6−6
朝日が昇り、辺りを光が照らし始めている。
少し気温は肌寒く、朝露が木々の葉の上に張り付いて、時折ポタリとその雫を落とす中、俺達は馬車に乗り込みリドルの街に向けて森を後にすることにした。
何もこんな早朝から出発することはないとも思ったが、やはりゆっくりするなら街に入ってからの方がいいし、御者の都合というものもあるので仕方ないだろう。
出発前にリッツ達へ挨拶をしに行こうかとも思ったが、こんな朝早くに向かったら逆に失礼になってしまいそうだ、と思い直し諦める事に。
まあ、岩爺さんの言うことが本当で蟲毒の坩堝に向かうのだとしたら、どうせリドルの街には入るのだろうし、また会う機会もあるだろう。
俺はアクビを一つ吐きこぼし、馬車の側面に寄りかかる。昨晩ドランと寝ずの番を交代した後一睡もしてないせいで、どうにも眠気が止まらない。
揺れる馬車の振動を感じながら、不意に顔を上に向け、新たに加わった珍妙な連れに目を向ける。
しかし、こいつは何時まで着いて来る気なんだろうか、危険はなさそうだから良いけど、一体何がしたいんだか。
落ちそうになる瞼を堪えながら、俺は目の前をヒラヒラと飛び回る蒼い蝶を見て、物思いにふけった。
昨晩泉から帰る時からずっと俺達の後を着いてきている蒼い蝶。そのうちどこかへ行くだろうと放っておいたのだが、予想外にも馬車に乗った後もずっと俺とドリーの周りを飛び回り、後をついてきていた。
結局リーン達にも見えないみたいだし、よく分からんやつだな。ドリーにはしっかり見えてるわけだし、幻覚を見てるってわけじゃなさそうなんだが。
手を伸ばし、蝶を捕まえようとしてみるが、ホログラムでも触ったかのように何の抵抗もなく蝶の身体を通り抜けてしまう。昨日から何度も試してみたのだが、結果は全て同じ。
恐らく俺やドリーの身体に止まっている様に見えるのは、実際に止まっているのではなく、そう見えているだけなのではないだろうか。そうでなければ、向こうは触れてこちらからは触れない、と妙な事になってしまう。
どうにも害意があるような存在には見えないし、俺自身そこまで警戒しているわけでもないのだが、やはり気になるものは気になる。
首を傾げながら、蒼い蝶を手で追う俺、そんな様子を見てか、肩にいたドリーが何か良い事を思いついた、と言わんばかりに声音を明るくしながら、話しかけてきた。
『きっと蝶々さんは相棒の溢れ出る、ぱぅわぁ、に引き寄せられてしまったのではないかとっ』
溢れてないからな、そんな妙なパワー。大体俺としてはどちらかというとドリーの腕輪に引き寄せられているようにも見えるんだが。
蒼い蝶は一定時間毎にドリー腕輪に付いている花に止まり、その様子は花の蜜を吸っているようにも見えた。もしかしてあの腕輪からこの蝶が好きなものでも出ているんじゃないか、と一人で勝手な推測を立て始める。
「本当メイとドリーちゃんってよく分からないわね。二人が言うんだから、きっとその妙な蝶は居るんでしょうけど……そんな蝶の話聞いたこともないし、見たって話だって聞かないわよ」
少し呆れた様な口調で言いながら、リーンは見えない蝶を探るように手を空へと彷徨わせている。すると、俺達の話を今まで黙ってい聞いていたドランが急に何かに怯えたような表情をして、焦った声を上げた。
「メ、メイどん、本当に蝶の幽霊なのかもしれんだで。きっと、夜な夜なメイどんとドリーどんの命力や魔力を吸って……次第に蝶の身体は大きく……ひいいいっ」
「おいドラン馬鹿野郎っ。怖いこと言うなって」
ドランは自分が言った話の癖に、自らビビリ、妙な悲鳴を上げてぷるぷる、と震えている。そのドランの話しの内容が、妙にありそうな話で、それを想像してしまい、俺も少しだけ怖くなってしまった。
思わず蝶と遊んでいるドリーを見ると、何かを考え込むかのように人差し指を宙に向かってフリフリと動かし、やがて何かに気がついたのか、パチンと指を弾かせ、声を上げた。
『そういえば、腕輪の花から少し魔力や命力が吸われているような気がしなくもないですっ』
その言葉で辺りに一瞬だけ沈黙が流れた。
「うおおおお、悪霊退散、南無阿弥陀仏。成仏してくれ蝶の幽霊ッ。
俺、美味しくない。ドラン、めっちゃ旨い」
思わず妙な構えを取り、蝶に向かってドランを差し出す。
「ちょ、メイどん。あっさりおらを売り払わないでくんろ。ひいい、おらが悪かったから吸わないでくんろ、お願いだでっ」
慌てて馬車の隅に逃げて震えるドラン。
そんな俺達を見ていたリーンがバンバン床を叩きながら、腹を抱えて笑い転げた。
「っぷ。ドランはわかるけど、メイまで……やだ、可笑しいったらないわ。幽霊って言ってもモンスターだってゴースト系とかいるんだから、そんなに驚くことないじゃない。フフ、良いもの見ちゃった。暫くはこれでメイをからかえそうねっ」
ち、違うし。ドランが妙な事言い出すから悪いんだ。モンスターならまだいいけど、寝てる間に命を吸われてとか想像したら嫌過ぎるだろ。
