う。
よくよく見れば模様だと思っていたその白い斑点はウゾウゾと蠢いている。
体内から体外へ――ボコボコと湧き出るように主の左半身で動き続けるソレは、俺にとって非常に見覚えのあるモンスター。
そう……全てが屍喰らいだった。
〈何よアレ、気色悪いわねっ〉
〈おいリッツ、余り前に出んなよ、見つかっちまう〉
身を屈め奥の様子を一緒になって伺っていたリッツが『うぇ』と嫌そうな声を上げた。
〈ねえクロウエ、あのモンスターの背中に繋がっているやつ……例の血管じゃないの?〉
〈だろうな……気泡の具合から見ても、主に向かって流れてるみたいだけど〉
座り込んだ主の背中。
ここからでは正確に確認出来ないが、恐らく脊髄辺りを挟み込むように、天井から伸びた血管が縦に連なっているようだ。
見たところ、数の程は六本ずつの二列で、計十二本。
右が紫のもので、左が緑色。
主の姿が左右で形が違うことから考えても、あの液体が何かしらの効果を及ぼしているだろうことが容易に想像できた。
……ん? あの手に持っているのって……例のクリスタルじゃないのか?
包み込まれるようにして握られていた為、今まで気がつかなかったが、よく見れば主が両手で抱え込むようにして持っているのは、俺達の目的でもある、あの赤黒く光るクリスタル。
――よりにもよって。
小さな舌打ちが漏れた。
というのも『どうにか主に気づかれずにクリスタルを壊せないものか』等と調子の良い考えを抱いていたからだ。しかし、あそこまで抱え込まれていては、気がつかれずに破壊するなんてことは不可能に近い。
さすがに主との戦闘は避けられないようだ。
どうにもあの主の姿を見てから、心の荒れが酷くなっている気がするが、それを宥めているような時間も無い。
「ドリー頼む」
『お任せくださいっ』
震える拳に力を込めて、俺はドリーに隊への指示を伝えていった。
『皆さん相棒からの指示をお伝えしますっ「魔法使いの部隊は合図と共にクリスタルに向けて全力で攻撃魔法を放て。遠距離武器の使い手達も同様だ。
補助魔法使いは魔法が放たれたと同時に身体能力強化。
前衛職はいつでも動けるように待機。
クリスタルの破壊に成功したらそのまま撤退、失敗した場合は戦闘に入る。
良いか、ここが最後の踏ん張り所だ。ここまで来た俺達なんだ、絶対に勝てるッッ」』
気合を入れたドリーが拳を振り上げ、手首に巻かれた蒼い蝶に似た花がふわふわと揺れ動く。
指示を聞いた走破者達は、声を出せない代わりに各々武器を振り上げ、俺の合図を待ち受ける。
勇士伴う走破者達の姿は、不安を感じていた俺に勇気と希望を与えてくれた。
頼りになる相棒とここまで共にやってきた隊の皆。
一度だけ皆の姿を見渡した俺は、ゆっくりと手を振り上げて、
「やれッッ」
戦闘開始の合図を出した。
『フレア・ボムズ』『ウィンド・ラッシュ』
『サンダー・ロンド』『シャドウ・レイン』
「ガンガン撃ちなさい、もう弾切れを気にする必要はないわよッッ」
指示と同時に山の陰から一斉に飛び出した走破者達が、魔法と矢弾の雨を座り込んでいた主へと向かって放つ。
矢と魔弾、炎弾、暴風、雷鞭、影針の雨が、吸い込まれるようにして主へと降り注ぎ、その身体に着弾しようとした――寸前。
――ゴキリ。
うつむき地面を眺めていた主の顔が不気味な音を立てて上がり、迫る攻撃に虚ろな瞳と無機質な複眼を向ける。
主の歪な口元が、左側だけ角度を変えて――ニタリと嗤った。
【嗚呼……づいにこの日が来たんだね……フ……イヤ】
轟!!
ウジの零れる口を開け、身体の芯から凍りつかせるような、深くゾッとするような声を漏らした主に、全ての魔法と矢弾が轟音を上げて着弾、その姿を風で巻き上げられた土煙が包み込んだ。
あの主……喋りやがったぞ。まさかシャイドみたいに知性があるのか?
でも確実に魔法は当たったし、これでクリスタルが壊れてくれ……れば!?
祈るように着弾地点を伺っていた俺の視界内で、土煙が暴風でも巻き起こったかのようにして一瞬で散らされ、噴煙の中から焦げ跡一つ付いていない主が姿を現す。
【アハ……ハハハハハハハハハッッ!!】
狂った笑いが空気を汚し、ドス黒い瘴気が主の口と身体から噴き上がる。
視界の中の主が両腕を高く掲げたと同時に、ボコボコと音を立てて壁に開いていた穴が塞がってしまう。
逃がさない、ということか。
身体を振るわせ身をよじり、口と身体からウジを撒き散らしながら、笑い声を上げ続ける主を見て、思わず噛み締めてしまった歯がギチリ、と音を鳴らした。
「それにしても、無傷かよッッ。何しやがった!?」
そう簡単に殺れるとは思っていなかったが、抱え込まれたクリスタルはそのままで、動いた素振りすらないのは、さすがに予想外だ。
『相棒、恐らくあの腕が何かしたものと思われます。注意してくださいッッ』
「腕……? 腕も何も動かして……ってなんだあれッッ!?」
ドリーが示したのは主の背中――そこにはまるで親指と小指を大顎に変えて、その間の指を全部削ぎ落としたかのような、黒光りする甲殻に包まれた豪腕が生え出している。
「っち、何にせよ奇襲は失敗か。前衛仕事だ、前に出ろッ!
魔法使いは後方に、それ以外は多少の距離を開けて円状に隊列を展開しろ!!
互いに援護し合える程度の距離は保っておけよッッ」
「応ッッ!」
入れ替わるかのようにして岩爺さんを初めとした前衛職が飛び出し、魔法使いが後方へと飛び退る。
補助魔法がすぐさま飛び交い、全員の身体能力を跳ね上げていく。
「まだ相手の攻撃方法が判明していない、距離もあるし迂闊に近づくなッッ!
後衛はガンガン撃て、運良くクリスタルに当たりさえすれば儲けもんだ!」
主との距離は大分離れている。この状態を保っていれば初見の攻撃でもどうにか対応出来るはず。
暫くはクリスタル狙いで遠距離からの砲撃を続けるべきだ。
指示によって再度放たれた魔法の雨が、主に向かって飛び交う――が、
バシュッッ!
背中から生え出した黒い腕の横薙ぎによって、燐粉のような儚い魔力光だけを空へと残し、いとも容易く消滅した。
「っち、ドリーの言う通りあの腕が魔法を防いだみたいだな。でも撃ち続けてればいずれクリスタルに掠るぐらいする筈!」
「クロウエッッ!? 様子がオカシイ、気をつけたほうがいいわよッッ」
リッツの警告に主を見ると、クリスタルを持った両腕を抱きしめるようにして心臓辺りの位置へと移動させた主の姿が映る。
【羽……おでの羽……羽羽羽羽羽を雄雄雄ッッ!】
ゴボ……ゴボッ、ゴボォッッッツ!!
