6−3
船員や他の走破者達の働きもあり、特にこれといった問題も無く、アシッド・スカル達の数が減っていく。
今の所は楽勝ムード……船員達がそこまで焦っていなかったのはこのせいか。
獄級からの生まれでた運河と言う事で少し過大評価していたのかもしれない。そう思ってしまいそうになるほど、アシッド・スカル達は弱かった。確かにその身体に触れたもの溶かすという特性は厄介で、近接戦闘の職種には非常に嫌な敵ではある。だが、その動きは緩慢で、内部にある頭蓋を壊せば死ぬ。と正直遠距離の使い手である程度の身軽さがあれば鴨といっても良いかもしれない。
そして、そんな考えはやはり他の人達にも有るようで、様子見している一部の『走破者達』の中には、緊張感が薄れ、どこか緩んだ空気が漂いつつあった。
実際、俺達の近くで観戦していた戦士と魔法使いの二人組も……完全に油断しきっているようで、警戒を怠り、雑談などをしている。
《弱すぎねーかアレ、案外獄級ってのも大した事ないのかもな》
《まあ、ここ獄級の中心じゃないからな……こんなものだろ。しかし、さっさと終わってくれるといいんだが。暇でしょうがない》
こいつら、気を抜き過ぎだろ。別に雑談するのは構わないけど、もう少し警戒した方がいいんじゃないか?
確かに現状そこまで切羽詰まった場面ではない。が、俺達はそれだけで、警戒を緩める気には到底なれなそうにない。
今まで入ってきた獄級の辛さ、シャイドを筆頭に主の強さと厄介さ、それを直に味わってきた俺達にとって、アシッド・スカルが弱い程度では、多少安堵する気持ちはあっても、油断など絶対にしてはいけない事なのだと、理解していた。
俺の右隣ではリーンがピリピリとした空気を出しているし、後ろに立っているドランは金属箱から伸びる鎖を、ジャラリと鎖を握りしめ、何が起きても良いように身構えている。
俺自身、嫌な予感とも言うべき何かがチリチリと、心の底の方で燻っているのを感じていた。
念には念を。保険は掛けておいて損はないよな。
「なあ、リーン。氷属性の柄って持ってる?」
「もちろん。というか、メイが岩のお爺さんと話してる間に、もう氷の柄に変えてあるわよ」
リーンに言われ剣の柄へと目をやれば、確かに何時もとは違う、水色の柄尻に変わっていた。
どうやら、俺が言うまでもなかったようだ。土か風でも良かったのだが、氷の方がもしもの時は使えると思う。アシッド・スカル達を凍らせる事だって出来そうだし、船から落ちた場合は運河の表面を凍らせて、助かる事だって出来るかもしれない。
走破者達が土や風しか使っていない理由は恐らく、氷属性には氷柱や氷塊など、そういった攻撃方法が多く、外して何かに当たった時には結構派手な音が鳴ってしまうから、と言う所ではないだろうか。
ただ、緊急時用と考えれば、氷にしておいて損は無いはず。リーンもそこまで考えて柄を変えていたのだろう。
やはり『戦闘』に関して……は、頼りになる。
「流石リーンだな」
「当然でしょ?」
そう言うとリーンは目を細め、嬉しそうに笑う。そんなリーンを見て、肩にいたドリーが羨ましげな声音で何事か呟き、悩み始めた。
『むむ。ならば私も何か準備しておけば相棒に褒めてもらえるのでは……』
「ほうほう。じゃあドリーは俺を守る準備をしておいてくれよ」
『おっとっと相棒。そんな事は、いついかなる時でも準備出来ているのですよっ』
「おお、流石ドリーだ」
『こんな事で褒められてしまうなんてっ……ッハ!? なら、私は常に相棒に褒められてしまうのではっ。にゅへへ』
喜ぶドリーを見て、少しだけ緊張が和らいだ。
俺は樹々を頭から下ろし、何時もの定位置(右肩後ろのポケット)に押し込んだ。樹々は少しだけ不満気に鳴き声を上げるが、大分慣れてしまっているのか大人しくしてくれている。
