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俺の人生ヘルモード  作者: 侘寂山葵
蟲毒の坩堝
71/109

6−18

 



 思考を重ね。対策を練る。

 新たな区域に入る度に繰り返されてきた行為。今までは犠牲者を出しながらもそれでどうにか突破してこれた。

 だが今回ばかりは些か――いや、かなり危険な行動に出なければならないようだ。

 時間を考えると、もうそろそろ準備を始めないと拙いのだが……まだもう一つの確認をしておかねばならない事がある。

 

 ……頼むぞ。

 俺は、そんな願いを込めながら、エリア出入り口に身を潜める様に隠れ、恐る恐る腕を伸ばして魔名を囁いた。


『リング・デコイ』


 手の平に気流が生まれ、それが徐々に球状へと変化する。

 やがて魔力によって作られた風玉が俺の手から離れ、乱流する空気を抱え込んだまま、糸を避けつつエリア奥へと向かっていった。

 右へ左へ――と、風玉を操作して奥へと進めていくが、未だその軌道はフラフラと覚束ず、中々安定してはくれない。

 

 ……そろそろ良いか。余り無理して糸に当てたら消えちゃうしな。


 魔力だってタダじゃない。下手にミスをして無駄遣いしてしまえばいざとなった時に困ったことになる。できればもう少し奥へと進ませたかったのが本音だが、失敗する危険性も考えればこの辺りが妥当だろう。

 意識を集中させ、二十メートル程先に留まらせたデコイに向かって『鳴れッ』と魔力を飛ばすようなイメージで意識を向ける、と。

 パァンッ!

 破裂した空気が乾いた音をエリアに広げ――やがて、壁に溶けこんでいくかのように消えていった。

 再び静寂が辺りを支配していく中、俺達は揃って天井に開いた穴へと眼差しを向ける。


 出てくるなよ。頼むから出てくるなっ。


 不安が鼓動を揺らし、緊張が脳を痺れさせる。タダ黙って見つめているだけなのに、モンスターと相対した時程に空気が重みを増している。

 一分……二分……と時間が経過し、緊張からか誰かがゴクリ、と喉を鳴らす。

 蜘蛛は現れない。

 三分……四分……やがて五分が過ぎ、それでも蜘蛛は現れなかった。


 重苦しかった空気が徐々に和らぎ、オッちゃんの零した『もう大丈夫じゃないか』という言葉を切欠に、俺達の間に安堵が走る。


 助かった。このレベルの音に反応しないのなら大分マシになったな……。


 ようやくエリア内から視線を外した俺は、最後の確認が自分達にとって良い方向へと転がった事に胸を撫で下ろす。

 

 最後の確認、それは蜘蛛の音に対する反応の調査。

 

 足音、装備同士のこすれ合う音、幾ら慎重に進んだ所で、どうしたって消せない音があるわけで、もし蜘蛛達が振動だけではなく、音にも反応するようならば、俺達は突破する手段をまた一から練り直さなければならなかったのだから、安堵だってするというものだ。

 本来ならば、蜘蛛の視野範囲なども調べておきたい所ではある……のだが、さすがにそれは時間がかかり過ぎるし、順路をきちんと考えて進めば、危険性はかなり下がるはず。

 蜘蛛達の隠れた穴――ここから見ても奴らの姿は伺えない。と、いうことは奴らは少し奥の方に潜んでいる、と予測出来る。

 つまり、俺達ができるだけ穴の直下を通らないように壁際に寄って移動し“糸にさえ触れなければ”アイツらに見つかること無くここを突破することは可能ということだ。


 まだ多少の不安は抱えたままであるが、残された時間は多くない。俺はいい加減このエリアに入るための準備を進めることを決めた。


 身を隠していた場所から少しだけ後方へと全員を移動させ、一様に俺を見つめる走破者達に突入準備の指示を出す。


〈先ずバックパッカー達は荷物の取得選択をして荷物の大きさを調節しろ。優先順位は上から魔力回復系の薬、矢等の消耗武器、今後突破に役に立ちそうな道具、回復薬や薬草、最後に魔法で代用できる食料や水だ。どうしても多くなってしまった場合は全員に振り分け、一人が背負う荷物の量を減らすんだ。

 

 次に遠距離武器の使い手達は矢筒に必ず蓋や布を被せて中身が零れないように。進んでいる最中に落としでもしたら事だからな。

 後は全員に言えることだが、ローブの裾、腕や足の裾、亜人に関しては尻尾などを、ロープで固定するなり、布で包んで縛るなり、出来るだけ進行の邪魔にならないようにしておいてくれ。

 全員準備に手を抜くなよ。最後に確認するからなっ〉


 俺の指示を聞いて、走破者達は少し笑いながら「手なんて抜かないって、命掛かってんですよ?」等と返事を返し、各々に準備を初めていった。


 裾をまくり上げる。縛り付けて固定する。ここのエリアでは使えそうもないドリーのアース・メイクをアイビー・ロープに変更するなど、一通りの準備を済ませた俺は、隊の全体の進み具合を確認するために周囲をうろつき始めた。

 

 辺りを見渡して改めて思う事は『やはり俺の準備は相当楽な部類だ』ということだろうか。

 バックパッカーの人達は置いていく荷物を選ぶのに眉をしかめ唸っているし、遠距離武器の使い手達は、矢筒をどう邪魔にならないように持っていくかでアレヤコレヤと試行錯誤。 

 リッツやシルさん達など、互いの尻尾に布を巻きつけ、その上からグルグルと紐で縛り、尻尾のフサフサをどうにかすぼめようと悪戦苦闘をしているほどだ。

 大変そうだ、そう思う気持ちはあるのだが、どうにもその巻かれた尻尾が、割り箸で作られた〈お掃除棒〉のようで、言っては悪いがかなり間抜けな姿だった。

 

