6−7
起こって欲しくない、と思う事ほど、容赦なく起きてしまうものだ。この時ばかりは心からそう思ってしまった。
外から聞こえてくる悲鳴にも似た住民たちの叫びと、鳴り続ける警鐘の音は、先程まで街中に広がっていた平和な空気を、塗り替えるかの如く変貌させてしまう。
やめてくれ、お願いだからやめてくれ。冗談だろ……何でいつも問題ばかり起きるんだッ。
思わず泣きたくなるこの理不尽な状況に、感情はザワつき、思考が乱れていく。だが、このままここで大人しくしていると更に拙い事になりかねない。
「リーン、ドランッ。早く装備を整えろッ、もたもたしてると拙いッ」
俺の叫びに二人は直ぐに反応し、蹴破るように扉を開けて、自らの部屋へと駆けていく。俺自身も直ぐに装備を整え、ある程度の荷物を纏め、二人が戻ってくるまで焦る気持ちを抑えて待った。
早く、早く早く。
武器を片手にベッドへと腰掛けるが、焦りからか、無意識に貧乏揺すりの様に足をガタガタと揺らしてしまう。外の騒ぎは収まる様子も無く……それどころか先程よりも更に騒がしくなっており、俺の心を容赦なくかき乱していった。
実際は五分程度なのだろうが、ただ黙って待っている時間は一時間にも二時間にも感じてしまい、俺は心の中で「急いでくれと」と願い続けた。
やがて急ぎ準備を終えたのだろう、リーンとドランが装備を整え、荷物を片手に部屋へと戻ってくる。すると、リーンは部屋に入るやいなや、真剣な面持ちで俺に近づき口を開いてきた。
「メイ、取り敢えずどうするの……安全な場所を探して逃げるか、それとも防衛に参加するのか」
その質問に少しだけ言葉が詰まってしまう。
勿論安全な場所に逃げたいに決まっているからだ。でも、外の水堀と石壁がまだ健在ならば、防衛に参加したほうが自分の安全を確保することにも繋がる。
大体逃げ出すとしてもどこに、という話だ。外に逃げれば壁も水堀も無いし、中央の避難所に逃げても万が一外壁が破られればもっと苦しい展開になってしまう。
少し考えれば選択肢にすらなっていない事がわかる。
でも、先ずどこに向かうべきか……。
この街にある外へと通じる出入り口は二つ。南と北に門があり、そのどちらに向かうべきかと一瞬だけ考える。だが、よくよく考えてみれば、迷う必要が無いじゃないか、と気がついた。
先ずは南門に行こう……蟲毒はこっから南西にあるわけだし、南門付近が激戦区になるに違いない。
考えも纏まりリーンに返答を返そうとする……が、何故か口内に栓でも詰められたかのように、首を締められ言葉が出なくなってしまったかのように「防衛の為に南門に向かおう」そのたった一言を口に出す事が出来なかった。
理由などわかっていた……行きたくない。逃げたい。そんな俺の本心がこの言葉を出させることを拒否しているのだろう。
情けない。なんて不甲斐ない。自分がひどくみっともなく、矮小な人間に感じる。
言うんだ。たった一言じゃないか。向かったほうが良いのは分かってる事だろうッ。言えよ、口に出せッ。もたもたしてる暇なんてないだろッ。
全身全霊で身体に力を込めるも動けない。いくら自分を叱咤した所で言葉が出ない。
俺の言葉を黙って待っているリーンとドラン。きっと俺の指示を信じてくれているんだろう。俺に任せる、といった意思を感じる。
こんなにも情けない俺なのに、こんなにも臆病な俺なのに。
歯を噛み締めて自らの不甲斐なさを嘆き、こんな俺を二人は信じてくれているのに、と期待に答える事が出来ない自分を恨みたくなる。
駄目だ、ここで逃げても始まらないだろう。震えているだけじゃ解決しないだろッ。
只々自分を動かす為に心の中で叫びを上げる。どうにか少しづつ覚悟も決まってきた俺に、ドリーが心配そうに声を掛けてきてくれた。
『相棒、どうかしましたか? 早く相棒の唸りまくる頭脳でババーンっと指示を出しちゃってくださいっ。どっちにしても相棒は私が守って見せますからっ』
――いつもいつも、過大評価すぎるよ、ドリー。
相変わらずのドリーの過大評価に、思わず苦笑がこぼれ出る。だが、先ほどまでとは違い、心なしか身体が軽く、幾分か気持ちも楽になった。
「よし、リーン。防衛に……防衛に参加するぞ。目的地は南門へ。
リーンは俺と一緒に窓から外へ、屋根を伝って向かう。ドランは、悪いけど下から南門に向かってくれ、先ずは急いで状況を把握したい」
また言葉が出なくなっては堪らない、とまくし立てるように言葉を吐き出し、皆を見つめる。
「そうね、ドランって少し足が遅いから、私達が先ず先行したほうがよさそうね」
リーンは手を上げ仕方ない、といった表情でドランに顔を向け。
