6−4
未だ日が登る様子は無いが、水晶船の上は魔灯の明かりのお陰で特に明るさに困ることは無かった。
爛れ溜りの縄張りから抜けたらしいので、既に警戒態勢は解かれ、先程までの緊張感は嘘のように霧散している。
甲板上の後片付けを始めだす船員達。その姿を見て、大半の走破者は自主的に片付けを手伝い始める。
俺も武器をデッキブラシに持ち替え、現在甲板にばら撒かれたアシッド・スカルの残骸を片付けている最中だった。流石にアシッド・スカルの残骸をそのままブラシで擦る訳にもいかず、一度水属性の使い手が甲板上を洗い流した後ではあったが。
船長曰く「船員にとってはこれも仕事の内だ、別に手伝わなくても構わんぞ」とは言っていたのだが、船員達の働きぶりを見せつけられたこちらとしては、手伝う以外の選択肢は考えられない。
面倒臭い、掃除なんてやりたく無い、とも思うが、この運河の上で何か問題が起これば、頼りになるのは走破者達よりも船員達だと既にわかりきっているのだから。
つまり、掃除を手伝って船員達の負担を和らげてやれば、そのまま、自分達の命を守ることにも繋がるという事だ。
――命の危険を考えたら、面倒臭かろうが、片付けのほうがマシに決まっているよな。
ガシガシと甲板をブラシで擦りながら、一人寂しく掃除を続ける。というのも、今俺の肩の上には、珍しくドリーが居ない。正確には一人と一匹なのだが、樹々は既にグースカ眠っているので実質一人の様なものだ。
肩に掛かるドリーの重さが無くなった事で、少々の寂しさと物足りなさを感じてはいるが、我慢せねばなるまい。
仕方ないよな、リーンに一人で掃除を任せられるわけがないし。確実に余計な手間増やすに決まってる。
掃除を共に始めようとするリーンに、俺は「今回活躍しただろ? 疲れてるだろうし、休んでていいよ」と上手く誤魔化そうとしたのだが「メイ達だって頑張ってるのだから、私だけ休むわけにはいかないわっ」と余計なヤル気を出し始め、デッキブラシをその手に辺りに突撃しそうになった。
リーンはやる気に満ち溢れており、明らかに言っても聞かなそうな状態だったので、仕方なくドリーをお目付け役としてつける事でその被害を無くそうと考えたのだ。
リーン自身は「一人で出来るわよ」と言っていたが、俺が「ドリーに片付けの練習をさせたいんだよ。だからリーンがドリーの身体替りをしてやってくれよ……ほら、年上の面倒見の良さ、的な奴だよ」と言うと、きゃっきゃ、と喜んで引き受けた。
非常に扱いやすい奴で助かります。
ただ、予想外の問題も一つ起きてしまう。ドリーが『私が乗るのは相棒の肩だけなのですっ。例えリーンちゃんとはいえ、そこは譲れませんっ』と腕をブンブン振り回しながら、珍しくワガママを言い出し始めたのだ。きっと、ドリーなりの妙なコダワリがあるのだろう。
その言葉で少し嬉しくなってしまった俺としては、強引にドリーを言い聞かせることが出来なくなり、妥協案を提案することでドリーを説得することしか出来なかった。
で、その結果があれか……。
手に持ったブラシを甲板に立て、遠目に見えるリーンに視線を向ける。
赤毛の髪の毛が風に揺れ、小さな背丈は今では腕一本分だけ伸びていた。言葉通り腕一本分。
俺の視界には、リーンの頭上にそびえ立つドリーが『それはあっちですっ』『おーとっ。それは向こうですっ』と頑張っている様子が写っている。
……何故。何故、俺はあそこを選んでしまったのだろうか、きっと窮地を脱出できた喜びから少し舞い上がっていたのかもしれない。