 少しだけ笑いがこみ上げてくる。

 だが、準備をしている二人は至って真剣な面持ちで、さすがに笑うわけにもいかず、俺は視線を逸らし、とりあえず二人の側から離れることに。


 再度走破者達の様子を見回っていると、一人俯くようにしている走破者が目に付いた。

 カタツムリに右肩を噛まれたあの男性走破者だ。

 ついでだし、少し声でも掛けておくか……。


「準備の方はどうですか?」


 俺が声をかけると、俯いていた走破者はピクリと右腕を動かして、ゆっくりと顔を上げる。

 視界に入った男の顔はやはり少し“蒼白”で、突入前で“緊張”しているのがこちらにまで伝わってくるかのようだった。


「……あ、ああ、隊長さんか。準備の方はもう終わってるぜ。俺としては何時でも良い位だ」

「そうですか、それなら良かったです。所であれから調子どうです? 顔色……まだ悪いみたいですが」

「そうかい? 俺としては“すこぶる調子が良い”んだがな。大体、顔色悪いのは皆一緒だろ?」

「はは、違いないです」


 調子が良い――そう言って笑う男性の顔は強がりを言っているようには見えない。

 やはり緊張していただけか? だが、念には念を入れて、隊列を多少変更してフォロー出来るようにはしておくべきだろう。何かあって体勢を崩されたりでもすれば、隊全体に危険が及ぶのだから。

 俺は頭の中で隊の配置をこねくり回しながらも、男性に『そろそろ出発ですからね』と言い残し、その場を後にした。


 一通り全員の具合を確かめ終わり、隊の配置を整える。

 先頭に俺、二番手にオッちゃん、その背後に先程の男性を――理由としてはオッちゃんは戦闘能力こそ低いが身のこなしは軽く装備も軽量、配慮も出来るし後ろのフォローも熟してくれそうだからだ。

 そこからは魔法使いを援護するかのように身の軽いものと交互に配置、中間にリッツとシルさん、後方にカタツムリに噛まれたもう一人の女性走破者を置き最後尾に岩爺さん。

 こちらの理由は至って単純で、なにかあった時に縦糸を切れそうな俺と岩爺さんを離して配置しておきたかったから。

 

 全ての配置を整えて、突入の準備は完了した……。

 湧き上がる不安と恐怖を抑えつけ、肩にいるドリーの重みで、跳ねる鼓動を沈めた俺は、

〈行くぞッ〉

 と短く吐き出した。


 ◆


 縦横無尽に這いまわる蜘蛛の糸は、まるで触れたら焼き裂かれるレーザーのようで、踏み出した足の裏に伝わる感触は、甲殻の硬さと、死骸の柔らかさが入り混じった気色の悪いものだった。

 慎重に足を上げ、下段の糸を乗り越えて、身体を捻って斜め上に走る縦糸を躱す――

 鼻先を掠めそうなほど近づいた糸を見て『呼吸で振動してしまうのでは』と恐怖を感じ反射的に呼吸を停止した。

 

 これ程……これ程までに手に馴染んだ己の武器を手放したいと思ったことは無い。

 髪を切り落としたい。耳を無くしてしまいたい。荷物を放り捨ててしまいたい。

 自分の身体が蛇のように細長かったら、小人のように小さければ、そんな馬鹿げた幻想を抱かずには居られなかった。

 

 また一歩足を踏み出していく――足の向かう先は、死骸の大地。

 地面から少しだけ突き出た蟲の腕を、踏みつけぬよう慎重に足を下ろし、ギュッギュ、と足裏に力を入れて問題ないか確かめる。

 気色悪い……だが、足場を確かめないで踏み出せば、思わぬ所で体勢を崩しかねないのだから今は我慢するしかないだろう。

 

 もう少し、もう少しいけば一息つける。そうやって自分を励ましながら少しづつ少しづつ足を進めていく。

 乱雑に張り巡らされた蜘蛛の警戒網は確かに非常に厄介だ。しかし、逆に規則性を持たずに張られているためか、所々に開けた場所があるのが見受けられる。

 今俺達が向かっている先もそんな場所の一つ。

 取り敢えず、そこまで行ければ安心……とまでは言わないが、一息位はつけるだろう。


 集中を切らすな。感覚を研ぎ澄ませ。


 左手の荷物を抱え込むようにして縮め、右肩に担ぐようにしていた武器を先に向け、糸の隙間を通していく。

 開けた場所まで後わずか――だが、そんな俺を遮るかの如く、少し先に半透明の血管が地面を横切るようにして脈動しているのが目に入る。


 ――踏んでも大丈夫なのか? 

 余り不用意に通りたくはない……だが、幾ら周囲を見渡してみてもここを迂回できそうな道は見当たらなかった。

 どう足掻いても先に進むには、ここへと足を踏み入れないとならないらしい。

 俺は恐る恐るといった動きで血管を武器の柄でつつき、強度を確かめる。

 グニャリ、と柄から伝わる感触は酷く柔らかく、少し厚めの水風船をつついたようなものだった。しかし、少々強めに押し込んでみても破れる様子も無く、人一人位なら乗っても問題ない事が伺えた。


 慎重に血管へと足を下ろす……。

 どうにも頼りない足場の感触に思わず恐怖が湧き上がるが、やはり破れたりはしないようだ。

 少しだけ安心した俺は、左足に残していた体重を前へと移動させた――瞬間。

 ゴボッォ……と足が沈み込む。


 ――なッ!? どこまでッ?

 あり得ないほど柔軟に際限なく踏み出した足を受け入れていく緑色の足場。想像だにしていなかった柔らかさに傾ぐ身体。

 自分ではどうしようも無いほどに重力に引かれていく身体に、俺の心臓がキュッと縮まり呼吸が止まる。

 

 拙いッ、どうする、どうしたらいいッ!!