「おら……は、走る練習したほうがいいんだろうか。あ、でも屋根伝って行く方が怖いかもしれんだで、おら、絶対落っこちちまう自信があるだで」
ドランは自信を持つべき方向を間違えながらも、俺の指示に了承してくれた。
――俺は恵まれている。そんな思いが湧き上がり、更に身体に力が戻る。
大事な仲間を守るんだ。二度とナニかを失うのは嫌だ。そんな思いが身体を動かし、俺自身が持っている、弱くて崩れやすい意思を、かけられた仲間の言葉で固め直す。
ゆっくりと、だが意思を込めて、俺は南門に向かう為の、最後の言葉を口に出した。
「……皆、行くぞ。気をつけてくれよッ」
俺の言葉に皆が「応ッ」と短く返事を返し、弾かれるように動き出す。
部屋の窓から外に身を乗り出しドリーに短く指示を出し、それに答えたドリーは宿屋の横壁に向かって『ウッド・ハンド』を唱え、足場として待ち受けた。
俺、続いてリーンが、樹手を蹴り上げ宿屋の天井へと身を躍らせ、連なり建っている民家や店の屋根を、次々と渡りながら南門へと向かっていく。
◆
全速力で屋根を駆け、踏み抜かんばかりに蹴りつけ急ぐ。不思議な事に緩やかなリズムで羽を動かしている筈の蝶子さんも俺達に難なくついてきている。
走りながらも顔を下に向け、通りを見やれば、人々がまるで洪水のように中央避難所へと流れている様子が目に写った。
恐らくは戦闘能力の無い市民達だろう。もしかしたら走破者も混ざっているかもしれないが、全員が全員逃げているわけではなさそうだ。
辺りを見渡せば――人波を遡るかのように南門に向かっている者、俺達と同じく屋根を走る者、果ては鳥類系の亜人だろう者たちは空を羽ばたき南門に向かって一様にその身を進ませているのを確認できた。
考えることは皆同じってことか……逃げてる走破者もいるだろうけど、多少状況がわかる人ならそりゃ、南門に向かう。俺だって、何もしないで解決するならそっちを選ぶ。でも、今の状況じゃそんな事言ってられないよな。
はぁ、と短く息を吐き、更に駆ける速度を上げていく。向かい風がローブをハタハタと揺らし、火照る身体を適度に冷やしていった。
どうにか目的地でもある南門へと到着し、屋根の上から現状を把握するべく周囲を見渡す。街を覆う防壁の上には、装備を整えた走破者と、警備兵だろう人々が待ち構え、南門付近にある広場には、補給物資や矢などの消耗品が山のように準備されている。
思ったよりは準備が早いな。襲われたことが無いって御者の人が言ってたから、もっと混乱してると思ったんだけど……まあ、良い方向に予想が裏切られるってんなら望む所ではあるか。
ただ、こういった緊急事態の最中では、良い裏切りもあれば当然悪い裏切りもある。その最たるものが、南門から更に奥、壁を越えた街の外に広がっていた。
大地を埋め尽くすように少し黄色がかった白い海がうねり、青い筈の空の一部は、黒と黄色の暗雲が蠢き、その全てが街へと向かって、容赦無く押し寄せてきていた。
ヒュ、と短く俺の喉が鳴り、カラカラに乾いた喉から、引き攣る様な笑いが零れそうになってしまう。
……何匹いやがるんだよ。しかも蛆だけじゃなかったのかよ。なんなんだよ、あの空飛んでる奴はッ。
近づいてくるモンスターの海と雲。かなりの速度で近づいてきているのか、直ぐにその姿を確認出来るようになる。
地面一杯に溢れているのは非常に見覚えの蛆達の群れ、こちらはある程度想像していたのでまだマシだったのだが、空に溢れている黒と黄色の群れは見たことも無いモンスター達だった。
恐らく姿形から察するに蜂のモンスターなのではないだろうかとは思うのだが……蜂というには些か趣味の悪い造形をしている。
腕と腰から下を切り落とした人の体に、無理やり蜂の下半身を付け足したかの様な胴体。その側面からは、六本の昆虫の足、下部には腕程の太さのある針が飛び出し、背中からは透き通った薄羽が四枚生えていた。
頭部は蜂と人を足して二で割ったかのようにチグハグな印象。鼻や耳などは人と同じような造形なのだが、目は赤みがかった複眼になっているし、口からは二本のハサミの様なギザギザとした大顎が飛び出している。
全身を黄色と黒の甲殻が覆っているその蜂と人を混ぜたその姿は、ひどく不完全で、まるで出来損ないのキメラの様だ。
ブッブブブブ、と蜂の羽音が絶え間なく鳴り、ギチギチチギチギチと甲殻と大顎が擦れる嫌悪感を感じる異音が周囲の空気を揺らす。
蛆だけではなく、よりにもよって空を飛ぶモンスターまで現れるなど、俺が想定していた状況よりも数段拙いものとなっている。蛆だけならまだ楽だった。街の防壁が機能し、広範囲の魔法でどうにか出来るのだから。
押し寄せるモンスターを見て、俺の背筋は凍り、なけなしの勇気なんてものは簡単に吹き飛びそうになる。息が詰まり呼吸は荒くなり、武器を握る手に力が入り、ギシリと骨が軋む。