「ッ!? おいおい、ざけんなッ、冗談じゃねーぞ」
雄叫びを上げた直後、胸に掻き抱かれたクリスタルが、沈み込むようにして埋まって姿を消し、ビクリビクリと身を揺らした主の背中が、膨れ上がるようにして誇大化。
ヘドロでも煮え立つような不気味な音と共に、大顎の腕を含めて合計六本の腕が生え出した。
大顎の指を持った鎧甲殻の腕がガチガチと音を鳴らし。
緑色の甲殻の隙間から、銀触手を生やした鎌腕が切り裂くように空気を割る。
不思議な光を灯す朧な腕が、ユラユラ瞬き闇を照らし。
黄色と黒の斑な腕が、鋭い針状になっている指をこちらに差し向ける。
指も腕も蛇の如くウネリくねらす灰色の腕は、指先に付いた口を開いて戦慄かせ。
短い黒毛にその身を包んだ腕が、指を蜘蛛足の如く蠢かす。
左に三本、右に三本。
威圧感伴う六本の腕は、威風堂々と足りない羽を補うように、主の背中でその手を広げた。
【……捕らえで、殺して、殺して、捕まえて……】
知性が有るのか無いのか、訳の分からない言葉を呪言の如く吐き出して、蟲毒の主が今まで吐き出していた悪意を更に強大なものへと膨れ上がらせた。
漏れ出す悪意が心を凍らせ、撒き散らされる殺意が動きを殺す。
骸の玉座に腰を下ろした蟲毒の主が、狂気の笑いを立てて圧倒的な存在感を俺に知らしめる。
ヤバイ……こいつ本当に洒落にならん。
慌てて周囲を見渡せば、隊の全員――いや、俺とドリー、それと岩爺さんを除いた全員が、凍りついたかのように動きを止めて、ただ呆然と主を見つめることしか出来なくなっていた。
【切り裂げ……カ……ラ】
主は座り込んだまま自らの二本の腕を、水でも救い上げるかのように前方に押し出すと、左背中最上段に生えている緑の鎌腕を天高く翳した。
これだけ距離が離れてんのに、一体何を……。
主とこちらの距離は変わっておらず、あの距離から腕を振り下ろしたところで、こちらに届くはずも無い。
普通に考えれば安全圏で、焦る必要などはそこまでないのだが、俺の脳裏では全く逆で『逃げろッ』と吠え立てるように警鐘が鳴っている。
渦巻く大気、収束する風。
目に見えて空気が主へと集まりはじめ、振り上げられた鎌が轟々と逆巻く風で歪む。
「……嘘だろ? ヤバイッ、全員さっさと動けッッッ!! 散開だ散開しろッッ!」
『皆さん早く動いてくださいッ!』
肺から全ての空気を吐き出し上げた俺の咆哮と、ドリーの必死の叫びが、止まっていた走破者達の動きを促した。
天空へと向けられ風を纏った大鎌の直線上から、走破者達がほうほうの体で逃げ出すと同時に、主の腕が縦一文字に振り下ろされ――。
真っ直ぐに――広場を縦に割る旋風が駆け抜けた。
大地が裂ける。
轟々と音を立てて駆け抜けた一陣の風に遅れるようにして、巻き起こった巨大な風刃が、広場の地面に深い深い裂け目を残し、悲鳴をあげる暇すら与えず、逃げ遅れた男性走破者一人をこの世から跡形も無く消滅させた。
「――ッッ!? くそッ、畜生ッ!!」
助けようと伸ばした手はただ空を掴み、救おうと願い差し出した足は、死んだ走破者とは逆方向へと踏み出している。
彼を救って俺が死ねば、誰が隊を率いるのか。
当然の判断で、当たり前の行動であったが、俺の心は悲鳴を上げて、後方へと逃げた自分が許せなくなりそうだった。
『相棒ッ、早く体勢を立て直してくださいッ、次が来ますッ』
葛藤することさえも許されず、主が狂ったように身をよじる。
だらりと力が抜けた鎌腕に続き、振り上げられたのは右下段に位置する光の灯った朧な腕。
【魅ぜろ……】
明滅する淡い光が広間を煌々と照らし、ふわりと光の玉が主の指先から空へと舞う。
獄級内部では滅多にお目にかかれない幻想的な光景。
だが、俺の心は晴れるどころか逆に、崖際に立たされたかのような絶望感しか生まれてこなかった。
見覚えがある光。止まらない悪寒。
ま、まさか……さっきの攻撃といい、こいつの腕!? くそ、恐らく俺は大丈夫だろうけど、皆が拙いッ。
「目を閉じろおおおおおおッ!」
脳裏に走った直感に、俺は素直に従い隊全体へと指示をだす。
喉を嗄らさんばかりに叫んだ俺の声を聞き、隊の皆が反応を示し、即応していく。
激しさを増した明滅が限界に達し――光が爆発した。
双眸を必死になって腕で覆い、走破者達が顔を庇う……のまでは確認できたのだが、その先は光りに視界を焼かれてしまい、見ることが叶わなかった。
膨大な光の束が俺の脳裏に雪崩れ込み、それを切欠にフラッシュバックする映像の波。
家、家族、友達。
現実味の涌かないノイズ混じりの景色がパシャリ、パシャリと切り替わり、無意識にそれに向かって手を伸ばした俺は『懐かしい』そう感傷混じりに呟いた。
しかし、次の瞬間、ザザザァと全ての映像を砂嵐が埋め尽くし、呆気なく消え去った。
シクシクとした心臓の痛みが残るまま、俺の意識が理性を宿して、視界が現実を取り戻していく。
目を庇い遅れたのだろう棒立ちになっている走破者数名と、顔を覆いその場に伏せている他の皆。
どうやら、俺が意識を飛ばされたのは一瞬で、大した時間は経っていないようだ。
『数名意識を失ってしまっているようです。早く皆さんを起こさないとっ』
「……お、おう!? そうだな頼むぞドリー」
『はいっ』
未だ心に残留している望郷の念に駆られ、不覚にも呆然としていた俺は、ドリーの声にハッ、と慌てて顔を振り、再度周囲を見渡した。
右方に一名、左方に二名。大丈夫、十分助けられる位置だ。
棒立ちになっている走破者の位置を瞬時に確かめ、大地を蹴りくだかんばかりの勢いで駆けていく。
【まかぜたよ……】
視界の先で、主が右中段に位置している黒い体毛が生えた腕を蠢かす。
あれは恐らく……。
先ほどまでの主による一連の攻撃で、俺にはある一つの予想が立っていた。
異なる腕の異なる能力。
ここに至るまでに散々苦労させられたのだ、気がつかないはずがない。
見た目から察するに、きっとあれは蜘蛛の腕。
そんな俺の予測を肯定するかのように、蠢かされた指先から五本の白い糸が天へと伸びた。
鋼糸の如く操られた白糸が、右上から斜めに振られた主の腕に添って、こちらを切り裂かんと迫る。
「視界確保が出来ている、尚且つ効果範囲に入っている者は止めようとせずに躱せッ!
指の軌道を良く見れば間を抜けることが出来るはず、前衛職は近くにいる後衛をちゃんと補助してやれよ!
ドリー左を頼む、俺は右をどうにかするッ!」
『ふふ、わかっておりますともっ《ウッド・ハンド》』
ドリーは左方の二名を救うべく、そちらに向かって樹手を生やし、指を器用に操り走破者を挟みこむように捕まえる。
その間にも俺は俺で、後一人の棒立ちになっている走破者に近づき、左手を回して腰を抱くように抱えこんで、身を躱す。
――斬。
前髪が逆巻く風に揺れ、眼前を暴力の糸が通りすぎる。
ジャッ、と強引に絹でも裂いたかのような音が耳に残り、大地には五本の爪痕が刻まれた。
あぶねぇ。
ヒヤリと背筋が冷たくなるようなタイミングだったが、俺は無事五本の白色鋼糸の隙間を半身になって潜り抜けていた。
『もう一度来ますっ』
「了解だっ」
バツ印を描くかのような軌道を持って、今振り切られたばかりの黒毛の腕が切り返される。
再度描かれた五本の死線は、樹手を巻き込むような位置へと向かう。
『よいしょっ』
避けきれない、ドリーはそう感じたのか樹手をしならせ、指に抱えていた走破者二名を糸の隙間に投げ込んだ。
樹手は呆気なく切り裂かれてしまったが、正確に投げ込まれた走破者二名は隙間を抜けて、ドサリと音を立てて、地面に無防備な姿勢で横たわる。
かなり痛そうな落ち方をしているが、未だ意識が遠くに逝っているのかうめき声すら上がる様子は無い。
まずは意識を戻してやらないと……。
問題なく糸を避けきった俺は、抱え込んでいた走破者をドリーに差し出すような位置へと持ち上げる。
「ドリー、またアレを頼む」
『了解です。にゅおお《おはようございますっ!》』
バシッ、と短い平手打ちの音が響き、小さな唸り声を上げて無事に走破者が目を覚ます。
「……家……あれ? ここは」
「おら、さっさと起きて自分で立てッ。まだ戦闘中だぞ、気を抜くには早いからな!」
ビクリと顔を上げた走破者は自分に起こった状況をすぐに把握したのか「すまねぇ」と悔しそうな声を漏らして自分の意思で立ち上がり、隊列へと戻っていく。
よし、後二人だ。次の攻撃が来るまでの間に態勢を取り戻さないと拙い。
止まることなく身体を動かし、ドリーが放り投げた二人へと足を向け、駆ける間にも右へ左へと顔を動かし、他の走破者達がどうなったのかを把握する。
岩爺さんを筆頭に前衛職は無事。
リッツもシルさん達も問題ないようだ。
オッちゃんは手荷物に少し掠ってしまったのか、ズタボロになった袋を地面に投げ捨てている。
どうにか全員無事か。
さすがここまで生き残ってきた走破者達、軌道が予測しやすい今の攻撃なら問題なく避けきれたようだ。
未だ横たわっている走破者達を、先ほどと同様にドリーの平手打ちを叩き込んで起こし、速やかに隊への指示を出す。
「全員聞けッ。相手の攻撃は今まで見てきた蟲関連だ、多少は予測することも出来る。
いいか、一番警戒するべきはあの光を灯した腕だ、細心の注意を払えよッ」
先ほどまでは予想でしかなかったが、今の糸を見て既に確信を持った。
間違いなく主の背中から生え出している腕は、一本一本が何かしらの蟲の能力を宿している。
恐らく鎧甲殻の腕はムカデ。
緑鎌が蟷螂だとすると、光を灯したのが蛍で、黒毛が蜘蛛だ。
残り二本は姿形からしてミミズと蜂。
他にも蟲はいたはずだし、何故あの六本なのかまでは分からないが、現在見えている腕はその六本と確定してもいいだろう。
さすが主って所か、なんて面倒な奴だ。
心中で悪態が止まらない。
主なのだから強いであろうとは分かっていたが、ここまで厄介だとは思わなかった。
しかし、蛍の能力を受けて初回で全滅しなかったのはかなり大きい。これで次に動いた時は見逃さずに上手く避けられるはずだ。
今のところ主は次の攻撃を放つ様子は無い。この隙に反撃を入れて少しでもダメージを稼がないと。
「遠距離部隊を除き、攻撃魔法を使えるものは合図と共に放て。
その五秒間後に遠距離部隊が一斉掃射を開始。
風魔法の使い手はフォロー・ウィンドで追い風を起こし、矢弾の速度を上げてやれ」
武器を全員に見えるように高々と振り上げ、準備が整うのを見計らい、
「放てッッ!!」
武器を主へと向かって振り下ろし、怒声と共に合図を叫ぶ。
魔名を唱える声が重なった。
三度目の正直、と言わんばかりに一斉に放たれた魔法が主へと向かって唸りを上げて殺到し、
「いいわよッ、総員撃ちなさい!」
後を追うようにリッツの掛け声が上がって、一斉射撃が行われる。
『フォロー・ウィンド』
追い風が矢を押し出し、唯でさえ早い弾速を更に加速させた。
これならいける。
魔法は恐らく散らされしまうだろうが、煙幕のように視界を塞ぐ効果はある。
その隙を突いての速度を増した一斉射撃、いくらなんでも見てから反応出来るはずがないッ。
祈るように結果を見守る俺の視界の中で、座り込んだままだった主がこちらの思惑通りの行動をとった。
――バシュッ!