よし、後は何事も起きないように祈るのみ。
ある程度の準備を終え、武器を手に警戒を解かず戦闘を見守っていると、今まで黙って観戦していた岩爺さんが、世間話でもするかの如く、俺に話しかけてきた。
「クロ坊の出番は無いんじゃなかったのかの?」
「出番なんて無いほうが良いんですけどね。何かしてないと、落ち着かないんですよ」
「そうか、そうか。クロ坊は年の割には色々経験していそうじゃ。
それに……こういう空気の時が一番危険なものじゃしな」
そう言うと岩爺さんは目を細め、片手で顎を撫で付けていく。
こういうのを、年の功というのだろうか。この状況で油断もしていなければ緊張もしていない岩爺さんのその姿は、ふざけているようでいて、どこか侮ってはいけない雰囲気を感じさせた。
岩爺さんの言葉に改めて気を引き締め直し、甲板の方へと視線を戻すと、既にアシッド・スカルは追い詰められ、その残りは二体のみとなっていた。
アシッド・スカルの緩慢な攻撃をたやすく避けていく走破者達。
そして、最後の二体の内一体をリッツが、もう一体をシルさんが、魔弾と影針を飛ばし、頭蓋を貫き屠り去る。クズリ、と崩れ去ったアシッド・スカルを見て、走破者達の顔に安堵の色がありありと浮かんでいく。
でもアシッド・スカルって命結晶出ないのかな? 死骸にそれらしいものが見えないんだが。
崩れた残骸が辺りに散らばっているが、命結晶らしき物体は確認できない。少し疑問には思ったが、一先ずそういうモンスターも居るのだろうと自分を納得させる。
「終わった……のかしら? どう思うメイ」
「わからん。終わってくれるならそれが一番良いけどな。取り敢えず他にモンスターが居ないか、確認だけはしておいたほうが良いかもな」
リーンも俺と同じ意見なのか、黙って頷き辺りを見渡し始める。
観戦していた走破者達は各々仲間の元へと歩み寄り、その健闘をたたえ。船員達は己の仕事に戻りつつも、辺りの警戒を怠らない。
少しづつ空気は緩んでいき、騒ぎは徐々に収まる兆しを見せていた、が。
――ジュッ、と。俺の元へ、何かが焼けた様な音が届き、肉の焦げた様な臭いが鼻孔を掠めた。猛烈に嫌な予感を感じ、慌てて音の聞こえた方向へと顔を向ける。
視界に入ってきたのは先ほど見た戦士と魔法使いの二人組……そして、その近くで一体のアシッド・スカルがウゾウゾ、と蠢いている様子だった。
男達の顔には先ほどまであった、気の抜けた様子は既に無く、戦士は甲板に膝を付き己の左腕を抑え、魔法使いはその戦士を見て顔を蒼白にしている。
膝を付いた戦士は、何が起こったのか未だ理解出来ていないのだろう。虚ろな瞳で、己の左腕を呆然と眺めていた。
肉が溶け落ち、肘から先は真白な骨のみになってしまった己の左腕を。
「――ッギ、ッガアアアアアアアア。俺の腕っ、腕がああああああああッツ」
己の状況を理解し、やがて痛みを感じ始めたのか……戦士は双眸から涙を垂れ流し、あらん限りの大声で、喚き散らし始める。
駄目だ、大声を出すなッ。
船員達の会話、その前に受けた注意。男の上げる盛大な喚き声は、事態を悪化させるだけでしかないと、すぐに予測出来た。
「大きな音を出すな」「アシッド・スカルだけならなんとかなる」それは逆に言えば、大きな音を出してしまうと、どうにもならないような奴が来てしまう、という事ではないだろうか。
身体の中で渦巻く不安が叫びだす。早く男を黙らせろッ、と。
男の位置は、アシッド・スカルを挟んで直線上。距離的には俺達が一番近い位置にいる。俺、リーン、ドランは言葉も交わさず武器をその手に駆け出した。
迫る焦燥と、脳裏で鳴り響く警鐘。
頼むから……その喧しい叫び声を止めろッ!!
