6−8
獄へと通じる扉が開く。現実と悪夢がないまぜになってしまったかの様な光景が俺の視界を埋め尽くす。
侵略を阻んでた金属扉が圧力に負けてはじけ飛び、土砂崩れの如く蛆が街へとなだれ込んでくる。
一人の走破者が、喉を枯らさんばかりの声で「ここで止めろ」と、怒声を飛ばし。
また誰かが、絶望を感じさせる悲痛な声音で「逃げろ……逃げろッ」と、叫びを上げた。
十名程の走破者が弾かれたように動き出し、蛆に向かって魔法を放つ。雷撃が唸り、火炎が巻き上がり、土壁が行く手を阻む。
押し返すように、魔法が次々と着弾していき、幾多の蛆達が散っていく。
このまま扉の外まで押し返せばまだ間に合うかもしれない、そんな希望が俺の心に湧いた瞬間、事態は更に変化していった。
突如として蛆の海が割れ、その中から赤黒いナニカが這いずる様に飛び出してくる。先程から蛆に向かって魔法を撃ち続けていた一人の走破者が、その姿を見て、歯をガチガチと打ち鳴らせ、顔を蒼白に染め上げ悲痛な声を上げ始めた。
《ッひ!? じょ、冗談じゃねーよ。隠れてやがったのか……今まで屍漁りの中に隠れていやがったのかッ!!》
蛆の海に今まで身を潜めていたのだろうそのモンスター。俺は、そいつの姿を遠目に見ただけで理解してしまった。
――コイツはこの街に現れたどのモンスターよりも危険度が高いと。
背中には、黒光りした甲殻を瓦の様に重なり連ならせ、動く度に擦り合わされた甲殻がギシギシと硬質な音を立てている。
民家を丸々巻きとってしまいそうな程平たく長々と伸びた胴体両脇には、丸太ほどの太さがある赤黒い人間の手が百程生え出し、捕まえる獲物を求めるように蠢いていた。
長い触角と大顎を持った頭部が、鎌首を上げるように持ち上がり、見たくもなかった腹部分が視界に入る。背とは違い甲殻が覆っていない腹部分には、埋め尽くすように無数の顔が張り付いており、その全ての顔は、頭部が持ち上がると同時に怨嗟の入り混じった金切り声を上げた。
――ギィィィィイイイイイアアアアアアアアアアア嗚呼ッッツ。
反射的に耳を庇おうとするが、聞いただけで呪い殺されてしまいそうな金切り声と、生理的嫌悪を感じさせる醜悪な姿を目の前にして、俺は身体を動かすことも口を開くこともすらも出来なかった。
新たに現れた長大な百足……いや、【百手】は、身体を弓の様に反り返らせ、限界まで引き絞った身体を、鞭の様に振るわせる。
鼓膜が破けそうなほど盛大に鳴らされた破砕音と共に、暴れまわる百手によって民家は次々と薙ぎ払われていった。
走破者達もただ無抵抗にやられる筈もなく、雄叫びを上げてムカデに魔法を打ち込み始める。しかし、ムカデの甲殻に直撃した筈の魔法は、傷ひとつ付けること無くかき消されるように霧散してしまった。
俺はその現象を一度だけ見たことがある。リーンの爺さんでもあるゴンド爺が俺の雷撃を打ち払った時と同じ現象だ。つまり俺の予想が当たっているなら、あのムカデの背負った鎧には魔法をかき消す効果があるのだろう。
エントにまで効果があるか、甲殻の覆っていない腹にたいして効果があるか、など細かい事は分からないが、遠距離攻撃が大した効果を及ぼさないことだけはよく理解出来た。
地獄絵図とはきっとこんな光景の事だろう。
百手によって民家の屋根に登っていた走破者達は、紙切れの如く軽々と吹き飛ばされ、それを逃れた者達に呪毒蜂が群がり襲い掛かる。