鎧甲冑の腕が横なぎにされ、軽い消滅音を立てて魔法が消滅。
が、魔法を受けた鎧甲冑の腕は既に振り切られ、今から戻しても間に合わないだろう。
魔法の煙幕を潜り抜け、追い風と共に、主へと矢弾が降り注ぐ。
【グボオオオオオオオオッッ!】
ゴボゴボと腐った肉を口端から零し主が吼えた。右の複眼が煌々と赤い光を灯し、主自身の腕でもあるハエの足に似た右腕が空気を裂いて跳ね上がる。
「なッッ!?」
一閃、二閃。
増したはずの速度、反応できるはずのないタイミング。
主の身体をハリネズミにするはずの矢弾は、その全てを地へと向かって叩き落とされた。
「おいおい隊長さん。獄級の主ってのぁ、こんな奴ばっかかい?」
「バッカじゃないのあのモンスター。どんな目してたらあれに反応できるのよッ!」
ため息混じりに愚痴を零すオッちゃんの声と、主のスペックを垣間見てリッツの文句が飛び出した。
焦りが隊へと広がっていき、未だ一撃すら与えられていない現状に恐怖の感情が蔓延していく。
っち、この雰囲気は拙い。
「おいおい、獄級の主が強いのは当たり前だろッ、いちいちビビッテんなよお前ら!
この程度は想定の範囲内。
勝てる戦いだ、焦らずきっちり対応していくぞッ!」
『ふふふ、相棒に任せれば全てビョワッと解決ですっ。
皆さんもご安心してくださいっ』
暗い雰囲気をぶち壊すかのように、俺が鼓舞を行い、きっと本気で言っているのであろうドリーが声を上げる。
さすがドリーと言うべきか、明るい声音は周囲へと染み渡り、落ち込みそうになっていた空気を晴らしてくれた。
各々に気合を入れなおした走破者を見て、ほんの少しではあるが安堵の気持ちが湧き上がる。
どうにか雰囲気に飲まれずに済んだか……正直言えば全く想定外の状況だけど、言うだけならタダだしな。
想定内とか嘘八百にも程がある。
水晶平原の主の強さから鑑みて、もう少しマシな強さかと思っていたが、ココまでやって未だに一撃も加えられないとなると、かなり予想とは異なってしまう。
だが、それを表立って出すわけにはいかない。恐怖は身体を鈍らせ、焦りは注意力を落とすのだから。
嘘だろうがなんだろうが、それを少しでも緩和できるのならば幾らでもついてやる。
俺は来るであろう攻撃に備えて警戒を強め、主の動きを伺っていく。
次はどの腕だ。背中に生えた腕の動きにさえ注目していれば、ある程度対処は取れる。見逃すな集中しろ。
【ざあ、いけ。お前だぢ……】
攻撃がくるッ。
腕の動きへと視線を張り付かせ、どれか一つでも動きを見せたら対応できるように身体を準備させる。
しかし、動かされた腕は俺の見ていた六本の腕ではなく、主自身のウジが涌いた左腕。
背中に繋がっている血管をピンと張らせ、蹲るように身をかがめた主の左手がベタリと地面につく。
――ボコッ。
腐った腕が音を立てて膨れ上がると同時に、主の口が窄めるような形へと変貌。
黒い瘴気のブレスが羽音を立て飛び出し、ゴボリ、と膨れ上がった腕から白い濁流が生み出された。
ブ……ブブブブブブブブッッ。
空から黒い蠅の群れ、地からは白いウジの波。
背中の腕だけじゃないのかよッ!?
予想外の攻撃方法に一瞬頭が混乱してしまったが、それをすぐに戻し、迫る攻撃への対応策へと思考を回す。
どうする……恐らくあの蠅はリドルの街中で見た奴と同じものだ。飲み込まれたら碌でもないことになる。
数は多く、攻撃範囲もすこぶる広い。
「クロ坊来おるぞッ、どうするんじゃ! あの数をいちいち相手しておったらキリがないぞぃッ」
珍しく岩爺さんの焦った声が俺の耳に届いた。
岩爺さんの焦る気持ちもわかる。
ウジはともかくとして、あの小さな蠅を武器で一匹づつ相手する訳にもいかないのだから。
どうする。どうにか纏めて倒さないと……広範囲の攻撃を隙間無く行うには……。
考えている間にも迫る蟲の群れ。
焦燥感が沸きあがり、苛立ちが思考の邪魔をする。握った拳をふと開くと手のひらが冷や汗でべったりと濡れていた。
イライラとしながら腰で拭おうとした俺の手にパサリ、となにかが当たる。
反射的に目をやって見つけたのは、武器屋でいつも補給している鉄粉を入れた袋。
嗚呼、何で忘れてたんだコレのことを……下は土の地面、敵はこちらに向かってまっしぐら。大丈夫いける筈だ。
「総員、俺の周辺に円状に展開しろッ!
炎と雷エントの使い手は一番外、エントの効果範囲が重ならないように距離をとってくれ。
次にその内側に攻撃魔法の使い手、さらに内側にエアとアイスのフィールドの使い手だッ。
間に合わなくなるぞ、急げッ」
「一体何するのよクロウエっ?」
「まぁいつもの拡大版だっ、みてりゃわかる」
頭に疑問符を浮かべたリッツを放っておき、展開した隊列を確認して更に指示をだしていく。
「エントを地面にかけろッ、連続で三度ほどかければ十分だ」
口々に了承の意を叫び、片手を地面に当てエントを唱えていく走破者達。
円状に展開した俺達の周囲は、いまや紫電の光と、炎の赤でバチバチと明るい瞬きに囲まれていた。
「いいか、こっからはタイミングが重要だ。俺の合図と同時に地面に向けてウィンド・ラッシュ。
炎の使い手は連続で蟲共に攻撃魔法を放て。
攻撃魔法が止まった瞬間に両フィールドを展開だ。
勝手に先走って魔法を使うなよッ」
緊張で表情を険しく変えた走破者達が、静かにコクリと頷きを返し、ジッと前方へと視線を向けた。
死蠅の羽音とウジが大地を進む音とは、先ほどよりも更に大きく俺の鼓膜を震わせている。
まだだ……まだ早い。もう少し我慢しろ。
今すぐにでも逃げ出したい身体を押さえつけ、即座にでも上げたい声を、歯を噛み締めて閉じ込める。
付近から間近へ、間近から目前へ。
蟲達が俺の描いていたラインを――超えた。
「今だッ、やれッ!」
大地に向けて放たれたウィンド・ラッシュが、エントの掛かった土を盛大に巻き上げ、一斉に放たれた豪炎と共に、蠅とウジへと向かって押し寄せる。
その迫力は凄まじいもので、紫電が混じった炎の津波のようだった。
既に、俺達と蟲との間の距離は無いに等しく、放たれた豪炎がこちらをも飲み込まんと荒れ狂っていたが、攻撃魔法の直後に重ね掛けされているフィールドが炎熱と雷粉を阻む。
視界一杯が真っ赤に染まる。
隊を囲んだフィールドの外は、炎熱地獄とも言える凄まじい景色へと変わっていて、一瞥しただけでも熱気が伝わってきそうなほど。
『うぅ、私まで燃えてしまいそうで怖いです』
プルプルと身を揺らし、抱きつくように俺の頬に腕を寄せたドリーを軽く撫で、俺は炎の嵐が止むまで、身を屈ませて動きを止めた。
徐々に炎が消失し、俺の視界に外の惨状が映り込む。
これは……なんというか、派手に燃やしたな。
黒く、煙を上げた残骸の山。
残っているのは少数のウジと黒く焼け焦げた地面だけ。
ぐるりと、外を見渡すと、立ち上がる熱気のせいで、蜃気楼の如く空気が歪んでいるのが見えた。
このまま外に出るのは拙いか……でも、下手にジッとしていたら主のいい的になるし、多少危険だけど、すぐに動くべきだ。
「フィールドを解くと同時に天井へと向かってフォロー・ウィンド。
呼吸を止めて一気に範囲から駆け抜ける。範囲から逃れたものから順に魔法薬をつかって魔力を回復、主の行動からは目を離すなよ。
……三、二、一、走れッ」
防護膜が解かれ、ヒリツクような熱気が頬を撫でた――がそれも一瞬で、すぐさま唱えられた上昇気流によって熱が逃がされ、温度が下がる。
呼吸を止めて残った熱気を吸い込まないようにして、俺達は全速力で焦げた地面の外へと駆けていった。
逃げる間にも主へと向けた視線は外さない。
主は、何故か次の攻撃を行おうとはせず、ドロドロと濁った眼差しをこちらへと向けたまま動かない。
もしかしたら余り連続では攻撃できないのか?