俺はランナーズ・ハイ的な何かだったのか、考えに考えた結果「ここなら問題ないだろうドリー?」と微笑んで、リーンの頭の上にそっとドリーを乗せてしまった。
くそっ、向こうを見るな。妙なツボに入っちまいそうだっ。
込み上がる笑いをどうにか堪えながらリーンから視線を外そうとするが、どうにも目が離せない。
一生懸命片付けをしているリーンの頭上で、ドリーがユラユラ揺れながら指示を出しているその姿は、異常な程のシュールさを出していて、これ以上見ていたらきっと俺は大声を上げて笑い出してしまうだろう。周りにいる船員達や走破者はアレを笑っていいものか判断がつかないらしく、色々と困ったような表情を浮かべていた。
そうだよな、事情知らなければ笑うのを躊躇っちゃうよな。
だが事情を知っている俺にとってはその周りの反応すら可笑しくて堪らない。
駄目だ視線を外さなきゃ、助けてドランっ。
これ以上こらえ切れそうになかったので、顔を無理やりに動かし、ドランに視線を固定して笑いを誤魔化す事に。
ドランは肩に荷物や樽を抱え、自慢の怪力で悠々と積荷を運び、片付けを進めている。船員達もドランのその姿を見て感心したのか、時折ドランに向かって「やるじゃねーか」やら「でっかい竜のにいちゃん、ありがとうよっ」等とドラン腕を軽く叩きながら話しかけていた。
ドランはどうにも褒められ慣れていないせいか、大きな身体を縮込めて、終始、謙遜しながら照れまくっている様子。
その微笑ましい光景でどうにか笑いの発作を抑えることに成功した俺は、極力リーン達の方向には目を向けないように気をつけ、甲板の掃除を再開していった。
暫くの間、無心で甲板の掃除を行なっていると、不意に背後から肩をポンポンと叩かれ、声を掛けられる。
「おう坊主、手伝って貰っちまって悪いな」
振り向くと、上着を脱ぎ、何故かデッキブラシを手に持った船長の姿「何で船長がデッキブラシ?」とも思ったが、一先ず疑問は横に置き、俺は船長に頭を軽く下げ、挨拶を返す。
「どうも、樽の件はありがとうございました。お陰で助かりました」
「坊主そら、こっちの言うこった。お陰であっさり逃げられたからな。
前に爛れに会った時は、そりゃぁ、逃げきるまで大変だったもんだ」
そう言って笑う船長に、俺は戦慄を覚えざるをえなかった。
前に会ったのかよっ。つかよく逃げ切れたな……し、しかも笑ってやがる。
思わず頬が引き攣り、苦笑いで返事を返す。すると船長は俺の隣でガシガシとブラシを掛け始め、不思議そうな声音と表情で俺に質問を始める。
「しかし、最初に聞いた時はまるっきり信じてなかったが、まさか坊主の言うとおりになるとはな。一体どんな手品だ?」
恐らくあの塩の事を聞きたいのだろうと理解した。
「えっと、俺もそんなに詳しくないんですけど……」
と、前置きをして、船長に氷と塩の関係性を簡単に話していく。
船長は時折周りに指示を出しつつも、俺の話を熱心に聞いていた。一頻り話を聞き終えた後も「凍らせた後にかけるんだな?」やら「粉末状に砕いた後じゃないと駄目なのか」等と聞いてくる。それに対して俺は知る限りの知識で一つ一つ丁寧に答えていく。
暫く話を続け、ようやく船長も満足したのか、質問攻めが終わる。
「やたら熱心に聞いてましたけど、そんな面白い話でした?」
船長が余りにも真剣に俺の話を聞いてきたので、少し不思議に思い、質問を投げかける。すると、俺の質問に船長は一瞬不思議そうな顔をし、その後自信に満ちた表情で一言だけ言った。