だが、そんな俺の思いを裏切るかの様に……男は残った右腕をアシッド・スカルに向け――。
「畜生ッ、畜生。雑魚の癖に良くも俺の腕をッ。死ねよ死ねッ。消えちまえぇッ『ファイア……』」
「――誰かその走破者を止めろッ!」
遠目に見えた壮年男性、服装からして船長であろう男が、鬼気迫る表情で周りにいる船員達に指示を出す。が、到底間に合う筈も無く。無常にも男は最後の魔名を解き放つ。
『……プロージョン』
轟ッ。
アシッド・スカルを中心に、紅蓮の炎と爆発が扇状に撒き散らされ、直線上にいた俺達にもその余波が迫る。
あの野郎、やりやがったッ。考えなしに派手な魔法使いやがってッ。
避けようとも思ったが、隠れられそうな場所など無く、思わず迫る炎を見つめ足が止まる。
その時、不意に、左肩を後ろから掴まれた。
グイ、と無理矢理位置を動かされ、入れ替わるように背後からノソリとドランの巨体が現れる。
俺の眼前に立ったドランは、手に持った金属箱を掲げ、爆風を真っ向から受け止め。
『アイス・フィールド』
すかさず背後に居たリーンの魔法が発動。半径六メートル程の空間を氷の領域で支配し炎の高温を跳ね除けた。
視界全てが真赤につぶされ、俺は余りの明るさに思わず瞼を下ろし、目を庇う。
暫くすると、瞼を通して感じていた光が徐々に消えていくのがわかり、俺はゆっくりと目を開けていく。ボヤけてしまった視界を戻すために、指で眉間を軽く揉み解し、自らと仲間の無事を確かめる。
眼の前には無傷のドラン。後方にいるリーンも無事。肩にいるドリーと樹々もなんの問題もないようだ。
どうやら二人に助けられてしまったみたいだな。何時まで経っても俺は守られてばっかりだ……と、溜め息を零し、自分の弱さを嘆く。
俺がもっと強く、もっと疾ければ、今だって皆を守れたかもしれないのに……俺もドランを見習わないといけないな。
あの臆病者のドラゴニアンは、元の身体能力のお陰もあり、俺達の中で一番の成長を遂げているといっても過言では無い。
眼前に見えるドランはとても大きく、力強く。
「お、おら……生きてるのけ? ひいいいい、死んだかと思っただよ。こ、怖がっだー」
だが、同時になんとも締まらない男だった。
そんなドランの姿を見て、俺は、思わず口元が緩むのを抑えきれず、口に手を当て苦笑してしまう。
だが、いつまでも笑っているわけにも訳にもいかない、と気を持ち直し、辺りに視線を巡らせ状況を確認していく。
恐らく先ほどの魔法は中級下位程度の魔法だったのだろう。強度強化を施された、水晶船の甲板は一切破損することも無く、黒く煤けているだけ。どうやら、船が沈むという最悪の事態にまでは発展せずに済みそうだ。
後はアイツをどうにかするだけだ。
「畜生、畜生ッツ。雑魚が燃え尽きやがった。ざまみろってんだ…………」
片腕を失った男は、吐き捨てる様に、黒く燃え尽きたアシッド・スカルの残骸へと向かって罵倒を吐きかける。だが、不意にヒュッ、と短く息を吸い込み、叫びが声が止まり、何かに怯える様な表情でゆっくりと顔を動かし、左腕を見た。
一瞬で男の表情が憤怒から恐怖へと変わり、辺りに今までの比ではない絶叫が響き渡る。
何が起こったのかと、男の左腕へと目を凝らせば、溶け落ちた肘部分に何かが蠢いていた。それは、最初に男の手を溶かし、腕にこびり付いたままになっていたアシッド・スカルの残骸。
ジュクジュクと蠢くドドメ色の粘液は、男の腕を肘から肩口の方へと這い上がっていき、次々と肉を溶かし、その骨を顕にしていく。
生きたまま溶かされていく恐怖と、それに伴う壮絶な痛みで、男は狂ったように絶叫を上げ続け、周囲に騒音を撒き散らす。
「リーンッ!」
「わかってるッ」
俺とリーンは真横に並び、男へ向かって全力で駆け出した。蛇のように身を沈ませ、槍斧を手に風の如く疾走する。
男との距離はドンドンと縮まっていき、あと一息という所まで近付いた。
「ドリー、男を固定、左肩を前面に」
『あいあいっ』『ウッド・ハンド』
ドリーの唱えた魔法で、男の背後に樹木の手が出現。その巨大な手の平で男の胴体を鷲掴み、身体を抑える。樹手はそのまま腕を捻り、男の左腕をこちらに向かって差し出した。
獄級での経験則からいって、このまま粘液が男を喰らっていけば、きっとまた新たなアシッド・スカルが生まれるに違いない。だが、まだ肩から先に回っていない今の状態な間に合うはずだ。
俺は、右手に持った槍斧を、下からすくい上げるように振り上げ、三日月を描くような軌道で肩口に向かって斬り上げる。
流石の切れ味と言うべきか、槍斧は男の腕を何の抵抗も無く切り飛ばす。クルクルと半ばから骨のみになってしまっていた腕が宙に舞い、少し遅れて血飛沫が切断面から吹き出した。