既に四回連続で攻撃を繰り返しているので、十分連続攻撃できているとも言えるが、俺達が炎に包まれている間に、更に追撃でもしていれば確実に全滅していたはず。
それをやってこないということは、攻撃を行うにあたって若干ではあるがインターバルが必要なのかもしれない。
決め付けるのは早いとは思いつつも、未だ攻撃を行ってくる様子が無い主を見ていると、その可能性を捨て切れなかった。
なんにせよ今の内に体勢を整えないと。
主の眼前をくるくると飛ぶ蝶子さんの姿が見え、一瞬心配になったものの、どうも主ですら姿が見えていないようなので、放っておいても大丈夫そうだと判断を下し、俺は更に速度を上げて、地面を蹴った。
残存したウジを武器で切り裂きながらも、熱気の届かない位置へと移動した俺達は、急ぎバックパッカーから魔法薬を受け取り魔力の回復を行っていく。
「隊長っ、受け取って!」
「悪いっ!」
バックパッカーの一人から投げ渡されたビンを空け、ドリーへと渡す。
『にょおお、色々と漲ってきましたっ』
グイングイン動きながら、嬉しそうに魔力回復薬を飲んでいくドリー。
それを見て少し癒されながら、俺は身体能力強化の魔法を再度掛けるように指示を出した。
「一息つけたってところかのぅ?」
「その前に“どうにか”ってつけないと駄目ですけどね」
「ふむ、確かにそうじゃな」
主へと視線を向けながらも、岩爺さんと軽く会話を交わし、ほんの少しだけ体の力を抜いた。
余裕が出来た、とまでは言えないが、一息つけたのは本当にありがたい。
しかし状況は依然悪いまま……避けきれないほどの攻撃ではないが、今のところ近寄る余裕すら無い。初見の攻撃ばかりだから仕方ないのかもしれないが、このままでは防戦一方だ。
「隊長さん。次はどうするんだ? このままやりあうのは良いが、資材が尽きたら終わりだぞ」
「わかってる……けど、ここはもう少し見に回りましょう。まだ主の腕で攻撃方法を見ていないのが二本……いや三本、下手したら四本残ってる。
もし迂闊に近づいて初見の攻撃でもきたら、間違いなく避けきれない」
「はぁ、やっぱそうなるか。一回攻撃避けるだけでもこっちとしてはヒヤヒヤもんだ」
やるしかねぇな、そう呟いたオッちゃんは、待機している皆へと向かって俺の言葉を伝えてくれた。
正直、俺としてもさっさと倒すかクリスタルを壊して逃亡したいところだが、先ほどオッちゃんにも言ったとおり、まだ主の攻撃方法が全て判明していない。
蜂とミミズ、あと恐らくではあるが、ムカデの腕も何らかの攻撃手段を持っていると考えたほうが良いだろう。
それに、まだカマキリの腕に残っている銀触手が動いていないのも気に掛かる。
とはいえ、何時までも受身でいたって主は倒せない。残る腕の能力も見極めつつ、攻撃を当てる糸口を探し出すしかないだろう。
勝てるかどうかなんてわからない。でも、こんなところで仲間を、皆を失いたくない。
心に燻る負の感情を、ただ奥底に押し込めて、主へと向かって睨むように視線を向けた。
ゴボッ、と視界内で主の背中についている紫色の血管が大きく脈動し、気泡を上げた。
また何かしらの攻撃が来る。
直感で感じとり、隊へと警戒の声を向け、構えを取って迎え撃つ。
【吐き出せ……】
左中段に位置しているミミズと思わしき腕が身をくねらせ、腕の中間辺りが太さを増した。
情報をかき集め、脳内で組み立てる。
デカミミズの攻撃方法――吐き出せという言葉――膨れ上がった腕。
これだけの情報があれば攻撃方法を多少予測することも可能。
「ロック・ウォール準備、フィールドの準備も同様だ。まだ最近の出来事だッ、忘れちゃいないだろうなお前ら。恐らく毒弾が来るぞッ!」
「そう簡単に忘れるようなもんじゃないでしょうよ、隊長っ!」
「土壁は何枚張れば?」
「避けられそうにもない分だけだ。あとは撃たれてから判断しろ!」
土の使い手達が口々に俺に声を掛け、隊の前面へと移動し、魔印を宿した腕を主へと向けて待ち受けた。
隊の動きが先ほどよりも迅速だ。所詮予測でしかないが、何もわかっていない状態と比べれば雲泥の差ということか。
『皆さんご注意を、来ますっ』
ドリーの警告と同時に、主の腕が弓のように背面へと引き絞られ、下手投げの要領で振るわれた。
下水の配管が溢れたようなゴボリといった音と共に、五指の先に開いているギザギザ歯を持った口と、手の平にある一際大きな口が、紫色の毒弾を二つずつ吐く。
が、それだけでは終わらず、更にそのまま腕を返し――十二発、計二十四発の毒弾がこちらへと投擲された。
想像していたよりも多い!?
狙いは正確、とは言い難いが、適度に散らばりこちらに飛んでくる毒弾は、逆にどこに避ければ良いのかの判断を惑わしてくる。
『相棒、右斜め前方に二十歩程度の場所が一番薄いですっ』
「助かるっ。全員聞いたかッ、すぐに移動してロック・ウォールを……五枚前面に、その内側に念の為一枚張っておけ」
いうやいなや、ステップでも踏むようにタッタ、と地面を蹴ってドリーの指し示した位置まで移動。
空中を飛び交う毒塊の数を再度確かめる。
小さいのが二つと……でかいのが一つ。こちらへと向かってきているのは三つほどか。
六枚は少し多かったか、とも思うが、デカミミズの吐き出してきたものよりも、大きさがデカイ。
下手にケチって貫かれでもしたら眼も当てられないし、このままでもよさそうだ。
「予定通り六枚だ、やれッ」
即座に魔名を唱える声が反応を示し、ゴゴ、と静かに地面を振動させて、六枚の土壁が前面に展開、一箇所に集まった俺達を風の膜が包み込んだ。
ゴガッ!
とても液体が当たったとは思えぬほどの轟音が響き、土壁に毒弾が直撃したことを音だけで伝えてくる。
こっからじゃ見えないけど、下手したら壁を一枚破壊されたかもしれない。
もし内側に一枚多めに張っていなかったら――思わずそんな悪い想像が頭に浮かび上がり、俺の肝を冷やす。
ビシャビシャと降りしきる紫色の雨が、風の膜に拒まれ撒き散らされ、じっとりと周囲の地面を湿らせ、毒液の水溜りを作り上げている。
防げたのはいいが、このままにしておくと少し拙いか?
これから何度毒弾を受けるかは知らないが、放置しておいて後で逃げ場がなくなる、なんて勘弁してもらいたい。
「すぐに右側へと場所を移すぞ。毒液溜りに足を突っ込まないように気をつけろっ。
移動が終わったらこの場所に向けて数発炎の魔法を放ち、風魔法で蒸発した煙を蹴散らしておけ」
『相棒、道筋は私が示しますっ』
「だ、そうだっ、俺の後について移動を開始っ。擬態の森を突っ切った時よりは楽なもんだろッ」
俺の言葉に「違いない」と苦笑いを零す走破者達を引き連れて、すぐさま場所を移していく。
炎弾が数発飛び交い地面にあたり、紫の毒煙を作り、それを風が吹き散らす。
余り頻繁に同じことをしてしまったら、かなり拙いことになりそうだが、数回程度なら問題はないだろう。
今は敵の攻撃を逃げ回るスペースを確保するほうが、こちらとしては重要だ。
主の攻撃を避けるのは正直かなりきつい……が、避けきれないことも無い。このまま耐えて相手のパターンさえ掴めれば……。
そんなささやかな希望を胸に抱いていた俺だったが、主の姿を視界に入れた瞬間それをすぐさま捨てた。
【アハハ、百人力……そうだ、ぞの通りだ】
煮え立つ焦燥感と、膨れ上がる危機感。
俺の視界の中では、既に主が鎧甲殻の腕を振り上げ、地面へと向けて振り下ろしていた。
甲殻がジャラジャラと音を立てて伸び上がり、ズドッ、と地面を揺るがしムカデの腕が地中へと潜り込む。
マジかよ、もう少し間を置いてくれッ。
カマキリ、蛍、蜘蛛、そして蠅とウジ。
連続して放たれた攻撃の後に少しのインターバルがあったことから、馬鹿みたいに連続攻撃は出来ないと思っていたのに、今回は先ほどまでより間隔が短くなっている。
次はどんな攻撃がくるのかと身構えていた俺の足元が、グラグラと盛大に揺れた。
何しようってんだこいつ……なッ!?