「ああ、勿論だ。この水晶船の船長だからな」
船の帆柱を愛おしそうに撫で、誇りに満ちた船長の表情を見て、自分が馬鹿な質問をしてしまった事に気がついた。
一生懸命に聞いてくるのは当たり前だ。船長がブラシを手に取り掃除する事だってなんら不思議ではない。彼はこの船を愛し、自分の仕事に誇りを持っているのだから。
俺自身の中には、何かあるのだろうか、自信を持って誇れるものが。船長の姿を見て、ひどく眩しく、少しの憧れを抱いてしまう。
一頻り考えを巡らせた後、顔を動かし仲間を眺めた。馬鹿なことばっかりやったり、一癖も二癖もある仲間達。
せめてそんな大事な仲間達を守れるような格好良い男になりたい。そう思い、願う。
しばし辺りを眺め、ぼーっとしてしまっていた俺に、船長から再度声をかけられる。
「なあ、坊主。この船に乗ってるってことは大方シルクリーク方面に向かうんだろ?」
「おお、よく分かりますね。取り敢えず今の目的地はそんな所です」
「まあ、シルクリークを経由して目的地に、ってのが基本の道のりだからな」
そりゃそうか。よっぽど目的地から遠くならない限り、一旦大きな都市に入ってからの方が、色々と楽だしな。
等と一人で考えていると、船長が掃除をしていたブラシを止め、少しだけ真剣な表情で俺に向かって顔を向けた。
「なら良い話を聞いた礼替わりってわけじゃねーんだが、一つ忠告しておいてやる。
坊主とあの剣士の嬢ちゃんは問題ないが、あのドラゴニアンの兄ちゃんはシルクリークに入る前にもう少し目立たない格好をさせとけ」
その妙な忠告に思わず首を傾げてしまう。疑問を抱き「何故?」と、問い返すと、船長は少し声をひそめながら話を続けてくる。
「少し前にだが、シルクリークで王位継承争いがおきててな。何が起きたかまではしらねーが、第二王子が王位を継承したんだと。
だがどうにもその第二王子ってのが亜人嫌いらしくてよ、最近じゃ少しづつ亜人に対する風当たりが強くなってきているって話だ」
船長はそこまで言うと、頭が痛い、とでも言いたげにかこめかみを指でグリグリと押し、嫌そうに顔をしかめた。
だが、少しだけ俺は少しだけ納得してしまっている部分があった。何故なら。亜人などいなかった地球ですら人種差別は起こっていた……それよりも遥かに種族数の多いこの世界でそういう問題が起こらない筈も無い。ただ、それを王が率先してやるのはどうかと思う。国の人口が減ったり、流通が減ったりすればそれだけで国にとってマイナスになってしまうのだから。
でも、これは本当にいい情報を貰ったかもしれない。確かドランと順路を話しあっている時に見た地図では、シルクリークに向かう途中で中継地点の様な街があったはず、そこで一旦様子を見て情報を集めたほうが無難か? 正直ドランのあの巨体を隠し通せるとは思えないしな……。
下手したら目的地を変えないとならないのでは、と考え、思案に耽る。そんな俺の様子を見てか、船長は少し慌てた声で話を続けてきた。
「いやいや、そこまで真剣になる程じゃねーよ。目立つ様な真似しなきゃ問題はないんだよ。流石に亜人ってだけでとっ捕まる様な切羽詰まった状況じゃないからな。ただな、どうにもきな臭いと言うか……気をつけておいて損はねー筈だ。まあただの勘だがな」
船長の言葉に少しだけホッとして良いやら、不安が増した様な。ただ、ここに来てからのトラブル率を考えるとやはり安易に気を抜いて良いとは思えなかった。シルクリークに向かうにしろ、向かわないにしろ。出来うる限り目立たない方法を考えなければならないだろう。
