6−13
メイどん達が蟲毒に向かい、既に四日。リドルの街は未だ復興作業と、街内の片付けで慌ただしい程の忙しさに覆われている。
肩に担いだ牛型モンスターと、背負った箱に詰め込んできた薬草や、食べられる野菜の重さを一度だけ確かめて、夕焼けに染まったリドルの裏通りを早足で抜けていった。
それなりに食料と薬草も集まったし、早く避難所に戻らねーと。
復興作業といっても、未だ残骸とモンスターの死骸の撤去が中心だ。家を直すにも材料は足りていないし、外から材料を運びこむにしても大通りの片付けを済ませてしまわないとそれも儘ならない。
普段食料を売っている店だって、壊されたままで開業することすら出来ないし、仮に店が無事だったとしても、満足に店を開くことが出来るかは怪しい所ではある。なぜなら、行商人の数が凄まじく減ってしまっているからだ。
普段リドルに立ち寄る行商人達は、クレスタリア~リドル~シルクリークと回って行くらしいのだが、鼻の効く行商人達は既にシルクリークの状況が分かってしまっていた――そして、そこに追い打ちをかけるようにリドルへの襲撃。
商売人達からしてみれば、態々こんな状況になっている順路を辿らなくても、グランウッド方面なりへと順路を変えれば済む話だ。
武器商人とかなら面倒事の多い地域にでも突っ込んでいくかもしれないが、普通に食料などを扱っている商人達は態々面倒事が起こりそうな地域に向かって足を向けようとは思わないといった所だろうか。
そして、そんな状況もあってか。
《おい、何やってんだお前、さっき配給受けただろうが》
《ああッ! うちには子供が多いんだよ。てめえの所より多く貰って当たり前だッ》
《だから、子供分含めてさっき取ってただろうがッ》
メイどんの言っていたように街の雰囲気が少し悪くなっている気がするだよ。
オラは、無意識のうちに小競り合いを続けている人と亜人に目をやった。すると、それに気がついたのか言い合いをしていた二人がビクリと身をすくませ、怒声を止めてそそくさと逃げるように立ち去っていってしまう。
ドラゴニアンって種族と、オラのデカイ身体もたまには役に立つもんだでー。
思わずそんな下らない事を考える。正直、あの状況で『何見てんだッッ』などと怒鳴られでもしたら間髪入れず謝ってしまう自信がある。だが、今の所は種族と身体の大きさのお陰か、相手側が勝手に誤解してくれているのか大きな問題にはなっていなかった。
増える人口。減りゆく資材。気温も最近では少しづつ冷えてきているし、家を失った人達や、家族を失った人達の心が荒れてきても仕方ない部分はあるのかもしれない。
今はまだ小さな諍い程度しか起こってはいないが、これからは気を付けないといけない。そんな思いを新たに心に刻みつけ、暮れていく太陽を見て祈るように手を組んだ。
メイどん達は……今頃蟲毒に入っているんだろうか。どうかどうか無事で……お願いだから無事に帰ってきてくんろ。
地獄のような場所に向かっていった仲間の安否をただひたすらに延々と願い続けていった。
◆◆◆◆◆
穴蔵に小さな穴を空け、ドリーだけをモグラの叩きのモグラの様に少し外へと出し、周囲の安全を確かめてもらう。
『大丈夫みたいですっ』というドリーの言葉を受けた俺達は魔力温存の為『アース・メイク』を使わずに天井を崩して外へと出た。
念の為、全員で辺りを見渡してみたが、ドリーの言った通り蟲達の姿は無い。
どうやら完全に逃げ切れたらしい。俺は頬についていた泥を軽く指で落としながら、ほんの少しだけ安堵の溜め息を漏らした。
でも、思ったより時間を取られたみたいだな。急いで先に向かわないといけないけど、このままじゃ進んでるうちに夜になりそうだ。
穴蔵でじっとしていた時間は思いの外長かったようで、既に時間は夕方になってしまっている。これから日は沈み込んでいき、樹海の中は更に暗くなってしまう事だろう。
先に進むのだって、足元が見えづらくなれば危険度だって上がってしまう。
本来なら、夜間は穴に篭って休みを取り、明るくなってから動き始めた方が良いのかもしれない……。
だが、俺達にはそれを迂闊に行うことが出来なかった。なぜなら『呪毒蜂に刺されてから、死に至るまで二週間程度』といった時間制限があるからだ。
しかもこの時間制限は立ちの悪いことに『最大でも二週間程度』という意味合いでしかなく、その前に被害者達が死んでしまう事だってある。
そんな状況で下手に時間を使ってしまうと『最奥まで進みクリスタルを壊したけど、帰った時にはリーン達は死んでいました』なんて事になりかねない。
――せめて最奥までの距離が分かってればある程度調節できるのに。
獄級である【蟲毒の坩堝】その最奥に辿りついた者は未だ居ない。そのせいで『どんな危険な区域があるのか』や『クリスタルまでの距離がどれ位』などが分からず、時間の予測がまるで出来なかった。
『休憩を取らずに最奥まで進む』そんな馬鹿な事は出来るはずは無いし、必ず何処かで休息は取らなければならないだろう。