足元を揺らされ身体が泳ぐ。
まるで大地が命を宿したかのごとく――俺の視界内の地面が次々と隆起して、百ほどもあろうかという巨大な赤黒い腕が生え出した。
天を掴むこのように聳え立った百手が、一斉にその巨碗を大地に叩きつける。
轟音、爆音。
言葉では表現しきれないほどの破壊音が大気を震わせ、標的も無くただ振り下ろされた拳の雨が地を割った。
破砕される大地と、撒き散らされる土塊。
拳の直撃だけは避けつつ、散弾銃の如く飛び交う土塊を武器で迎撃していくが、その全てを捌ききるなど不可能に近く、ドリーと俺の武器の隙間を縫うようにして、幾つかの破片が抜けていく。
「ガッァ!」
『相棒っ!?』
肺から空気が零れ出て、ガツリと頭が横殴りにずれる。
直撃こそは避け、倒れ込むことこそしなかったものの、頭部の何処かに当たったせいで、流れ落ちた血がドロリと右目に入り、視界が赤く変わる。
脳を揺らされ、溶け落ちてしまいそうなほど歪みに歪んだ視界の中で、倒れ付した数名の走破者と、クレータのように形を変えた地面の中心に、折れ曲がった金属製の杖と、地に落ちたざくろの如き赤い残骸を一つ見つけてしまった。
また、一人……。
こみ上げる自分への不甲斐なさと、止まらない怒りに任せて、痛みを忘れて地面に武器を振り下ろす。
『あ、相棒……』
「だ……大丈夫だドリーッ。俺は冷静だ……」
嘘……ではない。広がる激情は確かにあって、燃え上がりそうな怒りはあるが、俺の本能は理解していた。
今ここで冷静さを失ってしまっては全滅してしまう、と。
『……ひとまず回復をかけますっ《フィジカル・ヒール》』
「ありがとう、ドリー」
すぐさま掛けられたドリーの回復魔法によって、身体の痛みはやわらいだが、心の痛みまではなくならなかった。
力任せに抑え付ける。悲哀も怒りも全部……全部。
口に広がる鉄臭い唾を地面に吐き出し、零れそうになる悔し涙を押し込める。
「動ける奴はすぐに動いて、倒れている者の回復を急げッ! 回復薬だろうが、魔法だろうがなんでも良いから使って動ける状態に戻してやれッ!」
願いを込めた怒号を放つ。
瞬時に動いた岩爺さん。よろけるように立ち上がったリッツ。
グラグラと揺れる杖を支えに起き上がったシルさんと、俺と同じく額から血を流してながらも動き出したオッちゃん。
動ける走破者達は俺の言葉で立ち上がり、倒れたものへと駆け寄っていく。
どうしようもなく不安定で、今にも折れそうになりそうな俺の心は、そんな皆の姿のお陰で、壊れることだけはなかった。
駆ける。
助けられるものを救うといった、わがまま。
主を倒す戦力を保つといった打算。
……ゴチャゴチャに混ぜ合わされた感情をただ足へと込めて、叩きつけた。
【大丈夫……いづかはきっど……】
高速で後方へと流れて行く景色の中、主が蜂の腕をこちらへと向けたのが見えた。
急げ急げ急げ。
ドリーのウッド・ハンドと協力して、倒れた者を力任せに放り投げ、一箇所に向かって強引に集め、投げられた走破者に向かって、待ち受けていた者が回復を施し、傷を癒して立ち上がらせる。
っち、早いッ!?
全員を癒す間もなく容赦なく主の攻撃が開始された。
こちらへと真っ直ぐに差し向けられた五本の針爪が、バスッと音を立てて三角錐の爪針を飛ばす。
壁――視界に広がるのは、まるで巨大な剣山をそのまま叩きつけてきたかのような針の壁。
一撃打つごとに生え出す新たな爪針は、絶え間なく撃ち込まれ、こちらを貫かんと迫る。
背後には未だ動けぬ走破者が数名。
抱えて逃げ出す暇は無く、見捨てて逃げるには余りに多い。
ここでこの人数を亡くせば、これからの戦いがますます厳しいものになる。
ありえない。この程度を乗り切ることが出来なくて、主を倒すことなど叶わない。
やれる、きっとやれる。
身体が自然と前へと動き、倒れた走破者を守るような位置へと向かった。
アース・メイクで穴を掘る? 駄目だ、角度のついた針までは防げない。
ロック・ウォールで盾を作る? 駄目だ、土壁ではきっと貫かれてしまう。
今から指示を出そうにもきっと……間に合わない。
ならばどうするべきか?
「決まっている。後ろに通さず打ち落としてやるッ!」
俺が覚悟の咆哮を上げて、ゴキリと、肩を回して迫る針へと武器を差し向けると、
『むふふ、相棒と私が揃えばきっと出来ますっ』
エントを唱えたドリーのナイフが、水刃揺らがせ空気を裂いた。
直後、俺の背後から人影が躍り出る。
「さて、老いぼれも参加しようかのぅ」
「隊長自分は一割やるんで、残りはお二人に任せます」
「あ、自分も一割で」
気の抜けそうな声を上げ、岩爺さんが俺の横へ、無事だった前衛職の二名が少し後ろで取りこぼしを防ぐべく、武器を掲げて構えを取った。
「クロウエッ、打ち落として数減らしてあげるから、ありがたく思いなさいよッ」
「さあ、皆さーん。せーので氷と土、水の魔法を放ってくださいねー。
はい、せーのっ!」
「おらッ、隊長さんの援護だ。動ける奴は撃てッ!」
相変わらずのリッツの声音。
シルさんののんきな掛け声。
オッちゃんの怒声。
俺が指示を出す必要すらなく、各々で判断を下した走破者達が、数え切れないほどの氷弾、土弾、水刃を、撃ち出し、迫る針と飛び交う魔弾が軍隊同士の正面衝突のように、怒涛の勢いでぶつかりあった。
ビルのガラスを一斉に壊したような、甲高い破砕音が広場中に響き渡る。
破壊されるのはこちらの魔法、貫いたのは針弾。
主に痛撃を与えることすら出来ないだろう数に特化した魔法弾は、易々と針に貫かれ消失していく……が、炎や雷と違って形を持った魔法の為、飛び交う針の勢いを殺し、進行方向を逸らすに至る。
ぶちまけられたピンボールのように、針が向きを変え、こちらにたどりつく事も出来ずに四方八方へと飛び散った。
しかし、全ての針を防ぐことなどできる筈もなく、魔法の弾幕を一部の針が突き抜けてくる。
バシュッ、バシュッ。
聞きなれた銃声が鳴り、白い魔弾が連続で放たれる。
正確無比なリッツの射撃は、俺と岩爺さんでは届かないだろう位置の針だけを選び取り、次々と撃ち落し、向きを変えていく。
さすがリッツ、頼りになりやがる。
「さあ来よるぞクロ坊ッ!」
「当たるなよ岩爺さんッ」
「ッハ、そっくりそのまま返す――ぞいッ」
――ィィイン。
赤銅の杖から引き抜かれた刃が、赤い剣閃を残して針を切り裂き撃ち落す。
「オラッッ!!」
『そいやっ』
俺の槍斧が力任せに砕き、ドリーの水鞭がそっと針の横腹や上部を叩いて向きを変える。
砕く、切り落とす、逸らして、打ち返す。
呼吸をすることすら惜しんで武器を振るい、ただひたすらに針を迎撃していく。
きっとこの針には毒がある。リーンを苦しめているあの毒が。
通せない。一撃たりとも後ろには通せない。
延々と針を落とした音が耳へと入り込み続け、鼓膜をガンガンと揺らす。
鳴り止まない騒音の中でも俺の集中力は研ぎ澄まされ、際限なく高まり続けていく。
右、上、次は下だ。
感覚に従い武器を振るう。
わかる。針の射線が目に見えて描かれていた。
きっと以前の俺では不可能だった。蟲毒に入る前の俺では取りこぼしていた。
でも、今なら……きっとやれる。
「ウオオオオオオオッッ!」
叫んだって早く動ける訳じゃない。怒声を上げても技術が上がる訳じゃない。
でも、それでも俺は猛る心を声に出さずにはいられなかった。
叩き落された針が大地を抉り、跳ね除けた衝撃が腕へビリビリと伝わってくるが、構わない。気にしない。
痺れる腕をそのままに、俺は延々と武器を振るい続け落とし続け――やがて、全ての針を、主の攻撃を払いのけた。
細やかに震える腕と、限界まで走り続けたかのように、ぼぅ、と靄の掛かった視界。
「あぁ、う、腕がだるい……」
「儂……腰痛めそう」
「俺、きっと一割は落とした」
「てめえ嘘付けよ、ほとんど俺達まで来なかっただろうが」
『皆さんがきっと花丸ですっ』
俺を筆頭に、荒げた息を整えながら前衛職が、各々に言葉を漏らす。
背後に逸らした針はゼロ。被害者すらも皆無。
――ざまぁみやがれ。
未だ主は健在で、まだまだ戦いは続くのだが、思わず俺は心中で主へと向かってそう呟いていた。
「隊長さん達に回復をかけてやれっ。ほれ、お前ら回復済ませたんならさっさと立ち上がれ、まだ相手さんはピンピンしてんだぞッ」
背後から聞こえてきたオッちゃんの声と共に、俺達の体に光が溢れ、失ってしまった体力が戻される。
チラリと後ろを振り向けば、既に回復を済ませたのか、俺の指示を待ち受けるようにして立っている走破者達の姿。
まだ……まだまだやれる。
気勢を新たに隊列を組み直す。
いい加減休みたい気分ではあるが、蟲毒の主は甘くは無く、そんな暇など与えてくれないようだ。
【人が……憎い、憎い憎い】
全ての悪意を込めたかのような、怨嗟の言葉吐き綴る。
屈み込むようにして変えられた姿勢。
地面へと向けられた腐れ腕と、窄められた口。
「ッチ、そう何度も好き勝手やらせて堪るかッ! 総員攻撃魔法準備――放てッ!」
記憶に新しい主の行動を見て、即座に反応を返し、号令と共に放たれた攻撃魔法。
風に煽られ火勢を増し、逆巻く炎弾が主へと飛来する。
この程度で痛撃を与えられるとは思っていないし、どうせあのムカデ腕に掻き消されてしまう筈。
せめて蠅とウジを吐き出す邪魔さえ出来ればそれでいい。
油断なく俺は四肢へと力を込め、相手の動きを見定める。
が、主は俺の予想外の行動をとった。
炎が迫ってきているというのに、何故か鎧甲殻の腕を微動だにさせず、自身の腐り腕を振るわせ、ウジをデコイの如く飛ばして魔法を迎撃。
蟲の散弾が炎弾へと衝突し、余波を撒き散らしながら空気を焦がす。全てが撃ち落されたわけではなく、数発の魔法が蟲の弾幕を抜けた。
巨腕を振るい叩き落す。しかし、先ほどと同様に動かされたのは腐り腕。
轟音と共に火炎が舞い、一瞬昼間のように戦場が明るくなった。
上がる黒煙と、周囲に漂うのは腕が焼けた嫌な臭い。
マジかよ、当たりやがった!?