多少ドランに教えて貰っていたとはいえ、俺一人じゃ地理に疎すぎてどうにもできないし、後で皆と相談しないと。
そう心に決め、感じる不安を心の隅へと押しやった。
「大体あそこは定期的に蟲毒とドンパチやってるんだ。亜人を全て排除するなんて無茶な真似はできねーよ」
少し俺の耳が可笑しかったのか、船長の言葉の中で、妙な一言が聞こえてきたような気がした。
きっと気のせいだ。俺の聞き間違いに違いない。
「え? すいませんよく聞こえなかったんですが……もう一回良いですか。
ははっ。可笑しいな僕の耳はちょっと病気になっているみたいです。蟲毒と……なんですって?」
「ああ? 仕方ねーな。
シルクリークは定期的に蟲毒から攻められてんだから、防衛の為に人手を減らすような無茶な真似出来るわけはねーだ……」
「せ、船長さん。今から船をクレスタリアに戻して貰えないですか。本当お願いしますっ」
「アホか、何言ってやがる出来るわきゃねーだろっ」
俺の真摯な願いはあっさりと切り捨てられた。
畜生ッ、リーンの嘘つきっ。何が「離れてるから安全よっ」だ。全然あぶねーじゃねーか。馬鹿野郎、直ぐ様クレスタリアに戻るんだ。頼むから引き返してくださいッ。
信じられない情報をいきなり与えられた為か、思考が入り乱れ、パニックに陥りそうになる。妙に心が泡立ち、落ち着かない。
ジクジクと胃が痛みだし、胸の奥で嫌だ。嫌だと何かが叫ぶ。
近寄りたくない。蟲毒の坩堝には近寄りたく無い。只々そんな思いが俺の心に入り乱れた。
何故だろう。何故こんなに行きたくないと感じてしまうのだろう。
やはり最初に会ったあの蛆の群れが記憶に残っているからなのだろうか。人が貪り食われるあの様を見せつけられたせいなのだろうか。
分からない。何も分からない。
下手したら俺の顔は血の気が引いて蒼白にでもなっていたのかもしれない。
そんな俺を心配したのか、船長さんが、肩を揺さぶり声を掛けてくる。
「おい、どうしたんだ坊主っ。おいッ」
意識が急速に引き上げられるように、混乱していた頭が覚めていくのが自分でも理解できた。ハッと気が付き、慌てて言い訳をしていく。
「い、いや。ちょっと昔、獄級のモンスターを見たことがありまして。少し、その。苦手なんですよ。
それに、連れからシルクリークと獄級は離れてるから問題ないって聞いていたもので、話を聞いて驚いてしまって」
俺はひどく動揺してしまっていたのだろう、船長は俺の言葉を聞き、後頭部をボリボリと掻きながら気まずそうに顔をしかめている。
「嫌な思い出でもあったのか? だとしたら悪かった。もう少し言い方を考えれば良かったな。ただ、坊主の連れとやらが言っているのも間違いじゃねーぞ」
そう言って船長は詳しく説明をしてくれた。
未だに混乱の最中にいた俺は、電源がとまったロボットのように暫くの間、船長の話を黙って聞き続ける。
船長の話によれば、三ヶ月に一回程度の間隔で、蟲毒から溢れたモンスターが、シルクリークに向かって真っ直ぐ押し寄せてくるらしい。ただ、シルクリークとその南東にある蟲毒の間にはかなりの距離があり、中間地点に防衛の為の砦と、進路を遮るように作られた防壁があるのだそうだ。そしてその防衛を突破され、シルクリークまで攻めこまれた事は未だ無いから、安心して良いとの事。
その話を聞いて少しだけ不安が和らぎ、止まっていた頭が回り始める。
何故シルクリークに向かっていくのだろうか、中間地点の街の方が近いんじゃないのか?