ただ、夜の危険性程度では、半日もの時間を使う事は俺達には許される筈などなかった。
最初の休憩を取るにしてもせめて坩堝に入る直前だな……そこまではどうにか時間を短縮したい。後は、坩堝に入ってからだけど……入ってしまえば夜も昼も関係なくなるだろうし、状況を見ながら判断していくしかないか。
隊全体の調子もしっかりと把握していかないといけないし、魔法使い達の吸印した魔法の種類、残魔力の把握、持ってきている道具など、頭の中に詰め込まないといけない事が多すぎて、何度頭を抱えて喚きたくなった事か。
正直、一人だったら確実に手が回らなくなっていただろう……一人なら。
〈隊長さんよ。取り敢えず中列の風使い一名と後列の土使い一名は魔力が大分少なくなってきてるみたいだな。頭に入れておいてくれ。
それと上から降ってきた軟体野郎に噛まれた一名と同じモンスターに逃げる途中で噛まれた一名が、魔法で怪我を治した後も痛みが引かないらしい。もしかしたら弱い毒でもあるのかもしれねーな〉
手帳の様なものを見ながら、オッちゃんが必要な情報をある程度纏めて伝えてくる。俺は『オッちゃんにどれだけ助けられていることか』そう心の中で仏でも崇めるかのごとく深く感謝の言葉を繰り返していった。
だが何時までもそんな事ばかり考えているわけにもいかない。俺はオッちゃんから貰った情報をある程度自分の中でまとめ上げ。
〈えっと……なら後列土使い一名を中列にいる土使いと入れ替えてください。もう一人の風使いの方はそのまま中列に置いて休ませましょう。後で魔力が回復したら状況を見て消耗してしまった人達と入れ替えで。
それと、カタツムリにやられた二名ですが、解毒の魔法とかは試しました?〉
隊列変更の指示を出していった。
オッちゃんは直ぐに近くにいた走破者を呼び隊列の変更を伝えると、少し困ったような表情をしたまま再度俺に向き直る。
〈ああ、解毒魔法なんだが、試してみたが効果はなかったな。ただ、痛みっても動けないとかそこまでのもんじゃねーみたいだし、戦闘するのは問題はないらしい。余り心配しなくていいだろう。
ただ、あの程度の傷が中位魔法で治して痛みが引かないってのも妙な話ではあるし、念の為に報告をって所だな〉
俺は、その言葉を聞いて直ぐには判断を下す事は出来なかった。治せない毒に関しては実例が既にある。だが、戦闘を行えるほどの痛みと言われると、傷が治りきっていないで痛みが続いているだけなのではないかとも考えられた。
暫くの間、考えてみたがやはり判断はつかない。
仕方なく「戦闘に問題がなさそうなら今の所は保留。その代わり、二名の付近にいる人達はある程度気にかけるように」とすることに。
その他には特に大きな問題などはなく、出発の準備が滞り無く終わる。
俺はそれを確認した後、樹海の奥――蟲毒の坩堝へと隊を率いて進んでいった。
◆
月光が照らす樹海の中を、黙々と押し黙ったまま静かに進む。時折モンスターの姿を見つけはしたが、その全てを隠れ、潜み、やり過ごしていった。
夜間の行軍と言うことで、最初はかなり警戒していたが、今の所、予想していたよりは楽に進めている。
好きにはなれそうにもないけど、今は少しだけ感謝しても良いな。
俺は、そんな事を思いながら、行軍を楽にしてくれている原因へと目を向けた。
月明かりを一心に受け、まるでその光を反射するようにして、淡く発光する花々。お陰で辺りが少しだけ照らされており、ある程度視界を確保することが出来ている。
ただ、それでも辺りが薄暗い事には変わりないし、モンスターの発見だって薄暗さから若干遅れてしまうだろう。
そのせいもあってか、昼間の樹海を進んでいる時よりは、隊全体の緊張と恐怖が強まっているようだ。
これはちょっと雰囲気が硬すぎる。
思わずそう思ってしまう程に、走破者達の表情に緊張や疲れがチラついていた。些か拙いかもしれない。そう感じた俺は、擬態を見ぬくために、先程から延々と警戒を続けているドリーへと声を掛ける事に。
〈なあ、ドリー。擬態モンスターは大丈夫そうか?〉
『はい、今の所見当たりませんね。安心して大丈夫ですっ』
〈おう、任せるぞドリー。頼りにしてるからな〉
『むっふー、それはもう任せて下さいっ。私の枝分かれ警戒網の前では、綿毛一つだって見逃しませんっ』
ドリーは褒められたことで気を良くしたのか、手に握ったままの赤い花をヤル気満々に振り回し、クイっ、クイっ、手首だけを鋭く動かし辺りを探りだす、が。
〈なあ、ドリー。枝分かれじゃ綿毛通しちゃう気がするんだけど〉
『――ッツ!? どどどど、ドングリ……いえっ、木の実一つ見逃しませんっ』
突っ込まれて焦ってしまったドリー。自分では動揺を隠しているつもりなのだろうが、傍から聞いているとまるで隠せていなかった。
ただ、そんないつもと変わらないドリーの声音が隊全体へと届いたことにより、先程よりもほんの少しだけではあるが、固まった雰囲気が和らいでいるようだった。
押し黙って蟲の羽音とかばっかり聞いてたら気が滅入ってしまっても仕方ない。少しは和ませようとドリーに声を掛けてみたが、効果があったようだ。
