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俺の人生ヘルモード  作者: 侘寂山葵
蟲毒の坩堝
70/109

6−17


 



 メイどん達が出発して“八日”の朝。

 朝靄あさもやが漂う中央避難所の中庭で――オラは樽のような大きさの鍋に突き込んだ『かき回し棒』を一人グルグルと動かし続けていた。

 最初に外に出た時は朝ということもあってか、それなりの寒さを感じたが、この大きさの鍋をかき回しているとさすがに身体も温まってしまい、今となっては余り肌寒さを感じなくなっていた。


 もうそろそろ良いんでねーかな。


 一旦かき回す手を止め、鍋の中を覗き込んでみる。

 予想通りと言うべきか、鍋の中で煮こまれていた細かく刻んだ野菜と薬草は既に形を崩し、トロミの付いたスープ状になっていた。

 薬草のお陰で見た目は緑色と少々悪くはなってしまったが、味付けはそこまで悪くはないし、栄養だって満点だ。

 なにより、ここまで形を崩してしまえば、寝込んでいる人達でも苦もなく食べれる筈。

 

 木の匙でスープを掬い最後の味見をして、自らの作った病人食の出来に満足したオラは、重い鍋を抱えて避難所の中へと運ぶ――。 

 

 避難所の内部、寝込んでいる人達がいる部屋へと到着し、少し広くスペースを開けてある部屋のすみへと鍋を下ろす。

 側にはいつも使っている木製の器の山が縦に積み重なって置いてある。

 器を手に取り、食事をよそう。

 最近では日課となってしまったこの作業、流石に慣れてきてしまったのか、自分でも驚くほどにこなれた手つきとなっている。


 オラも中々やるでねーか。と珍しくも自分を褒め称えながら、次々と手に取った器にスープを注ぎ、黙々と食事の支度をしている、と。

「お、出来たのか? いつも悪いなドラゴニアンの兄ちゃん。後は俺達でやっとくから少し休んでおいてくれ」

 背後からそんな声が掛けられた。

 声に反応して振り返ってみれば、数名の走破者達の姿が――。

 

 最近よく手伝いをしてくれる人達だ。

 一時期は自分達の仲間が助からないと嘆き、動く気力すら無くなっていたようだったが、メイどんの行ったあの派手な声掛けを切欠に、食料集めや、避難所の警邏、細かい仕事等を自主的に請け負ってくれるようになっていた。

 最初は少し気兼ねして『手伝ってもらうなんて悪いだよ』と言ってみたのだが、走破者達の『獄の走破に参加しないで残ってるんだ、少しは何かしないと落ち着かない』との話を聞いて『それなら仕方ない』と納得することに。

 オラもその気持ちは痛いほどよく分かる。

 

 でも本当助かっただで……オラだけだったら警邏にまで手が回らなかったもんなー。

 

 優先順位としてはやはり食料調達が今のところは最上位。もしこの人達が手伝ってくれなかったら、オラはソレに掛かりきりになってしまい警邏は疎かになってしまっていた事だろう。

 だが、この状況で警邏は絶対に必要だ。

 今も治安が悪化しているリドルの街。その中央避難所には、寝込んでいる走破者達が残した高価な装備品が山のように置いてある。

 戦闘可能な人員は殆どおらず、街の娘さんや、治癒士さんばかり。もしそんな場所が、警邏すらまともに行なってなかったら?

 

 危ないという所の話ではない。狙い目、いや、空腹のモンスターの前に置かれた生肉と言った所だろうか。 

 

 だが、今では人出が増した事によってきちんと警邏にも人数を割けるようになっているし、余裕が出たことによって、病人の介護を手伝ってくれていた街の娘さんや、治癒士の人達の負担も減っている。

 窃盗、喧嘩、食料の問題や亜人達の人種に対する不信感、未だリドルの雰囲気は悪くなっていく一方ではあるが、こういう人達の姿を見ている限り『そこまで酷い事にはならなさそうだ』と少しだけ安心することが出来た。

 

 被害者の苛む声が響いている。でもソレを覆い隠すようにして、明るく忙しげな声が聞こえていた。

 並べられて一定間隔で寝かされている被害者達の横を器を持って気をつけながら進んでいく走破者達。


 思わず一人『ありがてぇ』と口ずさんだ。

 暫くの間身体を休めていたオラだったが、一生懸命働いてくれている皆を見ている内に、だんだんと落ち着かなくなってくる。


 だ、駄目だ。一人で休んでると気が引けてしょうがねーだで。


 どうにか自分も混ざろうと思い『オラも手伝うだよ』と言ってみるが。 

「気にすんなって。兄ちゃん余り寝てねーだろ、さっさと向こう行って休んでろっ」

 そう言って、あっさりと拒否される。


 その後も何度か自然な態度を装ったり、隙を見て参加しようと小細工を試みたが、この目立つ見た目では上手く行かず、結局最後には無理矢理背中を押されて壁際まで追いやられてしまった。

 これ以上何を言っても聞いてくれそうには無かったし、強引に押しのけるほどの勇気なんてものがオラにある筈もなく……オラは、部屋の端に寄りかかるようにして座り込んで、また暫くの間ボケっ、と忙しなく働く走破者達を眺め続ける事となった。

 

 それにしても、あの料理が少しでも効果がでてくれれば良いんだけども……。


 オラの作ったあの料理は、治癒士のお婆さんに教えてもらった薬草を混ぜ込んで作ったもの、残念ながら呪毒蜂の毒を治すことなど出来ないが、上手くいけば寝込んでいる人達の体力を底上げする事は出来る。

 体力を上げる。これはとても重要なことだとオラは思う。

 何故なら、呪毒蜂に刺された人達が二週間持たずして亡くなってしまう一番の理由が、体力が底をついての死亡なのだから。

 つまり、しっかりと病人に栄養をつけてやり、体力を落とさせないようにしてやる事で、二週間というギリギリ一杯までの時間を、今も苦しい戦いを強いられているであろう仲間に与えてやれる、のかもしれない。


 とても小さな支えだろう。獄へと入った仲間と比べれば、僅か過ぎる努力だ。

 それでも、ほんの少しでも仲間の助けとなれるのなら、オラは自分に出来る限りのことをしておきたかった。

 一日経つ毎に胸に抱く不安は膨れ上がっていき、夜は仲間の安否を考えてしまい中々寝付けない……。

 でも……以前のオラとは違って『諦める』そんな弱い気持ちは微塵も出てはいなかった。


 頑張ろう。メイどんはオラを信頼して『頼む』と言ってくれたんだで。頑張って応えねーとっ!

 定期的に落ち込んでしまいそうになる気分を、グッと両拳を握り締めて持ち直し、自分自身を励ましながら、身体にやる気を漲らせた。

 

 鼻息荒く『頑張るだで』と腕を高らかにあげていると。


「アンタも本当にめげないねぇ。何度治らないって言っても聞きゃしない」

 不意に、横合いから聞き覚えのある声が掛けられた。最近よく耳にするそのしゃがれた声に覚えがあったオラは、特に驚くこともなく、首を回して声の主へと顔を向ける。

 毅然と着こなした白いローブ。常にへの字に曲げた口元。憮然と立っているその姿から、見るものにどこか気難しげな印象を与えてくる一人の老婆。

 予想通りと言うべきか、やはり世話になっている治癒士のお婆さんだった。


「お婆ちゃんはまたそんな事ばっかり言って……メイどんが治るって言ってるんだからきっと治るだで」


 いつもの様に返したオラの言葉にお婆ちゃんはピンっと片眉を跳ね上げ『カァッー』と唸りながら頭を振る。


「街の連中がここの事を何て言ってるか位アンタだって知ってるだろうに【リドルの棺桶】だよ? 誰も治るなんて信じちゃいないよ」


 そんな事はオラだって知っている。

 どうもオラが食料をここで消費することが気にくわないのか、一部の人達が『どうせ死んじまう奴に貴重な食料を与えるのは勿体無い』とか『期待するだけ無駄だ』等と言っているらしい。