話を聞いて頭の中で作っていた地図では、シルクリークは北西。蟲毒はそこからかなり南東。中間の街は蟲毒から北東の位置と。歪んだ逆三角形の様な位置関係にあり、蟲毒からシルクリークよりも、蟲毒から中間地点の街の方が位置的には近い筈。ならば中間地点の街が危険に晒されてもなんら可笑しくはないのだが。
暫し考えを巡らすも、やはり一人では判るはずも無く、結局、船長に訪ねてみる事に。
「シルクリークにしかモンスター達って進行してないんですか? 名前はちょっとわかんないんですけど、船降りて、シルクリークに向かうまでにある、中間地点的な街の方が位置的には近いと思うんですけど」
「中間地点? あー【リドルの街】の事か。いや、一応防衛の為の設備やらは作られてるみてーだが、蟲毒から侵攻された事はまだ一回も無いな。
そりゃ全く無いってわけじゃねーぞ? 蟲毒のモンスターがそこらの村や街の人間を襲うって話はそれなりに聞くしな。
ただ、先刻も言った通り、シルクリーク以外に大規模な進行をしたことは一度足りとも無い。
何でと聞かれても困るからな? モンスター達の考えなんて俺にわかるわきゃないからな」
お手上げだと言わんばかりに両手を胸程の高さに上げてヒラヒラと振っている。
まあ仕方ないか、船長のいう事も尤もだし。重要なのはリドルの街とやらにモンスター達は進行して来ないって事だ。安心しきってしまうのはどうかと思うが、考えていたよりもましな状況で助かった。
「まあ仮に攻めてきてもそこまで大事にはならねーだろ【屍漁り《かばねあさり》】って、ウジ虫みてーなモンスターが馬鹿みたいに突っ込んでくるだけだからな。多少防衛設備と走破者が揃ってりゃどうにでもなるだろうよ。
まあ、蟲毒自体には色々やばい奴らがいるって話だが、その辺りは斡旋所で情報を聞いてくれ。基本的に俺の知識は元々あったものに加え、後は船に乗ってきた走破者達から聞いたもんでな、そこまで詳しくないんだ」
船長は詳しくは無いとは言っているが、十分な程の情報を貰っている。やはり様々な人々が乗る水晶船の船長なんてやっていると、色々な話を集めることができるのだろう。
俺は船長に頭をさげ、色々と教えてくれた事に礼を言う。すると手を振りながら「別に構わねーよ」と言って笑っていた。
その後暫く船長と話を続けながら掃除をしていたのだが、唐突に誰かの怒声が聞こえてきて、反射的にそちらに注意を向けざるを得なかった。
視線の先には船員達に囲まれた一人の男。
「何でオレが積荷の負担を負わなきゃならねーんだッ。被害者だろうがッ」
よく見れば、あの騒ぎを起こした男戦士が船員達に向かって、猛犬が吠えるかの如く、あたり構わず喚きちらしている所だった。先ほどのセリフから考えれば、恐らく駄目になってしまった積荷の責任を負わされ、逆切れでもしている。と言った所だろうか。
確か、治療した後動かすのも面倒だからって、そこら辺に転がしておいたんだっけか。結構目を覚ますのが早かったな。
じっと男の様子を伺っていると、不意に男と目が合った。男は俺を見るなり身体をワナワナと震わせ、こちらに向かって指をさしながら喚きだす。
「あの野郎、オレの腕をよくも切り落としやがってッ。糞野郎、絶対に許せねえッ、大体なんでオレがこんな目に合わなきゃいけねーんだッ。
畜生……腕を無くした上に積荷の負担なんて、これからどうすりゃいいんだよッ」
再度暴れ始めた戦士を見て、横にいた船長が溜め息を一つ吐き、面倒臭そうな面持ちで俺に声を掛けてくる。
「坊主は近寄るんじゃねーぞ、また面倒事になりかねん。大人しくここにいろ。あの男も腕を無くして冷静さを失ってるんだろう。取り敢えず岸に着くまでふん縛って部屋にでも転がしとくからよ」
そう言って堂々とした足取りで戦士の元へと歩き出す。
近づいていった船長は徐に暴れている戦士の頭を鷲掴み、そのまま甲板に向かって叩きつけた。鈍い音が辺りに響き渡り、騒いでいた戦士はピクリとも動かなくなる。
――あれは痛い。
戦士を叩き伏せた船長は、そのまま動かなくなった戦士を布でも引きずるかのようにズルズルと運び、船内へと消えていった。
しかし凄い音が鳴ったな。もしかして船長って前に走破者でもやってたんじゃないか?