思わず屋根の上で動けなくなってしまった俺の耳に更に嫌な情報が飛び込んでくる。
「走破者の皆さんッ、あの蜂だけはなんとしてでも食い止めて下さいッ! あのモンスターは蟲毒区域に生息する【呪毒蜂】あの針にさされると非常に拙いことになりますッ。屍漁りよりもあちらを優先して下さい」
一人の女性が応戦しようとしている走破者達に向かって悲痛な叫びを上げていた。
……確か何度か斡旋所で見たことがある。受付のお姉さんの一人だったはずだ。
女性の言っている拙い事とは想像でしかないが、毒でも持っているといった所か。呪毒蜂などという物騒な名前も付いているわけだし、先ず間違いないとみて良いだろう。
空を飛ぶ上に状態異常持ち、この状況では最悪な相手。
流石にこの状況は拙いと判断したのだろう、防壁の上や屋根にいる走破者達が一斉に上空へと向かって手をかざす。俺もそれに習い、事前に入れ替えて置いたボルト・ラインを撃つべく、空を飛び交う蜂の群れへと右手を向けた。
恐らく防衛のリーダーでもやっているのだろう一人の壮年走破者が、右手に持った槍を掲げ、振り下ろすと同時に雄叫びにも似た合図を上げる。
《今だッ、一斉に撃てぇえええッッ!!》
その掛け声と同時に空へと向かって、炎弾、電撃、風の刃、様々な魔法が撃ちだされていく、凄まじいまでの轟音が響き、蜂の雲へ魔法が次々と着弾していった。炎が空気を焦がし、雷鳴が大気を揺るがし、暴風が周囲を荒れ狂う。
だが、モンスターの余りの数のせいで、次々と撃ちだされていく魔法はただの足止め程度にしかなっていなかった。
《来るなッ、やめてくれ――ッツ!? ギヤアアアアッ!》
突如聞こえてきた悲鳴へと視線を向けると、撃ち込まれる魔法の弾幕をくぐり抜けてきた呪毒蜂が、少し離れた屋根の上に居た走破者に群がり、その身へと針を突き立てている様子が見えた。
突き刺された走破者はビクリ、と身体を跳ね上げ、糸の切れた人形の様に力なく崩れ落ちてしまう。
どうやら即死の毒ではないようで、倒れた走破者はまだピクピクと動いていた……だが、群がってきた蜂達はその大顎を使い、容赦無く倒れた走破者の身体を噛み千切り始め、止めを刺してしまう。
殺した死体をこねくり回し、丸めて団子の様にして足に抱えてどこかに飛び去る呪毒蜂。所詮あいつらにとって俺達は餌なのだと否応なしに理解させられる。
次第に聞こえてくる悲鳴の数が増し、入り込んでくる呪毒蜂の数が増えてきていることを俺に伝えてきた。
あれだけ魔法撃っても、焼け石に水じゃねーか。くそ、どうすれば……。
ガチガチと噛み合わぬ歯を必死に噛み締め、思考を回し打開策を考える。だが、空を飛ぶ大量のモンスター相手に俺のできることなんて殆どない。思わず「相性が悪すぎる」と短く舌打ちをし、無意識のうちにリーンに視線を向けてしまっていた。
「メイ……少し派手な奴を使うから、私をお願いするわね」
俺の視線に気がついたリーンはニコリと微笑み、大剣を構えて目を瞑る。静かに佇むリーンの姿は……酷く無防備で、今モンスターに狙われたら易々と死んでしまうだろう事が予想できた。
『にゅふふ、私と相棒にかかれば容易いことですっ。やはり相棒は頼りにされてますね』
肩の上にいたドリーは、自信満々な声音で俺に向かって声を掛けてくる。
頼りにしていたのは俺の方で、どうしよもなくなり縋るようにリーンを見てしまっていただけなのに。
俺のどこを見たら、その頼り甲斐とやらが出てくるんだか……畜生、やってやるよ、やればいいんだろッ。
震える事など後でも出来る。怯える事など生き残ってからすれば良い。今はただ、何も考えずに大事な仲間を守る事だけ考えろ。
自分にそう言い聞かせ、槍斧を握り潰さんばかりの力で握りこむ。
ゆっくりとリーンの前に歩み出て、空から群がる毒蜂達を決して通さないと心に誓う。俺の決意に呼応するかのように、ドリーも蒼いナイフを空に向け、呪毒蜂へと刃先を向けた。
魔弾をすり抜けた十匹程の蜂が、俺とリーンを刺し貫かんと鈍く光る針を振りかざし、羽音を鳴らし襲いかかってくる。
「多いよ馬鹿野郎ッ。っち、まず数を減らさないと『ボルト・ライン』」
脳裏に紫電の通り道を描き出し、三匹程纏めて巻き込めそうなラインを見つけた所で、迫る蜂に向かって雷撃を放つ。
前方にいた二匹の蜂は難なく魔法から身を躱してしまう。が、躱したすぐ真後ろにいた一匹の蜂は、突如目の前に現れた雷撃に反応できなかったのか、避ける事もできずに直撃。黒い炭と成り果て地面にポトリと落ちていった。
でも予想外に動きが早いな。二匹くらいは落とせると思ったんだけど……これは、俺一人だったら守りきれるか怪しかったな。