……いや、もしかしたら、俺自身少し参っていて、単純にドリーの声を聞きたかっただけなのかもしれないな。
そんな事に気がついてしまい、思わず気恥ずかしくなった俺は、ポリポリと頬を掻いて誤魔化した。
そんな事もあって、多少心に余裕が出来た俺は、改めて辺りを見渡して一つ気がつくことがあった。
こうやって冷静に比べてみると、夜間の方が多少楽かもしれないな……あれだけいた呪毒蜂も夜になってからは全然見かけないし。
もしかして呪毒蜂って昼行性か? いや、でも判断するのはまだ早いよな。夜行性の蜂だっているし――警戒だけはしておかないと。
仮に昼行性だとしたら、俺たちにとっては非常に助かる。回復も出来ずに掠っただけで戦闘不能。そんな毒をもった呪毒蜂が今の俺達には一番怖い存在なのだから。
呪毒蜂が居ないと決め付けることは絶対にしてはいけないことだ。だが、現在姿が見えないことも事実『今のうちに距離を稼いでおくべきだ』そう決断して、隊の進行速度を少しだけ早める事にした。
暫くの間速度を早め進んでいる内に、少し樹木の数が減り、岩や土が目立ち始めてきている。
周囲の景色が若干変わったことにより、警戒を新たに再度速度を落とし慎重に進んでいくと――三十メートル程先の樹木が唐突に開けていた。
どうやらそれなりの大きさの広場でもあるらしい。
ゆっくりと歩みを進め、少ないながらも生えている樹木に隠れ、覗き込むようにして広場の様子を探る。
広々と樹木が切り開かれ、地面には茶色の土が一杯に広がっている。
広場だけ見ると何処かの学校のグラウンドのようにも見えた。だが、そんな楽しげな場所が獄級にあるはずもなく、異常な存在感を誇っている物体が、広場の中に突き立つように存在していた。
例えるなら、土塊の塔とでも言えばいいのか、茶色い土を固め、氷柱を逆さにしたようにして地面から生え出している無数の土塊。
俺はその正体を探るべく、今の場所から更に少しだけ近づいていった――。
――ッツ!?
不意に視界の端で何かが動いたような気がした。俺はすぐに一度腕を上げ下げし、身を伏せ目立たぬようにと後方へ指示を出す。
そのままの状態で視線だけ動かし、そのナニカを確認すると――俺は思わず『ああ』と溜め息混じりの声を漏らしてしまっていた。
視界に入ってきたのは、今までその姿を見せていなかった呪毒蜂。いや、無数の呪毒蜂達の群れだった。
突き立てられた土塊の塔には、無数の穴が開いていて、そこに群がるように、蜂と、蜂の子らしき物体がウジャウジャと蠢いている。
どうやら、広場に突き立っている土の塔の正体は、呪毒蜂の巣のようだった。
しかも、その巣を眺めていて、偶然目に入ってきた新たな事実。それは俺としてもかなり予想外のもので……。
――おいおい共食いか? いや共食いとは少し違うか……でも喰われているのは『屍漁り』とか呼ばれてる蛆だよな。
別に虫だと考えれば、お互い喰いあっていてもなんら不思議な事ではない。
だが、見覚えのあるウジ虫達が蜂に捕まり大顎で噛み千切られていく光景を見ていると、何故か違和感を覚えてしまった。
恐らく、リドルに襲撃しに来たさいに、そんな素振りは全く見せなかったのと、人間を持ち去っていた事から想像して、それが餌になっていると思い込んでいたからだろう。
俺としては、ウジ虫にたいして『かわいそう』などとは微塵もこれっぽっちも思わないが、かといって、別に見ていて気分の良くなるような光景でもない。
しかし、どうなってんだアイツらの生態って。夜になって巣に戻っているってことは、やっぱり呪毒蜂は昼行性って事なんだろうけど……平気で巣の回りを飛んでいる奴もいるし。
昼だろうが、夜だろうが問題はないが、夜は基本的に巣に戻っている。程度で考えておいたほうがよさそうだな。それに餌はあのウジが主食なのか? それでたまに人を喰うって事なんだろうか……駄目だ考えても全くわからん。
そんな事を延々と考えながら、一人で首をひねって唸っている、と。
〈しっかし、どうするんじゃクロ坊。さすがにあそこを突破するのは厳しいぞい。回りこむのかのぅ?〉
〈え!? ああ、そうっすね。ここは、一旦後ろに下がって回りこんで進みましょう〉
不意に掛けられた岩爺さんの声に思わず少しだけ声がうわずってしまった。一応気を取り直して指示は出しはしたが、この大量の蜂の姿を見て、俺も少し緊張してしまっているようだ。
ただ、いくら緊張していようが、今の指示だけは間違えようもない。
何故なら、呪毒蜂の群れから発見されずに巣を突破する――そんな事はどう考えてみても不可能なのだから。
どう考えても、多少時間は浪費してしまうが、回り込んで避けたほうが間違い無い。
俺は後ろに下がるように指示を出し――蜂の巣を迂回して進むことにした。
◆
蜂の巣を回りこみ、延々と先に進んでいく内に、今度は奥の方に妙な光り方をしている明かりが見えてくる。
最初は「花が発光しているのか」とも思ったが、消えそうになったりまた光り始めたり、とゆっくりと明滅しながら動いている様子。