 オラの巨体のお陰か未だ面と向かって言われたことはないが、噂くらいは嫌だって耳にする。

 勿論聞いていて気分のいい話では無い、が。

 そんな事一々気にしたって仕方ない事だ、信じない人達は勝手にそうすれば良い、と今は開き直ることが出来ていた。

 いつまでもブチブチと呟くような愚痴を言っているお婆さんにオラは、両の手を顔の横に当てて『聞こえない』と意思表示を示してみる。


「はぁ、頑固だねーアンタも。そんなにアタシの愚痴を聞きたくないんだったらしっかりと身体を休めることだねっ。

 全く、これ以上病人が増えたら溜まったもんじゃないよっ」


 このお婆さんも悪い人じゃないんだけんどもなー。

 そんな事を考えながら『お婆さんの方が頑固な気がするだで』と心の中で呟いた。


 暫くお婆さんはオラの横で腕を組んで周りをジロジロと見渡していたのだが。

「……本当、獄って場所は碌でもないねぇ。こっちが幾ら助けてもあっさり殺しちまうんだ。こっちとしては骨折り損さ」

 そう言って如何にもツマラナサそうな顔をこちらに向けた。


「ほら、あそこに子供が見えるだろ?」


 皺くちゃの顎をシャクってお婆さんが示した方向に目を向ける。

 寝込んでいる女性の側で座り込んでうつむいている子供の姿が見えた。


「知ってるかい、あの子の父親は十年前に蟲毒から溢れたモンスターのせいで死んだそうだ。それで今度は残った母親までもがこれだよ。

 全くっ。気に食わない。本当に気に食わない……毒でも何でも別にいいんだけどね。せめてアタシが治せるもんにして欲しいもんだっ」


 そう言ってまたカーッと唸った後、再度口をへの字に曲げるお婆さん。

 『気に食わない』その言葉は、毒に対してなのか、それとも、それを治せない自分自身に対しての事なのか……恐らくその両方なのだろう。

 

 ただ其処にあるだけで災厄をまき散らし続ける区域、獄級。

 今回のように派手な襲撃などは早々起きることではないが、それが無くても十分に人は死んでいく。

 あるだけで周囲には人が住めなくなり、何もせずに放置してしていれば、やがてモンスターの数が増えて溢れ出る。

 どれだけの人達があの場所のせいで亡くなっているのか、数えたこともないし、そこまで詳しい事をオラが知ってるはずもない。

 だが、お婆さんの言った『碌でもない場所だ』という言葉には全面的に同意せざるを得ないだろう。

 

「まあ、食料の問題に関しては少しはマシになるのかねぇ。噂に聞けば少数だけど、シルクリークの兵士がここに向かってきてるって話だしねぇ」

 一人膝を抱えてゆらゆらと身体を揺らして仲間の事を考えていたのだが、お婆さんの言ったその何気ない一言に驚いてしまい『えッ』と間抜けな声を上げた……。

 間違いなくお婆さんは言った『シルクリークの兵が向かってきている』と。



 ◆◆◆◆◆



 円状に形どられた広間。ゆらゆらと水面を揺らす血のように赤黒い池。水面から顔を出している植物も、池の水を吸って育ったせいかその姿を一様にして赤く染めている。

 そんな、血の池地獄を連想させる気味の悪い池の“上”を、俺達はバシャバシャと音を立てながら、目前に見えている出口に向かって疾走していた。


 ――ィィィイイイイイイン。 


 耳障りな羽音が俺の鼓膜を振動させる。

 背後からは、人の口を針にすげ替えたかのような不気味な頭部を持った蚊の化物モンスター

 前方には、人の眼球を寄せ集めて作ったかのような複眼をギョロつかせる蜻蛉とんぼが凄まじい速度で飛び回り、薄羽根でこちらを切り裂かんと迫っていた。


 くそ、ブンブンと鬱陶しい奴らだッ!  

 

 本来ならば戦わずして逃げるのが得策なのだろうが、現在俺達が走っているのは、池の中に作られた二人並んで通れる程の幅しか無い、仮初の足場の上。

 下手に避けようと動き、足場から落ちでもしたら、水中で待ち構えているヤゴ型のモンスターに抵抗する間も無く食い殺されてしまうだろう。

 水中に落ちる危険性を考えると、空を飛び交うモンスターを相手する方が百倍はマシだ。

 隊の先頭を駆けながらも、俺は視線を忙しなく動かし、モンスターの動きを見極め指示を飛ばす。


「リッツを中心に遠距離部隊が空中のモンスターを牽制。土魔法使いはアース・メイクで足場を形成し続けてくれッ。ヤゴが水中から迫ってくるようだったら氷魔法で足止めをしろッ。

 皆、あと少しで抜けられる。絶対に気を緩ませるなよッ!」

 

 『応ッ』と短く声が上がり、走破者達が次々に動き出す。

 空を飛び交う羽虫達をリッツを中心とした遠距離部隊が次々と撃ち落とし、水中から忍び寄るようしにて襲いかかってくるヤゴを、事前に氷魔法で凍らせる。

 全員一丸となってモンスターの相手をしながら、アース・メイクで形成されていく土の架け橋の上を全力で疾走していった。


 ッチ、本当にキリがない。


 どうにか群がってくる羽虫達をリッツ達の攻撃によって撃ち落とせてはいる、のだが――落ちた側から水中に潜んだヤゴや、ウネウネと身体をくねらせているボウフラモドキが羽化してしまい、また次から次へと湧いてくる。

 ――ピキ、ピキピキ。

 卵の殻が割れるような少し硬質な音が鳴り、少し先の水面、草にしがみつき水上に出ていたヤゴモドキの姿が二つに割れるようにして変わる。

 古い外殻を脱ぎ捨てて、透明な四枚の薄羽を広げ、六本の人の腕を不気味に動かしながら、やがてヤゴはトンボへと成り飛びたった。

 

 あーもういい加減にしろよっ。

 

 今も新たに湧いて出た六匹のトンボモドキの姿を見て、流石に嫌気が差してくるが、目指す出口はもう目前、あのモンスター達さえ突破してしまえばこの場所を抜ける事ができるはずだ。


「ドリー切り開くぞッ」

『はいっ』

 

 俺の掛け声と共に、エントの掛かったドリーのナイフが空に蒼い剣閃を刻む。

 鞭の様に靭やかに伸ばされた水刃は、俺達の邪魔をしていたトンボモドキの羽の切り落とし、どうしても落としきれず残ったものを俺が槍斧で粉砕する。

 

 そうやって切り開かれた道を後に続く走破者達が縫うように走りぬけ――ようやく広間出口にまでたどり着くことができた。

 滑り込むかのようにして穴へと入り込んだ俺は、直ぐに身体を反転させ、隊へと向かって声を張る。


「出入り口をアース・メイクで塞げ。続いてチェンジ・ロックを使って突破されないように強化だ。急げッ」

『アース・メイク』

 俺の声に少し遅れて魔法が発動――出入り口周辺の土が自在に姿を替えて、穴を塞ぎ。

『チェンジ・ロック』

 岩へと変化した土が盾のように硬さを増して、俺達を吸い殺さんと、切り刻もうと追ってきていた羽蟲達を、閉じ込める。

 穴が塞がる直前に、キチキチと悔しそうにアギトを鳴らす蟲達の声は二度と聞きたくない耳障りな音だった。

 