やはり蜂という特性上か、ヒラヒラとした軌道では無く鋭角に空中を移動する為、その動きは実際感じるものより早く鋭く見えてしまう。俺一人だと、群がられたら対処しきれなかっただろう――俺一人なら。
『ふっふっふ、常に進化し続ける相棒と私を舐めてもらっては困ります。水色丸の真の力を今こそお見せしましょうっ【エント・ウォーター】』
へやっ、と気の抜ける掛け声と共にドリーが新しく覚えた魔法を使う、と。中空からポチャリと水が現れ、水晶製の蒼いナイフを包み込み、ドリーの意思のままにその形を自由に変え、ナイフの弱点ともいうべき、短い射程を伸ばしていく。
鞭のように自在に動き、刀のように薄く形どられた水刃が群がってくる蜂の薄羽を軽々と切り飛ばす。
別に水色丸に真の力なんてものは無いのだが、ドリーの手により、易々と斬り飛ばされていく蜂達をみていると「本当にそんな力が隠されていたのでは」とか思ってしまう。
単純に、これはドリーの技量あってのものだろう。
エントで掛けた水刃の切れ味はナイフ自体の切れ味と比べれば格段に劣る。
恐らく、あの蜂を包んでいる甲殻に斬りつけたのならば、容易く弾かれてしまっていた筈。が、しかし、そこは流石ドリーというべきか、水刃を自らの身体のように自然に動かし、蜂の背中から生えている、柔らかそうな薄羽根だけを選んで切り飛ばしているようだ。
『相棒、一匹抜けました。やっちまってくださいっ』
「任せとけッ」
一匹の蜂がドリーの斬撃から逃れ、俺に向かって襲いかかってくる。確かにその動きは素早く、捉えづらい、が。俺はこんな動きと比べ物にならない程の早さを誇る人を知っていて、こんな蜂よりも圧倒的な圧力を垂れ流す化物を知っていた。
やれる……これくらいなら捉えられる。
不規則に揺れながら向かってくる呪毒蜂の動きが、今の俺にはよく見える。右へ左へと揺れる蜂の動きを読み取って、槍斧を全力で薙ぎ払う。
ゴシャッ。という音と共に、手に伝わるゴリゴリとした感触。迎え撃つかの様に振るわれた斧刃は蜂の胴体を甲殻ごと両断し、容易く蜂を死に至らしめた。ドリーの様な技量は俺には無いが、この武器なら場所を選ばず叩き切れる。
ヌラリと武器から滴る緑色の体液を、一度中空を切り払って振り落とす。既に十匹居た蜂は黒焦げに、真っ二つに、芋虫のように地に落ちて、地面に転がる死体となっている。
不意に肩をぽん、と軽く叩かれた、振り返れば恐らく準備を整えたリーンの姿。
ゆっくりと背後から歩み出たリーンが鋭い目付きを更に険しく変え、口角持ち獰猛な笑みを称え、両の手を広げるように蜂の雲へと向けた。
『焼き尽くす燐炎 《フォスフォラス・バーンフレア》』
リーンの両手から赤い燐粉の様な魔力光がフワリとと飛び出し舞い上がり呪毒蜂へと向かって漂っていった。そこに重なるように、屋根の上に居た数人の走破者の声が上がる。
『ボルテック・レイン』『アウトレイジ・ガスト』
シュゴッ、と妙な音が聞こえたかと思った瞬間。リーンから舞い上がった赤い燐粉が一気に燃焼。
眩い光が視界を埋め尽くし空を漂っていた蜂の雲が燃え上がる。更に追い打ちをかけるかのように、雷の雨が轟音を響かせ降り注ぎ、暴虐の風が全てを吹き飛ばしていく。
俺が理解できたのはそこまでで、後は視界が真白に染まり、鼓膜が破けるんではないだろうかと思うほどの爆音だけが耳に届いてくるだけだった。
やがて周囲が静かになり、俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。目に飛び込んできた光景を見て、今撃たれた魔法がどれほど凄まじいものだったのかを理解する。
埋め尽くすようにいた蜂の群は五割程消し飛び、大地に流れていた蛆の海には至る所に大穴が開いていた。
まざまざと見せつけられた上位魔法の威力と殲滅力を見て、俺と防壁の上や周囲にいる走破者の気持ちが一つになり、心底から溢れ出る叫び声を上げた。
「殺す気かッッ」
《焦げたッ、俺の髪がちょっと焦げたッ》《死んだかと思っただろッッ》《虫より怖かった虫より怖かった》《良いぞもっとやれッ》
そんな皆の悲痛な叫び声を「まあまあ」と片手を上げて制したリーンは、何食わぬ顔で一言呟いた。
「……細かな操作が難しいのよねこの魔法」
馬鹿野郎この野郎ッ。
信じられない事を聞いてしまった、とばかりにリーンに視線を向けると「冗談よ」と楽しそうに言い出した。だがリーンの額には玉のような汗がにじみ出ているし、息も荒く、顔色かなりも悪くなっている。流石にあんな大規模な魔法を使うのにはリスクや反動が付き物なのだろう。