なんの光だ? 蜂の巣の事ともあったし、とりあえず迂闊に進むべきじゃないな。一旦隊を止めて少人数で偵察をしてみるか。
手を上げて隊の進行を止め、ドリーに伝えるべき指示を出す。
『みなさーん。相棒からの指示をお伝えしますっ「前列の魔法使い一名、後列の戦士一名は俺についてきてくれ。少し先の様子を先行して偵察に行く。
残った内の十名は周囲の警戒、後は水を飲むなり休憩を取ってくれていて構わない。休憩を取らせる者は魔力が少なくなっているものや、調子が悪そうなものを優先させてくれ』
聞こえた、という合図の変わりに隊の全員が手を上げ返事を返してくる。
俺は、指示がしっかりと伝わったことを確認した後、側に近づいてきた戦士と魔法使いを連れて先に進むことに。
本来なら岩爺さんやリッツ達を連れていったほうが戦闘的な面で考えて安全ではある。が、少しの間とはいえ、俺が隊から離れなければならないので、戦闘力の高い人間は出来るだけ残しておきたかった。方向性は違うが、似たような理由でオッちゃんも却下。
一番良いのは、俺が残って違う者を偵察に行かせる事かもしれないが、擬態をするモンスターがいると分かった今、ドリーが居ない状態で「先行して偵察してくれ」というのは「死にに行ってくれ」と言ってるようなものだ。
ドリーを他の人に付けて偵察を――そう考えもしたが、やはりドリーは俺と一緒の時の方が全力を出せる。俺だってそうだ。単純にわけた分だけ戦力低下、というものではないので、出来るだけそれも避けたかった。
ヒラヒラと宙を飛び進んでいく蝶子さんの後を追うよう、樹海の中を這うように先行していくと、モンスターに見つかることもなく、目的地付近へと無事に到着することが出来た。
俺たちは光の原因を探るため、背の高い茂みの中に潜みながら草の隙間から先を伺っていった。
なんだあれ、崖なのか……その上に飛んでいるのはもしかしてホタル?
地割れでも起こったかのように、少し先の地面が三十メートル程の幅で引き裂かれ、その上には発光している三十センチ程の球体がゆったりと飛び回っている。その明滅の仕方は、いつか見たホタルの光にとてもよく似たものだった。
『どうせ、この区域に飛んでいるホタルなんて碌なものじゃないだろうし、関わらないほうが良いだろう』と、一瞬だけ回り道をすることも考えたが、裂けた地面は途切れることなく伸びていて、俺たちの行く手を遮っていた。
思わずここを避け、回り道をしてしまえばどれだけの時間を浪費してしまのだろうか、と考えてしまう――。
駄目だ。回り込んでいる暇なんてなさそうだし、先に進むにはあの裂け目を越えるのしか無いな。それに、見たところ渡る手段はあるし、どうにかなりそうか?
幸いにもと言うべきか、裂けた地面の上には丸太ほどの太さがある樹木の根が生え伸びており、崖に掛かった橋のようにこちら側と向こう岸を繋いでいる。あれを使えば向こう岸に渡ることは然程難しいことではなさそうだ。
ただ、渡ること自体には問題はないのだが、それとは別に一つ厄介な問題も残っている。あの空中を飛び回っているあのホタルモドキがどういったモンスターなのか今の所不明だという事だ。
迂闊に進んでいって、根の橋を渡っている最中に襲われたら、かなり拙い事になってしまう。
そう考えると、俺は中々判断を下すことが出来なくなってしまい。『何か良い意見は無いか』そう、助けを求めるように、思わず側にいた走破者の二名に顔を向けた。
〈なあ、二人共、何か気がついたこ……〉
だが、そんな俺の言葉は、呆気無く途中で中断されてしまう。何故か先ほどまで茂みに隠れていた筈の二人の走破者がフラリと立ち上がり、夢遊病者の様に、フラリフラリと裂け目に向かって足を進めていたからだ。
〈おい何やってんだ。二人共止まれッ〉
その二人の突然の行動に焦り、静止の声を投げかけるが、全く聞こえていないのか止まる様子は無い。
『相棒、何か様子が可笑しいですっ。力づくでも止めないと』
ドリーの言葉を聞くやいなや、俺自身も茂みから飛び出し、フラフラと歩いて行く走破者二人を追いかけていく。
二名の走破者の歩く速度は、そこまで早いものではなく、直ぐに追いつき腕を捕まえることが出来た。だが、腕を掴まれたことにすら気がついていないのか、お構いなしに前へ前へと歩き続けていく。
〈止まれって、どうしたってんだよっ〉
〈光……家……帰らないと〉
〈ああ、ただいま。ただいま。ただいま。今帰るから〉
視点は定まらず、意味不明な呟きをブツブツと発し、凄まじい力で俺を引きずるようにして誘蛾灯に集る虫のように、裂け目へと向かう二名の走破者。
〈なんだってんだ! 止まれ、止まれよッ。頼むから止まってくれッ!〉
願うように、祈るように、必死になって声をかけ続けるが、全て徒労に終わり、効果が無い。
『相棒っ、恐らく幻覚か何かにかかっています。解けるかはわかりませんがやってみますので、すいませんが、お二人の前方に出て下さいっ』