 モンスター達が追ってこれないことを確認し、ある程度離れた場所まで急ぎ移動する。

 やがて辿りついた少し広めの通路で足を止め、周囲の安全を確かめながらも、俺は恐る恐ると隊の人数を確かめていった。


 一人、二人……。

 ……良かった、ちゃんと二十八名揃ってる。どうやら犠牲者は出ずに済んだみたいだな。

  

 荒くなってしまった呼吸を整える為その場で少しの休息を挟む事に決め、全員に『少し休んでいいぞ』と指示を出す。

 へたり込むようにして地面に腰を下ろし始めた走破者達の顔色を伺って見ると、顔を青ざめさせている者、疲労の色が色濃く出ている者、各々に違いはあれど、その表情は一様にして暗い色ばかり。

 犠牲者が出なかった。危険なエリアを抜けられた。少し前までであれば安堵や喜び、そんな明るい表情が浮かんでいたのかもしれない……が、残念ながら今の俺達にはそんな表情を浮かべる余裕すら残ってはいないようだった。

  

 ……いつまで、何処まで進めば奥に辿りつけるんだ。

 喉元までせり上がってきていたそんな弱音を、俺はギチリと拳を握り締めて飲み下す。

 だが、弱音の一つだって吐きたくもなる。

 あの忌々しい通路を抜けて早二日――短いながらも休憩を挟み、一心不乱に奥へと進んでいるのに、俺達は未だ最奥へとたどり着く事が出来ていなかったのだから。

 

 進めている。間違いなく下層へと向かって少しづつではあるが近づいている。

 

 奥へと進めている証拠、と言えるほどのものではないのだが、今の俺達は、蟲毒内部で見つけたある一つの変化を目安に自分たちが奥へと進めているのかどうかを判断していた。

 その変化とは――壁に浮かんでいる死骸の形と、色合。

 まるで進化の道のりを遡っているかのように、マップを埋めて正解だと思った道を奥へと進むほど、壁に埋まった死骸の形が、より原型となっている蟲に近い形へと近づいて、土塊のようだった死骸の色合いもより生々しいものへと変わっていくのだ。 

 最初これを発見した時は『これをヒントに進んでいける』とそれはもう喜んだ――のだが、そこまで獄級は甘い場所ではなかった。

 ヒントにしようにも、正解の順路をかなり進まないことには壁の変化は現れず、明らかにおかしいと思ったときには既に元の道へと戻された後。

 結局、最終的には『目安以上のものには成り得ない』という結論に至った。 

 

 その目安もあって、今俺達が奥へと進めている実感は多少なりともある。が、迷い戻され彷徨い続けているので、その歩みは極めて遅い。

 更には、消費した時間と稼いだ距離が釣り合ってはいないせいで、奥に進めたとしても素直に喜ぶ事ができなかった。

 

 入り組んだ土塊の迷宮は、マッパーの価値を著しく低下させ、定期的に襲いかかってくる屍喰らい達は俺達の神経をすり減らす。

 延々と見せつけられる異常な景色と、息を吸い込むごとに鼻につく異臭は、俺達の精神を蝕んで、気を緩めることを許さない。

 進んでは戻り、また進み。

 分かれ道を虱潰しらみつぶしにして地図を埋め、ようやく先に進めたと思えば、先ほどのような危険な区域が待っている。

 幸運と、皆の頑張りもあってか今は新たな犠牲者を出さずに済んではいたが、目の細かいヤスリでジワジワと削られていくかの如く、俺達の体力と気力は徐々に失われ――既に限界は目前にまで近づいていた。


 皆良く頑張ってくれている。


 正直に言えばもっと早くに心が折れてもおかしくは無かった。

 ここまで耐え切れたのは、ひとえに相棒のお陰だろう。

 隊全員の疲労の色が濃いと判断した俺は、座り込んだまま肩に乗ったドリーに顔を向け、ここ二日世話になっている“いつもの奴を”頼むことに。

「なあ、ドリー、また頼んでも良いか?」

『むっふっ、勿論ですっ。

 では……ははーん、ほほーん。今回はコレにしますっ。伸びろ~伸びてしまいなさいっ、ほりゃ! 《グロウ・フラワー》』


 俺の声を聞くやいなや、いつもの調子で種を地面にペイっと放り投げ、グロウ・フラワーを使うドリー。

 メキメキと音を立てて成長した植物の種は、やがて俺の身長ほどの高さがある小さな木へと育ち、キウイに似た果物をプラプラと実らせた。


『さあ皆さんっ、どうぞ召し上がってくださいっ。あ、一人一個までですよーちゃんと守って下さいねっ』


 ヘイヘーイ、と妙な掛け声を上げながらドリーが座り込んでいた走破者達に向かって手を振り、声をかける。


「キタっ、待ってましたドリーちゃん! おお、今回は【イルの実】か。オレこれ好きなんだよな」

「――ッツ!? 何これ、相変わらず異常に美味しい……市場で買うやつと比べ物にならないわね」

「オレ、これがあるから頑張れる。いや本当に」

「さすが隊長さんの『自慢の相棒』だわっ。隊長さんが『自慢』するのもわかるわねっ」

『……あれ? あれれ? ど、どうやら一個余ってしまう気がしますっ。仕方ありませんね。今のお姉さんには二個上げちゃいますよっ』


 おい……おいドリー。それは間違いなく踊らされているぞ。 


 少し間抜けな光景ではあるが、走破者達の表情は先ほどとは違い明るい色を取り戻している。

 ――やはりドリーは凄い。

 少しだけ頬を緩ませながら、俺は自慢の相棒に心のなかで賛辞を送っていった。


 ご褒美の果物――昔の俺だったら『食い物位で大して変わらないだろ』とかのたまってたかもしれないが、肉沼から出た後の食事を経験した今ならハッキリと言える。

 美味い食事は気力を生む。

 暗く陰気な光景。異臭漂う空気。そんな場所に潜っていても新鮮な果物や野菜などの食事が取れるのは、かなり大きい。

 もしこれが無かったら、今頃俺達の気力は尽きてしまっていた、と言っても過言ではない位だ。

 

 これでまだ頑張れそうだな……。


 俺は、隊の皆の喜ぶ姿を見て、一人満足気に頷きながら、暫くボケッと座り込む。


「ちょっと、ねえ……っぐ、聞けこの馬鹿クロウエっ」

 

 声に反応して、視線を動かして見ると、そこには手に果物を一つ持った白い毛玉が――いや、リッツの姿が。


「全く、いつまでボケっとしてんのよ。アンタもさっさと食べなさいよっ」


 一体何が気にくわないのかは知らないが、いつも通りプリプリと怒りながらも、手に持っていた果物を俺に向かってバシリと投げつけてくる。 

 態々持ってきてくれたのか? 珍しい。

 受け取った果物をしげしげと眺め、俺は何も考えずに『リッツにしては珍しい事もあるもんだ』と口に出す……寸前で慌てて口をへの字に噤み、言葉を飲み込んだ。

 

 駄目だな。どうにも最近はリッツをからかってばかりだったし、癖になってるみたいだ。

 かなり危ない所だった……下手なこと言ってみろ、コイツの事だから間違いなく激怒する。折角持ってきてくれたんだし、ここは素直にお礼を言わないと。


 危なく面倒くさいことになる所だった、と一人額にかいた冷や汗を拭い、改めてリッツに礼をすることに。


「わざわざ悪いなリッツ。ありがとなっ」

「礼は良いからさっさと食えって言ってんの。ほら見なさいよ、アンタ以外もう皆食べ終わってるじゃないっ」


 鼻をピクピクと引くつかせながら、リッツは唸るようにしてガーッと言い放つ。

 その言葉に周囲を見てみれば、確かに全員既に食べ終わっている様子。

 どうやらリッツは親切に持ってきた、というよりは、俺に『さっさとしろ』と催促する為に来たという事らしい。

 