恐慌状態に陥った者達が、地に降り立ち逃げようとするが、愚直に突き進む蛆にあっさりと飲み込まれていく。
暴れ狂う百手はただ身体を振り回すだけでなく、同時に腹に張り付いた幾多の顔から紫色の液体を吐きだし、粘度を感じさせるベチャベチャとした音をさせながら、辺りに撒き散らす。
その粘液が直撃した運の悪い者達は、狂ったように絶叫を上げ、全身を掻き毟り始め、吹き出させるように血を撒き散らせながら命を散らしていった。
怖かった。蟲達の全てが怖かった。この恐怖の根源は、俺が最初に襲われたあの光景を思い出してしまうからなんだろうか。
悲しかった。この光景全てが悲しかった。この悲しみの根源は、最初に襲われ死んでいった友達を思い出してしまうからなんだろうか。
分からない。自分自身の感情が分からない。ただ、この魂に刻み込まれたかのような悲哀のせいで、何もする気力が湧かなくなり、鍵でも掛けたかの様に思考は止まり、俺は呆然と立ち尽くす。
『相棒ッ、避けないと――動いて下さいっ』
ドリーの声に反応して、視線を上に向けると、百手のまき散らした粘液が俺に向かって降り注いでくるのが見えた。しかし、俺は避けることすらままならず、他人ごとの様にその光景を眺め続ける。
「あぶねぇ、メイどんッ!」
凄まじい力が身体にかかり、俺は引き倒されるように後ろへ移動させられた。先ほどまで俺がいた場所に気色の悪い音を立てながら粘液が着弾する。どうやら俺は間一髪の所で粘液から逃れられたようだ。
「メイッ! 何やってるのよ。早く立って逃げるわよッ」
リーンが珍しく、怒鳴りつけるかのような声を飛ばし――へたり込んでしまっていた俺の手を強引に掴み、街の中央へと向かって走りだす。
泳ぐ身体。もつれそうになる足。引かれるがまま、引き摺られていくかのように、迫る蟲達から逃げ出して行く。
何度も何度も後ろを振り向いた。もう自分の直ぐ側まで迫ってきているんじゃないかと不安に駆られ、足を動かす事も忘れ、何度も何度も振り返る。
だが、そんな事をしていれば、当然上手く走れるわけもなく、幾度も足をもつらせ転んでしまいそうになった。
俺が転びそうになると、手を引いているリーンまで一緒に躓いてしまう。その度にリーンは俺に向かって何か声を掛けてきているようだったが、俺は背後から迫る蟲達の事が気になり、全くに耳に入って来なかった。
唐突に、俺の手を引き、逃げ続けていたリーンが足を止める「何故足を止めたんだろう」そんな疑問と共に俺はリーンに顔を向けた。
――瞬間。
バシィッ、と短く力強い音が鼓膜を打ち、数瞬おいて右の頬がジンジンと痛み出す。
その痛みと感じる熱さで、俺はようやく頬を張られたのだと理解した。
背後から近づく蟲などどうでも良いと言わんばかりに、リーンは俺を目を吊り上げ睨みつけ、悲憤を湛えた表情を貼付けながら口を開く。
「なんなのよ……どうしたのよッ。いつものメイらしくないじゃないッ!!
あんな光景を見て、怖がるなとは言わないわよ。常に強くあり続けろなんて言わないわよッ。
でも、怖くて足が動かないならそう言いなさいッ、私が背負ってでも逃げてあげるから!
腕が動かないならそう言いなさいッ、私が代わりに動いてあげるからッ!」
目尻に少しだけ涙を溜め込み、手に持った大剣を地面に振り下ろしリーンが叫ぶ。
「まだ、どうしようもない状況じゃないでしょ、中央の避難所に逃げればどうにでもなるでしょ?