藁をも掴む気持ちで、ドリーの言葉に従い、俺は掴んでいた腕を離して二人の前方へと回りこむ。既に後ろに余裕は無くもう少し進んでしまえば裂け目に落ちてしまう『早くしてくれっ』そんな焦りが湧き上がり、早鐘を打つように心臓が鳴っている。
二人の走破者を前から抑えながら、少し首を回し、裂け目の下を思わず覗き込んでしまった。
裂け目の底は俺の想像していた程の深さはなく『これなら落ちても死なないんじゃないか』と思える程のものだった。だが、踵で蹴飛ばした一つの石ころが、コロコロと転がり、裂け目の底に音を立てて落ちた瞬間。すぐさまその甘い考えを一瞬で打ち捨てる。
――まるで地獄の底のようだった。
裂け目の底がゾワリとうねり、転がっていた石塊の影から、地面の中から、這いでるように出てきた大量のサソリ型のモンスターが隙間なく這いまわるその光景は。
ただのサソリでも不気味なのに、やはりその姿は人間を元にしているようだ。
人の体を無理矢理に海老反りにし、足を尻尾に腕をハサミに、部分部分だけをサソリのパーツに変えたような醜い姿。顔の表情もニタニタと笑い、歯をガチガチと打ち合わせながらも、俺たちに向かってハサミを高らかに上げて『おいでおいで』と手招きしている。
落ちたら間違いなく死ぬ。そう感じた俺は、引きつるように肺から空気が漏れ出し、全身の肌が恐怖で粟立った。
『相棒っ、私をお二人に届くようにして下さいっ』
恐怖で固まりかけた身体が、ドリーの言葉で反射的に動く。ドリーを差し出すように右肩を前に出しグイと、つきだし二人の走破者に近づけた。ドリーはしならせるように腕を振り上げ。
『にゅおおお、おはようございますっ』
二人の走破者の頬を鋭く叩いていった。バシィッ、と短く頬を叩く音が二度ほど小さく鳴る――。
頼む。お願いだから……。
俺は周りのホタルモドキの動きを警戒しつつも、願うようにして叩かれた走破者二名の様子を見た……。
ドリーに頬を叩かれた二名は少し身体をかしげ顔を俯かせ、先程からじっと動きを止めている。だがやがて――低く唸るような声を出し。
〈あれ、今まで何を……?〉
〈え、樹海? 家が……見えた気がしたのに〉
額に手を当て頭を少しだけ振り始めた。どうにか正気には戻ってくれたようだ。
俺は思わず安堵の溜め息を吐いてしまう。だが、現在自分の置かれている状況をハッと思い出し――直ぐに裂け目から遠のき、武器を引き抜き周囲のホタルモドキへと向けた。
そんな俺の警戒とは裏腹に、月光が照らす裂け目の上をゆらりゆらりと飛ぶホタルは、一向にこちらに襲いかかってくる事もなく、只々辺りを瞬きながら飛んでいる。
その明滅する光はどこか不思議魅力があって――俺は、思わず瞳を動かし目で追ってしまう。
――ッツ!? があ、何だこの感覚。
不意に頭がぐらりと揺れて、少しだけ平衡感覚が乱されるような気味の悪い感覚が、体中を這いまわる。
くそっ、このホタルモドキが、幻覚の原因か?
小さく舌を鳴らし、俺は強引に頭を動かして目で追っていた光を断ち切る様にして視界から外す。
『二人共すぐに目をつぶって下さいっ。飛んでいる光を絶対に見てはいけませんっ』
俺と同じ事を考えたのか、ドリーが正気に戻った二名の走破者達に声を掛け注意を促し、その言葉を聞いた走破者達は、直ぐに状況を把握したのか、自らの目を片手で覆う。
逃げるようにして俺は二人の走破者の腕を強引に掴み、後方へと下がっていった。
◆
やっぱり碌なやつじゃなかった。そんな恨み言にも似た心の声を上げ、茂みの中で尻餅をつくようにして座り込む。未だ二人の走破者には目を覆ったままでいてもらってるが、正直このままここにいても、また幻覚にかかりかねない。
仕方なく『絶対に後ろを振り向くな』と指示を出し、皆を待機させている場所へと二人を戻す事に。
俺は一人で――いや、一人と一本と二匹で、偵察を続けていった。
暫くの間色々と試していて分かった事がある。
まずあのホタルモドキは自らこちらを襲ってくる事はない。だが、同時に攻撃しても倒すことすら出来ないらしい。ダガーナイフを投げてみても呆気無くすり抜けてしまうし、魔法を放っても同じ事だった。
ただ悪い発見ばかりでは無く良い発見もあった。
水晶平原でもそうだったように、俺には幻覚の効果は非常に薄く、ドリーには全くといって良い程効果がない。
試しに何度かあの光を追ってみたが、多少気分は悪くなるが、自分の意思で目を反らせるし、光さえ長く見つめ続けなければ、気分が悪くなることすらない。
それにあの光は目さえ閉じていれば俺たちじゃなくても効果がかかることは無いらしいと分かっている。これだけの事が判明してしまえば、多少危険はあるが突破方法だって思いつくというものだ。
隊を十回程度に小分けにして、目を瞑ったままの状態の皆を俺が先導しながら渡る。
正直かなり危険な案ではあるが、もう一つの懸念があったため、これを行うしかなかった。
夜が明けてしまえばこのホタル達は居なくなるかもしれない。だが……もし、昼間は呪毒蜂がここに集まってきているとしたら?