心のなかで言い訳をしながら、俺はリーンに怨嗟の言葉を吐き出した。
暫くすると、徐々に気も落ち着いてきて、急に先ほどまでの己の言動が恥ずかしくなってくる。頭を抱えて転がりまわりたい衝動に駆られたが、俺は誤魔化すかの様に一つ咳払いをして、動揺を収めた。
『相棒、そんなに心配しないでも、この蝶々さんいい子だから、そんな事したりしませんよっ』
「え、ドリーって、そんな事までわかるの?」
余りに自信満々に言い切られ、反射的に聞き返してしまう。すると、ドリーは親指をグッと付き出し、元気いっぱいに返事した。
『任せてくださいっ。私は人を見る目には自信があるのですっ』
「人じゃねーし、ドリーに目はねーし。信じられる要素が全然ないんだがっ」
『おっとっと、相棒が気が付かないなんて珍しいっ……私には、木目があるんですよ?』
ドリーさんそれ目じゃないです。全然上手くないからなっ、そんな言ってやったぜ、みたいな態度されても褒めないからなっ。
自信満々に言い切るドリーを見てか、俺の身体から思わず力が抜ける。きっと真面目に考えるほうが馬鹿なんだな、と変な悟りを開きかけそうになり「これもきっと眠気のせいだ」と自分自身に言い聞かせ、俺は馬車に身体を預け、休むことにした。
◆◆◆◆◆
森を出て三日が経った頃、昼飯をどうするかと皆で相談している最中、御者から声が掛けられた。
「お客さん、もうリドルに着きますよー。降りる準備をお願いしますね」
俺は御者の言葉に軽く返答を返し、皆に「メシは宿屋とってからにしよう」と提案する。各々が了承の返事を返し、馬車から降りる準備を初めていった。
御者の言葉から十分程経った頃だろうか、降りる準備も終えた俺は、馬車の前から顔を出し御者と話しながら、街に着くまでの時間潰しをしていた。
「お客さん、この林を抜けて直ぐ右側に見えるのがリドルですよ」
御者の言葉に思わず視線を動かし、右側に立ち並ぶ林を見つめる。すると、不意に視界を遮る林が途切れ、リドルの街がその姿を表した。
石で出来た四角い街。俺の最初の印象はそんなものだ。だが、よくよく見てみれば、この世界の街なんだな、と改めて思ってしまう箇所が所々見受けられた。
街の周囲を水堀が囲い、その内側に、七メートル程の高さがある石壁が、街の周囲を固めていて。壁の上には武器を持った番兵が数人ウロウロとしている。
一定間隔おきに、金属で出来た警鐘の様なものが設置されていて、恐らくモンスターからの襲撃に備えたものなのだろうということが分かった。
水堀に囲まれているため、街に入るにはリドルの街から降ろされている架け橋を渡らなければならないようで、馬車はそこを目指して真っ直ぐに進んでいく。
グランウッド程ではないが、かなり堅牢な印象を感じる街だ。
やっぱ攻められた事はなくても、蟲毒が近いだけあって、警戒してるんだろうな。
一人でそんな事を考え、この世界の危険性を再認識してしていると、御者が楽しそうに話しかけてきた。
「そういやお客さんは幻想蝶の泉を知らなかったんでしたっけね。じゃあリドルも初めてでしょ?」
「あ、そうですね。壁とか水堀とかあってちょっと驚いてしまいました。でも安全そうな街で良かった、かな」
俺のその言葉を聞いて、御者は苦笑にも似た笑い声を上げた。
「あー、見た目はそう見えるでしょ? でも蟲毒対策で作られたものなのに、肝心の蟲毒のモンスター達はここに見向きもしませんからね。街の連中は結構気が抜けてまして、そこが少し心配ではありますよ」
そういう事もあるのか、まあ平和なのが一番だし、それが長く続けば多少気が抜けてもしょうがないって事なのかもしれないな。
人間何かに警戒をしていても、それが実際に起こらなければ、次第に警戒心は薄れて行ってしまうものだ。いくら蟲毒が近いからといっても住民の心の底には「この街にはきっと来ない。今まで平和だったのだから」と、願いにも似た思いがあるのかもしれない。
「まあ、実際攻められたとしても、街の中心にもう一個水堀があってそこに避難所がありますからね。多少気が抜けても仕方ない気はしますが。ただ、一回でも襲われてたらそんな悠長な考え起きないんでしょうがね。
あの備えつけられてる鐘だってまだ一回もまともに鳴らした事ないらしいんですよ。整備はしてるみたいですが、いざ叩いたら壊れてしまわないか心配で」
そう言って少し首を振りながら「まあ、平和なのが一番ですが」と言った。その言葉に俺も思わず同意してしまう。
でも街中にもう一個同じような場所があるのか、って事は四角の中心にもう一個四角を入れたような。ドーナッツ状になってるって事かね。一応滞在する予定な訳だし、念のため宿を取った後は少し街中を散策してみたほうが良さそうだな。
用心に越したことはない。それが今までの旅で身に染みて俺が体感した事だった。何が起こるか分からない。どんなトラブルに巻き込まれるか予想も出来ない。正直自分で言っていて、やるせなくなる様な経験ではあるが、それを怠って酷い目に合うよりは絶対にマシだと自分に言い聞かせる。