俺は調子の悪そうなリーンの肩を軽く叩き「リーンは頼りがいがあるな」と言葉をかける。するとリーンは嬉しそうな表情をしながら「任せて」と微笑んだ。
こんな事しか言ってやれない自分を情けなくも感じるが、嬉しそうなリーンの顔を見たら気にしてもしょうがないな、という気分になる。
今の魔法で大分モンスターの数が減り、少しは防衛する側も楽になりそうだ。そんな少しの希望が胸の内に沸いて来る。
でも、恐らく今のをもう一回使えと言っても無理だろうな。リーンの消耗しきった様子からみても、魔力を回復すればまた使える、なんて簡単な使い方が出来る様な魔法だとは思えないし。
先ほど屋根の上からリーンと共に魔法を放った走破者達もそれぞれ膝をついたり、座り込んでしまったりと、消耗しきっている様子。
だが一難去ってまた一難。とはこんな状況をいうのだろうか、少しだけ緩んだ気持ちの隙間に滑りこむかのように、絹を裂く様な悲鳴が俺の耳に届いてくる。
音の原因は俺の居る屋根から見下ろした辺り、南門へと繋がっている大通りからのようだ。
次から次へと何なんだよッッ。
思わず頭に血が上りそうになりながらも、大通りへと視線を向ける。すると、血飛沫の噴水が上がり、緑色の巨体が暴虐の限りを尽くしている光景が俺の目に飛び込んできた。
蜂の次はカマキリかよ。どっから涌いて出やがった。
高さ四メートル程の緑色をした身体を、太く長い下半身側面から伸びた四本の足が支え、そこから伸びた上半身はやはり人型に近い形をしている。敢えて人と違う場所を上げるとするなら、カマキリの特徴とも言うべき巨大な鎌が、肘から先に無理矢理に付け足されている事だろう。
頭部は先程の蜂と同じような逆三角形になっており大顎と、大きく無機質な二つの眼と、額に付いた三つの単眼を怪しく光らせ、頭部から生え出した二本の触角が、ユラユラと揺れていた。
やはり、単純な戦闘能力は蜂とは比べものにならないのか、下で応戦している走破者達の首は易々と刈り取られ、時には顎で食いちぎられていく。
凄まじい疾さで振り回される大鎌と、巨体に似合わず俊敏な動き。近距離戦は不利だと悟ったのか、走破者達も距離を離し遠くか魔法で仕留める戦闘方法に変えたようだ。しかし、カマキリモドキは背に隠した羽を広げ、繰り出される魔法を容易く避け、そのまま離した距離を容易く詰めていき、先ほどまでとなんら変わらぬ猛威を振るう。
その光景を見て一つだけ思うことがあった「俺ならあれを止められる」もっと正確に言うなら『俺とドリーなら』と言った所だろうか。
両腕から繰り出される鎌も二人なら捌くことが出来る自信が俺にはあった。蠢くような蜂の群れよりも、多少戦闘能力が高くても一体しかいないカマキリモドキの方が俺にとっては楽だ。まあ、俺に出来るのだから勿論リーンでも構わないのだろうが、先程の魔法を使ったせいで消耗しているリーンに無理をさせたくは無い。
自信はあるが行きたくはない。そんな弱腰な気持ちは勿論ある。だが、今はそんな事も言ってられない事態になっていた。
俺の視界の端で大通りを通ってこちらに到着したドランの姿を見つけてしまったからだ。大通りを真っ直ぐに南門へと向かっているということは、勿論カマキリモドキに向かっているということで、さらに言えばドランのあの巨体はこの混乱の最中でも非常に良く目立ってしまう。
カマキリモドキにとってもやはりあの巨体は目に付くのか、直ぐにドランを発見してしまったようだ。
真っ直ぐにドランに向かって近づいていくカマキリモドキと、それに怯えながらも金属箱を取り出し構えるドラン。
でも、きっとドランじゃ防ぎ切れない。このままじゃ間違いなく殺られてしまう。
先ほどまで感じていた恐怖など既にどこかに消えていて、俺はリーンに「休んでろよ」と声を掛け、迷いなく屋根から地面に飛び降りた。
迫る地面に難なく降り立ち、着地と同時にカマキリもどきに向かって駆け出していく。
全速力で走ってはいるのだが、このままでは確実に間に合わない。俺は人差し指をカマキリモドキに向け、ドリーに短く指示を出した。
「ドリー頼むッ」
『ペネトレイト・ウォータ』
直ぐ様ドリーは人差し指と親指を立て、手のひらを銃のような形に変えると、カマキリもどきに向け魔法を発動させる。するとドリーの指先から圧縮された小さな水の弾丸が、凄まじい疾さでカマキリモドキの頭部を貫かんと撃ちだされた。
狙い違わず頭部に向かっていく水の弾丸。一瞬このまま直撃して倒れてくれれば、とも思ったが、やはりそんなうまくはいかない。
カマキリモドキに向かった水の弾丸はあっさりと気がつかれてしまい、素早く振るわれた右鎌で弾かれてしまう。
グルリと顔をこちらに向けた、カマキリモドキと俺の視線が交差する。
――ギ……ギギイイイイイイイイイッ!