予想外の動きと想定外の結果。
黒煙の中から現れた主、その左腕は、魔法を撃ち落したせいで軽く焦げ突いている。
動き自体はまるで鈍っておらず、焼いたのは表皮だけで、ダメージを与えた――とは言い難い程度の損傷。
しかし、俺達にとって主の体に初めて一撃を与えられた、という事実は大きい。
思わず驚きで体が硬直しそうになったが、折角巡ってきたこの好機をなんとか生かしたい、と武器を振り上げ口を開く。
「今の内についげ――――ッ!?」
【―――ガァッッッッッツ!!】
隊へと向けた追撃の指示は、重ねられた主の咆声によってかき消され、その余りの声量に、本能的に耳を塞いで動きを止める。
騒音の最中、俺が悪態を漏らしている間に、主が視界の中で動きを見せた。
頭部が天を仰ぎ見るように上を向き、湾曲に反り返る背面。
主と繋がっている緑色の血管が、咆声に呼応するかの如く、ボコリと音を立てて気泡を上げた。
腐った体躯の表層が泡立つようにボコボコと動き、体内に巣食っていたのだろうウジが一気に涌いた。
きぃ、と小さな鳴き声と共に、ウジが体内から謎の液体を吐き出し、焦げ付いた主を濡らす。
黒く焼きついていた筈の腐った肉が、生々しい色へと変わっていき、やがて主の体が攻撃を受ける前と変わらない姿に戻る。
ッチ、やっぱり再生能力があるのかよッ!
肉沼でも、水晶でも、主はなんらかの再生手段を持っていた。
そこから考えると、当然の如くこいつも出来るだろうと覚悟はしていたが、やはり目の前で見せ付けられると、ウンザリしてしまう。
ようやく当てられた初撃は既に無かったものとなってしまったが、集められた情報は、しっかりと俺の頭の中に刻まれていた。
今まで視界に収めた全ての情報を、探って集めて繋ぎ合わせていく。
使わなかった腕。再生前に動きを見せた緑色の液体。
主の動かした腕の順番。腕が攻撃を行った後の姿。
連撃。インターバル。気泡を上げた紫の液体。
白紙だった脳裏に、繋がっていった情報が、様々な予想を描く。
主の動きを警戒しながらも、俺はその中でも一番可能性が高そうなものを選び取った。
恐らく――
主は背中に生えた腕の力を連続では使えない。
ただ振り回すだけなら問題ないのだろうが、なにかしらの能力を使った後は暫く使用不可能になると思われる。
その証拠は先ほどの主の動き。
主はこちらが放った攻撃に対して、先ほどムカデの腕を動かさなかった、いや動かせなかった。
巨碗を生やした後と前――恐らくそういうことなのだろう。
それに、未だ主は一回たりとも同じ腕を連続で使用していない。
これはオカシイ。こちらを殺したいなら、蛍やムカデを連続で使えばいいんだ。
連続使用で蜂の能力を使い続けたっていい。
それなのに、やってこない。
蠅とウジを連続で使わないのも、同じ理由かもしれない。
今までやってきた攻撃の順番は――
カマキリ、蛍、蜘蛛、蠅、少し間が開き、ミミズ、ムカデ、蜂、そしてまた蠅。
四回、空白、また四回。
蠅が二度きているのは自身の能力だからって所だろうか?
きっと力の供給源は紫の液体だ。再生の方は緑色なのかもしれない。
これでもし次の攻撃がカマキリから始まるようならば、インターバルの時間も判明する。
早くなる鼓動が胸を叩き、抱かれた期待と共に主の姿を伺っていく。
ほんの少しの空白が開き、主は“鎌腕”を高々と振り上げた。
自身の口元が釣りあがっていくのを感じる。
別にこれが分かったからといって厄介な能力が弱くなったわけではない。
だが、少なくとも主に近づける算段だけはついた。
しかし、まだだ、まだ早い。
「総員カマキリの風刃に注意しろッ! もう暫く避け続けるぞッ」
警戒を促し、ひとまずの目標を伝える。
俺達は、鎌腕の角度に注意を向け、放たれた恐ろしい威力を誇る風の刃を、冷や汗ながらに避けていく。
次は……間が空かなければ蛍。少しでも空けば蜘蛛かミミズ。
集中力を最大限に高め、敵の動きを探る。
俺の視界の中で、主が動きを見せた。予想通りと言うべきか、動きを見せたのは蛍の腕。
――これはもう間違いないな。
隊全体へと向けて目を閉じるように声を掛け、光が放たれるまでの短い時間で、俺はドリーに自分が考えていた予測と、その後の指示も一緒に話していった。
蛍の腕の明滅が徐々に徐々に早くなる。
急ぎ俺が目を閉じたと同時に――瞼の先で光が瞬いた。
これは結構怖いな。皆こんな思いをしていたのか。
敵を前にして目を閉じなければならないのは、想像以上に勇気がいることだ、と俺はこのとき初めて知った。
まだか……まだか。
すぐにでも開きたくなる瞼を必死になってこらえ、信頼している相棒の声を待つ。
『皆さんっ、もうよろしいですよっ』
幻影に一番耐性があるドリーが、攻撃の終わりを隊全体へと知らせ、それを切欠に俺達全員が目を開く。
予想と予測。ドリーの注意力と、敵に伝わらないように声を伝える能力。
その全てを最大限に使用して、俺達は必死になって連携を取りながら、主の猛攻から逃れ続けていった。
蜘蛛の糸の合間を蛇のように抜け、蠅を繰り出そうとする主の行動を、全力で攻撃魔法を放って阻止。
ほんの少しだけあるインターバルは、消耗した魔力の回復と、切れそうになっている身体強化の掛け直しにあてていく。
広範囲、かつランダムに打ち下ろされるムカデの腕は割り切って諦め、来る寸前に全速力で後方に下がって回避。
そして、ようやく好機とも言える時がやってきた。
待ちに待った毒針の弾幕を、揃って骸の山に身を隠してやり過ごして――
「今だッ、走れ!!」
俺達は主へと向かって疾風の如く駆け出した。
ムカデの腕が使用不能になり、蜂の攻撃が終わった直後。
ココこそが、俺達が最も安全に主へ近づけるタイミングで、そして攻撃を加えられる好機。
腕の能力が使用可能になるまでの期間はそれなりに長いが、ただ腕を振り回すだけならそこまで掛からず復活していた。
ムカデの腕はこちらの攻撃を当てる上では邪魔すぎる。やはりこのタイミングしか無い。
「走れ走れッ!」
言葉で背中を押すかのごとく、俺は隊へと向かって怒号を向けた。
遅れなく合わされた隊の進行速度と、指示を出すまでもなく放たれる攻撃魔法。
蠅を繰り出そうとしていた主は、予想通り己の左腕で迎撃を始め、俺達が近づく為の隙を晒す。
『フェザー・ウェイト』『フォロー・ウィンド』
グン、と体が加速する。
掛けられた魔法が、俺達の足を更に速め、援護の追い風が背中を押した。
近づけば近づく程に、漂う腐臭が鼻腔を強く刺激して、主の巨躯が威圧感を増していく。
削り取られるかのように距離が詰まり、俺達は主の元へと辿りついた。
主の濁った瞳と、俺の視線が絡み合う。
深い深い獄の底で、ようやくまともに対峙することが出来た隊と主。
出来ればこのまま決めてしまいたい。
四肢に力を漲らせた俺は、槍斧の柄を引き絞るように握り締めた。
タイムリミットは次のミミズの攻撃まで、一先ずの目標は背中の血管。
「俺と岩爺さんを最前列に、身体能力の低い者は出来るだけ距離を離して援護に徹しろ。
やるぞお前らッ!」
了承の声音が響き、全員が弾けるように動き出す。
声と同時に振るわれた主の右腕を散開するようにして避け、お返しとばかりにリッツが魔弾で狙い打つ。
至近距離ではないが、かなり近い位置から撃たれたにも関わらず、主は異常なほどの反応速度を見せ、それを跳ね上げた右腕で散らす。
「岩爺さん左腕側を、俺は右腕側からッ」
「っほ、行きたくはないが、仕方ないのぅ」
一言互いに声を掛け、俺と岩爺さんは左右に分かれて主へと向かって接近。
タッ、タッ、と軽快に地面を蹴り上げ、挟み込むように向かってくる俺達を見て、主が迎撃の構えを見せた。
狙い打つかのように前へと突き出す腐り腕と、一撃必殺を狙うかのように、虎視眈々と下げられた右腕。
その右腕と相反するように、カマキリの腕がギロチンのように上空へと掲げられた。
右側はかなりキツイな。
思わず右腕側から向かわねばならないことを悔やみ『岩爺さんと左右交代してもらえば良かったかな』などと阿呆な思考が過ぎる。
『相棒、軽―く飛んでくださいっ』
ドリーの声に従い飛び過ぎないように力を調節して身体を宙へと浮かす。
すると、一瞬遅れて飛び上がった俺の足元を、主の右腕が薙ぎ払った。ヒヤリと冷や汗をかきながらも、上空へと向けてウィンド・リコイルを放ち、反動で地面に足をつけまた走る。
返す刀でまた主の右腕が迫るが、今度は地面に伏せるようにして躱す。
このまま行けば駆け抜けられる。
脳裏にそんな考えが流れたが、それはアッサリと主によって止められた。
前動作なしで蠅の放出。
姿勢を変える事無く口を膨らませた主が、量こそ少ないものの、黒い蠅を霧のように吐き出した。
既にかなり近くまで走りよっていた俺と岩爺さんに、群がるように蠅が襲い掛かる。
こ、これはやばすぎる!!