怯えたっていい、一人で無理なら幾らでも手伝ってあげるッ。でもそんな、メイらしくもない諦めきった表情だけは私は絶対に許さないッ!!」
リーンは怒っている筈なのにまるで泣いているようで、どこまでも必死で、純粋に俺を心配してくれていることが伝わってくる。その言葉は体中に染み渡り、今まで俺の思考を止めていたナニかが、ガキリ、と音を立てて外れていった。
俺は……俺は一体何をしているんだ。馬鹿みたいに呆けて皆に心配掛けて。
大体リーンの言った通りだ、まだ全然絶望的な状況でもなんでも無い。中央まで逃げ切れば、防壁があるんだ、時間さえかければ生き残れるだろ。危険なのはあのムカデ位で、他の走破者達と連携を取って倒せば済む話じゃないかッ。
諦めきった顔――自分では確認出来ないが、恐らくリーンの言った通り、情けない顔でもしていたのだろう。無意識に頬に手を当てグニグニと顔を解す。そんな俺の仕草を見て、リーンは確認する様に声を掛けてきた。
「背負って逃げてあげましょうか?」
「自分の……自分の足で走れるよ」
「そう? 遠慮しなくて良いのに」
俺の言葉でリーンは顰めていた顔を花が咲くように笑顔に変え、クルリと背を向け走りだし、ドランが「メイどん。早く、急ぐだでーー」と慌てて逃げ始める。
背後からは絶叫と悲鳴、民家が破砕されていく音と蟲達の気味の悪い鳴き声が近づいてきていた。
『怒られちゃいましたね、相棒っ』
「まあ、今回は怒られて当然だからな」
『ふふ、良かったですね』
「別に怒られたって嬉しくねーよっ」
『でも怒ってくれる相手が居ることは幸せですよっ』
ドリーのセリフに言い返す言葉も無く声をつまらせた。そんな俺を見て自慢気に『ふっふっふっ』と笑いながら揺れるドリーを軽く小突きリーンとドランの後を追う。
いまだ上がっては落ち、落ちては上がる不安定な俺の心。自分自身で何でこんなにも動揺してしまうのか分からない。だが、仲間に支えられ背を押され、挫けそうになりながらも、生き残る為に走りだす。
◆
「メイっ、上空に三匹ッ」
大通りを疾走しながら、街の中央へと向かう中、リーンの注意を促す声が俺の耳に届く。視線を上空に向ければ呪毒蜂が二十匹程襲いかかってきていた。小さく舌打ちをして、ドリーと共に逃げる足を止めずに蜂を迎撃していく。
こいつら……本当にしつこい。
執拗に俺達を追ってくる呪毒蜂の群れ。倒しても倒してもどこからともなく現れ、追ってくる蜂の数は徐々に増えていっている程。
背後からは蛆が追って来ているので、足を止めて蜂と戦う訳にもいかず、鬱陶しい事この上ない。他にも逃げている走破者達はいるのだが、それと比べても俺達だけやたらと狙われている様な気がしてしまう。
やっぱドランの巨体が目立つからなのか? それとも何か他に理由が……駄目だ、考えたって判るはずもない。大体モンスター達が何を考えているのかなんて俺の知ったことじゃないし、今は逃げることに集中しないと。
――この状況でムカデがこちらに向かって来ようものなら、目も当てられないし。
どうやらあの巨大ムカデはまだ門付近で暴れているらしく、こちらに向かって来ている様子はない。ただ、いつアイツの気が変わるとも限らないので、まだ安心する事も気を抜く事も出来そうにはなかった。
蜂を振り払うかのように逃げ続けてはいるが、どうにも呼吸が乱れるのが早い。走るペースはドランも居るため全速力ではないのだが、追われているという緊張感からか、普段よりも疲労蓄積が多い気がする。
ドリーに頼んで全員に身体強化を掛けて貰い、ドランの走る速度に合わせているので、速度は蛆達よりも早い。この蜂さえいなければここまでギリギリにならずに済んだものを、と一人考え毒づいた。