武器を握った手には肉と骨を断ち切った感触が残る。多少慣れたとはいえ、好きにはなれそうに無いな、と心の中で呟き、地面を蹴り上げ後ろに下がっていく。
俺と入れ替わる様にリーンが走りこみ、腕を切られた痛みで更なる絶叫をあげようとする男の顎先に、容赦無く掌打を叩きこんだ。樹手に握りしめられていた男の身体から、カクリ、と力が抜け落ち、糸の切れた人形の様に意識を落とす。
気絶した男をゆっくりとドリーは甲板へと下ろし、遅れてやってきたドランが男に応急処置を施していく。
残った魔法使いの男は、未だ事態を理解出来ていないのか、仲間を攻撃した俺達に怒りの視線を向け、何事か言おうと口を開く、が。
急にゴスッ、という音が響き、何故か白目を向いて気絶してしまう。
倒れた魔法使いの背後には、杖を手に持った岩爺さんが立っていた。
「ほっほ、なんか騒ぎ出しそうじゃったんでな。悪いけど眠ってもらったぞい」
そう悪びれもせずに言い放つ。
岩爺さんを最後に見たのは俺達が観戦していた場所だったのだが、どうやら、気づかぬ間に爺さんもこちらへと向かってきていたらしい。なんにせよ、魔法使いの男を昏倒させたのは良い判断といえるだろう。折角騒ぎを鎮めたのに、また騒音を振りまかれては堪らない。
頼むから何も……何も起こってくれるなよ。
周囲の空気は酷く静かで重い。
走破者達は誰も口を開かないし、船員達は緊張の面持ちで辺りを落ち着きなく見回している。静まり返った甲板の上には、船が運河をかき分けていく水音だけがバシャバシャと響き渡っていた。
俺の嫌な予感は未だ消えず、祈るような気持ちで運河を見つめ、何も起きないことを願う。
暗い運河を月明かりが照らし、水面は静かに月を写し込んでいた。その様子からは船員達が恐れるナニカが起こる気配など無い。
きっと大丈夫だ。そう俺は自分に言い聞かせ、湧き上がる不安を押し込めようとした。
……だが、そんな思いは容赦無く裏切られる。
おいおい、なんだよあれ。す、水面が膨らんで……いく。
船の左方向、遠く離れた水面が、ゆっくりと盛り上がり、眠っていた身を起こすかのようにナニカが現れた。
それは全長百メートルはあろうかというヘドロで出来た、人型のモンスター。
人でいうならヘソ当たりまでを水面から出し、その身体からは黒茶色のヘドロが溶け落ちるかの如く垂れ流れている。唇など無く、乱雑に並べられた歯がむき出しのまま大気に晒され、歯と歯との間からは、ドロドロと爛れたヘドロがこぼれ落ちていた。
頭部から流れるヘドロの隙間からは、無数の眼球が見え隠れし、その全ての視線が水晶船へと向かって注がれている。
ヘドロは天に向かって大口を開け、雄叫びを上げた。
オオオオオオッォォォンッ。
怯えるように大気が震え、その不気味な雄叫びを無防備に聞いてしまった、俺の身体に恐怖が走る。
怖い、純粋にそう感じた。
彼処まで巨大なモンスターに出会うのは初めてで、あんな巨大な物が生きて動いている。ただその事実が怖かった。
リーンですら恐怖を感じたのか、俺のローブの裾をキュッと掴み、片手に大剣を握りしめて少しだけ身を震わせる。
ヒィッ、と誰かが短く悲鳴を上げ、嗚呼と誰かが祈る様に呟いた。
その巨大で醜悪なモンスターは、爛れた腕を夜空に輝く月へと伸ばし、運河に向かって振り下ろす。
――ゴバッアアア。
水袋を地面に叩きつけたような音――それを何十倍にもした轟音が鳴り、運河の水が天高く巻き上げられていく。
衝撃が水面を伝わり、衝撃軽減の魔法がかかっている筈の船体を、大きく揺らす。俺は船から振り落とされないように、必死で踏みとどまり、ゆっくりと天を見上げた。
視界一杯に広がる、巻き上げられた酸の雨。その光景は俺のなけなしの勇気すら溶かし尽くしてしまいそうなものだった。
固まる身体、余りの事態に動けなくなる走破者達。
ドランは身体を震わせ、箱を傘のように空へと掲げ、リーンは大剣を握りしめ、魔法を使うために精神を集中しているようだ。
『ウッドハンド』
肩にいたドリーが俺達の前面に樹手を生やし、手の平を広げ盾にする。
少しでも吹き散らせれば、そう願い俺は右手を掲げ『フォロー・ウィンドウ』のタイミングを見計らう。だが、心の中でどこか諦めに近い思いが沸き上がってきているのを俺自身が一番わかっていた「この酸の雨を、船にいる全ての人間が防ぐことは不可能だ」と。
魔法の防御壁を張れる人達は助かるかもしれない。その周りにいる者達も大丈夫かもしれない。
だが、それを出来ない人達はどうなる? それが船員だったらどうする?