俺がそんな考えを巡らせている間にもガタガタと桟橋を渡り、馬車はリドルの街へと俺達を運んでいく。
街に入る前に少しだけ番兵からの検査を受け、特に問題無く入ることを許可された。クレスタリアに比べると大分警備等は緩い様だ。やはり大きな都市との違いはこういう所でも現れているのだろう。
暫しの期間旅路を共にした御者に別れを告げ、馬車から降りた俺達は、御者に教えてもらったお勧めの宿屋とやらに足を向ける。
大通りには人がやたらと溢れかえっており、両脇には出店のようなものも出ていて、街の規模の割にはやたらと賑わっていた。
皆で連れ立って歩いていたのだが、やはりドランの巨体はやたら目立つ様で、通りすがりの子供などから「うおおお、でけーー」とか「すげえええ、登りてええ」などと言われ時折まとわりつかれている。
困ったような嬉しそうな表情をしているドランを微笑ましく思いながら、灰色の石畳が敷かれた中央通りの道を進み、道具屋や斡旋所の位置を確認しながらねり歩く。
だが、辺りを伺いながら歩いていると、途中で妙な違和感を感じた。
――異常に亜人の数が多い。
街を歩く人々が少ないと言う訳ではなく、単純にこの街の規模と、通りを歩いている人口が噛み合っていない。その上で目に付く亜人の数が多すぎるのだ。
想像でしかないが、シルクリークの騒動を早々に嗅ぎつけた亜人達がリドルの街へと逃げこんできたのではないだろうか。そんな嫌な推測が脳裏を過ぎった。
俺の横を歩いていたリーンもニヘラと緩ませていた顔を真面目な表情に変え、周囲の様子を観察して俺と同じような感想をポツリと呟く。
「メイ、この街……亜人が多いわね。宿を取ったら先ず情報を集めに行ったほうが良いかもしれないわね」
流石リーン、プライベート以外なら本当に頼りになる。
リーンの言う通り、早めに情報を掴んでおいたほうが良さそうだ……通りを歩いていけば行くほどそんな思いは強くなる。
現状街の雰囲気は、少々人が多く騒がしくもあるが、そこまで悪くはない、と思う。だが、慎重に街の様子を伺っていると、問題が起きそうな予兆とも言うべきものを、そこかしこで見つけてしまう。
時折すれ違う亜人達が、怯えるような表情をしていたり、逆に憎々しげに街の人達を見ていたり。宿屋に向かうために大通りを外れていくと、道端に座り込んでいる亜人達の姿が視界に入って来たりと、やはり少し様子が可笑しい。
グルグル、と俺の脳内で予測と推測が立っていく。
まだ切羽詰まった様子ではないみたいだけど、これはちょっと拙いかもしれない。この街に亜人達が逃げてきたと仮定するなら、シルクリークでの動きが本当にきな臭いものになってきている、ということだ。
国が行う人種差別としては、亜人達だけ税を上げる、国内への侵入禁止、公共施設などでの利用制限、何か問題が起こった時の冤罪、などやろうと思えばかなりの事が出来る。まだ今はそこまでの状況ではないのかもしれない、だが、鼻が利く亜人達が逃げてきたとするならば、そんな事が起こってしまいそうな予兆とも言うべき何かがシルクリークで起こっているのではないだろうか。
仮にそんなレベルまで問題が大きくなってしまえば、下手したら亜人達の反乱だって起こりかねない。
と、そこまで考えた所で不意に視界端に何かを見つけ、強制的に考えを中断させられる。
何かと思い視線をやると、そこに居たのは亜人では無く人間の浮浪者。それが何故か俺をじっと見つめている様子だった。
ズタズタの茶色いローブを纏い、皺なのか汚れなのか判断がつかない顔をフードの奥に隠している。恐らく男性だとは思うのだが、余り自信を持ってそうだと言えそうにはなかった。浮浪者の周りには無数の蝿が飛びかい、ローブの隙間から垣間見える包帯を巻いた手にさえも張り付いている。
逃げてきた人、というよりも元々この街に居たのだろう。明らかに年季の入ったその様子に、俺は思わず視線を逸らそうとする、が。不意に浮浪者と目が合ってしまった。
浮浪者は俺に向かってブツブツと何事か呟き、フラフラと近づいてくる。
なんだ、物乞いだろうか。でもこういう時は迂闊にやるなって、どっかで聞いたことがあったし……無視するのが一番問題なさそうだな。
下手に関わっても良い事などないだろうと思い、そのまま無視して通り過ぎようとした。しかし、何故か浮浪者は俺に向かって白く濁った目を真っ直ぐに向け、口元を裂けんばかり吊り上げ、乱雑に並んだ黄ばんだ歯を魅せつけるかの如く気味の悪い笑みを浮かべる。
そして、まるで俺を捕まえようとでもするかの様に、包帯を巻いた手をゆっくりと伸ばしてきた。
瞬間湧き上がる嫌悪感と何故か感じた恐怖。俺はそれに突き動かされるように、浮浪者の手から反射的に後ずさり、足早にその場から逃げ出した。
暫く無言で足を進めていると、背後からドランの静止の声が掛けられ、それに反応して足を止めた。