勢いがついていた体を、地面に武器を差し込み強引に止め、即座に後方へと向かって逆走を開始。
岩爺さんも似たような状況なのか、何度か地面を蹴って主との距離を離している。
「主は一旦ほうっておいて、隊長さん達の援護をしてやれッ」
後方でオッちゃんが吠えると、それに続いて今まで主に向かって放たれていた魔法が、俺達に迫る蠅へと降り注ぐ。
最初の時よりも数が少ない蠅を焼き尽くすには十分な火力と火勢が回り、その余波によって周囲の温度が急激に高まった。
ぶわ、と汗が額から流れ、開いていた目が少しだけ乾く。数度瞼を瞬かせ、乾いた瞳を濡らし手の甲で汗を拭って払い捨てた。
くそ、あの野郎。蠅出すのに前動作無くても出来るんじゃねーか。ウジと同時じゃ無理なのか? 数も少なかったみたいだし。
頭の中に描かれた予測に、新たな情報を混ぜて修正。
気を取り直し、もう一度主の元へと走り出そうと身体を前に倒した。
だが、視界の上部――鎌腕が掲げられている位置で、攻撃魔法の炎に照らされ銀光が揺らめくのが見えた。
警鐘が響き、一瞬で背筋に悪寒が走る。
「岩爺さん、触手に注意してくれ。距離を離している奴らも警戒しろッ!」
事前に来るかもしれないと思っていたからこそ気がつけた異変。
掲げられた鎌腕を中心に、銀触手が広がった。
山なり、カーブ、右上がり。
様々な角度から高速で突き出される触手の銀槍。その速度は相変わらず凄まじく速い。
しかし、身体の太さがリドルで見た奴よりも大きい為、あの時と違って俺の目にはハリガネムシの軌道がハッキリと見えていた。
先ずはバックステップ、眼前に突き立った触手を見ながら、そのまま半身になって次の攻撃を躱す。かわした勢いをそのままに、武器を横殴りに振るって突き立っていたハリガネムシに向かって残撃。
金属に切りつけたような硬い感触手に返ってきたが、それを気にせず、腰をひねって更に力を込めた。
「この野郎ッ!」
キキキィ、と錆びた鉄扉を開いたかのような音と共に、ハリガネムシの身体に真一文字に傷跡が付いた。
とはいえ、この程度の傷では殺せるはずもなく、嫌がるように身悶えしたハリガネムシは、地面から身体を抜いて本体へと逃げ出してしまう。
っち、やっぱりエントをかけないと無理か……。
その後も立て続けに襲い掛かってくるハリガネムシを、ドリーの補助に頼り躱しながら、俺は隊に被害が出ていないかを確認していく。
少し右側に居る岩爺さん。
武器が凄いのか腕が凄いのか、足元には一匹のハリガネムシが半ばから切られ転がっていた。
右へ左へ後方へ、視線を順繰りに巡らしていくが、特に被害者は出ていないようだった。
避けきった、というよりも俺に向かって攻撃がやたら集中していたらしく、そこまで他の人にはハリガネムシが向かっていなかったようだ。
『むむ……ピカピカが来ます。皆さん目を閉じてっ』
「っち、もう蛍か……」
これで三度目。
もう慣れた、といわんばかりに瞼を下ろし、光を遮る。
もう余り時間が無いな。この光が止んだらもう一度攻め込むか……。
出来るだけロスを無くそうと頭の中で次の行動のイメージを固めていた俺の耳に、
『た、大変です蜘蛛さんの腕が動きましたッ。光はまだ止んではいません目は開かないでくださいっ』
ドリーの警告が届いた。
よりにもよって!?
首筋に刃物を突きつけられたような危機感がチリついた。
俺だって一瞬だけとはいえ光を見たら動きが止まってしまう、さすがに目を開くわけにはいかない。
「ドリー、なんとかしてくれッ」
『わかりました。皆さん目を閉じたままで指示通りの動きをお願いしますっ』
俺の願いにすぐさまドリーが呼応して、視界を遮られた俺達を誘導していく。
『相棒は合図と一緒に右へ飛んで、相棒から左後ろ後方にいる二人の魔法使いの方は、一歩右に動き頭を下げてください。
来ますよ…………今ですッ!』
何も見えないままで、体を必死で投げ出す。
突風を肌で感じ、糸にローブの裾が掠ったのか、ばたばたと揺れた。
『ぁあ……』
悲しそうなドリーの声が響いた。
すぐに目を開けた俺が見たのは、空に舞い上がる一人の走破者の生首。
嗚呼、また……。
心臓が締め付けら、心が泣き声を上げた。
きっと頭を下げるのがほんの少し遅かったのだろう。
亡くした仲間に心の中で黙祷を捧げ、荒れそうになる感情を、また、俺は殺す。
亡くす度にヒビが入る。
失う度に傷が入る。
背中がまた……重くなった。
今までやってこなかった幻影光からの連続攻撃。主はその反動がきているのか、先ほどよりも少しだけ力が落ちているように見える。
どうやらわざと隠していた、というわけじゃないらしい。
今なら……死んだ仲間の恨みをこいつに撃ちこめるかもしれないッ!
思考が赤く染まる。
主の姿を視界に入れた俺の身体に、焦げ付くような怒りの炎が燃えた。
あいつに刃を突き込みたい。仲間と同じように痛みを与えてやりたい。
身体が自然に前へと傾き、復讐を遂げようと主に向かって足が動き出そうと力が入った。
『相棒っ、そろそろ引かないと拙いです』
今にも飛び出そうとしていた俺は、ドリーの言葉ではっと意識を戻した。
ドリーの言う通りだ。
このままこの距離に居続けてしまえば、ミミズ、ムカデ、蜂の攻撃が始まってしまう。
確かに今なら主に一撃を加えられるかもしれないが、それが出来なかったら、確実に一人や二人じゃきかない被害者が出る。
未だ怒りは収まらず、突撃命令を出したい衝動が胸を焼く。
危険すぎる好機と、失敗した時のリスクを載せて、判断の天秤がユラユラと揺れ動き、やがて一方に傾いた。
「――ッツ! そ、総員、すぐに後方へと引けッ!」
無理やりに捻り出した俺の指示が隊列を後方へと引かせ、主との距離をまた開かせる。
主の放ってきた追撃のウジに怒りを晴らすようにぶつけながらも、俺の頭の中にはグルグルと自分を責めるような声が回っていた。
なんて馬鹿な命令を出そうとしたんだ俺は。あの状況なら揺らぐ必要性なんてまるでないじゃないか。
引く、この状況なら引かないでどうする。
怒りに任せて判断を迷うなんて、どうしようもない。俺は本当にどうしようもない奴だ。
無意識で歯を噛み締めすぎて頬がずきずきと痛むようになっていた。
チャンスなんてまた巡ってくるけど、失敗して死んでしまったらその人の命は帰って来ない。
よほど追い詰められている状況じゃない限り、わざわざ危険な賭けにのる必要性は無い。
こうなったら……上位魔法を撃ち込むか?
どうにも上手くいかない状況に苛立ち、つい力押しの方向で考えてしまう。
現在、この隊には三名ほど上位魔法が使えるものが居る。
シルさん、炎使いの一名、風使いの一名。
これまでの道程では道幅が狭かったり、あまり騒音を立ててはいけなかったりで使えなかったが、この空間なら問題ない。
いや……。
一撃放っただけで昏倒しかねない上位魔法なんて迂闊には使えない。
ムカデ腕もあるし、未だ見せていないが、元の蜘蛛糸の特性から考えると、あれでも掻き消せると思っておいたほうが良い。
ムカデ腕と違って能力発動を伴う蜘蛛腕は、おいそれと使えるものではないだろう……しかし、だからこそ今まで使ってこなかったと考えたほうが良い。
やっぱり駄目か、大技を使ってあっさり掻き消されてしまえば、下手したら戦闘不能者が三名追加だ……危なすぎる。
くそッ!!