こんな運河を渡る船の船長だ。昔は走破者でしたと言われてもなんら不思議ではない。というよりもそちらのほうが遥かに説得力があった。
そんな事を考え「多分当たっている気がする」と一人で勝手に納得する。
しかし、どうにも気分が悪い。別に助けようと思って助けたわけじゃないし、あのままアシッド・スカルに襲われて男が死んだとしても、運が悪かったな。程度にしか思わなかっただろう。だが、結果論とはいえ、命を助けた訳だし、あんな言われ方をされては少々複雑な気分になる。
ただ、そこまで苛つくって気分でもないんだよな。
頬を軽く指で掻きながら、不思議とイラつかない理由を探す。
ああ、同情かな? もしくは少しの共感だろうか。
片腕を失い、意識を戻したら借金を背負っている。仮にそんな事が自分に降り掛かってきたら、俺だって何かに八つ当たりしたくなるかもしれないし、誰かれ構わず喚き散らしたい衝動に駆られていたかもしれない。
ラングみたいに腕無くして笑ってられるような。強い人ばっかりって訳じゃないよな。
大体この気分の悪さの大本はアイツじゃないし。
一番の原因はあの目だ。
あの憎しみ込めたような目を見てしまうと、クロムウェルやらシャイドやらを思い出してしまってどうにもいけない。
溜め息を一つ吐く。幸せが逃げていくとも聞くが、流石に吐かずにはいられなかった。
漠然とした不安が俺の心に降り積もっている。蟲毒もそうだしシルクリークの事もそうだ。特に切羽詰まったなにかが起きているわけではないのだが、一つ一つの事柄について回る不安要素。それが少しづつ、少しづつ俺の心の底に溜まっているのを感じていた。
いつかこれが何かを引き起こしてしまうんじゃないだろうか。そんな感情が後から後から沸いて来る。
なんだろう、最近の俺はどこか不安定になっている。そんな気がした。
気分が落ち込み掃除をする手を止め、一人で色々と考えていた、のだが。
「メイっ、掃除終わったみたいだし。早く部屋に帰って休みましょうよ」
不意に背後からリーンに声を掛けられ驚きの余り、ビクリと身体をゆらして、振り返る。瞬間、思わず手に持ったデッキブラシをカタリと床に落としてしまった。
『メイちゃんさんっ。見事使命を完遂した私に何か一言お願いしますっ』
「ちょっとドリーちゃん。あんまり揺らさないでっ、お願いだからー」
目の前ではリーンの頭上でブンブンと揺れ動くドリー。そしてそのせいでリーンの頭まで一緒に揺れ動いていた。
そうですねっ。何か真剣に悩んでいた俺が馬鹿だったよね、畜生っ。
額に手をあて思わず空を仰いで顔を振っていると、更にもう一人現れる。ドスドスと足音をさせながらこちらに向かって走り寄ってくるドラン。
「メイどん、見てけれ見てけれっ。なんでかわからんけども、船員の人達からなんか一杯お礼だって貰ってしまっただよ」
見れば何故かその腕の中に野菜やら、干し肉やらを抱えている。
「いやー、おらも悪いと思ったから遠慮したんだけんども、どうしてもって言われて、断りきれずに貰ってきただよ。
んで、掃除も終わったことだし部屋で皆と食べようと思って」
そういって顔を綻ばせ、満面の笑みで笑うドラン。間違いなく近所のお婆ちゃんとかからおすそ分けをもらってくるタイプだと確信した。
俺の口からは先程とはまた違った溜め息が漏れる。
皆がいるだけで不安のほとんどが消えちまうんだもんな。俺も結構単純と言うかなんと言うか。
先程まで一人で悩みまくっていた割には、既に俺の心は軽くなっている。