「メイどん、ちょっと待ってくんろ。急に早歩きされると、置いてかれちまうだよ。それに曲がらなきゃなんねーとこ通り過ぎてるだで」
「本当よ、メイ。どうしたのよ急に……さっきの人に何かされたの? もしそうなら警備兵にでも突き出してやるわ」
リーンは腕まくりをする仕草を見せ、私に任せろとばかりにやる気を出している。流石に実際何かされて訳でもなかったので、慌ててリーンを諌める。
「いやいや、本当ごめん。急いで宿に向かわないと、とか急に思っちゃって」
誤魔化す様にリーンとドランに笑ってみせる。だが俺の中には先程浮浪者に感じた不快感が充満していた。
気味が悪い目だった。もう既に死んでいるような……生気をまるで感じさせない、見ているだけでゾッとするようなそんな白く濁った瞳。思わず思い出してしまい身を震わせてしまう。
浮浪者だから汚いとか、触られたくない、とかそう言う感情とは明らかに違う。単純に捕まりたくない、逃げたほうが良いと身体が反応してしまったかの様な……いや、正直、自分自身何がなんだか分からないといったほうが正しいかもしれない。
『相棒調子が悪いんですか? ほら、蝶子さんも心配してますっ』
肩にいたドリーには俺の適当な誤魔化しなど通じ無いようで、心配そうな声音で俺に話しかけ、元気づけようとでもしてくれているのか、頭上を飛び交う蒼い蝶に向かって「見てくださいっ」と指を向けている。
いつの間に名前とか付けたんだドリーの奴。しかも名前が安直過ぎるだろ。
ドリー自身はまじめに考えたのだろうが、どうにも間の抜けた蝶の名前と、そんな名前を付けられてしまった蝶の姿を見て、身体から良い具合に力が抜ける。
やっぱり最近どうにも落ち着かない。船のせいかとも思っていたが、どちらかと言うと船から降りた後の方が大きくなっているかもしれない。普段は底のほうに気づかぬ程度に沈んでいるのだが、何かある度に浮かんでは消え、俺の心を揺さぶってくる様だ。
今はこんな事で悩んでる暇はないよな……さっさと宿屋に向かってから情報集めをしないと。
ドリーのお陰で大分気分も持ち直し、俺は頭を切り替え、急ぎ宿へと向かうことにする。
◆◆◆◆◆
ドリーを肩に、樹々を頭に、頭上に蝶々「俺の身体は君たちの家じゃないんですが」思わずそんな言葉が漏れそうになりながら、走破者斡旋所へと俺は足を運んでいく。
宿屋で部屋を取り、荷物やらを置いた後、部屋の中でこれからの行動方針を話し合った結果。取り敢えずそれぞれ別れて情報を集めようという結論に至った。
俺は斡旋所へ、ドランは街中、リーンはその辺りの店など、と。ある程度広い範囲での情報集めた方が良いだろうと話し合い、皆で手分けして情報を集めることに。
しかし御者の人には本当に感謝しなければならないだろう。少し道を入り込んだ所にある宿だからギリギリで部屋を取れたが、目立つ場所にある宿などは既に満員状態になっているらしい。
やはり知らない人とでも仲良くなっておくもんだ、と思い一人で満足気に頷いた。
人がひしめきあう大通りを、ぶつからないように気をつけながら歩いていく。すると、先ほど確認しておいた斡旋所の建物が視界に入ってくる。
この街の斡旋所はどうやら酒場と合体しているらしく、どこか西部映画に出てくるような横幅の広い、木材で出来た二階建ての建物だった。
木で出来た両開きのドアを押し開き、斡旋所の中に入る。すると、外気とは明らかに気温が違い、ムワリとした熱気のようなものを肌で感じる。
斡旋所って言うよりはモロに酒場だなこれ。
漂う臭いも完全に酒場の臭いと言えばいいのか、アルコールと美味そうな食べ物の臭いが充満していて、思わずグウ、と腹が鳴ってしまう。
そういやまだ飯食ってなかったんだっけ。情報集めついでに酒場の方で何か食べようかな。
入って直ぐ先には斡旋所らしい依頼書が置かれた掲示板や、受付の居るカウンターが見える。だが、一旦頭を左に向けると、雰囲気はガラリとかわり、丸机に座って食事を取ったり、バカバカと飲み騒ぐ走破者達がいる酒場らしい風景が視界に入った。酒だけでは無く食事も出してくれるようなので、酒場の方で食事を取りながら、色々と話を聞いてみたほうが良いかもしれない。
どうせ斡旋所の受付に聞いても大したこと教えてはくれないだろう。国管理の施設で国の情勢を聞いても、まともに教えてくれるか怪しいもんだ。でも酒場の方なら色々と情報を持っていそうだし、上手くやれば教えてくれるかも。
しかし、国の管理だというのなら、ここの斡旋所もシルクリークの管轄なのか? そうなると、シルクリークの問題がひどくなったらリドルの街の斡旋所でも亜人達が不利になるような状況になってしまうのだろうか……ただ、村や街の斡旋所って国の管理と言うよりはそれぞれの町や村にある程度一任されている様な感じもするんだよな。
まあ、流石にある程度各国で協力して運営している施設って話だし、シルクリーク単体で好き勝手やれるような事もないだろうけど。