ドリーの『ペネトレイト・ウォーター』とダガーナイフで上空から迫る蜂達を迎撃させ、近寄ってきた蜂を俺とリーンで相手をする。ドランは速度を絶対に落とさせないように逃げる事に集中させ、ただ全力で走らせた。
最初みたいにどっかから屋根に登って逃げるか? ……いや、あの蜂に群がられるだけだ。どうしたって走る速度も下がるだろうし、このまま逃げるほうがまだマシか。それにあと少しで中央避難所まで辿りつける。このまま行けばギリギリで逃げ込めるはずだ。
辺りを見渡せば俺達と同じように中央へと逃げていく走破者達が数多く見受けられた。必死な形相で逃げる者、背後の蛆達に向かって魔法を放ちながら逃げる者、人によって特色や性格が出てはいるが、その全ての人達が必死になって逃げている事だけは変わらない。
通りの横道などからも逃げてくる人々が合流してきているので、先に進めば進むほど人の数が多くなってきている。
迫る避難所の門は既に七割程閉められており、その門の前では二名の走破者が「早くしろッ、まだ、間に合う急ぐんだッ」と言ってこちらに声を掛けてきてくれていた。
良かった――大丈夫だ、間に合った。
――本来ならば間に合った。何も起こらなければ間違いなく間に合った。脇道から逃げてくる走破者達が、大量の呪毒蜂を引き連れ前方に現れなければ。
現れた蜂達はこちらに気がつくと、追いかけていた走破者を放り出し、行く手を遮るかのようにこちらに向かい始めてくる。
どうにか、急いで突破すれば……。
俺達の近くを走っていた走破者達も顔を必死の形相に変え、前方を飛び交う蜂の群を突破するべく魔法を打ち込み、武器で斬り込んでいく。 俺とドランも武器を振り回し蜂を薙ぎ払い、ドリーとリーンは魔法で蜂を落とし道を切り開いていく。
多少の犠牲を出しはしたが、全員が一丸となって蜂の群れを突破していった。
だが間に合わない。だが届かない。モンスターから守るため、中に逃げ込んだ者を守るため。避難所の扉は金属を音を響かせ、なんの容赦も無く閉められてしまう。
周囲から絶望を感じさせる声が聞こえてくる「もうダメだ」膝を折って立ち上がる気力を無くした走破者がいる。
でも、俺は諦めたくなんて無かった。こんな所で自分が死ぬのも仲間が死ぬのも嫌だった。
不可能だと諦めることは簡単で、もう無理だ、と絶望することは楽な事だ。
リーンの馬鹿みたいな力で張られた頬は、未だヒリヒリと痛み、周囲の場所よりも温度が熱く感じる。
喉が潰れても構わない。そんな気持ちで俺は怒声を上げて、周りの走破者に向かって指示を出す。
「簡単に諦めんなッ。避難所の架け橋に陣取って隙を見つけて縄か何かで上がれば良い、中に逃げ込んだ走破者達だって城壁の上で防戦するんだッ。耐えて耐えて耐え抜けば。その隙があるかもしれないだろッ!」
先ほどビビって諦めそうになっていた俺の言うセリフでは無いかもしれない。でも、俺がリーンの言葉で動けるようになった様に誰かが動けるようになってくれれば、一人よりも二人、動ける者が増えてくれれば、生き残ることが出来るかもしれない。
避難所の周りには水堀が張られ、門に繋がる場所には架け橋が掛けられている。そこに陣取り防戦すれば、周囲を取り囲まれることだけは避けられる。流石に門を開く事は出来ないだろうが、上から縄でも降ろしてもらえれば、逃げ込める可能性だってゼロじゃない。
ネックとなるのは、やはり呪毒蜂。しかし、防衛が始まれば呪毒蜂の目標も散らばっていくだろうし、それが駄目なら少し数が減るまで耐え切れば良い。