呪毒蜂じゃなくても他のモンスターに変わってしまっているとしたら?
その可能性を考えると、俺にとってはホタルのほうが危険度が低いと感じられた。仮に呪毒蜂が集まっていなかったとしても、ここが蜂の巣から多少なりとも近い場所であることは変わりないわけで、こんな隠れる場所も無い場所をウロウロと歩いていたら間違いなく見つかってしまう事だろう。
それなら多少の危険を覚悟してでも自ら襲いかかってこないホタルのほうがまだマシだ。
幾ら考えてもやはりその結論に至る。
やるしかない。俺の働き次第では誰も死なせず突破出来るんだ。どうしようもない場面じゃないのなら、犠牲者は出来るだけ減らしたい……。
陰鬱な想像が頭に浮かびそうになってしまうが、頭を振ってそれを追い出して、隊の元へと戻っていった。
◆◆◆◆◆
アタシがお父さん達と共に、少しの休憩を取りながら待機していると――ようやく戻ってきたクロウエが真剣な表情を貼り付けたままで、この先の状況とそれを突破する案を話し始めた。
クロウエを含め四人一組になって目を瞑ったまま樹木の橋を渡る――。
それを聞いた当初、心を埋め尽くしたのは『嫌よ、冗談じゃないッ』という凄まじいまで拒否感だった。幾ら何でも自分は目を瞑ったままで人族に命を預け、不安定な足場を渡るなど、アタシにとって耐え難いものがある。
人族なんて嫌い――そんな思いが心の底に消えないまま渦巻き続けていた。
昔よりは大分マシにはなっているし、クロウエ自体もここまで見てきてそこまで悪い奴ではないのかもしれない……とも思っているかもしれない。
だが、それでも何も出来ない状態におかれ、命をあずけても良いと思えるほどにはアタシは人族を信用してなどいなかった。
『もっと他に何かいい案を考えればッ』そう言おうとも思ったが、私が一人で考え込んでいる間にも、アタシ以外の全員がクロウエの案に賛成してしまっていた。
言い出せるはずがない。獄級走破をしようとしている厳しいこの状況で、アタシ一人のワガママで案を変えてくれなんて到底言い出せるはずが無い……。
〈べ、別に……父さん達が良いって言うなら反対はしないわよ〉
震えそうになる声を押し込めて、小さくそう呟いた。アタシの様子に姉さんは気がついているのか、背中を小さく叩いて『大丈夫?』と、声を掛けてくれた。
本当に姉さんはアタシと違って強い。うろたえる様子すらない姉の姿にアタシは尊敬と――ほんの少しだけ嫉妬の感情を抱いてしまう。
父さんは気がついているのかいないのか相変わらず飄々としていて、特に何かアタシに言うことも無い様子だ。
着々と準備が進められていく中、一人俯きながら、気持ちを落ち着かせようと足掻いていった。
◆
よりにもよって一番最初――目を瞑ったまま何も見えない状態で、クロウエの肩を掴んで先へと足を進めていく。
せめて中間位が良かったのに……。
そうアタシは思っていたのだが、お父さんが何故か一番最初の三人にアタシを連れてってくれと言い出し、その言葉に驚き戸惑っている内に――止める隙すら無く決定されてしまう。
後でお父さんに文句を言ってみたのだが『中間にしたら何か問題でもあった時、それで怖気付いてしまって動けなくなりかねんしのぅ』などと言われて返す言葉が無くなり、押し黙ることしか出来なかった。
最後の抵抗に『ロープか何かに結んでおいたり、全員をつないだりしては駄目なの』と聞いてみたが『リッツ、もしもの時が起こって、そんな時にロープで繋がっていたら皆巻き添えで死んでしまうじゃろ? 仮にクロ坊が助けてくれたとしても繋がったままでいられるとあの狭い足場では何かと不便な事が多いしのぅ』と返された。
『じゃあ魔法で何か足場を作れない? それかもっと渡りやすい木を切り倒して橋を作るとかっ』必死になって思いついた案を言ってみるも、全て一刀両断に却下されてしまう。その上『さっきクロ坊が話しとったじゃろ。聞いとらんかったのか?』とまで言われる始末。
実際考え込んでいたせいで、聞いていなかったのだからまたしても何も言えない。
クロウエの言うには『魔法で足場を作るには魔力の消費が激しすぎる。何かで橋を作るにしたって、それなりに時間もかかる上にいくら気をつけていても、派手な音だって鳴ってしまう。
それに俺とドリー以外は光を見ることすらできない状態なんだ。人手を使って何かをする案がそもそも無理だ』という事らしい。
はあ、と溜め息を零しながら、手の平に伝わる感触だけに意識を集めて、一人恐怖を誤魔化している、と。
〈なぁリッツ。もしかしてビビってますか? いやーなんだかリッツらしくないな〉
クロウエが挑発するような口ぶりでアタシを煽ってきた。その声音が無性にイラついて、ついつい握っていた肩を力いっぱいに掴みながら、反射的に言い返してしまう。
〈うっさいわよ、このクロウエ。黙ってさっさと進みなさいよ。それにアタシが怖気づく筈ないじゃないっ。
そんな事ばっか言ってるからアンタはいつまで経ってもクロウエなのよっ〉
〈痛い痛い、肩力入れすぎだ。やめろ折れるっ。つか、その言い方だとクロウエって名前自体が悪口みたいに聞こえるじゃないか。何なの、やめて欲しいんだけど〉
〈ッハ、やっと気がついたの? ずいぶん遅かったじゃない。これだからクロウエは困ったもんよ〉
その後も何か言ってきたが、全部に対して『はいはい、クロウエ、クロウエ』と言ってやった。
多少は言い返したお陰か大分気分もすっきりしたので、握りしめていた手の平の力を少しだけ緩めてやる。