 リッツらしいと言えばらしいが『お礼言って損した』という気持ちが若干も湧かなくもない。しかし、こうやって持ってきてくれたこともまた事実。

 ひねくれた考えは止めて、今は素直に感謝しておこう。

 言いたいことを言って満足し、さっさと岩爺さんの所へと戻っていくリッツを見送り、俺は果物の皮を向いて。ガジリ、と歯を立てた。

 

 ……美味い。

 かじった瞬間に、ジワリと口の中に果物の汁気が広がり、酸味と甘さの入り混じった様な爽やかな香りが俺の鼻を刺激する。

 味は少し甘めのパイナップル、と言った所だろうか。

 無意識の内に『生き返る』と呟いていた。

 

 足りないものを補うように、無くしてしまったものを取り戻すかのように。

 果物が与えてくれる生の実感に、全身に気力が染み渡り、身体に力が戻っていくのを感じた。

 

『相棒、美味しいですか?』


 肩にいたドリーが俺が果物を食べたのを見てそう言った。

 蛇の頭を模したような形に手の平をシュバっと変えて、俺の顔の前で斜めに手首を傾げジットこちらを伺っているドリー。

 褒めてもらいたいのか、俺が満足したのを確認したいのか、恐らくそのどちらかなのだろう。

 取り敢えずその両方を満たせそうな返答をしてやればよさそうだ。


「ああ、ドリーの作った食べ物は本当に美味しいな。素材から作ってしまうのだから、これもある意味料理みたいなもんだな。

 つまり、ドリーは一流の料理人と言っても……良いのかもしれないっ!」

『本当ですかっ!? っふっふっふ、また新たにメイちゃんさんのお役に立ってしまったようですねっ。手しか無い私が作る料理……まさしく手料理と言うわけですねっ』


 合ってる……ような違うような。すごく突っ込みづらいですドリーさん。


 多少大げさに褒めた俺の言葉に、素直に喜んだドリーは、指をワナワナと動かした後、親指を高らかに上げて自慢気に揺れ始める。

 果物の匂いを嗅ぎつけてポケットから出てきた樹々が〈ぎゃー〉と鳴くので、俺の食べかけのものを分けながら食べていく。

 やはり気分が安らいで、心が洗われていくようだった。

 が、俺が食べてる間、様々な角度から『美味しいですかっ?』とずっと尋ねてくるのはやめて下さい。


 気力の元も食べ終わり、改めて隊を見渡してみれば、陰鬱だった雰囲気は、既に何処かに消えていた。

 

 ドリーには世話になりっぱなしだな……せめて俺はしっかりと背を張って進むこと位はしないと。

 

 頭に浮かんだ理想の隊長――水晶船の船長や、隊を率いるブラムさんが見せたあの頼り甲斐のある背中。それは今の俺のように、曲り俯いたものでは絶対に無い。

 胸を張れ、背筋を伸ばせ、拳を握れ、活力を漲らせろ。後ろを進むはずの隊の皆に、不安を感じさせないように。

 ドリーが支え俺が率いる。皆には頼りになりっぱなしなんだ。この位はやってみせないと。

 

 グッと背筋を伸ばして立ち上がり、精一杯の見栄を貼付ける。

 今は虚飾の姿でも良い、ハリボテの様な見栄で構わない。

 理想を追うには模倣から。今の俺に出来るのは、せめて隊の皆に見せる背中だけは、見窄らしいものにはしない事だ。

 片手を上げて『行くぞ』と伝え。足を踏みしめ奥へと目指す。

  

 ◆

 

 屍喰らいの襲撃を跳ね除け、壁の変化を確認しながら進み、およそ五時間ほど経った頃か。

 先頭を進む俺の横にオッちゃんがやってきて『隊長さん、話しが』と声を掛けてきた。


「どうしたんです……なんか問題でも?」


 態々配置を離れ、ここまでやってきたオッちゃんを見て『また何か起きたのか』と警戒してしまった俺は、少し眉を顰め焦った声を漏らしてしまう。

 が、どうにも俺の勘違いだったようで、慌ててオッちゃんが手を振り『悪い話じゃねーよ』と言って否定する。

 手に持ったボウガンの矢を指先で器用に回し、言葉を選ぶようにして考え込み始めたオッちゃんだったが、やがてピタリと矢を止めて、話を再開していった。

 

「えーっと、ほら、あれだ、あの軟体野郎に噛まれたのが二人いただろ? あの二人だが『もう痛みが無くなった』って話だ。

 何かしらの毒があんのかと思って警戒してみたが、どうやらオレの勘ぐり過ぎだったらしい」

「――ッツ!? そ、そうかっ……なんとも無かったのか」

 

 オッちゃんの話を聞いて、安堵からか、深いため息がこぼれ出る。

 実のところかなり不安に感じてはいたのだ。

 もし、もしも歩けなくなるような毒だった場合は――壁に穴倉でも開けて、食料を少し残して、二人を置いていかねばならなかったのだから……。

 想像しただけで、身体が強張りそうになる。

 暗い土の中で、満足に歩けない状態で置いてかれるのは一体どれほどの恐怖か。

 かなり乱暴な手段だとは思うし、置いてかれる方だってたまったものではないだろう。だが、仮にそんな状況になってしまえばきっと俺はその決断を下す。

 今の俺達に動けなくなった人間二人を連れて歩く余裕など間違っても無いのだから。


 思わず拳に力が入り、ギチリと骨が軋む音がした。


 でも大丈夫だって話だし……そんな指示出さずに済みそうだ。 


 それでも少しだけ不安に駆られてしまった俺は、二人の様子を自分の目で確認する為に首だけ回して後ろを伺った。

 今俺がいる場所から少し後ろ、中列辺りにカタツムリに傷を負わされた二人が歩いているのが見える。

 やはりオッちゃんの言った通り、その歩いている様子からは何の問題も見受けられない。

 少し顔色が悪いのが若干気にかかったが、そこまで気にする程の事ではないだろう。顔色が悪いのなんて隊全員に言えることで、何もその二人だけに限ったことで無いのだから。


 良かった本当に良かった。

 不安に揺れた心を落ち着かせ、いい知らせを届けてくれたオッちゃんに感謝した。


 オッちゃんと色々と隊についての会話を交わしながら一時間ほど進んで行く内に、五方向に散らばる分かれ道に出くわすこととなった。

 全ての穴の大きさは大して変わらず、向かう方向も特に何の規則性も無く伸びている様子。

 またこれか、後頭部をボリボリと掻きながらも、穴の縁、伸びる方向、何か規則性が無いかを、オッちゃんと一緒に慎重に調べていく。


「……隊長さん、やっぱ駄目だ。変わった所は見当たらねーよ。どうせまた虱潰しに埋めてくんだし、好きなように決めてくれっ」


 しゃがみ込んで色々と調べていたオッちゃんは、そう言ってマップをぱんぱんと軽く叩く。

 

 仕方ないか……こればっかりは、本当にどうしようも無いし。

 

 何も考えずに進むのは出来るだけ避けたいのだが――どうにも選びようが無いのだ『下層に向かっているから』と、思って下に伸びる道を選んでも、途中で曲がりくねり上に伸び始めるなんて当たり前。

 一度なんて『ここだけは無い』と思っていた上部に向かって凄まじい程の傾斜で伸びている道が正解だったこともあった。

 下手したら「どこにしようかなー」と乱暴に選んで進んでも構わないほどだ。

 

 ここはオッちゃんの言うとおり、俺の好きなように決めるか。調べるのも、道を選ぶのも、余り時間を掛け過ぎるわけにはいかないしな。


 視線を巡らし、順路を選ぶ。

 出来れば一発で正解を引きたい……。

 そんな都合の良いことは早々起こる筈がない、とここまでの厳しい道のりから理解はしていたが、思わずそう願わすにはいられなかった。


 少しの間、中々決めることが出来ずに迷っている、と。不意に左方に見える穴付近に蝶子さんがフラフラと飛び回っているのが見えた。

 またか……あっちに行きたいのかな? ……よしっ、どうせ考えたって分からないし、迷ってるだけじゃ時間が無駄になる。ここは幸運の蒼い鳥にあやかって、蒼い蝶子さんに任せてみよう。

 と、そんな下らない考えで、進むべき道を決め、俺は隊を引き連れ、分かれ道を進んでいった。 


 蒼い蝶を追うようにして一時間程掛けて先に進む。

 今の所は特に後ろに戻されること無く順調に進めているみたいだな、と。魔力の明かりに照らされた壁の死骸を確認して、そう判断を下す。


 はは、下らない考えにも縋ってみるもんだな。気分はヘンゼルとグレーテルって感じか?