小さすぎる希望と、生き残る可能性。他にもっと手段があるかもしれない、もっと生き延びる可能性が高い案があるかもしれない。だが、今は考えている暇などなく、躊躇していればこの小さな可能性すら消えてしまう。
俺の言葉になんの躊躇いもなく動き出したリーンとドランは、架け橋に向かって蜂を片付けながら走りだし、周囲の走破者もそれを見て、動き出した。
◆
何も考えずに目の前の敵を切り裂き、吹き飛ばし、燃やし尽くす。
各々の走破者が命を賭けて、迫る蟲の群れを阻む。魔法使いを後方扉方面に、戦士職が橋の前方で、次から次へと押し寄せる蛆と蜂から身を守っている。
俺達は前衛に陣取り、武器を振るい、蛆の波を必死になって押し返そうと身体を動かし続けていた。出来れば後ろに下がりたい。そんな本音を無理やりに奥へと押し込め、縮こまって震えてしまいそうになる弱い心を押さえつける。
これを言い出した俺が先頭付近で戦わなければ間違いなく士気が下がってしまう。下がった士気は簡単には戻らないだろうし、俺が最前線で戦わなければならないのは最初から分かっていた事だった。
でも、リーンとドランまで付き合わなくても良いのに。後ろに下がっていてくれた方が俺としては気が楽だ。戦力的に考えれば前線に出てくれたほうが良いに決まっているのだが、こんな死と隣り合わせの状況で仲間を最前線になど出したくはなかった。
馬鹿みたいなワガママだとは分かっていても、俺にとって「仲間を失うかもしれない」という恐怖は耐え難いものがある。
後ろを少し振り返り、防壁の上を見てみるが、必死に応戦している走破者達は蜂の群れを防ぐことで精一杯になっているようで、未だ上に引き上げて貰える様な余裕は見えてこない。
――――ギャアアアアアア。
聞いただけで苦痛を感じさせる悲鳴が響き渡り、また一人走破者が蛆に飲み込まれた。もう何人目だろうか。四十前後は居たはずの走破者は既に二十数名ほどにその数を減らしていて、周囲には徐々に絶望の色が濃くなっていた。
ドリーのウッド・ハンドで飛び上がり壁を越える。そう考えたこともあったが、空に群れるあの蜂の中に、上手く身動きが取れない状態で飛び込むなんて、ただの自殺行為でしかないと諦めた。ならば、魔法で蜂をある程度一掃してから飛び上がれば? 最初は上手くいくかと思ったが、残念な事にドリーは一人しか居ないし、ウッド・ハンドを使える走破者もここには居なかった。そうなると、最後の方まで残っていなきゃならない人達は確実に蛆に押し切られて死んでしまう。
自分達さえ助かれば、そんな思いだって微塵も無いわけでもない。でも、そんな事をしようものなら確実に走破者同士の争いが起こり、逃げられても最初の一人か二人だろう。
つまり、確実に仲間の一人は死に至る。俺にとってそんな事が許せるはずもなく……蜂の数が減るか、防壁の上に余裕が出るまでただ耐え忍ぶ事しか出来なかった。
聖人君子のような人ならば我が身を犠牲に見知らぬ人達を助ける。なんて事が出来るのだろう。でも、俺に出来ることの限界は仲間を守るためという狭い範囲だけ。
畜生の如く外道になれれば、仲間も見捨てて俺は助かる事が出来るだろう。でも、俺には仲間を見捨てるなんてことは出来そうになかった。
英雄にもなれず外道にもなれない半端者。でも俺はそんな自分で良いと思っているし、自分の信じる思いを貫こうと心に決めていた。
絶望の沼で救って貰ったドリーにも、何だかんだと世話を焼いてくれていたリーンにも、臆病と勇気を同時に持ち合わせている心優しいドランにも、また会おうと約束を交わしたラングにも。この世界に放り出され、俺が出会い世話になった様々な人達にも、返せるようなら恩を返したくて、手の届く範囲でしかないかもしれないけど、この危険な世界から守りきりたかった。