色々と予想をたてながら、酒場の方へと足を運んでいると、見覚えのある顔を見つけてしまう。会いたくない方面での見覚え、ではあったが。
片腕になってしまっている戦士と、その連れの魔法使い。と、その横には見覚えのない屈強な走破者らしき男が一人並んでいる。
あの船で散々やらかしてくれたあの男とまさかこんな所で会うとは思わなかった。どうやら向こうも俺を見つけたようで、目を釣り上がらせてこちらに向かって突っかかってこようとしている。
あの野郎まだ逆恨みしてんのか……。
俺は反射的に武器に手をかけようとしたのだが、こちらに向かってくる筈の男は、そばにいた屈強な走破者に腕を掴まれ無理やりに止められていた。
「なにしやがんだッ、離しやがれ」
ジタバタと戦士は暴れているが、そばにいる走破者は顔色を変えることも無く、やすやすと男を取り押さえ、低く錆び付いたような、そんな印象を与える声で戦士に向かって脅しにも似た声を掛けた。
「お前は今から依頼に行かねばならない。余計な騒ぎを起こすな。俺だって仕事でお前に付いているだけなんだ。下らないことで騒ぎを起こす元気があるなら、さっさと借金を返すために依頼をこなすんだな……」
睨み殺してしまわんばかりの迫力で押さえつけている屈強な走破者に、言葉が詰まってしまったのか戦士は何も言えなくなり、暴れるのを止めて、大人しくなる。
もしかしてあの走破者って斡旋所からのお目付け役か。借金返済までの間あの男に着いて回って逃がさないようにして、依頼をこなさせているんじゃないだろうか。片腕だとしてもある程度簡単な依頼ならこなせるわけだし、後は依頼料の一部を強制的に徴収して返済に当てているって所か。
実際合っているのかは分からないが、あの関係性を見ているとあながち外れているとも思えなかった。どちらにせよあの戦士は余計な事を出来そうにもないし、ほうっておくのが一番だろう、そう結論づけて、俺は酒場の方へと足を進める。
ダークブラウン色をした木材カウンターを前に腰を下ろし、一先ず注文をすることに。
カウンターにしたのは酒場の人達から話を聞きやすいのではないだろうか、という安易な考えと、一回こんな所に座って見たかった、という間抜けな理由からだ。
暫くの間何を頼もうかと迷っていると、目の前にドラム缶が現れた。いや、流石に失礼だ……ドラム缶の様な胴体を持ったおばちゃんだった。
『メイちゃんさん巨木が現れました。私のお仲間ですっ』
いやドリー、残念ながらこのおばちゃんは人間ですよ。
嬉しそうな声音ではしゃぐドリーに心の中で失礼だろう、と突っ込みを入れる。先ほどまでドラム缶とか思っていた気がするけどそれはきっと気のせいだ。
ドン、とテーブルに巨大な、いや、少々大きい手の平を乗せ「ぬはは」とでも豪快に笑い出しそうな調子で俺に声を掛けてくるおばちゃん。
「おやおや、おやおや? 随分若いお客さんだねぇ。その身なりからしたら走破者かい。若いってのは良いねー。少し分けておくれよっ」
カウンター越しに肩をバシバシと叩かれる。あまりの豪快さに、一瞬肩が砕けるんじゃないかと思ってしまった。
ははは、と愛想笑いを返す俺を不思議そうな目付きで見つめてくるおばちゃん。
「その肩にいるのは……使い魔印をしているし、坊やの相棒かい?」
『へいっ、よくぞわかってしまいましたね。その通りです。やはり相棒の一番の右腕である私ですっ。何も言わなくてもわかってしまうのでしょうっ。ぬへへ……ふふ』
嬉しそうにおばちゃんに向かって親指を突き出しているドリー。声は聞こえてないだろうが、返事の仕草をしたドリーの事も「おやおや、元気な子だねぇ」と驚く様子もなく受け止める。
「それに、頭に乗っているのは緑の『走破竜』だし、グランウッドか、クレスタリア付近出身て所かねぇ」
なんだこのおばちゃん、半端ねえッ。
正確には出身ではないのだが、来た場所を見事当てられ思わず驚いてしまい、何故分かったのかと質問を返す。すると「おや知らないのかい?」と言って種明かしをしてくれる。
どうやら樹々の種族である『走破竜』にはそれぞれ細かく種族が別れているらしく、住んでいる土地やその周りの環境、食べるものによって色が違かったりするらしい。緑色の走破竜は基本的にグランウッド地方に生息しているらしく、グランウッドか付近のクレスタリアから来たのだろうと判るとの事「走破竜は精霊様の影響を受けやすい種族って話もあるくらいだしねぇ」とニコニコと笑い「それに、クレスタリアからの船が到着した時間もあるし、予測するのは簡単だよ」と言われ思わず納得してしまった。
リーンに聞いた時は『走破竜』の事ここまで詳しく教えてくれなかったな。多分アイツも飼ったこと無いって言ってたし、聞きかじって覚えた知識だったんだろうな。
俺がおばちゃんに感心していると、肩にいたドリーが不思議そうにおばちゃんを見ながら呟いた。