 

 揺らぐ視界。混線する思考の中で“俺”には迫る縦糸を回避する手段はなかった。 


『相棒ッ、身体に力を入れてっ』


 ドリーはそういうやいなや俺の手から槍斧を奪い――血管を避け、糸を避けて、槍斧の柄尻を地面に突き立てる。

 グンッ、と身体に力が掛かり、倒れこんでいくだけだった俺の身体が糸の眼前で停止……した。

 助かった。その事実を確認して、俺の背筋に一気に冷や汗がにじみ出て、止まっていた血流が身体の隅々にまで流れこむ。

 ギチギチと身体に力を込め己の手で武器を掴んだ俺は、眼前の糸に触れないように、ゆっくりと身体を起こす――。


「わ、悪いドリー。助かった……」

『いえいえ、相棒を助けるのは当然のことですっ』


 当然だ、そう言い切るドリーの言葉はとても頼もしい。

 やはり……何が起こるか分からない先頭というポジションに、ドリーのフォローを受けられる俺が立ったのは正解のようだ。


 どうにか大事にならずに済んだことに、ホッと息をつく。

 背後から掛けられたオッちゃんの『大丈夫か?』という言葉に片手を上げて返答した俺は『この場所の情報を後方に伝えてください』と言い渡し、武器を支えにしながらも、改めて血管の足場に踏み込んでいった。


 さすがにもう同じ過ちは犯す事は無く、無事に血管を乗り越える。

 続くオッちゃんに手を貸し支え、乗り越えたオッちゃんは更に後ろへとフォローを入れる。

 時には荷物を受け取り、時には互いを支え合う。

 幾つもの危険な区域を乗り越えて、襲いかかるモンスター達から回収した命結晶で身体能力を底上げされた走破者達は、ここに入った当初と比べ明らかに成長しているようだ。

 

 厳しい状況だけど乗り越えられる……。

 

 頼もしいそんな皆の姿と、胸に湧いた希望を抱え、俺は隊という名の一つの群れを、ただひたすらに前へと率いていった。



 幾つかの開けた場所を経由して、着々と奥へと足を進めた俺達は――既にこの区域を七割ほど進んだ場所にまでたどり着いていた。

 残る道のりは後三割、さすがにここまで来ると不安定な足場にも、張り巡らされた糸にも大分慣れてきており、当初のような危なげな足取りでは無くなっていた。

 

 後休めそうな場所は三つ位か……今のところ蜘蛛が穴から出てくる様子はないな。


 チラリと視線を動かし天井の穴へと目を向ける。

 なんの動きも無く、なんら変化を見せることも無く、ただ不気味に口を開ける狩人の巣穴は未だ静寂を保ったままだった。

 だからと言って警戒を怠る気は無いし、気を緩めるつもりも無い。

 慎重に、まるで全身甲冑で身を守るかのごとく万全を期す。


 ジワリジワリと近づく半径十メートル程に開けた空間――そこにようやく足を踏み入れた俺は、強ばっていた身体を解しながらも次の道筋を見極めていた。

 一番大事な事柄は“いかに糸が少ない箇所を見つけるか”だ。

 それを踏まえて見れば、俺達が取れるルート選択は限られている。


〈真っ直ぐ――は最初は良いけど後がキツイな。途中から左に折れるか? いや穴には近づきたくないし……〉

『相棒っ、ここは多少遠回りにはなりますが右に折れて少し壁際を進んでみてはどうでしょうっ?』

〈えっと、おお、確かに右なら……よし、それが良さそうだな〉


 何度か見なおして問題ないと判断した俺は、ドリーの示した道筋を受け入れる。

 後は、俺に続いてこの空間に入ってきているだろうオッちゃんに、今の情報を伝えるだけだ。

 万全だ。油断もしていないし、警戒だって解いてはいない。

 ……筈だった。


「――――ッガ!?」


 唐突に――鋭く、危機感を抱かせる短い悲鳴が俺の耳を打つ。ビクリと身をすくませ、反射的に振り返る。

 

 え……な……んで?


 視界に入れた光景を見て、俺は心に抱いた疑問の言葉すらも口から吐き出せなくなっていた。

 

 倒れた男と鮮血に染まった剣を持つ男が見えた。

 刺した男はカタツムリに噛まれたあの男性走破者で、倒れている男はオッちゃんだった。


「ッガ!? 嗚呼アッ」


 警戒という名の堅牢な鎧、その隙間にヌラリと差し込まれたナイフの如き凶刃が、倒れこんだオッちゃんの腹部を容赦無く抉り――苦痛に耐え切れずに吐き出されたであろう悲鳴が漏れる。


 意味がわからなかった。状況が全く把握出来なかった。身体は麻痺した様に動かなくなり、頭の中を『何故』という疑問の言葉が埋め尽くす。

 何故……

 何故、仲間であるはずの男があんな真似をしている。

 何故、オッちゃんが腹を刺されている。

 何で……何で剣を持った男の右半身が“あんな事”になっているんだッ!! 


 その異常を視界に入れ、俺の喉は恐怖からかコヒュッ、と音を立てた。

 白目を向いた右目、涙を流している左目。

 剣を持った右腕、それを必死に抑えている左腕。

 縦に割ったかのように――男の右半身、外気にさらされた手、腕、頬、その全てをどこかで見覚えのある“目玉”が覆い尽くしていた。 


 何だあれは、なんだアレは、なんだあの目玉はッ。


 だが、混乱して動けなくなった俺を置いてきぼりにして、更に事態は加速する。

「おい、どうしちまったんだッ、何やってんだよ止めろッ」

「し、しらっ、アタシ、止められ……な」

 最後尾、岩爺さんのいる辺りから切羽詰まった走破者の声が。

 

 ぼぅ、と真っ白になった頭を動かしそちらに目を向けると、今度は左半身に同じように目玉を開かせた女性走破者が、一人の男性走破者と争っている様子が映る。

 彼女もまた、カタツムリに襲われた走破者の一人だった。

 それに気がついた瞬間――ギチィ、と留め金を外されたかのように思考が音を立てて回る。

 引かない痛み。カタツムリ型のモンスターに襲われた二人。

 そして何処かで見覚えのあるあのビッシリと張り付いた目玉は“カタツムリの触角に付いていたものと同じ”ものだ。


 やっぱり毒か何かがあったのか? いや違う、毒じゃない……あれは明らかに違う。


 開いている目玉は明らかに身体の内部から出ているし、あの二人の走破者は明らかに自分の意思とは無関係に動いている。

 乗っ取られている……動かされているのか、しかも身体に入り込んでって事は、まさかカマキリモドキに居たような寄生虫? 