何が気に食わなかったのか、耳障りな鳴き声を上げたカマキリモドキは、他の誰にも目をくれず、俺に向かって真っ直ぐに襲いかかってきた。
恐らく攻撃された事が気に食わなかったのだろうが、俺にとってはドランから目標が外れるなら好都合でしか無い。
狂ったように鳴き声を上げ続けているカマキリモドキが、凶悪な二本の鎌を高々と振り上げ、まるで捕まえようとするかの様に、上部から交差させながら斬り込んでくる。
――大丈夫、このくらいなら見える。
ギリギリの高さで飛んで避け、振り終わりで動きの止まった鎌を蹴りつけ左へと飛んで距離を取った。が着地の間際を狙いすますかのように、姿勢を整え右鎌を薙ぎ払ってくる。避け切れない、と瞬時に判断し、槍斧を自分の左側へと真っ直ぐに突き立て巨大な鎌を受け止めた。
――ギイイイィィィン。
空気を切り裂かんとする程の速度で振るわれた右鎌と槍斧の柄がかち合って、辺りに硬質な音が鳴り響く。
突き刺した槍斧が鎌から受けた衝撃を地面と俺の身体に伝えてくる。流石に全て受け止めきるのは不可能で、俺の身体は突き刺した武器ごとガリガリと地面を削り体一つ分ほど横にズレてしまう。
恐らく地面に突き立てていなかったら、重量差のせいで体ごと吹き飛ばされていただろう。
予想以上に力が強いし、鎌についてる棘のせいで普通よりも受け辛いな……。
カマキリモドキの持っている巨大な鎌部分には、手のひら程度の長さがある棘が無数に生えていて、少し身体から離して受けなければ、伸びた棘が身体に刺さってしまう。
これじゃ、ドリーじゃ捌けないし、受けられないな。でも俺が一本受け止められるなら色々と手段はある。
次々と繰り出される鎌を槍斧で受け止めていく。やはり俺だけでは一本を受けきる事しか出来ず、隙をついたもう一方の鎌にまでは手が回らない。だが、それを受け止めるでもなく肩にいたドリーが冷静に水刃を伸ばしカマキリの頭を突くように狙う。それを見たカマキリモドキは攻撃の手を止め、ドリーの突きを防ぐために鎌を戻していった。
――受けられないなら攻撃をさせなければ良いんだ。
剣舞でも舞うかの如く、ドリーが連撃を繰り返し、隙を見て俺が一撃を加えていく。
《おい、てめえら。あの若いのが抑えているうちに、クソッタレの鎌野郎を仕留めるぞッ》
その言葉にチラリと目を向けると、頭をスキンヘッドに剃り上げた男性走破者が武器を振り上げ周りを鼓舞してくれている。恐らく援護でもしてくれるのだろう。
「メイどーんっ、助かっただで。おらに何か出来る事はないだかあああッ」
先ほどの走破者に続いて、俺の背後からドランの叫び声が聞こえてきた。声の大きさから考えてもしっかりと距離を離してくれていることが分かり少しだけ安心してしまう。
「ドランっ、今は迂闊に近づかないでくれッ。ただ『確実に仕留められる。絶対に外さない、と思ったときは遠慮なく止めを刺してくれると助かるッ』」
ドランに負けず劣らずに大声を張り上げ、俺の意図を伝える。
今下手に手出しされてドランに目標が移ってしまえば面倒な事になるかもしれない。そんな危険をおかすよりも、カマキリモドキを俺がこのまま抑え続け、隙を作り、それを逃さずドランの攻撃力で一気に倒してしまう方が楽な筈。それにどうやら周りの走破者達も俺の援護をしてくれるようだし、このままいけば何も問題無い。
カマキリモドキ一体を、取り囲むかのように周りを固めはじめた走破者達は、それぞれの武器を手に取り、隙を伺い攻撃を仕掛け始める。
『相棒ッ、後ろに飛んでッ』
叫ぶようなドリーの声が頭に響き、俺は反射的に地を蹴り後ろに飛びすさる。
――ガガガガッガガガッ。
石畳を砕く音が俺の耳に届き、寸前まで俺がいた場所に、腕ほどの大きさの三本の穴が開いている。
《あ゛あ゛あ゛ああああああ嗚呼ッ》《腕が腕がアアアアア》《私のお腹――穴が――はは、アハハハッ》
一斉に絶叫と悲鳴が上がる。腕を抑えてうずくまる者。苦痛の余り狂ったように笑う者。只々悲鳴を上げ続ける者。
一撃で頭を貫かれ、もはや何も言えぬ間に骸に成り果てるもの。
何が起こったのか一瞬わからなくなり、呆然とその場に立ち尽くす。俺は混乱する頭をどうにか静め、カマキリモドキに目をやった。そして、その姿を見て、なんとか事態を把握する事が出来た。
カマキリモドキの下半身、甲殻の覆われていない下半身横腹から、地面に開いた穴と同じ太さの鈍い銀色の何かがウネウネと六本飛び出していた。その姿は触手の様で、まるで金属で出来た寄生虫。