苛立ちが止まらない。心が軋む音がした。
此処まで来る間に、積もり溜まっていた負の感情が、俺の心の器になみなみと注がれている気がした。
切り替えろ、気持ちを切り替えろ。
こんな所で俺が揺らいでどうする。
心の傷をひた隠す。
一人死ぬ度に塗り重ねる。まるで子供が悪戯で塗った壁のように歪な形で。
死闘が続く。文字通り死が間近に迫るかのような主の攻撃を、魂を削りながら避けていく。
蜂が終わったらまた接近して、死地の真っ只中で攻撃を繰り返す。
近づいて、離れて、また近づいて。
犠牲者こそあれから出ていないものの、資材が底を見せ始め、気力と体力の上限も低く下がっていた。
届かない。どうしても後一歩が届かない。
まるで薄皮一枚の強固な結界でもあるかの如く、ある一定以上の成果が上がらなかった。
反応が早すぎる。
目前で撃った援護射撃でも、疾風のように速く駆けても、主は見逃さずに寸での所で叩き落してくる。
まるで自分達とは違う世界を見ているかのような反応速度だった。
何かを見逃している。主の身体に届かせるために必要な重要なナニカを――。
届かないまま、分からぬままに時が過ぎていく。
もう何度目になるか分からない接近を成功させた俺達の顔色は、既に悲壮なものとなっていて、回復魔法をかけても回復しきれないほど精神が磨耗していた。
槌の如く落とされた主の右腕をスレスレの所で下がって避け、時折切り裂いてくる鎌腕をサイドステップですり抜ける。
肩で呼吸を繰り返し、今までよく生きていたものだ、と自分を励ました。
かなりキツイ。
というのも、主の攻撃はやたらと俺を中心に据えてくるのだ。
そのお陰で他の走破者達への攻撃が緩くなり、今まで被害者が出ていないのだからありがたいのだが、休む暇なく攻撃され続けていると、時折心が折れそうになってしまうことがある。
なんで俺を狙ってきやがるんだこいつ。
他の走破者へと攻撃をされるぐらいなら俺に来い、とは思っているのだが、狙われて嬉しい訳でもないので、やはり少し腹立たしい。
こちらの首を刈り取ろうとしてくる鎌腕を、転がるように避け、苛立ち紛れに主へと悪態を吐く。
だが、どうやら苛立っているのは主のほうも同様らしく、かんしゃくを起こしたかのように身を揺すっている。
【お前……早ぐ、死んで捕まれッ……お前お前えええええ】
「いきなり暴れだしやがってッ、何だってんだよ糞野郎」
叫び声を上げて主は蠅を岩爺さんに吐き出し、ウジを弾丸のように飛ばして他の走破者を牽制。
そして煌々と赤く光る複眼と、涙の変わりに膿でも流しそうな左眼球を、真っ直ぐ俺に向けた。
時が止まったかのような一瞬の静寂を経て、ただ俺だけに狙いを定めた主の攻撃が開始される。
腐り腕の打ち下ろし、蠅腕の薙ぎ払い、少し遅れて斜め上から鎌腕の切り落とし。
更に、時間経過で動かせるまでに回復したのか、ミミズ腕までもが殴りかかってきた。
無理だ、避け切れそうに……無い。
前方から死が形を持って迫る中、消耗された精神が弱音を漏らす。
でも、ここで俺が死ねば皆が、皆がッ!
死に物狂いでギリギリの淵で生き足掻く。
今にも諦めてしまいそうな体を強引に動かして、腐り腕の打ち下ろしを、紙一重で避け、蠅腕の薙ぎ払いを、大地を蹴って越える。
俺の着地地点には、狙い澄ましたかのような鎌腕の切り落としが重なっていた。
『相棒は絶対に死なせないッ《ウッド・ハンド》』
決意の篭った魔名が樹手を創る。
丁度俺の真下に出現した樹手が伸ばした指先は、浮いていた俺の小さな足場となった。
湖面に突き出た杭に乗るように指に片足を乗せ、身体を左へと流す。
切り落としによって粉々に砕けた樹手。破片が散弾の如く俺の身体に当たってくるが、武器を握った左手で顔だけは庇い視界を保つ。
尖った破片がわき腹に幾つか刺さって、鋭い痛みを俺に与えた。
まだだ、まだもう一撃ッ!
未だ空を泳ぐ身体に向かって、止めとばかりに打ち出される蚯蚓腕の剛打。ウィンド・リコイルを右方へと向けて一発――更に左へと流れる体。
だが、それでもまだ移動距離が足りず未だ範囲内から逃れられていない。
恐らくもう一撃放ってもまだ足りないし、二撃打ち出す時間は無い。
すぐに右手を背中に回し固定し、リコイルの反動で身体を右回りに回転させる。
既に目前へと迫った死。
それを拒否するように、俺は左手に持った槍斧を回転に合わせ、全力で蚯蚓腕の側面に叩きつけた。
「――――ッッラァ!」
筋肉繊維のブチブチと千切れる音を、意味を持たない叫びで掻き消し、身体を左へと動かすために、俺は左手を強引に振り切った。
武器の生んだ反動は、俺の身体を攻撃範囲から跳ね飛ばす。
砕かれた地面が轟音を上げて、俺はそれを聞き流しながら獣のように四つ手をついて着地する。
「ハァ……ハァ……」
死と生との狭間の綱渡り。それをどうにか越えはしたが、精神の消耗は莫大で、神経は既に擦り切れて細糸のようになってしまっている。
乱れた呼吸は一向に収まってくれず、少し気を抜けば倒れ込みそうなほどに、思考が溶けていた。
大きな傷こそ負っていない。全身が傷だらけになったわけじゃない。
でも、俺は満身創痍ともいえる状態になっていた。
【お前……お前……お前】
俯きそうになっていた顔を、主の濁った声を聞いて上方にあげる。
見下ろす主と、見上げる俺の視線が絡んで、弱りきっていた俺の心が突きつけられる圧力でシクシクと泣いた。
俺を捕まえようと伸ばされた主の手から、怯えるように身を躱す。
どうにも先ほどからしつこくブツブツと呟く主の声が、頭にこびりついて離れなかった。
しつこく追ってくる主の手から逃れていると、主が苛つきを隠さず口を開いた。
【はやぐ、づがまれ……街では逃がしでしまっだ……お前】
さっさと後方に下がろうとしていた俺の足が、主の声を聞いて止まった。
「……お前……今、なんて言った?」
こんな状況で主と悠長に会話するなんて馬鹿のすることだ。
でも、何故か俺は主の言葉に引っかかってしまい、まともな答えが返ってこないと思いつつも、聞き返してしまっていた。
が、予想に反して主はこちらの言葉に興味を示したような素振りをみせる。
少しだけ心臓が跳ね『やめておけ』心の奥底で何かがそう呟いた気がした。
イカレタ瞳をこちらに向けて、主が濁った言葉を瘴気と共に吐き出す。
【探してだ……お前を、みづげだんだ街で】
ドクリ、ドクリ。
鼓動の音がやけに煩い。手の平がいつの間にか汗ばんでいた。
揺れる。主の姿を見ているだけで、心が有り得ないほどに不安定になっていく。
もう止めろ。これ以上聞かないほうが良い。
先ほどよりも大きな声で、俺の理性が必死に叫んでいる。
【わざわざ捕まえに行っだのに……お前は逃げでしまっだ】
止めろ。止めろ。止めろ。
耳を塞げ、これ以上聞くな。
アイツの口を縫いつけろ。もう喋らせるなッッ!
既に理性の声は頭を揺らすほどに騒がしくなっていて、それに従うように俺の口から言葉が漏れ出した。
「黙れよ……もういい、喋るなって」
『あ……相棒?』
ドリーが不安げな声を漏らし、俺を見ていたが、今のそれに答えられるほどの余裕が無かった。
まるで、この場所にいるのが俺と主だけになってしまっているかのように、視野が狭くなっていく。
主の手がゆっくりと動き、腐った指を俺に向かって突きつけるように指した。
ビクッ、と体が怯えるように震える。
違う、そんな訳がない。そんな筈ないじゃないか。
否定する、予想を。全力で拒否していく、俺に止めを刺しかねない真実を。
だが、イカレタ瞳は真っ直ぐに俺に向けられていて、狂った主の呪いの言葉は、容赦なく吐き出されてしまう――。
【お前を捕まえるために……まぢを……襲っだのに……】
“俺を捕まえる為に、街を襲った”
一瞬呼吸が止まり、その後乾いた笑いが口から漏れた。
ビキッ。塗り重ねてきた偽装の壁が主の言葉で壊れていく。
張り詰めていた色々な感情が、真実を知って氾濫した。
ここまで頑張ったんだ。仲間を救うために。
死んだ人の為に頑張ったんだ。彼らの意思を叶える為に。
「……ぁ」
まるで自分のものじゃない程に力ない声が喉を震わせる。
引っ張っていこうと努力したんだ。一人でも犠牲者を減らすために。
繋がった筈だった絆が。信頼が生まれていた気がした……皆と。
「……ぁあ」
先ほどよりも少し大きな嘆きと共に、足元から全てが崩れ去っていくのを感じ、全てが塵と化していくのを予感した。
もう駄目だ、耐えられない。
無理だ、堪えきれるはずがない。
だって――リドルの街が襲われたのは俺が原因だったのだから。
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼アアアッッツ!!」
叫んだ、誤魔化すかのように。
吠え立てた、全てを無くしてしまえるように。
でも、幾ら大声を上げてみても、俺の耳にはハッキリと聞こえていた。
一生懸命塗り重ねた心の壁が、あっさりと崩れてしまった音が。
【ようやく……づかまえた……お前】
主の左手がゆっくりと俺へと伸びてくる。
逃げないと――わかっていたけど、俺の体は動いてくれなかった。
頭が垂れる、みんなの顔を見なくて済むように。
耳を塞ぐ、怨嗟の声を聞かずに済むように。
俯く直前、主の胸元が俺を誘うように、赤く赤く輝いたような気がした。