『ふむ、白フサさんは怖いのですか? 大丈夫ですよ私の相棒に任せておけばっ。それに白フサさんなら、仮に落ちてもタンポポみたいに風に乗って飛べるはずですっ。立派な綿毛を持っているんですから安心して下さいっ』
〈……ええっと、そ、そう、そうね飛べるかもしれないわね〉
『はいっ、大丈夫ですっ』
純粋にアタシを励まそうとしてくるドリーちゃんの言葉。クロウエとは違って厳しく返す事も出来ず、思わず少し詰まりながら返答してしまう。
すると『ブフッ』と前方から噴き出すような音が聞こえ、後ろで同じようにアタシの肩を掴んでいた走破者の手が笑いを堪えるようにして小刻みに震え始めた。
こ、こいつら……後で死なすッ。
前方で吹き出しているだろうクロウエと、後ろで笑いを堪えているだろう魔法使いへ、心の中で復讐の誓いをたてた。
余りにもイライラしたせいか、少しだけ心にのしかかっていた不安が軽くなっている気がした。
これを狙ってやったのだとしたら少しは感謝しなければならないが、どうせクロウエの事だから何も考えていないに違いない。
心の中でこれは借りじゃないわ。私は貶されて笑われただけじゃない、と独りごちる。
暫く目を瞑ったまま進んでいると、先頭を進んでいたクロウエが足を止めた。
〈今から渡り始めるんで、目は開けないで下さいね。前の人の肩をしっかり掴んで、足元を確認しながら進んで下さい。もし何かあっても俺とドリーで助けるんで……絶対に目だけは開けないように〉
ギリギリと、不安で胃が締め付けられるように痛む。恐怖で身体がこわばりそうになる。ゆっくりと進み始めたクロウエの肩を必死で掴みながら、アタシは足元を確かめながら進んでいった。
静かに慎重に足の裏に感じる少し丸くなっているだろう木の橋を、踏みしめ進んでいく。
正直、何も見えない事がここまで恐ろしいものだとは思わなかった。
目を瞑っただけでここまで心がざわめくとは思わなかった。
足を進ませる度に何もない空間に踏み出している気がして、心臓が跳ね上がり、風が吹く度に身体が少しだけ揺れて悲鳴を上げそうになる。
また一歩進む。
まだ終わらないのか。まだ向こう岸にはつかないのか。
集中する余り、段々と時間の感覚が麻痺してきて、既に一時間でも二時間でも経ってしまっているような気がしていた。
悲鳴を上げたい。もう嫌だ。怖い怖い。心の中をそんな感情が埋め尽くす。
自然と呼吸が荒くなっていった。
進んでいく内に徐々にだが、不安や恐怖が増大されていくように感じる。
今アタシは真っ直ぐに進めているのだろうか。こんな心境のままでは身体がふらついているんじゃないか。
後ろの走破者が落ちるのでは。更に後ろはどうなんだ。モンスターは本当に居ないのか。襲いかかってこないのか?
様々な不安要素が頭の中をグルグルと回り続け、アタシの神経を擦り切らせ続けていった。
進んで進んで、黙々と恐怖と戦い足を踏み出していくうちに。
もうダメだ。耐え切れないッ! そんな思いが心の底に湧き上がりそうになってしまう。
だが、まるで狙ったかの如く。
〈おお、もう少しだ。後ちょっとでつくからな。いやー案外余裕じゃないか、これなら簡単だ〉
そんなクロウエの軽い言葉がアタシの耳に入ってきた。
もう少し……あと少しなら。まだ頑張れる。それにクロウエが余裕そうだしモンスターなんかは居ないみたい。
良かった。本当に良かった。
沸き上がってきていた先ほどの思いを『あと少しだから』と押し込める。
先程から大分時間が経っているようだったが、まだ着かない。きっと時間の感覚が可笑しくなっているせいだ。そう自分に言い聞かせ、足を踏み出した――。
――ズルッ。
苔か何かに足を取られたのか、足が滑り身体が右に傾ぐ。ヒヤリと全身に寒気が走り、凍りついたように身体が動かなくなり悲鳴すら出なくなった。
駄目だ落ちる。そう思って必死に抵抗しようとするが、いくら頑張ってもアタシの身体が動くことなどない……。
傾ぐ身体とパニックになる思考。だが、それを全て遮るかのように、アタシの肩がガシりと掴まれ、泳ぐ身体が止められる。
……アタシの落下を止めてくれたのは『ドリーちゃん』だった。
どうやら、クロウエの右肩にいたドリーちゃんがアタシの様子に気がついて。ギリギリで止めてくれたらしい。
――というか、何がもう少しよ。まだ『半分』しか渡ってないじゃない。やっぱり、人族って奴は嘘つきばっかりよッ。
もう少しだと言っていたくせに、まだ半ばほどしか渡って居ない事実を『確認』したアタシは、心の中でそんな愚痴のような言葉を呟いた。
そう……アタシは落ちる恐怖から『目を開いて辺りを確認してしまっていた』のだった。
眼前に揺らめく発光する球体。
それが視界に入った瞬間――アタシの意識が引きずり込まれるようにして、もっていかれる。
頭の中が真っ白になり、お日様にも似た明かりが視界を埋め尽くす。
光り、光り、光り。
どこか優しいそんな光は徐々に徐々にだが和らいでいき、次第にアタシの眼前に木材で出来た一つの民家と慈愛の篭った笑顔を湛えた二人の姿が映り出す。
暖かそうな茶色の毛並み、何処かお姉ちゃんに似た顔をした女性。
頼り甲斐のある黒い毛並みの男性は、ツンと尖った鼻がどことなくアタシに似ている。
嗚呼――あれがアタシのお父さんとお母さんなんだ。一生見ることなんてできないと思っていたのに。
会えることなんて無いと思っていたのに。
ただいま、ただいま。
躊躇うこと無く足を踏み出し近づいた。
だって、躊躇う必要なんてないじゃない。アタシの両親の元へ帰るだけなんだから。
ビキィッ!