 道しるべのパン、ならぬ蝶子さんの残した魔力光にも似た蒼い軌跡を追っていると、不意にそんな馬鹿な考えが頭に浮かんできた。

 偶然だ、そう呟いて自嘲気味に笑う。

 どうせその内行き詰まり、また彷徨うことになるのは分かっている。でも、偶然とはいえ今は先へと進めているようだし、暫くはこのまま後を追って進むのも悪くはなさそうだ――。


 ――だが『偶然だ』そう思った俺の思考は、進めば進むほど崩れ去っていくこととなった。

 進んでは休み、また蝶子さんを追い、蟲の巣穴を駆け抜けて、一日余りの時間を費やし進んでいるのに、未だ一度たりとも迷い戻されることが……無い。

 

 少しだけ指先が震えているのを感じる。緊張からか、唇が乾き、端のほうがひび割れているのが分かった。

 

 どうなっている――先ずそんな疑問が頭の中を駆け巡る。偶然? 幸運? いや……そんな事があっていい筈がない。

 フラツキそうになる頭を手の平で押さえ、頭に浮いた偶然という言葉を否定していく。

 一日の時間を掛けて、一度足りとも。そう『一度足りとも』道が重複した事が無い。

 数えきれないほどの分かれ道に遭遇しているんだぞ? どれだけ進んだと思ってるんだ。あり得ない。そんな偶然はあり得ない。


 少しづつ偶然を否定していくうちに、次に湧いてきたのは小さな期待。


 馬鹿な期待をしても良いのだろうか? 後で偶然と判明して絶望することになるんじゃないだろうか?

 バクバクと鳴り続けているこの心臓の鼓動は、そんな俺の気持ちを代弁しているかのようだった。


 歩いて行くほどに、湧き上がる思い。死骸の通路を一歩踏みしめる毎に膨らむ願い。

 それは、地獄の底に垂れ下がった蜘蛛の糸の様な、甘い希望。

 

 もしかして……お前は俺達の進むべき道を教えてくれているんじゃないか?

 

 夢か現か幻か、言葉も喋れぬこの蒼い蝶が、俺達を導いてくれているなんて一体誰が信じる。

 蟲の迷宮を案内する実態の無い虫。そう考えるとなにか関係性があるのかもしれないとも思うのだが、素直にそう信じるには余りにも分からないことが多すぎた。

 何故俺とドリーにしか見えないのだろう。何故奥までの道のりを知っているのだろう。何故、態々案内をしてくれるんだ。

 何故、何故、何故、まるで籠の鳥を囲うかの如く、俺の頭の中に疑問符が飛び交った。

 

 一瞬だけ『蝶だって虫だ、実は俺達を罠にはめようとしているのではないか?』という嫌な想像が沸き上がってくるが、俺は直ぐ様頭を振ってソレを否定する。

 ……それは無い筈だ。道案内なんてしないで、延々と迷わせておけば、俺達なんて簡単に力尽きて死んでしまう。そう考えればわざわざ奥に案内する必要なんてどこにも無い。 

 それに蝶子さんから獄級のモンスターから感じられる『悪意』のようなものが無い。

 

 んー。

 腕を組んで首をひねる。

 仮に『蝶子さんは案内してくれている』と考えると、一体どこから、いつから蝶子さんは俺達を案内してくれていたのだろうか。


 思考の海に沈んだ泥のような記憶を、乱暴にかき回し浮かび上がらせていく。暫くそうやっている内に、幾つか心当たりのようなものがあることに気がついた。

 リドルに蟲が襲撃してきた時の、奇怪しな行動。あれは襲撃を察知して知らせようとしていたのではないか。

 樹海の中だって、何度か先頭を進んでいた時があったが、あの時だって蝶子さんは案内をしてくれているつもりだったのではないか。

 デカミミズの体内に入る前だってそうだ。最後に選んだあの道は蝶子さんがフラついていた場所だったじゃないか。

 

 徐々に徐々に掴みとる。目の前に垂れ下がった蜘蛛の糸を。

 ゆっくりと慎重にたぐり寄せる。最奥へと向かう為の道しるべを。

 

 まだまだ分からないことが山ほどあって、全てを信じたわけではない。だが、賭けてみても良いかもしれないこの蒼い蝶に。

 委ねてみるのも悪くはない向かう先を。

 どうせ俺達には迷わず奥へと進む為の策なんて無く、彷徨い続けてられる余裕も無い。

 責任は俺が取ればいい。問題が起きたら全力で切り開いて見せる。


 だからお願いだ。俺がリーンを救うために案内してくれ蝶子さん。


 心のなかで呟いた俺のそんな声に答えるかのように蝶が飛ぶ――奥へ、ただ奥へと向かって。


 ◆◆◆◆◆


 眼の前に見える『クロ坊』の様子が先程から少し可笑しい……。

 迷いも無く道を決め、止まること無く進み続けているその様子は、まるで進むべき道が分かっているかのようだった。

 そんな“儂”の考えを裏付けるかの如く。死骸の通路が変化を見せ始め、より一層死の匂いを色濃く漂わせ始める。


 どうなっとるんじゃ、あれだけ迷っておったのに……何か新しく気づいたことでもあったのかのぅ? 

 んーむ、それは無い気もするんじゃが……クロ坊の性格からしてそういう事に気がついたならば、直ぐに全員で共有するはずじゃしな。


 無意識の内に顎を撫で回す。

 今は髭など生えていないのだから、撫で回した所で手に伝わるのは硬い感触だけ。

 リッツに『ゴリゴリうるさいからから止めてよお父さんっ』と怒られるのだが、どうにも癖になっているせいで、止められそうにも無く、最近ではもう止めることすら諦めていた。

 

 しかしやはり妙だ。この進行速度は異常に過ぎる『何か変なことでもあったのじゃろうか』と少し心配になってしまったが、暫くウンウンと唸っている内に、ハタと気がついた『クロ坊が可笑しいのは元々じゃった』と。

 

 あの心の強さも、あるはずのない能力を持った武器も、常に肩に乗っているドリーの嬢ちゃんまでも全て合わせて異常。

 常人ならば耐え切れないこの空間で、今もしっかりと背を伸ばし、歩む足は力強い。

 背後に見せる背中は常にこちらに『心配無用』だと語りかけてくるようだ。


 あの若さでようもここまで。クロ坊を見る度にそんな思いが胸の内に漂う。

 若さと比例しない様々な強さ。身体能力と釣り合わない技術。まだまだ弱さを垣間見えさせることも多いが、それを乗り越え駆け上がるあの姿を見ていると、どうにも楽しくて仕方がない。

 こんな陰鬱な場所にいるというのに、ドリーの嬢ちゃんと共にいるクロ坊は、楽しそうで、嬉しそうで、見ているこちらの雰囲気まで和らげる。

 それがどれほど周りにいる走破者達の支えになっていることか。あのリッツですら信頼を見せ始めているのだから儂としては驚くばかりだ。

 