 知らない。俺は知らない。カタツムリに寄生虫がいるなんて聞いたことも無い!!


 今も聞こえるオッちゃんの苦痛の声と、隊全体に広がっていく混乱と恐怖。

 俺自身今にも叫びだしたいほどの恐怖を感じ、未だ混乱から抜け出すことが出来ていなかった。


『相棒ッ、相棒ッ! しっかりして、急いで、急いで前を向いてくださいっ』


 いつの間にか俯いてしまっていた俺は、ドリーの必死な声音に反応し、ビクリと顔を上げた。

 

 先程までオッちゃんの腹を抉っていた男性走破者の剣は、今は高々と振りかぶられていて、その目標はオッちゃんの首へと定められている。

 男自身必死に止めようとしているのか左手で右腕を掴んではいるが、徐々に身体の自由が効かなくなっているようで、抑えている力が弱まっているのが目に見えて伝わってきた。

 

 動かないと、助けないと……いや、誰をだ、どっちをだ? 

 止めを刺されそうになっているオッちゃんを? 操られてしまっているだろう男性走破者を?

 まて、無理だ。もう手遅れなんじゃないか。明らかに身体の内部にまであの目玉は巣食っている。どうやって助けるっていうんだ。


 早く動かないと、間に合わなくなる。


 焦る感情と、どうすれば良いか分からなくなって絡まる思考。

 オッちゃんの付近にいる走破者達も、余りの惨状を目にして、まともに動く事すら出来なくなっている。

 

 動かないと、動かないと、動かないと。

 

 加速する呼吸が俺の脳へと酸素を過剰に送り込み。視界の端が徐々に白くぼやけていく……。

 俺の目に映っているのはオッちゃんと剣を振りかぶる走破者の姿だけ。

 振りかぶられた剣。抑えきれなくなって緩む左手。そこまで確認し、俺の視界と思考は全てが真白に染まった――――。


「――――嗚呼ッ!!」


 悲鳴。血しぶき、斬り飛んだ首。

 俺の意識が戻り、初めて聞いた声がソレで最初に見た光景がソレだった。


 首から上が無くなった“操られていた男の身体”はゆっくりと地面に倒れ込み、首をはね飛ばした“俺の武器”から赤い液体がボタボタと音を立てて地面に落ちている。

 俺は……無言で振り切った武器を一振り、垂れていた血を飛ばし、続いて最後尾に向かって。

「岩爺さん“命令だ”……斬れ」

 そんな言葉を口にした。


「クロ坊、命令は拒否じゃ。儂は儂の意思で切るッ」


 ――斬。

 糸を器用に避け、短く描かれた赤い剣閃がチラリと視界に入ったその時。

 落ちた首は二つに増えて。隊の人数が二人減った。

 

 荒んだ呼吸は未だ戻らない。重くなった頭は若干フラついていた。武器を握っていた右手を呆然と見つめ一人心のなかで呟いた。

 俺は……俺はオカシイのか?

 殺した。命を奪った。

 今まで生きてきて生まれて初めて人を殺した……なのに、抱くべき忌避感は異常な程に薄い。

 既にこの危険な世界に染まってしまっているからなのだろうか。人型のモンスターを散々切ったからなのだろうか。

 肉沼で捕まっていた人を見殺しにしたからだろうか。逃したとはいえ、クロムウェルを斬ったからだろうか。

 命を奪った嫌悪感はそれほど無く。映画などで見る吐き気を催す気配もない。


 ただ、俺にあるのは『仲間をこの手で殺した』といった、そんなどうしようも無いほど濁り淀んだ罪悪感だけだった。

 ピリピリと痛む左手に気が付き、ゆっくりと手の平に視線を向ける。

 どうやら力を込めて握っていたせいか、篭手のひら側を覆っている薄い生地からジワリと血が滲んでいた。

 

 この騒ぎでも未だ蜘蛛が現れる様子が無いのが唯一の救いではあるが、今はそれを喜ぶことなど出来そうはもなかった……俺の背中に掛かっていた重みは既に耐え切れなくなるほど重みを増し――ビキリッ、と心にひびが入る音がした。

 

 落ちて行く、ただ落ちていくばかりだった気分だったが……

『まだですッ、相棒気をつけてくださいっ』

 ドリーの発した警告と、

「畜生、何だコイツら、なんだコイツらはよぉッ」

 近くにいた走破者の悲鳴にも似た声で、強引に寸断される。

 

 っぐ、悩む暇すら……死んでいった人達を思う暇すらないのかよッ。

 

 視線を巡らし、急ぎ何が起こっているのかを確かめようとしていると。

 ――ギィ、ぎぃ、ぎぃ、ギィィィ。

 嫌悪感の湧く錆びきった金属の如き鳴き声が聞こえてきた。

 音の発生源をたどってみると、先ほど俺が首を狩った男性の死体から。


 ――っぐ!?


 動くはずが無い死体の腕が鳴き声と共にビクリと跳ね上がり、皮膚に蔓延っていた眼球がヌラリと生々しい音を上げて盛り上がる。

 ズルズルと這い出るようにして死体からその身を外気にさらした奇妙な虫は、どうしようもなく嫌悪感を促す醜悪な姿だった。

 先端に付いた目玉そこから伸びた蛆虫にも似た丸く縦長の胴体、頭部であろう周辺にはプツプツとした赤い斑点が浮かび、最後尾からはダラリと伸びる糸のような白いナニカ。

 まったく記憶になく、生まれて初めて見る奇妙な蟲。

 

「……ヒィッ!?」


 余りの事態に引きつるような悲鳴が上がる。恐らく近くに居た走破者のもの……いや、もしかしたら俺が無意識に上げた声だったのかもしれない。

 死体から次々と蟲が出てくるその光景はまるで悪夢。

 俺は、粟立つ肌と、全身を掻き毟りたくなるような不快感、本能的な恐怖から大声で叫びだしたくなる衝動を、必死でこらえることしか出来なくなっていた。

 

 這うようにして外へと出てきた蟲達は地面をうねりながら進み、オッちゃんの倒れている場所と、未だ糸の最中で自由に身動きが取れずにいる走破者達の元へと進路を向ける。

 再度悲鳴が上がった。

 目に見える範囲全ての走破者達の表情は等しく恐怖に彩られ、顔を蒼白に染め上げ焦りに隊列を乱す。

 ……俺達は一瞬で、たった一瞬で混乱の局地へと叩きこまれていた。


 ――落ち着け、落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着けッ!!