『相棒……この巨木おばちゃん。凄く元気で荒々しい感じがします。でもあの頭の上に付いている蕾はいつ花が咲くんでしょうか』
あれはね、ドリー。蕾じゃなくて髪の毛を纏めてるだけなんだよ……また一つ勉強になったな。
きっと邪魔にならないように頭の上に髪の毛を纏めているのだろうが、ドリーにしてみるとあれが蕾に見えるらしい。思わずおばちゃんの頭に巨大な花が咲いた場面を想像してしまい、吹き出しそうになった。
気合と根性で笑いを我慢して「このおばちゃんなら色々知ってそうだな」と思った俺は、お勧めの食事と少し色を付けるから色々と情報を下さいと持ちかけてみる。すると「わたしゃ、そんなに色々知ってる方じゃないけどそれでも良いかい?」と笑いながら了承してくれた。
暫くの間、料理をボッーと待っていると、おばちゃんが両手にトレーを抱え、料理を俺の目の前にドン、と置いた。
「お勧めって言ったらこれだねぇ。この付近でしか取れない新鮮な『ベニキノコ』と『砂トカゲ』のシチューだよ。あ、後水だっけね。さてたんとお食べっ」
腰に手を当て俺をニヤニヤと見るおばちゃんを前に、俺は眼の前に置かれた料理を見る。
キノコや肉が器一杯に入ったシチュー、それに横にはチーズを挟んだパンとサラダもついているし、ちゃんとドリー用にと頼んだ水もついてきていた。
見れば見るほど腹がすいてきてしまい、俺は鳴り続ける腹をおさめるために手をあわせ「頂きます」と呟いてから猛然と食事に襲いかかっていく。
トカゲの肉と聞いて少し警戒していたのだが、思いの外柔らかく旨みの成分も多い、キノコの方も特に臭みなど無く、シチューの旨みとマッチしていた。チーズの挟まれたパンをシチューに浸しながら、止まることなく食事を進めている俺を見て、おばちゃん(巨)はニコニコと笑いながら俺に向かって話しかけてくる。
「中々良い食いっぷりじゃないかい。見てて気持ちが良いもんだぃ。旨いだろう? この地方ならではの、特別なキノコシチューだからねぇ。少し毒があるけどそれが舌にピリッと残っていい味を出すのさね」
ゴフッ。思わずおばちゃんの言葉でキノコが鼻から出そうになった。
毒ってなんだよ、なんてもの食わせやがるこのババアッ。
慌てふためきおばちゃんに向かって目を見開く俺。だが、そんな俺の反応を見て、おばちゃんは楽しそうに笑い、補足を入れてくれる。
毒といってもそんな大したモノでは無く、人間にはそこまで影響がないのだとか、ただ舌にピリッとした刺激が残るので、ある意味で香辛料のような食べられ方をしているらしい。
舌に残る刺激ねー。別になんも感じなかったんだけど……香辛料とか食い慣れてるから、あんまり感じないんだろうか? だとすると少し勿体無い様な気分になるな。
そんな贅沢な考えを抱きながら、サラダを樹々にちぎって食べさせながら、食事を進めていった。
やがて食事も終え、本来の目的を果たすためにおばちゃんに話を振ってみる。
「聞きたい事ってのはシルクリーク関連の事なんだけど……何か王位継承でもめて第二王子が継いだんでしょ?
しかも亜人嫌いって噂だし、最初は信じてなかったけど、実際この街に着いてみれば亜人の数が多いでしょ。俺の仲間に亜人が一人いるからさ、心配になっちゃって」
ある程度こちらの知っている情報をおばちゃんに差し出してみる。正直一々探りを入れる必要は無いだろう。この街の住人で酒場なんてやってるこのおばちゃんが、こんな事も知らない訳がないのだから。
俺の質問におばちゃんの反応はやっぱり、といった感じの態度を示し、少し迷っている様に顔色を変えた。無理かな? と少し思ったが、意外にも、おばちゃんはゆっくりと俺の質問に答えてくれる。
「まあ、この街じゃ殆どの人が知ってることだしねぇ。坊やのお仲間に亜人がいるってんならそりゃ心配にもなるさね。斡旋所で聞かなかったのは正解だよ。きっと向こうも答えづらいだろうからね。
この酒場は斡旋所と一緒になってはいるけど、私の店だし、答えられる程度には答えてあげるよ。でも余り期待はしないでおくれ、わたしゃ詳しい方じゃないからねぇ」
と、そう言ってカウンターにドン、と手をつき、口に片手を当て、少しだけ声を潜めて話を始めた。
「一応坊やの言った事は大体正解だよ。ただ、ちょっと事態は悪い方に進んでいるみたいだけどね。
最近シルクリーク都市内では亜人にかける税が少しづつだけど上がっているって話さね。街の雰囲気も少し荒れてきているようだし、城の兵士も上からの命令なんだろうけど、亜人に対して冷たい態度をとっているようさ」
思った以上に悪い方に進んでいる。蟲毒に対する人員不足とかはどうなってるだろうか、なにか対抗策が出来たからシルクリークは動き出したのだろうか。
俺が一人で考え込んでいる間にもおばちゃんは続けていく。
「しかもそれによって住民にも不満が溜まっている様子で、時折都市内で亜人と兵士のいざこざが起きているらしいよ。元からシルクリークに住んでいた亜人走破者達なんかが、ある程度集まり始めててね。このままじゃ色々と拙い事になっちまいそうだってのが、シルクリークから来た商人達の話だよ」