なんだか、そんな自分の単純さが、少し恥ずかしくなってきてしまい。ボリボリと頭を掻き、さっさと部屋へと向かって歩き出した。
俺は底へ底へと押し込める。未だ心の底に燻っている不安の種を。
◆◆◆◆◆
コンコンと鳴るノックの音で、眠っていた俺は徐々に意識を覚醒させ身を起こす。
バキバキと鳴る身体をほぐし、フラフラとドアへと向かう。
ゆっくりとドアを開くと、そこには一人の若い船員が立っていた。
「お早うございます。まもなく対岸に着きますので、降りる準備の方をすませておいて下さい」
あれ? まだ朝だよな。昼くらいに着くって話だったはずじゃ。
自分の感覚を確かめる為に、部屋に付いている窓へと視線を向ける。淡く入り込むその光を見ても、今が昼だとは、とても思えなかった。
「やたら早いですね。もっと遅くなると思ってたんですけど」
「いや、爛れの奴のせいで、ちょっと船を飛ばしすぎたもので。予定より、えらく早く着くことになってしまったんですよ」
と言いながら船員は苦笑いをしている。
船員の言葉に思わず納得してしまう。本来なら彼処は危険区域。音を静めて光も消して、船のスピードを緩めて行く場所だった筈なのに、全速力で突っ切っていけばそりゃ早くも着く。
船員に返事を返し、降りる準備を進めるために部屋へと戻る。
少し疲れているのか珍しくドランがまだ寝ていた。と、いうよりも俺以外の全員が未だ夢の中だ。
あの巨体をベッドに横たえ行儀よく寝ているドラン。
時折指をピクピク動かしベッドの上をゴロリゴロリと寝返りをするドリー、とそれに轢かれている樹々。
そして問題児のリーン。
可笑しいよな絶対。なんで昨日の夜なんとも無かった髪の毛が、朝になったら荒ぶっているんだ。あいつの頭の上だけ局地的に竜巻でも巻き起こったのか? 大体、寝相だって悪くなかったのに……。
以前から不思議に思っていた事もあり、昨日は先に眠ってしまったリーンを暫くを観察していた。だが、結局何も問題など起きず、リーンは掛け布団を抱きしめるかのように、大人しく眠っていただけ。
一体俺が寝ていた間に何が起こったんだ……。
暫くの間、様々な想定の中でシュミレーションしてみたのだが、全く分からない。頑張って謎を解き明かそうとも思ったが、後からゴソゴソと音が聞こえた事が切欠で「俺は何を馬鹿な事を一生懸命考えていたんだ」と我に返る。
振り返って音の原因を探すと、目をシパシパさせながら身体を起こしたドランが眠たそうな声音で挨拶をしてきた。
「お早うだで、メイどん」
「お早うドラン。何か船が早めに到着するらしいから、降りる準備をしとけってさ。だからドランも準備を進めておいてくれよ」
「そりゃ急がないと。しっかし、えらい早いんだなー。おらもうちょっと寝れるかと思ってただよ」
そう言いながらもドランはしっかりと準備を始めていく。
先ず一人起きたな。次はどっちにするべきか……よし、リーンの髪の毛を直さないといけないだろうし、ドリーを起こして手伝わせよう。
そう判断し、自らのベッドに足を進め、自由奔放にベッドの上を右へ左へと転がるドリーに声をかける。
「ドリー、おはよー。起きてくれー」
『相棒が一人……相棒が……二人……まさかのメイちゃんさんが一人』
落ち着けドリー、それは全部俺だ。
フヘフヘ言いながら全く起きる様子が無いドリー。普通に起こしてもきっと時間が掛かってしまう。