と、そこまで考えた所でようやく頭が回り始め、その正体を理解することが出来た。まるでではなく、寄生虫なのだと。
昔、田舎の婆ちゃんち遊びに行った時に一度見たことがあった。地面に転がっていたカマキリの死骸、そこから逃げるように這いでてきていたこの虫を。
そうだよカマキリがいるんだ【ハリガネムシ】がいたって可笑しくはない。
実際は、こんな金属みたいな色をしてるわけじゃないが、モンスター相手にそれを言った所で何になる訳でもない。そんな事よりも拙いのは、このカマキリの手数が増え、更なる強敵になってしまったというこの事実。
俺はどんな細かな動きも見逃すまい、とカマキリモドキの一挙手一投足を警戒していく――不意にピクリとハリガネムシの一匹がその身を捩らせる。
視界の端でキラリ、と一瞬だけ光が反射したのが見えた。
こみ上げるような危機感と、今まで培ってきた経験が「直ぐに避けろ」と警報を鳴らす。
その直感に従い、迷うこと無く転がるように右に飛び込むと、先程石畳に穴を開けた時と同じような音が聞こえ、地面に連なるように穴が開く。
背筋が凍り、嫌な汗が額から流れ落ちた。
ギリギリだった……あの銀色の身体に光が反射しなかったら見えなかった。
『相棒……もう接近戦は無理そうですね。一本程度なら私が切り飛ばすのですが、あの数に掛かられると、私ではどうしようも出来ません』
ドリーの言葉に静かに頷き返事を返す。
――言われるまでもない、あんな奴相手に接近戦なんてしてられるかよ。
どうにかカマキリモドキから距離を離そうと、ジリジリと後ろに下がっていると、カマキリモドキが身を低くして、背に隠した羽を、高速で羽ばたかせ始める。
この時点で頑張って距離を離すなんて、悠長な事を言ってられる状況では無くなった、そう理解し、全速力でその場から駆け出した。
カマキリモドキは俺の何をそんなに気に入ったのかは分からないが、俺と戦い始めてからは基本的に俺だけを狙うようになっている。つまり俺が逃げてもドランは安全な筈だ。
でも、まず俺が逃げ切れるかって所が一番の問題なんだけどな。
後ろを振り返りカマキリモドキを見ると、奴は既に空高く舞い上がっていて、落下する力を利用しながら、凄まじい疾さで俺に向かって突っ込んできていた。
「来んなって、マジでこっち来んなッ。……うお、危ねぇッ」
迫る鎌から飛び込む様に身をかわす。瞬間、今までいた地面が抉れ飛び、二本の鎌の爪痕のみがその場に残っていた。
一旦避けて反撃しようにも、攻撃した後はそのまま更に上昇してしまい、反撃する隙を見つけられない。
そして、右往左往としている内に、また空で体勢を立て直され再度俺に向かって襲いかかってくるというどうしようもない状態。
暫くの間必死に逃げ続けていたが、何の手立ても見つけられず、完全にお手上げになっている。先ほど俺を援護してくれようとしていた走破者達が時折空に向かって魔法を放ってくれているが、易々と避けられ当たる様子は無い。
俺には上空を警戒しながら只々逃げ回り続ける事しか出来なくなっていた。
『相棒ッ、前を、前を見てくださいッ』
ずっと逃げながらもカマキリモドキを目で追っていたのだが、急に叫んだドリーの声で前方へと顔を戻した。
――嗚呼、畜生。
そんな愚痴まがいの言葉が口から漏れる。だが無理も無いだろう。前方には五匹ほどの呪毒蜂が俺の行く手を遮るように待ち構えていたのだから。
胃がひねり上げられるかのようにキリキリと痛み、頭を抱えて叫びだしたくなってしまう。
既に後ろではカマキリモドキが迫ってきているだろうし、前方の呪毒蜂をこの短い間で倒すことは出来ないだろう。
――避けきるしか無い。呪毒蜂とカマキリモドキの両方の攻撃を。
ドリーに後ろを任せ、俺は迫ってきているだろうカマキリモドキへと目を向けた……急降下しながら真っ直ぐに俺を目指すカマキリモドキはもう既に止まることすら出来ない程の疾さで迫ってきている。
避ける……避ける。ただそれだけを考え、俺は緑の巨体を迎え撃つべく意識を集中させていく……筈だったのだが。
大通り脇道から見覚えのある巨体がドテドテと通りの中央に走りだしてきた。
何やってんだドランの奴ッ。
現れたドランは地面すれすれを滑空し始めたカマキリモドキモドキに向かって金属箱を鎖を握って振り回し始め、まるで野球でもするかのように緑の巨体を打ち返した。
ゴッッシャアアアアアッツ!!