船員の数が減れば船の運行の難易度が上がり速度だって下がるのではないだろうか、そうなれば逃げ場のないこの運河の中心であのモンスターと正面から戦うハメになる。そこまでいったら、もう終わりだ。あの巨腕で船を壊されればそれだけで死んでしまうし、運河の雨を延々と降らせられたら、いつか魔力が切れてなぶり殺されるだけだろう。
命をたやすく奪う酸の雨が、もうすぐ空から降り注いでくる。
だが、そんな絶望的な光景の中で、何の躊躇いもなく動き出す者たちが居た。
「おいでなすったか……【爛れ溜り】めが。
総員ッ、口を紡ぐのはもう止めだ。震えてねーでさっさと気合を入れろッ!」
船長の怒声が響き渡り、船員達が即座に動き出す。
「風の防壁を張れえええい」
数名の船員が帆柱に向かって手を当て、魔名を叫ぶ。
『エア・フィールド』
マストの先端、船首、船尾が若葉色に輝きだし、そこから発生した風の防壁が、船を包み込み、酸の雨を吹き散らす。
「結晶炉に命結晶を叩きこめッ。魔船員は帆に風を、船体を横倒しにしないように重心操作も怠るなよッ。
操舵手、右舷へ船首を向けろ」
船員達は帆へと向かって手を伸ばし『フォロー・ウィンドウ』を唱え、同時に船の縁に移動していた船員達が船に手をかける。
『フェザー・ウェイト』『ヘビィ・ウェイト』
緑と黄色の魔力光が輝き、右方向へと逃げる船の重心を操作し、横転しない様に調節。
はち切れんばかりに風を受けた帆は、それを力に変え、水晶船を加速させる。
――す、すげえ。
そんな思いが心の中を支配し、忙しなく動く船員達を、俺は、只々見つめ続ける事しか出来なくなった。
これがプロなんだと。醜酸運河を幾度となく渡ってきた船とはこういうものなのだと。そんな事を一瞬で判らされるような光景。
きっと、何度も、何度も何度も失敗を繰り返してきたのだろう。
きっと、幾度と無く船は沈み、人が死んでいったのだろう。
だがそれすらも乗り越え、獄の運河すら渡りきれるように昇華された水晶船と、間違いなく最高峰とも言える船員達に……俺は尊敬の念すら抱き始めていた。
『相棒ッ、まだ気を抜いてはいけませんっ……来ます』
ドリーの言葉にはっと、意識を戻し、船尾方向へと目を向ける。全速で逃げる水晶船を、爛れ溜りが運河を掻き分け、追ってきているのが見えた。
凄まじい巨体の『爛れ溜り』が後ろから猛然と迫ってくるその圧倒的な威圧感と恐怖を目の当たりにして、俺の身体は無意識に震え、思わずあたり構わず喚き散らしたくなる衝動にかられる。
どう見ても船より、向こうの方が早い。このまま逃げ続けてもいずれはアレに追いつかれちまう。なんとか、なんとかしないとッ。
歯を噛み締め、恐怖を生存本能で塗りつぶす。
何が起きても良いように体勢を立てなおしておかないと。
「ドリー、先ずは、緊急時に備えて消費した魔力を補給しておいてくれ」
『はいっ』
ドリーは俺の指示を聞き、瓶から魔水を飲み、魔力補給を始めた。それを確認して、俺は爛れ溜りを見つめ、手立てを探る。
どうにか、足止めをしなくては。リーンの柄は今氷になっている。それなら運河の表面をどうにか凍らせられないか? それで少しアイツの動きを止められれば、速度を上げたこの船なら逃げ延びられるかもしれない。だが、それだけじゃどうにも弱い、他にもう一手欲しい所なんだが……。
必死になって考えこんだせいか、自然と俺の視線は爛れ溜りから少し外れてしまった。
「メイッ、何か様子が可笑しいわ。気をつけてッ」
リーンの鋭い声が耳を打ち、爛れ溜りに視線を戻す。
あいも変わらず、猛然と追いかけてきている爛れ溜り。だが、言われた通り先ほどまでとは様子がおかしかった。
這う様に、泳ぐ様に、前傾姿勢になり、大きく口を開く。
開かれた口内にはビッシリと頭蓋が詰まっていて、ウゾウゾと蠢く粘液が、口内の頭蓋を揺らす。そのまま掬うように運河の水を口に含み、こちらに向かって凄まじい勢いで吐き出した。
大丈夫、風の防壁があるんだ。運河の水ぐらい。
――ッ!?