途中までは頭を捻り、色々と考えてみていたのだが、暫くすると楽勝じゃないかと、判明する。
「あー、今俺ドリーとの絆を、なんか凄い深めてしまう遊びを思いついたんだが……ドリーの奴め寝てやがる。しょうがない諦めるしか……」
とそこ迄言ってドリーを見る、と。寝返りをうっていた筈の動きがピタリと止まり。
『わーーーっ』
勢い良く飛び起きたドリーは俺に向かって根の足を使って飛びかかってきた。空中でドリーの手首辺りをガシ、と掴み。そのまま振り回す。
『こ、これが相棒との仲をなんだか深めてしまう新しい遊びなのですねっ。のおおおー』
ブンブンと勢いよく振り回されながらもキャッキャと言って喜んでいる。俺はドリーの人差し指を摘み、顔の前でプラプラと揺らす。
「お早うドリー君。早速で悪いがリーンを起こして髪の毛を整えてやってくれたまえ」
『お早うございますっ。へいっ、相棒。了解ですっ』
俺に指を摘まれたまま元気な挨拶を返してきたドリーは自らの身体を、ブランコの要領で揺らしている。タイミングを見計らってドリーの指を離してやると、クルクルと空中で姿勢を整え、華麗に着地した。
リーンの頭の上へ。
ゲシッ、という音と共に着地したドリーは人差し指を高らかに掲げ、なにやらポーズを取っている。
突如として襲った衝撃に流石のリーンも飛び起きた。
「メイ大変っ。敵襲よっ」
「お早うリーン。だが残念、襲撃したのは味方だ」
リーンに「ドリーと一緒に準備をしてくれ」と言い聞かせ、リーンの着替えの為に俺とドランは部屋から出ることになった。
◆
慌ただしく準備も終え、まもなく到着の時間に。
船から降りるために、甲板上へと出てきたのだが、先ず俺の目に入ったのは、悠々と広がる大地。
大して時間は掛かってないはずなのだが、ひどく懐かしく思い、自分でも驚くほどの開放感を感じてしまう。
恐らく、あの運河の上にいる、ただそれだけで、俺はかなりのストレスを感じていたのかもしれない。
地平線の先には山などもチラホラと見え、視線を巡らせば遠くの方に森や川なども見えている。
溶ける心配をしないで済むなんて、なんて素晴らしいんだ。
当たり前の事に何故か感動してしまい、少しだけテンションが上がってしまう。そのまま甲板上から船着場の様子を伺ってみると、船着場が見えた。どうやらクレスタリア側とは違い横付けにする形の様だ。
なんかこういうの見てるとぶつかりそうで怖いな。
巨大な水晶船が岸へと近づいていくその様は、船に乗り慣れていない俺としては少しだけ恐ろしく、ぶつかって大惨事に、なんて想像を思わずしてしまう。
だが、そこはプロの船員達の腕の見せ所だろう。マストの風を調節し、重量操作と重心操作を駆使して華麗なまでにピタリと岸へと着ける。
クレスタリア側で見たのと同じような水晶柱が岸側から差し出され、船の縁に繋がれていき、固定されたのを確認した船員が岸へと水晶板の橋を下ろす。
「メイ、もう良いみたいよ。降りましょうか」
リーンに促され、甲板を歩き橋を渡って船から降りていく。すると後ろから聞き覚えのある声が掛けられた。
「坊主共ッ、無事を祈るっ」
甲板上から船長が手を軽く振りながら、旅の無事をと、祈ってくれる。
俺達も揃って手を振り返し、短く「お互いに」と返す。
なんだか、長々と挨拶をしては無粋な気がしてしまったのだ。
水晶板を踏みしめて、新たな大地へと足を下ろす。やはり人間土の上が一番だと、そんな訳のわからない事を考えながら、次の街へと向かう為の馬車を探すことにした。