だが、いざ両親の元へと向かおうと足を伸ばしたアタシの前の空間がそんな音と共に突如ヒビが入り――。
『白フサさんッ。起きて、起きて下さいッ』
そんな、聞き覚えのある声が耳を打った。
壊れる。割れる崩れ逝く。
アタシの目の前に広がっていた光景が引き裂かれるようにして、呆気無く壊れていった。
強引に引き戻される意識と身体。遠のいていく幸せな光景。思わず手を伸ばして掴みとろうとするが、全てが淡く光になって消えて去ってしまう。
意識が戻った直後に最初に視界に入ってきた――その間抜けな顔をアタシは忘れることが出来ないかもしれない。
泣きそうで、苦しそうで『嫌だ嫌だ』と泣き叫ぶ子供の顔にも似たクロウエの必死の形相。右手でアタシの手を掴み、左手でもう一人の走破者の手を掴み、決して離すまいと握り締めている。
〈俺の手の届く範囲ならっ。どうしようもない状況じゃないのならッ。死なせたくない。見殺しにしたくないッ!〉
小さな声ではあったが、不思議とアタシの耳に届いてきたそんな小さな叫び。まるで自分に言い聞かせるように、自分を奮いたたせるように、そう言い続けている。
――馬鹿ね。アンタ二本しか手がないじゃない。もう一人はどうしたのよ。
いや……馬鹿はアタシか。そういえばクロウエにはもう一本、自慢の手があるんだったわね……。
未だまともに動いてくれない思考でそんな事を考えながら、視線を動かす、と。橋の途中で唐突に生え出している樹木の腕が、最後の一人を支えているのが見えた。
『私と相棒が力を合わせればっ。こんな程度の危機など簡単に乗り越えてしまうのですっ。さあ皆さん、また目を閉じて、ゆっくりと上がってきて下さい。瞑ったままですよ』
ドリーちゃんの声に従い。アタシは再度視界を閉ざし、ぶらりと下がっていた片方の腕に力を込めて、橋へと上がっていった。
根の橋を渡りきった後、地面に力なく座り込み。深呼吸して荒れた呼吸を整える。
不意に同じく座り込んでいたクロウエと目が合った。
〈れ、礼は言わないわよ……リドルの襲撃で、アンタに貸しつけた借りが残ってるんだから。これでチャラになっただけよっ〉
アタシは反射的にそんな馬鹿な言葉を吐き出した。
〈はいはい、別になんだって良いって。本当、助かって何よりだ〉
先ほどとは打って変わって、余裕の笑みを顔に貼り付け、手の平をヒラヒラと振りながらクロウエはそう言った。
だが、表情とは裏腹に、顔色は少し悪くなっているし、額には冷や汗でもかいたのか前髪が額に張り付いている。
動揺しているのだろうか。恐怖を感じているのだろうか。今は少しだけ垣間見えているクロウエの内心ではあったが、きっと向こう岸に戻った時には全て隠してしまっているのだろう。
そんなクロウエを見ていると、礼の一つも満足に言えなかった自分が、とても惨めで醜く思えてしまう……。
◆◆◆◆◆
最初こそかなり苦戦したが、何回も行き来していると、少しは慣れてくるものがあった。三度程落ちそうになったものがいたが、ドリーのお陰で全て事無きをえている。
良かった。一人の犠牲者も出なくって。
良かった。俺にはドリーがいて。
緊張の連続だった。何度ヒヤリとしたか分からない。
だが、全ての走破者達を反対岸へと渡しきった達成感と安心感のお陰か、身体は疲れてはいるが、まだ動けるようになっていた。
他の走破者達も橋を渡る順番待ちで休憩を取れている事だし、まだ体力には余裕がありそうだ。
俺は、乱れてしまった隊列をすぐに整え、先へ先へと向かって足を進め続けていく。
目指す坩堝まであと少し――。
俺の視界の中には白み始めた空とその光に照らされて、静かに佇んでいる土塊の城が樹海の隙間から遠目にチラチラと映っていたのだった。