 張り裂けんばかりに鳴り続ける心臓を左手で握るようにして抑えつけ、震えが止まらない足を、死骸の大地に力いっぱい踏み下ろす。

 悩んでいる暇なんて無い。落ち込んでいる暇なんて無い。

 心にヒビが入ろうが無理矢理上から塗り固め、理性がえぐり取られようが上辺だけでも埋めてしまえ。

 まだ……まだ……この程度、持ち直せッ。立て直せッ。

 今生きているものを生かすため、苦しんでいる仲間を救うため、俺はギシリ、と一度だけ奥歯を鳴らし、この状況を打破するために動き出す。

 武器を手に取り地面を蹴り上げる。向かう先は後列に向かう目玉蟲。

 俺一人ならこの状況でオッちゃんは救えなかっただろう。だが、俺にはドリーがいるッ。


「ドリーはオッちゃんに向かった蟲を頼むッ! 後、そこで怯えてるアンタッ。ドリーと一緒に回復薬と魔法でオッちゃんの治療だ、急げよッ」

「は、はいっ」

『相棒。きっと守って見せますから、安心して下さいね……』

 

 ふわりと俺の頬を一撫でしたドリーはナイフを手に肩から飛び降りる。

 背後から聞こえてきた『フィジカル・ヒール』と魔名を唱えるドリーの声は、俺の背中を押してくれているようだった。

 這いまわる目玉蟲を全力で追いかけ、糸の隙間で動けなくなっている走破者達に向かう前に補足する。

 槍斧を全力で振り下ろし、叩き潰し、地面ごと割るような気持ちで踏みつぶす。

 見た目の醜悪さやその特性の嫌らしさほどにはコイツら一体一体の力は強くはなく、ただ叩き殺していくだけなら酷く容易い事だった。


 こんな奴に、こんな奴の為にッ!


 全ての怒りをぶつけるように一匹一匹を確実にひねり殺していく。

 冷静にならねばいけないことくらい、分かっているし、理解もしていたが、どうにも感情が収まってくれはしなかった。

 俺の周囲に見える全ての蟲を殺し、荒くなった呼吸を吐き出している内に、はたと蟲に寄生されたものがもう一人いたのだと思い出す。


「こっちに来るなッッ。止めろ離れろよ。畜生!」


 恐怖に怯える男の声が響く。先ほど蟲憑きになっていた女性と争っていた男性の声だ。

 急ぎ視線を向けると、糸に囲まれ動きが取れないせいで、振り払うことが出来ず、混乱して恐慌状態に陥っている男の姿が映る。

 腕や足付近に這いまわる蟲を、そばにいた岩爺さんがどうにか切り払ってはいるが、周囲の糸が邪魔をして思うように動くことができないようだった。

 ――ギィ。

 鳴き声を上げた蟲の頭部回りが急にバクリと割れて、小さな無数の牙が生えそろった口で男の腕にギチギチと歯を立てた。


「ああ、嫌だ、来るなあッツ!!」

 

 男性は体内に強引に入り込もうとしている蟲を見て、自分が先ほど死んだ走破者と同じようになるかもしれないという恐怖に駆られたのか、悲鳴を上げて噛まれた腕を振り始める。

 どうにかしないと、そう思ったが、この位置から俺が出来ることなど何もなく、近くに居る岩爺さんでさえ、自分に群がってくる蟲の相手と、男に群がっている蟲を少し払ってやることで精一杯のようだった。

 暴れた男の腕が、スローモーションの様にゆっくりと動いて見えた。吸い込まれるようにして縦糸にぶつかっていくのを確認した。

 

 ――岩爺さん、腕を切り落とせッ!

 

 そう叫ぼうとしたが遅く。既に恐慌状態にあった男の腕は張り巡らされていた糸にぶつかり盛大に振動させていた……。

 ガサ……がさがさがさがさがさッ。

 事態はどこまでも最悪に、止まること無く加速する。

 天井から一番聞きたくなかった音が聞こえ、三匹の蜘蛛がノソリと穴から現れた。


「岩爺さん、縦糸を斬れッ! 今すぐにッ」

「相わかったッ」

 

 ――ギィィイイン。

 岩爺さんがそういうやいなや、金属板を無理矢理裂いたような金属音が響き渡り、その周囲に張り巡らされていた縦糸がブツブツと音を立ててちぎれ飛ぶ。


「ちぃッ、クロ坊、斬れるには切れるがちと硬いぞッ、気ぃつけい」

 

 仕込杖を持った腕をおさえるように片手を当てた岩爺さんが憎々しげにそう叫んだ。


 岩爺さんがあそこまで言うんだ相当な強度だったのだろう。縦糸であれだ……横糸を切るのは諦めた方が良いかもしれない。


 ッチ、と舌打ちを鳴らし、こちらに迫ってくる蜘蛛を見据える。迫る蜘蛛の威圧感はかなりのもので、その八本の腕は見ただけで凶悪な力を宿していることが伺える。

 接近されたら確実に拙い、近づける前に倒さないと……。

 幾ら縦糸を斬ったからといって、いつものように自由に動けるわけじゃない。重量級のアイツら相手に接近戦なんて馬鹿げている、と判断を下す。


「糸に囲まれた者達は岩爺さんの開いた場所か、俺のいる場所まで直ぐに移動しろ!