……嗚呼、畜生。そういう事かよ。
降ってくる運河の水に違和感を感じ、その姿を確認して、頭を抱えたくなった。
運河の水ではなく、降ってくるその全てがアシッド・スカル。弱い筈だ、倒しても命結晶が出ないはずだ。アシッド・スカル自体はモンスターじゃなく、爛れ溜りの攻撃で、その残りカスだったのだから。
大量に降り注ぐアシッド・スカルの殆どは目標を失い運河へと落ちて行く。
が、一部は風の防壁をやすやすち貫き、甲板へと落下してきた。
「畜生、避けろッ」
降ってくるドドメ色の塊から、俺達は反射的に身を躱す。
ベシャッ、グジャ。
気持ちの悪い音を鳴らしながら、アシッド・スカルが降り注ぐ。一部の走破者達は、船内に逃げ込み、また一部の走破者は騒ぎを聞きつけ逆に外へと飛び出してくる。避けきれなかったもの達はアシッド・スカルの粘液に飲み込まれ、悲鳴すら上げる暇もなく、肉の全てを溶かされた。
甲板に降り立ったアシッド・スカルと降りしきる酸の砲弾のお陰で、甲板上は凄まじい程の混乱に見舞われている。
悲鳴と絶叫、罵倒に泣き声。阿鼻叫喚とはこういうものを言うのだろうか。
その惨状を見た船長が、混乱を収めるために怒声を張り上げ、周りに指示を飛ばし始める。
「魔船員ッ、風の防壁を解除しろ。おらおら、走破者の癖に腰抜かしてるんじゃねーぞ。もう属性に枷はねーんだ。死にたくなかったらアシッド・スカルを撃ち落せ。
爛れ溜りを倒せとは言わんッ、奴の縄張りから逃げるだけの時間を稼ぐんだッ」
船長の言葉でハッと止まっていた走破者達が動き出す。先ほどまでとは違い明確に打ち立てられた方針「時間を稼げ」そうすれば自分達は助かるのだろう、と希望を見出し、それを力に動き出した。
遠距離魔法の使い手は、空に向かって手を掲げ、次々と魔法を放ち飛び交うアシッド・スカルを撃ち落としていく。
夜空に炎、や氷、雷の魔法が飛びかい、チカチカと辺りを照らし、爆炎や衝撃を撒き散らす。
水晶船は激しい揺れに襲われ、辺りに置いてあった樽や荷物が、倒れ、転がっていった。
俺もドランも何も出来ない。爛れ溜りに対する攻撃手段が無いからだ。
畜生、何か出来ることはないか? 少しでも生き残れる確率を上げないと。
辺りを見渡し、必死に何か使えそうなものはないかと探す。
あれは……?
俺の直ぐ近く、甲板に置いてあった樽が揺れによって横倒しになっていて、中に入っていたものを辺りにぶちまけていた。
見覚えのある拳大の少し桜色をした塊、岩塩だった。
まじまじと一つ手にとって、岩塩を眺めていると、不意に子供の頃に塩を使って遊んだ記憶を思い出した。
もしかして、これ使えば本当に足止めを出来るんじゃないか? やってみるしかない。何もしないで死ぬのは嫌だ。
既に爛れ溜りは船との距離を詰めつつあった。時間が無い、急がなくては。
「リーンッ、運河の水を表面だけでも良いから凍らせられるような魔法って使えるか」
「氷上位で広範囲なのが一個あるけど、私、氷と相性悪いから時間がかかるわよ? 集中している間は動けなくなっちゃうし……」
「いや、使えるなら良いんだ。ありがとうっ」
「どこに行くのよっ」と声を掛けられるが、それを一先ず放っておき、許可を貰うため、遠くに見える船長の元へと駆け出した。
周囲に怒声をばら撒きながら指示を出し続ける船長。
何か凄い忙しそうにしてるし、少し話しかけづらいな。いやいや、そんな事気にしてる場合じゃないだろ。
パンと、頬を叩き、船長に声をかける。
「すいませんッ。緊急なんですが、少し話を聞いてもらえないですか?」
「なんだ小僧ッ、こっちは今忙しいんだ後にしろッ」
俺に構っている暇など無い、と言わんばかりの態度で一蹴された。だが、ここで諦めるわけにはいかない。
「あの爛れ溜りとか言う奴を足止め出来るかもしれないんですってっ。少しで良いから、頼むから聞いてくれッ」
叫ぶ俺の言葉を聞き、初めて船長がこちらに顔を向け、ピクリと片眉を釣り上げる。