肺が破裂しそうなほど身体を動かし、筋肉が千切れそうなほど武器を振るう。ただ仲間を守りたくて、ただ傷つけたくなかった。
――だが。
視界の端でリーンの身体が倒れていくのが見えてしまった。特大の魔法を使い、息つく暇もなく戦闘を繰り返したリーンの身体は既に限界で、大剣をまともに握ることすら出来なくなってしまっていたらしい。
糸が切れるかの様に力が抜け落ち、ゆっくりと倒れこんでいくリーンを見て、俺は支えてやろうと反射的に駆け出した。
俺の口から思わず掠れた様な声が口から漏れ出し、リーンに向かって手を伸ばす。
もう少しで、後少しで。
しかし、リーンが意識を失い倒れこんだのをモンスターが見逃すはずもなく、隙間を縫って近づいた呪毒蜂が、俺の手が届く前にリーンの脇腹に毒針を突き刺した。
ドランはリーンに取り付いた蜂を見て、怒りの咆哮を上げながら、蜂の頭部を掴み握りつぶし、俺はリーンの身体が倒れこんでしまわないように抱きとめた。
火傷してしまいそうに熱をもった身体と、支えた俺の手にドロリと伝う真赤な血。まだ死んでは居ない。でもこのまま放っておけば確実に死んでしまうだろう。
意識を失ったリーンは、汗を流しながら、荒く乱れた呼吸を繰り返す。熱を持った身体とは逆に、生命力を感じさせる温かみが、流れ落ちる血液と共に抜けていく。
「……嫌だ、嫌だ嫌だアアアアアア嗚呼嗚呼ッ!!」
言葉に出来ない感情が俺の頭をかき乱し、抑えようの無い激情が心を埋め尽くす。
◆◆◆◆◆
相棒が悲痛な叫び声を上げる。その手にもった槍斧を握力だけで握り潰してしまうのではないかと思った程に。私の意思とは関係なく、魔力が相棒に流れていく。空になった魔力を満たそうとするように。
私と相棒の魔力量の差は大きく離れている為、私自身に支障はないが、まさかそんな事が出来ると思ってもいなかったので、驚き動きを止めてしまった。
そんな私を相棒はゆっくりと掴み、樹々ちゃんと共に。トカゲさんに向かって優しく放り投げた。
何をするのですか相棒、なんで私を下ろしたのですか?
そんな疑問が後から後から湧いてきたが、少し考えて私を下ろした理由に検討がついた。仲間の中で回復魔法を使えるのは私だけ、トカゲさんのお薬や、治療だけではきっと間に合わないと相棒は判断したに違いない。
リーンを助けてくれ、お願いだから死なせないでくれ。そんな相棒の思いが痛いほど伝わってきて。私は武器を片手に蟲達に向かっていく相棒を止めることが出来なかった。
「ドリーどんッ、早く魔法を掛けてくんろッ。血を止めねーといけないし、体力消耗しちまったら拙いだよ」
『そ、そうですね。いきますっ【フィジカル・ヒール】』
魔法をかけ続ける。何度も何度も。
トカゲさんは魔法薬や薬草を惜しげもなく使い、リーンちゃんに治療を施していく。
「血が止まっても熱が下がらねーだよッ。解毒薬使っても効いた様子すらないだでっ。何で……何で」
『落ち着いて下さいトカゲさんっ。血は止まったのですよね。毒はすぐに死んでしまう様なものなのですか?』
「わ、わかんねーだ。血は取り敢えずこれ以上流れて行かないように処置はしだよ。毒の方は熱はあるけど、すぐに死んじまうようなもんじゃ……多分、ない筈だで」
自信なさげに顔を俯かせるトカゲさん。でもそれだけ分かればまだ希望はある。
速攻性の毒じゃないのなら、どうにか体力を持たせてあげさえすれば、ここから抜け出し、治療士さんにリーンちゃんを見せられる。
助けられるかもしれない。死なせなくても済むかもしれない。
そんな事を祈り、暫くリーンちゃんに魔法を掛け続けていたのだが……。
――バッッヂヂィィィイィイ!!