「でも、蟲毒からの防衛で人が足りなくなるかもしれないから、余り無茶はできないだろうって話を聞いたんですけど」
「おやおや、よく知ってるね。前まではそうだったんだけどねぇ。最近どこかから新しい兵士や何かを増やしたらしくって。今も少しづつだけど人員が増えているらしいよ。このままいけば亜人が居なくても問題なくなっちまうだろうね」
これは拙いな……シルクリークには近づかない方が良いかもしれない。そういえばドランに地図の写しを貰っておいたし、ちょっとおばちゃんに他の話も聞いておくべきだな。
そう考えた俺は、ゴソゴソと荷物を漁り、ドランから貰った地図の写しを出して、おばちゃんに話を聞いていく。
おばちゃんは「詳しくないからねぇ」と連呼していたが、そのセリフとは裏腹に異常に詳しく、地図を見ながら「ここは良いかもしれないね」だの「この村を通ってシルクリークをやり過ごしたらどうだい」などと教えてくれる。
マジで詳しすぎるこのおばちゃん、侮れねぇ。
俺はおばちゃんの勢いに気圧されながらも、ありがたく色々と教えて貰っていった。
暫くの間おばちゃんは俺の相手を続けてくれていたのだが「店の仕事もあるだろうし、流石にこれ以上は悪いな」と思い始める。
いや、本当にこのおばちゃん、やりおる。かなり詳しく道も聞けたし、ある程度シルクリーク内の話も手に入れられた。やっぱこういう人が集まる場所で仕事してる人は違うな。段々あのでかい図体も貫禄があるように見えてきちまった。
思わず感謝の眼差しをおなばちゃんに向けると、おばちゃんは頬に手をあて、訳のわからないことを言い放つ。
「あらやだよ。そんなに見つめちまって照れちまうだろ? もしかして、わたしの事も聞きたいのかい、全く仕方ないねぇ……」
「言ってねーっよッ。ちょっと歳考えてもの言えって、ビックリしすぎて教えてもらったこと忘れそうになったじゃねーかっ」
思わず感謝も敬語も忘れておばちゃんに失礼極まりない事を言ってしまうが、これはきっと誰でもこうなる。間違いない。
だが、肝心のおばちゃんは特に気にした様子もなく、返答を返してくる。
「いやだよ、歳を考えろって、こう見えてもおばちゃんさね。そんなに若く見えるかい?」
どうもこうも、どっから見てもおばちゃんだよ馬鹿野郎。
腰に手を当て「フハハ」と笑うおばちゃんをため息混じりで見ていると、ドリーが俺の肩にそっと手を置き慰めるかのように話しかけてきた。
『相棒……諦めたほうがいいですよっ。勝てやしねぇ、勝てやしねぇんですっ』
妙な口調でポツリと呟くドリーに俺は心から同意をするしかなく、きっと頭上で飛んでいる蝶もカウンターで転がっている樹々も同じ事を思っているに違いない。と思い込み、早々に白旗を上げることにする。
◆◆◆◆◆
色々な情報を貰え上機嫌で宿へと帰ると、既にリーンもドランも部屋に戻っているようだったので、一旦皆で集まり今後の方針を決めていくことにした。
二人の話を聞いて見たところ、やはり同じような情報を集めてきたようだ。
シルクリークでのきな臭い動き、新たに増やした城の人員、不満を溜め込み、徒党を組み始めている亜人達。
新しい情報といえば、第一王子は何か問題を起こして捕まってしまっているだの、城に入った兵士達が微妙に不気味だの、取り留めもない噂程度のものだった。
全員で頭を捻らせ今後の旅路を考えてみるも、取り敢えず今は動かず様子を見たほうが良い、としか結論しか出ない。
今後事態が悪くなってしまうなら、別の方向へと道のりを変えるか、シルクリークを通らない道を決めるしか無いし、事態が収集するならばその後旅を続ければ良いだけだ。
下手に焦って動くと、俺のせいで渦中に巻き込まれてしまいそうな気しかしない。と俺以外の全員が示し合わせたかのように言い出す始末。 なんて失礼な奴らだろうと思ったものの、反論する言葉をちょっと今は見つけられなかったので、仕方なく今回は許してやることにした。
結論としては暫くリドルの街で滞在し様子を見る、と。特に代わり映えのしないものへと収まった。
まあ、たまにはゆっくりするのも良いな。別に急ぐ旅路じゃないし……最近妙に疲れが溜まってしまってるみたいだし、良いタイミングだったかもしれない。
不安は色々とあったものの、平和を堪能できるのならそれも悪くない、と俺としてはこの結果に納得することが出来た。
◆◆◆◆◆
リドルに滞在し始めて早二週間と二日程が経過しようとしていた。
実に平和な日々を過ごせ、俺としては良い意味で予想外と言うか少し気が抜けてしまっている。勿論、滞在している間も適度に情報集めをしたりしていたのだが、特に目立った進展は見受けらず、二週間の間を軽い依頼をこなしたり、新しい魔法を三つほど買ったり、ローブや防具を修理に出したり、とある程度充実した日々を堪能していた。