 矢筒を開けろ、魔法を放て、絶対にあの蜘蛛をこっちに近づけさせるなッ!!」


 必死に叫んだ俺の指示を聞き、恐怖で縮こまっていた走破者達がはじかれるように動き出す。


『フレア・ボムズ』

 炸裂する火球が。

『ボルト・インパルス』

 幾重にも分かれた雷撃が。

『ウィンド・スプリット』

 切り裂かんと飛ぶ風の刃が。

「隙間を通すように撃ってッ、当たらなくても良いから早くッ」

 リッツの魔弾と飛び交う矢が。

 次々と蜘蛛に向かって放たれて、こちらに近づけまいと襲いかかる。

 ……が、糸に当たって霧散する魔法。腕に落とされ皮膚に弾かれていく矢弾。

 

 俺の思いは届かなく、蜘蛛を止めることなど叶いはしない。


 全ての攻撃を弾き返した一匹の蜘蛛がおもむろにこちらに背を向けると、そこに貼りついていた巨大な人面がニタリと獰猛な笑みを浮かべた。

 

 ――ゔあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ア!!


 大気を震わす咆哮がエリア内を振動させ、その余りの声量に、走破者達の動きが凍る。

 耳を塞ぎ、恐怖で身体を麻痺させて、がくがくと身体を震わせた。

 その効果を見て、すぐにソレがなんなのかが思い当たる。

 肉沼でも聞いた《恐慌の雄叫び(スケアリー・ボイス)》


 駄目だ、このままじゃ拙いッ!

 動けそうなのは相変わらず効果が無い俺とドリー、それに岩爺さん。後は多少動きが鈍っているがシルさんくらいだろうか、どういう基準で効果が出ているのかは知らないが、後の者は全員身動きが取れなくなっており、蜘蛛の足止めをすることなど出来そうにはなかった。


 ドリーはオッちゃんを見ているし動けない……俺と岩爺さんでどうにかしないと。 


「岩爺さんと俺で蜘蛛の相手を。シルさんはぶっ叩いてでも良いから近くの人達を正気に戻してくれッ」

「それしかないじゃろな」

「はいー、頑張りますねー」


 俺から少し離れた場所で仕込杖を構えて蜘蛛を迎え撃つ岩爺さんと『ゴメンナサイー』と言いながらも全力で頬を張るシルさん。

 俺は俺で縦糸を伝いワサワサと腕を動かし迫る蜘蛛に武器を向ける。


 斜め上――七メートル程前方にまでやってきた一匹の蜘蛛が不意に腕で身体を持ち上げて、後部をこちらに向けて身体を一度揺すった。

 アレは……拙いッ!

 思考に走った危機感に素直に従い身体を左へと投げる。

 ――シュッ。

 そんな音と共に蜘蛛の後部から白い一本の糸が飛び出して、俺が先ほどまでいた場所へと新たな縦糸を創り上げる。


 あーもうッ、嫌な予感が当たっちまった。


 その一本を切欠に蜘蛛達は俺達の元に降りてくる事もせずに延々と縦糸と横糸を吐き出しながら、俺達に残された少ない空間を削り取っていく。

 徐々に徐々に逃げ場が失われていき、糸を避けるのが困難になる。

 どうすれば、何か、何か打開策は無いか。

 焦りながら辺りを探っていくが、視えるのは震える走破者の姿と創り上げられていく蜘蛛糸のみ。

 

 視界の端でドリーがナイフを手に取りこちらに向かって来ようとしているのが目に入る。どうやらオッちゃんへの応急処置が終わったようだ。

 よし、ドリーが居れば糸を避けるナビをしてもらって俺は糸の切断に集中出来る。今よりは大分マシに……。


『相棒ッ、危ない!!』


 混乱、恐怖、少しの安堵、いろいろな要因が混ざって渦巻き、俺の注意をほんの少しだけ緩ませていたのかもしれない。

 そんな針を通すかのような小さな油断を、偶然なのか狙ってなのかは知らないが、通すようにして蜘蛛の糸が掻い潜った。

 

 ま、拙い、しまっ……た!?

 

 ――べチャリ。

 右手に直撃した糸は、弾力性のある横糸で、俺の武器と腕を地面に縫いつける。引き千切ろうと腕を振るった俺の左半身に更にべチャリと糸が絡みついた。

 もがけばもがくほど絡まり逃れられなくなる蜘蛛の糸に俺の自由は奪われる。

 

 身動きが取れなくなった俺の視界に映ったのは、岩爺さん、シルさん、リッツ、皆が次々糸を受けて動けなくなっていく姿だった。

 

 キチチチィ、堅く打ち合わされた蜘蛛の鋏角先端から生え出すようにして一本の細い針が現れ、身動きの取れなくなった仲間の腕や足、様々な箇所に容赦無く打ち込まれていく。

 ビクリ、身体を震わせ動きを止めていく仲間の姿。助けることも出来ず、動くことも儘ならない俺の身体。

 こちらに向かって来ようとしているが一匹の蜘蛛に邪魔されて思うように行かないドリーの姿。

 生きているのか死んでいるのか分からない仲間の姿に不安と恐怖が渦巻いて、同時に俺の思考は怒りで煮えたぎっていく。


「おい、止めろって、やめろって言ってんだろこの糞蜘蛛がッ! 止めろって止めてくれよッッ!」


 吠えるように叫んでみても、全力で糸に抗ってみても、蜘蛛は止まらない。

 グルグルと乱雑に糸をまかれ、繭のようになっていく皆。俺の叫びに反応して、ギョロリとこちらに目を向ける蜘蛛。

 やがて一匹の蜘蛛が俺の元へと近づいてきて、左腕にブスリと針を差し込んだ。

 

「っがああ!」


 鋭い痛みが身体に走る――がそれだけだった。皆のように動けなくなることもない、意識を失うようなこともない、多少の変化と言えば指先がすこし麻痺したように鈍くなっているだけだった。


「糞がッ、この野郎ッ、離れやがれッ!」


 まだ多少自由が効く左足を、眼前に居た蜘蛛へと向かって振り上げて、その頭部をガスガスと蹴りつける。

 全力で、恨みを込めて、ただ蹴りつけていく。

 離せ離せ、俺を離せ、仲間を離せ、これ以上触るなッ。畜生、畜生畜生ッ!