 思わず自分の娘のひねくれた性格を思い出し、額に手を当て頭を振った。

 今の所は特に問題なさそうなクロ坊から視線を外し、改めて左隣を歩いている自分の娘に目を向ける。

 尻尾を揺らし、肩に魔銃を乗せて相変わらず不機嫌そうな面構えで歩いているリッツ。だが、表情とは裏腹にそれなりに上機嫌ではあるようだ。

 その証拠に鼻をピクピクと引くつかせる癖が出ている。儂に顎を撫でるのをやめろと言う割には、何か良い事があると鼻を引くつかせる小さい頃からの癖が未だ抜けていない。


 良い兆候じゃな……。


 きっと本当に嬉しいのじゃろう。家族以外を信頼することが出来そうな自分が、一丸となってこの場所を攻略する隊に自分が混じっている、と言うことが。

 嬉しそうな娘の様子を見て思わず喉の奥でくくっ、と笑いが漏れ、それと同時に自分がそれを導いてやれなかった事に対する少しの寂しさが渦巻いた。

 どうしてこう捻くれた性格に育ってしまったんじゃろうか……やはり儂には子育ては向いておらんのぅ。

 トボトボと足を進めながらも、儂は少しづつ、昔の記憶を掘り起こすようにして、思い返していった――。


 ◆


 出会いは確か十数年前。

 あまり良くは覚えていないが、シルとリッツが赤子だったことだけは記憶している。

 クレスタリアから真っ直ぐ下っていった遠く離れた南方の地。

 自らの探しモノをするために旅を続けていた儂は、亜人と人族が一緒になって暮らす宿屋も無い小さな村に辿りついた。

 休む場所が見当たらず途方に暮れて村を彷徨っている内に、シルとリッツ、二人の両親に声を掛けられた『泊まる所が無いのなら、家に来ませんか?』と。

 

 お人好し、人が良い、馬鹿みたいに素直で楽しげなスクイル夫婦だった。二人を抱いて微笑む茶毛の母親、せかせかと毎日仕事をこなしては家族と戯れる黒毛の父親。

 今でも鮮明に蘇る。あの二人の笑顔。

 気に入ってしまった。見ず知らずの儂を家に呼ぶほどのお人好し夫婦の事が。思わず暫くの間世話になってしまった程に。


 ただ、お人好し過ぎたんじゃろうな。


 心の中で思わず呟き……さらに記憶を掘り返していく。


 暫く夫婦に世話になった儂ではあったが、さすがに何時までも居座り続けるほど図々しくは無い。

 『お爺ちゃん……せっかくだし、ここの家のお爺ちゃんになったらどうー?』などとのたまう母親と『そうだなっ、もう一つ部屋を増やそうっ』と阿呆な事を抜かし始める父親を『また来るから』とどうにか説得し、再度旅にでることにした。


 南方を二年程巡った末、やはり探しモノが見つからなかった儂は――久しぶりに二人の顔を拝みたくなり、また村に寄ることに決めた。

 だが、意気揚々と二人の家に着いて儂が目にしたのは、すっかりやせ細って見る影も無くなってしまった二人の姿。

 自分の居ない間に一体何が? 

 二人を延々と問い詰め、詳しく話を聞いた後に儂の口から最初に吐き出された言葉は『この阿呆がッ』という怒声だった。

 

 儂が思っていた以上にこの二人はお人好し過ぎたのだ。

 街に出ていた人族の親友が悪い所から借金をしてしまって、それを返す為一度違う場所から金を借りたい。だから保証人になって欲しい。

 そんな如何にもな理由で尋ねてきた人族の親友とやら対して二人は『親友だから』『見過ごせないから』と言って容易く引き受ける。

 その結果がコレだ。親友の筈の人族はあっさりと逃亡。連絡すらつかなくなった。

 制約、契約、刻印、正当な手順を踏まされ保証人になってしまった二人に莫大な借金が振りかかる。

 

 必死になって働いて、必死になって稼ぎを増やす。

 

 村の住民も夫婦の事を助け、支えてくれたらしい。だが、それでも借金は莫大で、延々と働き続けた二人の身体はやせ細り枯れていく。

 娘がいるのに馬鹿な事を、何も考えずに請け負うから、言いたいことは山ほどあって、叱ってやりたいことも唸る程あった。

 それでも、どうにか二人を助けてやりたくて、儂は剣を振るい金を稼ぎ、手助けをした。


 でも、ほんの少しだけ遅すぎた。

 回復魔法では意味が無い。もっと根本的な部分で二人の身体は弱ってしまっていたのだから。

 

 朽ちる身体は止まること無く、やがて二人に限界が訪れる。

 普通ならばこれほど弱りはしなかっただろう。村の住民からの差し入れもあったのだから。

 だが、二人はやっぱり優しすぎた『娘にはちゃんと食べさせないと』『元気に育って欲しい』そう言って自分の食事を削って減らし娘にしっかりと食事を与えていたらしい。 

 その証拠に、少しだけ大きく育っていたシルとリッツの毛並みは、苦労を感じさせない程、美しく艶やかなものだった。


 親としては褒められた性格では無いと言い切れる。人としても阿呆な部類。

 儂は寝たきりになった二人に散々っぱら文句を言い。少しは反省しろと叱り続けた。

 それでも死ぬ間際に『娘は育ててやるから安心するがいい』と言った儂に対する返答は、やはりあの二人らしい言葉だ。


 ――ほらお爺ちゃん。あの時お爺ちゃんに親切にしたお陰で、こうやって自分達に返ってきた。

 ありがとう、ありがとう。

 そう言って笑って死んだ二人の事は、忘れることなど出来はしない。


 二人の墓をたて、シルとリッツの二人を連れて村から出て数年後――偶然にも儂は例の親友とやらに出くわした。

 いつか出会うかも知れないと考え名前や特徴を聞いていたが、まさか本当に見つけることが出来るとは思ってもいなかった。

 男を追い詰め追いかけて、力づくで問い詰めた儂は話を聞いて愕然としてしまった。

 最初から全て嘘。金貸しと共闘して計画的に裏切った行為。


 理解した瞬間に頭が滾り、怒りが溢れて、意識が飛んだ。

 やがて気が付いた時には、足元にそやつの首が転がっていた。

 やりきれなかった。気分など全く晴れはしなかった。


 もし、そいつさえ居なかったら。

 もし、少しだけでも良いからあの二人の優しさがあれば。

 もしこの世界が後少しだけ優しいものであれば。

 あの間抜けな夫婦はきっと溢れんばかりの幸せに囲まれて、笑顔を絶やすこと無く生涯を過ごせていた筈だった。

 静かに泣いて、新たに決意を固めていった。

 儂がお主らの娘を見事育てきって見せよう、と。


 ただ、決意を固めたまでは良いが、二人を連れて子育てをしながらの旅――それはもう苦労のしっぱなしだった。

 子供というのものはとても敏感で、幼き記憶も存外忘れないもの。

 村人達の悪気のない噂話、裏切られた両親の弱っていく姿。親の顔すら覚えていないような歳ではあったが、それはしっかりと脳裏に刻まれて、本能に刷り込まれていたようだ。

 