急に背後から聞きなれた音が聞こえてくる。私はリーンちゃんに回復魔法を掛けながらも、どうしても気になってしまい、後ろの様子を伺った。
恐らく先程の音は相棒が武器にエントを掛けたのだろう。その証拠に水晶の刃先が細かに振動している事がここからでも確認できた。
私の視界の先で、振動する水晶武器を手に持ち、相棒は野獣の如く暴れだす。
力任せに振るわれた槍の穂先で蛆が簡単に斬り飛ばされ、群がるように集り始める蜂を薙ぎ払いだけで一蹴していった。
飛び交う蜂の頭を右手で鷲掴み、地面に掴み叩きつけ、地を這う蛆を左足で踏みつぶす。
たった一人で暴れて暴れて、暴れ続け。強引に蟲の注意を自分に引きつけている。
「なんだよあれ……すげーじゃねーかあの若いの。ははっ、このままアイツが頑張ってくれれば、助かるかもしれねーよ」
近くにいた男の人が、そんな声を上げ、それ聞いた周囲の人達も口々に相棒を褒め、応援し始めた。
私はそんな人達に教えてあげたかった。伝えたくて、叫びたくて仕方がなかった。
私の相棒はあんなに『弱くなんか無いっ!』と。
元々相棒ならアレくらい出来て当たり前。私の住んでいた沼で付けた身体能力だけでも、リーンちゃんと同じかそれよりも上だったのだから。
そこに数々の経験と更に上がっている身体能力。加えて、受けることすら出来ない槍斧まであるのだから。力の限り暴れ出せばあれくらいの事は当然出来る筈。
でも、私は自信を持って何度でも言える。私の相棒はあんなに弱くない……。
力任せに武器を振って、武器の力に頼り切って、感情のままに暴れる。
あれは相棒の強さじゃない。
あんな戦い方をしていたらリーンちゃんのお爺さんを出し抜くことも、銀髪の人から逃げきる事も、今まで出会ってきた強敵達にも、間違いなく負けている。
その理由がリーンちゃんや私達を守りたいからだと、わかっていても、悔しくて仕方なかった。
あそこに自分が居ない事も、相棒があんなに悲しそうにしているのに、力になれないことも。
――大体、相棒はいつも一人で傷ついて……言わなくったってわかっています。
私が今までの戦闘で一度だって傷ついたことが無い事くらい。相棒は嘘を付くのも誤魔化すのも下手なのに、きっとバレてないとでも思っているのでしょうが、私は全部わかっています。
戦闘で怪我をするのはいつも相棒で、危なくなったら真っ先に庇おうとして、毎度毎度、攻撃を受ける角度を微妙に調整していることを。
相棒を守ってあげたいのに、いつも私は守られてばかり。
悲しくて、自分の力が及ばないことが悔しくて。ジクジクと心が痛んで、張り裂けそうになる。
見ていられない、相棒が傷ついていくのを見ていられない。そんな思いがこみ上げてくるが、私は相棒が、心配で心配で仕方がなくて、視線を外すことなど出来はしなかった。
視界の先で、暴れ続ける相棒の動きが次第に鈍くなっていく。周りに散らばった蟲の死体に足を取られ、身体をフラツカせてしまう。
『危ないっ』と叫ぼうとした時には既に遅く、蜂の針が相棒の左腕を貫いた。
「――――ッツ!!」
声にならない雄叫びを上げた相棒は、自分の左腕を貫いた針を右手で掴み、蜂を力任せに地面に叩きつける。硬い石畳に打ち付けられた蜂は、体液を撒き散らし、容易く命を散らしていった。
毒がある筈なのに、相棒はリーンちゃんの様に倒れることも無くお構いなしに武器を振り回す。
相棒には毒が効いていないのでしょうか?