 ――キチキチキチ。


 煩わしそうに鋏角を鳴らした蜘蛛は少し不思議そうに頭部をかしげた後、俺の頭上に一本の豪腕を振り上げる。

 俺の目の前の空間をヒラヒラと蒼い蝶が飛びかっってまるで『止めろ、やめろ』と蜘蛛に言い聞かせているようだった。

 だが、そんな事で蜘蛛が止まるはずが無く、俺の視界の中で握りこまれた拳が大きくなっていった。

 ちく……ちくしょう。 

 ――ゴッッ!!


 暗く、落ちる意識。電源を突然抜かれたかのように俺の目の前は暗闇に閉ざされた。



 ◆◆◆◆◆



 相棒の元へと急がないと、早く行ってあげないと。

 ただそれだけをひたすらに考えて、私は目の前の蜘蛛に向かってナイフを振り回す。


 上手くいきません。思うように力が乗りませんっ。


 相棒の居ない今の私では、蜘蛛の大きな身体を満足に切り裂くことは出来ず、突破しようにも私の根足では速度が出せない。

 

 ――どうして、どうして私はいつも肝心な所で役に立たないんですかッ。

 

 足があれば駆け抜けられるのに、左腕があればもうひとつ武器を持てるのに。

 いつも、いつも、いつも、私は満足に相棒を守ってやることが出来ない。

 泣きたくなるほどの無力感が襲いかかってくる。でも私にはその涙を流せる瞳は無い。

 張り裂けんばかりの悲しみが覆ってくるが、私には鳴らせる心臓が無い。


 無い、何も無い。相棒が居なければきっと私は私ですら無くなってしまうだろう。

 唯一あるものといったら、相棒がいつも褒めてくれるこの右腕だけ。なのにその右腕だけでは今はどうすることも出来なかった。

 

 振り上げられた蜘蛛の腕が、相棒へと向かって打ち下ろされていくのが見える。


『止めて、やめて下さい。お願いです。やめて下さいっ』


 必死になって止めようとするが、言った程度で止まるわけもなく、相棒の身体に巨大な拳が叩きつけられた。

 ――ゴッ、と鈍い音がして、相棒の身体がグタリと力を失い、身じろぎ一つしなくなる。

 嫌です。相棒が居なくなるのは嫌ですっ。

 魂から湧き上がるような恐怖と迫ってくる消失感に只々混乱して焦りが生まれていく。


 どうすればどうすれば、私だけで一体何が出来るというのでしょう……。


 重くてドロドロとした嫌な思いがグルグルと回り始める……。


 が、落ち込み切ってしまう寸前に、視界の端で、糸に巻かれ始めた相棒の指がピクリと動いたのが見えた。

 巻かれた繭からはみ出したほかの皆の腕や指が時おりビクリと跳ねるのが見えた。

 生きている。皆まだ生きている。諦めてはいけない。まだ絶望するには早すぎる。

 

 私が助けるんです。皆さんを、そして大事な大事な私の相棒を……。

 

 希望の種を花咲かせ、決意という名の実を実らせる。

 蜘蛛達は私を気にかける様子すらなく、グルグルと武器ごと荷物ごと乱雑に皆を巻いていく。

 

 直ぐに助けに行きたかった。直ぐにそばまで近づきたかった。でも……今は駄目。今は我慢をするしかない。

 もし私がここで暴れてしまえば、身動きがとれない皆がどうなるかわからない。一匹位なら魔法を使って時間をかければどうにかできるかもしれないけれど、相手は三匹もいる。

 今ここで我慢せず飛び込んでしまえば、これから先――来るかもしれない救出の好機を逃してしまうかもしれない。

 動き出したい気持ちを押しとどめ、ナイフの柄を握りしめて我慢を続ける。

 やがて全員を巻き終えた蜘蛛は指先から伸ばした何かの液体が塗られた爪で糸を切りながら、相棒達が包まれた繭を引きずって奥へと歩き出していく。


 追いかけないといけませんっ。


 ただ、このまま追いかけてもきっとどこかで見失ってしまう。そう感じた私は、蜘蛛が引きずっている繭に向かってアイビー・ロープを伸ばし、絡め捕まえる。

 ズリズリと地面を引き摺られながらも『離すもんかっ』と蔦を握り締め、蜘蛛が向かう先へとついていく。

 ヒラヒラと舞い、私の腕に止まった蝶子さんの姿は『元気をだして』そう応援してくれているようで、とても嬉しく心強く感じてしまった。



 ◆◆◆◆◆



 遂にリドルの街にシルクリークの兵隊さんがたどり着いてしまった。

 

 大通りを抜けて南門近く――とても大きな布切れをローブのように上からかぶり、オラは路地へと身を隠して通りの様子を伺っていた。

 

 視界に入ってくるのは百名程のシルクリークの兵士の姿。

 曲刀の紋章を背中に貼り付け、砂色の服と銀の軽鎧を着こみ、口元には同色の布を巻いている。

 その布から少しだけ見えている兵隊の瞳は、酷く虚ろで、不気味な印象だ。

 だが、兵隊はまだマシなほうなのかもしれない。先頭を歩く巨悪な大槌を肩に担いだ鉄仮面の不気味な戦士のほうがよっぽど恐ろしいのだから。

 錆びついたかのような金属鎧を全身に着こみ、肌も髪も瞳も、一寸足りとも垣間見せる様子はなく、周囲に撒き散らされている殺気と強烈な威圧感はみているだけで身体が震えてくる。


 やはり隠れていたのは正解だっただで。亜人差別をしている国の兵隊さんだし、あれだけオッカナイんだで。

 何か問題が起こったらきっとオラじゃどうしようもないだよ……。

 あ、でもあの隣を歩いているローブの人はそんなに怖くないかも。


 恐怖を和らげるために向けた視線の先には、茶色いローブを目深に被った小柄な人物が。

 別段戦士の人や、兵士ほど不気味な印象は無く『あの人なら普通に話しかけられそうだ』と思わず思ってしまうほどだ。


 それにしても、あの後に引かれている荷馬車は食料? だとは思うんだけんども……態々持ってきてくれたんだろうか?