 それが原因なのだろう。リッツは本能的に他人を怖がるようになってしまっていた。ただシルが性格上そこまで酷いものにはならなかったのが唯一の救いだろうか。

 本当に苦労した。あそこまで持ち直させるのにどれほど時間が掛かったことか。

 リッツのあの性格は、成長したあの二人に儂が両親の事を話してしまったのが原因だろう。

 『借りを返す』『貸しを作るな』『人族は嫌い』『家族以外信用なんてするもんか』

 儂としては、乗り越えて成長して欲しいがために話しをしたつもりだったのだが、少し失敗だったのだろうか、たまにそう後悔することもあった。


 心配かけまいと意地を張り、信用したいくせに誤魔化していく。そんな捻くれた性格に育ってしまった。

 だが、今のあの様子を見ている限り、あの子はあの子なりに頑張っていると言う事か。


 懐かしい記憶に浸りかけていた脳をゆっくりと戻した儂の目に映ったのは、相変わらずクロ坊に突っかかっていく娘の姿だった。


〈ねえクロウエ。何か良い案でも見つかったわけ? やたら順調じゃない〉

〈凄いですねっ、偶然って怖い。本当、世の中不思議なことが多い多い〉

〈……胡散臭すぎるわ。何か隠してるでしょ。教えなさいよっ〉

〈ハハっ、やだなぁ、馬鹿な事を仰られる。素直さ全一の俺が隠し事なんてするはずが無いじゃないですか〉

『相棒……敬語になってます……気をつけてっ』

〈いやいや、ドリーさん。僕生まれた頃からこうですし〉

〈バレバレの嘘をつくなこのクロウエっ〉


 突っかかる娘と、相変わらずのクロ坊とドリーの嬢ちゃん。その様子を見て笑う走破者達。

 性根の優しい自慢の娘――あの光景はきっとリッツが求めてやまないものなのだろう。

 

 そろそろ親離れのときじゃろうか?

 血は繋がってなくとも、ここまで育てた手前。どうにも寂しい気分になる。

 だが、楽しそうなあの子の顔を見られた事だし、それも帳消しか。


「あらあら、随分お父さん嬉しそうねー。何か良いことでもあったのかしらー?」


 いつも通り呑気な調子で、隣を進んでいたシルが儂に声を掛けてきた。

 むむ、そんな顔しとったかの? 

 自分の岩肌を杖の持ち手部分でゴリゴリと押してみるも、やはり自分自身ではよく分からない。が、ニコニコとこちらを見つめるシルの顔を見るかぎり、儂はそんな表情をしていたのだろう。


「そうじゃな。少しだけ嬉しい事があったかもしれんのぅ」


 シルに向かってそう言った儂の頬は、今度は自分でも自覚するほどに緩んでいるのを感じた。


 視界を巡らし周りを見渡す。

 どうにも、ここの雰囲気を見る限り、儂の探しモノはなさそうじゃ。多少残念ではあるが、ここに来た甲斐はしっかりとあったようじゃし。此処はヨシ、としとくか。

 焦ることは無い。時間はある。ゆっくりと探していこう。儂の寿命はまだまだ長いのだから。

 

「おい皆っ、少し様子が可笑しい。注意してくれッ」  

 

 儂の思考を寸断するかのように、クロ坊の警告が儂の耳に届く。

 此処は碌な場所じゃないのぅ。もう少しゆっくりさせてくれても良かろうに。



 ◆◆◆◆◆



 やはり蝶子さんは俺達を案内してくれている、と思って良いようだ……。

 

 出入り口に身を隠しながら――俺は、辿りついた未開のエリアを伺っていった。

 広間全体にワイヤーの様な太い糸が、まるで蜘蛛の巣の如く張り巡らされ、完全に土の要素が無くなってしまっている死骸の壁には、血管のようにドクドクと脈動するパイプの様なものが走り回っている。

 更によく見てみれば、パイプの中には薄気味悪い緑色の液体が気泡を混じらせながら奥へと向かって流れ込んでいるようだ。

 顔を上げて天井を見れば、ボコボコと半径十メートル程の大きさがある暗い穴が、幾つも不気味に開いているのを確認できる。


 警戒の為に魔法の明かりを消させていたけど、此処では必要ないかもしれないな。


 そう感じるほどに、広間の中は明るい『まるで昼間の様に』とは言えないが、十分に周囲が確認できるレベルだ。

 どうやら光源は、壁に張り付いているパイプで、その内部を通っている緑色の液体が、薄ボンヤリと緑色の光を放っているらしい。

 じっとその明かりを見ている、と不意に妙な既視感を感じた。

 気味悪く辺りを照らしているその様は、どうにも見覚えのある光。

 必死になって記憶を探っている内に――段々と記憶が蘇ってきて、俺は思わず小さく『ああっ』と小さく声を漏らしてしまう。

 

 そうだ、あれだ。肉沼の通路とかで、人面樹とかが光ってるのと似た感じだ。色は違うし、光量だって大きいけど光りかたと言うか、不気味さ加減が同じな気がする。

 ふう、と息を零して『良かったすっきりした』と言ってみたものの、実際それが分かったからと言って、何がどうなるわけでもなかった。

 

 取り敢えず、頭のつっかえが取れただけでも良しとするか。

 しっかし、此処に入らないといけないのか、できれば入りたくないんだけど……。


 まるでスパイ映画に出てくる赤外線センサーの様に張り巡らされた白い糸。そしてここは“蟲”毒の坩堝。

 絶対蜘蛛だ。間違いなく蜘蛛だ。どう考えても蜘蛛だ。

 本当に行きたくない。俺の中でのイメージでは蜘蛛はかなり危険な部類に入る。そして、獄級に出てくる蜘蛛のモンスターとか絶対にまともな奴じゃない。

 

 だが、残念なことに、俺の道しるべさん。蒼い蝶は、俺達から離れこそしないが、広間の奥へと向かって行ったり来たりしている。

 やはりここが順路だと言うことらしい。さすがに行くしか無いようだ。

 見たところモンスターの姿は見当たらず、肝心の出口は、広間を真っ直ぐに突き抜けた一番奥に口を開けている。


〈どうすんだ隊長さん。進むのか?〉


 俺が隠れている穴の縁と正反対の位置――中の様子を伺っていたオッちゃんが、親指をクイクイと中に向けながら、俺の指示を待っている。

 早く進みたいのは山々だが、何も下調べせずに入るのはあり得ない。


〈ちょっと待機で〉

 

 片手を『待て』と後ろにも見えるように上げ、一旦ここで止まり、少し様子を探ることに決める。

 疲れの溜まっていそうな者に一先ず休憩を取らせ、それ以外の数名を背後の監視に置き、地面に腰を下ろして少し考えこむ事に。

 

 ここにいるモンスターは十中八九蜘蛛と考えていい筈だ。今は姿が見えないが、恐らく天井に開いた穴にでも隠れているんじゃないだろうか。

 確か糸を通してその振動を感じ、獲物が掛かったのを把握するって話を聞いた覚えがあるし……そう考えておいたほうが無難だよな。

 うんうんと唸りながら必死になって自分の知識をかき集めていく。

 縦糸が粘着性が無くて、横糸が有るんだったか……いや逆だっけ? あークソ、こんな事なら図鑑とかしっかり見ておけば良かった。

 今更そんな事言っても既に遅いし『蜘蛛のモンスターに襲われるかも知れないから習性を調べておきます』などと馬鹿げた事を昔の俺が考える筈もない。

 ガリガリと頭を掻き毟りながら、自分の知識の少なさに苛立ちが漏れそうになる。


 駄目だ。このまま考えてるだけじゃ拉致があかない。少し動いて調べてみるべきだろう。


 俺は、ハンドジェスチャーでクイクイと一人のバックパッカーを側に呼び、荷物の中から一本の要らない空瓶を取り出した。

 取った瓶を軽くポンポンと手の中で遊ばせつつ、隊の全員にちょっと下がっててくれと手を振って指示を飛ばす。

 入り口から半身だけは晒し、広間の中に張り巡らされた八角形の蜘蛛の巣へと向かって、殻の瓶を投げつけた。

 ヒュン、と空気を裂く音が俺の耳に届き、投げつけた瓶は狙った場所――巣の横糸へと命中する。

 