特に一番出かけている場所といえば、斡旋所隣にある巨木おばちゃんの酒場だろう。理由としては飯が旨いし情報集めには持ってこい、なにより珍しい事もあって、リーンがおばちゃんを気に入ってしまっていたのが大きい。
不思議に思い理由を尋ねてみたところ、リーン曰く「グランウッドのおばちゃんに似ているから」だそうだ。それを聞いた瞬間、俺は思わず良いように踊らされたことを思い出してしまい、悔しさで歯を噛み締めてしまっていた。
ある程度予想通りではあったのだが、リッツ達三人組もリドルに遅れて到着した様で、巨木おばちゃんの酒場でばったりと鉢合わせしてしまう。
折角だからと、酒場で一緒に飯を食べながら色々と話を聞いてみていた所、どうやら、すぐに蟲毒に向かうわけではないらしいと言うことが判明した。
てっきり直ぐに向かうのだろうと思っていた俺は「何で?」と聞いたのだがリッツに「馬鹿なの? 準備整えないで獄級に入るわけ無いじゃない。死ねっていうの? 傷ついたわ、慰謝料をよこしなさい」とかボロクソに文句を言われた。
流石にむかついたので、クルミに穴を開けて、中に唐辛子に似た辛い植物のエキスを流しこみ、笑顔で渡した俺はきっと悪くない。
勿論速攻でバレてしまい、またボロクソに文句を言われたのだが、肝心の文句を言っているリッツの唇は、赤く腫れ上がっており、その姿が余りに可笑しく俺は心の赴くままドリーと一緒に爆笑してやったので、後悔する気持ちは微塵もなかった。
安穏とした日々が流れ、こんなにゆっくりしたのはいつ以来だろう……そう思いながら幸せを噛み締め毎日を過ごす。
旅を共にしてきた仲間、新たに知り合った走破者や酒場のおばちゃん、未だによく分からないが、蝶子さん(仮)も特に悪さをするようでもなく、ドリーも楽しそうにしているので、気にすることも無くなっていた。
こんな平穏な日々を過ごせる事は、別にそこまで不思議なことでは無いのかもしれない。
でも、俺にとってはひどく楽しく、幸せなことだった。
きっとこのまま何事も起こらずこんな日々が続くんだ。シルクリークの騒ぎもいずれ収まりその後はなんの問題もない旅が続くんだ。
この時まではずっとそう思い込んでいたし、そう信じようとしていた。
――あの鐘が鳴るまでは。
◆
宿屋の二階にある俺の部屋で、毎日のように暇をつぶしに来るリーンと、唸りながら地図を見ているドランを見ながら、俺はベッドでゴロゴロと転がり、ドリーと樹々と遊んでいる。
すると、先刻までいつも通りヒラヒラと飛んでいた蝶子さんが、急に部屋中を忙しなく飛び回り始めた。
その姿はどこか慌てているようにも、何かをこちらに伝えようとしているようにも見え、思わず俺は眉根を寄せてその姿に首を傾げてしまう。
「どうしたのメイ、何かあったの?」
共に樹々やドリーと遊んでいたリーンが、俺の様子を見て小首を傾げて訪ねてくる。
「いや、なんか蝶子さんがやたらと飛び回ってんだよね」
『はい、一体どうしたんでしょうか?』
俺とドリーの言葉に蝶子さんの姿が見えないリーンとドランは「さぁ」と曖昧な返事をするのみに留まった。やがて飛び回っていた蝶子さんは、ピタリと動きを止めて、俺とドリーの元に諦めるかのように戻ってくる。
本当、何なんだろか……調子が悪いとかじゃないよな?
最近ずっと一緒に居たせいで、俺も少し蝶子さんの事を気に入り始めていた。まあ、一番の理由としてはドリーが悲しみそうだから、と言うのが大きかったのだが。
少し心配になった俺は、近寄ってくる蝶子さんに無意識に手を伸ばしていた……あと少しで触れそうになる程度に俺の手が近寄った、その瞬間。
ガーンッ、ガーンッ。というけたたましい騒音が部屋に、いや恐らく街中に響き渡り始める。
いきなり鳴り始めた音に思わず驚き身をすくめてしまう。
最初は何の音だろうかと不思議に思っていたが、一つだけ心辺りがある事を思い出す。
……否、思い出してしまった。
鳴ってはいけない鐘の音。鳴るはずのない警戒音。
音の正体に気づいてしまった俺の胸を、抉るかのように街に配置された警鐘の音が響き続ける。
鐘を壊してしまうのでは無いか、そう思ってしまうほどに、鳴らしている者の焦りの大きさを鐘の音で街中に伝え続けていた。
俺の心の底に押し込めていた不安が、鐘の音を切欠にして吹き上がる。
止めようもなく身体が勝手に震えだし、心臓が飛び出るんじゃないだろうか、と思うほどに鼓動が胸を叩く。
俺の感じる恐怖を、如実に表しているかのように、立ち上がろうとする俺の膝は笑っていた。
……間違いであってくれ、別のものであってくれ。お願いだから、頼むから俺の勘違いであってくれッ!
笑う膝を殴りつけ、叩きつけてくる心臓を片手で抑えこみ、俺はベッドから飛び起き淡い期待を抱きながら、窓を開けて外の様子を伺う。
――だが、窓を開けた俺の耳に聞こえてきたのは、俺がもっとも聞きたくない叫び声だった。
《急げッ、早く門を閉めろッ。蟲毒がッ、蟲毒がリドルまで溢れて来やがったァァア嗚呼ッ》