「おい、少しだけなら聞いてやる。話してみろ小僧」
船長は、ギラギラと瞳を光らせ、不敵な表情で俺にそう言った。
◆
先ほどアシッド・スカルを撃ち落としていた走破者達は、今は腐れ溜りへと魔法を飛ばし、その追走をささやかながら遅らせている。
俺の目の前には岩塩の入った樽が大量にあり、ドランが力任せに拳を唸らせ、その中身を砕いている最中だった。
『にょほお、頑張れートカゲさーん。なんだか良く分からないけど頑張ってくださーいっ』
俺の肩の上でドリーが一生懸命腕を上下に振って、ドランに応援を送っている。
「つ、疲れた。メイどん後一個で終わるだで」
「ありがとうドラン、終わった奴は船尾に持って行ってくれ。後リーンも一緒に連れてってな」
「あ、あそこに行くの恐ろしいんだけども……っぐ、がんばるだよ」
船長に話をしてみた所、残念ながら協力は出来ない。が、樽は好きに使えと許可を貰えた。思わず「後で弁償とかしないといけない?」と聞くと「沈んじまったら全部無くなっちまうんだ。弁償なんぞ、あの騒ぎを起こした走破者にでも請求してやる」と豪快に笑っていた。
その後余り人手は出せないが、と言いながら、船の運行に余り関与していない船員を数人だけ集めてくれ「いいんですか?」と尋ねた所「坊主が言うことが本当かは知らないが、運河を多少なりとも凍らせれば足止め位にはなるだろうよ」とのお言葉を頂く。
船長さんに丁寧にお礼を言い、一先ず船員達には先に船尾へと向かってもらっておいた。
後は、リッツがどこにいるかだけど……お、いたいた。目立つなーあの色。
飛ぶように辺りを駆け回りながら、甲板上に落ちてきたアシッド・スカルの始末をしているリッツ。その白い毛並みはこの暗い中で非常に目立ち、直ぐに見つけることが出来た。俺は直ぐ様リッツの元へと走りより、声をかける。
「えーっとリッツ……さん……いや、ちゃん? 取り敢えずリッツで良いか、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
「今忙しいのよッ、見れば判るでしょッ」
辺りに魔弾をばらまきながら、キレ気味に返答を返す。
またこのパターンかよ、でも船長と違って、まともに話を聞いてくれそうにない気がする……仕方ない。
「実は岩爺さんが手伝って欲しいことがあるって言っているんだ。それにはリッツが必要だから、船尾まで来てくれって。
岩爺さんは今準備があるからって言って船尾にはいないんだけど……本当に急がないと拙いんだ」
『相棒、なんの淀みも無く嘘をつくなんて、思わず感心してしまいましたっ』
待て、これは嘘ではないぞドリー。ちょっと前に俺は『岩爺さん』という名前にする事にしたんだ。
だから俺(岩爺さん)がリッツに手伝って欲しいことがあるし、現在俺(岩爺さん)は今準備の為に船尾に居ない。
ほら嘘なんて一つもついていないじゃないか……まあ、直ぐに名前を戻すけどな。
大体急がないと拙いのは本当だし、ここで言い合いをするよりも、後でバレて怒られる方がマシだ。
俺の言葉にリッツはようやくこちらを向き、目を見開いて驚きを顕にした。
「父さんが? 早く言いなさいよ。ほらさっさと行くわよッ」
あっさり騙されたリッツに心の中で「ちょろい奴だ」と舌を出す。
近くに岩爺さんが居なかったのはラッキーだったな。ただ、仮に岩爺さんがいたとしてもあの人なら話を聞いてくれた気がするからどっちでも良かったかもしれないが。
ォォォオオオオオオオオッ。
先ほどよりも爛れ溜りの声が近くなっている。もう少しで追いつかれてしまうだろう。
もう時間はあまり無いようだ。そう判断し、リッツと船尾に向かって駆け出した。
◆
「メイ、もう準備は出来てるわよッ。早く早く」
船の船尾部には大量に置かれた樽を押さえつけているドランと数名の船員。それに縄を数本、近くの柱に巻きつけているリーンの姿。
来る途中でリッツにある程度説明はしておいたし、後はやることをやるだけだ。