リーンちゃんの様子を見ても、そんな弱い毒だとは思えない。どういった理由があって効いていないのかは分からない。でも、今は大事な相棒が倒れてしまわなかった事に安堵する。
――相棒、どうか無事で。お願いです私から大事な相棒を奪わないで下さい。
リーンちゃんを放っておくわけにもいかず、この場所から動けぬまま、只々相棒の無事を祈る。
山のように蟲達の死骸が出来上がっていき、それと反比例するかのように相棒が傷ついていった。
蜂の相手をしている隙に、蛆が右足に噛み付く。だが、相棒は叫び声一つ出さずに武器の柄を振り下ろし、また死骸を一つ増やす。
ふらつく身体で避けきれなくなり、左の肩口を蜂の大顎で切り裂かれてしまう。でも相棒は、傷ついた左腕を無理やりに動かし、強引に蜂を引き剥がし全力で蹴り飛ばす。
もういつ倒れても可笑しくない。こんなにも相棒が頑張っているのだから、早く、早くリーンちゃんを助けてあげてくださいっ。
心の底から願いを込めて、相棒を助けて下さい、と祈るように呟いた。
『オーバー・アクセル』『フェザー・ウェイト』
防壁の上から魔名を叫ぶ声が聞こえ、赤色と緑色の強化魔法が放たれ、
『サンライト・ヒール』
回復魔法だろう白い光が降り注ぎ、相棒の傷を癒していった。
思わず防壁の上に視線を向けると、見覚えのある顔が私達を見下ろし、声を掛けてきた。
「ちょっと、腕っこちゃん。縄降ろすから早く上がって来なさいッ」
最近相棒といつも言い争いをしている白フサさんだった。白フサさんは言うやいなや、縄を上から垂らし始める。
『私は良いからまずリーンちゃんをお願いしますっ』
「リーンってその赤毛の女の人よね? 取り敢えず何でも良いから縛るなりなんなりして、引き上げるからッ」
「わ、わかっただで、ありがてえっ」
白フサさんの言葉にトカゲさんが焦ったように動き、リーンちゃんを抱きかかえ自分の身体を縛り付けると。上に向かって大声で合図を送った。
ギリギリと縄が軋む音がして、トカゲさんがゆっくりと持ち上がっていく。
「んなら、リーンどんを安全な場所に連れていったら直ぐに戻ってくるだで。ドリーどんはメイどんを頼むだよッ」
そのまま安全な場所にいることもできるのに、何の躊躇いもなく戻ってくると宣言したトカゲさん。だが、流石にあの大きな体を持ち上げるのは大変なのか、防壁の上から白フサさんが苦情を言ってきた。
「もおおお、ドラゴニアンのアンタ、どんだけ重いのよっ。お姉ちゃんちょっと、助けてッ。ほらそこら辺でボケッと突っ立てる奴もさっさと手伝いなさいよッ」
相変わらずプリプリと怒っている白フサさんでしたが、私達を助けようとして怒っているのだから、感謝しなくてはいけません。
縄を引っ張る白フサさんの隣からヒョッコリと顔を出した黒フサさんは、相変わらずノンビリとした喋り方で、持ち上がっていくトカゲさんに話しかけ始めた。
「あら? お久しぶりですー。またお料理でも作ってくださいねー」
「そういうのは後にしてよッ。あ・と・にッ! 行くわよっ、せーの」
白フサさんの合図と共に、掛け声が上がり、トカゲさんが引き上げられていく。それを見送った私は相棒の元へと急ごうとする、が。
――カランッ。そんな音が唐突に聞こえきた。音に反応して横を見ると、岩のお爺さんが杖を突きながら立っていた。どうやら上から飛び降りてきたらしい。
何をしに来たのでしょうか? 私は今から相棒の所にいかなきゃいかないので、急いでいるのにっ。
相棒は今も戦っているのだから。早く行ってあげないと、私が守ってあげないとっ。
急がないといけない、焦った私は、岩のお爺さんに軽く断って相棒の元へと進もうとした。だが、何故か岩のお爺さんが杖を付きだし、私の行く手を阻む。
「何をするんですっ」そう言葉を返そうとしたが、私の言葉より早く、岩のお爺さんが口を開いた。
「ドリーちゃんだったかの……儂ちょっとクロ坊に用事があるんじゃが、ついでじゃし一緒に行かんか?」
『……用事ですか?』
私の言葉に片手で顎を撫で付けた岩のお爺さんは、不敵に口を吊り上げ、散歩でも行くかのような調子で言った。
「儂な、クロ坊と一緒に飯食べに行く約束してての。あのままじゃ食べにいけんじゃろ? だからちょっと助けに行こうかと思ってのぅ」
『相棒を助けに……?』
私が思わず聞き返してしまうと、岩のお爺さんはコクリと静かに頷く。
『にゅおおお、岩のお爺さん。ありがとうございますっ。このお礼はいつか必ずしますっ』
気にしなさんな、とお爺さんは笑う。もう一度お礼を言って、私はお爺さんの頭にしがみつきながら、相棒の元へと向かっていった。