 

 兵士達が引き連れている荷馬車が揺れた時に一瞬見えた中身それはどう見ても食料のようだった。

 亜人も居る筈のこの街に態々と食料を持ってきたと言うことは、もしかしたら噂ほど悪い人たちではないのかもしれない。

 

 良かった……と安堵の溜息を零す。

 

 再度通りへと目を戻すと、進行を止めた隊の先頭で、鉄仮面の戦士が武器を肩に担いだまま住民に周りを囲まれ、堂々と立ち止まっていた。

 何が起こるのかと暫くじっとしていたオラの耳に戦士の言ったトンデモナイ発言が通り抜ける。


【……我が王からの慈悲により、国からからリドルに食料の施しだ。遠慮無く受け取れ。

 だが、勘違いしてはいけないことが一つある。この食料は“住民”に対してのものだ。

 家畜にも劣る亜人には決して与えるな】


 先ほどまでの期待に満ち溢れていた空気が、ざわり、と変貌する。

 膨らむ殺気と不満、戸惑いと怒りの感情が徐々に膨らんでいき、

「ざけんなよこの野郎ッ! シルクリークからわざわざ出てきたってのに、また手前らの好き勝手言いやがって。

 お前らの施しなんてこっちから願い下げなんだよッ。兵士だって百人程度しかいねーのに、相変わらず人様のことを家畜扱いたいい度胸してるじゃねーかッ!」

 ギラついた瞳をらんらんと輝かせ、殺気の篭った怒声を上げる亜人の男を切欠に爆発した。


 溜め込まれた不安。虐げられてきた不満。リドルで擦り減らされ、荒んできた感情の波は、止まること無く荒れ狂う。

 中央にいるシルクリークの兵士に向かって次々と罵声が飛びかい、周囲の熱気が上がっていった。

 だが、そんな事はお構いなしに、大槌の戦士はくぐもった声を響かせる。


【リドルには家畜以下の糞の役にも立たない獣が住み着いているようだな。掃除が必要か?】


 なんてことを言うんだでこの人達はっ。

 侮蔑ではない差別でもない。彼らは心からそう思っているのだ、とハッキリ感じる程に何の躊躇いもなく言い切った。

 さすがに隣にいた茶色いローブを着た人物も焦ったのか、戦士の男の腕を叩き、焦った様子で何か話しかけている。

 だがもう遅い。


「いいかげんにしろよこの糞鉄仮面がッ! ここはシルクリークじゃねーんだぞ調子にのってんじゃねー」


 だ、駄目だで、さすがにそれはいけねー。

 怒りに震え、武器を取った亜人の男。

 男は恐らく走破者なのだろう。力強い腕にはち切れんばかりの力を込めて、鉄仮面の戦士に剣を引き抜き斬りかかる。

 幾ら何でもそれは浅慮に過ぎる。だが、とめようにもオラからでは距離が離れすぎており、到底間に合いそうも無い。

 振りかぶられた剣が戦士の腹に向かって突き出されたのを見て、オラは思わず目を閉じた。


 ――ズグッ。鈍い肉を裂く音が聞こえてきて、恐る恐る目を開いてみると、そこには予想外の光景が広がっていた。

 亜人の剣は確かに命中していた。肩に大槌を担いだ戦士――その前に立ちはだかったシルクリークの兵士の腹に、深々と……。

 

 な、なんで。


 驚愕に身体が止まってしまったのか亜人の男は目を見開き凍り付いている。

 だが、それすらお構いなしに、腹の剣へと手を掛けた兵士は、痛みすら感じていないかのように自らの手で剣を引きぬいた。

 血まみれになった手をそのままに、兵士は虚ろな瞳を鉄仮面の戦士へと向ける。


【躾すらなっていない家畜なぞ、糞の役にも立たん。歯向かうものには遠慮はいらん。亜人を庇うものにも遠慮はいらん。

 制圧しろ。踏みにじれ。我が王の名のもとに】


 遠慮はいらない。その言葉通りに震われた戦士の大槌が――轟、空気を巻き上げ、亜人の上半身を躊躇いなく吹き飛ばし、

 戦士の命に――応、と叫んだ兵士が整然と動き出す。

 空気が変わる気配が変わる。歯向かう亜人を叩き伏せ、武器を手に取った亜人はなんの躊躇いもなく切り殺す。

 亜人をかばおうとした人間でさえも蹴りつけ、シルクリークの曲刀軍が辺りを支配していった。


「ちょっ、ちょっとッ。いい加減にしてくだせーよ旦那、あっしは旦那が暴れすぎないように、お目付け役で来てんですからね?

 ああ、何でこんなことに、どうにか止めたほうが……いや、さすがにここで使うわけには」


 先ほどまで小声で離して居たローブの人物が、オタオタと焦りながら鉄仮面の戦士に話しかけている。その声はどこかで聞いとことがある男性の声だった。

 

【王の望むままに動くのが我が使命。身の程もわきまえず逆らった亜人を許していい筈がない】

「あああ、話になりゃしないッ!」


 ガシガシとローブのを上からかきむしったせいで、偶然にもオラの目に男の顔が映った。

 ……な、なんでここにあの走破者がいるんだで。

 混乱する頭を押さえつけながら、もう一度男の顔を確認した……。

 間違いないあの鷲鼻の男は『ラッセル』そう呼ばれていた走破者だ。


 何で、ここに。あの影のバケモンに連れてかれたんじゃなかったんけ? 上手いこと逃げ出したんだろうか?

 あーオラには全然わかんねーだよ。

 

 アワアワと頭を振って『メイどんが居れば』と思わず今は居ない仲間に縋ってしまいそうになる。

 と、取り敢えずこのままここにいたら絶対まずいだよ。急いで戻らねーとッ。


 あのラッセルという男が自分達のことを恨んでいるかまでは分からないが、確実に良い感情を抱いては居ないことくらいはわかる。

 更にどういうことかシルクリークの兵隊と一緒に居る今、見つかったら絶対に碌な事にはならない。

 避難所の中にも亜人の被害者はいるし、早く戻って今のリドルの現状を教えてやらないと拙い。


 焦りに焦って何度か躓きながら、オラは中央の避難所へと向かって走りだした。







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