巨大な卵でも砕けたかのような音が響き、カマキリモドキが木っ端微塵に吹き飛んだ。辺りにビチャビチャと紫色をした体液が撒き散らされ、金属箱振り回して、カマキリモドキを粉砕した張本人であるドランは、勢い余って地面にゴロリと転がっている。
俺は、直ぐに五匹の呪毒蜂へと目標を変え、ドリーと共に殲滅し、転がっているドランへと向かって走り寄っていった。
「何やってんだドランッ、危ないだろッ」
一歩間違えればカマキリモドキの攻撃がドランにいってしまっていたかもしれない。加速がついて避けられなくなっていたから良いものを避けられでもしたら、無防備になってしまっていたドランに襲いかかっていたかもしれない。そんな悪い想像ばかりが頭をよぎり、俺は思わずドランに向かって怒鳴るように声を掛けてしまっていた。
「え? だってメイどんが『確実に仕留められる。絶対に外さない、と思ったときは、遠慮なく止めを刺してくれると助かるッ』って言ってたから……てっきり今だと思ったんだけんども……お、おら何か間違ってしまったのけ? うおお、申し訳ないだよー」
キョトンとした顔から、一気に申し訳なさを全開にさせた表情に変えたドランは、俺に向かって何度も謝ってくる。
その無事な姿を見て安心すると同時に助けてもらったのに、思わず怒鳴るような真似をしてしまった……と申し訳ない気持ちが沸いて来る。
俺は素直にドランに向かって謝罪と、助けてもらった事に礼を言い、今だ地面に転がっている頼りになる仲間へと手を差し伸べた。
握り返して来たドランの手のひらはとても大きく力強いものだった。
◆
急ぎドランと共に南門へと戻ると、どうやらまだ状況は悪くなっていないようだった。徐々に減ってきている毒蜂と蛆の群れを見て、どうにかこの事件の終わりが見え始めた様だと安堵してしまう。
ほっと溜め息を零し、ふと、街の入り口を守っている門へと目を向ける。巨大な金属製の門には、同じく金属製の閂が掛けられていて、魔印が所々彫り込まれているようだった。恐らく強度強化などの魔法でもかけられているのだろう。
辺りの様子を伺いながらも、俺は、少しだけ休憩する事に決め、荒れた息を座り込んで整えていく。
「メイッ、良かった……無事だったみたいね」
声に気が付き視線を向ける、と。先程よりは幾分顔色が良くなったリーンが俺に向かって走り寄ってきていた。
――全員無事で良かった。
そんな事を考え、一人喜んでいると、急に俺の眼前で蝶子さんが慌ただしく羽ばたき、まるで「南門の方を見ろ」と言わんばかりの様子でそちらに向かって行ったり来たりを繰り返し始めた。
何かと思い南門へと再度目を向ける。すると、何故かフラフラと今にも倒れてしまいそうな足取りで門へと向かっている者を見つけた。
ズタズタになった茶色いローブ。その隙間からヒラリと揺れる包帯。
その姿に見覚えがあった。確か最初にこの街についた時に会った気味の悪い浮浪者だ。
一体何してんだあの人?
ゆらりゆらりと門に近付く浮浪者を、門付近を守っていた走破者二名が見つけ止めようとする。だが、浮浪者の身体に触れる寸前で何故かその二名の走破者が絶叫を上げ、顔面を掻き毟りながら地面を転がり始めた。
まるで時でも止まったかのように一斉に辺りが静まり返り、走破者達が南門へと視線を向け、身体を硬直させている。
――そんな事が出来る筈がなかった。余りの事態に止めることなど誰にも出来なかった。一人で持ち上がるはずが無い金属製のでかい閂を、何の力もなさそうな浮浪者一人が難なく持ち上げ、取り外してしまう事を。
ガタリと外された閂を見て、空気が凍り、誰一人として声を出せなくなっていた。
そんな空気の中、ガタリと外された閂を手に抱え、浮浪者がこちらを振り返る。
――ガッシャッン。
浮浪者の両腕が閂の重みに耐えかねたかのようにボトリ、と崩れ落ち地面に閂ごと落下した。血が吹き出す筈の浮浪者の腕の断面からは何故か黒い霧の様なものがこぼれ落ちるかのように漂っている。
急に風でも吹いたのか、フードが煽られ、浮浪者の顔が顕になった。
相変わらずの死体の様な白く濁りきった眼球――くすんだ皮膚と裂けんばかりに釣り上げられた口角。そんな顔を仮面の様に貼りつけたまま、只々薄気味悪い笑みを湛え、浮浪者はゆっくりと地面に向かって倒れこんでいった。
地面に当たる寸前浮浪者の身体が崩れ落ち、噴き出すように黒い霧が溢れ出す。いや、あれは霧なんかじゃない。
響く羽音、自在に飛び回る黒い無数の虫。アレは大量に集まった蝿の塊だ。
誰かが怒声を上げて魔法を放った。釣られるように次々と周りから撃ちだされた炎の魔法が、黒い蝿の塊に向かって着弾していく。轟音と共に立ち上る火柱が、蝿の塊を一匹残らず消し炭へと変える。
だがもう既に遅い……凄まじい圧力と共に、開くはずのない門が開け放たれてしまったのだから。