 ガサ――ガサガサガサガサ。

 背筋の凍るそんな不気味な音が広間内部に広がり、天井に開いていた仄暗ほのぐらい穴から巨大な蜘蛛が三匹ノソリと姿を表した。

 気色悪い。一番最初に感じたのはそんな単純な嫌悪感だ。

 長さ七メートル程も有るだろうずんぐりと丸い胴体と、その先に繋がっているドングリのような形をした後部。

 丸太の様な太さのある人間の腕が八本生え出し、その全ての腕と胴体部分を刺々しい印象を与える短く黒い体毛がビッシリと埋め尽くしていた。

 蜘蛛の頭部、前面には人間の眼球が八個縦に連なるように付いており、その下、口元には鎌のように鋭い鋏角きょうかくがカチカチと打ち合わせれ、硬質な音を辺りに響かせていた。

 だが、何よりもオゾマシイと感じたのは、蜘蛛の背中、頭胸部に張り付いている巨大な人面だろう。

 ニタニタと口元を緩ませ、口端からは真っ赤な舌をダラリとだらしなく垂らし、血走った瞳は、忙しなく動き続け、獲物を探し続けている。

 天井から八本の腕を使って縦糸を巡り広間に現れた三匹の蜘蛛は、横糸に引っ付いた瓶へと近づいてきて、その八つ連なった冷たい瞳をジッと殻の瓶へと向けた。


 一匹の蜘蛛が前方に生えている腕を一本振り上げ、巣に掛かっていた空瓶に向かって拳を振り下ろす。

 ――バリィンッ!

 呆気無く砕け散ったその空瓶を囲むようにして見つめる三匹の蜘蛛は、やがて満足したのか、腕を動かし天井の穴へと自らの巨体を折りたたむかのようにして消えていった。

 

 今起こった全ての出来事を無意識に息を止めて見つめていた俺は、蜘蛛が天井に帰った事を確認した――瞬間。

 忘れていた呼吸を思い出すかのようにして、盛大に息を吐き出した……。

 暫くの間、周囲で荒い息遣いが繰り返される。

 重なるようにして聞こえてきている荒く繰り返される息吹は、俺だけのものでは無く、隊全員の呼吸が重なったものだった。


 隊の皆を見渡してみても、その殆どが、青ざめた顔ばかり。リッツに至っては、仁王立ちするかのようにして立っては居るものの、尻尾を丸めて耳をしおらせ、肩に担いだ自慢の銃は身体の振動に合わせてぷるぷると震えている。

 

 どうやらとても怖かったらしい。

 その気持は非常に、非常によくわかるし、俺自身も今とてもビビっている。が、何も今の光景を見れたのは、悪いことばかりでは無い。

 やはり粘着性があるのは縦糸では無く横糸だと判明したし、敵の姿も蜘蛛だと確認できた。

 それに、態々と天井に帰っていったあの姿から鑑みると『もしかしたらアイツら糸に何か掛かった後でしか外に出て来ないかも』といった予測も立てられる。

 

 今の一連の光景である程度の情報が取れた。後は幾つかの対策と、しなくてはいけない確認を済ませ、突破の方法を考えていくしかないだろう……。


 先ずは何から確かめようか……よし、ここは、簡単なのからにしておくか。

 一頻り頭の中で考えを巡らせ、俺は、一人の土魔法使いを側に呼ぶ。


〈ちょっとアース・メイクを広間の地面に掛けてみてくれ〉

〈位置はどの辺りが?〉

〈そうだな……入り口付近の俺の武器三つ分先辺りでいい〉

〈了解です。『アース・メイク』〉


 土魔法の使い手は、刻印の刻まれた右手を、俺の指定した位置に向けて小声でアース・メイクを解き放つ――が、魔法を唱えた後でも広間の地面はピクリとも変化する様子は無かった。


 予想はしてたけど、やっぱり駄目か……。


 もしアース・メイクで地面を作り変えられるのならば、塹壕ざんごうのように地面に長く溝を掘り、糸を避けて出口に向かう予定だったのだが、残念な事に、そこまで甘くは無いらしい。

 どうもこの死骸の通路が色を取り戻したことによって、アース・メイクが使えなくなっているようだ。この分だと壁も天井にも使えそうに無い。

 少々気落ちしてしまいそうにはなったが、こんな事位でめげていてはきりがない。

 

 落ち込んでる暇だって惜しいんだ。次だ次っ。


〈ドリー、広間内部にある縦糸と横糸に向かって、一本づつダガーナイフ投げてくれ。勿論全力でだ〉

『へいっ』


 サッと右肩後部のポケットから二本のナイフを取り出したドリーは、ギリギリと弓状に腕をしならせ――ダガーナイフを全力で投擲した。

 ヒュッ、と短い風切り音と共に飛び出した二本のダガーナイフは狙い違わず糸に命中する、も。

 一本は金属にでも当たったかのような音が鳴り、縦糸にあっさりと弾かれ、残ったもう一本は横糸にはベッタリと捕らえられてしまう。

 

 くそ、これも駄目か。


 直ぐに指示を出し、振動に反応して降りてきた蜘蛛達から身を隠しやり過ごす。


 糸を切れるようなら何かあった時に、切り飛ばして逃げられるかと思ったけど、あの音を聞くと縦糸は相当硬い。俺と岩爺さんになら切れるかもしれないが、縦糸はまだしも横糸の方は少し怖い。

 下手に切りかかって武器がくっついてしまったら洒落にならない事になるだろう。

 

 ただ、今ので一つ良い事もわかった。アイツらかなり“知能が低い”

 

 そう感じた理由は、至極単純な事だった。

 空瓶、今のダガーナイフ、計二回の振動し対して、アイツらは『全く変わらない対応を返してきている』から。

 もし少しでも知能があれば、自分の巣に二回もナイフや瓶が引っかかってたら可笑しいと思い周囲を探ること位はしてくる筈だ。

 

 さすがに視界に入ってしまえば対応は変わってくるかもしれないが、彼処まで頭が悪いなら、こうやって隠れてさえいればアイツがこちらに気がつく事はなさそうだ。


 その後も蜘蛛に見つからないように隠れながら、様々な実験を行なっていった。

 炎の魔法で燃やす。結果は、糸に当たった瞬間あっさり魔法がかき消され、焦げ付くことすら無かった。どうやらこの糸は魔法をかき消す効果を持っているらしい。

 次に行ったのは、空瓶を囮に蜘蛛をおびき寄せ、バレないように一撃だけ遠距離武器で攻撃。だが、これも駄目。矢とリッツの魔弾では攻撃力が足りないようで、あっさり蜘蛛の皮膚に弾かれる。

 ならば魔法に変えて、と考えたのだが、途中に張っている糸にどうしたって当たってしまい、結局蜘蛛にまでは届くことはなかった。

 あれこれと試しては見たものの、有効な手段は見つからない。

 

 正直これはもう諦めるしか無いだろう……突破を、ではなく“糸の間を当たらないようにくぐり抜け、蜘蛛に見つからないようにして突破する”という一番取りたくない手段を回避するのをだ。

 出来ればこれだけは避けたかった。もし糸に引っ付いてしまえばそれだけでピンチになってしまうし、誤って縦糸にでも触れようものなら、動きまわる場所が殆ど無いあの蜘蛛の巣の中で戦闘をしなければならなくなる。

 

 やるしかない……か。

 まさか本当に赤外線センサーを避ける泥棒みたいな真似をするハメになるとは思わなかったな。


 馬鹿な事を考えながら改めて目の前に広がる危険な区域を見る。

 張り巡らされた蜘蛛の糸。穴の中で待ち受けている不気味な狩人。気味の悪い壁と緑の体液が通った血管。

 ストレスからか、胃がキリキリと絞られていくのを感じた――。






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