柱に結ばれた縄を俺とドラン、船員達の腰に巻きつけ、振り落とされないように固定する。
「ドリー、リッツを頼む」
『むむ、私がもっと大きかったらあのフッサフサを自分で支えられたのですがっ』
『ウッド・ハンド』
樹手を生やし、リッツの身体を手の平に乗せ、その身体を固定。
最後に俺がリーンの腰を背後から抱きしめる様に掴み、魔法を発動するまで無防備になってしまうリーンの身体を抑えつける。
船員達は甲板上自体に慣れているし、元々氷の素養がある人ばかりなので、特に縄だけで問題無いと言っていた。
正直、役得と言えば役得なのだが、残念ながらそんな事を喜んでいられる程、船尾から見える光景は、余裕のあるものでは無い。
撃ち込まれていく数々の魔法をものともせずに受け止め、こちらを押しつぶさんばかりに迫ってくる爛れ溜り。
ビビってる暇なんて無い。やらなければここで終わりだ。気合を入れろ、上手くいくと信じるんだ。
「ドリー」
『フィジカル・ブースト』
ドランの有り余る力をドリーが更に強化し。
『フェザー・ウェイト』
船員の一人が樽の重量を少しだけ軽くする。
集中するために一つ深呼吸。肺に一杯に酸素を取り込んで、俺はドランに向かって叫びを上げた。
「良いぞ、やれッ、ドラァァンッ!」
「グルゥオオオオオオオオッ」
馬鹿みたいに太いドランの腕が、一回り大きく膨れ上がり、辺りに置いてあった樽を次々と爛れ溜りへと向かって投げ飛ばし始める。
「リッツ、手前で落としてくれよ」
リッツは、俺の指示を鼻で笑い、自信に満ちた表情で樹手の上で銃を構える。
「アタシの腕をそこら辺の奴と一緒にしないでよね。
それにしても、父さんはどこにいったのかしら……ねッ」
バシュッ、と銃口から魔弾が飛び出し、ドランの放り投げる樽を空中で次々と撃ちぬき破壊していった。
夜空に砕かれ、粉となった塩がばら撒かれ、爛れ溜りと運河に降り注ぐ。
「いけるか、リーン」
俺の言葉に黙って頷き、その手に持った大剣を空に向かって力強く掲げた。
『フリージング・ストーム』
凛とした声が辺りに響き、周囲の温度を凄まじい早さで下げ始める。
やがて、剣先から白く輝く氷の竜巻が放たれ、爛れ溜りへと急激に膨れ上がりながら、襲いかかる。
「宜しくお願いしますッ」
『アイス・ボム』『フリーズ・ランス』
そして、リーンの後を追う様に、船員達の魔法が放たれた。
ビギィッッ。辺りに甲高い音が鳴り渡り、吹雪が運河と爛れ溜りの下半身を一部分凍りつかせる。そこに、塩粉がキラキラと舞い降り、リーンの魔法の効果を跳ね上げた。
暴れ狂う爛れ溜りの下半身へと、遅れて、氷の槍が突き刺さり、氷結球が着弾と同時に炸裂。周囲に氷片を撒き散らす。
吹雪の様に暴れまわる氷の竜巻と、船員達の放った魔法のお陰で、下半身とその周りの運河はすっかり凍りつき、追いすがってきていた足を止めさせた。
爛れ溜りを中心に円形状に凍った運河。その見た目は氷でできた鏡のようでもあった。
ォォォオオオオオオオオオオッツ。
爛れ溜りは狂ったように腕を凍りついた運河へと叩きつけ、氷を砕き始めていく。
なんだアイツ、もう水晶船なんて眼中にないって感じだな。氷が弱点とかだったのか? それにしては余り効いている様子がないんだが……まあ、どちらにせよ、追いかけてこないようだし、助かったみたいだ。
加速していく水晶船は、爛れ溜りからぐんぐんと距離を離していく。
恐怖で震えていた膝を抑え、どうにか生き延びられた事に安堵する。
しかし、子供の頃に遊んだ知識がこんな所で役に立つなんて、人生何があるか分からないもんだ。
小学校の頃だったかに氷に塩をかけてアイスを作った記憶。懐かしく、少し故郷を思い出して、寂しさを感じてしまう。
――今度暇な時にでもアイス作ってリーンやドランに食べさせてみようかな。
楽しそうな未来を想像し、心に残る寂しさを誤魔化していく。
本当に、運河の藻屑にならなくて良かったな。
はあ、と溜め息を吐き、俺は、遠ざかっていく爛れ溜りを黙って眺め続けるのだった。